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    <title>雑記帳</title>
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    <description>おもに古人類学の論文の備忘録です。文中の赤字の箇所にはリンクが張られています。文中の青字の箇所は引用文です。文中の緑字の箇所は追記です。【】は管理人の注釈です。詳しく英語論文を取り上げた記事では、2022年9月以降、原則として冒頭で要約の翻訳を掲載しています。当ブログでは年代に関しては、注記しないかぎり、原則として西暦（グレゴリオ暦）を用いています。本・漫画・ドラマを取り上げた当ブログの記事のなかには、内容を詳細に紹介したものも少なくないので、未読・未視聴の方はご注意ください。メールアドレスはalksnjdb＠yahoo.co.jpです。スパムよけのため、「＠」としていますので、「@」に変更して送信してください。ホームページのアドレスはhttps://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/index.htmです。ツイッターのアドレスはhttps://x.com/Florisbadです。</description>
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    <itunes:summary> おもに古人類学の論文の備忘録です。文中の赤字の箇所にはリンクが張られています。文中の青字の箇所は引用文です。文中の緑字の箇所は追記です。【】は管理人の注釈です。詳しく英語論文を取り上げた記事では、2022年9月以降、原則として冒頭で要約の翻訳を掲載しています。当ブログでは年代に関しては、注記しないかぎり、原則として西暦（グレゴリオ暦）を用いています。 本・漫画・ドラマを取り上げた当ブログの記事のなかには、内容を詳細に紹介したものも少なくないので、未読・未視聴の方はご注意ください。  メールアドレスは alksnjdb＠yahoo.co.jp です。スパムよけのため、「＠」としていますので、「@」に変更して送信してください。  ホームページのアドレスは https://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/index.htm です。  ツイッターのアドレスは https://x.com/Florisbad です。</itunes:summary>
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      <title>スキタイ人の遺伝的多様性</title>
      <pubDate>Wed, 15 Jul 2026 09:08:25 +0900</pubDate>
            <description>　スキタイ人のゲノムデータを報告した研究（Ghalichi et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、スキタイ人の新規のゲノムデータと既知のゲノムデータを統合し、その社会構造を検証しています。スキタイ人の遺伝的祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）は多様ですが、支配層の方が非支配層より差異は小さい、と示されました。また、支配層では近親婚と血縁のつながりが特定され..</description>
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　スキタイ人のゲノムデータを報告した<a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.aef0108">研究</a>（Ghalichi et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、スキタイ人の新規のゲノムデータと既知のゲノムデータを統合し、その社会構造を検証しています。スキタイ人の遺伝的祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）は多様ですが、支配層の方が非支配層より差異は小さい、と示されました。また、支配層では近親婚と血縁のつながりが特定され、検出可能な父方居住もしくは母方居住の兆候は確認されませんでした。これらは、国家支配が形成されつつあった遊牧民社会の動向を解明する手掛かりとなりそうです。

　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、mtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）、YHg（Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、ROH（runs of homozygosity、同型接合連続領域）、IBD（identity-by-descent、同祖対立遺伝子）、cM（centimorgan、センチモルガン）、READ（Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定）、CI（confidence interval、信頼区間）、Nₑ（有効人口規模）、m（metre、meter、メートル）、km（kilometre、kilometer、キロメートル）です。

　以下の時代区分の略称は、N（Neolithic、新石器時代）、LN（Late Neolithic、後期新石器時代）、BA（Bronze Age、青銅器時代）、MBA（Middle Bronze Age、中期青銅器時代）、MLBA（Middle to Late Bronze Age、中期～後期青銅器時代）、LBA（Late Bronze Age、後期青銅器時代）、IA（Iron Age、鉄器時代）です。

　本論文で取り上げられる主要な文化は、BMAC（Bactrio Margian Archaeological Complex、バクトリア・マルギアナ考古学複合）、タスモラ（Tasmola）、アルディ・ベル（Aldy Bell）、コルガンタス（Korgantas）、サカ（Saka）、パジリク（Pazyryk）文化、ウラーンズク（Ulaanzukh）文化、石板墓（Slab Grave）文化、スルブナヤ（Srubnaya、Zrubna、ズルブナ）文化、シンタシュタ（Sintashta）文化、地下墓地（Catacomb）文化、ローラ（Lola）文化です。

　本論文で取り上げられる主要な地域は、モンゴル東部のフブスグル（Khovsgol、Khövsgöl）県、カザフスタンのイシク（Issyk）川とアルマトイ（Almaty）、ロシアのトゥヴァ（Tuva）共和国です。本論文で取り上げられる主要な遺跡は、カザフスタンのクラノヤルスク・クランスク（Krasnoyarsk Kansk）とシリティ（Shilikty、略してSHI）とウルジャル（Urdzhar、略してURD）とカラショキー（Karashoky、略してKSH）とヌルケン（Nurken、略してNUR）とタサリク（Tasaryk）、キルギスのアクベイト（Akbeit、略してAKB）、ロシアのアルジャン2（Arzhan-2）、イランのディンカ・テペ（Dinkha Tepe）とシャフレ・ソフテ（Shahr-i Sokhta）です。


●要約

　紀元前千年紀のユーラシア草原地帯では、スキタイ・シベリア考古学的層準の台頭が見られ、それは東方ではアルタイ山脈、生徒法では黒海にまで及びました。本論文は、鉄器時代スキタイ人の遺伝的特性を解析し、社会的地位が生物学的近縁性と祖先系統パターンをどのように形成したのか、調べます。本論文は85個体（支配層38個体と非支配層47個体）のゲノム規模データを提示し、これには新たに配列決定された45個体と、スキタイの「黄金の男」の最初のゲノム規模データが含まれます。支配層では、近親婚と有効人口規模の減少とIBDのつながりが特定されます。王朝支配は、墓地間の支配層の祖父母と孫の関係によって裏づけられます。祖先系統は不均一ですが、支配層の鉄器時代スキタイ人はより低い差異を示し、検出可能な父方居住もしくは母方居住の兆候を示しません。これらの調査結果は、古代遊牧社会における世襲的地位の継承と社会的階層化の出現を浮き彫りにしています。


●研究史

　ユーラシア中央部の紀元前千年紀には、遊牧民部族の連合の出現が見られ、その特徴は、移動性の増加、地域の生態学的地帯の利用の体系としての専門化した農耕牧畜の強化です。この期間は、動物様式（zoomorphic）の像、ウマと関連する人工遺物、独特な武器によって特徴づけられ、東方ではアルタイ山脈から西方では黒海まで3500km以上の領域に広がっていた、鉄器時代のスキタイ・シベリア考古学的層準（紀元前900～紀元前200年頃）と関連しています。ヘロドトスが言及した「スキタイ人」という用語は、黒海北部の古典的な西方スキタイ人と、多様な考古学的集団を含むユーラシア中央部の東方スキタイ人の両方を指すのに広く用いられてきました。本論文は、ユーラシア中央部に紀元前千年紀諸島に出現した初期鉄器時代スキタイ人集団に焦点を当て、これには、タスモラ文化やアルディ・ベル文化やコルガンタス文化やサカ文化やパジリク文化やサルマティア考古学的文化が含まれます。本論文では、「サカ」という用語は、紀元前千年紀半ば～後半の天山地域およびその周辺の草原地帯の前期鉄器時代スキタイ人集団を指すのに用いられますが、この地域の考古学的文献では、「サカ」という用語は鉄器時代のすべての考古学的文化に使われています。

　遺伝学的に、スキタイ人個体群は主要な3祖先系統構成要素の混合を表している、と示されてきており、それは、（1）シンタシュタ文化およびアンドロノヴォ文化関連個体群によって特徴づけることができる、先行する中期～後期青銅器時代の西方/中央草原地帯（草原_MLBA）祖先系統構成要素、（2）モンゴル北部のフブスグル後期青銅器時代個体群と関連するMLBA草原地帯牧畜民祖先系統構成要素、（3）イランおよびトルクメニスタンの青銅器時代BMAC考古学複合体の個体群を用いてモデル化できるアジア中央部南方構成要素です［5、6、9］。この三重祖先系統は、より均質な青銅器時代祖先系統と比較して、鉄器時代における広範な人口移動と混合を示唆しています。

　ユーラシア鉄器時代には、複雑な構造の巨大な土の墳丘墓に埋葬された高位個体が出現しました。これらの記念碑的で精巧な墓には、豪華な装飾の個体が埋葬されており、ユーラシア全域の顕著な社会的階層化および権力の誇示の証拠と解釈されています。ヨーロッパの事例にはケルトの墳丘墓が含まれますが、スキタイの豪華な墳丘（kurgan）はユーラシア中央部全域で見られます。スキタイ支配層の墳丘は多層構造で（土と芝とさまざまな大きさの意思の交互の層である場合が多くあります）、木製の玄室が含まれており、高さは1.5～2m、直径は20mを超える傾向にあります。こうした墳丘は、塚の内側につながる入口である通路（dromos）の証拠を示すことが多く、一部には【非ヒト】動物とヒトの遺骸を伴う副室が含まれています。

　高位の死者の他の共通の側面には、死後穿孔の存在が含まれ、これは埋葬のため遺体を保存するために使用された可能性が高く、支配層の文脈でのみ見られます。動物の像（横たわる雄シカ、ネコ科動物、ヒョウ、シロイワヤギなど）が、鉄器時代ユーラシア草原地帯の支配層個体の統一的特徴として報告されてきました。支配層と比較すると、非支配層の墳丘は大きさでより小さく（高さでは1m未満）、構造ではより単純で、通路もしくは副室がなく、副葬品を含んでいないことが多いか、わずかの単純な人工遺物を含んでいるだけで、死後穿孔術の証拠を示しません。支配層と非支配層の埋葬間の顕著な違いは、高位個体の存在と、この地域の選好する青銅器時代と比較してより顕著な、際立った社会的不平等を示唆しています。しかし、社会的地位がどのように継承され、正当化されたのかについて、依然として問題が残っています。権力の継承は親族に基づいていたのか、それとも功績に基づいていたのでしょうか？

　本論文では、紀元前900～紀元前200年頃の間の85個体のデータセットを構築し、これには支配層38個体（新たに報告される14個体と既知の24個体）と非支配層47個体（新たに報告される34個体と既知の13個体）が含まれます（図1）。スキタイ人の「黄金の男」のゲノム規模データが報告され、類似の考古学的状況の刊行されている個体群とともに分析されます。この研究では各個体の詳細な考古学的評価が実行され、それには刊行された個体群も含まれ、略奪の影響を受けた状況が考慮されました。社会的地位の表現は連続的ですが、ある個体を支配層と定義するのは、以下の特徴を3点以上満たしている場合で、その特徴には、巨大墳丘（高さが1.5～2m超）、多数の金製品や他の人工遺物、ウマの埋葬、通路の存在、穿孔の兆候が含まれます。これらの基準を満たさない個体は、「非支配層」と定義されました。以下は本論文の図1です。
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　集団遺伝学的分析の組み合わせを用いて、遺伝的構造と近縁性のパターンと近親交配の証拠とIBD網が調べられます。注目すべきことに、この研究はユーラシア中央部草原地帯の前期鉄器時代スキタイ人支配層における密接な生物学的近縁性の証拠を提供し、王朝的な社会組織の存在が裏づけられます。遺伝的近縁性の証拠を伴う豪華な設備の支配層埋葬が、社会的階層化と台頭する王権の指標として解釈されてきたヨーロッパの鉄器時代ケルト社会［20］と同様に、本論文の調査結果から、初期スキタイ王室の埋葬は世襲的地位と集権的な政治的権力を反映している、と示唆されます。


●スキタイ人の集団遺伝学

　まず、smartPCA［21］を用いて、古代の個体群が現代のユーラシア人口集団で観察された差異に投影されました。概して、本論文の個体群はPCAに基づくゲノム規模分布ではきわめて異質です（図2A・B）。個体のほとんどは、以前に示されたように［6］、古代スキタイ人集団の差異内でのクラスタ化（まとまること）を論証し、外れ値個体のいくつかの事例（ほぼ女性）がより高水準の東方草原地帯祖先系統（たとえば、フブスグル_BA、ウラーンズク_BA）を有していました。しかし、集団ごとに相互と比較すると、非支配層個体群は主成分1（PC1）に沿って顕著により多くの差異を示し、PC1はユーラシアの東西の祖先系統を分離します。地理的には、ユーラシア中央部の南側で見られる高水準のBMAC関連祖先系統と、さらに東方で見られるより高水準の東方草原地帯/アルタイ_MLBA祖先系統の傾向が認められます。本論文の遺伝学的分析に基づくと、「黄金の男（GOM001）」は遺伝学的に男性に割り当てることができ、他の鉄器時代サカ文化個体群の遺伝的差異内でクラスタ化し（まとまり）、この個体の考古学的分類と一致します。注目すべきことに、GOM001はサカ個体群の勾配に沿って、BMAC関連祖先系統の方へのわずかな移行を示しています（図2A）。最後に、教師無ADMIXTUREの結果から、個体群はさまざまな人口集団に存在する遠位祖先系統構成要素を共有している、と示唆されます（図2C）。以下は本論文の図2です。
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　qpAdmを使い、単一の供給源としてアルタイ_MLBAを用いて、21個体をモデル化でき、アルタイ_MLBA自体は西方草原地帯のシンタシュタ文化集団的祖先系統と東方草原地帯のモンゴル_LBA_フブスグル的祖先系統の混合を表しています。残りの個体は主要な3祖先系統構成要素間の2もしくは3方向混合としてモデル化に成功し、それは、東方草原地帯（モンゴル_LBA_フブスグル、ウラーンズク_石板墓）、西方草原地帯（スルブナヤ・シンタシュタ、ロシア_クラノヤルスク、コーカサスの地下墓地後）、BMAC関連集団（BMAC、BMAC後、イラン_ディンカテペ_BA_IA_1、イラン_シャフレソフテ_BA1、アルメニア_LBA）です（図3）。検証された祖先系統構成要素の存在と分布に関して、支配層と非支配層の個体間で一貫した違いは特定されず、2集団の一般的な遺伝的類似性とのPCAからの観察がさらに裏づけられます。西方草原地帯と東方草原地帯とBMAC関連祖先系統の3方向混合を用いると、支配層と非支配層の社会的地位ごとに分類された個体群をモデル化できませんでした。しかし、支配層集団は供給源としてアルタイ_MLBAとBMACとの間の2方向混合としてモデル化できました。以下は本論文の図3です。
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●支配層と非支配層におる生物学的近縁性

　KINやREAD第2版やBREADRといったいくつかの手法の組み合わせを用いて、本論文のデータベースの個体間の遺伝的近縁性が検証されました。さまざまな近縁性検証の結果の評価に基づいて、いくつかの親族関係の組み合わせが特定され、それには、6組の1親等（AKB001とNUR002、ESZ001とESZ003、ESZ011とESZ012、KSH001とKSH003、KZL001とKZL003、TAL003とTAL004）と8組の2親等の親族関係の個体が含まれます。これは略奪による埋葬の攪乱に起因するかもしれない同一個体の事例も見つかったので（CSP002とCSP005、TAL001とTAL005、SHI005とSHI006とSHI007）、分析のためこれらのライブラリは統合されました。

　本論文の支配層と非支配層の個体群のコホート（特定の性質が一致する個体で構成される集団）の一般的な人口構造をより深く理解するために、HapROH［27］を用いて、ROHの分布が評価されました。近親婚による子供を表している可能性が高い、複数の個体が特定され（図4）、SHI008とAKB001はイトコ婚かオジメイ婚の子供で、KSH001とKSH003はマタイトコ婚の子供だったようです。これらの個体は、支配層の背景と関連しています。しかし、一般的には、個体のほとんどは近親婚の証拠を示しません（図4）。全体的に、非支配層集団ではROHを有さない個体が有意により多く見つかる、と分かりました。ROHの証拠がある個体のうち、支配層は平均係数で約3.5倍ROHを多く有している、と示されました。まとめて検証すると、支配層個体群は非支配層よりも平均して、約6倍倍大きいROHの塊を有している、と分かります。HapROH［27］を用いて、Nₑも支配層と非支配層で別々に計算されました。支配層個体群のNₑの推定値が2721（95%CIで2136～3563）と分かったのに対して、非支配層個体群ではNₑの推定値が9644（95%CIで6548～15012）でした。以下は本論文の図4です。
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　124万ヶ所の部位の網羅率が0.5倍以上の個体群は、GLIMPSEを用いた補完されたゲノム規模で、ancIBDを用いて共通のIBD断片が分析されました。補完されていないデータで特定された密接な生物学的近縁性の事例が確証され、より遠い生物学的つながりの事例が見つかりました。重要なことに、考古学的遺跡間の近縁性の事例は、高位個体間でより多く見つかりました。IBDと他の一般的な近縁性推定値の組み合わせに基づいて、おもに支配層個体群の家系図を再構築でき、それは数世代にわたり、複数の考古学的遺跡間にまたがっていました（図4）。これは祖父AKB001（アクベイト遺跡の墳丘1号、支配層男性、55歳超、死後穿孔、高さ3mで直径25mの墳丘、金製品とともに埋葬）とその孫であるKSH001（カラショキー墳丘1号、支配層、1歳、性染色体はXXY、死後穿孔、高さ2mで直径32mの墳丘で、通路があり、略奪されています）およびKSH003（カラショキー墳丘6号、支配層男性、45～55歳、墳丘は略奪されています）との間の遺伝的近縁性に焦点を当てる場合とくに明らかです。AKB001はNUR002（ヌルケン2遺跡墳丘1号、支配層男性、35～45歳、死後穿孔、高さ4.3mで直径41mの墳丘で、通路があり、墳丘は略奪されています）のキョウダイであることも分かり、この個体の家族が少なくとも3世代にわたって高い社会的地位を維持していた、と示唆されます。これらの個体50～140km離れた、異なる墓地に埋葬されていました。支配層男性である4親等と5親等のより遠い親族が見つかり、それは、SHI008（シリティ1遺跡墳丘16号、支配層男性、高さ8.6mで直径88mの墳丘で、通路があり、グリフォンの装飾品とともに埋葬されています）と、AKB003（アクベイト遺跡の墳丘7号、支配層女性、4～5歳、死後穿孔、高さ2.5mで直径21.5mの墳丘）と、KSH003（カラショキー墳丘8号、支配層男性、25～35歳、通路がある巨大墳丘）です。

　ネットワークの構築によって、支配層と非支配層の個体間のIBDのつながりがさらに調べられました（図5）。個体が12cM以上の2個以上のIBD領域と、少なくとも1個の16cM以上のIBD領域を共有していれば、それは約7親等の関係を示唆しており、個体群がネットワークでつながっていたことになります。本論文は、ネットワーク回帰を行なうために、指数無作為図モデルを用いて、予測因子として遺跡と個体の遺伝学的性別と支配層の地位を使い、個体が遺伝的に親族関係にある（ネットワークにつながっている）確率をモデル化しました。ベイズ情報量規準を用いると、最適モデルは予測因子として支配層の地位のみを必要としており、遺伝学的性別は有意な予測因子ではなかった、と分かりました。最適モデルを用いると、非支配層2個体と比較して、支配層1個体と非支配層1個体は親族関係にない可能性が高いものの、支配層2個体は親族関係にある可能性が約11.3倍高い、と予測できます。支配層個体にのみネットワークを限定すると、予測因子のない帰無モデルが最適に合致する、と分かり、遺跡と遺伝学的性別は、支配層個体群のみを検証する場合、依然として遺伝的近縁性の有意な予測因子ではない、と示唆されます。最後に、ネットワーク分析で遺伝的に親族関係にあった個体間の地理的距離の分布が調べられました。その結果、親族関係にある支配層と支配層の組み合わせは、支配層と非支配層の組み合わせよりも短い地理的距離でつながっている、と分かったものの、非支配層と非支配層の組み合わせは、そうした事例が1件しかなかったので、比較できませんでした。以下は本論文の図5です。
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●考察

　記念碑的な墳丘墓の出現は、鉄器時代ユーラシア中央部における社会的階層化の進展を示唆するのに用いられてきました。先行する青銅器時代において、同じ水準の支配層の埋葬儀式の証拠はありませんが、ウマと成功な武器を伴う埋葬の事例は知られています。高さ12～15m、直径105m以上の鉄器時代の墳丘は、建造に必要な多数の人々の組織化と資源供給の手段が存在したことを浮き彫りにしています。墓に入る通路や、親族かもしれない遺骸や【非ヒト】動物遺骸を含む副室や、支配層の状況のみで見られる死後穿孔とミイラ化の証拠がある地下墓地の存在は、初期スキタイ社会における埋葬儀礼の儀式的重要性をさらに浮き彫りにしています。

　ユーラシア中央部における最も注目すべき考古学的調査結果の一つは、イシクの墳丘墓と、そこに埋葬されていた「黄金の男」の発見です。イシクの埋葬地はカザフスタンのアルマトイの東側約50kmの、イシク川の砂岩に位置し、いわゆる王墓が45基以上含まれています。イシクの墳丘の発掘は1969年に始まり、人工遺物に基づいて、鉄器時代と関連する紀元前4世紀～紀元前3世紀と年代測定され、鉄器時代のサカ文化と関連づけられました。主要なイシクの墳丘（高さ6m、直径60m）は、中央の埋葬と南方の埋葬から構成されています。中央の埋葬が複数回略奪されたのに対して、南方の埋葬は攪乱しておらず、その後「黄金の男」と命名された個体を含んでいました。放射性炭素年代測定によって、「黄金の男（GOM001）」は紀元前400～紀元前300年頃に確実に位置づけられ、後期鉄器時代のサカ文化期と一致します。「黄金の男」には豊富な副葬品が伴い、天山のモミの木で作られた木製の玄室があり、4000点以上の金製装飾品と鉄製の剣および短刀と青銅製鏡と多様な土器片と木や銀や青銅の容器が含まれています。26文字が刻まれた銀製鉢は、埋葬玄室から回収されたものの、この鉢の文字はこれまで解読されていません。「黄金の男」の剣は、グリフィンの頭で装飾されていました。同様のグリフィンの像は、シリティ（墳丘16号のSHI008）とアルジャン2など、ユーラシア中央部全域の他の支配層の鉄器時代遺跡で見つかりました。要するに、シリティの墳丘16号は、考古学的には紀元前8世紀～紀元前7世紀と年代測定されており、直径は約88m、高さはほぼ9mで、3構築層があり、動物に因んで様式化された豊富な金製人工遺物が含まれていました。アリストテレスとヘロドトスはユーラシア草原地帯の遊牧民集団における「黄金を守るグリフィン」に言及しており、それはスキタイ人の地域の支配層の遊牧民個体群を指しているかもしれません。「黄金の男」は、より顕著なBMAC関連祖先系統にも関わらず、鉄器時代サカ文化集団の遺伝的差異内に位置づけることができました。低いゲノム規模網羅率のため、遺伝的祖先系統のより正確な推定はできませんでした。しかし、「黄金の男」の遺伝学的性別は女性よりも男性の可能性が高い、と推定され、「黄金の男」の遺伝学的性別に関する長年の議論は解決しました。

　概して、本論文の全個体は異なる3祖先系統供給源、つまり東方草原地帯と西方草原地帯とBMAC関連祖先系統の2もしくは3方向混合としてモデル化できました。さらに、一部の個体はアルタイ_MLBAのみを用いてモデル化でき（シンタシュタ文化集団的祖先系統とフブスグル的祖先系統の混合）、この地域におけるある程度の遺伝的連続性が示唆されます。これらの調査結果は、スキタイ人の遺伝的特性に関する先行研究［6］と一致し、既知のユーラシア人のゲノム差異にまたがる遺伝的多様性がさらに浮き彫りになります。支配層と非支配層に分類すると、個体群は3祖先系統の混合としてモデル化できず、個体の祖先系統モデル化で見られる異質性が浮き彫りになります。しかし、非支配層と比較して支配層では異質性は少ない傾向が観察され、激しい遺伝的混合の時期の連続性維持における支配層の役割の可能性が浮き彫りになります。東方草原地帯祖先系統の水準が増加している個体群では、女性の存在の割合がより高いことも認められました（9個体のうち7個体が遺伝学に女性で、ほぼ非支配層）。この調査結果は、祖先系統と混合の遺伝学的推定値より正確ではないものの、骨学的調査結果と、遊牧民国家との古代中国の国家の同盟構築の事例が、通婚を通じて行なわれたと記載されている、歴史的資料によって裏づけられます。この慣行がさらにさかのぼり、おそらくは鉄器時代に出現する証拠が、見つかりつつあるかもしれません。

　男性と同様に女性は、鉄器時代スキタイ人の社会において重要な役割を担った可能性が高そうです。本論文のデータセットの文脈では、女性は支配層集団のほぼ半分（42%、38個体のうち16個体）を顕わ和紙手織り、通路と死後穿孔の兆候とウマと豊富な副葬品を備えた巨大墳丘で発見されてきました。支配層女性1個体の顕著な事例は30～35歳の「ウルジャルの王女（URD002）」で、この個体はカザフスタン東部の、損傷した直径16mの墳丘で見つかり、緊急発掘で明らかになって、後にタサリクの墳丘と命名されました。URD002は2013年に発見され、紀元前5世紀～紀元前4世紀と年代測定されました。「ウルジャルの王女」はスキタイ様式の動物装飾がある精巧な金製の頭飾りを着用して埋葬されており、これは「黄金の男」と関連する発見と同様です。URD002は石の祭壇や薬用植物の遺骸とともにも埋葬されており、これはシャーマニズム的役割だった、と解釈されています。スキタイ社会における高位女性の存在と重要な役割は、ヘロドトスなどの歴史的記録でも裏づけられます。

　この研究ではIBDを用いて、分析されたスキタイ人集団の遺伝的構造が観察され、支配層個体群はより大きな一般人口集団内の下部集団を形成します。この観察はより高いIBDの接続性によって裏づけられ、支配層個体群は非支配層とよりも相互と親族関係にある可能性が高くなっています。本論文のデータセットは支配層と非支配層両方の個体がいる遺跡を含んでおり、同じ遺跡の支配層と非支配層および同じ遺跡の非支配層同士と比較して、異なる遺跡の支配層間で遺伝的近縁性のほとんどが見つかりました。

　ROH分析の結果、支配層個体群におけるより高水準のROHが明らかになり、それにはイトコ間もしくはオジメイ間の結婚だった個体も含まれます。非支配層と比較して支配層集団でより小さなNₑも推定され、支配層階級内で族内婚の度合いがより高い、と示唆されます。親族関係にある支配層個体間の地理的距離は、支配層と非支配層の組み合わせと比較として、統計的により短い、と分かりました。この調査結果は、ロシアのトゥヴァのシベリアの「王の渓谷」で見られるような、支配層埋葬と親族に基づく支配層の埋葬慣行の地理的集中化との見解をさらに強化します。さらに、異なる墓地に埋葬されたものの、支配層の特徴を共有している個体間で、祖父と孫の関係が見つかりました。これは、鉄器時代の草原地帯支配層における王朝支配の出現証拠として解釈され、これは、社会的地位が子孫に継承され、個体遊牧民社会で正当化されるやり方に、光を当てます。

　まとめると、これらの結果から、鉄器時代スキタイ人では、支配層は非支配層と比較して、その構成員間では近縁性や王朝連続性の可能性がより高い下部集団を表していた、と示唆されます。本論文で提示された結果は、古代ユーラシア遊牧民集団における社会的不平等と分化の出現に関する理解を深め、紀元前千年紀におけるユーラシア中央部の最初期の遊牧民集団の慣行を浮き彫りにします。最後に、本論文の調査結果は、過去における社会的不平等の出現についての知識の蓄積に寄与します。


参考文献：
Ghalichi A. et al.(2026): Ancient DNA reveals elite dynastic rule among Iron Age Eurasian Steppe nomads. Science Advances, 12, 27, eaef0108.
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［6］Gnecchi-Ruscone GA. et al.(2021): Ancient genomic time transect from the Central Asian Steppe unravels the history of the Scythians. Science Advances, 7, 13, eabe4414.
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［27］Ringbauer H, Novembre J, and Steinrücken M.(2021): Parental relatedness through time revealed by runs of homozygosity in ancient DNA. Nature Communications, 12, 5425.
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      <content:encoded><![CDATA[
　スキタイ人のゲノムデータを報告した<a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.aef0108"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Ghalichi et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、スキタイ人の新規のゲノムデータと既知のゲノムデータを統合し、その社会構造を検証しています。スキタイ人の遺伝的祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）は多様ですが、支配層の方が非支配層より差異は小さい、と示されました。また、支配層では近親婚と血縁のつながりが特定され、検出可能な父方居住もしくは母方居住の兆候は確認されませんでした。これらは、国家支配が形成されつつあった遊牧民社会の動向を解明する手掛かりとなりそうです。<br /><br />　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、mtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）、YHg（Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、ROH（runs of homozygosity、同型接合連続領域）、IBD（identity-by-descent、同祖対立遺伝子）、cM（centimorgan、センチモルガン）、READ（Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定）、CI（confidence interval、信頼区間）、Nₑ（有効人口規模）、m（metre、meter、メートル）、km（kilometre、kilometer、キロメートル）です。<br /><br />　以下の時代区分の略称は、N（Neolithic、新石器時代）、LN（Late Neolithic、後期新石器時代）、BA（Bronze Age、青銅器時代）、MBA（Middle Bronze Age、中期青銅器時代）、MLBA（Middle to Late Bronze Age、中期～後期青銅器時代）、LBA（Late Bronze Age、後期青銅器時代）、IA（Iron Age、鉄器時代）です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な文化は、BMAC（Bactrio Margian Archaeological Complex、バクトリア・マルギアナ考古学複合）、タスモラ（Tasmola）、アルディ・ベル（Aldy Bell）、コルガンタス（Korgantas）、サカ（Saka）、パジリク（Pazyryk）文化、ウラーンズク（Ulaanzukh）文化、石板墓（Slab Grave）文化、スルブナヤ（Srubnaya、Zrubna、ズルブナ）文化、シンタシュタ（Sintashta）文化、地下墓地（Catacomb）文化、ローラ（Lola）文化です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な地域は、モンゴル東部のフブスグル（Khovsgol、Khövsgöl）県、カザフスタンのイシク（Issyk）川とアルマトイ（Almaty）、ロシアのトゥヴァ（Tuva）共和国です。本論文で取り上げられる主要な遺跡は、カザフスタンのクラノヤルスク・クランスク（Krasnoyarsk Kansk）とシリティ（Shilikty、略してSHI）とウルジャル（Urdzhar、略してURD）とカラショキー（Karashoky、略してKSH）とヌルケン（Nurken、略してNUR）とタサリク（Tasaryk）、キルギスのアクベイト（Akbeit、略してAKB）、ロシアのアルジャン2（Arzhan-2）、イランのディンカ・テペ（Dinkha Tepe）とシャフレ・ソフテ（Shahr-i Sokhta）です。<br /><br /><br /><strong>●要約</strong><br /><br />　紀元前千年紀のユーラシア草原地帯では、スキタイ・シベリア考古学的層準の台頭が見られ、それは東方ではアルタイ山脈、生徒法では黒海にまで及びました。本論文は、鉄器時代スキタイ人の遺伝的特性を解析し、社会的地位が生物学的近縁性と祖先系統パターンをどのように形成したのか、調べます。本論文は85個体（支配層38個体と非支配層47個体）のゲノム規模データを提示し、これには新たに配列決定された45個体と、スキタイの「黄金の男」の最初のゲノム規模データが含まれます。支配層では、近親婚と有効人口規模の減少とIBDのつながりが特定されます。王朝支配は、墓地間の支配層の祖父母と孫の関係によって裏づけられます。祖先系統は不均一ですが、支配層の鉄器時代スキタイ人はより低い差異を示し、検出可能な父方居住もしくは母方居住の兆候を示しません。これらの調査結果は、古代遊牧社会における世襲的地位の継承と社会的階層化の出現を浮き彫りにしています。<br /><br /><br /><strong>●研究史</strong><br /><br />　ユーラシア中央部の紀元前千年紀には、遊牧民部族の連合の出現が見られ、その特徴は、移動性の増加、地域の生態学的地帯の利用の体系としての専門化した農耕牧畜の強化です。この期間は、動物様式（zoomorphic）の像、ウマと関連する人工遺物、独特な武器によって特徴づけられ、東方ではアルタイ山脈から西方では黒海まで3500km以上の領域に広がっていた、鉄器時代のスキタイ・シベリア考古学的層準（紀元前900～紀元前200年頃）と関連しています。ヘロドトスが言及した「スキタイ人」という用語は、黒海北部の古典的な西方スキタイ人と、多様な考古学的集団を含むユーラシア中央部の東方スキタイ人の両方を指すのに広く用いられてきました。本論文は、ユーラシア中央部に紀元前千年紀諸島に出現した初期鉄器時代スキタイ人集団に焦点を当て、これには、タスモラ文化やアルディ・ベル文化やコルガンタス文化やサカ文化やパジリク文化やサルマティア考古学的文化が含まれます。本論文では、「サカ」という用語は、紀元前千年紀半ば～後半の天山地域およびその周辺の草原地帯の前期鉄器時代スキタイ人集団を指すのに用いられますが、この地域の考古学的文献では、「サカ」という用語は鉄器時代のすべての考古学的文化に使われています。<br /><br />　遺伝学的に、スキタイ人個体群は主要な3祖先系統構成要素の混合を表している、と示されてきており、それは、（1）シンタシュタ文化およびアンドロノヴォ文化関連個体群によって特徴づけることができる、先行する中期～後期青銅器時代の西方/中央草原地帯（草原_MLBA）祖先系統構成要素、（2）モンゴル北部のフブスグル後期青銅器時代個体群と関連するMLBA草原地帯牧畜民祖先系統構成要素、（3）イランおよびトルクメニスタンの青銅器時代BMAC考古学複合体の個体群を用いてモデル化できるアジア中央部南方構成要素です［5、6、9］。この三重祖先系統は、より均質な青銅器時代祖先系統と比較して、鉄器時代における広範な人口移動と混合を示唆しています。<br /><br />　ユーラシア鉄器時代には、複雑な構造の巨大な土の墳丘墓に埋葬された高位個体が出現しました。これらの記念碑的で精巧な墓には、豪華な装飾の個体が埋葬されており、ユーラシア全域の顕著な社会的階層化および権力の誇示の証拠と解釈されています。ヨーロッパの事例にはケルトの墳丘墓が含まれますが、スキタイの豪華な墳丘（kurgan）はユーラシア中央部全域で見られます。スキタイ支配層の墳丘は多層構造で（土と芝とさまざまな大きさの意思の交互の層である場合が多くあります）、木製の玄室が含まれており、高さは1.5～2m、直径は20mを超える傾向にあります。こうした墳丘は、塚の内側につながる入口である通路（dromos）の証拠を示すことが多く、一部には【非ヒト】動物とヒトの遺骸を伴う副室が含まれています。<br /><br />　高位の死者の他の共通の側面には、死後穿孔の存在が含まれ、これは埋葬のため遺体を保存するために使用された可能性が高く、支配層の文脈でのみ見られます。動物の像（横たわる雄シカ、ネコ科動物、ヒョウ、シロイワヤギなど）が、鉄器時代ユーラシア草原地帯の支配層個体の統一的特徴として報告されてきました。支配層と比較すると、非支配層の墳丘は大きさでより小さく（高さでは1m未満）、構造ではより単純で、通路もしくは副室がなく、副葬品を含んでいないことが多いか、わずかの単純な人工遺物を含んでいるだけで、死後穿孔術の証拠を示しません。支配層と非支配層の埋葬間の顕著な違いは、高位個体の存在と、この地域の選好する青銅器時代と比較してより顕著な、際立った社会的不平等を示唆しています。しかし、社会的地位がどのように継承され、正当化されたのかについて、依然として問題が残っています。権力の継承は親族に基づいていたのか、それとも功績に基づいていたのでしょうか？<br /><br />　本論文では、紀元前900～紀元前200年頃の間の85個体のデータセットを構築し、これには支配層38個体（新たに報告される14個体と既知の24個体）と非支配層47個体（新たに報告される34個体と既知の13個体）が含まれます（図1）。スキタイ人の「黄金の男」のゲノム規模データが報告され、類似の考古学的状況の刊行されている個体群とともに分析されます。この研究では各個体の詳細な考古学的評価が実行され、それには刊行された個体群も含まれ、略奪の影響を受けた状況が考慮されました。社会的地位の表現は連続的ですが、ある個体を支配層と定義するのは、以下の特徴を3点以上満たしている場合で、その特徴には、巨大墳丘（高さが1.5～2m超）、多数の金製品や他の人工遺物、ウマの埋葬、通路の存在、穿孔の兆候が含まれます。これらの基準を満たさない個体は、「非支配層」と定義されました。以下は本論文の図1です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB31.jpg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB31.jpg" alt="画像" width="365" height="367" class="up-image" title="図1" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB31.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　集団遺伝学的分析の組み合わせを用いて、遺伝的構造と近縁性のパターンと近親交配の証拠とIBD網が調べられます。注目すべきことに、この研究はユーラシア中央部草原地帯の前期鉄器時代スキタイ人支配層における密接な生物学的近縁性の証拠を提供し、王朝的な社会組織の存在が裏づけられます。遺伝的近縁性の証拠を伴う豪華な設備の支配層埋葬が、社会的階層化と台頭する王権の指標として解釈されてきたヨーロッパの鉄器時代ケルト社会［20］と同様に、本論文の調査結果から、初期スキタイ王室の埋葬は世襲的地位と集権的な政治的権力を反映している、と示唆されます。<br /><br /><br /><strong>●スキタイ人の集団遺伝学</strong><br /><br />　まず、smartPCA［21］を用いて、古代の個体群が現代のユーラシア人口集団で観察された差異に投影されました。概して、本論文の個体群はPCAに基づくゲノム規模分布ではきわめて異質です（図2A・B）。個体のほとんどは、以前に示されたように［6］、古代スキタイ人集団の差異内でのクラスタ化（まとまること）を論証し、外れ値個体のいくつかの事例（ほぼ女性）がより高水準の東方草原地帯祖先系統（たとえば、フブスグル_BA、ウラーンズク_BA）を有していました。しかし、集団ごとに相互と比較すると、非支配層個体群は主成分1（PC1）に沿って顕著により多くの差異を示し、PC1はユーラシアの東西の祖先系統を分離します。地理的には、ユーラシア中央部の南側で見られる高水準のBMAC関連祖先系統と、さらに東方で見られるより高水準の東方草原地帯/アルタイ_MLBA祖先系統の傾向が認められます。本論文の遺伝学的分析に基づくと、「黄金の男（GOM001）」は遺伝学的に男性に割り当てることができ、他の鉄器時代サカ文化個体群の遺伝的差異内でクラスタ化し（まとまり）、この個体の考古学的分類と一致します。注目すべきことに、GOM001はサカ個体群の勾配に沿って、BMAC関連祖先系統の方へのわずかな移行を示しています（図2A）。最後に、教師無ADMIXTUREの結果から、個体群はさまざまな人口集団に存在する遠位祖先系統構成要素を共有している、と示唆されます（図2C）。以下は本論文の図2です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB32.jpg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB32.jpg" alt="画像" width="365" height="286" class="up-image" title="図2" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB32.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　qpAdmを使い、単一の供給源としてアルタイ_MLBAを用いて、21個体をモデル化でき、アルタイ_MLBA自体は西方草原地帯のシンタシュタ文化集団的祖先系統と東方草原地帯のモンゴル_LBA_フブスグル的祖先系統の混合を表しています。残りの個体は主要な3祖先系統構成要素間の2もしくは3方向混合としてモデル化に成功し、それは、東方草原地帯（モンゴル_LBA_フブスグル、ウラーンズク_石板墓）、西方草原地帯（スルブナヤ・シンタシュタ、ロシア_クラノヤルスク、コーカサスの地下墓地後）、BMAC関連集団（BMAC、BMAC後、イラン_ディンカテペ_BA_IA_1、イラン_シャフレソフテ_BA1、アルメニア_LBA）です（図3）。検証された祖先系統構成要素の存在と分布に関して、支配層と非支配層の個体間で一貫した違いは特定されず、2集団の一般的な遺伝的類似性とのPCAからの観察がさらに裏づけられます。西方草原地帯と東方草原地帯とBMAC関連祖先系統の3方向混合を用いると、支配層と非支配層の社会的地位ごとに分類された個体群をモデル化できませんでした。しかし、支配層集団は供給源としてアルタイ_MLBAとBMACとの間の2方向混合としてモデル化できました。以下は本論文の図3です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB33.jpg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB33.jpg" alt="画像" width="365" height="340" class="up-image" title="図3" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB33.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br /><br /><strong>●支配層と非支配層におる生物学的近縁性</strong><br /><br />　KINやREAD第2版やBREADRといったいくつかの手法の組み合わせを用いて、本論文のデータベースの個体間の遺伝的近縁性が検証されました。さまざまな近縁性検証の結果の評価に基づいて、いくつかの親族関係の組み合わせが特定され、それには、6組の1親等（AKB001とNUR002、ESZ001とESZ003、ESZ011とESZ012、KSH001とKSH003、KZL001とKZL003、TAL003とTAL004）と8組の2親等の親族関係の個体が含まれます。これは略奪による埋葬の攪乱に起因するかもしれない同一個体の事例も見つかったので（CSP002とCSP005、TAL001とTAL005、SHI005とSHI006とSHI007）、分析のためこれらのライブラリは統合されました。<br /><br />　本論文の支配層と非支配層の個体群のコホート（特定の性質が一致する個体で構成される集団）の一般的な人口構造をより深く理解するために、HapROH［27］を用いて、ROHの分布が評価されました。近親婚による子供を表している可能性が高い、複数の個体が特定され（図4）、SHI008とAKB001はイトコ婚かオジメイ婚の子供で、KSH001とKSH003はマタイトコ婚の子供だったようです。これらの個体は、支配層の背景と関連しています。しかし、一般的には、個体のほとんどは近親婚の証拠を示しません（図4）。全体的に、非支配層集団ではROHを有さない個体が有意により多く見つかる、と分かりました。ROHの証拠がある個体のうち、支配層は平均係数で約3.5倍ROHを多く有している、と示されました。まとめて検証すると、支配層個体群は非支配層よりも平均して、約6倍倍大きいROHの塊を有している、と分かります。HapROH［27］を用いて、Nₑも支配層と非支配層で別々に計算されました。支配層個体群のNₑの推定値が2721（95%CIで2136～3563）と分かったのに対して、非支配層個体群ではNₑの推定値が9644（95%CIで6548～15012）でした。以下は本論文の図4です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB34.jpg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB34.jpg" alt="画像" width="365" height="237" class="up-image" title="図4" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB34.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　124万ヶ所の部位の網羅率が0.5倍以上の個体群は、GLIMPSEを用いた補完されたゲノム規模で、ancIBDを用いて共通のIBD断片が分析されました。補完されていないデータで特定された密接な生物学的近縁性の事例が確証され、より遠い生物学的つながりの事例が見つかりました。重要なことに、考古学的遺跡間の近縁性の事例は、高位個体間でより多く見つかりました。IBDと他の一般的な近縁性推定値の組み合わせに基づいて、おもに支配層個体群の家系図を再構築でき、それは数世代にわたり、複数の考古学的遺跡間にまたがっていました（図4）。これは祖父AKB001（アクベイト遺跡の墳丘1号、支配層男性、55歳超、死後穿孔、高さ3mで直径25mの墳丘、金製品とともに埋葬）とその孫であるKSH001（カラショキー墳丘1号、支配層、1歳、性染色体はXXY、死後穿孔、高さ2mで直径32mの墳丘で、通路があり、略奪されています）およびKSH003（カラショキー墳丘6号、支配層男性、45～55歳、墳丘は略奪されています）との間の遺伝的近縁性に焦点を当てる場合とくに明らかです。AKB001はNUR002（ヌルケン2遺跡墳丘1号、支配層男性、35～45歳、死後穿孔、高さ4.3mで直径41mの墳丘で、通路があり、墳丘は略奪されています）のキョウダイであることも分かり、この個体の家族が少なくとも3世代にわたって高い社会的地位を維持していた、と示唆されます。これらの個体50～140km離れた、異なる墓地に埋葬されていました。支配層男性である4親等と5親等のより遠い親族が見つかり、それは、SHI008（シリティ1遺跡墳丘16号、支配層男性、高さ8.6mで直径88mの墳丘で、通路があり、グリフォンの装飾品とともに埋葬されています）と、AKB003（アクベイト遺跡の墳丘7号、支配層女性、4～5歳、死後穿孔、高さ2.5mで直径21.5mの墳丘）と、KSH003（カラショキー墳丘8号、支配層男性、25～35歳、通路がある巨大墳丘）です。<br /><br />　ネットワークの構築によって、支配層と非支配層の個体間のIBDのつながりがさらに調べられました（図5）。個体が12cM以上の2個以上のIBD領域と、少なくとも1個の16cM以上のIBD領域を共有していれば、それは約7親等の関係を示唆しており、個体群がネットワークでつながっていたことになります。本論文は、ネットワーク回帰を行なうために、指数無作為図モデルを用いて、予測因子として遺跡と個体の遺伝学的性別と支配層の地位を使い、個体が遺伝的に親族関係にある（ネットワークにつながっている）確率をモデル化しました。ベイズ情報量規準を用いると、最適モデルは予測因子として支配層の地位のみを必要としており、遺伝学的性別は有意な予測因子ではなかった、と分かりました。最適モデルを用いると、非支配層2個体と比較して、支配層1個体と非支配層1個体は親族関係にない可能性が高いものの、支配層2個体は親族関係にある可能性が約11.3倍高い、と予測できます。支配層個体にのみネットワークを限定すると、予測因子のない帰無モデルが最適に合致する、と分かり、遺跡と遺伝学的性別は、支配層個体群のみを検証する場合、依然として遺伝的近縁性の有意な予測因子ではない、と示唆されます。最後に、ネットワーク分析で遺伝的に親族関係にあった個体間の地理的距離の分布が調べられました。その結果、親族関係にある支配層と支配層の組み合わせは、支配層と非支配層の組み合わせよりも短い地理的距離でつながっている、と分かったものの、非支配層と非支配層の組み合わせは、そうした事例が1件しかなかったので、比較できませんでした。以下は本論文の図5です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB35.jpg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB35.jpg" alt="画像" width="365" height="338" class="up-image" title="図5" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Ghalichi20et20al.2026E38080E98984E599A8E69982E4BBA3E382B9E382ADE382BFE382A4E4BABAE381AEE382B2E3838EE383A0282026070229E59BB35.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br /><br /><strong>●考察</strong><br /><br />　記念碑的な墳丘墓の出現は、鉄器時代ユーラシア中央部における社会的階層化の進展を示唆するのに用いられてきました。先行する青銅器時代において、同じ水準の支配層の埋葬儀式の証拠はありませんが、ウマと成功な武器を伴う埋葬の事例は知られています。高さ12～15m、直径105m以上の鉄器時代の墳丘は、建造に必要な多数の人々の組織化と資源供給の手段が存在したことを浮き彫りにしています。墓に入る通路や、親族かもしれない遺骸や【非ヒト】動物遺骸を含む副室や、支配層の状況のみで見られる死後穿孔とミイラ化の証拠がある地下墓地の存在は、初期スキタイ社会における埋葬儀礼の儀式的重要性をさらに浮き彫りにしています。<br /><br />　ユーラシア中央部における最も注目すべき考古学的調査結果の一つは、イシクの墳丘墓と、そこに埋葬されていた「黄金の男」の発見です。イシクの埋葬地はカザフスタンのアルマトイの東側約50kmの、イシク川の砂岩に位置し、いわゆる王墓が45基以上含まれています。イシクの墳丘の発掘は1969年に始まり、人工遺物に基づいて、鉄器時代と関連する紀元前4世紀～紀元前3世紀と年代測定され、鉄器時代のサカ文化と関連づけられました。主要なイシクの墳丘（高さ6m、直径60m）は、中央の埋葬と南方の埋葬から構成されています。中央の埋葬が複数回略奪されたのに対して、南方の埋葬は攪乱しておらず、その後「黄金の男」と命名された個体を含んでいました。放射性炭素年代測定によって、「黄金の男（GOM001）」は紀元前400～紀元前300年頃に確実に位置づけられ、後期鉄器時代のサカ文化期と一致します。「黄金の男」には豊富な副葬品が伴い、天山のモミの木で作られた木製の玄室があり、4000点以上の金製装飾品と鉄製の剣および短刀と青銅製鏡と多様な土器片と木や銀や青銅の容器が含まれています。26文字が刻まれた銀製鉢は、埋葬玄室から回収されたものの、この鉢の文字はこれまで解読されていません。「黄金の男」の剣は、グリフィンの頭で装飾されていました。同様のグリフィンの像は、シリティ（墳丘16号のSHI008）とアルジャン2など、ユーラシア中央部全域の他の支配層の鉄器時代遺跡で見つかりました。要するに、シリティの墳丘16号は、考古学的には紀元前8世紀～紀元前7世紀と年代測定されており、直径は約88m、高さはほぼ9mで、3構築層があり、動物に因んで様式化された豊富な金製人工遺物が含まれていました。アリストテレスとヘロドトスはユーラシア草原地帯の遊牧民集団における「黄金を守るグリフィン」に言及しており、それはスキタイ人の地域の支配層の遊牧民個体群を指しているかもしれません。「黄金の男」は、より顕著なBMAC関連祖先系統にも関わらず、鉄器時代サカ文化集団の遺伝的差異内に位置づけることができました。低いゲノム規模網羅率のため、遺伝的祖先系統のより正確な推定はできませんでした。しかし、「黄金の男」の遺伝学的性別は女性よりも男性の可能性が高い、と推定され、「黄金の男」の遺伝学的性別に関する長年の議論は解決しました。<br /><br />　概して、本論文の全個体は異なる3祖先系統供給源、つまり東方草原地帯と西方草原地帯とBMAC関連祖先系統の2もしくは3方向混合としてモデル化できました。さらに、一部の個体はアルタイ_MLBAのみを用いてモデル化でき（シンタシュタ文化集団的祖先系統とフブスグル的祖先系統の混合）、この地域におけるある程度の遺伝的連続性が示唆されます。これらの調査結果は、スキタイ人の遺伝的特性に関する先行研究［6］と一致し、既知のユーラシア人のゲノム差異にまたがる遺伝的多様性がさらに浮き彫りになります。支配層と非支配層に分類すると、個体群は3祖先系統の混合としてモデル化できず、個体の祖先系統モデル化で見られる異質性が浮き彫りになります。しかし、非支配層と比較して支配層では異質性は少ない傾向が観察され、激しい遺伝的混合の時期の連続性維持における支配層の役割の可能性が浮き彫りになります。東方草原地帯祖先系統の水準が増加している個体群では、女性の存在の割合がより高いことも認められました（9個体のうち7個体が遺伝学に女性で、ほぼ非支配層）。この調査結果は、祖先系統と混合の遺伝学的推定値より正確ではないものの、骨学的調査結果と、遊牧民国家との古代中国の国家の同盟構築の事例が、通婚を通じて行なわれたと記載されている、歴史的資料によって裏づけられます。この慣行がさらにさかのぼり、おそらくは鉄器時代に出現する証拠が、見つかりつつあるかもしれません。<br /><br />　男性と同様に女性は、鉄器時代スキタイ人の社会において重要な役割を担った可能性が高そうです。本論文のデータセットの文脈では、女性は支配層集団のほぼ半分（42%、38個体のうち16個体）を顕わ和紙手織り、通路と死後穿孔の兆候とウマと豊富な副葬品を備えた巨大墳丘で発見されてきました。支配層女性1個体の顕著な事例は30～35歳の「ウルジャルの王女（URD002）」で、この個体はカザフスタン東部の、損傷した直径16mの墳丘で見つかり、緊急発掘で明らかになって、後にタサリクの墳丘と命名されました。URD002は2013年に発見され、紀元前5世紀～紀元前4世紀と年代測定されました。「ウルジャルの王女」はスキタイ様式の動物装飾がある精巧な金製の頭飾りを着用して埋葬されており、これは「黄金の男」と関連する発見と同様です。URD002は石の祭壇や薬用植物の遺骸とともにも埋葬されており、これはシャーマニズム的役割だった、と解釈されています。スキタイ社会における高位女性の存在と重要な役割は、ヘロドトスなどの歴史的記録でも裏づけられます。<br /><br />　この研究ではIBDを用いて、分析されたスキタイ人集団の遺伝的構造が観察され、支配層個体群はより大きな一般人口集団内の下部集団を形成します。この観察はより高いIBDの接続性によって裏づけられ、支配層個体群は非支配層とよりも相互と親族関係にある可能性が高くなっています。本論文のデータセットは支配層と非支配層両方の個体がいる遺跡を含んでおり、同じ遺跡の支配層と非支配層および同じ遺跡の非支配層同士と比較して、異なる遺跡の支配層間で遺伝的近縁性のほとんどが見つかりました。<br /><br />　ROH分析の結果、支配層個体群におけるより高水準のROHが明らかになり、それにはイトコ間もしくはオジメイ間の結婚だった個体も含まれます。非支配層と比較して支配層集団でより小さなNₑも推定され、支配層階級内で族内婚の度合いがより高い、と示唆されます。親族関係にある支配層個体間の地理的距離は、支配層と非支配層の組み合わせと比較として、統計的により短い、と分かりました。この調査結果は、ロシアのトゥヴァのシベリアの「王の渓谷」で見られるような、支配層埋葬と親族に基づく支配層の埋葬慣行の地理的集中化との見解をさらに強化します。さらに、異なる墓地に埋葬されたものの、支配層の特徴を共有している個体間で、祖父と孫の関係が見つかりました。これは、鉄器時代の草原地帯支配層における王朝支配の出現証拠として解釈され、これは、社会的地位が子孫に継承され、個体遊牧民社会で正当化されるやり方に、光を当てます。<br /><br />　まとめると、これらの結果から、鉄器時代スキタイ人では、支配層は非支配層と比較して、その構成員間では近縁性や王朝連続性の可能性がより高い下部集団を表していた、と示唆されます。本論文で提示された結果は、古代ユーラシア遊牧民集団における社会的不平等と分化の出現に関する理解を深め、紀元前千年紀におけるユーラシア中央部の最初期の遊牧民集団の慣行を浮き彫りにします。最後に、本論文の調査結果は、過去における社会的不平等の出現についての知識の蓄積に寄与します。<br /><br /><br />参考文献：<br />Ghalichi A. et al.(2026): Ancient DNA reveals elite dynastic rule among Iron Age Eurasian Steppe nomads. Science Advances, 12, 27, eaef0108.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.aef0108" target="_blank">https://doi.org/10.1126/sciadv.aef0108</a><br /><br />［5］Damgaard PB. et al.(2018): 137 ancient human genomes from across the Eurasian steppes. Nature, 557, 7705, 369–374.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-018-0094-2" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-018-0094-2</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201805article_28.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［6］Gnecchi-Ruscone GA. et al.(2021): Ancient genomic time transect from the Central Asian Steppe unravels the history of the Scythians. Science Advances, 7, 13, eabe4414.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.abe4414" target="_blank">https://doi.org/10.1126/sciadv.abe4414</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202103article_33.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［9］Krzewińska M. et al.(2018): Ancient genomes suggest the eastern Pontic-Caspian steppe as the source of western Iron Age nomads. Science Advances, 4, 10, eaat4457.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.aat4457" target="_blank">https://doi.org/10.1126/sciadv.aat4457</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201810article_11.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［20］Gretzinger J. et al.(2024): Evidence for dynastic succession among early Celtic elites in Central Europe. Nature Human Behaviour, 8, 8, 1467–1480.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41562-024-01888-7" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41562-024-01888-7</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202408article_28.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［21］Jeong C. et al.(2020): A Dynamic 6,000-Year Genetic History of Eurasia’s Eastern Steppe. Cell, 183, 4, 890–904.E29.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.10.015" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.cell.2020.10.015</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202011article_12.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［27］Ringbauer H, Novembre J, and Steinrücken M.(2021): Parental relatedness through time revealed by runs of homozygosity in ancient DNA. Nature Communications, 12, 5425.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41467-021-25289-w" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41467-021-25289-w</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202211article_20.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［48］Saag L. et al.(2025): North Pontic crossroads: Mobility in Ukraine from the Bronze Age to the early modern period. Science Advances, 11, 2, eadr0695.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.adr0695" target="_blank">https://doi.org/10.1126/sciadv.adr0695</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202503article_9.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［49］Andreeva TV. et al.(2025): Genetic history of Scythia. Science Advances, 11, 30, eads8179.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.ads8179" target="_blank">https://doi.org/10.1126/sciadv.ads8179</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202508article_5.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><a name="more"></a>

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            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
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      <title>インドネシアの人口史</title>
      <pubDate>Tue, 14 Jul 2026 09:25:16 +0900</pubDate>
            <description>　スマトラ島で発見された古代人のゲノムデータを報告した研究（Xu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、スマトラ島北部で発見された3300年前頃と1700年前頃の人類遺骸のゲノムデータを報告し、既知のアジア南東部島嶼部の古代人19個体のゲノムデータとともに分析しました。その結果、現在のインドネシアの領域ではウォレス線を境として東西間で遺伝的差異があり、それは初期完新世にまでさか..</description>
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　スマトラ島で発見された古代人のゲノムデータを報告した<a href="https://doi.org/10.1016/j.isci.2026.115974">研究</a>（Xu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、スマトラ島北部で発見された3300年前頃と1700年前頃の人類遺骸のゲノムデータを報告し、既知のアジア南東部島嶼部の古代人19個体のゲノムデータとともに分析しました。その結果、現在のインドネシアの領域ではウォレス線を境として東西間で遺伝的差異があり、それは初期完新世にまでさかのぼる、と明らかになりました。新石器時代の後にも、オーストロネシア語族話者の拡大などによる、関連する遺伝的祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）の流入がありましたが、この東西間の遺伝的差異は消滅しなかったことも示されました。以下は本論文の要約図です。
<a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-ga1_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-ga1_lrg.jpg" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="365" /></a>
　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、mtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）、YHg（Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、C（cytosine、シトシン）、T（thymine、チミン）、HO（Human Origins、ヒト起源）、AMH（anatomically modern human、解剖学的現代人、現生人類）、ESEA（East/Southeast Asian、アジア東部/南東部）、MSEA（Mainland Southeast Asia、アジア南東部本土）、ISEA（Islands Southeast Asia、アジア南東部島嶼部）です。

　以下の時代区分の略称は、N（Neolithic、新石器時代）、LN（Late Neolithic、後期新石器時代）、BA（Bronze Age、青銅器時代）、IA（Iron Age、鉄器時代）です。本論文で取り上げられる主要な文化は、ホアビニアン（Hòabìnhian、ホアビン文化）、トアレアン（Toalean、トアレン文化）、サーフィン＝カラナイ（Sa Huynh-Kalanay）土器伝統です。

　本論文で取り上げられるインドネシアの主要な遺跡は、ロヤン・メンダレ（Loyang Mendale）洞窟、プトリ・プケス（Putri Pukes）洞窟、パンカラン貝塚（Pangkalan Kitchen Midden）、スラウェシ島南部のマロス（Maros）のマラワ（Mallawa）地区のリアン・パニンゲ（Leang Panninge）鍾乳洞です。本論文で取り上げられるインドネシア以外の主要な遺跡は、北京の南西56kmに位置する周口店（Zhoukoudian）の田園洞窟（Tianyuan Cave）、台湾の漢本（Hanben）です。


●要約

　深海のウォレス線はインドネシアの東西を分離する大きな生物地理学的境界ですが、この遺伝的区分の起源はインドネシア西部の古代ゲノムデータが限られているため、依然として未解決です。この研究では、インドネシア西部の後期新石器時代2個体のゲノムデータが報告され、アジア南東部島嶼部の刊行されている古代人19個体（7000～200年前頃）のゲノムと統合されました。本論文の分析は東西の遺伝的構造の2段階の形成を示唆しており、前期更新世には東西の分岐があり、西方採食民関連祖先系統はホアビニアン関連集団と、東方採食民関連祖先系統はパプア関連集団とより近く、その後の新石器時代および新石器時代後の人口統計学的過程には、オーストロネシア人の拡大や追加のアジア南東部本土からワラセア西部への遺伝子流動や、ワラセア東部へのパプア関連逆移動があり、この以前の構造を強化し、再形成しました。したがって、本論文が提案する人口統計学的モデルでは、繰り返しの完新世の移住が既存の地域的差異に作用し、現在のインドネシア人口集団の遺伝的景観を生成しました。


●研究史

　インドネシア17000以上の島から構成されており、世界の最も遺伝的に多様で地理的に複雑な地域の一つです。アジア本土とオセアニアの間の海上の交差点に位置するインドネシアの群島は、ウォレス線によって分かれています。この深海の生物地理学的境界は、生物多様性と生態系とヒトの歴史における完全な違いを形成しています。最終氷期極大期には、スマトラ島とジャワ島とボルネオ島を含めてインドネシア西部は、アジア本土とつながった陸塊であるスンダ大陸棚の一部を形成していました。対照的に、インドネシア東部は深海によって依然として隔てられており、メラネシアや太平洋により近い類似性を有する、生態学的および人口統計学的特徴が保存されていました。

　考古学的証拠から、AMHは南方沿岸経路でアジア南東部へ移動し、アジア南東部とサフルの両方に65000～50000年前頃の間に到来した、と示唆されています［2］。アジア全域のAMHの最初の拡散の間に、人口集団は少なくとも主要な3大系統へと急速に分化しました［4］。これらのうち、現在のオーストラロ・メラネシアと関連するオーストラレーシア系統と、古代ホアビニアン狩猟採集民と関連するESEA系統は、インドネシアの人口構造を大きく形成してきた古代の2系統から構成されています。両集団はこの地域の現在の人口集団と深く分岐していますが、古代DNA研究はその独特な関係を明らかにしてきました［5］。注目すべきことに、ラオス（7800年前頃）とマレーシア（4300年前頃）のホアビニアン関連個体群は、アンダマン諸島人とよりもパプア人関連集団との方が遺伝的類似性は少なくなっています［5］。しかし、スラウェシ島のトアレアン関連狩猟採集民（7300年前頃）はオーストラレーシア人系統と最も多くの遺伝的浮動および形態学的類似性を共有しており［6］、すでに初期完新世に存在していた、東西の人口集団の分岐が示唆されます。

　考古学的証拠は、この東西の区分を裏づけています。ホアビニアン文化複合体はMSEAからインドネシア西部へと早くも12000年前頃には広がっており、8000年前頃には、スマトラ島北部のロヤン・メンダレ洞窟などの遺跡で特徴的なスマトラ式石器が見つかっています。対照的に、インドネシア東部ではホアビニアン物質文化がなく、代わりに、スラウェシ島のトアレアン技術複合体によって示される独特な技術文化伝統が保存されています［6］。これらの記録から、インドネシアの東西は生態学的に異なるだけではなく、完新世には人口統計学的および文化的にも異なっていた、と示唆されます。

　この長期の分離はISEAの新石器化、とくに5000～4000年前頃に始まるオーストロネシア人の拡大によって変容しました［5、10、12、13］。この移動は中国南東部本土と台湾に起源があり、稲作農家や赤色研磨土器や航海技術をインドネシアの東西両方にもたらし、地域的な物質文化に深い痕跡を残しました。これと並行して、MSEAの新石器時代集団が同じ期間もしくはその少し後にインドネシア西部へと移動しました［13］。これらの人口移動は、既存の地理的障壁および文化的区分に重なり、インドネシアの現代人集団で観察される複雑な人口構造の形成に中心的役割を果たしてきた、と考えられています。

　現在のゲノム研究は一貫して、ウォレス線と密接に一致する、インドネシア全域の顕著な東西の遺伝的勾配を報告してきました。現在の全人口集団はオーストロネシア関連祖先系統を有していますが、インドネシア西部人口集団（たとえば、ジャワ島やスマトラ島）がおもにアジア東部由来なのに対して、インドネシア西部人口集団（たとえば、ティモール島やモルッカ諸島やフローレス島）は顕著なパプア関連構成要素を有しています［21］。この違いは片親性遺伝標識（母系のミトコンドリアと父系のY染色体）にも反映されており、たとえばY染色体では西部のYHg-O2（M122）と東部のYHg-M（P256）、ミトコンドリアではでは両地域ともmtHg-B4a1aというように、インドネシア群島全域で性別の偏った混合が示唆されまする言語学的証拠はこのパターンをさらに反映しており、700以上の現存言語はオーストロネシア語族話者集団（全域で優勢）とインドネシア東部に局在するパプア諸語関連言語に区分されます。

　最近の研究は、この人口統計学的全体像に新たな複雑さを追加してきました。ゲノム解析から、ワラセアで観察されるパプア関連祖先系統は少なくとも部分的には、3500年前頃に始まるニューギニアからの逆移住に起因するかもしれない、と示唆されています［26］。このオーストロネシア人の後のパプア人からの遺伝子流動は、インドネシア東部の人口史に双方向的な層を付け加えています。しかし、これらのパターンの解釈における大きな限界はインドネシア西部の古代DNAの少なさで、この研究の前に利用可能なのは、2点の低網羅率の古代ゲノムしかありませんでした［5］。結果として、インドネシアの東西の区分の根底にある時間的起源と機序は、依然として充分には解明されていません。そこで本論文は、新石器時代～最近のゲノムで検証できる問題に焦点を当て、それは、（1）インドネシアの東西の構造が3300年前頃までにすでに検出できるのかどうか、（2）オーストロネシア関連およびMSEA関連祖先系統が経時的にインドネシア西部にどのように寄与したのか、（3）パプア関連祖先系統がオーストロネシア人関連の拡散の間およびその後に、インドネシア東部でどのように変わったのか、ということです。

　これら長年の問題に取り組むために、スマトラ島北部のロヤン・メンダレ洞窟で発掘された古代人2個体から、ゲノム規模捕獲データが生成されて分析されました。この2個体の年代はそれぞれ3347年前頃と1720年前頃で、インドネシア西部における重要な人口統計学的移行期にまたがっています。これらの新たなデータを、考古学的背景および現代人集団の比較分析とともに、ISEA全域の古代人19個体のゲノムと統合することによって、インドネシア群島全域のヒトの移住と混合と人口構造の時空間的動態再構築が目指されました。

　ロヤン・メンダレ洞窟は、この調査に理想的な状況を提供します。この遺跡における層序化された文化堆積物は、ホアビニアンやオーストロネシア語族やMSEA新石器時代文化層と関連する、連続的な居住を捉えています。最古級の層（8430～5040年前頃）には、ホアビニアン遺跡に典型的な石器と軟体動物遺骸が含まれています。中期段階（4980～1740年前頃）はオーストロネシア様式の磨製手斧や装飾品や土器が含まれているのに対して、最上部の堆積物（2330年前頃以降）には、サーフィン＝カラナイ式土器や東西方向の埋葬が含まれており、文化的変容もしくは人口置換を反映しています。

　この複数段階の遺跡考古学とゲノムと片親性遺伝標識の証拠の統合と、それをより広範な地域的枠組み内に位置づけることによって、インドネシアの独特な地理とヒトの居住の長い歴史が、アジア南東部における最も複雑な遺伝的景観の一つをどのように生み出したのか、解明が試みられます。本論文の調査結果は、インドネシアにおける東西の遺伝的勾配の起源と持続と再形成への知見を提供し、この勾配は単に深い時間的孤立のみではなく、何千年にもわたる移住と局所的連続性と社会文化的動態の繰り返しの波によっても形成されました。


●インドネシア西部の後期新石器時代のゲノム

　インドネシア西部の古代ゲノムデータにおける重要な空白に取り組むにあたって、ロヤン・メンダレ洞窟とプトリ・プケス洞窟とパンカラン貝塚の3ヶ所の考古学的遺跡から、4点の骨格標本が検査されました。これらのうち、LMCM1およびLMCM2と命名された2個体のみが、古代DNAの中程度の保存状態を示しました。この2点の標本はスマトラ島のロヤン・メンダレ洞窟から発掘され、直接的な放射性炭素年代測定で、それぞれ1720年前頃と3347年前頃と推定されました。この期間はこの地域における人口統計学的変容の重要な時期に相当し、広範な人口移動によって形成された可能性が高そうで、その影響はゲノム証拠によって追跡できます。

　熱帯のアジア南東部では、常に高い湿度と気温のため、古代DNAの保存状態がきわめて悪いことを考えて［5、12］、ゲノム回収率を向上させるために、高度な分子手法が用いられました。具体的には、先行研究で報告されたように、100万ヶ所のゲノム規模SNPを対象に、溶液内濃縮実施要綱を用いて、1本鎖混合捕獲が複数回実行されました。この手法で、LMCM1とLMCM2についてそれぞれ、8点と4点の1本鎖混合捕獲が得られました。

　古代起源であることの真正性を認証し、現代の汚染を最小限にするために、厳格な品質管理測定が実行されました。ライブラリは、以下の基準を満たせば保持され、それは、（1）特徴的な死後のDNA損傷の証拠（C→Tの置換頻度が0.06超）、（2）124万パネルうえで3万ヶ所以上の対象SNPの回収、（3）3通りの独立した手法を用いての、一貫した遺伝学的性別判定、（4）男性のmtDNAとX染色体の分析による汚染推定値が3.5%未満です。これらの閾値に基づいて、LMCM1では8点のライブラリのうち3点、LMCM2では4点のライブラリのうち2点が保持されました。

　1万ヶ所超のSNPがあるものの、汚染の可能性があるライブラリについては、古代DNAを示唆する真正の損傷パターンが見られる断片のみを保持するために、追加の選別が適用されました。個体ごとにライブラリを統合した後で古代人2個体のゲノムが回収され、LMCM1は171570ヶ所のSNP、LMCM2は551065ヶ所のSNPが得られました。両個体のゲノムは、認証基準をすべて満たしました。

　片親性遺伝標識分析は、この2個体の祖先の起源をさらに解明しました。LMCM1とLMCM2の両個体はYHg-O1a2を有しており、これはアジア南東部で広く分布しており、台湾の先住民集団で見られます。LMCM1はmtHg-Y2a1も有しており、これは同様にアジア南東部人口集団とオーストロネシア語族話者共同体において優勢です。しかし、LMCM2のmtHgは不充分なミトコンドリアゲノムの網羅率のため決定的ではなかったので、本論文では報告されません。

　LMCM1とLMCM2との間の遺伝的関係を調べるために、PCAと外群f₃統計とqpWaveのモデル化が実行されました。すべての分析は一貫して、個体LMCM1とLMCM2の間の密接な遺伝的類似性を裏づけました。具体的には、この2個体はPCA空間では重なる位置を占めており（図1）、外群f₃分析では相互に最良の一致を示し、qpWaveの結果では遺伝的均質性を示しました。これらの一致する調査結果を踏まえて、LMCM1とLMCM2はその後の集団遺伝学的分析では単一の人口集団単位に分類され、本論文ではインドネシア_ロヤン_メンダレ_洞窟と呼ばれます。以下は本論文の図1です。
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　この新たに定義された人口集団は、以前には標本抽出されていなかった地域および期間の重要なゲノムデータを提供します。この人口集団は、インドネシア西部における人口統計学的移行の再構築にとって堅牢な基準点を定義し、ISEA前期における人口動態の地図化のより広範な試みに寄与します。


●インドネシアにおける東西の深い遺伝的区分が最近の遺伝子流動のみで説明できる可能性は低そうです

　顕著な東西の遺伝的区分はインドネシア群島を特徴づけており、これは現代人のゲノムと言語学のデータによって長く認識されてきたパターンです。しかし、この区分の時間的起源は古代DNAの限られた比較分析のため依然として未解明で、この構造が最近の遺伝子流動から生じたのか、それとも古代の人口集団においてすでに確立していたのか、という問題を提起します。

　この問題に取り組むために、インドネシア古代人のゲノムのPCAが実行され、全体的な人口構造が調べられました（図1）。得られた三角形の分布は主要に地域的祖先系統と一致しており、オーストロアジア人とオーストロネシア人とパプア人です。主成分1（PC1）がパプア人をオーストロアジア語族およびオーストロネシア語族話者人口集団から分離した一方で、主成分2（PC2）はオーストロアジア人系統をオーストロネシア人系統から区別しました。驚くべきことに、PC1とPC2の両方が、古代インドネシア人口集団を地理的起源と一致する東西の異なる2クラスタ（まとまり）に分割しました。西部人口集団が左側（PC1）と上部（PC2）に向かってクラスタ化した（まとまった）のに対して、東部人口集団は反対のパターンを示しました。この観察された構造は形式的な統計的相関によって実証され、PC1は軽度と負に相関し、PC2は経度と正に相関しましたが、どちらの軸も緯度とは有意に相関しませんでした。まとめると、これらの結果は、古代インドネシア人口集団における南北の階層化なしでの堅牢な東西の分岐を示唆しました。しかし、この解釈が慎重に扱われねばならないのは、本論文で用いられた特定の標本一式とPCAパネルのみを反映していたからです。したがって、これらの調査結果は予備的な観察を表しており、詳細な人口史には定量的な祖先系統モデル化によるさらなる調査が必要でした。

　古代DNA研究では多くの場合、古代の個体群は現代の参照人口集団に由来する主成分に投影されます。この参照パネルの組成は、パプア人やアジア東部人口集団など特定の集団が差異の主要な軸の原因となる場合はとくに、得られる座標空間に大きな影響を及ぼすかもしれません。この効果の影響を評価射るために、パネル組成の変化が推定される構造にどのように影響を及ぼしたのか、明示的に検証されました。具体的には、投影される標本としてインドネシア古代人個体群の同じ一式を維持しながら、パプア人集団なしでの代替的な参照パネルを用いてPCAが繰り返されました。顕著な東西の遺伝的分岐は、パプア人参照が含まれる場合に最も顕著だった、と観察され、インドネシアの東西の集団間のパプア祖先系統について、強い類似性の差異が反映されています。パプア人標本が除外されると、東西のクラスタ間の分離はかなり不明瞭になりました。これらの比較結果から、観察されたパターンはとくに参照組成に左右され、PCAのみでは決定的ではなく、記述的として解釈されねばならない、と確証されます。これは、f統計と混合モデル化を用いての形式的な検定を促します。

　この調査結果を検証し、PCAの偏りの可能性を説明するために、f₃形式（X、Y；ムブティ人）の対での外群f₃統計の階層的クラスタ化（まとめること）が採用され、ここでのXとYは古代アジア南東部人口集団とオンゲ人とパプア人です。この分析から一貫した4クラスタが得られた、それは、（1）パプア人関連人口集団（クラスタ1）、（2）ホアビニアン関連狩猟採集民（クラスタ2）、（3）インドネシア東部古代人（クラスタ3）、インドネシア西部古代人（クラスタ4）です（図2A）。注目すべきことに、ホアビニアン関連集団とパプア人関連集団が一つの超クラスタ（クラスタ1_2）を形成した一方で、東西のインドネシア人は別のクラスタ（クラスタ3_4）を形成しました。これらのパターンから、インドネシアの東西の古代人はウォレス線全域とよりも各地域内の方で多くの遺伝的浮動を共有している、と示唆され、それは分化の少なくとも2層を示唆しており、ホアビニアン関連系統とパプア関連系統との間の深い分岐で、その後でインドネシアの追加の完新世の構造化が続きます（図2A）。以下は本論文の図2です。
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　この分析は現代のインドネシア人口集団に拡張されました。クラスタに基づくf₃式分析に含めると、現代人集団は新石器時代/新石器時代後の古代の西部もしくは東部の人口集団のどちらかとそれぞれクラスタ化し、古代と現在の人口構造間の連続性が示唆されます。これらの結果から、東西の遺伝的勾配は少なくとも初期完新世に確立され、その後の人口統計学的過程によって強化された可能性が高い、と示唆されます。したがって、最近の遺伝子流動のみでは、観察された構造を説明できません。


●基底部の分岐は新石器時代の遺伝的分化の基盤です

　この区分の祖先の起源を調べるために、PCAの軸が再評価され、PC1（パプア祖先系統）が経度と負に相関していたのに対して、PC2（オーストロアジア人/オーストロネシア人祖先系統）は正に相関していました。まとめると、これらの相関は東西の勾配と一致しており、インドネシア東部集団がパプア人関連集団祖先系統をより多く共有しているのに対して、インドネシア西部集団はMSEAとより密接に関係しています。さらに、これらの結果は古代のインドネシア人口集団における顕著な東西の遺伝的分化を浮き彫りにしています。しかし、このPCAにおける南北の階層化の欠如を注意深く解釈すべきなのは、それが本論文で用いられた特定の標本組成とSNPパネルのみを反映しているからです。2023年の研究［13］を含む先行研究は、この分析では捕獲されていない、インドネシア東部内の追加の南北の祖先系統の区別を論証しました。

　f₃形式（MSEA/太平洋/オーストロネシア人、インドネシア古代人；ムブティ人）の外群f₃検定は、顕著な非対称性を明らかにしました。インドネシア西部の人々が、ホアビニアンおよび新石器時代人口集団を含めて、MSEA集団とより大きな遺伝的類似性を示したのに対して、インドネシア東部の人々は太平洋人口集団とのより強い類似性を示しました（図2B・C）。注目すべきことに、インドネシアの東西の両集団はオーストロネシア語族話者集団とかなりの水準の浮動を示しており、オーストロネシア人の拡大による均質化の影響が示唆されます。外群f₃値が広範囲にわたっていることは注目され（図2B）、パプア関連祖先系統を有するインドネシア東部個体群が0.30に近い割合を示すのに対して、ワラセア西部集団は参照集団ではずっと小さな違いを示します。このパターンから、ホアビニアン関連ゲノムが本論文のパネルでは最も深い西部の類似性の最適となる利用可能な代理であるものの、ワラセア西部の対応する兆候比較的微妙で、在来の新石器時代前の採食民からの連続性の直接的証拠ではなく、不完全な代理との弱い類似性として解釈されるべきである、と示唆されます。

　より形式的に祖先系統をモデル化するために、qpAdmが適用されました。妥当なモデル一式全体で、すべてのインドネシア古代人集団は、オーストロネシア関連供給源が含められる場合のみ最適です。これらのモデルでは、西部集団が追加のホアビニアン関連構成要素を必要とするのに対して、東部集団はパプア人関連構成要素を必要とします（図3A）。これらの結果は、f₄形式（ムブティ人、インドネシアの東西の古代人；ホアビニアン、パプア人）のf₄統計によってさらに裏づけられ、東部人口集団については有意な正の値が、西部人口集団については負の値が示されます（図3B）。この研究で新たに配列決定された最も網羅率の高いインドネシア西部人のゲノムは統計的有意性に達しており、微妙な類似性の解明について、より網羅率の高いゲノムの重要性が強調されます。TreeMix分析は複数回の移住事象を推測しており、それには、いくつかのインドネシア東部地域への3回のパプア関連事象と、ホアビニアン関連事象のインドネシア西部への移住事象が含まれます。まとめると、これらの結果から、新石器時代/新石器時代後のインドネシアの人口構造は、単一の単純な置換事象ではなく、より深いホアビニアン関連およびパプア関連の分岐を含む混合によって形成されている、と示されます。以下は本論文の図3です。
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●現代のインドネシア人口集団における初期完新世採食民の遺伝的遺産と後期新石器時代の置換と連続性

　初期完新世採食民と関連する祖先系統がその後の集団で検出できるのかどうか、調べるために、現在のデータセットで利用可能な2点の新石器時代の前のゲノム（スラウェシ島のトアレアン技術複合体のリアン・パニンゲと、MSEAのホアビニアン関連狩猟採集民）が含められました［5、6］。これらの個体は独特なクラスタを形成し、遺伝的には上述のクラスタに基づく外群f₃分析（図2A）で新石器時代およびその後の人口集団と遺伝的に遠く、不適正塩基対率は新石器時代前の採食民とその後の人口集団との間の大きな差異を浮き彫りにしています。インドネシア西部の新石器時代前のゲノムは利用できないので、その地域では遺伝的連続性を直接的には検証できません。代わりに、最適となる利用可能な代理でのqpAdmを用いると、その後のインドネシア西部集団のモデルではホアビニアンのゲノムと関連する構成要素を必要とする場合が多いのに対して、その後のインドネシア東部集団のモデルではパプア関連構成要素が必要になる、と分かりました（図3A）。これらの推定値は代理選択とモデル仮定に依存しているので、在来の新石器時代前の人口集団との決定的な連続性ではなく、深い地域的系統との検出可能な類似性の証拠として解釈されます。

　これらのパターンと古代の分岐が現在までどのように存続しているのか、評価するために、外群f₃およびqpAdmモデルを用いて、現在の人口集団のゲノムが分析されました。新石器時代のインドネシアの東西の人口集団と一致して（図2C）、インドネシア西部の現代人もホアビニアンおよび新石器時代MSEA集団と有意により大きな浮動を示すのに対して、インドネシア東部集団は太平洋人口集団とより多くの浮動を共有しています（図4A）。インドネシア西部の現代人集団は、同地域の古代人集団よりもオーストロネシア関連の強い類似性を示しており、インドネシア西部地域における追加の新石器時代後のオーストロネシア関連の遺伝子流動と一致します（図4A・B）。以下は本論文の図4です。
<a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr4_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr4_lrg.jpg" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="372" /></a>
　qpAdm混合モデル化では、インドネシア西部人口集団は、ホアビニアン（4.9～7.8%）と新石器時代MSEA人口集団（ラオス_LN_BAによって表され、11.2へ62.3%）とオーストロネシア人祖先系統（31～92.2%）の2もしくは3方向混合として最適に説明される（図4C）、と示唆されました。しかし、インドネシア東部人口集団最大で4祖先系統構成要素を必要としており、それには、パプア人（10.9～58.4%）やオーストロネシア人（31～73.6%）や新石器時代MSEA（4.8～59.1%）やホアビニアン（3.6～11%）が含まれます（図4C）。全体的に、これらのモデルから、後期新石器時代とその後の完新世の移動（オーストロネシア人およびオーストロアジア人関連）がインドネシアの遺伝的差異を強く形成した一方で、それ以前の採食民と関連する祖先系統は多くの現代人集団においてより低水準で依然として検出可能である、と示唆されます。

　地域的には、最西端人口集団が最高の割合のオーストロネシア祖先系統（平均85.1%）を示すのに対して、パプア関連祖先系統はウォレス線の西側には存在しません。対照的に、バリ島（地理的にウォレス線の西側ではあるものの、行政的には東インドネシアの一部）を除く東部人口集団）は、高い割合のパプア祖先系統を含んでいます（図4C）。バリ島集団は遺伝的にジャワ島集団と類似しており、インドネシア西部集団とのより強い類似性と一致します。いくつかの東端の人口集団は本論文のモデルではパプア関連祖先系統とオーストロネシア関連祖先系統がほぼ均衡しており、利用可能な時間横断区では少なくとも新石器時代以降、比較的安定した混合割合が示唆されます。

　とくに注目すべきは、本論文のqpAdm分析で、前期完新世のトアレアン関連のリアン・パニンゲ個体（7300年前頃）の祖先系統［6］を、パプア関連供給源のみに由来するとモデル化するのに成功できなかったことです。この結果は以前の調査結果と一致して、そこでは、トアレアン個体はパプア人とクレード（単系統群）を形成するものの、パプア人と比較して、田園洞個体およびオンゲ人と関連する追加の深いアジア祖先系統構成要素も有している、と示されました。したがって、供給源としてトアレアン個体を用いての、新石器時代およびインドネシア現代人集団のモデル化は、選択基準に合致するモデルの生成に失敗することが多くありました。このパターンはパプア人の逆移住モデルを裏づけており、このモデルでは、トアレアン個体のゲノムはインドネシア東部のより広範な完新世祖先系統を表している、と仮定されています。

　しかし、トアレアン狩猟採集民とパプア人が系統発生空間では密接に関連する位置を占めていることを考えると、ワラセアのパプア関連祖先系統は前期完新世までにすでに存在しており、その後の遺伝子流動は、この構成要素を開始したのではなく、増加させた可能性が高い、と推測されます。


●考察

　この研究では、ロヤン・メンダレ洞窟における、インドネシア西部のこれまでに最古級（3300年前頃と1700年前頃）の古代ゲノムを提示し、それがISEA全域の古代人および現代人のゲノムの広範なデータセットと統合されます。このデータは直接的に、3300年前頃までにインドネシア西部個体群は、MSEA関連系統との類似性を保持しながら、かなりのオーストロネシア関連祖先系統を既に有していた、と示します。利用可能な古代の時間横断区全体で、本論文の分析から、インドネシアの現在の東西の遺伝的区分は、ごく最近の遺伝子流動のみで生成されたのではなく、初期完新世の地域的分岐の遺産と、その後の完新世の混合過程の両方を反映している、と示唆されます。

　本論文は、インドネシアの東西の遺伝的構造の起源について2段階モデルを提案します。第1段階（古代ゲノムデータと考古学的背景の比較によって示唆されます）では、西部のホアビニアン関連採食民と東部のパプア関連集団（トアレアン狩猟採集民によって表されます）との間で少なくとも前期完新世には深い分岐があり、これはウォレス線を挟んでの地理的孤立によって引き起こされた可能性が高そうです。第2段階（新石器時代から最近のゲノムによって直接的に裏づけられます）では、新石器時代のオーストロネシア人の拡大がインドネシア群島全域にアジア東部関連祖先系統をもたらしましたが、地域的な差異は除去されませんでした。代わりに、先住民構成要素の非対称的な保持、ワラセア西部への追加の新石器時代/金属器時代MSEA関連の遺伝子流動、ワラセア東部におけるパプア人関連の逆移住［26］が、古代人と現代人両方のゲノムで可視化される東西の人口構造を強化し、再編しました（図5）。この枠組みと一致して、新石器時代と現代両方のワラセア東部人口集団は高水準のパプア関連祖先系統を有しており（図3Aおよび図4C）、パプア人集団と同等の遺伝的類似性を示し（図4B）、オーストロネシア人関連の拡散の期間および/もしくは後における、ワラセア東部系統へのかなりのパプア人関連の遺伝子流動が示唆されます［26］。以下は本論文の図5です。
<a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr5_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr5_lrg.jpg" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="156" /></a>
　しかし、本論文のモデルは学際的証拠の統合によって構築されており、一連の人口統計学的仮定の影響をうけやすい、と明確にする必要があります。本論文のモデルの第1段階については、考古学および古ゲノムデータにおもに依拠しました。ホアビン文化と関連する考古学的遺跡はMSEAからインドネシア西部へと1万年前頃に拡大しましたが、インドネシア東部には到達しませんでした。インドネシア西部のホアビニアン関連狩猟採集民のゲノムが現時点では欠如していることを踏まえて、本論文は代理としてMSEAの刊行されているホアビニアン個体のゲノムを用いて、インドネシア東部の最初期狩猟採集民と比較しました。その結果、狩猟採集民のこれら2集団は高度に分岐しており、異なる遺伝的クラスタ（図2A）と系統発生単系統群（図3C）を形成する、と示されました。具体的には、ホアビニアン関連個体群がアンダマン諸島人口集団とより密接な遺伝的類似性を示したのに対して、ワラセアの完新世半ばの狩猟採集民［26］はパプア人とのより密接な遺伝的類似性を示しました。さらに、パプア祖先系統を有するインドネシア東部の個体群が、最高のf₃値を示すのに対して、ワラセア西部の個体群はホアビニアン関連個体群集団と弱い類似性しか示さない、と分かりました（図2）。インドネシア東部人口集団における高度なパプア人関連の類似性と、インドネシア西部人口集団とホアビニアン関連集団との間の比較的低い類似性から、インドネシア西部の在来採食民祖先系統は地域的により異なっていたかもしれない、と示唆されます。したがって、MSEAのホアビニアン関連集団は、密接なもしくは決定的な供給源人口集団ではなく、現時点で最適となる利用可能な代理によって表されているかもしれません。インドネシア西部の新石器時代前のゲノムを得ることは、本論文で提案されたモデルの第1段階の直接的評価に不可欠です。このモデルの第2段階は、インドネシア群島全体の時系列のゲノムデータから得られました。しかし、重要な接触期における古代ゲノムの不足のため、直接的な移行過程は依然として未解明です。

　重要な未解決問題は、とくにインドネシア東部における、初期の局所的な祖先系統の兆候に関してです。その後の新石器時代人口集団におけるパプア関連兆候が、一貫した前期完新世祖先系統を反映していたのか、あるいは異なるパプア人の逆移住によって生じたのか、依然として不明でした。本論文の分析から、ワラセアの完新世半ばの狩猟採集民は、qpAdmモデル化（図3Aおよび図4C）とTreeMix（図3C）によって示唆されるように、新石器時代およびその後のインドネシア東部人口集団で見られる遺伝的構成要素とさほど密接に関連していなかった、と示唆されました。それにも関わらず、トアレアン狩猟採集民とパプア人が系統発生空間で密接に関連する位置を占めていること（図3C）を考えて、ワラセアにおけるパプア関連祖先系統は前期完新世までにすでに存在していた可能性が高く、ニューギニアからの遺伝子流動はこの構成要素を始めたのではなく蓄積した、と本論文では提案されました。したがって、この段階の決定的な検証を提供するには、インドネシア東部のより広範でより古いゲノム標本抽出が必要です。

　ゲノムの結果を新石器時代前の採食伝統の考古学的証拠（ホアビニアンとトアレアン技術複合体を含みます）と統合することによって、本論文の分析からは、初期完新世採食民と関連する祖先系統はその後の人口集団に寄与した、と示唆されます。同時に、本論文のf統計クラスタ化およびqpAdm比較では、新石器時代前の個体群は多くの3000年前頃以後の集団と深く分岐しています（図2Aおよび図3A）。まとめると、これらの観察は、新石器時代とその後の期間を通じての、両祖先系統の存続とかなりの人口統計学的変化想定を裏づけます。

　本論文のqpAdmモデル化は新石器時代インドネシア西部人における異なる祖先系統構成要素を回収し、それは台湾_漢本_IA関連（43.3%）とラオス_ホアビニアン関連（29.1%）とラオス_LN_BA（27.6%）の供給源を含む三重混合です（図3A）。これらの割合はモデル依存で、選択された代理参照下の推定値として解釈されるべきですが、インドネシア西部における複数の本土関連と台湾関連の寄与を一貫して示唆していまするこの遺伝的特性はロヤン・メンダレ洞窟の考古学的記録を補完しており、その考古学的記録では、ホアビニアン採食民およびオーストロネシア人拡大およびMSEAの文化的影響と関連する連続的な居住が報告されています。層序化された文化的段階と異なる祖先系統構成要素との間の一致から、これらの物質文化伝統には、文化的伝播のみではなくヒトの移動と混合の出来事が伴っていた、と示唆されます。注目すべきことに、この遺伝的パターンはこの研究で新たに配列決定された標本に固有ではなく、インドネシア西部における西部からい以前に報告された低網羅率の2個体のゲノム［5］は同じ三重構造を示しており、インドネシア西部全域におけるより広範な人口と分化の共拡散の堅牢な証拠を提供しています。対照的に、いくつかの東端の人口集団はより単純なパプア関連とオーストロネシア関連の混合によく適合しており、この接触地帯近くの一部の人口集団（たとえば、フローレス島）は追加のMSEA関連兆候を示しています（図4C）。先行研究（たとえば、［13］）との不一致は、参照パネルや標本構成や124万とHOに基づくqpAdmの結果間の差異など統計的検出力の違いを反映している可能性が高そうです。全体的に、利用可能なモデルは新石器時代/金属器時代におけるウォレス線を越えた一部のMSEA関連祖先系統の、地域的に限られた東方への移動を示唆しています。

　本論文の結果は、最近の研究［26］で提案されたパプア人の逆移住モデルとも一致しますが、補完的解釈も可能です。トアレアンおよびパプア人の参照は密接に関連する系統発生的位置を占めているので、その後のインドネシア東部集団におけるパプア関連祖先系統は、前期完新世までにすでに存在したパプア関連祖先系統の存続と、ニューギニアからの追加のその後の遺伝子流動の両方を反映しているかもしれません。本論文のデータは全てのパプア関連の流入の時期を独自に特定するわけではなく、インドネシア東部におけるより密な時間的標本抽出が、その後の波から連続性をより決定的に区別するのに必要でしょう。最後に、本論文のモデル化枠組みでは、オンゲ関連祖先系統はパプア人の参照とよりもホアビニアン関連狩猟採集民の方と強い類似性を示しており、オンゲ関連祖先系統が普遍的な創始者構成要素ではなく、MSEA固有の深いアジア系統にたどれる可能性を示唆しています。

　本論文のデータから、インドネシア西部は3300年前頃までにオーストロネシア人の拡大地帯へとすでに組み込まれており、それは稲作や赤色研磨土器や海上交流網の考古学的証拠によって裏づけられる、と示されます。さらに、台湾の鉄器時代オーストロネシア人集団（漢本_IA）は、ワラセア西部の後期新石器時代人口集団の間よりも、現代の人口集団の間の浮動アレル（対立遺伝子）の有意により高い割合を示しており（図4B）、これはインドネシア西部の一部における追加の新石器時代後のオーストロネシア人関連の混合と一致します。ロヤン・メンダレ洞窟の2個体はオーストロネシア語族話者人口集団で一般的な片親性遺伝標識を有していますが、インドネシア東部の一部におけるY染色体系統は、たとえばYHg-M（P256）やYHg-C1b2a1aなどパプア人関連YHgの頻度増加を示しながらミトコンドリア系統はアジア東部由来（たとえば、mtHg-B4a1a1やmtHg-F3b）であることが多くなっています。この性別の非対称パターンは、オセアニア全域の男性に偏ったパプア人関連混合や母方居住や民族誌的観察と一致しますが［12、31］、根底にある社会的仮定（たとえば、母方居住）は依然として、追加の片親性遺伝標識および同位体データで検証されるべき解釈です。


●結論と将来の方向性

　インドネシア群島のゲノム構造は、深い時間分岐とより新しい人口統計学的過程の複雑な相互作用を反映しています。古代と現代両方の人口集団で明らかな一貫した東西の遺伝的区分は、非対称的な祖先系統の寄与に基盤があり、西部のホアビニアン関連系統と東部のパプア関連祖先系統です。オーストロネシア人の拡大は、ウォレス線を越えて、より深い既存の遺伝的区分の上に広範なアジア東部関連祖先系統を重ね合わせました。しかし、それがこの以前の祖先系統を完全に消し去ったわけではなく、新石器時代前の東西の構造は現在の人口集団において存続しています。

　インドネシア西部から得られた本論文の新たな古代ゲノムデータは、インドネシアの人口史のモデル検証において、時間的および地理的範囲を改善します。この結果は、刊行されている古代の時系列と組み合わせることで、混合した連続性と置換の全体像を裏づけており、それは、初期完新世祖先系統からの検出可能な寄与、オーストロネシア人およびMSEA関連の移動と関係するかなりの完新世の混合、インドネシア東部における地域的に異なるパプア人関連の遺伝子流動です。片親性遺伝標識のパターンと常染色体の混合勾配は、ワラセアの一部における性別の偏った過程として解釈されますが、これらの動態を堅牢に定量化するには、追加の標本抽出が必要になる、と強調されます。全体的に、ワラセアは長期の接触地帯として浮かび上がり、そこでは、地理が移動を制約したものの、アジアとオセアニアの関連系統間の繰り返しの相互作用を妨げたわけではありませんでした。これらの調査結果は、地球上の最も言語学的および文化的に多様な地域の一つの遺伝的形成の理解を深めます。

　今後、ISEAの複雑な定着を解明するには、とくに移行地域および標本抽出が不充分な地域と後期更新世化石からの、より詳細な規模でより時間的に解像度の高いゲノムデータセットが不可欠です。これらの調査結果には、地理と文化と生物学がどのように交差し、海洋アジア南東部におけるヒトの多様性の持続的パターンを形成するのか、という理解について、より広範な示唆があります。


●この研究の限界

　インドネシア西部の最古級の直接的な古代ゲノム証拠の提供にも関わらず、この研究はデータセットにおける時間的および地理的空白によって制約されています。古代ゲノムは、とくに新石器時代前のインドネシア西部とボルネオ島やスラウェシ島や小スンダ列島など標本が不充分な地域では、依然として乏しくなっています。前期完新世の分岐についての本論文の重要な推測は、MSEAのホアビニアンゲノムとダイリツとしての単一のトアレアンのゲノムの使用に依拠しており、それは、インドネシア西部の比較可能な初期ゲノムがまだ利用できないからで、これは第1段階の分岐の直接的な年代測定の能力を制約します。さらに、パネル組成と網羅率の偏りはqpAdm推定とモデル適合度に影響を及ぼすかもしれず、異なる妥当な代理選択は、定性的パターンが安定している場合でさえ、推定混合割合（ホアビニアン関連祖先系統の豊富な西部と、パプア関連祖先系統の豊富な東部）を変えるかもしれません。TreeMixの移住端は、固有の歴史的事象ではなく地理的特徴を表しており、移住の回数もしくは方向性の決定的証拠ではなく、仮説生成として解釈されるべきです。多様な生態学的および文化的背景にわたる高解像度のゲノム標本抽出が、島内の差異や移住経路や混合動態の理解を深めるのに重要となるでしょう。


参考文献：
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<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201408article_23.html">関連記事</a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　スマトラ島で発見された古代人のゲノムデータを報告した<a href="https://doi.org/10.1016/j.isci.2026.115974"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Xu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、スマトラ島北部で発見された3300年前頃と1700年前頃の人類遺骸のゲノムデータを報告し、既知のアジア南東部島嶼部の古代人19個体のゲノムデータとともに分析しました。その結果、現在のインドネシアの領域ではウォレス線を境として東西間で遺伝的差異があり、それは初期完新世にまでさかのぼる、と明らかになりました。新石器時代の後にも、オーストロネシア語族話者の拡大などによる、関連する遺伝的祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）の流入がありましたが、この東西間の遺伝的差異は消滅しなかったことも示されました。以下は本論文の要約図です。<br /><div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-ga1_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-ga1_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="365" class="up-image" title="要約図" /></a></div><br />　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、mtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）、YHg（Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、C（cytosine、シトシン）、T（thymine、チミン）、HO（Human Origins、ヒト起源）、AMH（anatomically modern human、解剖学的現代人、現生人類）、ESEA（East/Southeast Asian、アジア東部/南東部）、MSEA（Mainland Southeast Asia、アジア南東部本土）、ISEA（Islands Southeast Asia、アジア南東部島嶼部）です。<br /><br />　以下の時代区分の略称は、N（Neolithic、新石器時代）、LN（Late Neolithic、後期新石器時代）、BA（Bronze Age、青銅器時代）、IA（Iron Age、鉄器時代）です。本論文で取り上げられる主要な文化は、ホアビニアン（Hòabìnhian、ホアビン文化）、トアレアン（Toalean、トアレン文化）、サーフィン＝カラナイ（Sa Huynh-Kalanay）土器伝統です。<br /><br />　本論文で取り上げられるインドネシアの主要な遺跡は、ロヤン・メンダレ（Loyang Mendale）洞窟、プトリ・プケス（Putri Pukes）洞窟、パンカラン貝塚（Pangkalan Kitchen Midden）、スラウェシ島南部のマロス（Maros）のマラワ（Mallawa）地区のリアン・パニンゲ（Leang Panninge）鍾乳洞です。本論文で取り上げられるインドネシア以外の主要な遺跡は、北京の南西56kmに位置する周口店（Zhoukoudian）の田園洞窟（Tianyuan Cave）、台湾の漢本（Hanben）です。<br /><br /><br /><strong>●要約</strong><br /><br />　深海のウォレス線はインドネシアの東西を分離する大きな生物地理学的境界ですが、この遺伝的区分の起源はインドネシア西部の古代ゲノムデータが限られているため、依然として未解決です。この研究では、インドネシア西部の後期新石器時代2個体のゲノムデータが報告され、アジア南東部島嶼部の刊行されている古代人19個体（7000～200年前頃）のゲノムと統合されました。本論文の分析は東西の遺伝的構造の2段階の形成を示唆しており、前期更新世には東西の分岐があり、西方採食民関連祖先系統はホアビニアン関連集団と、東方採食民関連祖先系統はパプア関連集団とより近く、その後の新石器時代および新石器時代後の人口統計学的過程には、オーストロネシア人の拡大や追加のアジア南東部本土からワラセア西部への遺伝子流動や、ワラセア東部へのパプア関連逆移動があり、この以前の構造を強化し、再形成しました。したがって、本論文が提案する人口統計学的モデルでは、繰り返しの完新世の移住が既存の地域的差異に作用し、現在のインドネシア人口集団の遺伝的景観を生成しました。<br /><br /><br /><strong>●研究史</strong><br /><br />　インドネシア17000以上の島から構成されており、世界の最も遺伝的に多様で地理的に複雑な地域の一つです。アジア本土とオセアニアの間の海上の交差点に位置するインドネシアの群島は、ウォレス線によって分かれています。この深海の生物地理学的境界は、生物多様性と生態系とヒトの歴史における完全な違いを形成しています。最終氷期極大期には、スマトラ島とジャワ島とボルネオ島を含めてインドネシア西部は、アジア本土とつながった陸塊であるスンダ大陸棚の一部を形成していました。対照的に、インドネシア東部は深海によって依然として隔てられており、メラネシアや太平洋により近い類似性を有する、生態学的および人口統計学的特徴が保存されていました。<br /><br />　考古学的証拠から、AMHは南方沿岸経路でアジア南東部へ移動し、アジア南東部とサフルの両方に65000～50000年前頃の間に到来した、と示唆されています［2］。アジア全域のAMHの最初の拡散の間に、人口集団は少なくとも主要な3大系統へと急速に分化しました［4］。これらのうち、現在のオーストラロ・メラネシアと関連するオーストラレーシア系統と、古代ホアビニアン狩猟採集民と関連するESEA系統は、インドネシアの人口構造を大きく形成してきた古代の2系統から構成されています。両集団はこの地域の現在の人口集団と深く分岐していますが、古代DNA研究はその独特な関係を明らかにしてきました［5］。注目すべきことに、ラオス（7800年前頃）とマレーシア（4300年前頃）のホアビニアン関連個体群は、アンダマン諸島人とよりもパプア人関連集団との方が遺伝的類似性は少なくなっています［5］。しかし、スラウェシ島のトアレアン関連狩猟採集民（7300年前頃）はオーストラレーシア人系統と最も多くの遺伝的浮動および形態学的類似性を共有しており［6］、すでに初期完新世に存在していた、東西の人口集団の分岐が示唆されます。<br /><br />　考古学的証拠は、この東西の区分を裏づけています。ホアビニアン文化複合体はMSEAからインドネシア西部へと早くも12000年前頃には広がっており、8000年前頃には、スマトラ島北部のロヤン・メンダレ洞窟などの遺跡で特徴的なスマトラ式石器が見つかっています。対照的に、インドネシア東部ではホアビニアン物質文化がなく、代わりに、スラウェシ島のトアレアン技術複合体によって示される独特な技術文化伝統が保存されています［6］。これらの記録から、インドネシアの東西は生態学的に異なるだけではなく、完新世には人口統計学的および文化的にも異なっていた、と示唆されます。<br /><br />　この長期の分離はISEAの新石器化、とくに5000～4000年前頃に始まるオーストロネシア人の拡大によって変容しました［5、10、12、13］。この移動は中国南東部本土と台湾に起源があり、稲作農家や赤色研磨土器や航海技術をインドネシアの東西両方にもたらし、地域的な物質文化に深い痕跡を残しました。これと並行して、MSEAの新石器時代集団が同じ期間もしくはその少し後にインドネシア西部へと移動しました［13］。これらの人口移動は、既存の地理的障壁および文化的区分に重なり、インドネシアの現代人集団で観察される複雑な人口構造の形成に中心的役割を果たしてきた、と考えられています。<br /><br />　現在のゲノム研究は一貫して、ウォレス線と密接に一致する、インドネシア全域の顕著な東西の遺伝的勾配を報告してきました。現在の全人口集団はオーストロネシア関連祖先系統を有していますが、インドネシア西部人口集団（たとえば、ジャワ島やスマトラ島）がおもにアジア東部由来なのに対して、インドネシア西部人口集団（たとえば、ティモール島やモルッカ諸島やフローレス島）は顕著なパプア関連構成要素を有しています［21］。この違いは片親性遺伝標識（母系のミトコンドリアと父系のY染色体）にも反映されており、たとえばY染色体では西部のYHg-O2（M122）と東部のYHg-M（P256）、ミトコンドリアではでは両地域ともmtHg-B4a1aというように、インドネシア群島全域で性別の偏った混合が示唆されまする言語学的証拠はこのパターンをさらに反映しており、700以上の現存言語はオーストロネシア語族話者集団（全域で優勢）とインドネシア東部に局在するパプア諸語関連言語に区分されます。<br /><br />　最近の研究は、この人口統計学的全体像に新たな複雑さを追加してきました。ゲノム解析から、ワラセアで観察されるパプア関連祖先系統は少なくとも部分的には、3500年前頃に始まるニューギニアからの逆移住に起因するかもしれない、と示唆されています［26］。このオーストロネシア人の後のパプア人からの遺伝子流動は、インドネシア東部の人口史に双方向的な層を付け加えています。しかし、これらのパターンの解釈における大きな限界はインドネシア西部の古代DNAの少なさで、この研究の前に利用可能なのは、2点の低網羅率の古代ゲノムしかありませんでした［5］。結果として、インドネシアの東西の区分の根底にある時間的起源と機序は、依然として充分には解明されていません。そこで本論文は、新石器時代～最近のゲノムで検証できる問題に焦点を当て、それは、（1）インドネシアの東西の構造が3300年前頃までにすでに検出できるのかどうか、（2）オーストロネシア関連およびMSEA関連祖先系統が経時的にインドネシア西部にどのように寄与したのか、（3）パプア関連祖先系統がオーストロネシア人関連の拡散の間およびその後に、インドネシア東部でどのように変わったのか、ということです。<br /><br />　これら長年の問題に取り組むために、スマトラ島北部のロヤン・メンダレ洞窟で発掘された古代人2個体から、ゲノム規模捕獲データが生成されて分析されました。この2個体の年代はそれぞれ3347年前頃と1720年前頃で、インドネシア西部における重要な人口統計学的移行期にまたがっています。これらの新たなデータを、考古学的背景および現代人集団の比較分析とともに、ISEA全域の古代人19個体のゲノムと統合することによって、インドネシア群島全域のヒトの移住と混合と人口構造の時空間的動態再構築が目指されました。<br /><br />　ロヤン・メンダレ洞窟は、この調査に理想的な状況を提供します。この遺跡における層序化された文化堆積物は、ホアビニアンやオーストロネシア語族やMSEA新石器時代文化層と関連する、連続的な居住を捉えています。最古級の層（8430～5040年前頃）には、ホアビニアン遺跡に典型的な石器と軟体動物遺骸が含まれています。中期段階（4980～1740年前頃）はオーストロネシア様式の磨製手斧や装飾品や土器が含まれているのに対して、最上部の堆積物（2330年前頃以降）には、サーフィン＝カラナイ式土器や東西方向の埋葬が含まれており、文化的変容もしくは人口置換を反映しています。<br /><br />　この複数段階の遺跡考古学とゲノムと片親性遺伝標識の証拠の統合と、それをより広範な地域的枠組み内に位置づけることによって、インドネシアの独特な地理とヒトの居住の長い歴史が、アジア南東部における最も複雑な遺伝的景観の一つをどのように生み出したのか、解明が試みられます。本論文の調査結果は、インドネシアにおける東西の遺伝的勾配の起源と持続と再形成への知見を提供し、この勾配は単に深い時間的孤立のみではなく、何千年にもわたる移住と局所的連続性と社会文化的動態の繰り返しの波によっても形成されました。<br /><br /><br /><strong>●インドネシア西部の後期新石器時代のゲノム</strong><br /><br />　インドネシア西部の古代ゲノムデータにおける重要な空白に取り組むにあたって、ロヤン・メンダレ洞窟とプトリ・プケス洞窟とパンカラン貝塚の3ヶ所の考古学的遺跡から、4点の骨格標本が検査されました。これらのうち、LMCM1およびLMCM2と命名された2個体のみが、古代DNAの中程度の保存状態を示しました。この2点の標本はスマトラ島のロヤン・メンダレ洞窟から発掘され、直接的な放射性炭素年代測定で、それぞれ1720年前頃と3347年前頃と推定されました。この期間はこの地域における人口統計学的変容の重要な時期に相当し、広範な人口移動によって形成された可能性が高そうで、その影響はゲノム証拠によって追跡できます。<br /><br />　熱帯のアジア南東部では、常に高い湿度と気温のため、古代DNAの保存状態がきわめて悪いことを考えて［5、12］、ゲノム回収率を向上させるために、高度な分子手法が用いられました。具体的には、先行研究で報告されたように、100万ヶ所のゲノム規模SNPを対象に、溶液内濃縮実施要綱を用いて、1本鎖混合捕獲が複数回実行されました。この手法で、LMCM1とLMCM2についてそれぞれ、8点と4点の1本鎖混合捕獲が得られました。<br /><br />　古代起源であることの真正性を認証し、現代の汚染を最小限にするために、厳格な品質管理測定が実行されました。ライブラリは、以下の基準を満たせば保持され、それは、（1）特徴的な死後のDNA損傷の証拠（C→Tの置換頻度が0.06超）、（2）124万パネルうえで3万ヶ所以上の対象SNPの回収、（3）3通りの独立した手法を用いての、一貫した遺伝学的性別判定、（4）男性のmtDNAとX染色体の分析による汚染推定値が3.5%未満です。これらの閾値に基づいて、LMCM1では8点のライブラリのうち3点、LMCM2では4点のライブラリのうち2点が保持されました。<br /><br />　1万ヶ所超のSNPがあるものの、汚染の可能性があるライブラリについては、古代DNAを示唆する真正の損傷パターンが見られる断片のみを保持するために、追加の選別が適用されました。個体ごとにライブラリを統合した後で古代人2個体のゲノムが回収され、LMCM1は171570ヶ所のSNP、LMCM2は551065ヶ所のSNPが得られました。両個体のゲノムは、認証基準をすべて満たしました。<br /><br />　片親性遺伝標識分析は、この2個体の祖先の起源をさらに解明しました。LMCM1とLMCM2の両個体はYHg-O1a2を有しており、これはアジア南東部で広く分布しており、台湾の先住民集団で見られます。LMCM1はmtHg-Y2a1も有しており、これは同様にアジア南東部人口集団とオーストロネシア語族話者共同体において優勢です。しかし、LMCM2のmtHgは不充分なミトコンドリアゲノムの網羅率のため決定的ではなかったので、本論文では報告されません。<br /><br />　LMCM1とLMCM2との間の遺伝的関係を調べるために、PCAと外群f₃統計とqpWaveのモデル化が実行されました。すべての分析は一貫して、個体LMCM1とLMCM2の間の密接な遺伝的類似性を裏づけました。具体的には、この2個体はPCA空間では重なる位置を占めており（図1）、外群f₃分析では相互に最良の一致を示し、qpWaveの結果では遺伝的均質性を示しました。これらの一致する調査結果を踏まえて、LMCM1とLMCM2はその後の集団遺伝学的分析では単一の人口集団単位に分類され、本論文ではインドネシア_ロヤン_メンダレ_洞窟と呼ばれます。以下は本論文の図1です。<br /><div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr1_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr1_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="190" class="up-image" title="図1" /></a></div><br />　この新たに定義された人口集団は、以前には標本抽出されていなかった地域および期間の重要なゲノムデータを提供します。この人口集団は、インドネシア西部における人口統計学的移行の再構築にとって堅牢な基準点を定義し、ISEA前期における人口動態の地図化のより広範な試みに寄与します。<br /><br /><br /><strong>●インドネシアにおける東西の深い遺伝的区分が最近の遺伝子流動のみで説明できる可能性は低そうです</strong><br /><br />　顕著な東西の遺伝的区分はインドネシア群島を特徴づけており、これは現代人のゲノムと言語学のデータによって長く認識されてきたパターンです。しかし、この区分の時間的起源は古代DNAの限られた比較分析のため依然として未解明で、この構造が最近の遺伝子流動から生じたのか、それとも古代の人口集団においてすでに確立していたのか、という問題を提起します。<br /><br />　この問題に取り組むために、インドネシア古代人のゲノムのPCAが実行され、全体的な人口構造が調べられました（図1）。得られた三角形の分布は主要に地域的祖先系統と一致しており、オーストロアジア人とオーストロネシア人とパプア人です。主成分1（PC1）がパプア人をオーストロアジア語族およびオーストロネシア語族話者人口集団から分離した一方で、主成分2（PC2）はオーストロアジア人系統をオーストロネシア人系統から区別しました。驚くべきことに、PC1とPC2の両方が、古代インドネシア人口集団を地理的起源と一致する東西の異なる2クラスタ（まとまり）に分割しました。西部人口集団が左側（PC1）と上部（PC2）に向かってクラスタ化した（まとまった）のに対して、東部人口集団は反対のパターンを示しました。この観察された構造は形式的な統計的相関によって実証され、PC1は軽度と負に相関し、PC2は経度と正に相関しましたが、どちらの軸も緯度とは有意に相関しませんでした。まとめると、これらの結果は、古代インドネシア人口集団における南北の階層化なしでの堅牢な東西の分岐を示唆しました。しかし、この解釈が慎重に扱われねばならないのは、本論文で用いられた特定の標本一式とPCAパネルのみを反映していたからです。したがって、これらの調査結果は予備的な観察を表しており、詳細な人口史には定量的な祖先系統モデル化によるさらなる調査が必要でした。<br /><br />　古代DNA研究では多くの場合、古代の個体群は現代の参照人口集団に由来する主成分に投影されます。この参照パネルの組成は、パプア人やアジア東部人口集団など特定の集団が差異の主要な軸の原因となる場合はとくに、得られる座標空間に大きな影響を及ぼすかもしれません。この効果の影響を評価射るために、パネル組成の変化が推定される構造にどのように影響を及ぼしたのか、明示的に検証されました。具体的には、投影される標本としてインドネシア古代人個体群の同じ一式を維持しながら、パプア人集団なしでの代替的な参照パネルを用いてPCAが繰り返されました。顕著な東西の遺伝的分岐は、パプア人参照が含まれる場合に最も顕著だった、と観察され、インドネシアの東西の集団間のパプア祖先系統について、強い類似性の差異が反映されています。パプア人標本が除外されると、東西のクラスタ間の分離はかなり不明瞭になりました。これらの比較結果から、観察されたパターンはとくに参照組成に左右され、PCAのみでは決定的ではなく、記述的として解釈されねばならない、と確証されます。これは、f統計と混合モデル化を用いての形式的な検定を促します。<br /><br />　この調査結果を検証し、PCAの偏りの可能性を説明するために、f₃形式（X、Y；ムブティ人）の対での外群f₃統計の階層的クラスタ化（まとめること）が採用され、ここでのXとYは古代アジア南東部人口集団とオンゲ人とパプア人です。この分析から一貫した4クラスタが得られた、それは、（1）パプア人関連人口集団（クラスタ1）、（2）ホアビニアン関連狩猟採集民（クラスタ2）、（3）インドネシア東部古代人（クラスタ3）、インドネシア西部古代人（クラスタ4）です（図2A）。注目すべきことに、ホアビニアン関連集団とパプア人関連集団が一つの超クラスタ（クラスタ1_2）を形成した一方で、東西のインドネシア人は別のクラスタ（クラスタ3_4）を形成しました。これらのパターンから、インドネシアの東西の古代人はウォレス線全域とよりも各地域内の方で多くの遺伝的浮動を共有している、と示唆され、それは分化の少なくとも2層を示唆しており、ホアビニアン関連系統とパプア関連系統との間の深い分岐で、その後でインドネシアの追加の完新世の構造化が続きます（図2A）。以下は本論文の図2です。<br /><div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr2_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr2_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="506" class="up-image" title="図2" /></a></div><br />　この分析は現代のインドネシア人口集団に拡張されました。クラスタに基づくf₃式分析に含めると、現代人集団は新石器時代/新石器時代後の古代の西部もしくは東部の人口集団のどちらかとそれぞれクラスタ化し、古代と現在の人口構造間の連続性が示唆されます。これらの結果から、東西の遺伝的勾配は少なくとも初期完新世に確立され、その後の人口統計学的過程によって強化された可能性が高い、と示唆されます。したがって、最近の遺伝子流動のみでは、観察された構造を説明できません。<br /><br /><br /><strong>●基底部の分岐は新石器時代の遺伝的分化の基盤です</strong><br /><br />　この区分の祖先の起源を調べるために、PCAの軸が再評価され、PC1（パプア祖先系統）が経度と負に相関していたのに対して、PC2（オーストロアジア人/オーストロネシア人祖先系統）は正に相関していました。まとめると、これらの相関は東西の勾配と一致しており、インドネシア東部集団がパプア人関連集団祖先系統をより多く共有しているのに対して、インドネシア西部集団はMSEAとより密接に関係しています。さらに、これらの結果は古代のインドネシア人口集団における顕著な東西の遺伝的分化を浮き彫りにしています。しかし、このPCAにおける南北の階層化の欠如を注意深く解釈すべきなのは、それが本論文で用いられた特定の標本組成とSNPパネルのみを反映しているからです。2023年の研究［13］を含む先行研究は、この分析では捕獲されていない、インドネシア東部内の追加の南北の祖先系統の区別を論証しました。<br /><br />　f₃形式（MSEA/太平洋/オーストロネシア人、インドネシア古代人；ムブティ人）の外群f₃検定は、顕著な非対称性を明らかにしました。インドネシア西部の人々が、ホアビニアンおよび新石器時代人口集団を含めて、MSEA集団とより大きな遺伝的類似性を示したのに対して、インドネシア東部の人々は太平洋人口集団とのより強い類似性を示しました（図2B・C）。注目すべきことに、インドネシアの東西の両集団はオーストロネシア語族話者集団とかなりの水準の浮動を示しており、オーストロネシア人の拡大による均質化の影響が示唆されます。外群f₃値が広範囲にわたっていることは注目され（図2B）、パプア関連祖先系統を有するインドネシア東部個体群が0.30に近い割合を示すのに対して、ワラセア西部集団は参照集団ではずっと小さな違いを示します。このパターンから、ホアビニアン関連ゲノムが本論文のパネルでは最も深い西部の類似性の最適となる利用可能な代理であるものの、ワラセア西部の対応する兆候比較的微妙で、在来の新石器時代前の採食民からの連続性の直接的証拠ではなく、不完全な代理との弱い類似性として解釈されるべきである、と示唆されます。<br /><br />　より形式的に祖先系統をモデル化するために、qpAdmが適用されました。妥当なモデル一式全体で、すべてのインドネシア古代人集団は、オーストロネシア関連供給源が含められる場合のみ最適です。これらのモデルでは、西部集団が追加のホアビニアン関連構成要素を必要とするのに対して、東部集団はパプア人関連構成要素を必要とします（図3A）。これらの結果は、f₄形式（ムブティ人、インドネシアの東西の古代人；ホアビニアン、パプア人）のf₄統計によってさらに裏づけられ、東部人口集団については有意な正の値が、西部人口集団については負の値が示されます（図3B）。この研究で新たに配列決定された最も網羅率の高いインドネシア西部人のゲノムは統計的有意性に達しており、微妙な類似性の解明について、より網羅率の高いゲノムの重要性が強調されます。TreeMix分析は複数回の移住事象を推測しており、それには、いくつかのインドネシア東部地域への3回のパプア関連事象と、ホアビニアン関連事象のインドネシア西部への移住事象が含まれます。まとめると、これらの結果から、新石器時代/新石器時代後のインドネシアの人口構造は、単一の単純な置換事象ではなく、より深いホアビニアン関連およびパプア関連の分岐を含む混合によって形成されている、と示されます。以下は本論文の図3です。<br /><div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr3_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr3_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="548" class="up-image" title="図3" /></a></div><br /><br /><strong>●現代のインドネシア人口集団における初期完新世採食民の遺伝的遺産と後期新石器時代の置換と連続性</strong><br /><br />　初期完新世採食民と関連する祖先系統がその後の集団で検出できるのかどうか、調べるために、現在のデータセットで利用可能な2点の新石器時代の前のゲノム（スラウェシ島のトアレアン技術複合体のリアン・パニンゲと、MSEAのホアビニアン関連狩猟採集民）が含められました［5、6］。これらの個体は独特なクラスタを形成し、遺伝的には上述のクラスタに基づく外群f₃分析（図2A）で新石器時代およびその後の人口集団と遺伝的に遠く、不適正塩基対率は新石器時代前の採食民とその後の人口集団との間の大きな差異を浮き彫りにしています。インドネシア西部の新石器時代前のゲノムは利用できないので、その地域では遺伝的連続性を直接的には検証できません。代わりに、最適となる利用可能な代理でのqpAdmを用いると、その後のインドネシア西部集団のモデルではホアビニアンのゲノムと関連する構成要素を必要とする場合が多いのに対して、その後のインドネシア東部集団のモデルではパプア関連構成要素が必要になる、と分かりました（図3A）。これらの推定値は代理選択とモデル仮定に依存しているので、在来の新石器時代前の人口集団との決定的な連続性ではなく、深い地域的系統との検出可能な類似性の証拠として解釈されます。<br /><br />　これらのパターンと古代の分岐が現在までどのように存続しているのか、評価するために、外群f₃およびqpAdmモデルを用いて、現在の人口集団のゲノムが分析されました。新石器時代のインドネシアの東西の人口集団と一致して（図2C）、インドネシア西部の現代人もホアビニアンおよび新石器時代MSEA集団と有意により大きな浮動を示すのに対して、インドネシア東部集団は太平洋人口集団とより多くの浮動を共有しています（図4A）。インドネシア西部の現代人集団は、同地域の古代人集団よりもオーストロネシア関連の強い類似性を示しており、インドネシア西部地域における追加の新石器時代後のオーストロネシア関連の遺伝子流動と一致します（図4A・B）。以下は本論文の図4です。<br /><div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr4_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr4_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="372" class="up-image" title="図4" /></a></div><br />　qpAdm混合モデル化では、インドネシア西部人口集団は、ホアビニアン（4.9～7.8%）と新石器時代MSEA人口集団（ラオス_LN_BAによって表され、11.2へ62.3%）とオーストロネシア人祖先系統（31～92.2%）の2もしくは3方向混合として最適に説明される（図4C）、と示唆されました。しかし、インドネシア東部人口集団最大で4祖先系統構成要素を必要としており、それには、パプア人（10.9～58.4%）やオーストロネシア人（31～73.6%）や新石器時代MSEA（4.8～59.1%）やホアビニアン（3.6～11%）が含まれます（図4C）。全体的に、これらのモデルから、後期新石器時代とその後の完新世の移動（オーストロネシア人およびオーストロアジア人関連）がインドネシアの遺伝的差異を強く形成した一方で、それ以前の採食民と関連する祖先系統は多くの現代人集団においてより低水準で依然として検出可能である、と示唆されます。<br /><br />　地域的には、最西端人口集団が最高の割合のオーストロネシア祖先系統（平均85.1%）を示すのに対して、パプア関連祖先系統はウォレス線の西側には存在しません。対照的に、バリ島（地理的にウォレス線の西側ではあるものの、行政的には東インドネシアの一部）を除く東部人口集団）は、高い割合のパプア祖先系統を含んでいます（図4C）。バリ島集団は遺伝的にジャワ島集団と類似しており、インドネシア西部集団とのより強い類似性と一致します。いくつかの東端の人口集団は本論文のモデルではパプア関連祖先系統とオーストロネシア関連祖先系統がほぼ均衡しており、利用可能な時間横断区では少なくとも新石器時代以降、比較的安定した混合割合が示唆されます。<br /><br />　とくに注目すべきは、本論文のqpAdm分析で、前期完新世のトアレアン関連のリアン・パニンゲ個体（7300年前頃）の祖先系統［6］を、パプア関連供給源のみに由来するとモデル化するのに成功できなかったことです。この結果は以前の調査結果と一致して、そこでは、トアレアン個体はパプア人とクレード（単系統群）を形成するものの、パプア人と比較して、田園洞個体およびオンゲ人と関連する追加の深いアジア祖先系統構成要素も有している、と示されました。したがって、供給源としてトアレアン個体を用いての、新石器時代およびインドネシア現代人集団のモデル化は、選択基準に合致するモデルの生成に失敗することが多くありました。このパターンはパプア人の逆移住モデルを裏づけており、このモデルでは、トアレアン個体のゲノムはインドネシア東部のより広範な完新世祖先系統を表している、と仮定されています。<br /><br />　しかし、トアレアン狩猟採集民とパプア人が系統発生空間では密接に関連する位置を占めていることを考えると、ワラセアのパプア関連祖先系統は前期完新世までにすでに存在しており、その後の遺伝子流動は、この構成要素を開始したのではなく、増加させた可能性が高い、と推測されます。<br /><br /><br /><strong>●考察</strong><br /><br />　この研究では、ロヤン・メンダレ洞窟における、インドネシア西部のこれまでに最古級（3300年前頃と1700年前頃）の古代ゲノムを提示し、それがISEA全域の古代人および現代人のゲノムの広範なデータセットと統合されます。このデータは直接的に、3300年前頃までにインドネシア西部個体群は、MSEA関連系統との類似性を保持しながら、かなりのオーストロネシア関連祖先系統を既に有していた、と示します。利用可能な古代の時間横断区全体で、本論文の分析から、インドネシアの現在の東西の遺伝的区分は、ごく最近の遺伝子流動のみで生成されたのではなく、初期完新世の地域的分岐の遺産と、その後の完新世の混合過程の両方を反映している、と示唆されます。<br /><br />　本論文は、インドネシアの東西の遺伝的構造の起源について2段階モデルを提案します。第1段階（古代ゲノムデータと考古学的背景の比較によって示唆されます）では、西部のホアビニアン関連採食民と東部のパプア関連集団（トアレアン狩猟採集民によって表されます）との間で少なくとも前期完新世には深い分岐があり、これはウォレス線を挟んでの地理的孤立によって引き起こされた可能性が高そうです。第2段階（新石器時代から最近のゲノムによって直接的に裏づけられます）では、新石器時代のオーストロネシア人の拡大がインドネシア群島全域にアジア東部関連祖先系統をもたらしましたが、地域的な差異は除去されませんでした。代わりに、先住民構成要素の非対称的な保持、ワラセア西部への追加の新石器時代/金属器時代MSEA関連の遺伝子流動、ワラセア東部におけるパプア人関連の逆移住［26］が、古代人と現代人両方のゲノムで可視化される東西の人口構造を強化し、再編しました（図5）。この枠組みと一致して、新石器時代と現代両方のワラセア東部人口集団は高水準のパプア関連祖先系統を有しており（図3Aおよび図4C）、パプア人集団と同等の遺伝的類似性を示し（図4B）、オーストロネシア人関連の拡散の期間および/もしくは後における、ワラセア東部系統へのかなりのパプア人関連の遺伝子流動が示唆されます［26］。以下は本論文の図5です。<br /><div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr5_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S2589004226013490-gr5_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="156" class="up-image" title="図5" /></a></div><br />　しかし、本論文のモデルは学際的証拠の統合によって構築されており、一連の人口統計学的仮定の影響をうけやすい、と明確にする必要があります。本論文のモデルの第1段階については、考古学および古ゲノムデータにおもに依拠しました。ホアビン文化と関連する考古学的遺跡はMSEAからインドネシア西部へと1万年前頃に拡大しましたが、インドネシア東部には到達しませんでした。インドネシア西部のホアビニアン関連狩猟採集民のゲノムが現時点では欠如していることを踏まえて、本論文は代理としてMSEAの刊行されているホアビニアン個体のゲノムを用いて、インドネシア東部の最初期狩猟採集民と比較しました。その結果、狩猟採集民のこれら2集団は高度に分岐しており、異なる遺伝的クラスタ（図2A）と系統発生単系統群（図3C）を形成する、と示されました。具体的には、ホアビニアン関連個体群がアンダマン諸島人口集団とより密接な遺伝的類似性を示したのに対して、ワラセアの完新世半ばの狩猟採集民［26］はパプア人とのより密接な遺伝的類似性を示しました。さらに、パプア祖先系統を有するインドネシア東部の個体群が、最高のf₃値を示すのに対して、ワラセア西部の個体群はホアビニアン関連個体群集団と弱い類似性しか示さない、と分かりました（図2）。インドネシア東部人口集団における高度なパプア人関連の類似性と、インドネシア西部人口集団とホアビニアン関連集団との間の比較的低い類似性から、インドネシア西部の在来採食民祖先系統は地域的により異なっていたかもしれない、と示唆されます。したがって、MSEAのホアビニアン関連集団は、密接なもしくは決定的な供給源人口集団ではなく、現時点で最適となる利用可能な代理によって表されているかもしれません。インドネシア西部の新石器時代前のゲノムを得ることは、本論文で提案されたモデルの第1段階の直接的評価に不可欠です。このモデルの第2段階は、インドネシア群島全体の時系列のゲノムデータから得られました。しかし、重要な接触期における古代ゲノムの不足のため、直接的な移行過程は依然として未解明です。<br /><br />　重要な未解決問題は、とくにインドネシア東部における、初期の局所的な祖先系統の兆候に関してです。その後の新石器時代人口集団におけるパプア関連兆候が、一貫した前期完新世祖先系統を反映していたのか、あるいは異なるパプア人の逆移住によって生じたのか、依然として不明でした。本論文の分析から、ワラセアの完新世半ばの狩猟採集民は、qpAdmモデル化（図3Aおよび図4C）とTreeMix（図3C）によって示唆されるように、新石器時代およびその後のインドネシア東部人口集団で見られる遺伝的構成要素とさほど密接に関連していなかった、と示唆されました。それにも関わらず、トアレアン狩猟採集民とパプア人が系統発生空間で密接に関連する位置を占めていること（図3C）を考えて、ワラセアにおけるパプア関連祖先系統は前期完新世までにすでに存在していた可能性が高く、ニューギニアからの遺伝子流動はこの構成要素を始めたのではなく蓄積した、と本論文では提案されました。したがって、この段階の決定的な検証を提供するには、インドネシア東部のより広範でより古いゲノム標本抽出が必要です。<br /><br />　ゲノムの結果を新石器時代前の採食伝統の考古学的証拠（ホアビニアンとトアレアン技術複合体を含みます）と統合することによって、本論文の分析からは、初期完新世採食民と関連する祖先系統はその後の人口集団に寄与した、と示唆されます。同時に、本論文のf統計クラスタ化およびqpAdm比較では、新石器時代前の個体群は多くの3000年前頃以後の集団と深く分岐しています（図2Aおよび図3A）。まとめると、これらの観察は、新石器時代とその後の期間を通じての、両祖先系統の存続とかなりの人口統計学的変化想定を裏づけます。<br /><br />　本論文のqpAdmモデル化は新石器時代インドネシア西部人における異なる祖先系統構成要素を回収し、それは台湾_漢本_IA関連（43.3%）とラオス_ホアビニアン関連（29.1%）とラオス_LN_BA（27.6%）の供給源を含む三重混合です（図3A）。これらの割合はモデル依存で、選択された代理参照下の推定値として解釈されるべきですが、インドネシア西部における複数の本土関連と台湾関連の寄与を一貫して示唆していまするこの遺伝的特性はロヤン・メンダレ洞窟の考古学的記録を補完しており、その考古学的記録では、ホアビニアン採食民およびオーストロネシア人拡大およびMSEAの文化的影響と関連する連続的な居住が報告されています。層序化された文化的段階と異なる祖先系統構成要素との間の一致から、これらの物質文化伝統には、文化的伝播のみではなくヒトの移動と混合の出来事が伴っていた、と示唆されます。注目すべきことに、この遺伝的パターンはこの研究で新たに配列決定された標本に固有ではなく、インドネシア西部における西部からい以前に報告された低網羅率の2個体のゲノム［5］は同じ三重構造を示しており、インドネシア西部全域におけるより広範な人口と分化の共拡散の堅牢な証拠を提供しています。対照的に、いくつかの東端の人口集団はより単純なパプア関連とオーストロネシア関連の混合によく適合しており、この接触地帯近くの一部の人口集団（たとえば、フローレス島）は追加のMSEA関連兆候を示しています（図4C）。先行研究（たとえば、［13］）との不一致は、参照パネルや標本構成や124万とHOに基づくqpAdmの結果間の差異など統計的検出力の違いを反映している可能性が高そうです。全体的に、利用可能なモデルは新石器時代/金属器時代におけるウォレス線を越えた一部のMSEA関連祖先系統の、地域的に限られた東方への移動を示唆しています。<br /><br />　本論文の結果は、最近の研究［26］で提案されたパプア人の逆移住モデルとも一致しますが、補完的解釈も可能です。トアレアンおよびパプア人の参照は密接に関連する系統発生的位置を占めているので、その後のインドネシア東部集団におけるパプア関連祖先系統は、前期完新世までにすでに存在したパプア関連祖先系統の存続と、ニューギニアからの追加のその後の遺伝子流動の両方を反映しているかもしれません。本論文のデータは全てのパプア関連の流入の時期を独自に特定するわけではなく、インドネシア東部におけるより密な時間的標本抽出が、その後の波から連続性をより決定的に区別するのに必要でしょう。最後に、本論文のモデル化枠組みでは、オンゲ関連祖先系統はパプア人の参照とよりもホアビニアン関連狩猟採集民の方と強い類似性を示しており、オンゲ関連祖先系統が普遍的な創始者構成要素ではなく、MSEA固有の深いアジア系統にたどれる可能性を示唆しています。<br /><br />　本論文のデータから、インドネシア西部は3300年前頃までにオーストロネシア人の拡大地帯へとすでに組み込まれており、それは稲作や赤色研磨土器や海上交流網の考古学的証拠によって裏づけられる、と示されます。さらに、台湾の鉄器時代オーストロネシア人集団（漢本_IA）は、ワラセア西部の後期新石器時代人口集団の間よりも、現代の人口集団の間の浮動アレル（対立遺伝子）の有意により高い割合を示しており（図4B）、これはインドネシア西部の一部における追加の新石器時代後のオーストロネシア人関連の混合と一致します。ロヤン・メンダレ洞窟の2個体はオーストロネシア語族話者人口集団で一般的な片親性遺伝標識を有していますが、インドネシア東部の一部におけるY染色体系統は、たとえばYHg-M（P256）やYHg-C1b2a1aなどパプア人関連YHgの頻度増加を示しながらミトコンドリア系統はアジア東部由来（たとえば、mtHg-B4a1a1やmtHg-F3b）であることが多くなっています。この性別の非対称パターンは、オセアニア全域の男性に偏ったパプア人関連混合や母方居住や民族誌的観察と一致しますが［12、31］、根底にある社会的仮定（たとえば、母方居住）は依然として、追加の片親性遺伝標識および同位体データで検証されるべき解釈です。<br /><br /><br /><strong>●結論と将来の方向性</strong><br /><br />　インドネシア群島のゲノム構造は、深い時間分岐とより新しい人口統計学的過程の複雑な相互作用を反映しています。古代と現代両方の人口集団で明らかな一貫した東西の遺伝的区分は、非対称的な祖先系統の寄与に基盤があり、西部のホアビニアン関連系統と東部のパプア関連祖先系統です。オーストロネシア人の拡大は、ウォレス線を越えて、より深い既存の遺伝的区分の上に広範なアジア東部関連祖先系統を重ね合わせました。しかし、それがこの以前の祖先系統を完全に消し去ったわけではなく、新石器時代前の東西の構造は現在の人口集団において存続しています。<br /><br />　インドネシア西部から得られた本論文の新たな古代ゲノムデータは、インドネシアの人口史のモデル検証において、時間的および地理的範囲を改善します。この結果は、刊行されている古代の時系列と組み合わせることで、混合した連続性と置換の全体像を裏づけており、それは、初期完新世祖先系統からの検出可能な寄与、オーストロネシア人およびMSEA関連の移動と関係するかなりの完新世の混合、インドネシア東部における地域的に異なるパプア人関連の遺伝子流動です。片親性遺伝標識のパターンと常染色体の混合勾配は、ワラセアの一部における性別の偏った過程として解釈されますが、これらの動態を堅牢に定量化するには、追加の標本抽出が必要になる、と強調されます。全体的に、ワラセアは長期の接触地帯として浮かび上がり、そこでは、地理が移動を制約したものの、アジアとオセアニアの関連系統間の繰り返しの相互作用を妨げたわけではありませんでした。これらの調査結果は、地球上の最も言語学的および文化的に多様な地域の一つの遺伝的形成の理解を深めます。<br /><br />　今後、ISEAの複雑な定着を解明するには、とくに移行地域および標本抽出が不充分な地域と後期更新世化石からの、より詳細な規模でより時間的に解像度の高いゲノムデータセットが不可欠です。これらの調査結果には、地理と文化と生物学がどのように交差し、海洋アジア南東部におけるヒトの多様性の持続的パターンを形成するのか、という理解について、より広範な示唆があります。<br /><br /><br /><strong>●この研究の限界</strong><br /><br />　インドネシア西部の最古級の直接的な古代ゲノム証拠の提供にも関わらず、この研究はデータセットにおける時間的および地理的空白によって制約されています。古代ゲノムは、とくに新石器時代前のインドネシア西部とボルネオ島やスラウェシ島や小スンダ列島など標本が不充分な地域では、依然として乏しくなっています。前期完新世の分岐についての本論文の重要な推測は、MSEAのホアビニアンゲノムとダイリツとしての単一のトアレアンのゲノムの使用に依拠しており、それは、インドネシア西部の比較可能な初期ゲノムがまだ利用できないからで、これは第1段階の分岐の直接的な年代測定の能力を制約します。さらに、パネル組成と網羅率の偏りはqpAdm推定とモデル適合度に影響を及ぼすかもしれず、異なる妥当な代理選択は、定性的パターンが安定している場合でさえ、推定混合割合（ホアビニアン関連祖先系統の豊富な西部と、パプア関連祖先系統の豊富な東部）を変えるかもしれません。TreeMixの移住端は、固有の歴史的事象ではなく地理的特徴を表しており、移住の回数もしくは方向性の決定的証拠ではなく、仮説生成として解釈されるべきです。多様な生態学的および文化的背景にわたる高解像度のゲノム標本抽出が、島内の差異や移住経路や混合動態の理解を深めるのに重要となるでしょう。<br /><br /><br />参考文献：<br />Xu Y. et al.(2026): Reconstructing the west-east genetic division in Indonesia using ancient genomes. iScience, 29, 6, 115974.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.isci.2026.115974" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.isci.2026.115974</a><br /><br />［2］Westaway KE. et al.(2017): An early modern human presence in Sumatra 73,000–63,000 years ago. Nature, 548, 7667, 322–325.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature23452" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature23452</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201708article_12.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［4］Yang MA.(2022): A genetic history of migration, diversification, and admixture in Asia. Human Population Genetics and Genomics, 2, 1, 0001.<br /><a href="https://doi.org/10.47248/hpgg2202010001" target="_blank">https://doi.org/10.47248/hpgg2202010001</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202202article_11.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［5］McColl H. et al.(2018): The prehistoric peopling of Southeast Asia. Science, 361, 6397, 88–92.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aat3628" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aat3628</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201807article_11.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［6］Carlhoff S. et al.(2021): Genome of a middle Holocene hunter-gatherer from Wallacea. Nature, 596, 7873, 543–547.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-021-03823-6" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-021-03823-6</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202108article_29.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［10］Liu D. et al.(2023): The genomic diversity of Taiwanese Austronesian groups: Implications for the “Into- and Out-of-Taiwan” models. PNAS Nexus, 2, 5, pgad122.<br /><a href="https://doi.org/10.1093/pnasnexus/pgad122" target="_blank">https://doi.org/10.1093/pnasnexus/pgad122</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_5.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［12］Lipson M. et al.(2018): Ancient genomes document multiple waves of migration in Southeast Asian prehistory. Science, 361, 6397, 92–95.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aat3188" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aat3188</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201805article_29.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［13］Oliveira S. et al.(2022): Ancient genomes from the last three millennia support multiple human dispersals into Wallacea. Nature Ecology & Evolution, 6, 7, 1024–1034.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41559-022-01775-2" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41559-022-01775-2</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202206article_14.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［21］Lipson M. et al.(2014): Reconstructing Austronesian population history in Island Southeast Asia. Nature Communications, 5, 4689.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/ncomms5689" target="_blank">https://doi.org/10.1038/ncomms5689</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201408article_23.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［26］Purnomo GA. et al.(2024): The genetic origins and impacts of historical Papuan migrations into Wallacea. PNAS, 121, 52, e2412355121.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.2412355121" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.2412355121</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202501article_12.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［31］Nägele K. et al.(2025): The impact of human dispersals and local interactions on the genetic diversity of coastal Papua New Guinea over the past 2,500 years. Nature Ecology & Evolution, 9, 6, 908–923.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41559-025-02710-x" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41559-025-02710-x</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202506article_15.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><a name="more"></a>

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            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_13.html</link>
      <title>大河ドラマ『豊臣兄弟！』第27回「本能寺の変」</title>
      <pubDate>Mon, 13 Jul 2026 06:26:20 +0900</pubDate>
            <description>　今回は、本能寺の変が描かれました。前回、織田（津田）信澄が本能寺の変で重要な役割を担うのではないか、と示唆されましたが、今回は、信澄が幼少時より、母から父（織田信長の弟の織田信勝）の仇を討つよう言われていたことも明かされました。ただ、信澄は舅の明智光秀にともに信長を討つよう促したものの、光秀は、聞かなかったことにする、と言って断ります。足利義昭から光秀に贈られた信長を討て、との密書も、信澄が以前に見た義昭の花王を真似た偽書でした。光秀は義昭に斎藤利三を使者として派遣しますが..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　今回は、本能寺の変が描かれました。前回、織田（津田）信澄が本能寺の変で重要な役割を担うのではないか、と示唆されましたが、今回は、信澄が幼少時より、母から父（織田信長の弟の織田信勝）の仇を討つよう言われていたことも明かされました。ただ、信澄は舅の明智光秀にともに信長を討つよう促したものの、光秀は、聞かなかったことにする、と言って断ります。足利義昭から光秀に贈られた信長を討て、との密書も、信澄が以前に見た義昭の花王を真似た偽書でした。光秀は義昭に斎藤利三を使者として派遣しますが、義昭は信長討伐に同意しなかったようです。光秀は、信長からも義昭からも見放されて、自暴自棄になって決起したようにも見えます。義昭は都から追放後にまだ登場していませんが、今後再登場があるのでしょうか。

　信長は安土城で徳川家康を接待し、家康は料理に毒が入っていることに気づき、信長は光秀に実行犯を問い質し、光秀は信澄の名が浮かんだものの、そのことは言わず、信長から折檻を受けます。丹羽長秀の調べで、犯人は信澄から毒と金を渡されていたことが分かり、信澄を殺すよう長秀に命じますが、小一郎（長秀、羽柴秀長）が市の仲介で信長に謁見し、信長が毛利攻めのため備中に赴くことになり、その命は延期されたようです。本能寺の変の後に信澄が長秀に討たれたのは、本能寺の変後の混乱の中での出来事というよりは、信長の命令のためということになりそうです。信澄の信長への殺意が長秀にも明らかになったことは、なかなか工夫された構成になっていると思います。

　これまで大河ドラマでは何度も本能寺の変が描かれてきましたが、信澄陰謀論が描かれたのは初めてだと思いますし、おそらく俗説でも、信澄が信長に怨恨を抱き続け、結果的に本能寺の変へとつながった、と主張した人はほぼいないのでしょう。その意味では斬新な構成と言えるかもしれません。ただ、それならばもっと早くから信澄を出して、その人となりや心情を描いておくべきと思いますし、今回が初登場となる斎藤利三にしても、せいぜい3回の登場となりそうですが、重要な役割を担う人物が前振りもなくいきなり登場し、すぐに退場する本作の悪例の一つとなりそうです。

　本能寺の変のさいに小一郎が都にいた、との設定は本作の創作でしょうが、正直なところ、信長と小一郎のやり取りで、本作のもう一つの主題とも言える、「豊臣兄弟」と信長キョウダイの対比を、信長の退場直前に総括として描く、という意図は分かるにしても、必要だったのか、疑問に思います。本作の弱点として、上述の重要な役割を担う人物が前振りもなくいきなり登場してすぐに退場することと共に、「豊臣兄弟」、とくに主人公の小一郎が目立つ場面は強引で面白くないこともあります。今回も、小一郎と信長のやり取り自体はさほど面白くなく、キョウダイの対比との意図は分かるとしても、やや強引なところがあったように思います。小一郎がいないことで、本作では山崎の戦いまでがどう描かれるのか、本作では市にしか見えていなさそうな凡人の信長像を今後誰かが理解するのか、あるいは虚勢の信長像に藤吉郎（羽柴秀吉）が引きずられていくのか、といったところも、注目しています。<a></a>

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　今回は、本能寺の変が描かれました。前回、織田（津田）信澄が本能寺の変で重要な役割を担うのではないか、と示唆されましたが、今回は、信澄が幼少時より、母から父（織田信長の弟の織田信勝）の仇を討つよう言われていたことも明かされました。ただ、信澄は舅の明智光秀にともに信長を討つよう促したものの、光秀は、聞かなかったことにする、と言って断ります。足利義昭から光秀に贈られた信長を討て、との密書も、信澄が以前に見た義昭の花王を真似た偽書でした。光秀は義昭に斎藤利三を使者として派遣しますが、義昭は信長討伐に同意しなかったようです。光秀は、信長からも義昭からも見放されて、自暴自棄になって決起したようにも見えます。義昭は都から追放後にまだ登場していませんが、今後再登場があるのでしょうか。<br /><br />　信長は安土城で徳川家康を接待し、家康は料理に毒が入っていることに気づき、信長は光秀に実行犯を問い質し、光秀は信澄の名が浮かんだものの、そのことは言わず、信長から折檻を受けます。丹羽長秀の調べで、犯人は信澄から毒と金を渡されていたことが分かり、信澄を殺すよう長秀に命じますが、小一郎（長秀、羽柴秀長）が市の仲介で信長に謁見し、信長が毛利攻めのため備中に赴くことになり、その命は延期されたようです。本能寺の変の後に信澄が長秀に討たれたのは、本能寺の変後の混乱の中での出来事というよりは、信長の命令のためということになりそうです。信澄の信長への殺意が長秀にも明らかになったことは、なかなか工夫された構成になっていると思います。<br /><br />　これまで大河ドラマでは何度も本能寺の変が描かれてきましたが、信澄陰謀論が描かれたのは初めてだと思いますし、おそらく俗説でも、信澄が信長に怨恨を抱き続け、結果的に本能寺の変へとつながった、と主張した人はほぼいないのでしょう。その意味では斬新な構成と言えるかもしれません。ただ、それならばもっと早くから信澄を出して、その人となりや心情を描いておくべきと思いますし、今回が初登場となる斎藤利三にしても、せいぜい3回の登場となりそうですが、重要な役割を担う人物が前振りもなくいきなり登場し、すぐに退場する本作の悪例の一つとなりそうです。<br /><br />　本能寺の変のさいに小一郎が都にいた、との設定は本作の創作でしょうが、正直なところ、信長と小一郎のやり取りで、本作のもう一つの主題とも言える、「豊臣兄弟」と信長キョウダイの対比を、信長の退場直前に総括として描く、という意図は分かるにしても、必要だったのか、疑問に思います。本作の弱点として、上述の重要な役割を担う人物が前振りもなくいきなり登場してすぐに退場することと共に、「豊臣兄弟」、とくに主人公の小一郎が目立つ場面は強引で面白くないこともあります。今回も、小一郎と信長のやり取り自体はさほど面白くなく、キョウダイの対比との意図は分かるとしても、やや強引なところがあったように思います。小一郎がいないことで、本作では山崎の戦いまでがどう描かれるのか、本作では市にしか見えていなさそうな凡人の信長像を今後誰かが理解するのか、あるいは虚勢の信長像に藤吉郎（羽柴秀吉）が引きずられていくのか、といったところも、注目しています。<a name="more"></a>

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            <category>大河ドラマ</category>
      <author>雑記帳</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,sicambre/521123618</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_12.html</link>
      <title>ヨーロッパ西部のネアンデルタール人のゲノムデータ</title>
      <pubDate>Sun, 12 Jul 2026 07:21:16 +0900</pubDate>
            <description>　ヨーロッパ西部のネアンデルタール人（Homo neanderthalensis）のゲノムデータを報告した研究（Mesa et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。古代ゲノム研究の進展によって、ネアンデルタール人と現生人類（Homo sapiens）と種区分未定のホモ属であるデニソワ人（Denisovan）の複雑な遺伝的関係が明らかになってきました［10］。本論文は、フランスとベルギーの後期..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　ヨーロッパ西部のネアンデルタール人（Homo neanderthalensis）のゲノムデータを報告した<a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10625-1">研究</a>（Mesa et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。古代ゲノム研究の進展によって、ネアンデルタール人と現生人類（Homo sapiens）と種区分未定のホモ属であるデニソワ人（Denisovan）の複雑な遺伝的関係が明らかになってきました［10］。本論文は、フランスとベルギーの後期ネアンデルタール人（52000年前頃以降）の新たなゲノムデータを、片親性遺伝標識（母系のミトコンドリアと父系のY染色体）とともに報告し、その中には高品質なデータも含まれています。

　これらの個体のほとんどは遺伝的に、ヨーロッパの同年代の他のネアンデルタール人とよりも、相互と密接に関連している、と示されました。一方で、ヨーロッパの後期ネアンデルタール人は遺伝的に、アルタイ山脈の10万年以上前のネアンデルタール人と比較して、遺伝的に異なるクレード（単系統群）を形成することも明らかになっています［10］。ヨーロッパ後期ネアンデルタール人系統の中でも、フランス地中海地域で発見された後期ネアンデルタール人1個体は、初期に分岐した独特な系統を示しています［2］。本論文でも、ヨーロッパ北西部の一部の個体において、ネアンデルタール人系統の中でも初期に分岐した系統からの遺伝子流動が確認され、ヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人における遺伝的多様性が示されました。

　また、近親交配の遺伝的痕跡が、アルタイ山脈の初期ネアンデルタール人では確認された［8］のに対して、ヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人では見つかりませんでした。そのため、ヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人は、アルタイ山脈の初期ネアンデルタール人よりも大規模な集団で暮らしていたか、他集団との結びつきがより緊密だったのではないか、と推測されています。また、ヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人においては、遺伝的負荷が経時的に蓄積していたわけではないことも示され、ネアンデルタール人の絶滅の要因として挙げられている遺伝的劣化の進行との見解に異議が呈されています。

　本論文は、ヨーロッパの後期ネアンデルタール人と現生人類との関係を改めて示した点でも注目されます。すでに47000年前頃には、ヨーロッパ中央部に現生人類が拡散しており［30］、ヨーロッパにおいてネアンデルタール人と現生人類は5000年以上共存していた可能性が高そうです［7］。しかし、これまで、ヨーロッパの後期ネアンデルタール人には、近い過去における現生人類からの遺伝子流動の証拠が見つかっていませんでした［11］。この調査結果は本論文でも改めて裏づけられ、近い過去の交雑によって獲得した現生人類由来の祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）はヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人では見つかりませんでした。しかし一方で、ヨーロッパの4万年以上前の初期現生人類には、近い過去におけるネアンデルタール人からの遺伝子流動が確認されています［46］。この非対称性は、ネアンデルタール人と現生人類との力関係の優劣に起因する可能性も考えられますが（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_14.html">関連記事</a>）、今後の重要な研究課題の一つと言えるでしょう。

　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、mtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）、YHg（Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ）、SNP（Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型）、CI（confidence interval、信頼区間）、KIN（Kinship INference、親族関係の推測）、HPDI（highest probability density interval、最高確率密度区間）、PSMC（pairwise sequentially Markovian coalescent、対での逐次マルコフ合着）、IQR（interquartile range、四分位範囲）、HBD（homozygosity-by-descent、同型接合性）、cM（centimorgan、センチモルガン）、pN/pS（ratio of missense to synonymous variants、同義置換多様体に対するミスセンス多様体の比率）、GN1（Goyet Neanderthal 1、ゴイエ遺跡ネアンデルタール人1号）、GN2（Goyet Neanderthal 2、ゴイエ遺跡ネアンデルタール人2号）、D5（Denisova 5、デニソワ5号）です。

　本論文で取り上げられる主要な遺跡は、フランスのポワトゥ（Poitou）のレス・コテス（Les Cottés）とアルシ・スュル・キュール（Arcy-sur-Cure、略してAR）とサン・セザール（Saint-Césaire）とマンドラン洞窟（Grotte Mandrin）のネアンデルタール人個体トラン（Thorin）、ベルギーのトロウ・マグリット（Trou Magrite）とゴイエ（Goyet）の第三洞窟（Troisième caverne）とスピ（Spy）洞窟とフォンヅ・デ・フォレット（Fonds-de-Forêt）とスクラディナ洞窟（Scladina Cave）とワロウ（Walou）遺跡とクーヴァン（Couvin）とエンギス（Engis）、ジブラルタルのフォーブス採石場（Forbes Quarry）、クロアチアのヴィンディヤ（Vindija）洞窟、ポーランドのスタイニヤ洞窟（Stajnia Cave）、ルーマニアの骨の洞窟（Peştera cu Oase、略してPO）、ブルガリアのバチョキロ洞窟（Bacho Kiro Cave）、コーカサス北部のメズマイスカヤ（Mezmaiskaya）洞窟、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟（Denisova Cave、略してD）とチャギルスカヤ洞窟（Chagyrskaya Cave）とオクラドニコフ（Okladnikov）洞窟です。


●要約

　考古学と骨学と遺伝学の証拠から、ネアンデルタール人は小集団で暮らしていた、と示唆されていますが［1、2］、これらの集団が孤立した共同体の一部だったのか、それともより大規模で密接に結びついた人口集団に属していたのかどうかについて、よく分かっていません［3］。本研究では、ベルギーとフランスの10ヶ所の考古学的遺跡の52000年前頃以降に生存していたネアンデルタール人27個体から、遺伝的データが生成され、それには、ベルギーのゴイエの45000年前頃の1個体からの高網羅率のゲノムが含まれます。これらの個体のほとんどは、ヨーロッパの他の同年代の後期ネアンデルタール人とよりも相互とより密接に関連している、と示されます。さらに、これらの個体の一部は、後期ネアンデルタール人の分岐に先行するネアンデルタール人1系統に由来するDNAを有しています。これらのネアンデルタール人は47000年前頃以降にはヨーロッパ北西部で初期現生人類と時間的に重複していましたが、現生人類からの近い過去の遺伝子流動の証拠が見つかりません。これらのネアンデルタール人はアルタイ山脈のネアンデルタール人で見られた近親者間の配偶の遺伝的痕跡も示しておらず、これらのネアンデルタール人はより大規模がより結びついている集団で暮らしていた、と示唆されます。さらに、遺伝的負荷が経時的に蓄積していたわけではなく、ネアンデルタール人の絶滅の要因として挙げられている遺伝的劣化の進行との見解に異議を呈しています。


●研究史

　ネアンデルタール人はヨーロッパとアジア西部において少なくとも43万年前頃から［5、6］4万年前頃まで［7］生存していました（43万～4万年前頃）。ネアンデルタール人4個体の高品質な核ゲノム［3、8～10］は、ネアンデルタール人の多様性および人口史や、初期現生人類との相互作用に多くの知見を提供しました。クロアチアのより新しいネアンデルタール人ヴィンディヤ33.19（45000年前頃）は、12万年前頃となるデニソワ洞窟（12万年前頃のアルタイ山脈ネアンデルタール人とも呼ばれるデニソワ5号もしくはD5［8］と、11万年前頃となるデニソワ17号もしくはD17［10］）およびチャギルスカヤ洞窟（6万年前頃のチャギルスカヤ8号［9］）のより古いネアンデルタール人よりも高い遺伝的多様性と近親交配の乏しい証拠を示しており、これらのネアンデルタール人は既知のネアンデルタール人の範囲の最東端部で暮らしていました。後期ネアンデルタール人4個体からのさらなる低網羅率の核ゲノムは、メズマイスカヤ（ロシアのコーカサス）やレス・コテス（フランスのポワトゥ）など、地理的に遠い地域個体間の密接な遺伝的類似性を示しており、後期ネアンデルタール人の間の長距離の接続の可能性が示唆されています［11］。

　更新世遺骸は希少で、一般的にDNAの保存状態は悪いものの、微小標本抽出［11］を含めて最近の方法論的進歩によって、汚染除去や抽出やライブラリ調整や濃縮手法が改善され、これによって劣化したDNAの回収率が向上し、多数のネアンデルタール人遺骸の研究が可能となりました。チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人11個体の低網羅率のゲノムによって、密接な親族関係と低い遺伝的多様性のパターンが明らかになりました。しかし、これらの観察はネアンデルタール人の分布範囲の東端の単一集団に基づいているので、そうした調査結果がネアンデルタール人の多様性および人口構造を一般的にどの程度表しているのかは、依然として未解決です。


●新しい詳細なデータセット

　ベルギーのマース川流域は、ほぼ同年代の後期ネアンデルタール人の研究に類例のない機会を提供しており、それは、中部旧石器時代遺跡が高度に密集しているからです（図1）。これらの遺跡のほとんどは19世紀に発掘されており、石器群との確実な関連づけが困難で、信頼できる状況把握がより困難になっています。動物遺骸収集品の再分析を含めて最近の試みによって、さらなるネアンデルタール人遺骸が特定され［21］、14点の新たなネアンデルタール人のミトコンドリアゲノム（ゴイエの第三洞窟、スピ、フォンヅ・デ・フォレット、スクラディナ、トロウ・マグリット）［4、11、21、23、24］や、スクラディナ（I4-A）［23］とスピ（94a）とゴイエ（Q56-1）［11］の3点のネアンデルタール人の低網羅率の核ゲノムが得られ、これらから、スピ94aおよびゴイエQ56-1個体は、これまでに配列決定されたどの他の後期ネアンデルタール人とよりも、相互と多くの派生的アレル（対立遺伝子）を有意に多く共有していた、と示されました［11］。その内訳は、以下は本論文の図1です。
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　しかし、この地域におけるネアンデルタール人の人口構造の重要な側面は、依然として調べられていません。形態に基づく分析では、スピの80点のネアンデルタール人遺骸とゴイエの101点のネアンデルタール人遺骸は、それぞれ少なくとも3個体と6個体に属している、と推定されているものの、正確な数は依然として不明です。その遺伝的類似性にも関わらず、スピとゴイエのネアンデルタール人の埋葬慣行は大きく異なっています。スピでは、骨の間の解剖学的つながりが意図的な埋葬を示唆していますが、この解釈には疑問が呈されてきました。対照的に、ゴイエのネアンデルタール人遺骸は高度に断片化しており、その人為的改変は個体が食人の対象となったことを示唆しています［21］。対照的な移動パターン（硫黄同位体値は、スピにおける地元での採食と、ゴイエにおける地元外起源を示唆しています）の証拠［28］と合わせると、これはヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人における多様性が、遺伝的データから現時点で明らかになっていることよりも大きいことを示しています。

　マース川流域とその周辺地域の遺跡の多くから、45000年前頃もしくはそれ以降の年代のネアンデルタール人遺骸が得られており、これは現生人類がすでにヨーロッパ中央部にいた時代です［29、30］。しかし、ベルギーの複数の考古学的遺跡で回収された骨角器の放射性炭素年代から、この地域において現生人類とネアンデルタール人との間の重複はなかった、と示唆されています［31］。ネアンデルタール人と現生人類の両方からの遺伝的データの取得はこの問題の解決に役立つことができ、それは、両者の間の近い過去の混合の直接的証拠が重複を確証するからです。


●個体の特徴づけと親族関係

　マース川流域の7ヶ所の遺跡（ゴイエ、スピ、クーヴァン、トロウ・マグリット、エンギス、ワロウ、フォンヅ・デ・フォレット）とフランスの2ヶ所の遺跡（サン・セザール、アルシ・スュル・キュール）の後期ネアンデルタール人34個体の骨格遺骸が、古代DNAの保存状態について検査されました（図1）。その放射性炭素年代【非較正】の範囲は52480～36150年前頃ですが、現代の炭素による汚染が最新の年代の一部を偏らせたかもしれません［21］。浅井ショットガン配列決定から、175点のDNAライブラリの大半における内在性DNAの割合は低く、ヒト参照ゲノムにマッピング（多少の違いを許容しつつ、ゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理）される配列の中央値は1%未満未満だった、と示唆されました。しかし、ゴイエQ56-1については、この割合が高く37%に達し、このネアンデルタール人のゲノムを平均網羅率22.4倍で配列決定でき、これまでに配列決定された5番目の高網羅率のネアンデルタール人ゲノムが得られました。

　保存状態がよくない標本からゲノム規模核データを生成するために、ネアンデルタール人とデニソワ人の差異について情報をもたらす、約230万ヶ所のSNPを対象とした、混合捕獲パネル（ArchaicPlus）が設計されました。このパネルを用いて、6ヶ所の考古学的遺跡で発見された19点の骨格遺骸からゲノム規模核データが回収されました。最初の品質管理は、ライブラリ水準で実行されました。0.4%（95%CIで0.3～0.6%）～90.3%（95%CIで85.5～95.2%）の高水準の現代人のDNA汚染のため、すべての下流分析は、古代DNAに特徴的なシトシンの脱アミノ化を示す配列に限定されました。これによって、3087～876377ヶ所を網羅するSNPが得られ、残存する現代人のDNA汚染推定値の範囲は0%（95%CIで0～0.1%）～20.7%（95%CIで6.9～44.4%）となります。

　常染色体とX染色体の相対的な配列網羅率の比較によって、6点のネアンデルタール人遺骸が遺伝的に男性と判断されました。それは、新生児のゴイエQ305-1およびトロウ・マグリット2422-36、6.5～12.5歳の子供であるゴイエ1424-3Dと未成熟個体の3点の要素、Y染色体が以前に配列決定された［1］スピ94a、3フォンヅ・デ・フォレット1号、スピ8号です。ゴイエQ119-2とゴイエC5-1の骨格遺骸は信頼できる性別判定のためのデータが不充分で、残りの12点の標本は遺伝学的に女性となり、ゴイエの少なくとも4個体の成人を表す10点の遺骸や、レス・コテスZ4-1514やアルシ・スュル・キュールAR-30が含まれます。

　次にKINを用いて、5%未満の汚染率の15点の骨格遺骸間の遺伝的近縁性が調べられました。ゴイエの9点の標本のうち、遺伝学的に同一の遺骸の2クラスタ（まとまり）が特定され、それはゴイエのQ56-1とQ374a-1とQ305-7で構成されるGN1と、ゴイエのQ57-1とQ57-2とQ57-3で構成されるGN2です（図1b）。本論文の分析では、以前には2点の異なる右側脛骨に修復されたゴイエQ305-7およびゴイエQ374a-1は遺伝的に同一だった、と示されました。その修復の再評価後に、ゴイエQ305-7は間違って修復されていた、と結論づけられました。ゴイエQ54-4断片から脛骨3の余分な標本が採取され、これは遺伝的にゴイエQ374a-1およびゴイエQ305-7と異なっていたので、GN1に属していなかった、と分かりました。代わりに、ゴイエQ54-4はGN2の遺骸一式と遺伝的に同一で形態学的に一致しており、高度に断片化した要素の修復に情報をもたらす、遺伝学的分析の可能性が論証されます。

　同様に、1点の右側大腿骨であるスピ8号の核データは、上顎第三大臼歯であるスピ94aから以前に配列決定されたDNAと同一だった、と分かりました。したがって、両者は同じ成人男性個体に割り当てることができます（図1b）。同じ個体に割り当てられたデータの頭語に進み、この時点以降は、これらの個体はGN1およびGN2およびスピ94a_8と呼ばれます。

　これらの一致を除くと、これらのネアンデルタール人の間で、KINの検出限界である最大3親等までの近縁性の近親者は見つかりませんでした。ゴイエでは、配列決定された個体は全員、親族関係にない成人もしくは思春期（12～13歳から17～18歳頃）の女性と学童期（6～7歳から12～13歳頃）の男性個体でした。この個体群が単一の共同体を表しているのかどうか不明なので［21］、本論文は集団構造もしくは文化についての推測を控えます。しかし、母親が分析された女性では見つからない新生児（ゴイエQ305-1）がいる事実は、目を引きます。ゴイエQ305-1の母親の遺骸がまだ標本抽出されていない可能性はありますが、ゴイエの個体が近親者だった証拠は見つからず、これは、密接な親族関係にある数個体が特定されたチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人とは著しく対照的です。


●片親性遺伝標識の分子年代測定

　mtDNAの濃縮および現代人のmtDNA汚染の選別後、エンギスとトロウ・マグリットを除く全遺跡の標本24点のミトコンドリアゲノムを、さまざまな程度の完全性（コーディング領域の4.35～100%）で再構築できました。次に、BEAST2を用いて、年代測定された個体水準の皇子系統発生が生成され、これに使われたネアンデルタール人のmtDNAゲノムは、11点の新規データ、1点の以前に刊行されたデータの更新データ、28点の以前に刊行されたデータです（図2）。新たに再構築されたmtDNAゲノムのほとんどは、ヨーロッパ南部および西部の後期ネアンデルタール人やロシアのメズマイスカヤ2号［34］から構成される大規模な単系統群内に収まる、と分かりました。その年代は41060年前（95%HPDIで47550～33100年前）と50510年前（95%HPDIで6706～30000年前）の間と推定され、その最新のミトコンドリアの分岐時期は745810年前（95%HPDIで89230～61650年前）です。以前に示されたように［11］、42000年前頃のレス・コテスZ4-1514は、ロシアのチャギルスカヤ洞窟およびオクラドニコフ洞窟の個体群を含めてより深いmtDNA単系統群の一部で、推定分岐時期は114080年前（95%HPDIで134670～94540年前）です。以下は本論文の図2です。
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　例外はクーヴァンのネアンデルタール人の（ベルギーのクーヴァンG6-0083）のmtDNAで、マンドラン洞窟（フランスのローヌ渓谷）のネアンデルタール人個体「トラン（マンドラン洞窟1600）」と同じ深く分岐したミトコンドリア系統［2］に位置します。相対的年代測定では、クーヴァンのネアンデルタール人は較正年代で49660～44170年前頃と推定され、これは同じ層から回収された数点の動物の骨の放射性炭素年代の組み合わせに基づいており、マンドラン洞窟のネアンデルタール人の直接的な年代測定の推定値は、較正年代で53000～48000年前頃です。両方の推定値は、放射性炭素年代測定の限界近くに位置します。クーヴァンとマンドラン洞窟のネアンデルタール人の年代の分子推定値は、分子年代測定に選択された事前情報に対してひじょうに敏感です。放射性炭素年代に制約されないモデルは、両個体が10万年以上前と推定しています。対照的に、どちらかの標本と関連する放射性炭素年代を年代測定モデルへと統合すると、年代推定値は、クーヴァンのネアンデルタール人では69050年前頃（95%HPDIで89680～50450年前）、マンドラン洞窟のネアンデルタール人では49140年前頃（95%HPDIで66430～30070年前）と変わり、つまり、関連する放射性炭素年代により近くなります。CIは広いものの、クーヴァンのネアンデルタール人については遺伝学的年代と放射性炭素年代との間で明らかな不一致があり、これはマンドラン洞窟での報告［2］と同様です。クーヴァンG6-0083の大臼歯の考古学的および層序学的背景を考慮すると、より古い堆積物の考古学的区画2における歯の嵌入の可能性は低いようです。これが提起する可能性は、おそらくはスタイニヤ洞窟とフォーブス採石場のネアンデルタール人を含む分岐した母系［36、37］がヨーロッパ西部に広がり、恐らくは他の後期ネアンデルタール人系統と共存したことです。

　次に、焦他に特定された男性3個体について、カスタムY染色体捕獲パネルで生成されたデータが分析されました。2897～13351ヶ所の間のY染色体SNPを用いて、3個体がネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類の高品質なY染色体を関連づける系統樹［1］に位置づけられ、これにはスピ94a_8が含まれます（図2b）。ほとんどの後期西方ネアンデルタール人が単一の単系統群の一部であるmtDNAとは対照的に、Y染色体は地理によってクラスタ化せず（まとまらず）、新たなY染色体はスピ94a_8で見られるY染色体ハプロタイプを共有していない、と分かりました。3フォンヅ・デ・フォレット1号とトロウ・マグリット2422-36のY染色体がチャギルスカヤ洞窟の利用可能なネアンデルタール人7個体と最も類似しているのに対して、ゴイエQ305-1のY染色体はメズマイスカヤ2号と最も類似しています。新たに配列決定されたY染色体は以前に配列決定されたネアンデルタール人のY染色体の差異内に収まり、118000年前頃（133000～102000年前頃）の分岐時期の単系統群を表しています。


●異型接合性と人口規模

　GN1ネアンデルタール人で得られた高網羅率の核ゲノムを用いて、GN1の常染色体のゲノム規模の異型接合性は1.51×10⁻⁴（染色体あたりの推定値は1.20×10⁻⁴～1.83×10⁻⁴）と推定され、これは既知のネアンデルタール人の差異範囲内に収まり、現代人で見られる値よりかなり低くなります。ゲノム上の異型接合性のパターンを用いて、PSMCを使い、GN1の人口史が推定されました。欠失データの補正後に、GN1の人口統計学的歴史はネアンデルタール人個体ヴィンディヤ33.19とひじょうに類似していた、と分かり、両者が共通の人口史を有していた、と裏づけられました。f(A | B)統計［8、9、11］を用いると、A=GN1とB=ヴィンディヤ33.19によって表される人口集団は54000年前頃に分岐し（95%CIで55000～53000年前頃）、と推定され、核ゲノム枝短縮推定値から、両者はおそらく同様の年代と示唆され、GN1は46030年前頃（IQRは63720～34130年前頃）、ヴィンディヤ33.19は47060年前頃（IQRは68150～35180年前頃）と推定されました（図3b）。したがって、放射性炭素年代測定と遺伝学的年代測定の両方が、ヴィンディヤ33.19とGN1をほぼ同年代と位置付けており、それはネアンデルタール人の消滅の数千年前となります。以下は本論文の図3です。
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　以前に刊行された高網羅率のネアンデルタール人のゲノム［3、8、9］はすべて、ほとんどの現代人より広範なHBDだった領域を有している、と示されました。アルタイ地域のD5とチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人は両方とも、後期西方ネアンデルタール人であるヴィンディヤ33.19よりも多くて長いHBD領域を有しています。GN1のHBD領域に含まれるゲノムの全体の割合は、使用された遺伝子型決定誤差媒介変数（π）に基づくと、6.6～22.3%の間と推定されます（図3a）。これらの値は、チャギルスカヤ8号およびD5のネアンデルタール人とよりも、ヴィンディヤ33.19のネアンデルタール人の方と近くなります。さらに、近親者間の近い過去の近親交配を示唆する多くの長いHBD断片（10cM超）を有するチャギルスカヤ8号およびD5とは異なり、GN1はそうした長い領域の過剰を示さず、近い過去の近親交配の証拠は提供されません。


●後期ネアンデルタール人の人口構造

　次に、高網羅率のショットガンデータと、ArchaicPlus混合捕獲を使って生成された低網羅率の核ゲノムデータを用いて、ベルギーとフランスのネアンデルタール人の他の後期ネアンデルタール人との関係が調べられました。高網羅率で配列決定された個体のうち、ネアンデルタール人個体GN1はクロアチアの同年代のヴィンディヤ33.19と最も密接に関連しており、両個体は生存していた時代から1万年前頃の共通祖先を有しています。D統計と外群f₃分析の両方を用いると、フォンヅ・デ・フォレットとスピとゴイエとトロウ・マグリットの充分な配列決定データのあるネアンデルタール人については、すべてヴィンディヤ33.19とよりもGN1の方と有意に類似している、と分かりました（図4a・b）。D統計でも、分析された後期ネアンデルタール人の全個体は、チャギルスカヤ8号もしくはD5のネアンデルタール人とよりも、ヴィンディヤ33.19の方と有意に多くのアレル（対立遺伝子）を共有している、と示されます（図4a）。以下は本論文の図4です。
<a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig4_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig4_HTML.png" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="296" /></a>
　低網羅率の各ネアンデルタール人のゲノムと高網羅率のヴィンディヤ33.19のゲノムとの間の人口集団の分岐時期は、経時的なネアンデルタール人の人口規模の推定変化［8。39］とともに、f(A | B)統計を用いて推定されました。本論文で研究対象のネアンデルタール人は、ネアンデルタール人個体ヴィンディヤ33.19との共通祖先から54000年前頃（95%CIで58000～51000年前頃）に分離した、と推定され、これはGN1の結果と一致します（図4c）。これは全体的に、これら後期ネアンデルタール人がヴィンディヤおよびメズマイスカヤの他の同年代のネアンデルタール人とよりも相互の方と密接に関連していたことを示唆しており、地理的地位と一致します（図4d）。

　アルシ・スュル・キュールのネアンデルタール人個体AR-30（42000年前頃）［40］はチャギルスカヤ8号とよりもヴィンディヤ33.19の方と遺伝的に近く、これは、AR-30が、ネアンデルタール人個体ヴィンディヤ33.19との共通祖先から131000年前頃（95%CIで195000～82000年前頃）に分岐した人口集団に属している、と示唆するf(A | B)に基づく推定値です。これは、ゴイエやフォンヅ・デ・フォレットやスピやゴイエとトロウ・マグリットのネアンデルタール人について推定された分岐よりずっと早くなります。分岐時期におけるこの違いは、AR-30がヴィンディヤ33.19とチャギルスカヤ8号の系統上の派生的多様体をより低い割合で共有していることによって引き起こされています。おそらくは動物の汚染に起因するAR-30における祖先的アレルの過剰は、分岐時期をさかのぼらせるかもしれません。しかし、メタゲノムパイプラインのquicksandを用いると、ヒト科以外の哺乳類の科に割り当てられる配列は見つからず、この兆候が動物の汚染に起因する可能性は低そうです。同様に、1.3%（95%CIで0.3～2.8%）と推定された現代人の汚染率は、この兆候を説明するには低すぎます。祖先的多様体の過剰は、ネアンデルタール人個体チャギルスカヤ8号およびD5の分岐間のある時点で分岐したネアンデルタール人系統から、AR-30へと遺伝子流動があったこととも一致するかもしれません。しかし、この仮説を検証するには、AR-30からのより多くのデータが必要でしょう。


●近い過去の現生人類祖先系統はありません

　この研究におけるネアンデルタール人の推定年代は、放射性炭素年代測定か分子年代測定のいずれかに基づいており、較正年代で49800～40000年前頃の間となります。これは、ヨーロッパにおける初期現生人類の存在［30、43］、ネアンデルタール人と現生人類との間の遺伝子流動の推定時期［30、44］、骨の洞窟（ルーマニア）［45］とバチョキロ洞窟（ブルガリア）［46］の両個体群における近い過去のネアンデルタール人祖先系統と重なっています。admixfrog第0.7.2版［47］を用いて、これら後期ネアンデルタール人のゲノムにおける近い過去の現生人類からの遺伝子移入について検証されました。これらのネアンデルタール人は初期現生人類との最初のあり得た相互作用の後の最大でも500世代以内に生存していたので、遺伝子移入がもし起きたならば、ネアンデルタール人のゲノムで1cM以上の複数の遺伝子移入した現生人類からの複数のDNA領域が予測されます。本論文は、ネアンデルタール人10個体のうち4個体で現生人類のDNAの可能性がある領域を特定しましたが、見つかった最長の領域はわずか0.41cMで、近い過去の遺伝子移入とは一致しません（図5a）。特定された推定される現生人類由来領域のすべてが短く、ネアンデルタール人と現生人類の間で固定された差異が欠けていたので、これらは現生人類からネアンデルタール人へのずっと古い遺伝子流動か、不完全な系統分類に関する以前の証拠［48］と一致します。以下は本論文の図5です。
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　今では5万年前頃以降に生存していたネアンデルタール人16個体の核データがありますが、近い過去の現生人類祖先系統を有するネアンデルタール人はまだ特定されていません。これは、ユーラシアの4万年以上前の13個体のゲノムすべてでネアンデルタール人祖先系統がある初期現生人類とは対照的で、そのうち4個体は、わずか4～10世代前にネアンデルタール人の祖先がいます［45、46］。以前に指摘された遺伝子流動のこの明らかな非対称性は、遺伝子移入の動態を反映しているかもしれず、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子流動は現生人類のユーラシアへの拡大の初期に起きて、その後の【出アフリカ】現生人類は全員、この混合人口集団の子孫です。対照的に、遺伝子移入の時点で、ネアンデルタール人はより後半に広がっており、遺伝子移入はおそらく局所的な集団にしか影響を及ぼしませんでした。代替案は、後期ネアンデルタール人における現生人類のDNAの欠如が、人口統計学的不均衡、配偶選択における偏り、ネアンデルタール人と現生人類の夫婦の子供がおもに現生人類集団に取り込まれたか、子供の適応度の違いを反映しているかもしれない、というものです。


●現生人類におけるネアンデルタール人祖先系統

　先行研究では、現在と古代両方の現生人類におけるネアンデルタール人祖先系統は、ネアンデルタール人個体でも、チャギルスカヤ8号およびD5とよりもヴィンディヤ33.19の方と密接に関連している、と示されてきました［3、9］。ゴイエの後期ネアンデルタール人1個体であるGN1の新たな高網羅率のゲノムを踏まえて、どの配列決定されたネアンデルタール人が、現生人類へと遺伝子移入したネアンデルタール人と最も密接に関連しているのか、二つの補完的な手法を用いて再調査されました。

　まず、admixfrogを用いて、古代人および現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人祖先系統断片が特定され、次に、ベイズ二項モデルが適用されて、遺伝的距離が推定され、最も近縁に一致するネアンデルタール人が特定されました。次に、D統計を用いて、遺伝子移入された多様体が濃縮されていると予測されるアレルの区分けに焦点が当てられました［9］。両方の分析では、アフリカ人を除く全個体におけるネアンデルタール人祖先系統は、チャギルスカヤ8号もしくはネアンデルタール人個体D5とよりも、ヴィンディヤ33.19およびGN1の方と有意に近い、と分かりました。ヴィンディヤ33.19とGN1は密接に関連するネアンデルタール人集団に由来するので、その比較はとくに困難です。現代人におけるネアンデルタール人祖先系統はGN1とよりもヴィンディヤ33.19の方と近い傾向にありますが、これは現代人全個体を統合した場合にのみ有意です（図5b）。これが示唆しているのは、ほとんどの混合はおそらく、現生人類と、ベルギーやフランスの後期ネアンデルタール人とよりもヴィンディヤ33.19の方と密接に関連するネアンデルタール人との間で起きたことです。対照的に、ごく近い過去にネアンデルタール人の祖先がいる更新世の現生人類4個体におけるネアンデルタール人祖先系統は、GN1とよりもヴィンディヤ33.19の方と有意に近いわけではありません（図5b）。したがって、初期現生人類は【ヴィンディヤ33.19とよりも】GN1の方と近いネアンデルタール人から一部の祖先系統を受けており、全体的に有意ではないD統計の結果が生じたかもしれません。


●ネアンデルタール人の絶滅

　本論文で研究対象のネアンデルタール人は、ネアンデルタール人の消滅直前に生きていた、ヨーロッパ北西部の最後の既知の個体の一部です［7］。現生人類と比較すると、ネアンデルタール人は有効人口規模がずっと小さく、浄化選択がより弱くなり、おそらくは適応度が減少しました［50、51］。遺伝的多様背亭の喪失はネアンデルタール人の絶滅の原因となったかもしれない、と示唆されてきました［8、24］。他の絶滅種もしくは絶滅危惧種において経時的に増加すると示されてきた、3点の遺伝的負荷指標が比較されました。コーディング多様体については、pN/pSが測定されるとともに、polyPhen2を用いて、より有害な多様体への変化が検証されました。さらに、2番目の保続得点であるphyloPが用いられ、これはコーディング多様体と非コーディング多様体の両方で定義されます。すべてのネアンデルタール人で、非同義多様体の枯渇が見つかりました（GN1ではpN/pS=0.76）。しかし、pN/pSもしくは2通りの保存得点のいずれでも、初期と後期のネアンデルタール人において比率に有意な違いはありません。同型接合領域での増加（図3）も、異型接合領域での減少も観察されなかったので、これらの結果は、経時的な遺伝的負荷の蓄積もしくは多様性減少がネアンデルタール人絶滅の主因だった、とのモデルと一致しません。


●まとめ

　高網羅率のネアンデルタール人のゲノム（GN1）の配列けった亭によって、絶滅直前のベルギーとフランスの後期ネアンデルタール人の遺伝的多様性を調べる、ための重要な基準点が確立されました。これに加えて、DNA保存状態の悪いネアンデルタール人遺骸一式からゲノム規模データを回収するために、高度に断片化した古代DNAに特化した実験的手法と計算的手法が組み合わされました。まとめると、これらのゲノムは後期ネアンデルタール人の遺伝的多様性の概要を提供し、低網羅率の核ゲノムでさえ、古人類学的文脈と統合すると、ネアンデルタール人集団内の多様性の解像度を大きく向上させることができる、と論証します。ゴイエの個体群はマース川流域の他のネアンデルタール人とともに独特な遺伝的まとまり（クラスタ）を形成しますが、その同位体値はこれらの個体がこの地域出身ではなかったことを示唆しています［28］。さらに、この化石群は、親族関係にない女性1個体と思春期（12～13歳から17～18歳頃）の2個体の食人の痕跡がある遺骸から構成されています。

　注目すべきことに、マース川流域の考古学的遺跡のネアンデルタール人の集団内および集団間で、低い遺伝的分化が見つかりました。GN1とヴィンディヤ33.19にチャギルスカヤ8号およびD5のネアンデルタール人に存在する長いHBD領域が欠けていることも考えると、これら西方ネアンデルタール人にはアルタイ地域のデニソワ洞窟およびチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人よりも高い遺伝的多様性と大きなつながりがある、と結論づけられ、近親者間の交配はすべてのネアンデルタール人集団に共通する特徴ではなかった、と示唆されます。異なる期間もしくはユーラシアの他地域からの将来の研究は、本論文で観察されたパターンが局所的例外なのか、あるいはネアンデルタール人の社会組織のより広範な特徴を表しているのか、判断するのに重要となるでしょう。アルシ・スュル・キュールの核データとクーヴァンのmtDNAゲノムはともに、後期ネアンデルタール人のより複雑な人口構造を示唆していますが、これを裏づけるにはより高品質のデータが必要となるでしょう。

　まとめると、遺伝的データはヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人集団間におけるかなりのつながりを示唆しており、距離による孤立のパターンと一致します。このつながりは、恒久的な生物地理学的交差点ではなく、おそらくは、中期および後期更新世における気候に起因する人口縮小および拡大のより広い枠組みにおいて、地域的な開放性の時として起きる期間の結果でした。最後に、ヨーロッパの後期ネアンデルタール人は初期現生人類と重複していたものの、分析されたネアンデルタール人のゲノムは近い過去の現生人類からの遺伝子移入の証拠を示さない、と分かりました。さらに、現代人のネアンデルタール人断片が、GN1とよりもヴィンディヤ33.19の方と近い関係であることから、現生人類とネアンデルタール人との間の遺伝子流動はおそらくヨーロッパ北西部外でおもに起きた、と示唆されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/15575">引用</a>です。


遺伝学：北西部に最後に生息したネアンデルタール人の遺伝的多様性

　北西ヨーロッパで最後に生き残ったネアンデルタール人の一部は、ほかのネアンデルタール人や初期の人類とは隔てられつつも、互いに密接につながった大規模な集団を形成して暮らしていた可能性があることを報告する論文が、Nature にオープンアクセスで掲載される。5万2500年前より新しい時期に生きた、少なくとも11人の異なる個体を含むこれらのネアンデルタール人は、遺伝的に多様であることが判明しており、遺伝的劣化が絶滅のおもな原因であったとする従来の見方に疑問を投げかけている。

　ネアンデルタール人の遺伝学的研究は、DNAの保存状態の悪さによって制約を受けている。そのため、ネアンデルタール人の社会的・遺伝的構造や、さらに約4万年前の絶滅要因については、依然として十分には解明されていない。

　Alba Bossoms Mesaら（マックス・プランク進化人類学研究所〔ドイツ〕）は、ベルギーのマース川流域（Meuse Basin；中旧石器時代の遺跡が特に豊富に存在する地域）の7か所と、フランスの2か所から出土した27体のネアンデルタール人の遺骸からDNAの配列を解析した。ベルギーのゴイエ洞窟（Goyet cave）から出土した4万5000年前のネアンデルタール人の標本は、これまでに解読された中で5例目となる高カバレッジ（高精度）のネアンデルタール人ゲノムを提供した。著者らは、また、保存状態がそれほど良くない19体の遺骸からも、ゲノム全体の核DNAデータを取得した。これらのデータから、多くの個体が近親関係にないことが判明し、彼らが大規模で密接につながった集団で生活していたことを示唆している。さらに、ほかのネアンデルタール人集団とは異なり、近親交配の証拠はほとんど見られず、遺伝的多様性の低下が絶滅のおもな原因ではなかったことを示唆している。

　遺伝学的分析によると、これらのネアンデルタール人は約5万4000年前にほかの既知のネアンデルタール人との共通祖先から分岐しており、ほかのネアンデルタール人集団よりも互いに近縁であったと報告されている。本研究の対象となったネアンデルタール人は、初期の現代人と最大500世代にわたり共存していたと考えられているが、著者らは現代人のゲノムによる遺伝子浸透（introgression）は確認できなかった。

　これらの発見は、絶滅直前の後期ネアンデルタール人の遺伝的多様性を理解するための基準点となるものである。これらのデータを総合すると、ネアンデルタール人の遺伝的多様性は従来考えられていたよりも高く、後期ネアンデルタール人がどのように生きたか、そしてどのように滅びたかに関する理解に新たな視点をもたらす。


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      <content:encoded><![CDATA[
　ヨーロッパ西部のネアンデルタール人（Homo neanderthalensis）のゲノムデータを報告した<a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10625-1"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Mesa et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。古代ゲノム研究の進展によって、ネアンデルタール人と現生人類（Homo sapiens）と種区分未定のホモ属であるデニソワ人（Denisovan）の複雑な遺伝的関係が明らかになってきました［10］。本論文は、フランスとベルギーの後期ネアンデルタール人（52000年前頃以降）の新たなゲノムデータを、片親性遺伝標識（母系のミトコンドリアと父系のY染色体）とともに報告し、その中には高品質なデータも含まれています。<br /><br />　これらの個体のほとんどは遺伝的に、ヨーロッパの同年代の他のネアンデルタール人とよりも、相互と密接に関連している、と示されました。一方で、ヨーロッパの後期ネアンデルタール人は遺伝的に、アルタイ山脈の10万年以上前のネアンデルタール人と比較して、遺伝的に異なるクレード（単系統群）を形成することも明らかになっています［10］。ヨーロッパ後期ネアンデルタール人系統の中でも、フランス地中海地域で発見された後期ネアンデルタール人1個体は、初期に分岐した独特な系統を示しています［2］。本論文でも、ヨーロッパ北西部の一部の個体において、ネアンデルタール人系統の中でも初期に分岐した系統からの遺伝子流動が確認され、ヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人における遺伝的多様性が示されました。<br /><br />　また、近親交配の遺伝的痕跡が、アルタイ山脈の初期ネアンデルタール人では確認された［8］のに対して、ヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人では見つかりませんでした。そのため、ヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人は、アルタイ山脈の初期ネアンデルタール人よりも大規模な集団で暮らしていたか、他集団との結びつきがより緊密だったのではないか、と推測されています。また、ヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人においては、遺伝的負荷が経時的に蓄積していたわけではないことも示され、ネアンデルタール人の絶滅の要因として挙げられている遺伝的劣化の進行との見解に異議が呈されています。<br /><br />　本論文は、ヨーロッパの後期ネアンデルタール人と現生人類との関係を改めて示した点でも注目されます。すでに47000年前頃には、ヨーロッパ中央部に現生人類が拡散しており［30］、ヨーロッパにおいてネアンデルタール人と現生人類は5000年以上共存していた可能性が高そうです［7］。しかし、これまで、ヨーロッパの後期ネアンデルタール人には、近い過去における現生人類からの遺伝子流動の証拠が見つかっていませんでした［11］。この調査結果は本論文でも改めて裏づけられ、近い過去の交雑によって獲得した現生人類由来の祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）はヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人では見つかりませんでした。しかし一方で、ヨーロッパの4万年以上前の初期現生人類には、近い過去におけるネアンデルタール人からの遺伝子流動が確認されています［46］。この非対称性は、ネアンデルタール人と現生人類との力関係の優劣に起因する可能性も考えられますが（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_14.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）、今後の重要な研究課題の一つと言えるでしょう。<br /><br />　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、mtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）、YHg（Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ）、SNP（Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型）、CI（confidence interval、信頼区間）、KIN（Kinship INference、親族関係の推測）、HPDI（highest probability density interval、最高確率密度区間）、PSMC（pairwise sequentially Markovian coalescent、対での逐次マルコフ合着）、IQR（interquartile range、四分位範囲）、HBD（homozygosity-by-descent、同型接合性）、cM（centimorgan、センチモルガン）、pN/pS（ratio of missense to synonymous variants、同義置換多様体に対するミスセンス多様体の比率）、GN1（Goyet Neanderthal 1、ゴイエ遺跡ネアンデルタール人1号）、GN2（Goyet Neanderthal 2、ゴイエ遺跡ネアンデルタール人2号）、D5（Denisova 5、デニソワ5号）です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な遺跡は、フランスのポワトゥ（Poitou）のレス・コテス（Les Cottés）とアルシ・スュル・キュール（Arcy-sur-Cure、略してAR）とサン・セザール（Saint-Césaire）とマンドラン洞窟（Grotte Mandrin）のネアンデルタール人個体トラン（Thorin）、ベルギーのトロウ・マグリット（Trou Magrite）とゴイエ（Goyet）の第三洞窟（Troisième caverne）とスピ（Spy）洞窟とフォンヅ・デ・フォレット（Fonds-de-Forêt）とスクラディナ洞窟（Scladina Cave）とワロウ（Walou）遺跡とクーヴァン（Couvin）とエンギス（Engis）、ジブラルタルのフォーブス採石場（Forbes Quarry）、クロアチアのヴィンディヤ（Vindija）洞窟、ポーランドのスタイニヤ洞窟（Stajnia Cave）、ルーマニアの骨の洞窟（Peştera cu Oase、略してPO）、ブルガリアのバチョキロ洞窟（Bacho Kiro Cave）、コーカサス北部のメズマイスカヤ（Mezmaiskaya）洞窟、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟（Denisova Cave、略してD）とチャギルスカヤ洞窟（Chagyrskaya Cave）とオクラドニコフ（Okladnikov）洞窟です。<br /><br /><br /><strong>●要約</strong><br /><br />　考古学と骨学と遺伝学の証拠から、ネアンデルタール人は小集団で暮らしていた、と示唆されていますが［1、2］、これらの集団が孤立した共同体の一部だったのか、それともより大規模で密接に結びついた人口集団に属していたのかどうかについて、よく分かっていません［3］。本研究では、ベルギーとフランスの10ヶ所の考古学的遺跡の52000年前頃以降に生存していたネアンデルタール人27個体から、遺伝的データが生成され、それには、ベルギーのゴイエの45000年前頃の1個体からの高網羅率のゲノムが含まれます。これらの個体のほとんどは、ヨーロッパの他の同年代の後期ネアンデルタール人とよりも相互とより密接に関連している、と示されます。さらに、これらの個体の一部は、後期ネアンデルタール人の分岐に先行するネアンデルタール人1系統に由来するDNAを有しています。これらのネアンデルタール人は47000年前頃以降にはヨーロッパ北西部で初期現生人類と時間的に重複していましたが、現生人類からの近い過去の遺伝子流動の証拠が見つかりません。これらのネアンデルタール人はアルタイ山脈のネアンデルタール人で見られた近親者間の配偶の遺伝的痕跡も示しておらず、これらのネアンデルタール人はより大規模がより結びついている集団で暮らしていた、と示唆されます。さらに、遺伝的負荷が経時的に蓄積していたわけではなく、ネアンデルタール人の絶滅の要因として挙げられている遺伝的劣化の進行との見解に異議を呈しています。<br /><br /><br /><strong>●研究史</strong><br /><br />　ネアンデルタール人はヨーロッパとアジア西部において少なくとも43万年前頃から［5、6］4万年前頃まで［7］生存していました（43万～4万年前頃）。ネアンデルタール人4個体の高品質な核ゲノム［3、8～10］は、ネアンデルタール人の多様性および人口史や、初期現生人類との相互作用に多くの知見を提供しました。クロアチアのより新しいネアンデルタール人ヴィンディヤ33.19（45000年前頃）は、12万年前頃となるデニソワ洞窟（12万年前頃のアルタイ山脈ネアンデルタール人とも呼ばれるデニソワ5号もしくはD5［8］と、11万年前頃となるデニソワ17号もしくはD17［10］）およびチャギルスカヤ洞窟（6万年前頃のチャギルスカヤ8号［9］）のより古いネアンデルタール人よりも高い遺伝的多様性と近親交配の乏しい証拠を示しており、これらのネアンデルタール人は既知のネアンデルタール人の範囲の最東端部で暮らしていました。後期ネアンデルタール人4個体からのさらなる低網羅率の核ゲノムは、メズマイスカヤ（ロシアのコーカサス）やレス・コテス（フランスのポワトゥ）など、地理的に遠い地域個体間の密接な遺伝的類似性を示しており、後期ネアンデルタール人の間の長距離の接続の可能性が示唆されています［11］。<br /><br />　更新世遺骸は希少で、一般的にDNAの保存状態は悪いものの、微小標本抽出［11］を含めて最近の方法論的進歩によって、汚染除去や抽出やライブラリ調整や濃縮手法が改善され、これによって劣化したDNAの回収率が向上し、多数のネアンデルタール人遺骸の研究が可能となりました。チャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人11個体の低網羅率のゲノムによって、密接な親族関係と低い遺伝的多様性のパターンが明らかになりました。しかし、これらの観察はネアンデルタール人の分布範囲の東端の単一集団に基づいているので、そうした調査結果がネアンデルタール人の多様性および人口構造を一般的にどの程度表しているのかは、依然として未解決です。<br /><br /><br /><strong>●新しい詳細なデータセット</strong><br /><br />　ベルギーのマース川流域は、ほぼ同年代の後期ネアンデルタール人の研究に類例のない機会を提供しており、それは、中部旧石器時代遺跡が高度に密集しているからです（図1）。これらの遺跡のほとんどは19世紀に発掘されており、石器群との確実な関連づけが困難で、信頼できる状況把握がより困難になっています。動物遺骸収集品の再分析を含めて最近の試みによって、さらなるネアンデルタール人遺骸が特定され［21］、14点の新たなネアンデルタール人のミトコンドリアゲノム（ゴイエの第三洞窟、スピ、フォンヅ・デ・フォレット、スクラディナ、トロウ・マグリット）［4、11、21、23、24］や、スクラディナ（I4-A）［23］とスピ（94a）とゴイエ（Q56-1）［11］の3点のネアンデルタール人の低網羅率の核ゲノムが得られ、これらから、スピ94aおよびゴイエQ56-1個体は、これまでに配列決定されたどの他の後期ネアンデルタール人とよりも、相互と多くの派生的アレル（対立遺伝子）を有意に多く共有していた、と示されました［11］。その内訳は、以下は本論文の図1です。<br /><div align="center"><a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig1_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig1_HTML.png" alt="画像" width="365" height="479" class="up-image" title="図1" /></a></div><br />　しかし、この地域におけるネアンデルタール人の人口構造の重要な側面は、依然として調べられていません。形態に基づく分析では、スピの80点のネアンデルタール人遺骸とゴイエの101点のネアンデルタール人遺骸は、それぞれ少なくとも3個体と6個体に属している、と推定されているものの、正確な数は依然として不明です。その遺伝的類似性にも関わらず、スピとゴイエのネアンデルタール人の埋葬慣行は大きく異なっています。スピでは、骨の間の解剖学的つながりが意図的な埋葬を示唆していますが、この解釈には疑問が呈されてきました。対照的に、ゴイエのネアンデルタール人遺骸は高度に断片化しており、その人為的改変は個体が食人の対象となったことを示唆しています［21］。対照的な移動パターン（硫黄同位体値は、スピにおける地元での採食と、ゴイエにおける地元外起源を示唆しています）の証拠［28］と合わせると、これはヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人における多様性が、遺伝的データから現時点で明らかになっていることよりも大きいことを示しています。<br /><br />　マース川流域とその周辺地域の遺跡の多くから、45000年前頃もしくはそれ以降の年代のネアンデルタール人遺骸が得られており、これは現生人類がすでにヨーロッパ中央部にいた時代です［29、30］。しかし、ベルギーの複数の考古学的遺跡で回収された骨角器の放射性炭素年代から、この地域において現生人類とネアンデルタール人との間の重複はなかった、と示唆されています［31］。ネアンデルタール人と現生人類の両方からの遺伝的データの取得はこの問題の解決に役立つことができ、それは、両者の間の近い過去の混合の直接的証拠が重複を確証するからです。<br /><br /><br /><strong>●個体の特徴づけと親族関係</strong><br /><br />　マース川流域の7ヶ所の遺跡（ゴイエ、スピ、クーヴァン、トロウ・マグリット、エンギス、ワロウ、フォンヅ・デ・フォレット）とフランスの2ヶ所の遺跡（サン・セザール、アルシ・スュル・キュール）の後期ネアンデルタール人34個体の骨格遺骸が、古代DNAの保存状態について検査されました（図1）。その放射性炭素年代【非較正】の範囲は52480～36150年前頃ですが、現代の炭素による汚染が最新の年代の一部を偏らせたかもしれません［21］。浅井ショットガン配列決定から、175点のDNAライブラリの大半における内在性DNAの割合は低く、ヒト参照ゲノムにマッピング（多少の違いを許容しつつ、ゲノム配列内の類似性が高い処理を同定する情報処理）される配列の中央値は1%未満未満だった、と示唆されました。しかし、ゴイエQ56-1については、この割合が高く37%に達し、このネアンデルタール人のゲノムを平均網羅率22.4倍で配列決定でき、これまでに配列決定された5番目の高網羅率のネアンデルタール人ゲノムが得られました。<br /><br />　保存状態がよくない標本からゲノム規模核データを生成するために、ネアンデルタール人とデニソワ人の差異について情報をもたらす、約230万ヶ所のSNPを対象とした、混合捕獲パネル（ArchaicPlus）が設計されました。このパネルを用いて、6ヶ所の考古学的遺跡で発見された19点の骨格遺骸からゲノム規模核データが回収されました。最初の品質管理は、ライブラリ水準で実行されました。0.4%（95%CIで0.3～0.6%）～90.3%（95%CIで85.5～95.2%）の高水準の現代人のDNA汚染のため、すべての下流分析は、古代DNAに特徴的なシトシンの脱アミノ化を示す配列に限定されました。これによって、3087～876377ヶ所を網羅するSNPが得られ、残存する現代人のDNA汚染推定値の範囲は0%（95%CIで0～0.1%）～20.7%（95%CIで6.9～44.4%）となります。<br /><br />　常染色体とX染色体の相対的な配列網羅率の比較によって、6点のネアンデルタール人遺骸が遺伝的に男性と判断されました。それは、新生児のゴイエQ305-1およびトロウ・マグリット2422-36、6.5～12.5歳の子供であるゴイエ1424-3Dと未成熟個体の3点の要素、Y染色体が以前に配列決定された［1］スピ94a、3フォンヅ・デ・フォレット1号、スピ8号です。ゴイエQ119-2とゴイエC5-1の骨格遺骸は信頼できる性別判定のためのデータが不充分で、残りの12点の標本は遺伝学的に女性となり、ゴイエの少なくとも4個体の成人を表す10点の遺骸や、レス・コテスZ4-1514やアルシ・スュル・キュールAR-30が含まれます。<br /><br />　次にKINを用いて、5%未満の汚染率の15点の骨格遺骸間の遺伝的近縁性が調べられました。ゴイエの9点の標本のうち、遺伝学的に同一の遺骸の2クラスタ（まとまり）が特定され、それはゴイエのQ56-1とQ374a-1とQ305-7で構成されるGN1と、ゴイエのQ57-1とQ57-2とQ57-3で構成されるGN2です（図1b）。本論文の分析では、以前には2点の異なる右側脛骨に修復されたゴイエQ305-7およびゴイエQ374a-1は遺伝的に同一だった、と示されました。その修復の再評価後に、ゴイエQ305-7は間違って修復されていた、と結論づけられました。ゴイエQ54-4断片から脛骨3の余分な標本が採取され、これは遺伝的にゴイエQ374a-1およびゴイエQ305-7と異なっていたので、GN1に属していなかった、と分かりました。代わりに、ゴイエQ54-4はGN2の遺骸一式と遺伝的に同一で形態学的に一致しており、高度に断片化した要素の修復に情報をもたらす、遺伝学的分析の可能性が論証されます。<br /><br />　同様に、1点の右側大腿骨であるスピ8号の核データは、上顎第三大臼歯であるスピ94aから以前に配列決定されたDNAと同一だった、と分かりました。したがって、両者は同じ成人男性個体に割り当てることができます（図1b）。同じ個体に割り当てられたデータの頭語に進み、この時点以降は、これらの個体はGN1およびGN2およびスピ94a_8と呼ばれます。<br /><br />　これらの一致を除くと、これらのネアンデルタール人の間で、KINの検出限界である最大3親等までの近縁性の近親者は見つかりませんでした。ゴイエでは、配列決定された個体は全員、親族関係にない成人もしくは思春期（12～13歳から17～18歳頃）の女性と学童期（6～7歳から12～13歳頃）の男性個体でした。この個体群が単一の共同体を表しているのかどうか不明なので［21］、本論文は集団構造もしくは文化についての推測を控えます。しかし、母親が分析された女性では見つからない新生児（ゴイエQ305-1）がいる事実は、目を引きます。ゴイエQ305-1の母親の遺骸がまだ標本抽出されていない可能性はありますが、ゴイエの個体が近親者だった証拠は見つからず、これは、密接な親族関係にある数個体が特定されたチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人とは著しく対照的です。<br /><br /><br /><strong>●片親性遺伝標識の分子年代測定</strong><br /><br />　mtDNAの濃縮および現代人のmtDNA汚染の選別後、エンギスとトロウ・マグリットを除く全遺跡の標本24点のミトコンドリアゲノムを、さまざまな程度の完全性（コーディング領域の4.35～100%）で再構築できました。次に、BEAST2を用いて、年代測定された個体水準の皇子系統発生が生成され、これに使われたネアンデルタール人のmtDNAゲノムは、11点の新規データ、1点の以前に刊行されたデータの更新データ、28点の以前に刊行されたデータです（図2）。新たに再構築されたmtDNAゲノムのほとんどは、ヨーロッパ南部および西部の後期ネアンデルタール人やロシアのメズマイスカヤ2号［34］から構成される大規模な単系統群内に収まる、と分かりました。その年代は41060年前（95%HPDIで47550～33100年前）と50510年前（95%HPDIで6706～30000年前）の間と推定され、その最新のミトコンドリアの分岐時期は745810年前（95%HPDIで89230～61650年前）です。以前に示されたように［11］、42000年前頃のレス・コテスZ4-1514は、ロシアのチャギルスカヤ洞窟およびオクラドニコフ洞窟の個体群を含めてより深いmtDNA単系統群の一部で、推定分岐時期は114080年前（95%HPDIで134670～94540年前）です。以下は本論文の図2です。<br /><div align="center"><a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig2_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig2_HTML.png" alt="画像" width="365" height="616" class="up-image" title="図2" /></a></div><br />　例外はクーヴァンのネアンデルタール人の（ベルギーのクーヴァンG6-0083）のmtDNAで、マンドラン洞窟（フランスのローヌ渓谷）のネアンデルタール人個体「トラン（マンドラン洞窟1600）」と同じ深く分岐したミトコンドリア系統［2］に位置します。相対的年代測定では、クーヴァンのネアンデルタール人は較正年代で49660～44170年前頃と推定され、これは同じ層から回収された数点の動物の骨の放射性炭素年代の組み合わせに基づいており、マンドラン洞窟のネアンデルタール人の直接的な年代測定の推定値は、較正年代で53000～48000年前頃です。両方の推定値は、放射性炭素年代測定の限界近くに位置します。クーヴァンとマンドラン洞窟のネアンデルタール人の年代の分子推定値は、分子年代測定に選択された事前情報に対してひじょうに敏感です。放射性炭素年代に制約されないモデルは、両個体が10万年以上前と推定しています。対照的に、どちらかの標本と関連する放射性炭素年代を年代測定モデルへと統合すると、年代推定値は、クーヴァンのネアンデルタール人では69050年前頃（95%HPDIで89680～50450年前）、マンドラン洞窟のネアンデルタール人では49140年前頃（95%HPDIで66430～30070年前）と変わり、つまり、関連する放射性炭素年代により近くなります。CIは広いものの、クーヴァンのネアンデルタール人については遺伝学的年代と放射性炭素年代との間で明らかな不一致があり、これはマンドラン洞窟での報告［2］と同様です。クーヴァンG6-0083の大臼歯の考古学的および層序学的背景を考慮すると、より古い堆積物の考古学的区画2における歯の嵌入の可能性は低いようです。これが提起する可能性は、おそらくはスタイニヤ洞窟とフォーブス採石場のネアンデルタール人を含む分岐した母系［36、37］がヨーロッパ西部に広がり、恐らくは他の後期ネアンデルタール人系統と共存したことです。<br /><br />　次に、焦他に特定された男性3個体について、カスタムY染色体捕獲パネルで生成されたデータが分析されました。2897～13351ヶ所の間のY染色体SNPを用いて、3個体がネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類の高品質なY染色体を関連づける系統樹［1］に位置づけられ、これにはスピ94a_8が含まれます（図2b）。ほとんどの後期西方ネアンデルタール人が単一の単系統群の一部であるmtDNAとは対照的に、Y染色体は地理によってクラスタ化せず（まとまらず）、新たなY染色体はスピ94a_8で見られるY染色体ハプロタイプを共有していない、と分かりました。3フォンヅ・デ・フォレット1号とトロウ・マグリット2422-36のY染色体がチャギルスカヤ洞窟の利用可能なネアンデルタール人7個体と最も類似しているのに対して、ゴイエQ305-1のY染色体はメズマイスカヤ2号と最も類似しています。新たに配列決定されたY染色体は以前に配列決定されたネアンデルタール人のY染色体の差異内に収まり、118000年前頃（133000～102000年前頃）の分岐時期の単系統群を表しています。<br /><br /><br /><strong>●異型接合性と人口規模</strong><br /><br />　GN1ネアンデルタール人で得られた高網羅率の核ゲノムを用いて、GN1の常染色体のゲノム規模の異型接合性は1.51×10⁻⁴（染色体あたりの推定値は1.20×10⁻⁴～1.83×10⁻⁴）と推定され、これは既知のネアンデルタール人の差異範囲内に収まり、現代人で見られる値よりかなり低くなります。ゲノム上の異型接合性のパターンを用いて、PSMCを使い、GN1の人口史が推定されました。欠失データの補正後に、GN1の人口統計学的歴史はネアンデルタール人個体ヴィンディヤ33.19とひじょうに類似していた、と分かり、両者が共通の人口史を有していた、と裏づけられました。f(A | B)統計［8、9、11］を用いると、A=GN1とB=ヴィンディヤ33.19によって表される人口集団は54000年前頃に分岐し（95%CIで55000～53000年前頃）、と推定され、核ゲノム枝短縮推定値から、両者はおそらく同様の年代と示唆され、GN1は46030年前頃（IQRは63720～34130年前頃）、ヴィンディヤ33.19は47060年前頃（IQRは68150～35180年前頃）と推定されました（図3b）。したがって、放射性炭素年代測定と遺伝学的年代測定の両方が、ヴィンディヤ33.19とGN1をほぼ同年代と位置付けており、それはネアンデルタール人の消滅の数千年前となります。以下は本論文の図3です。<br /><div align="center"><a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig3_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig3_HTML.png" alt="画像" width="365" height="434" class="up-image" title="図3" /></a></div><br />　以前に刊行された高網羅率のネアンデルタール人のゲノム［3、8、9］はすべて、ほとんどの現代人より広範なHBDだった領域を有している、と示されました。アルタイ地域のD5とチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人は両方とも、後期西方ネアンデルタール人であるヴィンディヤ33.19よりも多くて長いHBD領域を有しています。GN1のHBD領域に含まれるゲノムの全体の割合は、使用された遺伝子型決定誤差媒介変数（π）に基づくと、6.6～22.3%の間と推定されます（図3a）。これらの値は、チャギルスカヤ8号およびD5のネアンデルタール人とよりも、ヴィンディヤ33.19のネアンデルタール人の方と近くなります。さらに、近親者間の近い過去の近親交配を示唆する多くの長いHBD断片（10cM超）を有するチャギルスカヤ8号およびD5とは異なり、GN1はそうした長い領域の過剰を示さず、近い過去の近親交配の証拠は提供されません。<br /><br /><br /><strong>●後期ネアンデルタール人の人口構造</strong><br /><br />　次に、高網羅率のショットガンデータと、ArchaicPlus混合捕獲を使って生成された低網羅率の核ゲノムデータを用いて、ベルギーとフランスのネアンデルタール人の他の後期ネアンデルタール人との関係が調べられました。高網羅率で配列決定された個体のうち、ネアンデルタール人個体GN1はクロアチアの同年代のヴィンディヤ33.19と最も密接に関連しており、両個体は生存していた時代から1万年前頃の共通祖先を有しています。D統計と外群f₃分析の両方を用いると、フォンヅ・デ・フォレットとスピとゴイエとトロウ・マグリットの充分な配列決定データのあるネアンデルタール人については、すべてヴィンディヤ33.19とよりもGN1の方と有意に類似している、と分かりました（図4a・b）。D統計でも、分析された後期ネアンデルタール人の全個体は、チャギルスカヤ8号もしくはD5のネアンデルタール人とよりも、ヴィンディヤ33.19の方と有意に多くのアレル（対立遺伝子）を共有している、と示されます（図4a）。以下は本論文の図4です。<br /><div align="center"><a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig4_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig4_HTML.png" alt="画像" width="365" height="296" class="up-image" title="図4" /></a></div><br />　低網羅率の各ネアンデルタール人のゲノムと高網羅率のヴィンディヤ33.19のゲノムとの間の人口集団の分岐時期は、経時的なネアンデルタール人の人口規模の推定変化［8。39］とともに、f(A | B)統計を用いて推定されました。本論文で研究対象のネアンデルタール人は、ネアンデルタール人個体ヴィンディヤ33.19との共通祖先から54000年前頃（95%CIで58000～51000年前頃）に分離した、と推定され、これはGN1の結果と一致します（図4c）。これは全体的に、これら後期ネアンデルタール人がヴィンディヤおよびメズマイスカヤの他の同年代のネアンデルタール人とよりも相互の方と密接に関連していたことを示唆しており、地理的地位と一致します（図4d）。<br /><br />　アルシ・スュル・キュールのネアンデルタール人個体AR-30（42000年前頃）［40］はチャギルスカヤ8号とよりもヴィンディヤ33.19の方と遺伝的に近く、これは、AR-30が、ネアンデルタール人個体ヴィンディヤ33.19との共通祖先から131000年前頃（95%CIで195000～82000年前頃）に分岐した人口集団に属している、と示唆するf(A | B)に基づく推定値です。これは、ゴイエやフォンヅ・デ・フォレットやスピやゴイエとトロウ・マグリットのネアンデルタール人について推定された分岐よりずっと早くなります。分岐時期におけるこの違いは、AR-30がヴィンディヤ33.19とチャギルスカヤ8号の系統上の派生的多様体をより低い割合で共有していることによって引き起こされています。おそらくは動物の汚染に起因するAR-30における祖先的アレルの過剰は、分岐時期をさかのぼらせるかもしれません。しかし、メタゲノムパイプラインのquicksandを用いると、ヒト科以外の哺乳類の科に割り当てられる配列は見つからず、この兆候が動物の汚染に起因する可能性は低そうです。同様に、1.3%（95%CIで0.3～2.8%）と推定された現代人の汚染率は、この兆候を説明するには低すぎます。祖先的多様体の過剰は、ネアンデルタール人個体チャギルスカヤ8号およびD5の分岐間のある時点で分岐したネアンデルタール人系統から、AR-30へと遺伝子流動があったこととも一致するかもしれません。しかし、この仮説を検証するには、AR-30からのより多くのデータが必要でしょう。<br /><br /><br /><strong>●近い過去の現生人類祖先系統はありません</strong><br /><br />　この研究におけるネアンデルタール人の推定年代は、放射性炭素年代測定か分子年代測定のいずれかに基づいており、較正年代で49800～40000年前頃の間となります。これは、ヨーロッパにおける初期現生人類の存在［30、43］、ネアンデルタール人と現生人類との間の遺伝子流動の推定時期［30、44］、骨の洞窟（ルーマニア）［45］とバチョキロ洞窟（ブルガリア）［46］の両個体群における近い過去のネアンデルタール人祖先系統と重なっています。admixfrog第0.7.2版［47］を用いて、これら後期ネアンデルタール人のゲノムにおける近い過去の現生人類からの遺伝子移入について検証されました。これらのネアンデルタール人は初期現生人類との最初のあり得た相互作用の後の最大でも500世代以内に生存していたので、遺伝子移入がもし起きたならば、ネアンデルタール人のゲノムで1cM以上の複数の遺伝子移入した現生人類からの複数のDNA領域が予測されます。本論文は、ネアンデルタール人10個体のうち4個体で現生人類のDNAの可能性がある領域を特定しましたが、見つかった最長の領域はわずか0.41cMで、近い過去の遺伝子移入とは一致しません（図5a）。特定された推定される現生人類由来領域のすべてが短く、ネアンデルタール人と現生人類の間で固定された差異が欠けていたので、これらは現生人類からネアンデルタール人へのずっと古い遺伝子流動か、不完全な系統分類に関する以前の証拠［48］と一致します。以下は本論文の図5です。<br /><div align="center"><a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig5_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10625-1/MediaObjects/41586_2026_10625_Fig5_HTML.png" alt="画像" width="365" height="355" class="up-image" title="図5" /></a></div><br />　今では5万年前頃以降に生存していたネアンデルタール人16個体の核データがありますが、近い過去の現生人類祖先系統を有するネアンデルタール人はまだ特定されていません。これは、ユーラシアの4万年以上前の13個体のゲノムすべてでネアンデルタール人祖先系統がある初期現生人類とは対照的で、そのうち4個体は、わずか4～10世代前にネアンデルタール人の祖先がいます［45、46］。以前に指摘された遺伝子流動のこの明らかな非対称性は、遺伝子移入の動態を反映しているかもしれず、ネアンデルタール人から現生人類への遺伝子流動は現生人類のユーラシアへの拡大の初期に起きて、その後の【出アフリカ】現生人類は全員、この混合人口集団の子孫です。対照的に、遺伝子移入の時点で、ネアンデルタール人はより後半に広がっており、遺伝子移入はおそらく局所的な集団にしか影響を及ぼしませんでした。代替案は、後期ネアンデルタール人における現生人類のDNAの欠如が、人口統計学的不均衡、配偶選択における偏り、ネアンデルタール人と現生人類の夫婦の子供がおもに現生人類集団に取り込まれたか、子供の適応度の違いを反映しているかもしれない、というものです。<br /><br /><br /><strong>●現生人類におけるネアンデルタール人祖先系統</strong><br /><br />　先行研究では、現在と古代両方の現生人類におけるネアンデルタール人祖先系統は、ネアンデルタール人個体でも、チャギルスカヤ8号およびD5とよりもヴィンディヤ33.19の方と密接に関連している、と示されてきました［3、9］。ゴイエの後期ネアンデルタール人1個体であるGN1の新たな高網羅率のゲノムを踏まえて、どの配列決定されたネアンデルタール人が、現生人類へと遺伝子移入したネアンデルタール人と最も密接に関連しているのか、二つの補完的な手法を用いて再調査されました。<br /><br />　まず、admixfrogを用いて、古代人および現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人祖先系統断片が特定され、次に、ベイズ二項モデルが適用されて、遺伝的距離が推定され、最も近縁に一致するネアンデルタール人が特定されました。次に、D統計を用いて、遺伝子移入された多様体が濃縮されていると予測されるアレルの区分けに焦点が当てられました［9］。両方の分析では、アフリカ人を除く全個体におけるネアンデルタール人祖先系統は、チャギルスカヤ8号もしくはネアンデルタール人個体D5とよりも、ヴィンディヤ33.19およびGN1の方と有意に近い、と分かりました。ヴィンディヤ33.19とGN1は密接に関連するネアンデルタール人集団に由来するので、その比較はとくに困難です。現代人におけるネアンデルタール人祖先系統はGN1とよりもヴィンディヤ33.19の方と近い傾向にありますが、これは現代人全個体を統合した場合にのみ有意です（図5b）。これが示唆しているのは、ほとんどの混合はおそらく、現生人類と、ベルギーやフランスの後期ネアンデルタール人とよりもヴィンディヤ33.19の方と密接に関連するネアンデルタール人との間で起きたことです。対照的に、ごく近い過去にネアンデルタール人の祖先がいる更新世の現生人類4個体におけるネアンデルタール人祖先系統は、GN1とよりもヴィンディヤ33.19の方と有意に近いわけではありません（図5b）。したがって、初期現生人類は【ヴィンディヤ33.19とよりも】GN1の方と近いネアンデルタール人から一部の祖先系統を受けており、全体的に有意ではないD統計の結果が生じたかもしれません。<br /><br /><br /><strong>●ネアンデルタール人の絶滅</strong><br /><br />　本論文で研究対象のネアンデルタール人は、ネアンデルタール人の消滅直前に生きていた、ヨーロッパ北西部の最後の既知の個体の一部です［7］。現生人類と比較すると、ネアンデルタール人は有効人口規模がずっと小さく、浄化選択がより弱くなり、おそらくは適応度が減少しました［50、51］。遺伝的多様背亭の喪失はネアンデルタール人の絶滅の原因となったかもしれない、と示唆されてきました［8、24］。他の絶滅種もしくは絶滅危惧種において経時的に増加すると示されてきた、3点の遺伝的負荷指標が比較されました。コーディング多様体については、pN/pSが測定されるとともに、polyPhen2を用いて、より有害な多様体への変化が検証されました。さらに、2番目の保続得点であるphyloPが用いられ、これはコーディング多様体と非コーディング多様体の両方で定義されます。すべてのネアンデルタール人で、非同義多様体の枯渇が見つかりました（GN1ではpN/pS=0.76）。しかし、pN/pSもしくは2通りの保存得点のいずれでも、初期と後期のネアンデルタール人において比率に有意な違いはありません。同型接合領域での増加（図3）も、異型接合領域での減少も観察されなかったので、これらの結果は、経時的な遺伝的負荷の蓄積もしくは多様性減少がネアンデルタール人絶滅の主因だった、とのモデルと一致しません。<br /><br /><br /><strong>●まとめ</strong><br /><br />　高網羅率のネアンデルタール人のゲノム（GN1）の配列けった亭によって、絶滅直前のベルギーとフランスの後期ネアンデルタール人の遺伝的多様性を調べる、ための重要な基準点が確立されました。これに加えて、DNA保存状態の悪いネアンデルタール人遺骸一式からゲノム規模データを回収するために、高度に断片化した古代DNAに特化した実験的手法と計算的手法が組み合わされました。まとめると、これらのゲノムは後期ネアンデルタール人の遺伝的多様性の概要を提供し、低網羅率の核ゲノムでさえ、古人類学的文脈と統合すると、ネアンデルタール人集団内の多様性の解像度を大きく向上させることができる、と論証します。ゴイエの個体群はマース川流域の他のネアンデルタール人とともに独特な遺伝的まとまり（クラスタ）を形成しますが、その同位体値はこれらの個体がこの地域出身ではなかったことを示唆しています［28］。さらに、この化石群は、親族関係にない女性1個体と思春期（12～13歳から17～18歳頃）の2個体の食人の痕跡がある遺骸から構成されています。<br /><br />　注目すべきことに、マース川流域の考古学的遺跡のネアンデルタール人の集団内および集団間で、低い遺伝的分化が見つかりました。GN1とヴィンディヤ33.19にチャギルスカヤ8号およびD5のネアンデルタール人に存在する長いHBD領域が欠けていることも考えると、これら西方ネアンデルタール人にはアルタイ地域のデニソワ洞窟およびチャギルスカヤ洞窟のネアンデルタール人よりも高い遺伝的多様性と大きなつながりがある、と結論づけられ、近親者間の交配はすべてのネアンデルタール人集団に共通する特徴ではなかった、と示唆されます。異なる期間もしくはユーラシアの他地域からの将来の研究は、本論文で観察されたパターンが局所的例外なのか、あるいはネアンデルタール人の社会組織のより広範な特徴を表しているのか、判断するのに重要となるでしょう。アルシ・スュル・キュールの核データとクーヴァンのmtDNAゲノムはともに、後期ネアンデルタール人のより複雑な人口構造を示唆していますが、これを裏づけるにはより高品質のデータが必要となるでしょう。<br /><br />　まとめると、遺伝的データはヨーロッパ北西部の後期ネアンデルタール人集団間におけるかなりのつながりを示唆しており、距離による孤立のパターンと一致します。このつながりは、恒久的な生物地理学的交差点ではなく、おそらくは、中期および後期更新世における気候に起因する人口縮小および拡大のより広い枠組みにおいて、地域的な開放性の時として起きる期間の結果でした。最後に、ヨーロッパの後期ネアンデルタール人は初期現生人類と重複していたものの、分析されたネアンデルタール人のゲノムは近い過去の現生人類からの遺伝子移入の証拠を示さない、と分かりました。さらに、現代人のネアンデルタール人断片が、GN1とよりもヴィンディヤ33.19の方と近い関係であることから、現生人類とネアンデルタール人との間の遺伝子流動はおそらくヨーロッパ北西部外でおもに起きた、と示唆されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/15575"><span style=color:#e00>引用</span></a>です。<br /><br /><br /><span style=color:#00c>遺伝学：北西部に最後に生息したネアンデルタール人の遺伝的多様性<br /><br />　北西ヨーロッパで最後に生き残ったネアンデルタール人の一部は、ほかのネアンデルタール人や初期の人類とは隔てられつつも、互いに密接につながった大規模な集団を形成して暮らしていた可能性があることを報告する論文が、Nature にオープンアクセスで掲載される。5万2500年前より新しい時期に生きた、少なくとも11人の異なる個体を含むこれらのネアンデルタール人は、遺伝的に多様であることが判明しており、遺伝的劣化が絶滅のおもな原因であったとする従来の見方に疑問を投げかけている。<br /><br />　ネアンデルタール人の遺伝学的研究は、DNAの保存状態の悪さによって制約を受けている。そのため、ネアンデルタール人の社会的・遺伝的構造や、さらに約4万年前の絶滅要因については、依然として十分には解明されていない。<br /><br />　Alba Bossoms Mesaら（マックス・プランク進化人類学研究所〔ドイツ〕）は、ベルギーのマース川流域（Meuse Basin；中旧石器時代の遺跡が特に豊富に存在する地域）の7か所と、フランスの2か所から出土した27体のネアンデルタール人の遺骸からDNAの配列を解析した。ベルギーのゴイエ洞窟（Goyet cave）から出土した4万5000年前のネアンデルタール人の標本は、これまでに解読された中で5例目となる高カバレッジ（高精度）のネアンデルタール人ゲノムを提供した。著者らは、また、保存状態がそれほど良くない19体の遺骸からも、ゲノム全体の核DNAデータを取得した。これらのデータから、多くの個体が近親関係にないことが判明し、彼らが大規模で密接につながった集団で生活していたことを示唆している。さらに、ほかのネアンデルタール人集団とは異なり、近親交配の証拠はほとんど見られず、遺伝的多様性の低下が絶滅のおもな原因ではなかったことを示唆している。<br /><br />　遺伝学的分析によると、これらのネアンデルタール人は約5万4000年前にほかの既知のネアンデルタール人との共通祖先から分岐しており、ほかのネアンデルタール人集団よりも互いに近縁であったと報告されている。本研究の対象となったネアンデルタール人は、初期の現代人と最大500世代にわたり共存していたと考えられているが、著者らは現代人のゲノムによる遺伝子浸透（introgression）は確認できなかった。<br /><br />　これらの発見は、絶滅直前の後期ネアンデルタール人の遺伝的多様性を理解するための基準点となるものである。これらのデータを総合すると、ネアンデルタール人の遺伝的多様性は従来考えられていたよりも高く、後期ネアンデルタール人がどのように生きたか、そしてどのように滅びたかに関する理解に新たな視点をもたらす。</span><br /><br /><br />参考文献：<br />Mesa AB. et al.(2026): Genetic diversity of late Neanderthals in northwestern Europe. Nature, 655, 8122, 409–417.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10625-1" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-026-10625-1</a><br /><br />［1］Skov L. et al.(2022): Genetic insights into the social organization of Neanderthals. Nature, 610, 7932, 519–525.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-022-05283-y" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-022-05283-y</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202210article_23.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［2］Slimak L. et al.(2024): Long genetic and social isolation in Neanderthals before their extinction. Cell Genomics, 4, 9, 100593.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.xgen.2024.100593" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.xgen.2024.100593</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202409article_15.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［3］Prüfer K. et al.(2017): A high-coverage Neandertal genome from Vindija Cave in Croatia. Science, 358, 6363, 655–658.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aao1887" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aao1887</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201711article_16.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［5］Arsuaga JL. et al.(2014): Neandertal roots: Cranial and chronological evidence from Sima de los Huesos. Science, 344, 6190, 1358-1363.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.1253958" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.1253958</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201406article_23.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［6］Meyer M. et al.(2016): Nuclear DNA sequences from the Middle Pleistocene Sima de los Huesos hominins. Nature, 531, 7595, 504–507.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature17405" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature17405</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201603article_17.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［7］Higham T. et al.(2014): The timing and spatiotemporal patterning of Neanderthal disappearance. Nature, 512, 7514, 306–309.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature13621" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature13621</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201408article_24.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［8］Prüfer K. et al.(2014): The complete genome sequence of a Neanderthal from the Altai Mountains. Nature, 505, 7481, 43–49.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature12886" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature12886</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201312article_24.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［9］Mafessoni F. et al.(2020): A high-coverage Neandertal genome from Chagyrskaya Cave. PNAS, 117, 26, 15132–15136.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.2004944117" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.2004944117</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202005article_8.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［10］Massilani D. et al.(2026): A high-coverage Neandertal genome from the Altai Mountains reveals population structure among Neandertals. PNAS, 123, 13, e2534576123.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.2534576123" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.2534576123</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202603article_27.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［11］Hajdinjak M. et al.(2018): Reconstructing the genetic history of late Neanderthals. Nature, 555, 7698, 652–656.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature26151" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature26151</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201803article_33.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［21］Rougier H. et al.(2016): Neandertal cannibalism and Neandertal bones used as tools in Northern Europe. Scientific Reports, 6, 29005.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/srep29005" target="_blank">https://doi.org/10.1038/srep29005</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201607article_8.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［23］Peyrégne S. et al.(2019): Nuclear DNA from two early Neandertals reveals 80,000 years of genetic continuity in Europe. Science Advances, 5, 6, eaaw5873.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw5873" target="_blank">https://doi.org/10.1126/sciadv.aaw5873</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201906article_56.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［24］Fotiadou CM. et al.(2026): Archaeogenetic insights into the demographic history of Late Neanderthals. PNAS, 123, 13, e2520565123.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.2520565123" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.2520565123</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202603article_29.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［28］Wißing C et al.(2019): Stable isotopes reveal patterns of diet and mobility in the last Neandertals and first modern humans in Europe. Scientific Reports, 9, 4433.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41598-019-41033-3" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41598-019-41033-3</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201903article_24.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［29］Mylopotamitaki D. et al.(2024): Homo sapiens reached the higher latitudes of Europe by 45,000 years ago. Nature, 626, 7998, 341–346.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-023-06923-7" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-023-06923-7</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202402article_11.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［30］Sümer AP. et al.(2025): Earliest modern human genomes constrain timing of Neanderthal admixture. Nature, 638, 8051, 711–717.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-024-08420-x" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-024-08420-x</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202502article_21.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［34］Andreeva TV. et al.(2022): Genomic analysis of a novel Neanderthal from Mezmaiskaya Cave provides insights into the genetic relationships of Middle Palaeolithic populations. Scientific Reports, 12, 13016.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41598-022-16164-9" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41598-022-16164-9</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202208article_3.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［36］Bokelmann L. et al.(2019): A genetic analysis of the Gibraltar Neanderthals. PNAS, 116, 31, 15610–15615.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.1903984116" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.1903984116</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201907article_39.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［37］Picin A. et al.(2020): New perspectives on Neanderthal dispersal and turnover from Stajnia Cave (Poland). Scientific Reports, 10, 14778.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41598-020-71504-x" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41598-020-71504-x</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202009article_13.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［39］Li H, and Durbin R.(2011): Inference of human population history from individual whole-genome sequences. Nature, 592, 7357, 493–496.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature10231" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature10231</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201107article_29.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［40］Welker F. et al.(2016): Palaeoproteomic evidence identifies archaic hominins associated with the Châtelperronian at the Grotte du Renne. PNAS, 113, 40, 11162–11167.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.1605834113" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.1605834113</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201609article_20.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［43］Prüfer K. et al.(2021): A genome sequence from a modern human skull over 45,000 years old from Zlatý kůň in Czechia. Nature Ecology & Evolution, 5, 6, 820–825.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41559-021-01443-x" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41559-021-01443-x</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202104article_11.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［44］Iasi LNM. et al.(2024): Neanderthal ancestry through time: Insights from genomes of ancient and present-day humans. Science, 386, 6727, eadq3010.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.adq3010" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.adq3010</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202412article_19.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［45］Fu Q. et al.(2015): An early modern human from Romania with a recent Neanderthal ancestor. Nature, 524, 7564, 216–219.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature14558" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature14558</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201506article_28.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［46］Hajdinjak M. et al.(2021): Initial Upper Palaeolithic humans in Europe had recent Neanderthal ancestry. Nature, 592, 7853, 253–257.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-021-03335-3" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-021-03335-3</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202104article_9.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［47］Peter BM.(2020): 100,000 years of gene flow between Neandertals and Denisovans in the Altai mountains. bioRxiv.<br /><a href="https://doi.org/10.1101/2020.03.13.990523" target="_blank">https://doi.org/10.1101/2020.03.13.990523</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202004article_19.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［48］Kuhlwilm M. et al.(2016): Ancient gene flow from early modern humans into Eastern Neanderthals. Nature, 530, 7591, 429–433.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature16544" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature16544</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201602article_19.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［50］Castellano S. et al.(2014): Patterns of coding variation in the complete exomes of three Neandertals. PNAS, 111, 18, 6666–6671.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.1405138111" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.1405138111</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201404article_29.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［51］Harris K, and Nielsen R.(2016): The Genetic Cost of Neanderthal Introgression. Genetics, 203, 2, 881-891.<br /><a href="https://doi.org/10.1534/genetics.116.186890" target="_blank">https://doi.org/10.1534/genetics.116.186890</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201606article_8.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><a name="more"></a>

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            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_11.html</link>
      <title>近現代史研究室『学び直す日本史　近代編』</title>
      <pubDate>Sat, 11 Jul 2026 12:35:18 +0900</pubDate>
            <description>　PHP研究所より2014年9月に刊行されました。本書の底本は2011年3月に刊行されました。著者名が不明な点は不安でしたし、底本の刊行は10年以上前とやや古いもの、電子書籍で読み放題だったので読んでみました。本書は幕末から高度経済成長期の頃までを取り上げています。21世紀の視点では、高度経済成長期の前後での日本社会の大きな変化を認め、それ以前を近代、それ以降を現代とする時代区分は一定以上有効だと思いますし、私も以前からそう考えていたので、本書の対象範囲には納得できるところが..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　PHP研究所より2014年9月に刊行されました。本書の底本は2011年3月に刊行されました。著者名が不明な点は不安でしたし、底本の刊行は10年以上前とやや古いもの、電子書籍で読み放題だったので読んでみました。本書は幕末から高度経済成長期の頃までを取り上げています。21世紀の視点では、高度経済成長期の前後での日本社会の大きな変化を認め、それ以前を近代、それ以降を現代とする時代区分は一定以上有効だと思いますし、私も以前からそう考えていたので、本書の対象範囲には納得できるところがあります。

　本書は日本近代史の簡潔な概説になっており、長州藩では江戸時代に毎年正月に家臣が君主に形式的に倒幕を提言していた、など俗説を取り入れすぎかな、とも思いますが、日本近代史の復習に取り組む最初の一冊としては手頃だと思います。上述のように著者名が不明な点は不安でしたが、大きく偏った視点や致命的な間違いはなかったように思います。まず幕末については、ペリー来航前にすでに欧米の船が来航しており、ペリー来航の目的が捕鯨船の寄港地確保にあった、と指摘されています。これは現代日本社会でそれなりに知られているでしょうが、知らない人も多そうですから、本書の編集方針から考えると必要な記述だったように思います。ただ、ペリー来航に対する幕府首脳部の対応は低く評価されており、最近では幕末における幕府首脳部の交渉能力の高さが指摘される傾向にあるように思われるだけに、疑問も残ります。

　明治維新以降については、政局だけではなく、統治制度や経済や文化など広範な分野が取り上げられており、復習もしくは入門書として妥当な構成になっていると思います。大日本帝国憲法は「東アジア初の近代的憲法」とされており、オスマン憲法を念頭に置いた評価なのでしょう。日露戦争については、講和条件が明らかとなった後の日比谷焼打事件がやや詳しく解説されており、これは親切だと思います。なお、本書は桂太郎も元老としていますが、桂は元老ではない、との見解（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201609article_18.html">関連記事</a>）の方が有力なように思います。日中戦争勃発とその後の太平洋戦争勃発を経ての敗戦の過程では、国民生活の窮乏に関する記述が多めで、総力戦の国民生活への影響の大きさを改めて思い知らされます。<a></a>

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　PHP研究所より2014年9月に刊行されました。本書の底本は2011年3月に刊行されました。著者名が不明な点は不安でしたし、底本の刊行は10年以上前とやや古いもの、電子書籍で読み放題だったので読んでみました。本書は幕末から高度経済成長期の頃までを取り上げています。21世紀の視点では、高度経済成長期の前後での日本社会の大きな変化を認め、それ以前を近代、それ以降を現代とする時代区分は一定以上有効だと思いますし、私も以前からそう考えていたので、本書の対象範囲には納得できるところがあります。<br /><br />　本書は日本近代史の簡潔な概説になっており、長州藩では江戸時代に毎年正月に家臣が君主に形式的に倒幕を提言していた、など俗説を取り入れすぎかな、とも思いますが、日本近代史の復習に取り組む最初の一冊としては手頃だと思います。上述のように著者名が不明な点は不安でしたが、大きく偏った視点や致命的な間違いはなかったように思います。まず幕末については、ペリー来航前にすでに欧米の船が来航しており、ペリー来航の目的が捕鯨船の寄港地確保にあった、と指摘されています。これは現代日本社会でそれなりに知られているでしょうが、知らない人も多そうですから、本書の編集方針から考えると必要な記述だったように思います。ただ、ペリー来航に対する幕府首脳部の対応は低く評価されており、最近では幕末における幕府首脳部の交渉能力の高さが指摘される傾向にあるように思われるだけに、疑問も残ります。<br /><br />　明治維新以降については、政局だけではなく、統治制度や経済や文化など広範な分野が取り上げられており、復習もしくは入門書として妥当な構成になっていると思います。大日本帝国憲法は「東アジア初の近代的憲法」とされており、オスマン憲法を念頭に置いた評価なのでしょう。日露戦争については、講和条件が明らかとなった後の日比谷焼打事件がやや詳しく解説されており、これは親切だと思います。なお、本書は桂太郎も元老としていますが、桂は元老ではない、との見解（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201609article_18.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）の方が有力なように思います。日中戦争勃発とその後の太平洋戦争勃発を経ての敗戦の過程では、国民生活の窮乏に関する記述が多めで、総力戦の国民生活への影響の大きさを改めて思い知らされます。<a name="more"></a>

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            <category>読書</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_10.html</link>
      <title>国風文化再論</title>
      <pubDate>Fri, 10 Jul 2026 06:19:54 +0900</pubDate>
            <description>　7年ほど前に、「国風文化」についてまとめたことがあります（関連記事）。遣唐使が結果的に9世紀前半で最後となって以降も、日本は「中国文化」の影響を強く受け続けており、それは唐に使者を派遣していた時代よりも強かった、と考えていた時代の記事でしたが、最近では、そのように単純化することも問題かもしれない、と考えが変わりました。とくに大きな影響を受けたのは、有富純也編『日本の古代とは何か　最新研究でわかった奈良時代と平安時代の実像』所収の小塩慶「 “「唐風文化」から「国風文化」へ”は..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　7年ほど前に、「国風文化」についてまとめたことがあります（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201903article_13.html">関連記事</a>）。遣唐使が結果的に9世紀前半で最後となって以降も、日本は「中国文化」の影響を強く受け続けており、それは唐に使者を派遣していた時代よりも強かった、と考えていた時代の記事でしたが、最近では、そのように単純化することも問題かもしれない、と考えが変わりました。とくに大きな影響を受けたのは、有富純也編『日本の古代とは何か　最新研究でわかった奈良時代と平安時代の実像』所収の小塩慶「 “「唐風文化」から「国風文化」へ”は成り立つのか」です（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202412article_21.html">関連記事</a>）。

　この論考はまず、平安時代初期の桓武朝や嵯峨朝の「唐風化」の起点として、藤原仲麻呂の「唐風趣味」を挙げています。これ以降、天皇の実名（諱）を避けること（避諱）や、天皇に唐風の尊号を授与するとなど、天皇の「唐風化」があり、吉備真備たち遣唐使が持ち帰った知識によって、儀礼の「唐風化」も進みました。同時に、吉備真備たち遣唐使が持ち帰った知識によって、儀礼の「唐風化」が進み、公的教育機関としての大学寮の整備によって、教科書が南北朝時代の書籍から隋代や唐代の書籍へと切り替わっていきます。こうした奈良時代後半の「唐風化」が、桓武朝や嵯峨朝の「唐風化」の前提にあったわけです。桓武朝の「唐風化」には、桓武天皇の出自が皇族としては低く、天皇としての権威確立のため、さまざまに模索していたことも背景にありました。

　この「唐風化」から「国風化」への移行では、仁明朝が注目されています。仁明朝では、和歌が再び表舞台に現れ始めます。9世紀後半に、即位の正当性が弱かった光孝天皇と宇多天皇は、仁明朝の政治文化の継承によって権威確立を図っていき、「国風化」の傾向が明確に現れていきます。この9世紀後半は、「唐風化」の観点では9世紀前半の延長線上にあり、「国風化」の観点では10世紀以降とのつながりの方が強い、と指摘されています。これと関連するのは、宇多朝において天皇の私的な側近の政治的役割が拡大していくことで、私的なものの公的な場への進出が文化動向とも連動しているのではないか、というわけです。たとえば、『古今和歌集』では、宇多天皇と醍醐天皇の近臣やその縁者の歌が多く採録されていましたが、『古今和歌集』は醍醐天皇の命によって編纂されたので、和歌が公的な位置づけを認められるようになっていきます。

　こうした「国風化」の進展の背景として、唐の衰退が挙げられていますが、唐王朝へ公的な使者が派遣されなくなっても、唐や五代十国から文化が流入しなくなったわけではなく、海商によって大陸から多数の「唐物」が日本列島へと輸入されました。ただ、日本から大陸へと公的な使者が派遣されなくなったことによって、体系的な文化移入が難しくなり、文化導入が断片的になったことも指摘されています。平安時代後期の日本が、宋文化を全面的には受け入れず、唐文化に拘り続けた一方で、高麗は宋を規範としていきます。こうした状況とも関連して、「国風文化」期の漢籍由来の知識は唐代以前の書物に依拠しており、清少納言の教養にしても、基本的には漢学の入門書（幼学書）の範囲を超えていない可能性が指摘されています。

　そもそも「唐風化」にしても日本側で取捨選択したり改変したりしており、「国風化」でも「唐物」が尊重されていたため、「唐風文化」から「国風文化」として古代日本の文化史を把握することは単純すぎるかもしれない、と小塩慶「 “「唐風文化」から「国風文化」へ”は成り立つのか」は指摘します。「国風文化」の時代とされる10世紀以降にしても、漢は公的、和は私的といった役割分担が見られました。それでも、10世紀以降の日本では全体として文化動向が国内志向へと大きく変わっており、「唐風文化」から「国風文化」への移行という見方がなおも有効であるようです。

　佐々木恵介『日本古代の歴史4　平安京の時代』（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201402article_25.html">関連記事</a>）は、「国風文化」の前提として、9世紀における漢文作成能力の向上という「内在的発展」も指摘しています。その根拠の一つとなるのが、六国史の記事の密度や編纂効率の向上です。また日本の漢詩文は、形式と題材と美意識のすべてにおいて、唐からの直輸入だった9世紀前半と比較すると、9世紀後半には、漢詩文という形式をとりながら、日本の身近な風景や人物に題材がとられるようになり、その美意識にも独自のものが見られるようになります。日本の知識人たちは、9世紀後半には漢詩文を自己のものに消化していったようです。日本で編纂された類書も、9世紀前半には中華地域的視点に限られていたものの、10世紀前半には日本の事象も対象とされていきます。これらは「本朝意識」の芽生えとも言えそうで、「国風文化」や、その本格的な始まりを告げる10世紀初頭の『古今和歌集』の編纂に象徴される和歌の「復興」もそうした文脈で解され、「復興」された和歌は洗練・内在化されていった漢詩文の影響を強く受けていたようです。

　日本では唐に公的な使者が派遣されなくなって以降、「中国」と交渉が途絶え、独自の文化が形成されていき、「国風文化」はその嚆矢になる、といった見解は極端です。じっさい、唐に公的な使者が派遣されなくなって以降、「日中」の経済的関係は飛躍的に発展し、それに伴って「中国」から日本へと文化も伝わった、と指摘されています（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201903article_13.html">関連記事</a>）。しかし、それが遣唐使の時代とは異なるもので、体系的な文化移入が難しくなり、文化導入が断片的になったことで、日本文化の「国風化」が進展したことも否定できないようです。その意味で、「国風文化」という概念が全面的に間違っているようには思えず、人間の複雑な営みの的確な解釈の難しさも改めて示されているようです。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　7年ほど前に、「国風文化」についてまとめたことがあります（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201903article_13.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）。遣唐使が結果的に9世紀前半で最後となって以降も、日本は「中国文化」の影響を強く受け続けており、それは唐に使者を派遣していた時代よりも強かった、と考えていた時代の記事でしたが、最近では、そのように単純化することも問題かもしれない、と考えが変わりました。とくに大きな影響を受けたのは、有富純也編『日本の古代とは何か　最新研究でわかった奈良時代と平安時代の実像』所収の小塩慶「 “「唐風文化」から「国風文化」へ”は成り立つのか」です（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202412article_21.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）。<br /><br />　この論考はまず、平安時代初期の桓武朝や嵯峨朝の「唐風化」の起点として、藤原仲麻呂の「唐風趣味」を挙げています。これ以降、天皇の実名（諱）を避けること（避諱）や、天皇に唐風の尊号を授与するとなど、天皇の「唐風化」があり、吉備真備たち遣唐使が持ち帰った知識によって、儀礼の「唐風化」も進みました。同時に、吉備真備たち遣唐使が持ち帰った知識によって、儀礼の「唐風化」が進み、公的教育機関としての大学寮の整備によって、教科書が南北朝時代の書籍から隋代や唐代の書籍へと切り替わっていきます。こうした奈良時代後半の「唐風化」が、桓武朝や嵯峨朝の「唐風化」の前提にあったわけです。桓武朝の「唐風化」には、桓武天皇の出自が皇族としては低く、天皇としての権威確立のため、さまざまに模索していたことも背景にありました。<br /><br />　この「唐風化」から「国風化」への移行では、仁明朝が注目されています。仁明朝では、和歌が再び表舞台に現れ始めます。9世紀後半に、即位の正当性が弱かった光孝天皇と宇多天皇は、仁明朝の政治文化の継承によって権威確立を図っていき、「国風化」の傾向が明確に現れていきます。この9世紀後半は、「唐風化」の観点では9世紀前半の延長線上にあり、「国風化」の観点では10世紀以降とのつながりの方が強い、と指摘されています。これと関連するのは、宇多朝において天皇の私的な側近の政治的役割が拡大していくことで、私的なものの公的な場への進出が文化動向とも連動しているのではないか、というわけです。たとえば、『古今和歌集』では、宇多天皇と醍醐天皇の近臣やその縁者の歌が多く採録されていましたが、『古今和歌集』は醍醐天皇の命によって編纂されたので、和歌が公的な位置づけを認められるようになっていきます。<br /><br />　こうした「国風化」の進展の背景として、唐の衰退が挙げられていますが、唐王朝へ公的な使者が派遣されなくなっても、唐や五代十国から文化が流入しなくなったわけではなく、海商によって大陸から多数の「唐物」が日本列島へと輸入されました。ただ、日本から大陸へと公的な使者が派遣されなくなったことによって、体系的な文化移入が難しくなり、文化導入が断片的になったことも指摘されています。平安時代後期の日本が、宋文化を全面的には受け入れず、唐文化に拘り続けた一方で、高麗は宋を規範としていきます。こうした状況とも関連して、「国風文化」期の漢籍由来の知識は唐代以前の書物に依拠しており、清少納言の教養にしても、基本的には漢学の入門書（幼学書）の範囲を超えていない可能性が指摘されています。<br /><br />　そもそも「唐風化」にしても日本側で取捨選択したり改変したりしており、「国風化」でも「唐物」が尊重されていたため、「唐風文化」から「国風文化」として古代日本の文化史を把握することは単純すぎるかもしれない、と小塩慶「 “「唐風文化」から「国風文化」へ”は成り立つのか」は指摘します。「国風文化」の時代とされる10世紀以降にしても、漢は公的、和は私的といった役割分担が見られました。それでも、10世紀以降の日本では全体として文化動向が国内志向へと大きく変わっており、「唐風文化」から「国風文化」への移行という見方がなおも有効であるようです。<br /><br />　佐々木恵介『日本古代の歴史4　平安京の時代』（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201402article_25.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）は、「国風文化」の前提として、9世紀における漢文作成能力の向上という「内在的発展」も指摘しています。その根拠の一つとなるのが、六国史の記事の密度や編纂効率の向上です。また日本の漢詩文は、形式と題材と美意識のすべてにおいて、唐からの直輸入だった9世紀前半と比較すると、9世紀後半には、漢詩文という形式をとりながら、日本の身近な風景や人物に題材がとられるようになり、その美意識にも独自のものが見られるようになります。日本の知識人たちは、9世紀後半には漢詩文を自己のものに消化していったようです。日本で編纂された類書も、9世紀前半には中華地域的視点に限られていたものの、10世紀前半には日本の事象も対象とされていきます。これらは「本朝意識」の芽生えとも言えそうで、「国風文化」や、その本格的な始まりを告げる10世紀初頭の『古今和歌集』の編纂に象徴される和歌の「復興」もそうした文脈で解され、「復興」された和歌は洗練・内在化されていった漢詩文の影響を強く受けていたようです。<br /><br />　日本では唐に公的な使者が派遣されなくなって以降、「中国」と交渉が途絶え、独自の文化が形成されていき、「国風文化」はその嚆矢になる、といった見解は極端です。じっさい、唐に公的な使者が派遣されなくなって以降、「日中」の経済的関係は飛躍的に発展し、それに伴って「中国」から日本へと文化も伝わった、と指摘されています（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201903article_13.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）。しかし、それが遣唐使の時代とは異なるもので、体系的な文化移入が難しくなり、文化導入が断片的になったことで、日本文化の「国風化」が進展したことも否定できないようです。その意味で、「国風文化」という概念が全面的に間違っているようには思えず、人間の複雑な営みの的確な解釈の難しさも改めて示されているようです。<a name="more"></a>

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            <category>歴史総合</category>
      <author>雑記帳</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,sicambre/521104266</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_9.html</link>
      <title>パラオの人口史</title>
      <pubDate>Thu, 09 Jul 2026 08:42:50 +0900</pubDate>
            <description>　取り上げるのが遅れてしまいましたが、パラオの古代人のゲノムデータを報告した研究（Liu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、パラオの2900～500年前頃の4ヶ所の遺跡から発見された21個体のゲノムデータを報告し、この21個体全員が、アジア東部人と関連する約60%の遺伝的祖先系統祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）、およびパプア人と関連する約40%の祖..</description>
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　取り上げるのが遅れてしまいましたが、パラオの古代人のゲノムデータを報告した<a href="https://doi.org/10.1016/j.cell.2026.02.011">研究</a>（Liu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、パラオの2900～500年前頃の4ヶ所の遺跡から発見された21個体のゲノムデータを報告し、この21個体全員が、アジア東部人と関連する約60%の遺伝的祖先系統祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）、およびパプア人と関連する約40%の祖先系統を有している、と示しました。このゲノム構成はパラオの現代人と似ており、長い人口連続性を示しています。パラオに最初の人類が定住する前に、この2祖先系統の混合はすでに起きていたことも分かり、これは、太平洋南西部の最初期住民の遺伝的構成要素が、ほぼ完全にアジア東部関連祖先系統だったこととは対照的です。遠（リモート）オセアニアと近（ニア）オセアニアは古代ゲノム研究に適した環境ではありませんが、近年の古代ゲノム研究の進展は目覚ましく、今後も大いに注目される地域です。以下は本論文の要約図です。
<a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-fx1_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-fx1_lrg.jpg" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="365" /></a>
　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、mtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）、YHg（Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ）、SNP（Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、IBD（identity-by-descent、同祖対立遺伝子）、ROH（runs of homozygosity、同型接合連続領域）、cM（centimorgan、センチモルガン）、MP（Malayo-Polynesian、マレー・ポリネシア）語派、AMS（accelerator mass spectrometry、加速器質量分析法）、PNG（Papua New Guinean、パプアニューギニア人）、NG（New Guinea、ニューギニア）FRO（First Remote Oceanian、最初の遠オセアニア人）、SWP（SouthwestPacific、南西太平洋）、NB（NewBritain、ニューブリテン島）、OOA（Out Of Africa、出アフリカ）、C（carbon、炭素）、N（nitrogen、窒素）、CI（confidence interval、信頼区間）、DATES（Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布）です。

　本論文で取り上げられる主要な人類集団や言語は、コルディリェラ人（Cordilleran）、カンカナイ人（Kankanaey）、チャモロ語（CHamoruはグアムの言語学の専門家に好まれ、Chamorroはマリアナの他の地域で用いられています）、傣人（Dai）、バヌアツ現地人（ni-Vanuatu）、ナシオイ（Nasioi）人です。本論文で取り上げられる主要な文化は、ラピタ（Lapita）文化、ウナイ（Unai）文化、ラッテ（Latte）文化、フヨン（Huyong）文化です。

　本論文で取り上げられる主要な地名や島は、バベルダオブ（Babeldaob）島、コロール（Koror）島のゲサオル（Ngesaol）のゲルメレウエス尾根（Ngermereues Ridge）埋葬洞窟およびウチェリウングス・ロックアイランド（Ucheliungs Rock Island）、ウルクターブル島（Ngeruktabel）のオメドクル・ロックアイランド（Omedokl Rock Island）埋葬洞窟および（Ngkeklau）、バベルダオブ（Babeldaob）島北東部のガクラオ（Ngkeklau）、チェレコル・ラ・オラック（Chelechol ra Orrak）、ウーロン島（Ulong Island）、アドミラルティ諸島（Admiralty Islands）のマヌス（Manus）島、チューク（Chuuk）諸島、ポンペイ（Pohnpei）保護環礁、パプアニューギニアのセピック（Sepik）地域、インドネシアのモロタイ（Morotai）島のアル・マナラ（Aru Manara）石灰岩洞窟およびタンジュン・ピナン（Tanjung Pinang）、インドネシアの北マルク州（Northern Maluku）とハルマヘラ（Halmahera）島です。


●要約

　遠オセアニアに最初の人類が到達したのは3000年前頃で、太平洋南西部とマリアナ諸島とパラオにほぼ同時に到来しました。しかし、パラオのゲノム規模古代DNAデータは理由できず、本論文は2900～500年前頃の間の4ヶ所の考古学的遺跡から発見された21個体の報告によって、この空白に取り組みます。この21個体は全員、アジア東部人と関連する約60%の祖先系統、およびパプア人と関連する約40%の祖先系統を有し、現在のパラオ人と類似しており、オセアニアのどこよりも長い人口連続性となります。最古級の個体群における連続的なパプア人祖先系統断片の長さから、標本抽出されたパプア人全員の祖先におけるパプア人とアジア東部人との間の主要な混合は、最初の定住の前に始まった、と示されます。これは太平洋南西部のパターンとは異なっており、太平洋南西部では、異なる3ヶ所の島のラピタ考古学的文化の標本抽出された個体群は、ほぼ完全なアジア東部祖先系統を有しており、大量のパプア人との混合がやっと観察されるのは、その数百年後です。


●研究史

　ラピタ考古学的複合体の人々から得られた古代DNAデータでは、年代が3000～2500年前頃にまたがり、異なる2ヶ所の群島の3ヶ所の遺跡から標本抽出された、太平洋南西部のこの最初の文化の分析された全個体は、96～100%程度のアジア東部祖先系統を有しており［1～8］、もはや混合していない形態では存在せず、FRO（FROSWP）と呼ばれてきた人口集団に由来する［2、3、5、6］、と示されています。遺伝学的分析から、これらの個体のアジア東部人の祖先はフィリピンのルソン島北部のコルディリェラ人（たとえば、カンカナイ人）と最も密接に関連しており［1～8］、台湾の新石器時代および鉄器時代集団との関連はより遠い［10、11］、と示唆されています。2500年前頃のラピタ文化後の個体群以降、大規模でおもに男性手動の太平洋南西部への移住があり、これはニューギニアおよび近隣の島々で数万年支配的で、具体的にはビスマルク諸島のニューブリテン島の人々と関連している系統（パプア人NB）からのほぼ完全なパプア人祖先系統を有していました［3～6］。現在、ほとんどの先住のバヌアツ現地人は80%超のパプア人祖先系統を有しており、これは東方ではフィジーへも広がり、さらに東方へとポリネシアに拡大して、ポリネシアでは現在、人々の祖先系統の少なくとも25%パプア人関連です［2］。

　ミクロネシアでは、2800～2400年前頃となるマリアナ南部（グアム）のウナイ期個体群から、最古級の古代DNAが得られています［6、8］。その祖先系統（FROマリアナ）は太平洋南西部のラピタ文化個体群と近い姉妹群です（FROSWP）。マリアナのラッテ期の個体群（グアムとサイパン）の祖先系統の15%は、パセオの現代人の主要なアジア東部祖先系統（FROパラオ）と関連する別のアジア東部供給源に由来し、この人々は2400～1700年前頃に、おそらくはマリアナの新たな土器様式および内陸部の集落拡大によって特徴づけられるフヨン期にFROマリアナと混合しました。ポンペイやチュークなどミクロネシア中央部の島々の居住はその後で、マリアナの人々と共有されており、太平洋南西部の混合の証拠は2500～2000年前頃です［6］。しかしミクロネシア中央部では、混合の供給源は異なっており、男性のパプア人NG（太平洋南西部のようなパプア人NBではなく）と女性のFROSWP（FROマリアナとミクロネシア西部のFROパラオのどこかのアジア東部供給源とは異なります）祖先系統でした［6］。

　パラオの歴史は、遠オセアニアにおけるヒトの出現の物語において中心的です。ヒトはまずパラオの石灰岩ロックアイランドと火山性のバベルダオブ島に3200年前頃に居住し、これはマリアナと太平洋南西部に別の移住の波が到達したのと同じ時期です。別の再構築では、パラオ語はMP語派内の残留下位集団の一部とされ、MP語派はフィリピンやマリアナやインドネシア西部（遠くスラウェシ島とボルネオ島まで）とアジア南東部本土で話されている言語からも構成されています。別の再構築では、パラオ語とチャモロ語とオセアニアのオーストロネシア語族（遠オセアニアの大半で話されています）は、等しく異なる枝に割り当てられています。これらの再構築は、パラオとマリアナと太平洋南西部と遠オセアニアの他地域で話されている言語には共通の起源がある、つまり、その後で少なくとも異なる3系統に分岐した単一の遠オセアニア祖先人口集団を示唆している点で一致します。遺伝学的手がかりも、パラオの重要な役割を示しています［6］。パラオにはFRO系統の最初の分岐（FROパラオ）があり、現代パラオ人の祖先系統の約60%に寄与しており、残りはおもに、ニューギニア本土と関連する男性由来のパプア祖先系統（パプア人NG）で、混合年代は2800～2000年前頃と推定されています。現在のパラオ人から得られた遺伝学的証拠は、ミクロネシア中央部やマリアナや太平洋南西部から得られた古代DNAとともに、2500～2000年前頃の間の遠オセアニアにおける、主要な性別の偏った移住および相互作用の異なる4回の事例を明らかにします。パラオ古代人からのDNAなしには、このミクロネシア最南西部諸島の役割は、依然として不明でした。


●分析結果

　パラオの4ヶ所の考古学的遺跡から発見された、37点の骨格標本が分析されました（図1A）。その内訳は、コロール島のゲサオルのゲルメレウエス尾根埋葬洞窟（OR-3:30、以下、コロール採石場）から22個体、ウチェリウングス・ロックアイランド埋葬洞窟（OR-14:8、以下、ウチェリウングス）から6個体、オメドクル・ロックアイランド埋葬洞窟（OR-15:8、以下、オメドクル）から4個体、バベルダオブ島北東部のおそらくはガクラオ地域（以下、ガクラオ）から5個体です。100万ヶ所以上のSNPについて、溶液濃縮を用いてゲノム規模古代DNAデータが生成されました。対象の近くのSNPを含めて、最大で約200万ヶ所の多型SNPからのデータが分析されました。汚染の証拠がない個体のみを選別後、21個体でデータが回収され、コロール採石場から12個体、ウチェリウングスから3個体、オメドクルから3個体、ガクラオから3個体です（表1）。これらの個体のうち、密接な親族や長いROHやIBD断片の大きな共有は見つかりませんでした。以下は本論文の図1です。
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　正確な年表は、この研究の主要な調査結果にとって重要です。13個体で17点のAMS放射性炭素年代が生成され、この13個体ではゲノム規模古代DNAデータも得られました。これらの各年代について、コラーゲンの保存状態について情報を提供する、炭素および窒素同位体の測定値が得られました。12点の標本が、ジョージア大学応用同位体研究所で前処理され、年代測定されました。ニューメキシコ大学安定同位体研究所で追加の5点が前処理され、続いてペンシルベニア州立大学で年代測定されました。炭素と窒素の原始重量比（C:N）が2.9～3.4の推奨範囲ではなかった年代は、除外されました。標本1点で2点の年代が得られ、一方があり得る汚染を除去するために限外濾過もしくはアミノ酸分離によって前処理された骨のコラーゲンに基づき、もう一方がそうした前処理がなされなかった場合は、常に前処理に基づく年代が用いられました。これらの手順の適用後に、11点の標本で直接的年代が得られました。

　ウチェリウングスから得られた年代のうち2点は、パラオの定住時期に近く、ウチェリウングス遺跡の文化資料の予測される放射性炭素年代の範囲内に収まり、較正年代では、I41048は2924～2710年前（限外濾過の年代）、I41049は2776～2495年前です。骨のコラーゲンの放射性炭素年代の食性補正は、食事のタンパク質に由来するコラーゲンに組み込まれた、海洋性炭素の割合を反映するはずで、食性全体の海洋性食料の割合を反映しているわけではありません。本論文の主要な分析について、50%の海洋性蛋白質と50%の陸生タンパク質の仮定を用いて、年代が較正されました。タンパク質における海洋性の割合と海洋貯蔵相殺について、さまざまな他の仮定でも年代が推定され、パラオの最初の定住に選好するパプア人とアジア東部人との間の主要な混合に関する本論文の重要な調査結果は堅牢だった、と分かりました。


●ほぼ3000年間にわたってのパラオにおける少なくとも40%のパプア祖先系統

　人口構造の概要を得るために、異なる配列で遺伝子型決定された多様な太平洋人口集団からのデータの統合によって、約300万のSNPでPCAが実行されました。現在の傣人（中国南部）とナシオイ人（ソロモン諸島北部）とニューギニア人（パプアニューギニアの高地東部と中央セピック地域）から得られた全ゲノムショットガン配列決定データを用いて軸が計算され、他の個体が投影されました。第1主成分（PC）はアジア東部関連祖先系統の割合と相関していますが（PC1、左側は下方、右側は上方）、第2主成分はソロモン諸島とニューギニアからパプア祖先系統を区別します（PC2、上方から下方）。コロール採石場とウチェリウングスとオメドクルとガクラオの古代の個体群や現在の個体群は、ニューギニアと他のミクロネシアの集団をつなぐ遺伝的勾配に沿って位置しています。

　対称性f₄統計（X、カンカナイ人；ニューギニア高地人、傣人）が計算され、パラオの古代の全個体には顕著なパプア人との混合があった（パプア祖先系統の証拠がない基準としてカンカナイ人が用いられました）、と確証されました。アジア東部人との混合に起因する偏りの補正後に、さまざまなパプア人供給源との類似性を計算する、f₄統計に基づく回帰手法を用いて、パプア人との混合はソロモン諸島もしくはビスマルク諸島の人々とよりもニューギニア高地人集団とより密接に関連し、ごく小さな標準誤差で約40%の遺伝的祖先系統に相当する、と分かりました。この推定値は、同じ手法によって推定される現在のパラオ人におけるパプア人祖先系統の水準［6］とひじょうに類似しています。パラオのパターンは太平洋南西部とは定性的に異なっており、パラオが過去2800年間にわたって比較的安定した水準のパプア祖先系統を示すのに対して、バヌアツは2500年前頃のラピタ期末に続く急激な増加を示しています（図2）。以下は本論文の図2です。
<a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-gr2_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-gr2_lrg.jpg" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="315" /></a>
　qpAdmを用いると、ウチェリウングスのパプア祖先系統（43.2±0.9%）はコロール採石場（40.7±0.7%）やオメドクル（40.0±0.9%）やガクラオ（39.6±0.8%）よりわずかに高かった、と推定されます。f₄統計（X、ウチェリウングス；ニューギニア高地人、傣人）が計算され、コロール採石場やオメドクルやガクラオと比較して、ウチェリウングスにおけるパプア祖先系統の小さいものの統計的に有意な過剰が確証されました。放射性炭素年代の範囲（表1）に基づいてこれらの個体が分類され、それぞれ、2900～2500年前頃、1700～1200年前頃、700～500年前頃です。パラオにおけるパプア祖先系統の割合は、基準としてウチェリウングスの個体群（2900～2500年前頃）を用いると、経時的に最大10%減少し、この減少が統計的に有意だったことは、f₄統計で確証されました。現代人と同様にすべての遺跡で、パラオのパプア祖先系統はおもに男性の祖先に由来する、と推測され、X染色体よりも常染色体の方でパプア祖先系統は有意に多くなっています。

　グアムのウナイ後期およびラッテ期個体群とバヌアツおよびトンガのラピタ集団は一貫して、先史時代のパラオのアジア東部祖先系統と一致しますが、1個体は他の個体よりも統計的に適切な代理ではありませんでした。先史時代パラオ人における独特なFROパラオ系統について形式的に検証するために、今度はパラオ人を表す古代DNAデータの使用によって、補足図S3で示されるような混合図が修正されました。最適なモデルでは、先史時代のパラオ人が、現在のパラオ人と同様に、約60%のFROパラオと約40%のパプア祖先系統を有する、と推定され、これはパラオにおける少なくとも2800年間の強い遺伝的連続性の証拠を提供します。


●パラオ人におけるパプアおよびアジア東部祖先系統はパラオの最初の定住前に混合しました

　DATESを用いると、FROパラオとパプア人NGの系統間の混合の平均時期は、最古のパラオの個体I41048が生きていた時期の30.1±3.5世代前と（95%CIで37～23世代前）推定されます。人類学的および遺伝学的研究［19］に基づいて、1世代の平均年代は28.4±0.7年（95%CIで27～30年）と仮定されます。最古級のウチェリウングス個体（I41048）の直接的な年代範囲がさらに組み込まれ、較正後の年代は2799±53年前（95%CIで2924～2710年前）です。3点すべての標準誤差を考慮すると、混合時期の95%CIは3880～3429年前頃と分かりました。パラオは一般的に、ウーロン島の放射性炭素年代に基づいて、3200～3000年前頃に居住された、と考えられています。この考古学的推定と本論文の遺伝的データを組み合わせると、パラオの最初の人々の祖先はすでに、太平洋南西部へのパプア祖先系統の2500年前頃の大規模な移動の1000年近く前に、パプア祖先系統の人々と混合していた、と結論づけられます（図3）。以下は本論文の図3です。
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　ウチェリウングスの2番目に古い個体（I41049）の放射性炭素年代の不確実性範囲は、最古の個体と重なります。この2個体の分析を組み合わせると、依然として3864～3213年前頃の混合年代が得られ、これはパラオへの考古学的に推定された定住より古くなります。より新しいパラオの個体群の混合年代に関する本論文の推定値の95%CIは、多数の事例で決定的に3200年前頃より古い混合年代を示唆しており、つまりは定住に先行しているものの、一部のCIは3200年前頃以後も含んでいます。現在のパラオ人については、混合年代推定値は2791～2040年前頃で顕著に新しく、これは、3200年前頃以後のパラオへの継続的な移住によって説明でき、じっさい、その後の個体群におけるアジア東部祖先系統のより高い割合と一致します。

　パラオの最初の定住に選好する主要なパプア人とアジア東部人の混合に関する本論文の重要な調査結果は、最古級のウチェリウングス個体群の年代に依拠しているので、最古級のウチェリウングス個体（I41048）の放射性炭素年代の較正について、代替的な仮定の影響が調べられました。具体的には、文献で−250±50～+168±43年前の海洋保存補正仮定（ΔR）が調べられ、それは海洋データベースに基づいてパラオで利用可能な−140±35年前の推定値で、これは主要な文献で引用された較正の基礎として用いられています。より正の方向のΔR値では、より新しい較正年代が得られたのに対して、より負の方向のΔRｱ台ではより古い年代がもたらされ、ウチェリウングスがあるパラオの南西礁湖に固有のΔRｱｱ台はすべてこの範囲の負の部分にあり、−250±50年前と−140±35年前と−52±22年前で、より古い年代が予測されます。50%のパラオ古代人の食性タンパク質における海洋性の割合を仮定するならば、これは、チェレコル・ラ・オラックの石灰岩の岩陰における3100年前頃の埋葬かに得られた25%の海洋性食性タンパク質の推定値を用いる場合よりも、本論文の年代推定値が控えめに新しくなり、パプア人とアジア東部人との混合年代の95%CIは常に、仮定されたΔRに関わらず3200年前頃より古くなります。−140±35年前にΔRを設定する逆の手法を用いて、食性における海洋性タンパク質の仮定割合を0～100%に変えても、混合のCIは常に3200年前頃より古くなります。

　チェレコル・ラ・オラックから得られた年代は、遺伝学的観点からも本論文の結果と一致します。チェレコル・ラ・オラック遺跡からは利用可能なゲノム規模データが得られておらず、標本を分析できませんが、4点のミトコンドリアゲノム配列が7点の標本（較正年代で2717～1566年前頃）から回収されており、mtHgではB4とD4とE1とM7に属し、これらはすべてアジア東部において一般的です。本論文で新たに報告されるmtHgにはE1/E2とB4/B5とP1が含まれており、このうちE1/E2とB4/B5はアジア東部人口集団において一般的です（チェレコル・ラ・オラックのパターンと同様です）。mtHg-P1はおもにパプア人とメラネシア人とオーストラリア先住民で見られ、パラオ人のパプア祖先系統は母系と父系の両方で到来した、と示されます。これらすべてのハプログループは、現在のパラオ人でも見られます［6］。


●パラオ人の祖先の起源地の可能性が高いワラセア

　アジア東部およびパプア両方の祖先系統を有していた可能性が最も高い、パラオの最初期住民の起源について知見を得るために、本論文のデータが近隣地域から以前に報告されたデータと共同分析されました。その結果、パラオ人におけるアジア東部祖先系統（FROパラオ）は、太平洋南西部とマリアナの初期FRO系統とよりも、北マルク州のモロタイ島のアル・マナラおよびタンジュン・ピナンの2100年前頃の東インドネシア人のアジア東部祖先系統の方と密接に関連している、と分かりました。したがって、FROパラオとパプア人NGの独特な組み合わせは、パラオとこれらモロタイ島個体群との間で特異的に共有されています。qpAdmにおいて供給源としてモロタイ島古代人を用いて、パラオの祖先系統をモデル化すると、このモデルは、外群にバヌアツとトンガの初期個体群（FROSWP）もしくはマリアナ諸島の初期個体群（FROマリアナ）を含めてさえ、成立します。これは、パラオ人の初期の祖先におけるアジア東部祖先系統とパプア祖先系統の特定の混合がインドネシア東部の人々の祖先系統でも起きた、との結論をさらに裏づけます。標本抽出が限られているため、他のインドネシア東部地域に類似の祖先系統があり、起源地だった可能性を除外できません。

　2100年前頃のモロタイ島標本には約30%のパラオと同じ種類のニューギニアからのパプア祖先系統と、約70%のアジア東部祖先系統（パラオ人より約10%多いアジア東部祖先系統）があります［25］。モロタイ島個体群におけるこの2祖先系統の混合は、これらの個体が生きていた約23±3世代前に起きた、と推定されます。較正された直接的な放射性炭素年代を組み込むことによって、モロタイ島個体群における混合時期の95%CIは3016～2176年前頃（以前の推定値［25］と類似しています）と計算され、それが最初期のパラオ人より遅いのは、モロタイ島の古代の個体群が、その後のパラオ人と同様に、経時的にアジア東部祖先系統を受け取り続けたかもしれないからです。


●考察

　パラオの定住は、遠オセアニアへのヒトの拡散における最初期の出来事の一つでした。古代人と現代人のDNAの以前の再構築は、遠オセアニアの2ヶ所の地域（太平洋南西部とミクロネシア中央部）や、現在のパラオ人の遺伝的祖先系統における、FROとパプア系統の2500～2000年前頃の間の男性に偏った混合を明らかにしました［2、5、6］。これらのパターンに基づくと、パラオ人の祖先へのパプア祖先系統の混合は他の遠オセアニア人と同じ時期に起きた、と自然に予測されるので、より古いパプア人との混合を示した本論文の結果は、驚くべき者でした［2～6、8］。

　本論文の分析ではFRO系統の最初の分岐と示唆された、FROパラオ祖先系統の地理的起源はどこだったのでしょうか？先行研究は、FROパラオ系統が2400～1700年前頃の間にマリアナで混合し、ラッテ期人口集団の祖先が生じたものの、パラオに存在するパプア祖先系統はなかった、と推定したので［6］、この祖先系統が直接的にパラオ起源だった可能性は低そうです。パラオで観察されたパプア人とFROの祖先系統の混合と、北マルク州のモロタイ島の2100年前頃の個体群との間の類似性を考えると、むしろこの起源地はワラセア北部のマルク地域のどこかにあった、と考えるのが妥当です。しかし、モロタイ島の人々は、パラオ人のようにオーストロネシア語族を話しているのではなく、パプア諸語を話しており、考古学的研究は2300～2000年前頃までモロタイ島には土器を使用した人口集団が存在しなかった、と示唆しており、この頃に金属器時代の強い影響が現れ、それはパプア人NGとFROパラオの混合が起きたのと同じ時期です。モロタイ島における混合の遺伝学的年代は、パラオより遅くなります。したがって、現在のモロタイ島人口集団は、パラオの最初の人々の混合がない、直接的子孫ではあり得ません。

　マルクを含むインドネシア東部のより広範な地域は、3200年前頃以後にパラオへと拡大した、FROパラオ祖先系統と混合したパプアおよびアジア東部人口集団の両方の起源地の主要な候補ではありません。この頃に、海水準は完新世半ばの高海水準から低下しつつあり、これは海洋生息地を変えて、海岸線を広げ、耕作に適した低地土壌が蓄積され始めた、長期の仮定でした。同じ頃に、エルニーニョ南方振動気象体系の変動増加が、より強いモンスーンとより頻繁な旱魃をもたらしました。これらの環境変化は、ワラセア北部からの誘導的な海洋採食民に、パラオなどミクロネシア西部の無人の小島群の探索を促進したかもしれず、そうした島では、高度に生産的な浅海生息地が現れつつありました。航海模擬実験技術を気候および海洋地理データや内陸部の分析と組み合わせた古代の航海モデルでは、スラウェシ島北部を含めてミンダナオ島からハルマヘラ島の弧状から出発した人々が、パラオの上陸に成功できた可能性はあり得ます。インドネシア北東部からのパラオの定住との想定は、パラオの岩絵とマルク州の島々との間で見つかった類似性とも一致し、両者は赤色の顔料に依存し、見えやすい海岸の断崖に位置しています。これらの想定は、関連する時期と場所の古代DNAデータで検証できます。

　パラオの最初の入植者がマヌス島のようなアドミラルティ諸島から到来した、と仮定することは魅力的ですが、これはミクロネシア中央部におけるパプア祖先系統の候補起源地域として特定されてきており、パラオ人のような同じ種類のパプア祖先系統を有しています［6］。しかし、そうした想定が本論文のデータを説明できないのは、パラオとアドミラルティ諸島におけるアジア東部祖先系統が明らかに異なるからです。太平洋南西部とミクロネシア中央部で見られるアジア東部祖先系統が一般的に「ラピタ的」（FROSWP）であるのに対して［6］、パラオにおけるアジア東部祖先系統は異なっているので（FROパラオ）、この2ヶ所の地域におけるアジア東部人とパプア人の混合史は関連していません。

　これらの調査結果は、遠オセアニアの最初の定住に関する理解を質的に変えます。一般的に議論されている歴史言語学的モデルは、オーストロネシア語族の台湾起源と、台湾からフィリピン、さらにはマリアナとパラオを含めてミクロネシア西部への、稲作に依存する新石器時代人口集団の長期の人口拡大による太平洋規模の拡散を想定しています。しかし、本論文の調査結果はパラオにおいてこのモデルと矛盾しており、遠オセアニア諸島の最初の定住は、最小限の相互作用もしくは在来人口集団との混合を伴う、フィリピンを経由しての台湾からの直接的に移住しただけの結果ではなかった、と示されます。とくに、分岐したFRO系統に対応するパラオへの経路はより複雑なにパターンに従っており、インドネシア東部経由の代替経路と、パプアとアジア東部の古代人口集団間の長期の相互作用が組み込まれる、と示されます。


●この研究の限界

　未解決の明代は、FROの異なる3系統、とくにFROパラオの地理的および時間的起源です。パラオとフィリピンとスラウェシ島とハルマヘラ島のより古い時期に焦点を当てた古代DNA研究は、オーストロネシア人の拡散の前後の人口動態の変化に重要な知見を提供するでしょう。


参考文献：
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<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202206article_14.html">関連記事</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　取り上げるのが遅れてしまいましたが、パラオの古代人のゲノムデータを報告した<a href="https://doi.org/10.1016/j.cell.2026.02.011"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Liu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、パラオの2900～500年前頃の4ヶ所の遺跡から発見された21個体のゲノムデータを報告し、この21個体全員が、アジア東部人と関連する約60%の遺伝的祖先系統祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）、およびパプア人と関連する約40%の祖先系統を有している、と示しました。このゲノム構成はパラオの現代人と似ており、長い人口連続性を示しています。パラオに最初の人類が定住する前に、この2祖先系統の混合はすでに起きていたことも分かり、これは、太平洋南西部の最初期住民の遺伝的構成要素が、ほぼ完全にアジア東部関連祖先系統だったこととは対照的です。遠（リモート）オセアニアと近（ニア）オセアニアは古代ゲノム研究に適した環境ではありませんが、近年の古代ゲノム研究の進展は目覚ましく、今後も大いに注目される地域です。以下は本論文の要約図です。<br /><div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-fx1_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-fx1_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="365" class="up-image" title="要約図" /></a></div><br />　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、mtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）、YHg（Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ）、SNP（Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、IBD（identity-by-descent、同祖対立遺伝子）、ROH（runs of homozygosity、同型接合連続領域）、cM（centimorgan、センチモルガン）、MP（Malayo-Polynesian、マレー・ポリネシア）語派、AMS（accelerator mass spectrometry、加速器質量分析法）、PNG（Papua New Guinean、パプアニューギニア人）、NG（New Guinea、ニューギニア）FRO（First Remote Oceanian、最初の遠オセアニア人）、SWP（SouthwestPacific、南西太平洋）、NB（NewBritain、ニューブリテン島）、OOA（Out Of Africa、出アフリカ）、C（carbon、炭素）、N（nitrogen、窒素）、CI（confidence interval、信頼区間）、DATES（Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布）です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な人類集団や言語は、コルディリェラ人（Cordilleran）、カンカナイ人（Kankanaey）、チャモロ語（CHamoruはグアムの言語学の専門家に好まれ、Chamorroはマリアナの他の地域で用いられています）、傣人（Dai）、バヌアツ現地人（ni-Vanuatu）、ナシオイ（Nasioi）人です。本論文で取り上げられる主要な文化は、ラピタ（Lapita）文化、ウナイ（Unai）文化、ラッテ（Latte）文化、フヨン（Huyong）文化です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な地名や島は、バベルダオブ（Babeldaob）島、コロール（Koror）島のゲサオル（Ngesaol）のゲルメレウエス尾根（Ngermereues Ridge）埋葬洞窟およびウチェリウングス・ロックアイランド（Ucheliungs Rock Island）、ウルクターブル島（Ngeruktabel）のオメドクル・ロックアイランド（Omedokl Rock Island）埋葬洞窟および（Ngkeklau）、バベルダオブ（Babeldaob）島北東部のガクラオ（Ngkeklau）、チェレコル・ラ・オラック（Chelechol ra Orrak）、ウーロン島（Ulong Island）、アドミラルティ諸島（Admiralty Islands）のマヌス（Manus）島、チューク（Chuuk）諸島、ポンペイ（Pohnpei）保護環礁、パプアニューギニアのセピック（Sepik）地域、インドネシアのモロタイ（Morotai）島のアル・マナラ（Aru Manara）石灰岩洞窟およびタンジュン・ピナン（Tanjung Pinang）、インドネシアの北マルク州（Northern Maluku）とハルマヘラ（Halmahera）島です。<br /><br /><br /><strong>●要約</strong><br /><br />　遠オセアニアに最初の人類が到達したのは3000年前頃で、太平洋南西部とマリアナ諸島とパラオにほぼ同時に到来しました。しかし、パラオのゲノム規模古代DNAデータは理由できず、本論文は2900～500年前頃の間の4ヶ所の考古学的遺跡から発見された21個体の報告によって、この空白に取り組みます。この21個体は全員、アジア東部人と関連する約60%の祖先系統、およびパプア人と関連する約40%の祖先系統を有し、現在のパラオ人と類似しており、オセアニアのどこよりも長い人口連続性となります。最古級の個体群における連続的なパプア人祖先系統断片の長さから、標本抽出されたパプア人全員の祖先におけるパプア人とアジア東部人との間の主要な混合は、最初の定住の前に始まった、と示されます。これは太平洋南西部のパターンとは異なっており、太平洋南西部では、異なる3ヶ所の島のラピタ考古学的文化の標本抽出された個体群は、ほぼ完全なアジア東部祖先系統を有しており、大量のパプア人との混合がやっと観察されるのは、その数百年後です。<br /><br /><br /><strong>●研究史</strong><br /><br />　ラピタ考古学的複合体の人々から得られた古代DNAデータでは、年代が3000～2500年前頃にまたがり、異なる2ヶ所の群島の3ヶ所の遺跡から標本抽出された、太平洋南西部のこの最初の文化の分析された全個体は、96～100%程度のアジア東部祖先系統を有しており［1～8］、もはや混合していない形態では存在せず、FRO（FRO<sub>SWP</sub>）と呼ばれてきた人口集団に由来する［2、3、5、6］、と示されています。遺伝学的分析から、これらの個体のアジア東部人の祖先はフィリピンのルソン島北部のコルディリェラ人（たとえば、カンカナイ人）と最も密接に関連しており［1～8］、台湾の新石器時代および鉄器時代集団との関連はより遠い［10、11］、と示唆されています。2500年前頃のラピタ文化後の個体群以降、大規模でおもに男性手動の太平洋南西部への移住があり、これはニューギニアおよび近隣の島々で数万年支配的で、具体的にはビスマルク諸島のニューブリテン島の人々と関連している系統（パプア人<sub>NB</sub>）からのほぼ完全なパプア人祖先系統を有していました［3～6］。現在、ほとんどの先住のバヌアツ現地人は80%超のパプア人祖先系統を有しており、これは東方ではフィジーへも広がり、さらに東方へとポリネシアに拡大して、ポリネシアでは現在、人々の祖先系統の少なくとも25%パプア人関連です［2］。<br /><br />　ミクロネシアでは、2800～2400年前頃となるマリアナ南部（グアム）のウナイ期個体群から、最古級の古代DNAが得られています［6、8］。その祖先系統（FRO<sub>マリアナ</sub>）は太平洋南西部のラピタ文化個体群と近い姉妹群です（FRO<sub>SWP</sub>）。マリアナのラッテ期の個体群（グアムとサイパン）の祖先系統の15%は、パセオの現代人の主要なアジア東部祖先系統（FRO<sub>パラオ</sub>）と関連する別のアジア東部供給源に由来し、この人々は2400～1700年前頃に、おそらくはマリアナの新たな土器様式および内陸部の集落拡大によって特徴づけられるフヨン期にFRO<sub>マリアナ</sub>と混合しました。ポンペイやチュークなどミクロネシア中央部の島々の居住はその後で、マリアナの人々と共有されており、太平洋南西部の混合の証拠は2500～2000年前頃です［6］。しかしミクロネシア中央部では、混合の供給源は異なっており、男性のパプア人<sub>NG</sub>（太平洋南西部のようなパプア人<sub>NB</sub>ではなく）と女性のFRO<sub>SWP</sub>（FRO<sub>マリアナ</sub>とミクロネシア西部のFRO<sub>パラオ</sub>のどこかのアジア東部供給源とは異なります）祖先系統でした［6］。<br /><br />　パラオの歴史は、遠オセアニアにおけるヒトの出現の物語において中心的です。ヒトはまずパラオの石灰岩ロックアイランドと火山性のバベルダオブ島に3200年前頃に居住し、これはマリアナと太平洋南西部に別の移住の波が到達したのと同じ時期です。別の再構築では、パラオ語はMP語派内の残留下位集団の一部とされ、MP語派はフィリピンやマリアナやインドネシア西部（遠くスラウェシ島とボルネオ島まで）とアジア南東部本土で話されている言語からも構成されています。別の再構築では、パラオ語とチャモロ語とオセアニアのオーストロネシア語族（遠オセアニアの大半で話されています）は、等しく異なる枝に割り当てられています。これらの再構築は、パラオとマリアナと太平洋南西部と遠オセアニアの他地域で話されている言語には共通の起源がある、つまり、その後で少なくとも異なる3系統に分岐した単一の遠オセアニア祖先人口集団を示唆している点で一致します。遺伝学的手がかりも、パラオの重要な役割を示しています［6］。パラオにはFRO系統の最初の分岐（FRO<sub>パラオ</sub>）があり、現代パラオ人の祖先系統の約60%に寄与しており、残りはおもに、ニューギニア本土と関連する男性由来のパプア祖先系統（パプア人<sub>NG</sub>）で、混合年代は2800～2000年前頃と推定されています。現在のパラオ人から得られた遺伝学的証拠は、ミクロネシア中央部やマリアナや太平洋南西部から得られた古代DNAとともに、2500～2000年前頃の間の遠オセアニアにおける、主要な性別の偏った移住および相互作用の異なる4回の事例を明らかにします。パラオ古代人からのDNAなしには、このミクロネシア最南西部諸島の役割は、依然として不明でした。<br /><br /><br /><strong>●分析結果</strong><br /><br />　パラオの4ヶ所の考古学的遺跡から発見された、37点の骨格標本が分析されました（図1A）。その内訳は、コロール島のゲサオルのゲルメレウエス尾根埋葬洞窟（OR-3:30、以下、コロール採石場）から22個体、ウチェリウングス・ロックアイランド埋葬洞窟（OR-14:8、以下、ウチェリウングス）から6個体、オメドクル・ロックアイランド埋葬洞窟（OR-15:8、以下、オメドクル）から4個体、バベルダオブ島北東部のおそらくはガクラオ地域（以下、ガクラオ）から5個体です。100万ヶ所以上のSNPについて、溶液濃縮を用いてゲノム規模古代DNAデータが生成されました。対象の近くのSNPを含めて、最大で約200万ヶ所の多型SNPからのデータが分析されました。汚染の証拠がない個体のみを選別後、21個体でデータが回収され、コロール採石場から12個体、ウチェリウングスから3個体、オメドクルから3個体、ガクラオから3個体です（表1）。これらの個体のうち、密接な親族や長いROHやIBD断片の大きな共有は見つかりませんでした。以下は本論文の図1です。<br /><div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-gr1_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-gr1_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="275" class="up-image" title="図1" /></a></div><br />　正確な年表は、この研究の主要な調査結果にとって重要です。13個体で17点のAMS放射性炭素年代が生成され、この13個体ではゲノム規模古代DNAデータも得られました。これらの各年代について、コラーゲンの保存状態について情報を提供する、炭素および窒素同位体の測定値が得られました。12点の標本が、ジョージア大学応用同位体研究所で前処理され、年代測定されました。ニューメキシコ大学安定同位体研究所で追加の5点が前処理され、続いてペンシルベニア州立大学で年代測定されました。炭素と窒素の原始重量比（C:N）が2.9～3.4の推奨範囲ではなかった年代は、除外されました。標本1点で2点の年代が得られ、一方があり得る汚染を除去するために限外濾過もしくはアミノ酸分離によって前処理された骨のコラーゲンに基づき、もう一方がそうした前処理がなされなかった場合は、常に前処理に基づく年代が用いられました。これらの手順の適用後に、11点の標本で直接的年代が得られました。<br /><br />　ウチェリウングスから得られた年代のうち2点は、パラオの定住時期に近く、ウチェリウングス遺跡の文化資料の予測される放射性炭素年代の範囲内に収まり、較正年代では、I41048は2924～2710年前（限外濾過の年代）、I41049は2776～2495年前です。骨のコラーゲンの放射性炭素年代の食性補正は、食事のタンパク質に由来するコラーゲンに組み込まれた、海洋性炭素の割合を反映するはずで、食性全体の海洋性食料の割合を反映しているわけではありません。本論文の主要な分析について、50%の海洋性蛋白質と50%の陸生タンパク質の仮定を用いて、年代が較正されました。タンパク質における海洋性の割合と海洋貯蔵相殺について、さまざまな他の仮定でも年代が推定され、パラオの最初の定住に選好するパプア人とアジア東部人との間の主要な混合に関する本論文の重要な調査結果は堅牢だった、と分かりました。<br /><br /><br /><strong>●ほぼ3000年間にわたってのパラオにおける少なくとも40%のパプア祖先系統</strong><br /><br />　人口構造の概要を得るために、異なる配列で遺伝子型決定された多様な太平洋人口集団からのデータの統合によって、約300万のSNPでPCAが実行されました。現在の傣人（中国南部）とナシオイ人（ソロモン諸島北部）とニューギニア人（パプアニューギニアの高地東部と中央セピック地域）から得られた全ゲノムショットガン配列決定データを用いて軸が計算され、他の個体が投影されました。第1主成分（PC）はアジア東部関連祖先系統の割合と相関していますが（PC1、左側は下方、右側は上方）、第2主成分はソロモン諸島とニューギニアからパプア祖先系統を区別します（PC2、上方から下方）。コロール採石場とウチェリウングスとオメドクルとガクラオの古代の個体群や現在の個体群は、ニューギニアと他のミクロネシアの集団をつなぐ遺伝的勾配に沿って位置しています。<br /><br />　対称性f₄統計（X、カンカナイ人；ニューギニア高地人、傣人）が計算され、パラオの古代の全個体には顕著なパプア人との混合があった（パプア祖先系統の証拠がない基準としてカンカナイ人が用いられました）、と確証されました。アジア東部人との混合に起因する偏りの補正後に、さまざまなパプア人供給源との類似性を計算する、f₄統計に基づく回帰手法を用いて、パプア人との混合はソロモン諸島もしくはビスマルク諸島の人々とよりもニューギニア高地人集団とより密接に関連し、ごく小さな標準誤差で約40%の遺伝的祖先系統に相当する、と分かりました。この推定値は、同じ手法によって推定される現在のパラオ人におけるパプア人祖先系統の水準［6］とひじょうに類似しています。パラオのパターンは太平洋南西部とは定性的に異なっており、パラオが過去2800年間にわたって比較的安定した水準のパプア祖先系統を示すのに対して、バヌアツは2500年前頃のラピタ期末に続く急激な増加を示しています（図2）。以下は本論文の図2です。<br /><div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-gr2_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-gr2_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="315" class="up-image" title="図2" /></a></div><br />　qpAdmを用いると、ウチェリウングスのパプア祖先系統（43.2±0.9%）はコロール採石場（40.7±0.7%）やオメドクル（40.0±0.9%）やガクラオ（39.6±0.8%）よりわずかに高かった、と推定されます。f₄統計（X、ウチェリウングス；ニューギニア高地人、傣人）が計算され、コロール採石場やオメドクルやガクラオと比較して、ウチェリウングスにおけるパプア祖先系統の小さいものの統計的に有意な過剰が確証されました。放射性炭素年代の範囲（表1）に基づいてこれらの個体が分類され、それぞれ、2900～2500年前頃、1700～1200年前頃、700～500年前頃です。パラオにおけるパプア祖先系統の割合は、基準としてウチェリウングスの個体群（2900～2500年前頃）を用いると、経時的に最大10%減少し、この減少が統計的に有意だったことは、f₄統計で確証されました。現代人と同様にすべての遺跡で、パラオのパプア祖先系統はおもに男性の祖先に由来する、と推測され、X染色体よりも常染色体の方でパプア祖先系統は有意に多くなっています。<br /><br />　グアムのウナイ後期およびラッテ期個体群とバヌアツおよびトンガのラピタ集団は一貫して、先史時代のパラオのアジア東部祖先系統と一致しますが、1個体は他の個体よりも統計的に適切な代理ではありませんでした。先史時代パラオ人における独特なFRO<sub>パラオ</sub>系統について形式的に検証するために、今度はパラオ人を表す古代DNAデータの使用によって、補足図S3で示されるような混合図が修正されました。最適なモデルでは、先史時代のパラオ人が、現在のパラオ人と同様に、約60%のFRO<sub>パラオ</sub>と約40%のパプア祖先系統を有する、と推定され、これはパラオにおける少なくとも2800年間の強い遺伝的連続性の証拠を提供します。<br /><br /><br /><strong>●パラオ人におけるパプアおよびアジア東部祖先系統はパラオの最初の定住前に混合しました</strong><br /><br />　DATESを用いると、FRO<sub>パラオ</sub>とパプア人<sub>NG</sub>の系統間の混合の平均時期は、最古のパラオの個体I41048が生きていた時期の30.1±3.5世代前と（95%CIで37～23世代前）推定されます。人類学的および遺伝学的研究［19］に基づいて、1世代の平均年代は28.4±0.7年（95%CIで27～30年）と仮定されます。最古級のウチェリウングス個体（I41048）の直接的な年代範囲がさらに組み込まれ、較正後の年代は2799±53年前（95%CIで2924～2710年前）です。3点すべての標準誤差を考慮すると、混合時期の95%CIは3880～3429年前頃と分かりました。パラオは一般的に、ウーロン島の放射性炭素年代に基づいて、3200～3000年前頃に居住された、と考えられています。この考古学的推定と本論文の遺伝的データを組み合わせると、パラオの最初の人々の祖先はすでに、太平洋南西部へのパプア祖先系統の2500年前頃の大規模な移動の1000年近く前に、パプア祖先系統の人々と混合していた、と結論づけられます（図3）。以下は本論文の図3です。<br /><div align="center"><a href="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-gr3_lrg.jpg"><img src="https://ars.els-cdn.com/content/image/1-s2.0-S0092867426001765-gr3_lrg.jpg" alt="画像" width="365" height="602" class="up-image" title="図3" /></a></div><br />　ウチェリウングスの2番目に古い個体（I41049）の放射性炭素年代の不確実性範囲は、最古の個体と重なります。この2個体の分析を組み合わせると、依然として3864～3213年前頃の混合年代が得られ、これはパラオへの考古学的に推定された定住より古くなります。より新しいパラオの個体群の混合年代に関する本論文の推定値の95%CIは、多数の事例で決定的に3200年前頃より古い混合年代を示唆しており、つまりは定住に先行しているものの、一部のCIは3200年前頃以後も含んでいます。現在のパラオ人については、混合年代推定値は2791～2040年前頃で顕著に新しく、これは、3200年前頃以後のパラオへの継続的な移住によって説明でき、じっさい、その後の個体群におけるアジア東部祖先系統のより高い割合と一致します。<br /><br />　パラオの最初の定住に選好する主要なパプア人とアジア東部人の混合に関する本論文の重要な調査結果は、最古級のウチェリウングス個体群の年代に依拠しているので、最古級のウチェリウングス個体（I41048）の放射性炭素年代の較正について、代替的な仮定の影響が調べられました。具体的には、文献で−250±50～+168±43年前の海洋保存補正仮定（ΔR）が調べられ、それは海洋データベースに基づいてパラオで利用可能な−140±35年前の推定値で、これは主要な文献で引用された較正の基礎として用いられています。より正の方向のΔR値では、より新しい較正年代が得られたのに対して、より負の方向のΔRｱ台ではより古い年代がもたらされ、ウチェリウングスがあるパラオの南西礁湖に固有のΔRｱｱ台はすべてこの範囲の負の部分にあり、−250±50年前と−140±35年前と−52±22年前で、より古い年代が予測されます。50%のパラオ古代人の食性タンパク質における海洋性の割合を仮定するならば、これは、チェレコル・ラ・オラックの石灰岩の岩陰における3100年前頃の埋葬かに得られた25%の海洋性食性タンパク質の推定値を用いる場合よりも、本論文の年代推定値が控えめに新しくなり、パプア人とアジア東部人との混合年代の95%CIは常に、仮定されたΔRに関わらず3200年前頃より古くなります。−140±35年前にΔRを設定する逆の手法を用いて、食性における海洋性タンパク質の仮定割合を0～100%に変えても、混合のCIは常に3200年前頃より古くなります。<br /><br />　チェレコル・ラ・オラックから得られた年代は、遺伝学的観点からも本論文の結果と一致します。チェレコル・ラ・オラック遺跡からは利用可能なゲノム規模データが得られておらず、標本を分析できませんが、4点のミトコンドリアゲノム配列が7点の標本（較正年代で2717～1566年前頃）から回収されており、mtHgではB4とD4とE1とM7に属し、これらはすべてアジア東部において一般的です。本論文で新たに報告されるmtHgにはE1/E2とB4/B5とP1が含まれており、このうちE1/E2とB4/B5はアジア東部人口集団において一般的です（チェレコル・ラ・オラックのパターンと同様です）。mtHg-P1はおもにパプア人とメラネシア人とオーストラリア先住民で見られ、パラオ人のパプア祖先系統は母系と父系の両方で到来した、と示されます。これらすべてのハプログループは、現在のパラオ人でも見られます［6］。<br /><br /><br /><strong>●パラオ人の祖先の起源地の可能性が高いワラセア</strong><br /><br />　アジア東部およびパプア両方の祖先系統を有していた可能性が最も高い、パラオの最初期住民の起源について知見を得るために、本論文のデータが近隣地域から以前に報告されたデータと共同分析されました。その結果、パラオ人におけるアジア東部祖先系統（FRO<sub>パラオ</sub>）は、太平洋南西部とマリアナの初期FRO系統とよりも、北マルク州のモロタイ島のアル・マナラおよびタンジュン・ピナンの2100年前頃の東インドネシア人のアジア東部祖先系統の方と密接に関連している、と分かりました。したがって、FRO<sub>パラオ</sub>とパプア人<sub>NG</sub>の独特な組み合わせは、パラオとこれらモロタイ島個体群との間で特異的に共有されています。qpAdmにおいて供給源としてモロタイ島古代人を用いて、パラオの祖先系統をモデル化すると、このモデルは、外群にバヌアツとトンガの初期個体群（FRO<sub>SWP</sub>）もしくはマリアナ諸島の初期個体群（FRO<sub>マリアナ</sub>）を含めてさえ、成立します。これは、パラオ人の初期の祖先におけるアジア東部祖先系統とパプア祖先系統の特定の混合がインドネシア東部の人々の祖先系統でも起きた、との結論をさらに裏づけます。標本抽出が限られているため、他のインドネシア東部地域に類似の祖先系統があり、起源地だった可能性を除外できません。<br /><br />　2100年前頃のモロタイ島標本には約30%のパラオと同じ種類のニューギニアからのパプア祖先系統と、約70%のアジア東部祖先系統（パラオ人より約10%多いアジア東部祖先系統）があります［25］。モロタイ島個体群におけるこの2祖先系統の混合は、これらの個体が生きていた約23±3世代前に起きた、と推定されます。較正された直接的な放射性炭素年代を組み込むことによって、モロタイ島個体群における混合時期の95%CIは3016～2176年前頃（以前の推定値［25］と類似しています）と計算され、それが最初期のパラオ人より遅いのは、モロタイ島の古代の個体群が、その後のパラオ人と同様に、経時的にアジア東部祖先系統を受け取り続けたかもしれないからです。<br /><br /><br /><strong>●考察</strong><br /><br />　パラオの定住は、遠オセアニアへのヒトの拡散における最初期の出来事の一つでした。古代人と現代人のDNAの以前の再構築は、遠オセアニアの2ヶ所の地域（太平洋南西部とミクロネシア中央部）や、現在のパラオ人の遺伝的祖先系統における、FROとパプア系統の2500～2000年前頃の間の男性に偏った混合を明らかにしました［2、5、6］。これらのパターンに基づくと、パラオ人の祖先へのパプア祖先系統の混合は他の遠オセアニア人と同じ時期に起きた、と自然に予測されるので、より古いパプア人との混合を示した本論文の結果は、驚くべき者でした［2～6、8］。<br /><br />　本論文の分析ではFRO系統の最初の分岐と示唆された、FRO<sub>パラオ</sub>祖先系統の地理的起源はどこだったのでしょうか？先行研究は、FRO<sub>パラオ</sub>系統が2400～1700年前頃の間にマリアナで混合し、ラッテ期人口集団の祖先が生じたものの、パラオに存在するパプア祖先系統はなかった、と推定したので［6］、この祖先系統が直接的にパラオ起源だった可能性は低そうです。パラオで観察されたパプア人とFROの祖先系統の混合と、北マルク州のモロタイ島の2100年前頃の個体群との間の類似性を考えると、むしろこの起源地はワラセア北部のマルク地域のどこかにあった、と考えるのが妥当です。しかし、モロタイ島の人々は、パラオ人のようにオーストロネシア語族を話しているのではなく、パプア諸語を話しており、考古学的研究は2300～2000年前頃までモロタイ島には土器を使用した人口集団が存在しなかった、と示唆しており、この頃に金属器時代の強い影響が現れ、それはパプア人<sub>NG</sub>とFRO<sub>パラオ</sub>の混合が起きたのと同じ時期です。モロタイ島における混合の遺伝学的年代は、パラオより遅くなります。したがって、現在のモロタイ島人口集団は、パラオの最初の人々の混合がない、直接的子孫ではあり得ません。<br /><br />　マルクを含むインドネシア東部のより広範な地域は、3200年前頃以後にパラオへと拡大した、FRO<sub>パラオ</sub>祖先系統と混合したパプアおよびアジア東部人口集団の両方の起源地の主要な候補ではありません。この頃に、海水準は完新世半ばの高海水準から低下しつつあり、これは海洋生息地を変えて、海岸線を広げ、耕作に適した低地土壌が蓄積され始めた、長期の仮定でした。同じ頃に、エルニーニョ南方振動気象体系の変動増加が、より強いモンスーンとより頻繁な旱魃をもたらしました。これらの環境変化は、ワラセア北部からの誘導的な海洋採食民に、パラオなどミクロネシア西部の無人の小島群の探索を促進したかもしれず、そうした島では、高度に生産的な浅海生息地が現れつつありました。航海模擬実験技術を気候および海洋地理データや内陸部の分析と組み合わせた古代の航海モデルでは、スラウェシ島北部を含めてミンダナオ島からハルマヘラ島の弧状から出発した人々が、パラオの上陸に成功できた可能性はあり得ます。インドネシア北東部からのパラオの定住との想定は、パラオの岩絵とマルク州の島々との間で見つかった類似性とも一致し、両者は赤色の顔料に依存し、見えやすい海岸の断崖に位置しています。これらの想定は、関連する時期と場所の古代DNAデータで検証できます。<br /><br />　パラオの最初の入植者がマヌス島のようなアドミラルティ諸島から到来した、と仮定することは魅力的ですが、これはミクロネシア中央部におけるパプア祖先系統の候補起源地域として特定されてきており、パラオ人のような同じ種類のパプア祖先系統を有しています［6］。しかし、そうした想定が本論文のデータを説明できないのは、パラオとアドミラルティ諸島におけるアジア東部祖先系統が明らかに異なるからです。太平洋南西部とミクロネシア中央部で見られるアジア東部祖先系統が一般的に「ラピタ的」（FRO<sub>SWP</sub>）であるのに対して［6］、パラオにおけるアジア東部祖先系統は異なっているので（FRO<sub>パラオ</sub>）、この2ヶ所の地域におけるアジア東部人とパプア人の混合史は関連していません。<br /><br />　これらの調査結果は、遠オセアニアの最初の定住に関する理解を質的に変えます。一般的に議論されている歴史言語学的モデルは、オーストロネシア語族の台湾起源と、台湾からフィリピン、さらにはマリアナとパラオを含めてミクロネシア西部への、稲作に依存する新石器時代人口集団の長期の人口拡大による太平洋規模の拡散を想定しています。しかし、本論文の調査結果はパラオにおいてこのモデルと矛盾しており、遠オセアニア諸島の最初の定住は、最小限の相互作用もしくは在来人口集団との混合を伴う、フィリピンを経由しての台湾からの直接的に移住しただけの結果ではなかった、と示されます。とくに、分岐したFRO系統に対応するパラオへの経路はより複雑なにパターンに従っており、インドネシア東部経由の代替経路と、パプアとアジア東部の古代人口集団間の長期の相互作用が組み込まれる、と示されます。<br /><br /><br /><strong>●この研究の限界</strong><br /><br />　未解決の明代は、FROの異なる3系統、とくにFRO<sub>パラオ</sub>の地理的および時間的起源です。パラオとフィリピンとスラウェシ島とハルマヘラ島のより古い時期に焦点を当てた古代DNA研究は、オーストロネシア人の拡散の前後の人口動態の変化に重要な知見を提供するでしょう。<br /><br /><br />参考文献：<br />Liu YC. et al.(2026): Papuan admixture predated the settlement of Palau. Cell, 189, 9, 2573–2581.E10.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.cell.2026.02.011" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.cell.2026.02.011</a><br /><br />［1］Lipson M. et al.(2014): Reconstructing Austronesian population history in Island Southeast Asia. Nature Communications, 5, 4689.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/ncomms5689" target="_blank">https://doi.org/10.1038/ncomms5689</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201408article_23.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［2］Skoglund P. et al.(2016): Genomic insights into the peopling of the Southwest Pacific. Nature, 538, 7626, 510–513.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature19844" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature19844</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201610article_5.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［3］Lipson M. et al.(2018): Population Turnover in Remote Oceania Shortly after Initial Settlement. Current Biology, 28, 7, 1157–1165.e7.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.cub.2018.02.051" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.cub.2018.02.051</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201803article_6.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［4］Posth C. et al.(2018): Language continuity despite population replacement in Remote Oceania. Nature Ecology & Evolution, 2, 731–740.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41559-018-0498-2" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41559-018-0498-2</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201803article_6.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［5］Lipson M. et al.(2020): Three Phases of Ancient Migration Shaped the Ancestry of Human Populations in Vanuatu. Current Biology, 30, 24, 4846–4856.E6.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.09.035" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.09.035</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202011article_20.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［6］Liu YC. et al.(2022): Ancient DNA reveals five streams of migration into Micronesia and matrilocality in early Pacific seafarers. Science, 377, 6601, 72–79.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.abm6536" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.abm6536</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202207article_7.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［7］Choin J. et al.(2021): Genomic insights into population history and biological adaptation in Oceania. Nature, 592, 7855, 583–589.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-021-03236-5" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-021-03236-5</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202105article_3.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［8］Pugach I. et al.(2021): Ancient DNA from Guam and the peopling of the Pacific. PNAS, 118, 1, e2022112118.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.2022112118" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.2022112118</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202012article_32.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［10］Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aba0909" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aba0909</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202005article_26.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［11］Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202103article_15.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［19］Iasi LNM. et al.(2024): Neanderthal ancestry through time: Insights from genomes of ancient and present-day humans. Science, 386, 6727, eadq3010.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.adq3010" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.adq3010</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202412article_19.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［25］Oliveira S. et al.(2022): Ancient genomes from the last three millennia support multiple human dispersals into Wallacea. Nature Ecology & Evolution, 6, 7, 1024–1034.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41559-022-01775-2" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41559-022-01775-2</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202206article_14.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><a name="more"></a>

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            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_8.html</link>
      <title>網野善彦氏が遺した問題</title>
      <pubDate>Wed, 08 Jul 2026 07:07:03 +0900</pubDate>
            <description>　最近、個人的なテレビ視聴の歴史について述べましたが（関連記事）、まだある程度記憶が残っているうちに、体系的ではなくとも備忘録として残しておきたい、と思ったからです。今回は、以前から考えている歴史にまつわる問題について、備忘録として残しておきます。これらの問題について、今後いつかはある程度の見通しを立てられるようにしたいものですが、大きな問題でもあるので、難しいところがあります。ただ、いつかは少なくとも自分で体系的に整理し、私見を述べたいとは考えています。　網野善彦『無縁・苦..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　最近、個人的なテレビ視聴の歴史について述べましたが（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202606article_30.html">関連記事</a>）、まだある程度記憶が残っているうちに、体系的ではなくとも備忘録として残しておきたい、と思ったからです。今回は、以前から考えている歴史にまつわる問題について、備忘録として残しておきます。これらの問題について、今後いつかはある程度の見通しを立てられるようにしたいものですが、大きな問題でもあるので、難しいところがあります。ただ、いつかは少なくとも自分で体系的に整理し、私見を述べたいとは考えています。

　網野善彦『無縁・苦界・楽』増補版第8刷（平凡社、1994年、初版第1刷の刊行は1978年）の「まえがき」には、以下のようにあります。

　歴史学を一生の仕事とする決意を固めるのと、ほとんど同じころ、私は高等学校（都立北園高校）の教壇に立った。私にとって、これが初めての教師経験であり、生徒諸君の質問に窮して教壇上で絶句、立ち往生することもしばしばであった。その中でつぎの二つの質問だけは、鮮明に記憶している。
「あなたは、天皇の力が弱くなり、滅びそうになったと説明するが、なぜ、それでも天皇は滅びなかったのか。形だけの存在なら、とり除かれてもよかったはずなのに、なぜだれもそれができなかったのか」。これは、ほとんど毎年のごとく、私が平安末・鎌倉初期の内乱、南北朝の動乱、戦国・織豊期の動乱の授業をしているときに現れた。伝統の利用、権力者の弱さ等々、あれこれの説明はこの質問者を一応だまらせることはできたが、どうにも納得し難いものが、私自身の心の中に深く根を下していったのである。
　もう一つの質問に対しては、私は一言の説明もなしえず、完全に頭を下げざるをなかった。
「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか。ほかの時代ではなく、どうしてこの時代にこのような現象がおこったのか、説明せよ」。
　この二つの質問には、いまも私は完全な解答を出すことができない。ただ、そのとき以来、脳裏に焼きつき、いつも私の念頭から離れなかったこの問題について考えつづけてきた結果の一部を、一つの試論としてまとめたのが本書である。

　天皇（という政治的枠組み）がなぜ続いたのか、平安末期～鎌倉時代にかけてのみ優れた宗教家が輩出したのはなぜか、というのは、確かに日本史における大きな問題とは思います。尤も、平安末期～鎌倉時代にかけて「のみ」優れた宗教家が輩出した、との前提が妥当なのか、問われるとは思います。とはいえ、近年でも、平安末期～鎌倉時代にかけては仏教が最も生き生きとした時代だった、とも指摘されています（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201310article_16.html">関連記事</a>）。ただ、「鎌倉新仏教」という概念については、第二次世界大戦後に提唱された顕密体制論によって、大きく見直されることになりました。

　そうした知見も踏まえて、中世初期の日本仏教について、以前にまとめました（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201809article_38.html">関連記事</a>）。この記事で取り上げた近年の見解では、仏教では三要素である戒律と修行と教学の三学一致が基本であるものの、平安時代後期にはとくに上級の僧侶で教学が極端に重視されるようになり、それに対して、三学全体を盛んにしていこうとした入宋僧などが現れた一方で、三学の修業は困難なので、そこに拘らず、異なる救済を創造する、という念仏系や法華系の教えが現れた、とされます（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201809article_38.html">関連記事</a>）。その極端な方向性の違いが、この時期の日本仏教を活性化させたのでしょうが、その前提となるのは、やはり11世紀半ばに末法の世に入った、との認識が深く浸透していたことなのだと思います。もちろん、中世初期に日本仏教が活性化した理由として、末法の世のみを挙げるのは不適切でしょうし、いつかは、自分なりに体系的に整理しておきたいところです。

　天皇がなぜ続いたのかは、現代日本社会においてもっと関心の高い問題と思います。ここに本質的な尊さ若しくは後進性を見いだすのは、正反対の立場のように見えて、似ているように思います。それは、日本（史）の特殊性を重く見ていることが背景にあるからです。もちろん、日本も日本史もそれ自体が特異で独特な存在であることは確かですが、それは他地域にも当てはまることです。やや突き放して考えてみると、天皇が続いたのは惰性が大きかった、とも言えるかもしれません。もう少し学術的に言えば、「経路依存性」です。

　まだインターネットが普及していなかった1990年代前半に、生命科学系の分野を専攻していた同年生まれの知人に、称徳天皇が道鏡に譲位しようとしたのは、天皇が元々は世襲制でなかった、との記憶がまだ残っていたからで、この企てが成功していたら、天皇制は続かなかったか、世襲制ではなくなったかもしれない、と指摘されたことがありました。それでも、貴族のほとんどは道鏡への譲位に反対しており、やはり当時から世襲は定着していたのではないか、というように反論した記憶がありますが、この問題はずっと自分の「課題」として頭に残っていました。

　近年では、5世紀以前の日本（と言うと、日本ではなく倭国だ、と網野氏に怒られそうですが）において、君主（王）の地位は一家系（的集団）に独占されていたのではなく、複数の王統が存在した、との見解が有力なようですが、奈良時代にはそうした記憶がまだ曖昧ながら残っており、それが称徳天皇の道鏡への譲位の試みの背景にあった、と考えることができるかもしれません。そうすると、世襲の天皇が続いたのは、称徳天皇の企てが失敗し、その後も世襲が続いたことで、天皇は世襲されるものとの観念が日本の知識（支配）層で完全に固定された結果にすぎないのかもしれません。惰性で続いた、というわけですが、これもひじょうに単純化した見方であることは否めず、この問題について、いつかは、自分なりに体系的に整理して、一定の見解を提示したいものです。

　天皇と関連して、小学生の頃よりずっと疑問に思っているのは、天皇が実際の権力を有していたのは平安時代初期までで、その後は後醍醐天皇のような例外を除けば、祭祀を司る存在として権威や象徴にすぎなかったので、現代まで続いた、というような見解です。こうした見解では、摂関期には天皇が政治権力的に無力な存在だった、と想定されています。ただ、幼帝を補佐する摂政はともかく、関白が天皇を無視して権力を振るえたわけではありませんし、院政期にしても、少なくとも堀河天皇と二条天皇は、実際の政治権力を振るわなかった、とはとても言えないでしょう。院政の象徴的存在とも言える白河上皇にしても、堀河天皇と関白の藤原師通が長命だった場合、史実のような政治権力を振るえたのか、大いに疑問が残ります。

　天皇は平安時代初期以降に権力から切り離され、祭祀を司る存在として権威や象徴にすぎなかった、というような見解は、第二次世界大戦後の天皇の在り様を過去に投影したところが多分にあり、妥当ではないように思います。そもそも近現代の視点では、前近代の政治には祭祀というか宗教的要素が多分にあり、それは摂関にしても上皇にしても同様で、武家政権の実質的な最高権力者にもそうした側面があるのではないか、と思います。南北朝時代を経て、天皇の実効的な政治権力が古代と比較して著しく低下したことは否定できないかもしれませんが、それは朝廷の政治権力の低下を反映しているわけで、この時期以降の天皇を中世初期や古代に遡及させることは問題だと思います。多様な話題で断定的に主張し、自分の見解に反する主張を見下す、「現実主義者」で「知の巨人」であるかのように振る舞う人が、天皇には古代から権力はなく、村祭の神輿のようなものと主張することもありますが、私はそうした見解にはまったく同意しません。この問題についてもいつか、自分なりに体系的に整理して、一定の見解を提示したいものです。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　最近、個人的なテレビ視聴の歴史について述べましたが（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202606article_30.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）、まだある程度記憶が残っているうちに、体系的ではなくとも備忘録として残しておきたい、と思ったからです。今回は、以前から考えている歴史にまつわる問題について、備忘録として残しておきます。これらの問題について、今後いつかはある程度の見通しを立てられるようにしたいものですが、大きな問題でもあるので、難しいところがあります。ただ、いつかは少なくとも自分で体系的に整理し、私見を述べたいとは考えています。<br /><br />　網野善彦『無縁・苦界・楽』増補版第8刷（平凡社、1994年、初版第1刷の刊行は1978年）の「まえがき」には、以下のようにあります。<br /><br />　<span style=color:#00c>歴史学を一生の仕事とする決意を固めるのと、ほとんど同じころ、私は高等学校（都立北園高校）の教壇に立った。私にとって、これが初めての教師経験であり、生徒諸君の質問に窮して教壇上で絶句、立ち往生することもしばしばであった。その中でつぎの二つの質問だけは、鮮明に記憶している。<br />「あなたは、天皇の力が弱くなり、滅びそうになったと説明するが、なぜ、それでも天皇は滅びなかったのか。形だけの存在なら、とり除かれてもよかったはずなのに、なぜだれもそれができなかったのか」。これは、ほとんど毎年のごとく、私が平安末・鎌倉初期の内乱、南北朝の動乱、戦国・織豊期の動乱の授業をしているときに現れた。伝統の利用、権力者の弱さ等々、あれこれの説明はこの質問者を一応だまらせることはできたが、どうにも納得し難いものが、私自身の心の中に深く根を下していったのである。<br />　もう一つの質問に対しては、私は一言の説明もなしえず、完全に頭を下げざるをなかった。<br />「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか。ほかの時代ではなく、どうしてこの時代にこのような現象がおこったのか、説明せよ」。<br />　この二つの質問には、いまも私は完全な解答を出すことができない。ただ、そのとき以来、脳裏に焼きつき、いつも私の念頭から離れなかったこの問題について考えつづけてきた結果の一部を、一つの試論としてまとめたのが本書である。</span><br /><br />　天皇（という政治的枠組み）がなぜ続いたのか、平安末期～鎌倉時代にかけてのみ優れた宗教家が輩出したのはなぜか、というのは、確かに日本史における大きな問題とは思います。尤も、平安末期～鎌倉時代にかけて「のみ」優れた宗教家が輩出した、との前提が妥当なのか、問われるとは思います。とはいえ、近年でも、平安末期～鎌倉時代にかけては仏教が最も生き生きとした時代だった、とも指摘されています（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201310article_16.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）。ただ、「鎌倉新仏教」という概念については、第二次世界大戦後に提唱された顕密体制論によって、大きく見直されることになりました。<br /><br />　そうした知見も踏まえて、中世初期の日本仏教について、以前にまとめました（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201809article_38.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）。この記事で取り上げた近年の見解では、仏教では三要素である戒律と修行と教学の三学一致が基本であるものの、平安時代後期にはとくに上級の僧侶で教学が極端に重視されるようになり、それに対して、三学全体を盛んにしていこうとした入宋僧などが現れた一方で、三学の修業は困難なので、そこに拘らず、異なる救済を創造する、という念仏系や法華系の教えが現れた、とされます（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201809article_38.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）。その極端な方向性の違いが、この時期の日本仏教を活性化させたのでしょうが、その前提となるのは、やはり11世紀半ばに末法の世に入った、との認識が深く浸透していたことなのだと思います。もちろん、中世初期に日本仏教が活性化した理由として、末法の世のみを挙げるのは不適切でしょうし、いつかは、自分なりに体系的に整理しておきたいところです。<br /><br />　天皇がなぜ続いたのかは、現代日本社会においてもっと関心の高い問題と思います。ここに本質的な尊さ若しくは後進性を見いだすのは、正反対の立場のように見えて、似ているように思います。それは、日本（史）の特殊性を重く見ていることが背景にあるからです。もちろん、日本も日本史もそれ自体が特異で独特な存在であることは確かですが、それは他地域にも当てはまることです。やや突き放して考えてみると、天皇が続いたのは惰性が大きかった、とも言えるかもしれません。もう少し学術的に言えば、「経路依存性」です。<br /><br />　まだインターネットが普及していなかった1990年代前半に、生命科学系の分野を専攻していた同年生まれの知人に、称徳天皇が道鏡に譲位しようとしたのは、天皇が元々は世襲制でなかった、との記憶がまだ残っていたからで、この企てが成功していたら、天皇制は続かなかったか、世襲制ではなくなったかもしれない、と指摘されたことがありました。それでも、貴族のほとんどは道鏡への譲位に反対しており、やはり当時から世襲は定着していたのではないか、というように反論した記憶がありますが、この問題はずっと自分の「課題」として頭に残っていました。<br /><br />　近年では、5世紀以前の日本（と言うと、日本ではなく倭国だ、と網野氏に怒られそうですが）において、君主（王）の地位は一家系（的集団）に独占されていたのではなく、複数の王統が存在した、との見解が有力なようですが、奈良時代にはそうした記憶がまだ曖昧ながら残っており、それが称徳天皇の道鏡への譲位の試みの背景にあった、と考えることができるかもしれません。そうすると、世襲の天皇が続いたのは、称徳天皇の企てが失敗し、その後も世襲が続いたことで、天皇は世襲されるものとの観念が日本の知識（支配）層で完全に固定された結果にすぎないのかもしれません。惰性で続いた、というわけですが、これもひじょうに単純化した見方であることは否めず、この問題について、いつかは、自分なりに体系的に整理して、一定の見解を提示したいものです。<br /><br />　天皇と関連して、小学生の頃よりずっと疑問に思っているのは、天皇が実際の権力を有していたのは平安時代初期までで、その後は後醍醐天皇のような例外を除けば、祭祀を司る存在として権威や象徴にすぎなかったので、現代まで続いた、というような見解です。こうした見解では、摂関期には天皇が政治権力的に無力な存在だった、と想定されています。ただ、幼帝を補佐する摂政はともかく、関白が天皇を無視して権力を振るえたわけではありませんし、院政期にしても、少なくとも堀河天皇と二条天皇は、実際の政治権力を振るわなかった、とはとても言えないでしょう。院政の象徴的存在とも言える白河上皇にしても、堀河天皇と関白の藤原師通が長命だった場合、史実のような政治権力を振るえたのか、大いに疑問が残ります。<br /><br />　天皇は平安時代初期以降に権力から切り離され、祭祀を司る存在として権威や象徴にすぎなかった、というような見解は、第二次世界大戦後の天皇の在り様を過去に投影したところが多分にあり、妥当ではないように思います。そもそも近現代の視点では、前近代の政治には祭祀というか宗教的要素が多分にあり、それは摂関にしても上皇にしても同様で、武家政権の実質的な最高権力者にもそうした側面があるのではないか、と思います。南北朝時代を経て、天皇の実効的な政治権力が古代と比較して著しく低下したことは否定できないかもしれませんが、それは朝廷の政治権力の低下を反映しているわけで、この時期以降の天皇を中世初期や古代に遡及させることは問題だと思います。多様な話題で断定的に主張し、自分の見解に反する主張を見下す、「現実主義者」で「知の巨人」であるかのように振る舞う人が、天皇には古代から権力はなく、村祭の神輿のようなものと主張することもありますが、私はそうした見解にはまったく同意しません。この問題についてもいつか、自分なりに体系的に整理して、一定の見解を提示したいものです。<a name="more"></a>

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            <category>歴史総合</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_7.html</link>
      <title>アジア東部の更新世の人類進化史</title>
      <pubDate>Tue, 07 Jul 2026 08:42:30 +0900</pubDate>
            <description>　取り上げるのが遅れてしまいましたが、おもに中国で発見された更新世の人類化石についての研究（Yang et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、おもに中国を対象に、アジア東部の更新世の人類進化史を、形態学（化石）と考古学の観点から検証し、分子生物学的証拠にも言及しています。中国で発見された更新世のホモ属化石をどう分類するかは昔から難問で、最近タンパク質解析結果が公表されましたが（F..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　取り上げるのが遅れてしまいましたが、おもに中国で発見された更新世の人類化石についての<a href="https://doi.org/10.1038/s41559-026-02983-w">研究</a>（Yang et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、おもに中国を対象に、アジア東部の更新世の人類進化史を、形態学（化石）と考古学の観点から検証し、分子生物学的証拠にも言及しています。中国で発見された更新世のホモ属化石をどう分類するかは昔から難問で、最近タンパク質解析結果が公表されましたが（Fu et al., 2026）、分子生物学的証拠がこの問題の解明に大きく貢献するのではないか、と期待されます。ただ、現代人の50万年以上前までさかのぼる深い起源について、中国が果たす役割は大きいかもしれない、と示唆する本論文の見解について、現時点で私はかなり懐疑的です。以下、敬称は省略します。また、本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン（大清帝国、清王朝）の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。

　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、cm（centimetre、センチメートル）、EDJ（enamel-dentine junction、エナメル質と象牙質の接合部）、IUP（Initial Upper Paleolithic、初期上部旧石器）、MIS（Marine Isotope Stage、海洋酸素同位体ステージ）です。

　本論文で取り上げられる主要な人類は、ホモ・エレクトス（Homo erectus）、ホモ・アンテセッサー（Homo antecessor）、種区分未定のホモ属であるデニソワ人（Denisovan）、ホモ・ロンギ（Homo longi）、ホモ・ジュルエンシス（Homo juluensis）、ネアンデルタール人（Homo neanderthalensis）、現生人類（Homo sapiens）、ホモ・サピエンス・ダリエンシス（Homo sapiens daliensis）です。

　本論文で取り上げられる主要な文化は、アシューリアン（Acheulian、アシュール文化）、ルヴァロワ（Levallois）技術、キーナ型ムステリアン（Quina-type Mousterian、キーナ型ムスティエ文化）、IUP（Initial Upper Paleolithic、初期上部旧石器）です。

　本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国の遺跡は、甘粛省甘南チベット族自治州夏河（Xiahe）県のチベット高原北東端の海抜3280mに位置する白石崖溶洞（Baishiya Karst Cave、略してBKC）、陝西省の藍田県の公王嶺（Gongwangling）および上陳（Shangchen）と洛南盆地（Luonan Basin）、遼寧省営口市の金牛山（Jinniushan）、北京市の周口店（Zhoukoudian）、山西省の丁村（Dingcun）と峙峪（Shiyu）、河北省張家口市陽原県の許家窯（Xujiayao）および泥河湾盆地の下馬碑（Xiamabei）、河南省許昌（Xuchang）市の霊井（Lingjing）遺跡と西溝（Xigou）、山東省の沂源（Yiyuan）県、安徽省馬鞍山市の和県（Hexian）と池州市東至県の華龍洞（Hualongdong）、湖北省十堰（Shiyan）市鄖陽（Yunyang）区の鄖県（Yunxian）と梅舗（Meipu）、湖南省永州市道県の福岩洞窟（Fuyan Cave）、雲南省の楚雄イ族自治州の元謀（Yuanmou）と大理ペー族自治州の大理（Dali）市と龍潭山（Longtanshan）、貴州省の盤縣大洞（Panxian Dadong）と観音洞洞窟（Guanyindong Cave）、広東省韶関市（Shaoguan）曲江区（Qujiang）の馬壩（Maba）、広西壮族（チワン族）自治区の智人洞（Zhirendong）と柳江（Liujiang）の土博（Tubo）です。

　本論文で取り上げられる中華人民共和国以外の主要な遺跡は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟（Denisova Cave）、台湾沖の澎湖海峡（Penghu Channel）、ジャワ島のガンドン（Ngandong）、インドのハツノラ（Hathnora）村のナルマダ（Narmada）です。


●要約

　中国における最近の古人類学的発見から、アジア東部は過去200万年間のホモ属の進化史に重要な役割を果たした、と示唆されています。古代型のヒト化石を再分類する新たな分類学的提案がなされてきており、それにはホモ・ジュルエンシスとホモ・ロンギのようデニソワ人とみんされていた化石も含まれます。100万年前頃の鄖県2号の類似性も現生人類系統の初期の分岐を推測している、との仮説は、世界的な進化の物語における中国のきわめて重要な役割を強調しています。本論文は、中国の化石記録から浮かび上がる重要な生物学的および文化的証拠とその進化的意味を調べ、「移行的」クレード（単系統群）とその異なる適応能力との間の関係について問題を提起します。今や中国は、進化的袋小路ではなく、複数のホモ属系統が誕生し、相互作用して、変化する環境に適応したかもしれない、動的な進化の交差点として現れています。増えつつある化石および遺伝学的証拠は人口集団の多様性を示しており、その人口動態史と遺伝子流動の交換が現生人類のよりの広範な混在の形成に寄与しました。


●研究史

　類人猿とヒトとの間の「失われた環」の探求は、19世紀にはアジアに集中しており、現代人の祖先はアジア東部とインドネシアが中心だった、と考えられていました。しかし、とりわけチャールズ・ロバート・ダーウィン（Charles Robert Darwin）は、現代人と最も近い現生ヒト上科類の近縁が熱帯生態系に暮らしていたことを考えて、現代人の起源はアフリカにあった、と考えていました。過去約700万年間の現代人の進化史を記録しているアウストラロピテクス属とその後の化石の発見は、ホモ属の構成員の出現と多様性の研究を含めて、アフリカに焦点が当てられました。数十年間もの議論の後で、とくに、現代人の起源がアフリカにあったことを論証した遺伝学的研究の導入によって、多地域連続性と出アフリカの主唱者間の緊張は最終的に静まりました。

　近年もアジアでは顕著な一連の化石発見と分子生物学的調査結果があり、それらはホモ属の異なる種間の混合事象を示唆してきました。今や注目は再びアジア東部に集まり、中国における10年間の化石および考古学的研究とともに、デニソワ人とホモ・ジュルエンシス［3］やホモ・ロンギ［4］などや改めに命名された種（補足）の発見がありました。中国におけるホモ属の進化的遺産およびヒトのより広範な進化史内における意義として、根本的な問題が提起されています。中国を中心とした研究は、ホモ属の物語の再評価を必要としており、現生人類の起源に関する時期と速度と地理やその人口史および人口動態について顕著な影響を及ぼすかもしれません。本論文の主張は、中国におけるより大きな生物学的および文化的多様性がこの地域をヒト進化に関する議論の最前線に位置づけ、現代人系統の起源と動態への示唆となる（図1および図2）、というものです。


●中国の化石記録の解釈

　20世紀の大半と21世紀初期には、ユーラシアの人類の定着に関する影響力のある解釈は、大まかにはアフリカ中心の観点内で枠組みが作られ、そうした観点では、アフリカは人類の多様性の主要な供給源とみなされ、アジアは出アフリカ拡散との関連でのみ解釈されることが多くありました。アジアの人類の化石記録は大まかには以下の3系統に区分され、それは、（1）広範に分布したホモ・エレクトス種（200万～10万年前頃）、（2）後期更新世形態の前兆となる派生的形質を有する中期更新世（78万～12万年前頃）の「移行期」集団、（3）アジアに広範かつ明白に存在し、通常は45000年前頃に位置づけられる現生人類です。多地域進化説支持者にとって、移行期的な化石はホモ・エレクトスから現生人類への連続性を表しており、「古代型現生人類」と呼ばれることが多かったのに対して、出アフリカ主唱者は、地域的に進化したホモ・エレクトスと他の同時代の人口集団は、大陸全域の単一の急速な拡散に続いて、侵入してきた現生人類に置換された、と主張しました［5］。

　過去15年間、化石および分子的発見によって、アジアは受動的な背景からホモ属内の多様化の動的な中心地へと変わってきました。デニソワ洞窟の以前には認識されていなかった人類からの古代DNAの回収によって、ネアンデルタール人の姉妹系統で、現生人類に遺伝的物質をもたらした「デニソワ人」が明らかになりました［6］。ゲノムからしか知られていない系統もあれば、骨からしか知られていない系統もあるという、遺伝学と化石の証拠間の不一致によって、デニソワ人がすでに「移行期」化石に存在していたのかどうか、という議論が起きました。その後のゲノム研究では、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人と他の古代型人口集団は交雑した［7、8］、と示されも種の境界が曖昧となった一方で、古プロテオミクスはDNAの保存の限界を超えて、分子的同定を拡張しました［9、10］。

　ホモ・エレクトス種は長く、アジアの更新世記録の解釈の中核として機能してきました。周口店や和県や沂源やガンドンなどの標本は、厚い骨と強い眉弓と横に走る隆起の強くて角張った後頭領域を伴う長くて低い頭蓋冠（約850～1250 cm³）を例証しており、下顎は大きく、顔面は横に平坦であるものの下顎が突き出ており、鼻腔は広いものの、化石記録で保存されている完全な顔面は比較的少なくなっています。そのEDJは独特で複雑なパターンを定義しており、形態学的に一貫した古典的ホモ・エレクトスのまとまり（クラスタ）になっているものの、一部の形態は他の化石より派生的なようです。このクラスタは通常、中期更新世初期に現れますが、後期更新世まで存続しているかもしれません（図1b）。以下は本論文の図1です。
<a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41559-026-02983-w/MediaObjects/41559_2026_2983_Fig1_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41559-026-02983-w/MediaObjects/41559_2026_2983_Fig1_HTML.png" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="379" /></a>
　中国のより古い化石は、この典型的な形態に先行します（図1a・b）。より小さな頭蓋容量（約700～1100 cm³）と祖先的な形質を備える、元謀（170万年前頃）や公王嶺（163万年前頃）や梅舗（99万～78万年前頃）の化石は、アフリカおよびドマニシの初期ホモ属とアジア東部の中期更新世ホモ・エレクトスとの中間を占めています。この非典型的なホモ・エレクトスのクラスタには特徴的なホモ・エレクトスの特殊化が欠けていますが、それを事前に構成しているかもしれず、漸進的な地域的分化もしくはアジア大陸への複数回の拡散を示唆しています。この集団内では、鄖県2号（110万～94万年前頃）と南京（62万～58万年前頃）はとくに注目に値します。これらの化石は形態学的にはその後の「移行期」化石より祖先的で、中期更新世へと続いたホモ・エレクトスの初期拡散と多様化を架橋しており、ホモ・エレクトスの頭蓋容量値の上限もしくはそれを超える値が、典型的ホモ・エレクトスの通常の頭蓋冠をまだ欠いている、より華奢な顔面と組み合わさっています。詳細で包括的な解剖学的比較は未解決ですが、そのより平坦な中顔面は、現生人類と比較して祖先的か、ホモ・アンテセッサーと同等［17］と解釈されてきました。

　中国の「移行期」の中期更新世化石は、とりわけ議論となっています。そうした化石は、一般的により大きな頭蓋容量（1100～1750cm³）、ホモ・エレクトスの角張った後頭骨および隆起と、現生人類に近い広くて正顎の顔面を欠いている、低く長い頭蓋冠が組み合わさっており、単純な解釈を拒みます。最近の研究はこうした化石の大半を単一系統のロンギ単系統群に分類しており、これはホモ・ロンギの模式標本であるハルビン頭蓋によって定義され［4］、大理や金牛山や許家窯や華龍洞や夏河および澎湖下顎などの化石［17］が含まれます（図1c）。ロンギ単系統群は現生人類の姉妹群と解釈されてきており、鄖県2号は基底部の構成員を表しているかもしれません。このモデルは現生人類単系統群の初期の起源（100万年以上前）を示唆しており、一部の分子的分析の70万～50万年前頃の推定値［20］と比較して、ネアンデルタール人系統と現生人類系統との間のより深い分岐［19］との提案と一致します。このモデルでは、デニソワ人はロンギ単系統群内に収まり、とくに歯顎領域における広範な解剖学的変異性を包含しており、デニソワ人は、ネアンデルタール人とより密接なつながりを示すゲノム証拠［7、8］にも関わらず、現生人類の姉妹単系統群の一部です。

　この多様性を考慮して、第二の系統であるホモ・ジュルエンシス（「大きな頭」を意味する中国語の「jùlú」に由来します）を提唱した者もおり、許家窯化石が模式標本、許昌化石が副模式標本とされます［3］。この提案では、馬壩やナルマダや華龍洞などの化石はホモ・ジュルエンシス単系統群から外れており、その類似性の解明は定まっておらず、その分類学的地位は未解決で、最終的にはより広範なネアンデルタール人の分類に含められるか、異なる名称と認められるかもしれません［3］。ホモ・ジュルエンシス単系統群はひじょうに大きな脳頭蓋（1700~1800cm³）と、大きく祖先的な歯を示します。おそらくは頂部領域や側頭部迷宮や下顎枝や前歯におけるネアンデルタール人的形質によって示唆されるように、ホモ・ジュルエンシスにはデニソワ人が含まれ、ネアンデルタール人の姉妹単系統群を表しているでしょう［21］。プロテオーム（タンパク質の総体）でデニソワ人と分類された夏河や澎湖のような候補化石［10、23］には、大きな歯と三根の下顎大臼歯を有する頑丈で低い顎が加わります［24］。ネアンデルタール人が東方ではアルタイ山脈まで厳密に報告されていること［25］と、ユーラシア全体で東方へのさらなる拡散を妨げていた明確な生態学的障壁がながったことを考えると、ネアンデルタール人的特徴を有する人口集団が、典型的にはほぼヨーロッパに限られる単系統群の東方への拡大を反映している可能性は除外できません。

　この2単系統群の枠組みにおいて、大理や華龍洞や金牛山の化石は現生人類に対する姉妹群を形成し、派生的な顔面の構造や歯の縮小および単純化した史観への傾向を共有しており［30］、これは丁村化石や盤縣大洞化石の歯列でも見られるパターンです（図1c）。ハルビン頭蓋も、より弱い歯の縮小兆候にも関わらず、強い頭蓋および顔面に基づいてこの集団に含めることができるかもしれない、と本論文は提案します。この集団は系統発生的空間に一致します。この集団は、今ではホモ・ロンギと比較可能な、ホモ・サピエンス・ダリエンシス（大理標本に基づきます）について呉新智（Wu Xinzhi）によって提唱された系統発生的空間に合致します。その系統発生的全体像は依然として複雑で、ハルビン頭蓋のプロテオームおよびミトコンドリアデータはデニソワ人との類似性を示唆していますが［9。34］、限られたアミノ酸置換や不確実な系統内変異性やミトコンドリアと常染色体の継承の読み取り間の不一致は、分子的および形態学的証拠の一致を複雑にし続けています。

　最後に、最近の調査結果および年代的再評価から、中国における現生人類の存在および拡散の速度と様相について、再考が迫られています。証拠から、現生人類は中国に5万年以上前に出現し、南方での存在は12万～8万年前頃にさかのぼる［35、36］、と示唆されています（図1d）。ほぼ同年代の遺跡間では、顕著な形態学的変異性は、単一の均一な拡大ではなく、複数の波や地域的な人口構造や定着の非線形的な速度と一致しているかもしれません［5］。さらに、混合が表現型の変異性の要因かもしれず、初期現生人類の形態学的変異性の解釈をより複雑にしています［38］。

●行動の論点

　近年では多くの科学的注目が中国の化石記録に寄せられてきましたが、一連の重要な考古学的発見もあり、人類の行動について新たな情報を提供しています（図2）。これらの調査結果は中国の文化的記録の保守的な性質についての伝統的な特徴づけを覆しており、経時的な人類の革新および適応のより実りある調査を提供します以下は本論文の図2です。
<a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41559-026-02983-w/MediaObjects/41559_2026_2983_Fig2_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41559-026-02983-w/MediaObjects/41559_2026_2983_Fig2_HTML.png" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="287" /></a>
　上陳は中国で最古級の考古学的遺跡で、年代は210万年前頃となり［39］、典型的な形態以前のホモ・エレクトス化石より約40万年古くなります。上陳と他の前期更新世人類は通常、石核剥片インダストリーを製作していました。これらの石器群は、丸石や小石への硬い敲石と両極手法を用いて製作され、さまざまな大きさの剥片原形が作られ、それには小型破片が含まれます。剥片原形は再加工され、さまざまな形態が作られて、それには掻器や抉入石器や尖頭器や穿孔器が含まれます。

　更新世半ばの気候変動期（120万～70万年前頃）は、石核剥片インダストリーの技術的革新の水準増加に対応しており、事前剥離手法や多様な範囲の道具様式の製作が含まれ、生態系の変化への典型的形態に先行するホモ・エレクトス人口集団の多様な適応的反応を示唆しています。更新世半ばの気候変動は中国南部における大型切断用道具の出現にも対応しており、100万年前頃までに見られる鄖県の事例を含めて、丸石から形成され、分割されることが多くなっています。大型切断用道具は礫器および掘削器から構成され、新たな適応的戦略を表しており、典型的形態に先行するホモ・エレクトスおよび典型的ホモ・エレクトス人口集団にとって、の前広範な植物資源を利用することが可能となりました［48］。

　50万年前頃までに行なわれていた周口店における火の制御された使用は、ホモ・エレクトス人口集団による重要な革新です。長く議論されてきましたが、寒冷期における避難の必要性や、焼けた堆積物と骨の高温加熱の証拠を考えると、火の使用の可能性は高そうです。30万年前頃以降、一連の革新が現れ、それは移行期的人類、つまり提案されているロンギおよび/もしくはジュルエンシス単系統群の時間枠に対応しています。これら大きな脳の人類は一連の新たな行動に関わっており、それには、より多様な石器製作手法［51］や、木製道具および骨角器の製作やおそらくは岩絵［56］が含まれます。それ以前の石器群とは対照的に、大型切断用道具は大型剥片で制作され、剥離が洗練され、形状は対称的で、洛南や丁村などの遺跡で証明された後期アシューリアンとの比較が促されました。

　中国南西部では、ルヴァロワもしくはルヴァロワ的手法を含むより複雑な石器縮小技術と、キーナ型石器の製作が、観音洞や龍潭山や人類化石を含む盤縣大洞といった遺跡で見られます［51］。龍潭におけるキーナ型石器の証拠はネアンデルタール人と関連している、と示唆されてきましたが、現時点では、この関連を確証する生物学的証拠はありません。中国中央部および北部では、華龍洞や西溝や許家窯や許昌の石器が、円盤状技術や再加工小型石器など石核剥片縮小で同様の発展を示しています。許家窯は球状体石器の多数の収集でよく知られており、打撃痕や切創痕の見られるウマ遺骸があり、狩猟および死肉漁り戦略を表しています。許昌には多様な背付き石器や骨製二次加工具や線刻のあるオーカー（鉄分を多く含んだ粘土）残留物を伴う宣告された骨があります。これら多様になっていく技術と行動は、象徴的かもしれない慣行とともに、人類集団間の文化的多様性および地域的差異を反映しています。

　中国における現生人類の最古級の化石は、年代が127000～70000年前頃の間で、人工遺物との明確な関連はありません。現生人類はこの期間に見られる革新的行動の担い手かもしれませんが、移行期人類の一部の役割は除外できません。45000年前頃以後、現生人類は中国北部の考古学的記録のほとんどの担い手である可能性が高そうです。実際、峙峪において、現生人類に割り当てられた今では失われた後頭骨断片は、IUP技術や黒曜石の長距離輸送（800～1000km）や狩猟技術の向上や骨角器や成形された黒鉛円盤と関連しており［67］、アジア東部における最古級の既知のオーカー処理遺跡である下馬碑［68］など、この段階は4万年前頃以後の物質文化における顕著な増加となります。


●人類の生物地理

　1929年の周口店におけるホモ・エレクトスの画期的発見以来、中国の古人類学的記録に関して情報が着実に増加してきました。気候と環境と地理の要因が人類の進化にどのように影響を及ぼし、形成したのかについて、研究は焦点を当て始めています。中国全域の遺跡の緯度勾配から、生態系の変化がおそらくは人類の定着パターンに重要な役割を果たした、と示唆されます。

　元謀を除けば、100万年以上前の南方の居住の強い証拠はなく、典型的な形態以前のホモ・エレクトスはおもに北方で見つかっています。秦嶺山脈は生物地理的境界として作用していたかもしれず、中国北部の温暖な環境を南部の亜熱帯で食性の密な景観から分離し、それは初期人類にとって適応的困難を課したかもしれません。

　更新世半ばの気候変動は遺跡文武の重要な変化と対応しており、より低緯度の地帯で遺跡の数が高緯度の地帯より多く、高緯度地帯はより過酷でより季節的な環境が特徴です。注目すべきことに、更新世半ばの気候変動は、形態学的に最古級の住民と移行期の人類の中間である、鄖県2号の出現と一致しています。気候および環境変化は、進化的分岐［17］もしくは新たな集団の到来による最古級の人類の置換と関連しているかもしれません。中国中央部の南京のより新しい化石は、この地域における鄖県系統の存続を示唆しています。

　60万年前頃以後、大きな植生および動物相の変化がアジア全域で起きたので、氷期と間氷期の間の人口集団の大きな縮小と拡大があったでしょう。中国の中期更新世における人類の地理的分布は、北緯45度から最南端の緯度まで広範囲を示しています（図1b・c）。身体的および生理的適応や、火の使用と気技術的革新を含む文化的能力（図2）は、おそらく重要な役割を果たしており、人類が新たな生態系へ拡散することや、生息環境の選好を可能としました。MIS11（432000～362000年前頃）は長く続いた温暖な間氷期で、人類に中国北部への拡散に最も広範な窓口を提供しました。

　中期更新世後半は、人類がおそらくは数ヶ所の中核的退避地へと制約された生息地の縮小期で、断片化と孤立と時折の再統合が起こり、人類の多様性を促したかもしれない動的な期間です。生息地の長期の拡大および縮小とその結果生じた障壁は、異所性種分化と新たな人類系統の出現を促したかもしれません。上述のように、このクラスタの顕著な変異性は、単一の形態学的に多様な系統か、いくつかの異なる古任意交配集団（たとえば、ジュルエンシス単系統群やロンギ単系統群やデニソワ人）のいずれかを反映しているかもしれません。これらの人類は高地（夏河）［23］や高緯度（北緯45度のハルビン）［75］に居住できており、この地理的広大さは時間的に一連の文化的革新に対応しています（図2）。明確な地理的パターンの欠如は、気候変動期における高度な移動性もしくは生息地移動を示唆しています。これらの移行期人類の形態が1系統に属しているならば、その変異性は、デニソワ人が単一の均一な人口集団ではなく、広大な地理的範囲に居住した一連の異なる系統だった、とのゲノム証拠と一致します［76］。この想定では、これらの推定される単系統群は、複数種水準の系統ではなく、深く構造化されたデニソワ人集団の高度に多様な表現型の発現を反映しているかもしれません。

　中国の後期更新世初期の証拠は地理的非対称性を示しており、南方の発見が北方（4万年前頃以降）に先行します。このパターンはおそらく気候不安定性と人口集団を分断する砂漠の境界を反映しており、より祖先的な系統が北方で存続した一方で、より派生的な形態が南方から進化したか、到来しました。北方からの新参者は在来人口集団と混合したかもしれず、現在では解釈困難な形態学的変異性が生じました［38］。興味深いことに、初期の南方の人類（たとえば、福岩や智人洞や土博）は、食性の変化と一致する虫歯や活動に関連した歯の摩耗の高頻度の発生を共有しており、これは恐らく、初期の熱帯雨林資源の利用もしくは免疫の変化と関連しています。このパターンは、南方での定着を促進した、行動的革新を示唆しています。


●中国の過去の前途

　中国における最近の古人類学的発見はこの地域を、進化的袋小路からヒト進化の自然の実験場へと変えました。次の10年間に、化石からの分子記録の増加は、人類系統の定義の中心となるでしょう。古プロテオミクスの急速な進歩から、この分野における大きな進展が期待されます。しかし、特定の変異や多様体に割り当てる進化的重要性を解明するには、基礎研究が必要です。古代と現代両方の人口集団における分子的変異性がより深く理解されるにつれて、化石の類似性の長きにわたる解釈は変わるかもしれません。今や、進歩は分子と解剖学の観点の統合にかかっています。これら2系統の証拠間の統合の長きにわたる欠如は発見を送らせてきましたが、形態学的データは一貫して、多くの遺伝学的モデルがこれまでに示唆してきたよりも深い、現生人類単系統群の時間的分岐を示しています。これらの手法の橋渡しが、より一貫した進化的枠組みには重要でしょう。

　ヨーロッパと中国の化石記録の統合は、現生人類単系統群の時間と場所の理解において、新たな進化的（革命的）光を当てるかもしれません。アタプエルカ（スペイン）のホモ・アンテセッサーは、中国の前期更新世後期～中期更新世初期の化石（鄖県、南京）と密接な進化的空間を共有しているようです。このつながり可能性に関する研究を通じて、必ずしもアフリカに限らない、現生人類単系統群のより深い起源の発見を期待できます。化石記録が増えるにつれて、現生人類単系統群と関連するより多くの人類がユーラシア全域で現れる可能性は高そうです。

　化石証拠と行動的証拠の統合における現在の空白は、中国における進化の経緯の包括的理解を制約し続けます。化石と考古学と年代と古環境のデータの増加は今や、一連の重要な進化的問題に取り組B調べる新たな機会を提示します。たとえば、人類種/単系統群と適応的革新が過去200万年間のアジア東部における生息地の変動性とどのように対応していますか？気候条件はどの程度、人口集団の相互作用および拡散経路に影響を及ぼしましたか？中期更新世における種と単系統群は文化的革新を共有し、どの適応的利点がこれをもたらした可能性がありますか？これらの問題の探求は、ヒト進化の謎に取り組むための、不可欠の欠けた断片を提供するでしょう。


●補足：中国における「移行期」人類の分類学的問題

　中国の中期更新世の化石記録は、現在の古人類学における最も困難な分類学的問題の一つを提示しています。これまで「移行期」として伝統的に記載されてきた人類化石の多様な一式は、とくに顔面形態における派生的特徴と脳の大きさを、ホモ・エレクトスに存在し、ネアンデルタール人や現生人類などその後のホモ属の形態に欠けている祖先的な特徴と組み合わせています。この多様性をどう解釈するかによって、対照的な分類学的提案につながり、それぞれ異なる進化的意味があります。

　ある手法では、ほとんどの中期更新世の中国の化石を単一系統に分類しており、最近ではホモ・ロンギと正式に命名されました。このモデルでは、ハルビン（模式標本）や大理や金牛山や許家窯や華龍洞や夏河や澎湖の下顎は、大きな頭蓋容量や短く比較的正顎の顔面や多様な下顎および歯のパターンによって特徴づけられる、広範な形態学的連続体を表しています。このロンギ単系統群は現生人類の姉妹系統として解釈されてきており、現生人類系統との初期の分岐（100万年以上前）が示唆され、鄖県などの化石は基底部の構成員と提案されています。この命名は、デニソワ人と同定される化石である、この集団内部でのクラスタ化（まとまることむ）もしくは包含を示唆しており、通常は単一種内に含まれるよりも大きな一定水準の形態学的多様性が示唆されます。重要で厄介な問題は、ロンギ単系統群をデニソワ人と結びつけることが、核DNAに基づきデニソワ人をネアンデルタール人の姉妹系統と位置づけるゲノムモデルと一致しないことで、遺伝的系統を断片的な化石形態に当てはめる難しさや、深い人口構造や混合や古代の分岐の背景における核とミトコンドリアの兆候間の不一致の可能性を浮き彫りにしています。

　代替的な枠組みは、この多様性を複数の進化的系統の反映と解釈します。この見解では、ホモ・ジュルエンシスは、ネアンデルタール人との類似性を示す、ひじょうに大きな脳容量や頑丈な歯列と頭蓋と下顎の形質によって特徴づけられる、独特な単系統群を表しています。許家窯化石は模式標本、許昌化石は副模式標本として提案されてきており、デニソワ人はこの系統内に含められ、ネアンデルタール人との姉妹群に位置づけられます。大理や金牛山やハルビンや華龍洞のような他の化石は、このジュルエンシス単系統群外に置かれます。形態学的観点からは、これらの標本はホモ・ロンギのより厳格な定義内に収まると解釈でき、現生人類系統に近い系統としての元々の提案と一致しますが、この解釈はさらなる検証が必要です。

　この議論の中核には、広範な地理的範囲に居住していたか、複数の部分的に孤立した系統の存在を示す、複数のデニソワ人系統のゲノム証拠と一致する、形態学的変異が深く構造化された人口集団内の種内多様性を反映しているのかどうか、ということがあります。これらの対案を解明するには、ホモ・エレクトス内でどの程度形態学的多様性を合理的に許容できるのか、という明示的検討を含めて、より詳細な比較解剖学的分析が必要でしょう。古プロテオミクスを含めて新たなゲノム手法は強力な手段を提供しますが、とくに注意して解釈すべきなのは、これらの手法の新規性が分類学的過剰解釈の危険性を増加させるからです。


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      <content:encoded><![CDATA[
　取り上げるのが遅れてしまいましたが、おもに中国で発見された更新世の人類化石についての<a href="https://doi.org/10.1038/s41559-026-02983-w"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Yang et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、おもに中国を対象に、アジア東部の更新世の人類進化史を、形態学（化石）と考古学の観点から検証し、分子生物学的証拠にも言及しています。中国で発見された更新世のホモ属化石をどう分類するかは昔から難問で、最近タンパク質解析結果が公表されましたが（Fu et al., 2026）、分子生物学的証拠がこの問題の解明に大きく貢献するのではないか、と期待されます。ただ、現代人の50万年以上前までさかのぼる深い起源について、中国が果たす役割は大きいかもしれない、と示唆する本論文の見解について、現時点で私はかなり懐疑的です。以下、敬称は省略します。また、本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン（大清帝国、清王朝）の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。<br /><br />　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、cm（centimetre、センチメートル）、EDJ（enamel-dentine junction、エナメル質と象牙質の接合部）、IUP（Initial Upper Paleolithic、初期上部旧石器）、MIS（Marine Isotope Stage、海洋酸素同位体ステージ）です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な人類は、ホモ・エレクトス（Homo erectus）、ホモ・アンテセッサー（Homo antecessor）、種区分未定のホモ属であるデニソワ人（Denisovan）、ホモ・ロンギ（Homo longi）、ホモ・ジュルエンシス（Homo juluensis）、ネアンデルタール人（Homo neanderthalensis）、現生人類（Homo sapiens）、ホモ・サピエンス・ダリエンシス（Homo sapiens daliensis）です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な文化は、アシューリアン（Acheulian、アシュール文化）、ルヴァロワ（Levallois）技術、キーナ型ムステリアン（Quina-type Mousterian、キーナ型ムスティエ文化）、IUP（Initial Upper Paleolithic、初期上部旧石器）です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国の遺跡は、甘粛省甘南チベット族自治州夏河（Xiahe）県のチベット高原北東端の海抜3280mに位置する白石崖溶洞（Baishiya Karst Cave、略してBKC）、陝西省の藍田県の公王嶺（Gongwangling）および上陳（Shangchen）と洛南盆地（Luonan Basin）、遼寧省営口市の金牛山（Jinniushan）、北京市の周口店（Zhoukoudian）、山西省の丁村（Dingcun）と峙峪（Shiyu）、河北省張家口市陽原県の許家窯（Xujiayao）および泥河湾盆地の下馬碑（Xiamabei）、河南省許昌（Xuchang）市の霊井（Lingjing）遺跡と西溝（Xigou）、山東省の沂源（Yiyuan）県、安徽省馬鞍山市の和県（Hexian）と池州市東至県の華龍洞（Hualongdong）、湖北省十堰（Shiyan）市鄖陽（Yunyang）区の鄖県（Yunxian）と梅舗（Meipu）、湖南省永州市道県の福岩洞窟（Fuyan Cave）、雲南省の楚雄イ族自治州の元謀（Yuanmou）と大理ペー族自治州の大理（Dali）市と龍潭山（Longtanshan）、貴州省の盤縣大洞（Panxian Dadong）と観音洞洞窟（Guanyindong Cave）、広東省韶関市（Shaoguan）曲江区（Qujiang）の馬壩（Maba）、広西壮族（チワン族）自治区の智人洞（Zhirendong）と柳江（Liujiang）の土博（Tubo）です。<br /><br />　本論文で取り上げられる中華人民共和国以外の主要な遺跡は、シベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟（Denisova Cave）、台湾沖の澎湖海峡（Penghu Channel）、ジャワ島のガンドン（Ngandong）、インドのハツノラ（Hathnora）村のナルマダ（Narmada）です。<br /><br /><br /><strong>●要約</strong><br /><br />　中国における最近の古人類学的発見から、アジア東部は過去200万年間のホモ属の進化史に重要な役割を果たした、と示唆されています。古代型のヒト化石を再分類する新たな分類学的提案がなされてきており、それにはホモ・ジュルエンシスとホモ・ロンギのようデニソワ人とみんされていた化石も含まれます。100万年前頃の鄖県2号の類似性も現生人類系統の初期の分岐を推測している、との仮説は、世界的な進化の物語における中国のきわめて重要な役割を強調しています。本論文は、中国の化石記録から浮かび上がる重要な生物学的および文化的証拠とその進化的意味を調べ、「移行的」クレード（単系統群）とその異なる適応能力との間の関係について問題を提起します。今や中国は、進化的袋小路ではなく、複数のホモ属系統が誕生し、相互作用して、変化する環境に適応したかもしれない、動的な進化の交差点として現れています。増えつつある化石および遺伝学的証拠は人口集団の多様性を示しており、その人口動態史と遺伝子流動の交換が現生人類のよりの広範な混在の形成に寄与しました。<br /><br /><br /><strong>●研究史</strong><br /><br />　類人猿とヒトとの間の「失われた環」の探求は、19世紀にはアジアに集中しており、現代人の祖先はアジア東部とインドネシアが中心だった、と考えられていました。しかし、とりわけチャールズ・ロバート・ダーウィン（Charles Robert Darwin）は、現代人と最も近い現生ヒト上科類の近縁が熱帯生態系に暮らしていたことを考えて、現代人の起源はアフリカにあった、と考えていました。過去約700万年間の現代人の進化史を記録しているアウストラロピテクス属とその後の化石の発見は、ホモ属の構成員の出現と多様性の研究を含めて、アフリカに焦点が当てられました。数十年間もの議論の後で、とくに、現代人の起源がアフリカにあったことを論証した遺伝学的研究の導入によって、多地域連続性と出アフリカの主唱者間の緊張は最終的に静まりました。<br /><br />　近年もアジアでは顕著な一連の化石発見と分子生物学的調査結果があり、それらはホモ属の異なる種間の混合事象を示唆してきました。今や注目は再びアジア東部に集まり、中国における10年間の化石および考古学的研究とともに、デニソワ人とホモ・ジュルエンシス［3］やホモ・ロンギ［4］などや改めに命名された種（補足）の発見がありました。中国におけるホモ属の進化的遺産およびヒトのより広範な進化史内における意義として、根本的な問題が提起されています。中国を中心とした研究は、ホモ属の物語の再評価を必要としており、現生人類の起源に関する時期と速度と地理やその人口史および人口動態について顕著な影響を及ぼすかもしれません。本論文の主張は、中国におけるより大きな生物学的および文化的多様性がこの地域をヒト進化に関する議論の最前線に位置づけ、現代人系統の起源と動態への示唆となる（図1および図2）、というものです。<br /><br /><br /><strong>●中国の化石記録の解釈</strong><br /><br />　20世紀の大半と21世紀初期には、ユーラシアの人類の定着に関する影響力のある解釈は、大まかにはアフリカ中心の観点内で枠組みが作られ、そうした観点では、アフリカは人類の多様性の主要な供給源とみなされ、アジアは出アフリカ拡散との関連でのみ解釈されることが多くありました。アジアの人類の化石記録は大まかには以下の3系統に区分され、それは、（1）広範に分布したホモ・エレクトス種（200万～10万年前頃）、（2）後期更新世形態の前兆となる派生的形質を有する中期更新世（78万～12万年前頃）の「移行期」集団、（3）アジアに広範かつ明白に存在し、通常は45000年前頃に位置づけられる現生人類です。多地域進化説支持者にとって、移行期的な化石はホモ・エレクトスから現生人類への連続性を表しており、「古代型現生人類」と呼ばれることが多かったのに対して、出アフリカ主唱者は、地域的に進化したホモ・エレクトスと他の同時代の人口集団は、大陸全域の単一の急速な拡散に続いて、侵入してきた現生人類に置換された、と主張しました［5］。<br /><br />　過去15年間、化石および分子的発見によって、アジアは受動的な背景からホモ属内の多様化の動的な中心地へと変わってきました。デニソワ洞窟の以前には認識されていなかった人類からの古代DNAの回収によって、ネアンデルタール人の姉妹系統で、現生人類に遺伝的物質をもたらした「デニソワ人」が明らかになりました［6］。ゲノムからしか知られていない系統もあれば、骨からしか知られていない系統もあるという、遺伝学と化石の証拠間の不一致によって、デニソワ人がすでに「移行期」化石に存在していたのかどうか、という議論が起きました。その後のゲノム研究では、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人と他の古代型人口集団は交雑した［7、8］、と示されも種の境界が曖昧となった一方で、古プロテオミクスはDNAの保存の限界を超えて、分子的同定を拡張しました［9、10］。<br /><br />　ホモ・エレクトス種は長く、アジアの更新世記録の解釈の中核として機能してきました。周口店や和県や沂源やガンドンなどの標本は、厚い骨と強い眉弓と横に走る隆起の強くて角張った後頭領域を伴う長くて低い頭蓋冠（約850～1250 cm³）を例証しており、下顎は大きく、顔面は横に平坦であるものの下顎が突き出ており、鼻腔は広いものの、化石記録で保存されている完全な顔面は比較的少なくなっています。そのEDJは独特で複雑なパターンを定義しており、形態学的に一貫した古典的ホモ・エレクトスのまとまり（クラスタ）になっているものの、一部の形態は他の化石より派生的なようです。このクラスタは通常、中期更新世初期に現れますが、後期更新世まで存続しているかもしれません（図1b）。以下は本論文の図1です。<br /><div align="center"><a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41559-026-02983-w/MediaObjects/41559_2026_2983_Fig1_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41559-026-02983-w/MediaObjects/41559_2026_2983_Fig1_HTML.png" alt="画像" width="365" height="379" class="up-image" title="図1" /></a></div><br />　中国のより古い化石は、この典型的な形態に先行します（図1a・b）。より小さな頭蓋容量（約700～1100 cm³）と祖先的な形質を備える、元謀（170万年前頃）や公王嶺（163万年前頃）や梅舗（99万～78万年前頃）の化石は、アフリカおよびドマニシの初期ホモ属とアジア東部の中期更新世ホモ・エレクトスとの中間を占めています。この非典型的なホモ・エレクトスのクラスタには特徴的なホモ・エレクトスの特殊化が欠けていますが、それを事前に構成しているかもしれず、漸進的な地域的分化もしくはアジア大陸への複数回の拡散を示唆しています。この集団内では、鄖県2号（110万～94万年前頃）と南京（62万～58万年前頃）はとくに注目に値します。これらの化石は形態学的にはその後の「移行期」化石より祖先的で、中期更新世へと続いたホモ・エレクトスの初期拡散と多様化を架橋しており、ホモ・エレクトスの頭蓋容量値の上限もしくはそれを超える値が、典型的ホモ・エレクトスの通常の頭蓋冠をまだ欠いている、より華奢な顔面と組み合わさっています。詳細で包括的な解剖学的比較は未解決ですが、そのより平坦な中顔面は、現生人類と比較して祖先的か、ホモ・アンテセッサーと同等［17］と解釈されてきました。<br /><br />　中国の「移行期」の中期更新世化石は、とりわけ議論となっています。そうした化石は、一般的により大きな頭蓋容量（1100～1750cm³）、ホモ・エレクトスの角張った後頭骨および隆起と、現生人類に近い広くて正顎の顔面を欠いている、低く長い頭蓋冠が組み合わさっており、単純な解釈を拒みます。最近の研究はこうした化石の大半を単一系統のロンギ単系統群に分類しており、これはホモ・ロンギの模式標本であるハルビン頭蓋によって定義され［4］、大理や金牛山や許家窯や華龍洞や夏河および澎湖下顎などの化石［17］が含まれます（図1c）。ロンギ単系統群は現生人類の姉妹群と解釈されてきており、鄖県2号は基底部の構成員を表しているかもしれません。このモデルは現生人類単系統群の初期の起源（100万年以上前）を示唆しており、一部の分子的分析の70万～50万年前頃の推定値［20］と比較して、ネアンデルタール人系統と現生人類系統との間のより深い分岐［19］との提案と一致します。このモデルでは、デニソワ人はロンギ単系統群内に収まり、とくに歯顎領域における広範な解剖学的変異性を包含しており、デニソワ人は、ネアンデルタール人とより密接なつながりを示すゲノム証拠［7、8］にも関わらず、現生人類の姉妹単系統群の一部です。<br /><br />　この多様性を考慮して、第二の系統であるホモ・ジュルエンシス（「大きな頭」を意味する中国語の「jùlú」に由来します）を提唱した者もおり、許家窯化石が模式標本、許昌化石が副模式標本とされます［3］。この提案では、馬壩やナルマダや華龍洞などの化石はホモ・ジュルエンシス単系統群から外れており、その類似性の解明は定まっておらず、その分類学的地位は未解決で、最終的にはより広範なネアンデルタール人の分類に含められるか、異なる名称と認められるかもしれません［3］。ホモ・ジュルエンシス単系統群はひじょうに大きな脳頭蓋（1700~1800cm³）と、大きく祖先的な歯を示します。おそらくは頂部領域や側頭部迷宮や下顎枝や前歯におけるネアンデルタール人的形質によって示唆されるように、ホモ・ジュルエンシスにはデニソワ人が含まれ、ネアンデルタール人の姉妹単系統群を表しているでしょう［21］。プロテオーム（タンパク質の総体）でデニソワ人と分類された夏河や澎湖のような候補化石［10、23］には、大きな歯と三根の下顎大臼歯を有する頑丈で低い顎が加わります［24］。ネアンデルタール人が東方ではアルタイ山脈まで厳密に報告されていること［25］と、ユーラシア全体で東方へのさらなる拡散を妨げていた明確な生態学的障壁がながったことを考えると、ネアンデルタール人的特徴を有する人口集団が、典型的にはほぼヨーロッパに限られる単系統群の東方への拡大を反映している可能性は除外できません。<br /><br />　この2単系統群の枠組みにおいて、大理や華龍洞や金牛山の化石は現生人類に対する姉妹群を形成し、派生的な顔面の構造や歯の縮小および単純化した史観への傾向を共有しており［30］、これは丁村化石や盤縣大洞化石の歯列でも見られるパターンです（図1c）。ハルビン頭蓋も、より弱い歯の縮小兆候にも関わらず、強い頭蓋および顔面に基づいてこの集団に含めることができるかもしれない、と本論文は提案します。この集団は系統発生的空間に一致します。この集団は、今ではホモ・ロンギと比較可能な、ホモ・サピエンス・ダリエンシス（大理標本に基づきます）について呉新智（Wu Xinzhi）によって提唱された系統発生的空間に合致します。その系統発生的全体像は依然として複雑で、ハルビン頭蓋のプロテオームおよびミトコンドリアデータはデニソワ人との類似性を示唆していますが［9。34］、限られたアミノ酸置換や不確実な系統内変異性やミトコンドリアと常染色体の継承の読み取り間の不一致は、分子的および形態学的証拠の一致を複雑にし続けています。<br /><br />　最後に、最近の調査結果および年代的再評価から、中国における現生人類の存在および拡散の速度と様相について、再考が迫られています。証拠から、現生人類は中国に5万年以上前に出現し、南方での存在は12万～8万年前頃にさかのぼる［35、36］、と示唆されています（図1d）。ほぼ同年代の遺跡間では、顕著な形態学的変異性は、単一の均一な拡大ではなく、複数の波や地域的な人口構造や定着の非線形的な速度と一致しているかもしれません［5］。さらに、混合が表現型の変異性の要因かもしれず、初期現生人類の形態学的変異性の解釈をより複雑にしています［38］。<br /><br /><strong>●行動の論点</strong><br /><br />　近年では多くの科学的注目が中国の化石記録に寄せられてきましたが、一連の重要な考古学的発見もあり、人類の行動について新たな情報を提供しています（図2）。これらの調査結果は中国の文化的記録の保守的な性質についての伝統的な特徴づけを覆しており、経時的な人類の革新および適応のより実りある調査を提供します以下は本論文の図2です。<br /><div align="center"><a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41559-026-02983-w/MediaObjects/41559_2026_2983_Fig2_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41559-026-02983-w/MediaObjects/41559_2026_2983_Fig2_HTML.png" alt="画像" width="365" height="287" class="up-image" title="図2" /></a></div><br />　上陳は中国で最古級の考古学的遺跡で、年代は210万年前頃となり［39］、典型的な形態以前のホモ・エレクトス化石より約40万年古くなります。上陳と他の前期更新世人類は通常、石核剥片インダストリーを製作していました。これらの石器群は、丸石や小石への硬い敲石と両極手法を用いて製作され、さまざまな大きさの剥片原形が作られ、それには小型破片が含まれます。剥片原形は再加工され、さまざまな形態が作られて、それには掻器や抉入石器や尖頭器や穿孔器が含まれます。<br /><br />　更新世半ばの気候変動期（120万～70万年前頃）は、石核剥片インダストリーの技術的革新の水準増加に対応しており、事前剥離手法や多様な範囲の道具様式の製作が含まれ、生態系の変化への典型的形態に先行するホモ・エレクトス人口集団の多様な適応的反応を示唆しています。更新世半ばの気候変動は中国南部における大型切断用道具の出現にも対応しており、100万年前頃までに見られる鄖県の事例を含めて、丸石から形成され、分割されることが多くなっています。大型切断用道具は礫器および掘削器から構成され、新たな適応的戦略を表しており、典型的形態に先行するホモ・エレクトスおよび典型的ホモ・エレクトス人口集団にとって、の前広範な植物資源を利用することが可能となりました［48］。<br /><br />　50万年前頃までに行なわれていた周口店における火の制御された使用は、ホモ・エレクトス人口集団による重要な革新です。長く議論されてきましたが、寒冷期における避難の必要性や、焼けた堆積物と骨の高温加熱の証拠を考えると、火の使用の可能性は高そうです。30万年前頃以降、一連の革新が現れ、それは移行期的人類、つまり提案されているロンギおよび/もしくはジュルエンシス単系統群の時間枠に対応しています。これら大きな脳の人類は一連の新たな行動に関わっており、それには、より多様な石器製作手法［51］や、木製道具および骨角器の製作やおそらくは岩絵［56］が含まれます。それ以前の石器群とは対照的に、大型切断用道具は大型剥片で制作され、剥離が洗練され、形状は対称的で、洛南や丁村などの遺跡で証明された後期アシューリアンとの比較が促されました。<br /><br />　中国南西部では、ルヴァロワもしくはルヴァロワ的手法を含むより複雑な石器縮小技術と、キーナ型石器の製作が、観音洞や龍潭山や人類化石を含む盤縣大洞といった遺跡で見られます［51］。龍潭におけるキーナ型石器の証拠はネアンデルタール人と関連している、と示唆されてきましたが、現時点では、この関連を確証する生物学的証拠はありません。中国中央部および北部では、華龍洞や西溝や許家窯や許昌の石器が、円盤状技術や再加工小型石器など石核剥片縮小で同様の発展を示しています。許家窯は球状体石器の多数の収集でよく知られており、打撃痕や切創痕の見られるウマ遺骸があり、狩猟および死肉漁り戦略を表しています。許昌には多様な背付き石器や骨製二次加工具や線刻のあるオーカー（鉄分を多く含んだ粘土）残留物を伴う宣告された骨があります。これら多様になっていく技術と行動は、象徴的かもしれない慣行とともに、人類集団間の文化的多様性および地域的差異を反映しています。<br /><br />　中国における現生人類の最古級の化石は、年代が127000～70000年前頃の間で、人工遺物との明確な関連はありません。現生人類はこの期間に見られる革新的行動の担い手かもしれませんが、移行期人類の一部の役割は除外できません。45000年前頃以後、現生人類は中国北部の考古学的記録のほとんどの担い手である可能性が高そうです。実際、峙峪において、現生人類に割り当てられた今では失われた後頭骨断片は、IUP技術や黒曜石の長距離輸送（800～1000km）や狩猟技術の向上や骨角器や成形された黒鉛円盤と関連しており［67］、アジア東部における最古級の既知のオーカー処理遺跡である下馬碑［68］など、この段階は4万年前頃以後の物質文化における顕著な増加となります。<br /><br /><br /><strong>●人類の生物地理</strong><br /><br />　1929年の周口店におけるホモ・エレクトスの画期的発見以来、中国の古人類学的記録に関して情報が着実に増加してきました。気候と環境と地理の要因が人類の進化にどのように影響を及ぼし、形成したのかについて、研究は焦点を当て始めています。中国全域の遺跡の緯度勾配から、生態系の変化がおそらくは人類の定着パターンに重要な役割を果たした、と示唆されます。<br /><br />　元謀を除けば、100万年以上前の南方の居住の強い証拠はなく、典型的な形態以前のホモ・エレクトスはおもに北方で見つかっています。秦嶺山脈は生物地理的境界として作用していたかもしれず、中国北部の温暖な環境を南部の亜熱帯で食性の密な景観から分離し、それは初期人類にとって適応的困難を課したかもしれません。<br /><br />　更新世半ばの気候変動は遺跡文武の重要な変化と対応しており、より低緯度の地帯で遺跡の数が高緯度の地帯より多く、高緯度地帯はより過酷でより季節的な環境が特徴です。注目すべきことに、更新世半ばの気候変動は、形態学的に最古級の住民と移行期の人類の中間である、鄖県2号の出現と一致しています。気候および環境変化は、進化的分岐［17］もしくは新たな集団の到来による最古級の人類の置換と関連しているかもしれません。中国中央部の南京のより新しい化石は、この地域における鄖県系統の存続を示唆しています。<br /><br />　60万年前頃以後、大きな植生および動物相の変化がアジア全域で起きたので、氷期と間氷期の間の人口集団の大きな縮小と拡大があったでしょう。中国の中期更新世における人類の地理的分布は、北緯45度から最南端の緯度まで広範囲を示しています（図1b・c）。身体的および生理的適応や、火の使用と気技術的革新を含む文化的能力（図2）は、おそらく重要な役割を果たしており、人類が新たな生態系へ拡散することや、生息環境の選好を可能としました。MIS11（432000～362000年前頃）は長く続いた温暖な間氷期で、人類に中国北部への拡散に最も広範な窓口を提供しました。<br /><br />　中期更新世後半は、人類がおそらくは数ヶ所の中核的退避地へと制約された生息地の縮小期で、断片化と孤立と時折の再統合が起こり、人類の多様性を促したかもしれない動的な期間です。生息地の長期の拡大および縮小とその結果生じた障壁は、異所性種分化と新たな人類系統の出現を促したかもしれません。上述のように、このクラスタの顕著な変異性は、単一の形態学的に多様な系統か、いくつかの異なる古任意交配集団（たとえば、ジュルエンシス単系統群やロンギ単系統群やデニソワ人）のいずれかを反映しているかもしれません。これらの人類は高地（夏河）［23］や高緯度（北緯45度のハルビン）［75］に居住できており、この地理的広大さは時間的に一連の文化的革新に対応しています（図2）。明確な地理的パターンの欠如は、気候変動期における高度な移動性もしくは生息地移動を示唆しています。これらの移行期人類の形態が1系統に属しているならば、その変異性は、デニソワ人が単一の均一な人口集団ではなく、広大な地理的範囲に居住した一連の異なる系統だった、とのゲノム証拠と一致します［76］。この想定では、これらの推定される単系統群は、複数種水準の系統ではなく、深く構造化されたデニソワ人集団の高度に多様な表現型の発現を反映しているかもしれません。<br /><br />　中国の後期更新世初期の証拠は地理的非対称性を示しており、南方の発見が北方（4万年前頃以降）に先行します。このパターンはおそらく気候不安定性と人口集団を分断する砂漠の境界を反映しており、より祖先的な系統が北方で存続した一方で、より派生的な形態が南方から進化したか、到来しました。北方からの新参者は在来人口集団と混合したかもしれず、現在では解釈困難な形態学的変異性が生じました［38］。興味深いことに、初期の南方の人類（たとえば、福岩や智人洞や土博）は、食性の変化と一致する虫歯や活動に関連した歯の摩耗の高頻度の発生を共有しており、これは恐らく、初期の熱帯雨林資源の利用もしくは免疫の変化と関連しています。このパターンは、南方での定着を促進した、行動的革新を示唆しています。<br /><br /><br /><strong>●中国の過去の前途</strong><br /><br />　中国における最近の古人類学的発見はこの地域を、進化的袋小路からヒト進化の自然の実験場へと変えました。次の10年間に、化石からの分子記録の増加は、人類系統の定義の中心となるでしょう。古プロテオミクスの急速な進歩から、この分野における大きな進展が期待されます。しかし、特定の変異や多様体に割り当てる進化的重要性を解明するには、基礎研究が必要です。古代と現代両方の人口集団における分子的変異性がより深く理解されるにつれて、化石の類似性の長きにわたる解釈は変わるかもしれません。今や、進歩は分子と解剖学の観点の統合にかかっています。これら2系統の証拠間の統合の長きにわたる欠如は発見を送らせてきましたが、形態学的データは一貫して、多くの遺伝学的モデルがこれまでに示唆してきたよりも深い、現生人類単系統群の時間的分岐を示しています。これらの手法の橋渡しが、より一貫した進化的枠組みには重要でしょう。<br /><br />　ヨーロッパと中国の化石記録の統合は、現生人類単系統群の時間と場所の理解において、新たな進化的（革命的）光を当てるかもしれません。アタプエルカ（スペイン）のホモ・アンテセッサーは、中国の前期更新世後期～中期更新世初期の化石（鄖県、南京）と密接な進化的空間を共有しているようです。このつながり可能性に関する研究を通じて、必ずしもアフリカに限らない、現生人類単系統群のより深い起源の発見を期待できます。化石記録が増えるにつれて、現生人類単系統群と関連するより多くの人類がユーラシア全域で現れる可能性は高そうです。<br /><br />　化石証拠と行動的証拠の統合における現在の空白は、中国における進化の経緯の包括的理解を制約し続けます。化石と考古学と年代と古環境のデータの増加は今や、一連の重要な進化的問題に取り組B調べる新たな機会を提示します。たとえば、人類種/単系統群と適応的革新が過去200万年間のアジア東部における生息地の変動性とどのように対応していますか？気候条件はどの程度、人口集団の相互作用および拡散経路に影響を及ぼしましたか？中期更新世における種と単系統群は文化的革新を共有し、どの適応的利点がこれをもたらした可能性がありますか？これらの問題の探求は、ヒト進化の謎に取り組むための、不可欠の欠けた断片を提供するでしょう。<br /><br /><br /><strong>●補足：中国における「移行期」人類の分類学的問題</strong><br /><br />　中国の中期更新世の化石記録は、現在の古人類学における最も困難な分類学的問題の一つを提示しています。これまで「移行期」として伝統的に記載されてきた人類化石の多様な一式は、とくに顔面形態における派生的特徴と脳の大きさを、ホモ・エレクトスに存在し、ネアンデルタール人や現生人類などその後のホモ属の形態に欠けている祖先的な特徴と組み合わせています。この多様性をどう解釈するかによって、対照的な分類学的提案につながり、それぞれ異なる進化的意味があります。<br /><br />　ある手法では、ほとんどの中期更新世の中国の化石を単一系統に分類しており、最近ではホモ・ロンギと正式に命名されました。このモデルでは、ハルビン（模式標本）や大理や金牛山や許家窯や華龍洞や夏河や澎湖の下顎は、大きな頭蓋容量や短く比較的正顎の顔面や多様な下顎および歯のパターンによって特徴づけられる、広範な形態学的連続体を表しています。このロンギ単系統群は現生人類の姉妹系統として解釈されてきており、現生人類系統との初期の分岐（100万年以上前）が示唆され、鄖県などの化石は基底部の構成員と提案されています。この命名は、デニソワ人と同定される化石である、この集団内部でのクラスタ化（まとまることむ）もしくは包含を示唆しており、通常は単一種内に含まれるよりも大きな一定水準の形態学的多様性が示唆されます。重要で厄介な問題は、ロンギ単系統群をデニソワ人と結びつけることが、核DNAに基づきデニソワ人をネアンデルタール人の姉妹系統と位置づけるゲノムモデルと一致しないことで、遺伝的系統を断片的な化石形態に当てはめる難しさや、深い人口構造や混合や古代の分岐の背景における核とミトコンドリアの兆候間の不一致の可能性を浮き彫りにしています。<br /><br />　代替的な枠組みは、この多様性を複数の進化的系統の反映と解釈します。この見解では、ホモ・ジュルエンシスは、ネアンデルタール人との類似性を示す、ひじょうに大きな脳容量や頑丈な歯列と頭蓋と下顎の形質によって特徴づけられる、独特な単系統群を表しています。許家窯化石は模式標本、許昌化石は副模式標本として提案されてきており、デニソワ人はこの系統内に含められ、ネアンデルタール人との姉妹群に位置づけられます。大理や金牛山やハルビンや華龍洞のような他の化石は、このジュルエンシス単系統群外に置かれます。形態学的観点からは、これらの標本はホモ・ロンギのより厳格な定義内に収まると解釈でき、現生人類系統に近い系統としての元々の提案と一致しますが、この解釈はさらなる検証が必要です。<br /><br />　この議論の中核には、広範な地理的範囲に居住していたか、複数の部分的に孤立した系統の存在を示す、複数のデニソワ人系統のゲノム証拠と一致する、形態学的変異が深く構造化された人口集団内の種内多様性を反映しているのかどうか、ということがあります。これらの対案を解明するには、ホモ・エレクトス内でどの程度形態学的多様性を合理的に許容できるのか、という明示的検討を含めて、より詳細な比較解剖学的分析が必要でしょう。古プロテオミクスを含めて新たなゲノム手法は強力な手段を提供しますが、とくに注意して解釈すべきなのは、これらの手法の新規性が分類学的過剰解釈の危険性を増加させるからです。<br /><br /><br />参考文献：<br />Fu Q. et al.(2026): Enamel proteins from six Homo erectus specimens across China. Nature, 655, 8121, 141–147.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10478-8" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-026-10478-8</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202501article_14.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />Yang SX, Martinón-Torres M, and Petraglia M.(2026): Palaeoanthropological evidence from China is changing the picture of hominin evolutionary history. Nature Ecology & Evolution, 10, 4, 634–640.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41559-026-02983-w" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41559-026-02983-w</a><br /><br />［3］Bae CJ, and Wu X.(2024): Making sense of eastern Asian Late Quaternary hominin variability. Nature Communications, 15, 9479.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41467-024-53918-7" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41467-024-53918-7</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202501article_14.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［4］Ji Q. et al.(2021): Late Middle Pleistocene Harbin cranium represents a new Homo species. The Innovation, 2, 3, 100132.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.xinn.2021.100132" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.xinn.2021.100132</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202109article_25.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［5］Stringer C.(2016): The origin and evolution of Homo sapiens. Philosophical Transactions of the Royal Society B, 371, 1698, 20150237.<br /><a href="https://doi.org/10.1098/rstb.2015.0237" target="_blank">https://doi.org/10.1098/rstb.2015.0237</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201806article_32.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［6］Krause J. et al.(2010): The complete mitochondrial DNA genome of an unknown hominin from southern Siberia. Nature, 464, 7290, 894-897.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature08976" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature08976</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201003article_26.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［7］Meyer M. et al.(2012): A High-Coverage Genome Sequence from an Archaic Denisovan Individual. Science, 338, 6104, 222-226.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.1224344" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.1224344</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201209article_4.html"><span style=color:#e00>関連記事1</span></a>および<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201904article_21.html"><span style=color:#e00>関連記事2</span></a><br /><br />［8］Slon V. et al.(2018): The genome of the offspring of a Neanderthal mother and a Denisovan father. Nature, 561, 7721, 113–116.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-018-0455-x" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-018-0455-x</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201809article_41.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［9］Fu Q. et al.(2025): The proteome of the late Middle Pleistocene Harbin individual. Science, 389, 6761, 704–707.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.adu9677" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.adu9677</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202508article_17.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［10］Tsutaya T. et al.(2025): A male Denisovan mandible from Pleistocene Taiwan. Science, 388, 6743, 176–180.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.ads3888" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.ads3888</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202504article_13.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［17］Feng X. et al.(2025): The phylogenetic position of the Yunxian cranium elucidates the origin of Homo longi and the Denisovans. Science, 389, 6767, 1320–1324.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.ado9202" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.ado9202</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202509article_28.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［19］Castro JMB, and Martinón-Torres M.(2019): Filling the gap. What does Homo antecessor tell us about the origin of the “emergent humanity” that gave rise to Homo sapiens? Journal of Anthropological Sciences, 97, 209-213.<br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202001article_18.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［20］Meyer M. et al.(2016): Nuclear DNA sequences from the Middle Pleistocene Sima de los Huesos hominins. Nature, 531, 7595, 504–507.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature17405" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature17405</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201603article_17.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［21］Xing S. et al.(2015): Hominin teeth from the early Late Pleistocene site of Xujiayao, Northern China. American Journal of Physical Anthropology, 156, 2, 224–240.<br /><a href="https://doi.org/10.1002/ajpa.22641" target="_blank">https://doi.org/10.1002/ajpa.22641</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201502article_6.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［23］Chen F. et al.(2019): A late Middle Pleistocene Denisovan mandible from the Tibetan Plateau. Nature, 569, 7756, 409–412.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-019-1139-x" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-019-1139-x</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201905article_4.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［24］Scott GR, Irish JD, and Martinón-Torres M.(2020): A more comprehensive view of the Denisovan 3-rooted lower second molar from Xiahe. PNAS, 117, 1, 37–38.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.1918004116" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.1918004116</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201912article_43.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［25］Prüfer K. et al.(2014): The complete genome sequence of a Neanderthal from the Altai Mountains. Nature, 505, 7481, 43–49.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature12886" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature12886</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201312article_24.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［30］Wu X. et al.(2025): The hominin teeth from the late Middle Pleistocene Hualongdong site, China. Journal of Human Evolution, 206, 103727.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2025.103727" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2025.103727</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_11.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［34］Fu Q. et al.(2025A): Denisovan mitochondrial DNA from dental calculus of the >146,000-year-old Harbin cranium. Cell, 188, 15, 3919–3926.E9.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.cell.2025.05.040" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.cell.2025.05.040</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202506article_27.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［35］Liu W. et al.(2015): The earliest unequivocally modern humans in southern China. Nature, 526, 7575, 696–699.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature15696" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature15696</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201510article_17.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［36］Bae CJ, Douka K, and Petraglia MD.(2017): On the origin of modern humans: Asian perspectives. Science, 358, 6368, eaai9067.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aai9067" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aai9067</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201712article_9.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［38］Liao W. et al.(2019): Mosaic dental morphology in a terminal Pleistocene hominin from Dushan Cave in southern China. Scientific Reports, 9, 2347.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41598-019-38818-x" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41598-019-38818-x</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201902article_46.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［39］Zhu Z. et al.(2018): Hominin occupation of the Chinese Loess Plateau since about 2.1 million years ago. Nature, 559, 7715, 608–612.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-018-0299-4" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-018-0299-4</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201807article_19.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［48］Li H. et al.(2024): The temporal-spatial evolution of handaxe technology in China: Recent progress and future directions. Science Bulletin, 69, 14, 2161-2165.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.04.047" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.04.047</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202412article_24.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［51］Hu Y. et al.(2019): Late Middle Pleistocene Levallois stone-tool technology in southwest China. Nature, 565, 7737, 82–85.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-018-0710-1" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-018-0710-1</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201811article_35.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［56］Zhang D. et al.(2021): Earliest parietal art: hominin hand and foot traces from the middle Pleistocene of Tibet. Science Bulletin, 66, 24, 2506-2515.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.scib.2021.09.001" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.scib.2021.09.001</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202203article_6.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［67］Yang SX. et al.(2024): Initial Upper Palaeolithic material culture by 45,000 years ago at Shiyu in northern China. Nature Ecology & Evolution, 8, 3, 552–563.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41559-023-02294-4" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41559-023-02294-4</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202401article_24.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［68］Wang FG. et al.(2022): Innovative ochre processing and tool use in China 40,000 years ago. Nature, 603, 7900, 284–289.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-022-04445-2" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-022-04445-2</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202203article_13.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［75］Ni X. et al.(2021): Massive cranium from Harbin in northeastern China establishes a new Middle Pleistocene human lineage. The Innovation, 2, 3, 100130.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.xinn.2021.100130" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.xinn.2021.100130</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202109article_25.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［76］Sawafuji M. et al.(2024): East and Southeast Asian hominin dispersal and evolution: A review. Quaternary Science Reviews, 333, 108669.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2024.108669" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2024.108669</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202405article_8.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><a name="more"></a>

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            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_6.html</link>
      <title>大河ドラマ『豊臣兄弟！』第26回「信長を笑わせろ！」</title>
      <pubDate>Mon, 06 Jul 2026 11:40:50 +0900</pubDate>
            <description>　今回は、本能寺の変へと至る過程が描かれました。織田（津田）信澄が大きな役割を担うことになったのは予想外でした。確かに、本作はキョウダイに焦点を当てているところがあり、それは表題に表れていますし、織田信長と市や信勝の関係が当初から描かれてきました。とくに信勝は、本作が始まった時点ではすでに死亡しているのに、何度か回想で描かれたことから、意外と重要だとは考えていましたが、まさか信勝の息子の信澄が登場するばかりか、本能寺の変とも関わってくる重要な役割を担うとは、本当に意外でした。..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　今回は、本能寺の変へと至る過程が描かれました。織田（津田）信澄が大きな役割を担うことになったのは予想外でした。確かに、本作はキョウダイに焦点を当てているところがあり、それは表題に表れていますし、織田信長と市や信勝の関係が当初から描かれてきました。とくに信勝は、本作が始まった時点ではすでに死亡しているのに、何度か回想で描かれたことから、意外と重要だとは考えていましたが、まさか信勝の息子の信澄が登場するばかりか、本能寺の変とも関わってくる重要な役割を担うとは、本当に意外でした。

　信長は甥の信澄に信勝を見るようになり、長宗我部元親とやり取りをしていたことから、信澄を疑い、信澄に謹慎を命じます。領国が広がって、立場が重くなるにつれて、信長は猜疑心が深くなっていっているようです。本作の信長は凡人なところがあり、それを必死に抑えつけて克服し、織田家の当主、さらには「天下人」となるにつれて負担が大きくなり、それが猜疑心の深まりにつながっている、という構成は悪くなかったように思います。信長が「豊臣兄弟」というか羽柴一家の接待によって、信澄の謹慎を解き、明智光秀が足利義昭から受け取った、信長を討てとの文は、信澄が書いたものと明かされたところも、ドラマとしてはなかなか面白かったと思います。

　ただ、こうした「仕掛け」は悪くなかったものの、本作の欠陥も出ており、まず、「豊臣兄弟」が目立つ場面は面白くなく、強引な話が多いことで、今回の羽柴家による信長の接待も同様でした。信長の息子で藤吉郎（羽柴秀吉）の養子となった秀勝が、信長を長浜へと招待する口実となりましたが、今回いきなり登場したことも、本作の欠陥をよく表しているように思います。尼子勝久や山中幸盛（山中鹿介）もそうだったように、重要な役割を担う人物が前振りもなくいきなり登場し、退場することがあり、ここは長期間を描く歴史ドラマとして、疑問が残るところです。まあ、秀勝は今回で退場とはならないでしょうが、秀吉にとって極めて重要な意味を持つ人物だと思いますので、養子に迎えるところは描いておいた方がよかったのではないか、と思います。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　今回は、本能寺の変へと至る過程が描かれました。織田（津田）信澄が大きな役割を担うことになったのは予想外でした。確かに、本作はキョウダイに焦点を当てているところがあり、それは表題に表れていますし、織田信長と市や信勝の関係が当初から描かれてきました。とくに信勝は、本作が始まった時点ではすでに死亡しているのに、何度か回想で描かれたことから、意外と重要だとは考えていましたが、まさか信勝の息子の信澄が登場するばかりか、本能寺の変とも関わってくる重要な役割を担うとは、本当に意外でした。<br /><br />　信長は甥の信澄に信勝を見るようになり、長宗我部元親とやり取りをしていたことから、信澄を疑い、信澄に謹慎を命じます。領国が広がって、立場が重くなるにつれて、信長は猜疑心が深くなっていっているようです。本作の信長は凡人なところがあり、それを必死に抑えつけて克服し、織田家の当主、さらには「天下人」となるにつれて負担が大きくなり、それが猜疑心の深まりにつながっている、という構成は悪くなかったように思います。信長が「豊臣兄弟」というか羽柴一家の接待によって、信澄の謹慎を解き、明智光秀が足利義昭から受け取った、信長を討てとの文は、信澄が書いたものと明かされたところも、ドラマとしてはなかなか面白かったと思います。<br /><br />　ただ、こうした「仕掛け」は悪くなかったものの、本作の欠陥も出ており、まず、「豊臣兄弟」が目立つ場面は面白くなく、強引な話が多いことで、今回の羽柴家による信長の接待も同様でした。信長の息子で藤吉郎（羽柴秀吉）の養子となった秀勝が、信長を長浜へと招待する口実となりましたが、今回いきなり登場したことも、本作の欠陥をよく表しているように思います。尼子勝久や山中幸盛（山中鹿介）もそうだったように、重要な役割を担う人物が前振りもなくいきなり登場し、退場することがあり、ここは長期間を描く歴史ドラマとして、疑問が残るところです。まあ、秀勝は今回で退場とはならないでしょうが、秀吉にとって極めて重要な意味を持つ人物だと思いますので、養子に迎えるところは描いておいた方がよかったのではないか、と思います。<a name="more"></a>

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            <category>大河ドラマ</category>
      <author>雑記帳</author>
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      <title>中期更新世ホモ属のタンパク質解析</title>
      <pubDate>Sun, 05 Jul 2026 06:07:55 +0900</pubDate>
            <description>　中国で発見された中期更新世ホモ属のタンパク質を報告した研究（Fu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、中国で発見されてホモ・エレクトスに分類されている中期更新世の化石6点から、エナメル質タンパク質の解析に成功しました。その結果、これら6個体に共通するアミノ酸多様体が2ヶ所見つかりました。一方は他の人類系統ではまだ特定されていませんが、もう一方はデニソワ人系統と一部の現代人集..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　中国で発見された中期更新世ホモ属のタンパク質を報告した<a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10478-8">研究</a>（Fu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、中国で発見されてホモ・エレクトスに分類されている中期更新世の化石6点から、エナメル質タンパク質の解析に成功しました。その結果、これら6個体に共通するアミノ酸多様体が2ヶ所見つかりました。一方は他の人類系統ではまだ特定されていませんが、もう一方はデニソワ人系統と一部の現代人集団で確認されました。この一部の現代人集団にはデニソワ人からの遺伝子流動が確認されており、本論文は、これがホモ・エレクトスからデニソワ人を経て一部の現生人類集団へと伝わったのではないか、と推測しています。中期更新世の人類遺骸のゲノム解析は難しいため、得られる遺伝的情報はゲノムよりもずっと少ないとはいえ、解析がより容易なタンパク質は、今後も人類進化史の解明に大きく貢献していくのではないか、と期待されます。

　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、SNP（Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型）、A（adenine、アデニン）、G（guanine、グアニン）、PSM（peptide spectrum matches、ペプチド範囲一致）、MALDI-TOF（matrix-assisted laser desorption/ionization-time-of-flight、マトリックス支援レーザー脱離/電離飛行時間型）、SAP（single–amino acid polymorphism、単一アミノ酸多型）、LC–MS/MS（liquid chromatography–tandem mass spectrometry、液体色層縦列質量分光法）、C（carbon、炭素）、N（nitrogen、窒素）、RY（ratio of peptide counts covering the AMELY-specific positions relative to all peptides from both AMELY and AMELX、AMELYおよびAMELX両方の全てのペプチドと比較してのAMELY固有部位を網羅するペプチドの数の比率）、HGDP（Human Genome Diversity Panel、ヒトゲノム多様性パネル）です。

　以下のタンパク質とアミノ酸の略称は、AMEL（amelogenin、アメロゲニン）、AMELY（amelogenin Y isoform、アメロゲニンのYアイソフォーム）、AMELX（アメロゲニンのXアイソフォーム）、AMBN（ameloblastin、アメロブラスチン）、AHSG（alpha-2-HS-glycoprotein、アルファ2HS糖タンパク質）、ALB（Albumin、アルブミン）、AMTN（Amelotin、アメロチン）、ENAM（Enamelin、エナメリン）、KLK4（kallikrein related peptidase 4、カリクレイン関連ペプチド加水分解酵素4型）、MMP20（Matrix metalloproteinase 20、マトリックスメタロプロテアーゼ20型）、ODAM（Odontogenic Ameloblast-associated protein、歯原性エナメル芽細胞関連タンパク質）、SERPINC1（SerpinC1、セルピンC1型）です。

　本論文で取り上げられる主要な人類は、パラントロプス・ロブストス（Paranthropus robustus）、ホモ・ジョルジクス（Homo georgicus）、ホモ・アンテセッサー（Homo antecessor）、ホモ・エレクトス（Homo erectus）、種区分未定のホモ属であるデニソワ人（Denisovan）、ネアンデルタール人（Homo neanderthalensis）、現生人類（Homo sapiens）、です。

　本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国の遺跡は、北京市の周口店（Zhoukoudian）、河南省洛陽市欒川（Luanchuan）県の孫家洞（Sunjiadong）、安徽省馬鞍山市の和県（Hexian）、陝西省藍田県の公王嶺（Gongwangling）、江蘇省南京市の猿人洞とも呼ばれる湯山洞窟（Tangshan Cave）、雲南省楚雄イ族自治州の元謀（Yuanmou）、山東省の沂源（Yiyuan）県です。

　本論文で取り上げられる中華人民共和国以外の主要な遺跡は、スペインのアタプエルカ山地（Sierra de Atapuerca）のシマ・デル・エレファンテ（Sima del Elefante）、ジョージア（グルジア）のドマニシ（Dmanisi）、台湾沖の澎湖海峡（Penghu Channel）、ラオスのフアパン（Huà Pan）県に位置するタム・グ・ハオ2（Tam Ngu Hao 2、略してTNH2）遺跡（コブラ洞窟）です。


●要約

　ホモ・エレクトス遺骸はアフリカとユーラシアとアジア南東部で発見されてきており［2、3］、200万年前頃にさかのぼれますが、その年代と保存状態のため、それらの遺骸からの情報をもたらす分子データの取得は困難と証明されてきました。この研究は、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡で発見された40万年前頃の中期更新世のホモ・エレクトスの男性5個体と女性1個体から、古代のエナメル質タンパク質の抽出に成功し、それらを分析しました。3ヶ所すべての遺跡の全標本は、2ヶ所のアミノ酸多様体を共有しています。これらのうち、AMBNのA253Gは以前には知られておらず、ジョージア（グルジア）のドマニシのホモ・エレクトス【別種のホモ・ジョルジクスに分類する見解もあります】やスペインのアタプエルカのホモ・アンテセッサーやデニソワ人やネアンデルタール人や現生人類を含めて、他のヒト系統では特異されていませんでした。もう一方の多様体であるAMBN（M273V）は以前にデニソワ人で特定されており、この証拠は今や、その多様体がこれら中期更新世ホモ・エレクトスと関連する人口集団を通じてもたらされたかもしれない、と示唆しています。デニソワ人のゲノムにおける超越古代型遺伝子移入に由来するこの領域は、その一部が後に現生人類へと受け継がれ、ホモ・エレクトスに起原だった可能性が高そうです。中期更新世後期のホモ・エレクトスはアジア東部の一部でデニソワ人と共存していたかもしれず、そこではこれらの相互作用が起きた、と推定されます。


●研究史

　広義のホモ・エレクトスは3大陸全域に広く分布しており、地質学的に長きに亘って生存し、200万年近く存続しました［2、3］。ホモ・エレクトスはアフリカからアジア西部へと広がった、と考えられており（ジョージアのドマニシでは180万年前頃）、アフリカ外のホモ属の最古級の一般的に認められている証拠となります［4、5］。ヨーロッパで発見された最古級のホモ・エレクトス標本は、シマ・デル・エレファンテ（スペインのアタプエルカ山地）のTE7層で発見され［6］、年代は140万～110万年前頃の間です。中国とインドネシアへの拡散後、ホモ・エレクトスはかなりの地質学的期間にわたってこれらの地域で存続しました。中国では、ホモ・エレクトスの記録は210万～160万年前頃までさかのぼり［8、9］、40万～30万年前頃に消滅しています。インドネシアのジャワ島では、ホモ・エレクトスの化石の範囲は、150万年前頃から、最近では10万年前頃までとなります。総じて、ホモ・エレクトスはヒトの進化にいて重要な役割を果たしてきました。この系統の分子的特性の理解は、ホモ属を通じての人類の生物学をより深く理解するのに不可欠です。それにも関わらず、ホモ・エレクトスから以前に回収された唯一の分子データは、アジア西部のジョージアのドマニシに由来する、177万年前頃の1点のはから抽出されたペプチドから構成されています。しかし、これらの配列には、ホモ・エレクトスを他のヒト系統から区別できるSAPが欠けています［11］。

　周口店化石によって表されるホモ・エレクトス標本の年代は、中国北部の中期更新世となる78万～30万年前頃です［12］。ホモ・エレクトスは、すべてのホモ・エレクトスもしくはアジアのホモ・エレクトスの全体的な解剖学的特徴の主要な参照として、頻繁に用いられています。この集団はホモ・エレクトスの起源と進化に関する研究において、重要な役割を果たしてきました。周口店化石の研究は、インドネシアのジャワ島の化石が類人猿なのかヒトなのか、という議論を決着させ、ヒト系統内におけるホモ・エレクトスの系統的位置を確証しました。周口店化石に加えて、いくつかの他の中期更新世ホモ・エレクトス化石が中国では発見されてきて、それには41万年前頃の和県遺跡遺骸や少なくとも58万年前頃となる南京の湯山洞窟遺骸や40万年前頃の孫家洞遺跡の遺骸が含まれます。南京および孫家洞化石が周口店化石と類似した形態を示すのに対して、和県遺骸は形態学的に周口店化石よりもインドネシアのジャワ島化石の方と近くなっています。さらに、いくつかの類似性が、デニソワ人と推定されている台湾の澎湖海峡の中期～後期更新世下顎骨と共有されています［21］。これらの化石のうち複数からタンパク質を回収すれば、こうした化石が、他の化石と区別でき、中期更新世ホモ・エレクトスの遺伝的資料への知見を提供できる、共通の分子的特性を有しているのかどうか、判断するのに役立つでしょう。

　この研究のタンパク質実験および分析でもちられた化石は、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡で発見されています（図1）。中国北部の北京の周口店で1927～1937年の間に発掘されたヒト化石は失われましたが、いくつかのヒト化石が1949～1951年の間にこの遺跡で発見され、1966年にも再び発見されました。この研究で用いられたヒトの歯（PA69）は第8～9層に由来し、1949～1951年の間に発見されました。中国南部の安徽省の和県遺跡で発見されたの2点のヒトの歯と、中国北部の河南省の孫家洞遺跡で発見された3点のヒトの歯も研究されました。孫家洞遺跡の歯のうち2点（12SJD1#10-42と12SJD1#10-45）は第4層で、他の歯（12SJD1#14-22）は第5層で発見されました。まとめると、これら3ヶ所の遺跡の標本6点全ての年代は40万年前頃で、およそ同年代となり、中国の南両方の個体を表しています。さらに、中国のハルビンの以前に報告されたデニソワ人頭蓋［27、28］の歯1点も含められました。以下は本論文の図1です。
<a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig1_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig1_HTML.png" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="158" /></a>

●動物化石のタンパク質の保存状態

　まず、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡の【非ヒト】動物化石のタンパク質の保存状態を調べることによって、古代人化石を損傷せずに、分析の可能性について最初の知見が得られました。MALDI-TOF質量分析法を用いての検証では、周口店遺跡の8点の標本、和県遺跡の40点の標本、孫家洞遺跡の37点の標本で、動物の象牙質もしくは骨における古代のタンパク質の証拠は明らかになりませんでした。しかし、これらの各遺跡の3点と14点と5点の動物の歯のエナメル質は、タンパク質の兆候を示しました。動物のエナメル質から得られたプロテオーム（タンパク質の総体）データ回収の成功から、ヒトの歯のエナメル質タンパク質の抽出は可能と示唆されます。


●内在性エナメル質プロテオーム

　古代エナメル質タンパク質は、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡のホモ・エレクトスの歯6点と、中国のハルビンの歯1点から、最小限侵襲技術を用いて抽出に成功しました。内在性ペプチド配列の検索に用いられたデータベースには、現代時゜んおよび他の人類の翻訳ゲノムおよび刊行されているプロテオームから得られたエナメル質タンパク質が含まれており［11、31］、LC–MS/MSの連続体データは、MaxQuantとPEAKS OnlineとpFindを用いて分析されました。これらの手法で、7点の標本全体で、4097～22107点のPSM、652～3476点のペプチドが生成されました。複数の遺伝子と一致するペプチドは非特異的とみなされ、以後の分析から除外されました。

　次に、いくつかの基準に基づいて、これらエナメル質タンパク質の内在性が評価されました。その基準は、（1）7点のヒト標本すべてでタンパク質とアミノ酸の特性が類似しており、他の刊行されている古代エナメル質タンパク質［35］と一致し、外来性汚染は最小限であること（図2a）、（2）ペプチド長とペプチド結合加水分解の水準が他の古代エナメル質タンパク質［11、35］に典型的であること、（3）脱アミノ化水準の上昇はより広範なタンパク質分解を示唆しており、古代プロテオームを確証するのに役立つこと［11、36］です。以下は本論文の図2です。
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　これらの基準によって、7点の標本について、6～11種類のエナメル質関連タンパク質（たとえば、AMEL、AHSG、ALB、AMBN、AMTN、COL17A1、ENAM、KLK4、MMP20、ODAM、SERPINC1）から回収された、650～3457点のペプチドが生成されました。タンパク質のPSM網羅率は図3aと補足図4に示されています。合計で、各標本からの内在性タンパク質の一致配列が、PEAKS OnlineとpFindとMaxQuantにおける重複するアミノ酸範囲の保持によって構築され、6点のホモ・エレクトス標本およびハルビンの1個体で269～903ヶ所のアミノ酸部位が網羅されました。以下は本論文の図3です。
<a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig3_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig3_HTML.png" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="374" /></a>

●性別判定

　男性固有の標識AMELYはY染色体上に位置し、歯のエナメル質の発達と関わっており、その存在は男性の判定に用いられています。しかし、エナメル質の限られたデータベースと検索ソフトウェアの高い感度のため、AMELY固有のペプチドの誤検出は、標本を男性と偽陽性で割り当てるかもしれません。この結果が予想外ではないのは、先行研究が検索データベースの偏りから生じる種間プロテオーム効果を論証してきたからです。この問題に対処するために、厳密な選別基準を用いて、内在性プロテオームで特定された全てのSAPの信頼性が確保され、それにはアメロゲニンの性別判定に用いられたSAPが組まれます。

　性別判定をさらな検証するために、protSexInfererが構築されました。これは、AMELYおよびAMELX両方の全てのペプチドと比較しての、AMELY固有部位を網羅するペプチドの数の比（RY）に基づく手法です。性別が確証されている、パラントロプス属標本4点（SK14132、SK830、SK835、SK850）および古代型人類4個体（澎湖1号［35］、ドマニシ個体D4163およびアタプエルカ個体ATD6-92［11］、ラオス_TNH2［43］）とともに、古代人16個体と現代人4個体を用いて、RYが0.058を超えていれば、標本は男性、RYが0.024未満であれば標本は女性と分類できます（図2c）。この手法を用いて、周口店遺跡の標本1点と孫家洞遺跡の標本2点とハルビン標本1点は、RYが0.187～0.295なので、男性と特定されました（図2c）。残りの標本である孫家洞遺跡のSJD10A（12SJD1#10-45、成人）はRYが0.019でなので、女性と分類されました（図2c）。性別判定の結果は、先行研究［31］に記載されている強度手法で確証されました。


●SAP

　これらの標本と他のヒトと霊長類との間の関係を調べるために、9点の内在性タンパク質すべてで、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人とチンパンジーとゴリラとオランウータンに固有のアミノ酸置換がある、ペプチド数が特定されました。これらには、異なる質量分析法装置もしくは実験室に由来する、各アミノ酸アレルにつき少なくとも2点のペプチドが必要でした。内在性プロテオームから回収されたすべてのSAPについて、関連するPSMと結びつくMS/MS連続体が主導で検査され、高エネルギー衝突衝突分離の典型的断片化パターンの存在が確証され、これはこの研究の質量分析法で用いられた断片化手法です。さらにもSAP部位を挟む4点のy/bイオンのうち少なくとも3点が、高品質な確証の保証に必要とされました。ペプチドのCもしくはN末端におけるSAPは、関連するPSMに1点以上のyもしくはbイオンが含まれていた場合に受容され、それは、これらが最大で1点のyもしくはbイオンしか生成できないからです。すべてのSAPはPEAKS OnlineとpFindとMaxQuantを用いてこの手法で確証され、2ヶ所のSAPが確実に特定されました。

　AMBNにおける新たなSAP（A253&gt;G）が周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡のすべてのヒト標本6点で特定され、各標本を裏づけるPSM数はそれぞれ124点と3点と9点と191点と24点と145点で、ペプチド数はそれぞれ21点と2点と4点と39点と9無添と35点でした。6点の標本それぞれにおけるこのSAPの高品質なペプチドには、少なくとも3点のy/bイオンがありました（図3b）。哺乳類とすべての霊長類、アタプエルカのホモ・アンテセッサー［11］、ドマニシのホモ・エレクトス［11］とデニソワ3号と澎湖1号［35］、すべてのネアンデルタール人とHGDPの現代人を含めて、この部位を網羅する利用可能なデータのある比較標本にはほぼ全てAMBN A25があり、数個体の哺乳類がT（ウマ類）かS（ブタ類）かV（小モグラネズミ）の残基を有している、もしくは欠落（ウシ属）していました。したがって、大きく異なる地理的地域を表す中国の南北にわたる3ヶ所の異なる遺跡の、ヒト標本6点すべてで特定されたAMBN（A253G）は、他の霊長類種では以前に特定されておらず、これら中期更新世のホモ・エレクトスに固有の多様体である可能性が高そうです。この変異によって、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡の6点の中期更新世ホモ・エレクトス標本は、系統樹では密接にクラスタ化する（まとまる）ことになります。これらの結果は、和県遺跡の歯がホモ・エレクトスに分類でき、形態に基づいて以前に提案された［21］ような、デニソワ人ではないことも示唆しています。

　もう1ヶ所のSAPであるAMBN（M273V）も、中期更新世ホモ・エレクトス標本6点すべてに存在します（表1、図3）。対応するSNPアレル（rs564905233、A&gt;G）はデニソワ人で見られ、デニソワ人からの遺伝子移入を通じて現代人に寄与したようです。このSNPは、フィリピン人では21%、インドでは1.17%、パプアニューギニアでは0.71%の頻度を示し、ほとんどの他の現代人集団には存在しません。注目すべきことに、ゲノム研究では、デニソワ人は祖先がネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類の祖先となる共通の傾倒から100万年以上前に分岐した人類から、0.5～8%の遺伝子流動を受けており［45］、これら「超古代型」DNA領域の約15%はデニソワ人からアジア人およびオセアニア人個体へと遺伝子移入された、と明らかになっています［46］。この状況は、AMBN（M273V）での観察と類似しています。したがって、この多様体はデニソワ人のみに見られるのではなく、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡の中期更新世ホモ・エレクトスと関連する人口集団を通じて、アジアとオセアニアの個体群にもたらされたようです（図4）。以下は本論文の図4です。
<a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig4_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig4_HTML.png" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="320" /></a>
　さらに、AMBNの273番目の部位のタンパク質に対応するrs564905233を含むDNA領域は、感受性領域内多点関連解析を通じて特定されたように、アフリカ人とデニソワ2号との間で、アフリカ人とアルタイのネアンデルタール人との間より大きな配列の差異を示しています。これは、rs564905233を含めてこの領域が、より分岐した超古代型集団に由来するかもしれない、との見解を裏づけます。さらに、AMBN（M273V）多様体はより新しいデニソワ人であるデニソワ3号と澎湖1号では同型接合ですが、既知のより「古い」デニソワ人であるハルビン頭蓋（少なくとも15万年以上前）とデニソワ25号（20万年前頃）［47］の両方では異型接合で（表1、図3b）、初期のデニソワ人は派生的なアレル（対立遺伝子）の頻度がより低かった、と示唆されます。さらに、周口店遺跡と和県遺跡の化石の形態は、ハルビン頭蓋とは異なります［48］。したがって、年代と形態と既知の遺伝的多様体の違いから、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡の化石は初期デニソワ人から除外できます。


●考察と結論

　最近の研究は、ヒトの進化史を解明するための、古代タンパク質解説の可能性を論証してきました［11、35、36、49、50］。しかし、重要な人類で、地理的に多様な地域を移動して居住した最初の人類であるホモ・エレクトスの遺伝的データは不足しています。中国の南北にまたがるよく知られた3ヶ所の遺跡である、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡の中期更新世ホモ・エレクトス化石6点から得られたエナメル質タンパク質は、ホモ・エレクトスの遺伝的構成への貴重な知見をもたらします。

　これら3ヶ所の遺跡の化石間の形態学的変異性、とくに周口店遺跡および孫家洞遺跡の標本と異なる和県遺跡の標本は、これらの個体がインドネシアのホモ・エレクトス、あるいはデニソワ人とより密接に関連しているのかどうか、という議論を促しました［21］。タンパク質の証拠から、和県遺跡標本は周口店遺跡と孫家洞遺跡のホモ・エレクトス標本のように新たに特定されたAMBN（A253G）変異を有しており、この変異はデニソワ3号や澎湖1号やハルビン頭蓋で見られない、と明らかに示されており、和県遺跡と周口店遺跡と孫家洞遺跡の化石はホモ・エレクトスに位置づけられます。ホモ・エレクトス内の分子的多様性を調べるには、さらなる古プロテオーム研究が必要です。

　AMBN（A253G）およびAMBN（M273V）多様体は、これら6点の中期更新世ホモ・エレクトス標本が属していた人口集団に固有かもしれません。注目すべきことに、AMBN（A253G）は以前にはどのヒトと【非ヒト】霊長類でも観察されておらず、この調査結果はひじょうに貴重となります。これらホモ・エレクトス標本はアジア東部にまたがる3ヶ所の遺跡に由来し、その年代はすべて40万年前頃で、デニソワ人はネアンデルタール人と47万～38万年前頃に分岐しました［45］。デニソワ人の既知の範囲にはアジア北東部のシベリアとチベット高原とハルビン、アジア南東部の澎湖海峡が含まれており、これらのホモ・エレクトスが発見された遺跡は、中国の南北に存在します。この共通の生息地は、これら中期更新世ホモ・エレクトス個体群と関連する人口集団とデニソワ人との間の相互作用の機会を形成します。

　この研究のアジア東部のホモ・エレクトス標本すべてにおける派生的なAMBN（M273V）多様体の特定と、デニソワ人におけるその存在から、ホモ・エレクトスはデニソワ3号のゲノムで特定された超古代型の遺伝子移入の候補供給源となります。この多様体は、デニソワ人と相互作用した中期更新世後期のホモ・エレクトスと関連する人口集団に由来する可能性が高そうで、その期間に、これらの集団はアジア東部で共存していました［51］。異なる期間および地域の分子データを含めて、ホモ・エレクトスに関するさらなる研究は、その大進化および人口多様性およびデニソワ人との相互作用の解明に役立つでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用（<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/15539">引用1</a>および<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/135875">引用2</a>）です。


古生物学：古代の歯が原初的な人類集団間の交流を示唆している

　約40万年前に中国に生息していた6体のホモ・エレクトス（Homo erectus）の歯から得られたエナメル質タンパク質が、古代の遺伝物質がどのように現代人へ受け継がれてきたのかについて、新たな手がかりを提供している。これらの古人類近縁種に由来するタンパク質の解析結果を報告する論文が、今週のNature にオープンアクセスで掲載される。解析の結果、デニソワ人と呼ばれる、より新しい古人類集団にも見られる遺伝的特徴が特定された。これらの発見は、両集団が東アジアの一部地域で共存し、相互に交流していた可能性を示唆している。

　ホモ・エレクトス――初期のホモ属（Homo）やほかのホミニン（hominins）とは解剖学的に異なり、現代人により近い古代のヒトの近縁種――は、約200万年前に出現し、アフリカからユーラシアおよび東南アジアへと広がったホモ属の最初の種である。この系統がホミニンの進化において果たした役割を理解する一つの方法は、分子データ（DNAやタンパク質など）を研究することである。しかし、古いホモ・エレクトスの標本は年代が古く、保存状態も悪いため、こうした証拠を回収するのは困難であった。

　Qiaomei Fuら（中国科学院古人類及古脊椎動物研究所〔中国〕）は、約40万年前の中国の中期更新世に由来する6点のホモ・エレクトス標本から、歯のエナメル質タンパク質の抽出に成功したことを報告している。これらの化石は、男性5体、女性1体に由来し、周口店（しゅうこうてん；Zhoukoudian）、和県（わせん；Hexian）、および孫家洞（そんかどう；Sunjiadong）の3つの異なる遺跡から出土したものである。6本すべての歯から、2つのアミノ酸変異体が確認された。そのうちの一つ（AMBN〔ameloblastin；アメロブラスチン〕（A253G））はこれまで報告されたことがなく、東アジアのホモ・エレクトスを特徴づける分子マーカーである可能性がある。もう1つの変異（AMBN（M273V））は、以前デニソワ人や一部の現代人において観察されていた。著者らは、AMBN（M273V）が、これらの中期更新世のホモ・エレクトスに関連する集団をつうじて、デニソワ人に導入された可能性があると示唆している。この発見は、デニソワ人を介して現代人に受け継がれた古代の遺伝物質が、ホモ・エレクトスに起源を持つ可能性があることを示唆している。

　著者らは、さまざまな時代や地域のホモ・エレクトス標本からの分子データのさらなる分析が、デニソワ人との交流に関するさらなる情報を明らかにし、ホモ属内の進化に光を当てる助けとなるだろうと結論づけている。


進化学：中国各地の6体のホモ・エレクトス標本から得られたエナメル質タンパク質

進化学：ホモ・エレクトスのエナメル質タンパク質

　今回、中国の3遺跡に由来する6体のホモ・エレクトス（Homo erectus）標本の歯からエナメル質タンパク質が抽出され、得られたペプチドのアミノ酸配列から、ホモ・エレクトスの非常に古い遺伝物質の小さな断片が、デニソワ人を介して現生人類へと伝わった可能性があることが示唆された。


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<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201905article_4.html">関連記事</a>

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<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202405article_8.html">関連記事</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　中国で発見された中期更新世ホモ属のタンパク質を報告した<a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10478-8"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Fu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、中国で発見されてホモ・エレクトスに分類されている中期更新世の化石6点から、エナメル質タンパク質の解析に成功しました。その結果、これら6個体に共通するアミノ酸多様体が2ヶ所見つかりました。一方は他の人類系統ではまだ特定されていませんが、もう一方はデニソワ人系統と一部の現代人集団で確認されました。この一部の現代人集団にはデニソワ人からの遺伝子流動が確認されており、本論文は、これがホモ・エレクトスからデニソワ人を経て一部の現生人類集団へと伝わったのではないか、と推測しています。中期更新世の人類遺骸のゲノム解析は難しいため、得られる遺伝的情報はゲノムよりもずっと少ないとはいえ、解析がより容易なタンパク質は、今後も人類進化史の解明に大きく貢献していくのではないか、と期待されます。<br /><br />　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、SNP（Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型）、A（adenine、アデニン）、G（guanine、グアニン）、PSM（peptide spectrum matches、ペプチド範囲一致）、MALDI-TOF（matrix-assisted laser desorption/ionization-time-of-flight、マトリックス支援レーザー脱離/電離飛行時間型）、SAP（single–amino acid polymorphism、単一アミノ酸多型）、LC–MS/MS（liquid chromatography–tandem mass spectrometry、液体色層縦列質量分光法）、C（carbon、炭素）、N（nitrogen、窒素）、RY（ratio of peptide counts covering the AMELY-specific positions relative to all peptides from both AMELY and AMELX、AMELYおよびAMELX両方の全てのペプチドと比較してのAMELY固有部位を網羅するペプチドの数の比率）、HGDP（Human Genome Diversity Panel、ヒトゲノム多様性パネル）です。<br /><br />　以下のタンパク質とアミノ酸の略称は、AMEL（amelogenin、アメロゲニン）、AMELY（amelogenin Y isoform、アメロゲニンのYアイソフォーム）、AMELX（アメロゲニンのXアイソフォーム）、AMBN（ameloblastin、アメロブラスチン）、AHSG（alpha-2-HS-glycoprotein、アルファ2HS糖タンパク質）、ALB（Albumin、アルブミン）、AMTN（Amelotin、アメロチン）、ENAM（Enamelin、エナメリン）、KLK4（kallikrein related peptidase 4、カリクレイン関連ペプチド加水分解酵素4型）、MMP20（Matrix metalloproteinase 20、マトリックスメタロプロテアーゼ20型）、ODAM（Odontogenic Ameloblast-associated protein、歯原性エナメル芽細胞関連タンパク質）、SERPINC1（SerpinC1、セルピンC1型）です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な人類は、パラントロプス・ロブストス（Paranthropus robustus）、ホモ・ジョルジクス（Homo georgicus）、ホモ・アンテセッサー（Homo antecessor）、ホモ・エレクトス（Homo erectus）、種区分未定のホモ属であるデニソワ人（Denisovan）、ネアンデルタール人（Homo neanderthalensis）、現生人類（Homo sapiens）、です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国の遺跡は、北京市の周口店（Zhoukoudian）、河南省洛陽市欒川（Luanchuan）県の孫家洞（Sunjiadong）、安徽省馬鞍山市の和県（Hexian）、陝西省藍田県の公王嶺（Gongwangling）、江蘇省南京市の猿人洞とも呼ばれる湯山洞窟（Tangshan Cave）、雲南省楚雄イ族自治州の元謀（Yuanmou）、山東省の沂源（Yiyuan）県です。<br /><br />　本論文で取り上げられる中華人民共和国以外の主要な遺跡は、スペインのアタプエルカ山地（Sierra de Atapuerca）のシマ・デル・エレファンテ（Sima del Elefante）、ジョージア（グルジア）のドマニシ（Dmanisi）、台湾沖の澎湖海峡（Penghu Channel）、ラオスのフアパン（Huà Pan）県に位置するタム・グ・ハオ2（Tam Ngu Hao 2、略してTNH2）遺跡（コブラ洞窟）です。<br /><br /><br /><strong>●要約</strong><br /><br />　ホモ・エレクトス遺骸はアフリカとユーラシアとアジア南東部で発見されてきており［2、3］、200万年前頃にさかのぼれますが、その年代と保存状態のため、それらの遺骸からの情報をもたらす分子データの取得は困難と証明されてきました。この研究は、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡で発見された40万年前頃の中期更新世のホモ・エレクトスの男性5個体と女性1個体から、古代のエナメル質タンパク質の抽出に成功し、それらを分析しました。3ヶ所すべての遺跡の全標本は、2ヶ所のアミノ酸多様体を共有しています。これらのうち、AMBNのA253Gは以前には知られておらず、ジョージア（グルジア）のドマニシのホモ・エレクトス【別種のホモ・ジョルジクスに分類する見解もあります】やスペインのアタプエルカのホモ・アンテセッサーやデニソワ人やネアンデルタール人や現生人類を含めて、他のヒト系統では特異されていませんでした。もう一方の多様体であるAMBN（M273V）は以前にデニソワ人で特定されており、この証拠は今や、その多様体がこれら中期更新世ホモ・エレクトスと関連する人口集団を通じてもたらされたかもしれない、と示唆しています。デニソワ人のゲノムにおける超越古代型遺伝子移入に由来するこの領域は、その一部が後に現生人類へと受け継がれ、ホモ・エレクトスに起原だった可能性が高そうです。中期更新世後期のホモ・エレクトスはアジア東部の一部でデニソワ人と共存していたかもしれず、そこではこれらの相互作用が起きた、と推定されます。<br /><br /><br /><strong>●研究史</strong><br /><br />　広義のホモ・エレクトスは3大陸全域に広く分布しており、地質学的に長きに亘って生存し、200万年近く存続しました［2、3］。ホモ・エレクトスはアフリカからアジア西部へと広がった、と考えられており（ジョージアのドマニシでは180万年前頃）、アフリカ外のホモ属の最古級の一般的に認められている証拠となります［4、5］。ヨーロッパで発見された最古級のホモ・エレクトス標本は、シマ・デル・エレファンテ（スペインのアタプエルカ山地）のTE7層で発見され［6］、年代は140万～110万年前頃の間です。中国とインドネシアへの拡散後、ホモ・エレクトスはかなりの地質学的期間にわたってこれらの地域で存続しました。中国では、ホモ・エレクトスの記録は210万～160万年前頃までさかのぼり［8、9］、40万～30万年前頃に消滅しています。インドネシアのジャワ島では、ホモ・エレクトスの化石の範囲は、150万年前頃から、最近では10万年前頃までとなります。総じて、ホモ・エレクトスはヒトの進化にいて重要な役割を果たしてきました。この系統の分子的特性の理解は、ホモ属を通じての人類の生物学をより深く理解するのに不可欠です。それにも関わらず、ホモ・エレクトスから以前に回収された唯一の分子データは、アジア西部のジョージアのドマニシに由来する、177万年前頃の1点のはから抽出されたペプチドから構成されています。しかし、これらの配列には、ホモ・エレクトスを他のヒト系統から区別できるSAPが欠けています［11］。<br /><br />　周口店化石によって表されるホモ・エレクトス標本の年代は、中国北部の中期更新世となる78万～30万年前頃です［12］。ホモ・エレクトスは、すべてのホモ・エレクトスもしくはアジアのホモ・エレクトスの全体的な解剖学的特徴の主要な参照として、頻繁に用いられています。この集団はホモ・エレクトスの起源と進化に関する研究において、重要な役割を果たしてきました。周口店化石の研究は、インドネシアのジャワ島の化石が類人猿なのかヒトなのか、という議論を決着させ、ヒト系統内におけるホモ・エレクトスの系統的位置を確証しました。周口店化石に加えて、いくつかの他の中期更新世ホモ・エレクトス化石が中国では発見されてきて、それには41万年前頃の和県遺跡遺骸や少なくとも58万年前頃となる南京の湯山洞窟遺骸や40万年前頃の孫家洞遺跡の遺骸が含まれます。南京および孫家洞化石が周口店化石と類似した形態を示すのに対して、和県遺骸は形態学的に周口店化石よりもインドネシアのジャワ島化石の方と近くなっています。さらに、いくつかの類似性が、デニソワ人と推定されている台湾の澎湖海峡の中期～後期更新世下顎骨と共有されています［21］。これらの化石のうち複数からタンパク質を回収すれば、こうした化石が、他の化石と区別でき、中期更新世ホモ・エレクトスの遺伝的資料への知見を提供できる、共通の分子的特性を有しているのかどうか、判断するのに役立つでしょう。<br /><br />　この研究のタンパク質実験および分析でもちられた化石は、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡で発見されています（図1）。中国北部の北京の周口店で1927～1937年の間に発掘されたヒト化石は失われましたが、いくつかのヒト化石が1949～1951年の間にこの遺跡で発見され、1966年にも再び発見されました。この研究で用いられたヒトの歯（PA69）は第8～9層に由来し、1949～1951年の間に発見されました。中国南部の安徽省の和県遺跡で発見されたの2点のヒトの歯と、中国北部の河南省の孫家洞遺跡で発見された3点のヒトの歯も研究されました。孫家洞遺跡の歯のうち2点（12SJD1#10-42と12SJD1#10-45）は第4層で、他の歯（12SJD1#14-22）は第5層で発見されました。まとめると、これら3ヶ所の遺跡の標本6点全ての年代は40万年前頃で、およそ同年代となり、中国の南両方の個体を表しています。さらに、中国のハルビンの以前に報告されたデニソワ人頭蓋［27、28］の歯1点も含められました。以下は本論文の図1です。<br /><div align="center"><a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig1_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig1_HTML.png" alt="画像" width="365" height="158" class="up-image" title="図1" /></a></div><br /><br /><strong>●動物化石のタンパク質の保存状態</strong><br /><br />　まず、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡の【非ヒト】動物化石のタンパク質の保存状態を調べることによって、古代人化石を損傷せずに、分析の可能性について最初の知見が得られました。MALDI-TOF質量分析法を用いての検証では、周口店遺跡の8点の標本、和県遺跡の40点の標本、孫家洞遺跡の37点の標本で、動物の象牙質もしくは骨における古代のタンパク質の証拠は明らかになりませんでした。しかし、これらの各遺跡の3点と14点と5点の動物の歯のエナメル質は、タンパク質の兆候を示しました。動物のエナメル質から得られたプロテオーム（タンパク質の総体）データ回収の成功から、ヒトの歯のエナメル質タンパク質の抽出は可能と示唆されます。<br /><br /><br /><strong>●内在性エナメル質プロテオーム</strong><br /><br />　古代エナメル質タンパク質は、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡のホモ・エレクトスの歯6点と、中国のハルビンの歯1点から、最小限侵襲技術を用いて抽出に成功しました。内在性ペプチド配列の検索に用いられたデータベースには、現代時゜んおよび他の人類の翻訳ゲノムおよび刊行されているプロテオームから得られたエナメル質タンパク質が含まれており［11、31］、LC–MS/MSの連続体データは、MaxQuantとPEAKS OnlineとpFindを用いて分析されました。これらの手法で、7点の標本全体で、4097～22107点のPSM、652～3476点のペプチドが生成されました。複数の遺伝子と一致するペプチドは非特異的とみなされ、以後の分析から除外されました。<br /><br />　次に、いくつかの基準に基づいて、これらエナメル質タンパク質の内在性が評価されました。その基準は、（1）7点のヒト標本すべてでタンパク質とアミノ酸の特性が類似しており、他の刊行されている古代エナメル質タンパク質［35］と一致し、外来性汚染は最小限であること（図2a）、（2）ペプチド長とペプチド結合加水分解の水準が他の古代エナメル質タンパク質［11、35］に典型的であること、（3）脱アミノ化水準の上昇はより広範なタンパク質分解を示唆しており、古代プロテオームを確証するのに役立つこと［11、36］です。以下は本論文の図2です。<br /><div align="center"><a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig2_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig2_HTML.png" alt="画像" width="365" height="337" class="up-image" title="図2" /></a></div><br />　これらの基準によって、7点の標本について、6～11種類のエナメル質関連タンパク質（たとえば、AMEL、AHSG、ALB、AMBN、AMTN、COL17A1、ENAM、KLK4、MMP20、ODAM、SERPINC1）から回収された、650～3457点のペプチドが生成されました。タンパク質のPSM網羅率は図3aと補足図4に示されています。合計で、各標本からの内在性タンパク質の一致配列が、PEAKS OnlineとpFindとMaxQuantにおける重複するアミノ酸範囲の保持によって構築され、6点のホモ・エレクトス標本およびハルビンの1個体で269～903ヶ所のアミノ酸部位が網羅されました。以下は本論文の図3です。<br /><div align="center"><a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig3_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig3_HTML.png" alt="画像" width="365" height="374" class="up-image" title="図3" /></a></div><br /><br /><strong>●性別判定</strong><br /><br />　男性固有の標識AMELYはY染色体上に位置し、歯のエナメル質の発達と関わっており、その存在は男性の判定に用いられています。しかし、エナメル質の限られたデータベースと検索ソフトウェアの高い感度のため、AMELY固有のペプチドの誤検出は、標本を男性と偽陽性で割り当てるかもしれません。この結果が予想外ではないのは、先行研究が検索データベースの偏りから生じる種間プロテオーム効果を論証してきたからです。この問題に対処するために、厳密な選別基準を用いて、内在性プロテオームで特定された全てのSAPの信頼性が確保され、それにはアメロゲニンの性別判定に用いられたSAPが組まれます。<br /><br />　性別判定をさらな検証するために、protSexInfererが構築されました。これは、AMELYおよびAMELX両方の全てのペプチドと比較しての、AMELY固有部位を網羅するペプチドの数の比（RY）に基づく手法です。性別が確証されている、パラントロプス属標本4点（SK14132、SK830、SK835、SK850）および古代型人類4個体（澎湖1号［35］、ドマニシ個体D4163およびアタプエルカ個体ATD6-92［11］、ラオス_TNH2［43］）とともに、古代人16個体と現代人4個体を用いて、RYが0.058を超えていれば、標本は男性、RYが0.024未満であれば標本は女性と分類できます（図2c）。この手法を用いて、周口店遺跡の標本1点と孫家洞遺跡の標本2点とハルビン標本1点は、RYが0.187～0.295なので、男性と特定されました（図2c）。残りの標本である孫家洞遺跡のSJD10A（12SJD1#10-45、成人）はRYが0.019でなので、女性と分類されました（図2c）。性別判定の結果は、先行研究［31］に記載されている強度手法で確証されました。<br /><br /><br /><strong>●SAP</strong><br /><br />　これらの標本と他のヒトと霊長類との間の関係を調べるために、9点の内在性タンパク質すべてで、現生人類とネアンデルタール人とデニソワ人とチンパンジーとゴリラとオランウータンに固有のアミノ酸置換がある、ペプチド数が特定されました。これらには、異なる質量分析法装置もしくは実験室に由来する、各アミノ酸アレルにつき少なくとも2点のペプチドが必要でした。内在性プロテオームから回収されたすべてのSAPについて、関連するPSMと結びつくMS/MS連続体が主導で検査され、高エネルギー衝突衝突分離の典型的断片化パターンの存在が確証され、これはこの研究の質量分析法で用いられた断片化手法です。さらにもSAP部位を挟む4点のy/bイオンのうち少なくとも3点が、高品質な確証の保証に必要とされました。ペプチドのCもしくはN末端におけるSAPは、関連するPSMに1点以上のyもしくはbイオンが含まれていた場合に受容され、それは、これらが最大で1点のyもしくはbイオンしか生成できないからです。すべてのSAPはPEAKS OnlineとpFindとMaxQuantを用いてこの手法で確証され、2ヶ所のSAPが確実に特定されました。<br /><br />　AMBNにおける新たなSAP（A253>G）が周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡のすべてのヒト標本6点で特定され、各標本を裏づけるPSM数はそれぞれ124点と3点と9点と191点と24点と145点で、ペプチド数はそれぞれ21点と2点と4点と39点と9無添と35点でした。6点の標本それぞれにおけるこのSAPの高品質なペプチドには、少なくとも3点のy/bイオンがありました（図3b）。哺乳類とすべての霊長類、アタプエルカのホモ・アンテセッサー［11］、ドマニシのホモ・エレクトス［11］とデニソワ3号と澎湖1号［35］、すべてのネアンデルタール人とHGDPの現代人を含めて、この部位を網羅する利用可能なデータのある比較標本にはほぼ全てAMBN A25があり、数個体の哺乳類がT（ウマ類）かS（ブタ類）かV（小モグラネズミ）の残基を有している、もしくは欠落（ウシ属）していました。したがって、大きく異なる地理的地域を表す中国の南北にわたる3ヶ所の異なる遺跡の、ヒト標本6点すべてで特定されたAMBN（A253G）は、他の霊長類種では以前に特定されておらず、これら中期更新世のホモ・エレクトスに固有の多様体である可能性が高そうです。この変異によって、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡の6点の中期更新世ホモ・エレクトス標本は、系統樹では密接にクラスタ化する（まとまる）ことになります。これらの結果は、和県遺跡の歯がホモ・エレクトスに分類でき、形態に基づいて以前に提案された［21］ような、デニソワ人ではないことも示唆しています。<br /><br />　もう1ヶ所のSAPであるAMBN（M273V）も、中期更新世ホモ・エレクトス標本6点すべてに存在します（表1、図3）。対応するSNPアレル（rs564905233、A>G）はデニソワ人で見られ、デニソワ人からの遺伝子移入を通じて現代人に寄与したようです。このSNPは、フィリピン人では21%、インドでは1.17%、パプアニューギニアでは0.71%の頻度を示し、ほとんどの他の現代人集団には存在しません。注目すべきことに、ゲノム研究では、デニソワ人は祖先がネアンデルタール人とデニソワ人と現生人類の祖先となる共通の傾倒から100万年以上前に分岐した人類から、0.5～8%の遺伝子流動を受けており［45］、これら「超古代型」DNA領域の約15%はデニソワ人からアジア人およびオセアニア人個体へと遺伝子移入された、と明らかになっています［46］。この状況は、AMBN（M273V）での観察と類似しています。したがって、この多様体はデニソワ人のみに見られるのではなく、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡の中期更新世ホモ・エレクトスと関連する人口集団を通じて、アジアとオセアニアの個体群にもたらされたようです（図4）。以下は本論文の図4です。<br /><div align="center"><a href="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig4_HTML.png"><img src="https://media.springernature.com/full/springer-static/image/art%3A10.1038%2Fs41586-026-10478-8/MediaObjects/41586_2026_10478_Fig4_HTML.png" alt="画像" width="365" height="320" class="up-image" title="図4" /></a></div><br />　さらに、AMBNの273番目の部位のタンパク質に対応するrs564905233を含むDNA領域は、感受性領域内多点関連解析を通じて特定されたように、アフリカ人とデニソワ2号との間で、アフリカ人とアルタイのネアンデルタール人との間より大きな配列の差異を示しています。これは、rs564905233を含めてこの領域が、より分岐した超古代型集団に由来するかもしれない、との見解を裏づけます。さらに、AMBN（M273V）多様体はより新しいデニソワ人であるデニソワ3号と澎湖1号では同型接合ですが、既知のより「古い」デニソワ人であるハルビン頭蓋（少なくとも15万年以上前）とデニソワ25号（20万年前頃）［47］の両方では異型接合で（表1、図3b）、初期のデニソワ人は派生的なアレル（対立遺伝子）の頻度がより低かった、と示唆されます。さらに、周口店遺跡と和県遺跡の化石の形態は、ハルビン頭蓋とは異なります［48］。したがって、年代と形態と既知の遺伝的多様体の違いから、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡の化石は初期デニソワ人から除外できます。<br /><br /><br /><strong>●考察と結論</strong><br /><br />　最近の研究は、ヒトの進化史を解明するための、古代タンパク質解説の可能性を論証してきました［11、35、36、49、50］。しかし、重要な人類で、地理的に多様な地域を移動して居住した最初の人類であるホモ・エレクトスの遺伝的データは不足しています。中国の南北にまたがるよく知られた3ヶ所の遺跡である、周口店遺跡と和県遺跡と孫家洞遺跡の中期更新世ホモ・エレクトス化石6点から得られたエナメル質タンパク質は、ホモ・エレクトスの遺伝的構成への貴重な知見をもたらします。<br /><br />　これら3ヶ所の遺跡の化石間の形態学的変異性、とくに周口店遺跡および孫家洞遺跡の標本と異なる和県遺跡の標本は、これらの個体がインドネシアのホモ・エレクトス、あるいはデニソワ人とより密接に関連しているのかどうか、という議論を促しました［21］。タンパク質の証拠から、和県遺跡標本は周口店遺跡と孫家洞遺跡のホモ・エレクトス標本のように新たに特定されたAMBN（A253G）変異を有しており、この変異はデニソワ3号や澎湖1号やハルビン頭蓋で見られない、と明らかに示されており、和県遺跡と周口店遺跡と孫家洞遺跡の化石はホモ・エレクトスに位置づけられます。ホモ・エレクトス内の分子的多様性を調べるには、さらなる古プロテオーム研究が必要です。<br /><br />　AMBN（A253G）およびAMBN（M273V）多様体は、これら6点の中期更新世ホモ・エレクトス標本が属していた人口集団に固有かもしれません。注目すべきことに、AMBN（A253G）は以前にはどのヒトと【非ヒト】霊長類でも観察されておらず、この調査結果はひじょうに貴重となります。これらホモ・エレクトス標本はアジア東部にまたがる3ヶ所の遺跡に由来し、その年代はすべて40万年前頃で、デニソワ人はネアンデルタール人と47万～38万年前頃に分岐しました［45］。デニソワ人の既知の範囲にはアジア北東部のシベリアとチベット高原とハルビン、アジア南東部の澎湖海峡が含まれており、これらのホモ・エレクトスが発見された遺跡は、中国の南北に存在します。この共通の生息地は、これら中期更新世ホモ・エレクトス個体群と関連する人口集団とデニソワ人との間の相互作用の機会を形成します。<br /><br />　この研究のアジア東部のホモ・エレクトス標本すべてにおける派生的なAMBN（M273V）多様体の特定と、デニソワ人におけるその存在から、ホモ・エレクトスはデニソワ3号のゲノムで特定された超古代型の遺伝子移入の候補供給源となります。この多様体は、デニソワ人と相互作用した中期更新世後期のホモ・エレクトスと関連する人口集団に由来する可能性が高そうで、その期間に、これらの集団はアジア東部で共存していました［51］。異なる期間および地域の分子データを含めて、ホモ・エレクトスに関するさらなる研究は、その大進化および人口多様性およびデニソワ人との相互作用の解明に役立つでしょう。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用（<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/15539"><span style=color:#e00>引用1</span></a>および<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/135875"><span style=color:#e00>引用2</span></a>）です。<br /><br /><br /><span style=color:#00c>古生物学：古代の歯が原初的な人類集団間の交流を示唆している<br /><br />　約40万年前に中国に生息していた6体のホモ・エレクトス（Homo erectus）の歯から得られたエナメル質タンパク質が、古代の遺伝物質がどのように現代人へ受け継がれてきたのかについて、新たな手がかりを提供している。これらの古人類近縁種に由来するタンパク質の解析結果を報告する論文が、今週のNature にオープンアクセスで掲載される。解析の結果、デニソワ人と呼ばれる、より新しい古人類集団にも見られる遺伝的特徴が特定された。これらの発見は、両集団が東アジアの一部地域で共存し、相互に交流していた可能性を示唆している。<br /><br />　ホモ・エレクトス――初期のホモ属（Homo）やほかのホミニン（hominins）とは解剖学的に異なり、現代人により近い古代のヒトの近縁種――は、約200万年前に出現し、アフリカからユーラシアおよび東南アジアへと広がったホモ属の最初の種である。この系統がホミニンの進化において果たした役割を理解する一つの方法は、分子データ（DNAやタンパク質など）を研究することである。しかし、古いホモ・エレクトスの標本は年代が古く、保存状態も悪いため、こうした証拠を回収するのは困難であった。<br /><br />　Qiaomei Fuら（中国科学院古人類及古脊椎動物研究所〔中国〕）は、約40万年前の中国の中期更新世に由来する6点のホモ・エレクトス標本から、歯のエナメル質タンパク質の抽出に成功したことを報告している。これらの化石は、男性5体、女性1体に由来し、周口店（しゅうこうてん；Zhoukoudian）、和県（わせん；Hexian）、および孫家洞（そんかどう；Sunjiadong）の3つの異なる遺跡から出土したものである。6本すべての歯から、2つのアミノ酸変異体が確認された。そのうちの一つ（AMBN〔ameloblastin；アメロブラスチン〕（A253G））はこれまで報告されたことがなく、東アジアのホモ・エレクトスを特徴づける分子マーカーである可能性がある。もう1つの変異（AMBN（M273V））は、以前デニソワ人や一部の現代人において観察されていた。著者らは、AMBN（M273V）が、これらの中期更新世のホモ・エレクトスに関連する集団をつうじて、デニソワ人に導入された可能性があると示唆している。この発見は、デニソワ人を介して現代人に受け継がれた古代の遺伝物質が、ホモ・エレクトスに起源を持つ可能性があることを示唆している。<br /><br />　著者らは、さまざまな時代や地域のホモ・エレクトス標本からの分子データのさらなる分析が、デニソワ人との交流に関するさらなる情報を明らかにし、ホモ属内の進化に光を当てる助けとなるだろうと結論づけている。<br /><br /><br />進化学：中国各地の6体のホモ・エレクトス標本から得られたエナメル質タンパク質<br /><br />進化学：ホモ・エレクトスのエナメル質タンパク質<br /><br />　今回、中国の3遺跡に由来する6体のホモ・エレクトス（Homo erectus）標本の歯からエナメル質タンパク質が抽出され、得られたペプチドのアミノ酸配列から、ホモ・エレクトスの非常に古い遺伝物質の小さな断片が、デニソワ人を介して現生人類へと伝わった可能性があることが示唆された。</span><br /><br /><br />参考文献：<br />Fu Q. et al.(2026): Enamel proteins from six Homo erectus specimens across China. Nature, 655, 8121, 141–147.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10478-8" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-026-10478-8</a><br /><br />［2］Herries AIR. et al.(2020): Contemporaneity of Australopithecus, Paranthropus, and early Homo erectus in South Africa. Science, 368, 6486, eaaw7293.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aaw7293" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aaw7293</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202004article_8.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［3］Mussi M. et al.(2023): Early Homo erectus lived at high altitudes and produced both Oldowan and Acheulean tools. Science, 382, 6671, 713–718.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.add9115" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.add9115</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202312article_12.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［4］Ferring R. et al.(2011): Earliest human occupations at Dmanisi (Georgian Caucasus) dated to 1.85–1.78 Ma. PNAS, 108, 26, 10432-10436.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.1106638108" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.1106638108</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201106article_30.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［5］Lordkipanidze D. et al.(2013): A Complete Skull from Dmanisi, Georgia, and the Evolutionary Biology of Early Homo. Science, 342, 6156, 326-331.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.1238484" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.1238484</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201310article_19.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［6］Huguet R. et al.(2025): The earliest human face of Western Europe. Nature, 640, 8059, 707–713.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-025-08681-0" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-025-08681-0</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202512article_9.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［8］Zhu MD. et al.(2015): New dating of the Homo erectus cranium from Lantian (Gongwangling), China. Journal of Human Evolution, 78, 144–157.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2014.10.001" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2014.10.001</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201605article_8.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［9］Zhu Z. et al.(2018): Hominin occupation of the Chinese Loess Plateau since about 2.1 million years ago. Nature, 559, 7715, 608–612.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-018-0299-4" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-018-0299-4</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201807article_19.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［11］Welker F. et al.(2020): The dental proteome of Homo antecessor. Nature, 580, 7802, 235–238.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-020-2153-8" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-020-2153-8</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202004article_9.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［12］Shen G. et al.(2009): Age of Zhoukoudian Homo erectus determined with 26Al/10Be burial dating. Nature, 458, 7235, 198-200.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature07741" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature07741</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/200903article_13.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［21］Kaifu Y.(2017): Archaic Hominin Populations in Asia before the Arrival of Modern Humans: Their Phylogeny and Implications for the “Southern Denisovans”. Current Anthropology, 58, S17, S418-S433.<br /><a href="https://doi.org/10.1086/694318" target="_blank">https://doi.org/10.1086/694318</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201712article_13.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［27］Ji Q. et al.(2021): Late Middle Pleistocene Harbin cranium represents a new Homo species. The Innovation, 2, 3, 100132.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.xinn.2021.100132" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.xinn.2021.100132</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202109article_25.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［28］Ni X. et al.(2021): Massive cranium from Harbin in northeastern China establishes a new Middle Pleistocene human lineage. The Innovation, 2, 3, 100130.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.xinn.2021.100130" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.xinn.2021.100130</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202109article_25.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［30］Bergström A. et al.(2020): Insights into human genetic variation and population history from 929 diverse genomes. Science, 367, 6484, eaay5012.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aay5012" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aay5012</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202005article_18.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［31］Madup PP. et al.(2025): Enamel proteins reveal biological sex and genetic variability in southern African Paranthropus. Science, 388, 6750, 969–973.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.adt9539" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.adt9539</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202507article_31.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［35］Tsutaya T. et al.(2025): A male Denisovan mandible from Pleistocene Taiwan. Science, 388, 6743, 176–180.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.ads3888" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.ads3888</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202504article_13.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［36］Fu Q. et al.(2025A): The proteome of the late Middle Pleistocene Harbin individual. Science, 389, 6761, 704–707.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.adu9677" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.adu9677</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202508article_17.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［43］Demeter F. et al.(2022): A Middle Pleistocene Denisovan molar from the Annamite Chain of northern Laos. Nature Communications, 13, 2557.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41467-022-29923-z" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41467-022-29923-z</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202205article_19.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［44］GenomeAsia100K Consortium.(2019): The GenomeAsia 100K Project enables genetic discoveries across Asia. Nature, 576, 7785, 106–111.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-019-1793-z" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-019-1793-z</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201912article_9.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［45］Prüfer K. et al.(2014): The complete genome sequence of a Neanderthal from the Altai Mountains. Nature, 505, 7481, 43–49.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature12886" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature12886</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201312article_24.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［46］Hubisz MJ, Williams AL, Siepel A (2020) Mapping gene flow between ancient hominins through demography-aware inference of the ancestral recombination graph. PLoS Genet 16(8): e1008895.<br /><a href="https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1008895" target="_blank">https://doi.org/10.1371/journal.pgen.1008895</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202008article_14.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［47］Peyrégne S. et al.(2025): A high-coverage genome from a 200,000-year-old Denisovan. bioRxiv.<br /><a href="https://doi.org/10.1101/2025.10.20.683404" target="_blank">https://doi.org/10.1101/2025.10.20.683404</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202511article_13.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［48］Feng X. et al.(2025): The phylogenetic position of the Yunxian cranium elucidates the origin of Homo longi and the Denisovans. Science, 389, 6767, 1320–1324.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.ado9202" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.ado9202</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202509article_28.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［49］Xia H. et al.(2024): Middle and Late Pleistocene Denisovan subsistence at Baishiya Karst Cave. Nature, 632, 8023, 108–113.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-024-07612-9" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-024-07612-9</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202408article_2.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［50］Chen F. et al.(2019): A late Middle Pleistocene Denisovan mandible from the Tibetan Plateau. Nature, 569, 7756, 409–412.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-019-1139-x" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-019-1139-x</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201905article_4.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［51］Sawafuji M. et al.(2024): East and Southeast Asian hominin dispersal and evolution: A review. Quaternary Science Reviews, 333, 108669.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2024.108669" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2024.108669</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202405article_8.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><a name="more"></a>

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            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,sicambre/521069402</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_4.html</link>
      <title>呉座勇一『軍師の日本史』</title>
      <pubDate>Sat, 04 Jul 2026 10:23:18 +0900</pubDate>
            <description>　角川新書の一冊として、KADOKAWAから2026年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本人の軍師概念の変遷史で、おもに戦国時と代の武士が取り上げられていますが、単に現在の軍師概念と実態との乖離のみならず、そうした軍師像の形成過程を、江戸時代の講談や近代軍隊における参謀の存在や戦後の大衆文学を踏まえて広く検証しており、こうした軍師像を生み出した日本文化の特徴も論じられています。広い視点での軍師論と言えそうです。　本書は戦国時代の前も簡潔に取り上げており、飛鳥..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　角川新書の一冊として、KADOKAWAから2026年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本人の軍師概念の変遷史で、おもに戦国時と代の武士が取り上げられていますが、単に現在の軍師概念と実態との乖離のみならず、そうした軍師像の形成過程を、江戸時代の講談や近代軍隊における参謀の存在や戦後の大衆文学を踏まえて広く検証しており、こうした軍師像を生み出した日本文化の特徴も論じられています。広い視点での軍師論と言えそうです。

　本書は戦国時代の前も簡潔に取り上げており、飛鳥時代の百済から亡命してきた兵法者や、奈良時代の吉備真備などを挙げて、日本における兵法の受容を概観しています。11世紀以降には、日本独自の兵法書が編纂されるようになりますが、『孫子』などとは異なり、呪術的要素が強くなっています。

　通俗的な印象では軍師の任務とされる陣形については、律令国家で全国一律の訓練が意図されましたが、律令国家が大規模な軍備に耐えられなかったことや、対蝦夷戦では陣形を用いる軍団が有効ではなかったことなどから、日本では陣形は衰退します。中世の軍記物には陣形が見えますが、漢籍からの引用が多いことや、軍が中小規模の個別の武士団の寄せ集めだったことから、実際に陣形が用いられたていたのか、本書は懐疑的です。

　戦国時代には、合戦において日時や方位や方角を占う軍配者は存在しましたが、作戦立案の専門家はおらず、軍師という言葉も当時の史料には見えません。軍配者的存在は中世前期から存在し、本書はその起源として陰陽師を挙げています。本書は軍配者を、戦術家というよりはシャーマンとして把握しています。一方で中世にはそうした易学的要素だけではなく兵学への需要も高まりましたが、それは儒学の一部でした。

　江戸時代に戦乱が絶えても、武士の本質は戦闘にあったので、戦への関心は相変わらず高く、名将の戦法を受け継いだと称する、軍学者が顕われます。ただ、実戦から遠ざかり、軍学が机上の空論に陥ったことを本書は指摘します。その対象は戦国時代に限らず、南北朝時代の楠木正成も人気となりました。この状況で、17世紀末に『三国志演義』が翻訳され、軍師という言葉が日本で普及していきます。とくに諸葛孔明は人気で、以後の軍記物や近世軍学や芝居などでは軍師が多用され、それらに登場する日本の軍師の多くは、諸葛孔明がモデルでした。

　戦国時代の「軍師」として認識されている人物でまず取り上げられているのは、山本勘助です。近代になって『甲陽軍鑑』が「偽書」とされた反動もあり、山本勘助は実在さえ疑われることになりましたが、その後に史料の発見で山本菅助なる人物が武田信玄に仕えていたことが明らかになりました。『甲陽軍鑑』も、武田家に仕えた春日虎綱による口述が元になっている、と今では評価されています。ただ、江戸時代初期の成立までに多くの人の手が加わっている可能性も指摘されています。ただ、『甲陽軍鑑』の山本勘助と同時代史料に見える山本菅助を完全に同一視することに慎重な見解もあり、本書も、山本勘助は虚実入り混じった人物と推測しています。

　上杉謙信の軍師とされる宇佐美定行（定満）は、18世紀初頭刊行の『北越軍記』などで知られています。同時代史料によると、宇佐美定満なる人物が存在し、『北越軍記』では定行が定満に解明した、とされています。宇佐美氏は長尾氏と敵対しており、長尾氏に帰順した後も、宇佐美定満は冷遇されていたようで、『北越軍記』の軍師像とは大きく異なります。この軍師像を創出したのは、紀州藩に仕えた宇佐美定祐で、紀州藩には甲州流軍学を採用する幕府への対抗心があったのではないか、と本書は推測します。

　黒田官兵衛は現代の日本人が思い浮かべる代表的な軍師の一人と言えるでしょう。本書は、同じく軍師と語られていても、山本勘助や宇佐美定満と異なる官兵衛の特徴として、補佐役や参謀としてのみならず、主君に恐れられる野心家とされている点を挙げます。実際の官兵衛は、羽柴秀吉による播磨攻略の現地案内役で、現地指揮官だった、と本書は指摘します。

　太原雪斎（崇孚）は今川義元の軍師とさけていますが、義元に信任されて権勢をふるったことは確かなようで、この点で山本勘助や宇佐美定満や黒田官兵衛とは異なる、と本書は指摘します。今川家における太原崇孚の地位と権限は、今川義元の師であることと、内紛を経て、義元の家督継承に貢献したことですが、本書は、都で修業した禅僧として、都との人脈があったことを挙げています。

　本多正信は一般的に、徳川家康の覇業を支えた謀臣と認識されています。実際の正信は、三河一向一揆の後に家康から一度離れて、その後で帰参しましたが、確認できる最初の功績は、本能寺の変の後の甲州武士の調略のようです。家康が羽柴秀吉と対峙した時には、正信は長宗我部家との交渉を担当しています。秀吉存命時の正信は行政官僚的立場にあったようで、正信の権勢が高まったのは、井伊直政や榊原康政や本多忠勝が相次いで没して以降になる、と本書は指摘します。

　本書は、近現代日本の軍師像の形成における、参謀本部の大きな役割を指摘しています。参謀本部が設置され、参謀将校の養成機関として陸大が設立されましたが、陸大では実践的な戦術教育が重視され、将帥を育成する教育が不充分だったことを、本書は指摘します。陸大の戦術教育では戦史が重視され、参謀本部は『日本戦史』を刊行していき、姉川や長篠や関ヶ原や大坂の陣といった戦国時代～江戸時代初期の戦いが取り上げられ、作戦経過に終始した叙述となっていました。これは、日本陸軍の戦史研究が作戦研究の補助だったからです。『日本戦史』は市販され、歴史小説家の種本となります。第二次世界大戦で日本は敗れ、参謀の名声も低下したものの、クラウゼヴィッツ兵学の影響を受けた米国流経営学の流行によって、参謀の重要性が認識され、それが戦国時代の「軍師」への注目にもつながりました。

　本書は、第二次世界大戦後の日本の大衆文化における軍師像も検証しています。本書で取り上げられている小説のうち、司馬遼太郎作品を20代半ば近くまでよく読んでいたので、懐かしさもありましたが、『新史太閤記』と『播磨灘物語』では黒田官兵衛像が異なっており、『播磨灘物語』では、官兵衛にまつわる著名な逸話を取り込もうとして、官兵衛の性格に矛盾が生じている、との指摘は興味深く、私の記憶が曖昧になってきたこともあるでしょうが、自分の読みの浅さを痛感しました。

　本書は、竹中半兵衛と黒田官兵衛の近現代の歴史小説での描かれ方から、現代日本社会における軍師像について、自己表現に関心のある芸術家肌で上の立場には向かない無欲な変人と、上に立つ器量がある野心的な人物の二類型に区分しています。ただ、本多正信など他の軍師の事例からも、器量の点では主君の方が軍師を上回っている、との設定が多く、『三国志演義』の諸葛孔明型の軍師が少ないことを、本書は指摘します。

　こうした歴史小説が下地となり、『歴史読本』や『歴史と旅』などの大衆歴史雑誌、『プレジデント』のようなビジネス誌によって、1970年代半ば以降に、現代日本社会における通俗的な軍師像が最終的に形成されていきます。本書はその社会的背景として、雇用が安定し、組織人としての心構えが求められるようになったことを挙げています。また本書は、日本で軍師および参謀論が好まれた理由として、日本型組織では上意下達ではなく下意上達であることを挙げています。本書は、現代日本社会において雇用の安定性が失われつつあることから、現在の軍師人気は長続きしないだろう、との見通しを提示しています。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　角川新書の一冊として、KADOKAWAから2026年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本人の軍師概念の変遷史で、おもに戦国時と代の武士が取り上げられていますが、単に現在の軍師概念と実態との乖離のみならず、そうした軍師像の形成過程を、江戸時代の講談や近代軍隊における参謀の存在や戦後の大衆文学を踏まえて広く検証しており、こうした軍師像を生み出した日本文化の特徴も論じられています。広い視点での軍師論と言えそうです。<br /><br />　本書は戦国時代の前も簡潔に取り上げており、飛鳥時代の百済から亡命してきた兵法者や、奈良時代の吉備真備などを挙げて、日本における兵法の受容を概観しています。11世紀以降には、日本独自の兵法書が編纂されるようになりますが、『孫子』などとは異なり、呪術的要素が強くなっています。<br /><br />　通俗的な印象では軍師の任務とされる陣形については、律令国家で全国一律の訓練が意図されましたが、律令国家が大規模な軍備に耐えられなかったことや、対蝦夷戦では陣形を用いる軍団が有効ではなかったことなどから、日本では陣形は衰退します。中世の軍記物には陣形が見えますが、漢籍からの引用が多いことや、軍が中小規模の個別の武士団の寄せ集めだったことから、実際に陣形が用いられたていたのか、本書は懐疑的です。<br /><br />　戦国時代には、合戦において日時や方位や方角を占う軍配者は存在しましたが、作戦立案の専門家はおらず、軍師という言葉も当時の史料には見えません。軍配者的存在は中世前期から存在し、本書はその起源として陰陽師を挙げています。本書は軍配者を、戦術家というよりはシャーマンとして把握しています。一方で中世にはそうした易学的要素だけではなく兵学への需要も高まりましたが、それは儒学の一部でした。<br /><br />　江戸時代に戦乱が絶えても、武士の本質は戦闘にあったので、戦への関心は相変わらず高く、名将の戦法を受け継いだと称する、軍学者が顕われます。ただ、実戦から遠ざかり、軍学が机上の空論に陥ったことを本書は指摘します。その対象は戦国時代に限らず、南北朝時代の楠木正成も人気となりました。この状況で、17世紀末に『三国志演義』が翻訳され、軍師という言葉が日本で普及していきます。とくに諸葛孔明は人気で、以後の軍記物や近世軍学や芝居などでは軍師が多用され、それらに登場する日本の軍師の多くは、諸葛孔明がモデルでした。<br /><br />　戦国時代の「軍師」として認識されている人物でまず取り上げられているのは、山本勘助です。近代になって『甲陽軍鑑』が「偽書」とされた反動もあり、山本勘助は実在さえ疑われることになりましたが、その後に史料の発見で山本菅助なる人物が武田信玄に仕えていたことが明らかになりました。『甲陽軍鑑』も、武田家に仕えた春日虎綱による口述が元になっている、と今では評価されています。ただ、江戸時代初期の成立までに多くの人の手が加わっている可能性も指摘されています。ただ、『甲陽軍鑑』の山本勘助と同時代史料に見える山本菅助を完全に同一視することに慎重な見解もあり、本書も、山本勘助は虚実入り混じった人物と推測しています。<br /><br />　上杉謙信の軍師とされる宇佐美定行（定満）は、18世紀初頭刊行の『北越軍記』などで知られています。同時代史料によると、宇佐美定満なる人物が存在し、『北越軍記』では定行が定満に解明した、とされています。宇佐美氏は長尾氏と敵対しており、長尾氏に帰順した後も、宇佐美定満は冷遇されていたようで、『北越軍記』の軍師像とは大きく異なります。この軍師像を創出したのは、紀州藩に仕えた宇佐美定祐で、紀州藩には甲州流軍学を採用する幕府への対抗心があったのではないか、と本書は推測します。<br /><br />　黒田官兵衛は現代の日本人が思い浮かべる代表的な軍師の一人と言えるでしょう。本書は、同じく軍師と語られていても、山本勘助や宇佐美定満と異なる官兵衛の特徴として、補佐役や参謀としてのみならず、主君に恐れられる野心家とされている点を挙げます。実際の官兵衛は、羽柴秀吉による播磨攻略の現地案内役で、現地指揮官だった、と本書は指摘します。<br /><br />　太原雪斎（崇孚）は今川義元の軍師とさけていますが、義元に信任されて権勢をふるったことは確かなようで、この点で山本勘助や宇佐美定満や黒田官兵衛とは異なる、と本書は指摘します。今川家における太原崇孚の地位と権限は、今川義元の師であることと、内紛を経て、義元の家督継承に貢献したことですが、本書は、都で修業した禅僧として、都との人脈があったことを挙げています。<br /><br />　本多正信は一般的に、徳川家康の覇業を支えた謀臣と認識されています。実際の正信は、三河一向一揆の後に家康から一度離れて、その後で帰参しましたが、確認できる最初の功績は、本能寺の変の後の甲州武士の調略のようです。家康が羽柴秀吉と対峙した時には、正信は長宗我部家との交渉を担当しています。秀吉存命時の正信は行政官僚的立場にあったようで、正信の権勢が高まったのは、井伊直政や榊原康政や本多忠勝が相次いで没して以降になる、と本書は指摘します。<br /><br />　本書は、近現代日本の軍師像の形成における、参謀本部の大きな役割を指摘しています。参謀本部が設置され、参謀将校の養成機関として陸大が設立されましたが、陸大では実践的な戦術教育が重視され、将帥を育成する教育が不充分だったことを、本書は指摘します。陸大の戦術教育では戦史が重視され、参謀本部は『日本戦史』を刊行していき、姉川や長篠や関ヶ原や大坂の陣といった戦国時代～江戸時代初期の戦いが取り上げられ、作戦経過に終始した叙述となっていました。これは、日本陸軍の戦史研究が作戦研究の補助だったからです。『日本戦史』は市販され、歴史小説家の種本となります。第二次世界大戦で日本は敗れ、参謀の名声も低下したものの、クラウゼヴィッツ兵学の影響を受けた米国流経営学の流行によって、参謀の重要性が認識され、それが戦国時代の「軍師」への注目にもつながりました。<br /><br />　本書は、第二次世界大戦後の日本の大衆文化における軍師像も検証しています。本書で取り上げられている小説のうち、司馬遼太郎作品を20代半ば近くまでよく読んでいたので、懐かしさもありましたが、『新史太閤記』と『播磨灘物語』では黒田官兵衛像が異なっており、『播磨灘物語』では、官兵衛にまつわる著名な逸話を取り込もうとして、官兵衛の性格に矛盾が生じている、との指摘は興味深く、私の記憶が曖昧になってきたこともあるでしょうが、自分の読みの浅さを痛感しました。<br /><br />　本書は、竹中半兵衛と黒田官兵衛の近現代の歴史小説での描かれ方から、現代日本社会における軍師像について、自己表現に関心のある芸術家肌で上の立場には向かない無欲な変人と、上に立つ器量がある野心的な人物の二類型に区分しています。ただ、本多正信など他の軍師の事例からも、器量の点では主君の方が軍師を上回っている、との設定が多く、『三国志演義』の諸葛孔明型の軍師が少ないことを、本書は指摘します。<br /><br />　こうした歴史小説が下地となり、『歴史読本』や『歴史と旅』などの大衆歴史雑誌、『プレジデント』のようなビジネス誌によって、1970年代半ば以降に、現代日本社会における通俗的な軍師像が最終的に形成されていきます。本書はその社会的背景として、雇用が安定し、組織人としての心構えが求められるようになったことを挙げています。また本書は、日本で軍師および参謀論が好まれた理由として、日本型組織では上意下達ではなく下意上達であることを挙げています。本書は、現代日本社会において雇用の安定性が失われつつあることから、現在の軍師人気は長続きしないだろう、との見通しを提示しています。<a name="more"></a>

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            <category>読書</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_3.html</link>
      <title>クジラの「墓場」</title>
      <pubDate>Fri, 03 Jul 2026 11:35:33 +0900</pubDate>
            <description>　海底で発見されたクジラの死骸堆積を報告した研究（Peng et al., 2026）が公表されました。鯨骨（whale fall）は海底における生物多様性のオアシスで、多種多様な生物を支える複雑な局所生態系を生み出すことがあります。しかし、海洋から得られるそれらの記録はわずかで、断片的です。既知のクジラの死骸堆積のほとんどは水深数十メートルから約4000メートルの範囲で見つかっており、より深い環境についてはほとんど解明されていない状況にあります。　本論文は、水深4616～7..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　海底で発見されたクジラの死骸堆積を報告した<a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10546-z">研究</a>（Peng et al., 2026）が公表されました。鯨骨（whale fall）は海底における生物多様性のオアシスで、多種多様な生物を支える複雑な局所生態系を生み出すことがあります。しかし、海洋から得られるそれらの記録はわずかで、断片的です。既知のクジラの死骸堆積のほとんどは水深数十メートルから約4000メートルの範囲で見つかっており、より深い環境についてはほとんど解明されていない状況にあります。

　本論文は、水深4616～7001メートルmに位置するインド洋南東部のディアマンティーナ断裂帯（Diamantina Zone）の海底に、約1200キロメートルにわたって広がる鯨類の広大な墓場を報告します。この領域には、5ヶ所の現代の自然な鯨骨生物群集と476ヶ所の鯨類化石記録で構成される、深くて大規模な遺骸の集積が見られました。クジラの死骸の密度は、1平方キロメートルあたり最大759.5個体に達します。

　遺骸には、クモヒトデ類（brittle stars）、ホネクイハナムシ類（bone-boring worms）、化学合成二枚貝類が支配的な特殊な群集が存在しており、この領域の化石記録には、現生種および絶滅種の両方の深海潜水性アカボウクジラ類が含まれていました。同位体年代測定により、この領域の鯨骨は少なくとも530万年前から存在したことが示されました。この地域の化石の多くは、現生および絶滅した深海性のハクジラ類（deep-diving beaked whales）に由来しており、その中には新種と特定された絶滅クジラのプテロケトゥス・ディアマンティネ（Pterocetus diamantinae）も含まれています。

　これらの知見は、鯨骨生態系の限界と生物地理学的性質に関する理解を変えるものであり、一部の深海底が、地質学的時間にわたって鯨類の進化を追跡するための化石記録保管所であることを確立しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用（<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/pr-highlights/15558">引用1</a>および<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/135800">引用2</a>）です。


生態学：530万年前のクジラの墓場

　インド洋の海底で発見された広大なクジラの墓場は、クジラの化石や死骸、そして鯨骨生物群集（whale falls；ホエールフォール）によって支えられるコミュニティーの集積として、これまでに知られている中で最も深く、かつ最も広範囲に及ぶものを示している可能性がある。今週のNature にオープンアクセスで掲載される論文で報告されるこの墓場は、水深4200～7000メートルの海底に沿って1200キロメートルにわたり広がっており、一部の化石は約530万年前にさかのぼる。

　クジラの死骸が海底に沈む現象である鯨骨生物群集は、多種多様な生物を支える複雑な局所生態系を生み出すことがある。しかし、その記録は乏しく不均一であり、既知のクジラの死骸堆積のほとんどは水深数十メートルから約4000メートルの範囲で見つかっており、より深い環境についてはほとんど解明されていない状況にある。

　Xiaotong Pengら（中国科学院〔中国〕）は、インド洋南東部のディアマンティーナ海域（Diamantina Zone）の海底に沿って約1200キロメートルに及ぶ大規模なクジラの死骸集積地を報告した。著者らは、水深4200～7000メートルの海域で、485か所のクジラ化石産地と5か所の活動中のクジラの死骸沈降地を特定した。クジラの死骸の密度は、1平方キロメートルあたり最大759.5個体に達する。同位体年代測定によると、最古の化石は約530万年前のものであり、この地域では少なくとも鮮新世初期からクジラの死骸が堆積していた可能性がある。著者らは、死骸にはクラゲ、クモヒトデ（brittle stars）、ホネクイハナムシ（bone-boring worms）、および化学合成を行う二枚貝など、多様な生物種からなる独自の群集が形成されており、その多くは科学的に新種である可能性があると示唆している。この地域の化石の多くは、現生および絶滅した深海性のハクジラ類（deep-diving beaked whales）に由来しており、その中には新種と特定された絶滅クジラ、Pterocetus diamantinaeも含まれている。

　この発見は、深海生態系に対する私たちの理解を一新するとともに、ハクジラ類の分布、生態、および進化について新たな知見をもたらすものである。


古生物学：ディアマンティーナ断裂帯における530万年前から続く鯨類の深海墓場

古生物学：深海底で発見された鯨類の古く広大な墓場

　今回、インド洋の水深4200～7000 mの海底に約1200 kmにわたって広がる、鯨類の広大な墓場が発見された。この墓場は、活動が確認される現代の5つの鯨骨と、476の鯨類化石遺骸からなり、ここでは少なくとも530万年前から鯨骨が存在したことが示された。


参考文献：
Peng X. et al.(2026): A 5.3-million-year-old deep-sea whale necropolis in the Diamantina Zone. Nature, 654, 8120, 978–983.
https://doi.org/10.1038/s41586-026-10546-z<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　海底で発見されたクジラの死骸堆積を報告した<a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10546-z"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Peng et al., 2026）が公表されました。鯨骨（whale fall）は海底における生物多様性のオアシスで、多種多様な生物を支える複雑な局所生態系を生み出すことがあります。しかし、海洋から得られるそれらの記録はわずかで、断片的です。既知のクジラの死骸堆積のほとんどは水深数十メートルから約4000メートルの範囲で見つかっており、より深い環境についてはほとんど解明されていない状況にあります。<br /><br />　本論文は、水深4616～7001メートルmに位置するインド洋南東部のディアマンティーナ断裂帯（Diamantina Zone）の海底に、約1200キロメートルにわたって広がる鯨類の広大な墓場を報告します。この領域には、5ヶ所の現代の自然な鯨骨生物群集と476ヶ所の鯨類化石記録で構成される、深くて大規模な遺骸の集積が見られました。クジラの死骸の密度は、1平方キロメートルあたり最大759.5個体に達します。<br /><br />　遺骸には、クモヒトデ類（brittle stars）、ホネクイハナムシ類（bone-boring worms）、化学合成二枚貝類が支配的な特殊な群集が存在しており、この領域の化石記録には、現生種および絶滅種の両方の深海潜水性アカボウクジラ類が含まれていました。同位体年代測定により、この領域の鯨骨は少なくとも530万年前から存在したことが示されました。この地域の化石の多くは、現生および絶滅した深海性のハクジラ類（deep-diving beaked whales）に由来しており、その中には新種と特定された絶滅クジラのプテロケトゥス・ディアマンティネ（Pterocetus diamantinae）も含まれています。<br /><br />　これらの知見は、鯨骨生態系の限界と生物地理学的性質に関する理解を変えるものであり、一部の深海底が、地質学的時間にわたって鯨類の進化を追跡するための化石記録保管所であることを確立しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用（<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/pr-highlights/15558"><span style=color:#e00>引用1</span></a>および<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/135800"><span style=color:#e00>引用2</span></a>）です。<br /><br /><br /><span style=color:#00c>生態学：530万年前のクジラの墓場<br /><br />　インド洋の海底で発見された広大なクジラの墓場は、クジラの化石や死骸、そして鯨骨生物群集（whale falls；ホエールフォール）によって支えられるコミュニティーの集積として、これまでに知られている中で最も深く、かつ最も広範囲に及ぶものを示している可能性がある。今週のNature にオープンアクセスで掲載される論文で報告されるこの墓場は、水深4200～7000メートルの海底に沿って1200キロメートルにわたり広がっており、一部の化石は約530万年前にさかのぼる。<br /><br />　クジラの死骸が海底に沈む現象である鯨骨生物群集は、多種多様な生物を支える複雑な局所生態系を生み出すことがある。しかし、その記録は乏しく不均一であり、既知のクジラの死骸堆積のほとんどは水深数十メートルから約4000メートルの範囲で見つかっており、より深い環境についてはほとんど解明されていない状況にある。<br /><br />　Xiaotong Pengら（中国科学院〔中国〕）は、インド洋南東部のディアマンティーナ海域（Diamantina Zone）の海底に沿って約1200キロメートルに及ぶ大規模なクジラの死骸集積地を報告した。著者らは、水深4200～7000メートルの海域で、485か所のクジラ化石産地と5か所の活動中のクジラの死骸沈降地を特定した。クジラの死骸の密度は、1平方キロメートルあたり最大759.5個体に達する。同位体年代測定によると、最古の化石は約530万年前のものであり、この地域では少なくとも鮮新世初期からクジラの死骸が堆積していた可能性がある。著者らは、死骸にはクラゲ、クモヒトデ（brittle stars）、ホネクイハナムシ（bone-boring worms）、および化学合成を行う二枚貝など、多様な生物種からなる独自の群集が形成されており、その多くは科学的に新種である可能性があると示唆している。この地域の化石の多くは、現生および絶滅した深海性のハクジラ類（deep-diving beaked whales）に由来しており、その中には新種と特定された絶滅クジラ、Pterocetus diamantinaeも含まれている。<br /><br />　この発見は、深海生態系に対する私たちの理解を一新するとともに、ハクジラ類の分布、生態、および進化について新たな知見をもたらすものである。<br /><br /><br />古生物学：ディアマンティーナ断裂帯における530万年前から続く鯨類の深海墓場<br /><br />古生物学：深海底で発見された鯨類の古く広大な墓場<br /><br />　今回、インド洋の水深4200～7000 mの海底に約1200 kmにわたって広がる、鯨類の広大な墓場が発見された。この墓場は、活動が確認される現代の5つの鯨骨と、476の鯨類化石遺骸からなり、ここでは少なくとも530万年前から鯨骨が存在したことが示された。</span><br /><br /><br />参考文献：<br />Peng X. et al.(2026): A 5.3-million-year-old deep-sea whale necropolis in the Diamantina Zone. Nature, 654, 8120, 978–983.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10546-z" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-026-10546-z</a><a name="more"></a>

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            <category>自然科学</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_2.html</link>
      <title>人馴れしていた猫の話</title>
      <pubDate>Thu, 02 Jul 2026 06:09:17 +0900</pubDate>
            <description>　最近、まだある程度記憶が残っているうちに、体系的ではなくとも備忘録として残しておきたい、と思うことが色々とあり、テレビの個人的な視聴史についてまとめました（関連記事）。その記事は、将来、情報通信技術のさらなる発展によって、こうしたデジタルデータに残っていない個人の視聴履歴も有効に活用できる研究が出ることを期待して、書き残しておきました。今回の記事は、別に将来の研究に役立てばよい、といった意図は全くなく、単に昔から気になっていたことを、記憶のあるうちに残しておきたかっただけで..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　最近、まだある程度記憶が残っているうちに、体系的ではなくとも備忘録として残しておきたい、と思うことが色々とあり、テレビの個人的な視聴史についてまとめました（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202606article_30.html">関連記事</a>）。その記事は、将来、情報通信技術のさらなる発展によって、こうしたデジタルデータに残っていない個人の視聴履歴も有効に活用できる研究が出ることを期待して、書き残しておきました。今回の記事は、別に将来の研究に役立てばよい、といった意図は全くなく、単に昔から気になっていたことを、記憶のあるうちに残しておきたかっただけです。私が中学2年生の冬だった1986年12月～1987年1月頃のことです。

　1986年も終わろうとする頃、近所に雌の三毛猫が現れました。近所で飼われているわけでもなく、首輪もありませんでした。当時、近所には黒色と白色の体毛の雄猫と、別の雌の三毛猫が野良猫としていましたが、この2匹は人に懐かず、私の姿を見ると警戒して、すぐに逃げ出しました。しかし、ある時、近所の老人が雄猫に餌をやっているのを見て、それ以降、雄猫が老人に近づき、頭を擦りつけるところも、何度か見ました。こうした行為が見つかったら、今では厳しく批判されるでしょうし、SNSで動画や画像が公開されたら、炎上しそうですが、当時は大らかだったように思います。

　この雄猫に限らず、成人してからも野良猫を随分と見てきましたが、私は餌をやったことがないので、野良猫に懐かれたことは一度もありません。しかし、こうした野良猫に餌をやっている人に野良猫が懐いているところは、それなりに見てきました。私の姿を見ると、警戒してすぐに逃げ出す姿勢を取り、私が目的の方向なので仕方なく猫に近づいていくと、さっと逃げてしまうことは、何度も経験しました。そのため、野良猫は餌をくれる人にしか懐かないのかな、とずっと考えていました。それくらい警戒心が強い野良猫でないと、生きていくのが難しいのかもしれません。

　ところが、1986年の大晦日近くに現れた雌の三毛猫は、私が呼びかけたわけではなく、外で空を眺めていただけなのに、私に寄ってきて、頭を擦りつけてきました。驚きつつも、猫が懐いてくるとやはり大半の人間は嬉しいもので、私も例外ではなく、雌の三毛猫を撫でると、嬉しそうな声を出していました。その後、この雌の三毛猫を見かけると、声をかけるようになりましたが、すぐに寄ってきて、頭を擦りつけてきました。この雌の三毛猫に餌を与えたことは一度もありませんでしたが、それでも懐くことに驚いたものです。この雌の三毛猫は、私以外の近所の人にも懐いていましたが、1987年1月後半以降、近所で見かけることはありませんでした。残念に思いつつも、餌を与えない人間にも懐く猫として、深く記憶に残っています。

　成人しても、この雌の三毛猫を思い出すことがありましたが、野良猫なのになぜ餌を与えない人間にも懐いていたのか、不思議でした。ただ、近年になって思うのは、この雌の三毛猫は誰かに飼われており、私の住居の近くに捨てられたか、捨てられずとも、迷い込んできたか、気まぐれで遠くまで出かけていた可能性です。餌を与えない人間にも積極的に頭を擦りつけていくのは、やはり飼われていた記憶があるからではないか、と思います。この雌の三毛猫が、飼い主の家に戻ったのか、別の場所へ移動したのか、誰かに飼われたのか、自動車に轢かれるなどして死んだのか、分かりませんが、穏やかに天寿を全うしたことを、願っています。<a></a>

]]></itunes:summary>
      <content:encoded><![CDATA[
　最近、まだある程度記憶が残っているうちに、体系的ではなくとも備忘録として残しておきたい、と思うことが色々とあり、テレビの個人的な視聴史についてまとめました（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202606article_30.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）。その記事は、将来、情報通信技術のさらなる発展によって、こうしたデジタルデータに残っていない個人の視聴履歴も有効に活用できる研究が出ることを期待して、書き残しておきました。今回の記事は、別に将来の研究に役立てばよい、といった意図は全くなく、単に昔から気になっていたことを、記憶のあるうちに残しておきたかっただけです。私が中学2年生の冬だった1986年12月～1987年1月頃のことです。<br /><br />　1986年も終わろうとする頃、近所に雌の三毛猫が現れました。近所で飼われているわけでもなく、首輪もありませんでした。当時、近所には黒色と白色の体毛の雄猫と、別の雌の三毛猫が野良猫としていましたが、この2匹は人に懐かず、私の姿を見ると警戒して、すぐに逃げ出しました。しかし、ある時、近所の老人が雄猫に餌をやっているのを見て、それ以降、雄猫が老人に近づき、頭を擦りつけるところも、何度か見ました。こうした行為が見つかったら、今では厳しく批判されるでしょうし、SNSで動画や画像が公開されたら、炎上しそうですが、当時は大らかだったように思います。<br /><br />　この雄猫に限らず、成人してからも野良猫を随分と見てきましたが、私は餌をやったことがないので、野良猫に懐かれたことは一度もありません。しかし、こうした野良猫に餌をやっている人に野良猫が懐いているところは、それなりに見てきました。私の姿を見ると、警戒してすぐに逃げ出す姿勢を取り、私が目的の方向なので仕方なく猫に近づいていくと、さっと逃げてしまうことは、何度も経験しました。そのため、野良猫は餌をくれる人にしか懐かないのかな、とずっと考えていました。それくらい警戒心が強い野良猫でないと、生きていくのが難しいのかもしれません。<br /><br />　ところが、1986年の大晦日近くに現れた雌の三毛猫は、私が呼びかけたわけではなく、外で空を眺めていただけなのに、私に寄ってきて、頭を擦りつけてきました。驚きつつも、猫が懐いてくるとやはり大半の人間は嬉しいもので、私も例外ではなく、雌の三毛猫を撫でると、嬉しそうな声を出していました。その後、この雌の三毛猫を見かけると、声をかけるようになりましたが、すぐに寄ってきて、頭を擦りつけてきました。この雌の三毛猫に餌を与えたことは一度もありませんでしたが、それでも懐くことに驚いたものです。この雌の三毛猫は、私以外の近所の人にも懐いていましたが、1987年1月後半以降、近所で見かけることはありませんでした。残念に思いつつも、餌を与えない人間にも懐く猫として、深く記憶に残っています。<br /><br />　成人しても、この雌の三毛猫を思い出すことがありましたが、野良猫なのになぜ餌を与えない人間にも懐いていたのか、不思議でした。ただ、近年になって思うのは、この雌の三毛猫は誰かに飼われており、私の住居の近くに捨てられたか、捨てられずとも、迷い込んできたか、気まぐれで遠くまで出かけていた可能性です。餌を与えない人間にも積極的に頭を擦りつけていくのは、やはり飼われていた記憶があるからではないか、と思います。この雌の三毛猫が、飼い主の家に戻ったのか、別の場所へ移動したのか、誰かに飼われたのか、自動車に轢かれるなどして死んだのか、分かりませんが、穏やかに天寿を全うしたことを、願っています。<a name="more"></a>

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            <category>雑記</category>
      <author>雑記帳</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,sicambre/521048802</guid>
                </item>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_1.html</link>
      <title>インセスト・タブーは普遍的な習慣か？</title>
      <pubDate>Wed, 01 Jul 2026 09:10:58 +0900</pubDate>
            <description>　2001年4月7日に行なわれた進化人類学分科会第5回シンポジウム（PDFファイル）で、西田利貞氏が、インセスト・タブーは普遍的な習慣なのか、問題提起しており、すでに四半世紀前の報告ですが、さすがに大家だけあって、不勉強な私にとっては今でも考えさせられる発言のように思います。まず西田氏は近親相姦が禁忌とされることの起源と進化について、近交弱勢を避けさせる遺伝的および文化的傾向をもった個体の方が、より多くの子孫を残した結果と指摘しており、私も今でも、この見解は基本的には妥当と考..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　2001年4月7日に行なわれた進化人類学分科会第5回シンポジウム（<a href="https://anthro.zool.kyoto-u.ac.jp/evo_anth/evo_anth/symp0104/symp0104.pdf">PDFファイル</a>）で、西田利貞氏が、インセスト・タブーは普遍的な習慣なのか、<a href="https://anthro.zool.kyoto-u.ac.jp/evo_anth/evo_anth/symp0104/nishida.html">問題提起</a>しており、すでに四半世紀前の報告ですが、さすがに大家だけあって、不勉強な私にとっては今でも考えさせられる発言のように思います。まず西田氏は近親相姦が禁忌とされることの起源と進化について、近交弱勢を避けさせる遺伝的および文化的傾向をもった個体の方が、より多くの子孫を残した結果と指摘しており、私も今でも、この見解は基本的には妥当と考えています。つまり、伝統的な「唯物史観」で言われているような「原始乱婚説」は根本的に間違っている、と私は考えています。

　近親相姦が禁忌とされる人類社会は現在でも過去でも珍しくありませんが、「人間がやらないことを、法律は禁止しない」ため、「人間は近親相姦を犯しがちであるから、インセスト・タブーが生まれた」と主張されることもあります。これについて西田氏は、親殺しや獣姦を例に挙げた反論がすでにあることを指摘します。たとえば、尊属殺人はめったに起こらないものの、法律で厳罰にしている国が多いのは、めったに起こらないことであっても、起こったら都合が悪いから禁止している、というわけです。ここでの「やらない」は、「めったにやらない」、「通常の状況・環境では起こらない」という意味で西田氏は使っています。

　人類遺骸の近親相姦の事例として、西田氏はチンパンジーを挙げています。野生チンパンジーの観察で、兄が妹を強姦しようとして妹の抵抗を受けた例や、樹上で息子が母親と交尾しようとして、母親に叩き落とされた例があるそうです。ただ、チンパンジーでは、発情した母親と離乳期の息子（4～5歳）との間の「挿入」は、たいていの母子間で起きており、むしろ一般的な行動と考える方がよいそうです。これは、母親の注目が離乳期の息子から成体や若者の雄（交尾相手）に移り、心理的衝撃を受けて、駄々こね行動を示す息子を、母親がなだめる行動というわけです。息子が若者期になる、つまり精子を作るようになると、交尾は起こらなくなるそうです。

　これらを踏まえて、西田氏は表題の件を問題提起しています。多くの文化人類学者は、インセスト・タブーが人類普遍の習慣（ヒューマン・ユニヴァーサル）と考えているようだが、疑問があり、というわけです。普遍的なのは「インセスト回避」ではないか、というわけです。西田氏は、たとえば日本においてインセスト・タブーが存在すると言えるのか、と問題提起します。この問題は、定義による、と西田氏は指摘します。日本において近親相姦を犯した人が、自殺したり、逮捕されたり、村八分にあったり、何らかの罰を受けたりするだろうか、と西田氏は問います。嘲笑くらいは受けると思われるが、一般から「嘲笑を受ける」ことも罰に含めるなら、日本にもタブーがあると言えるにしても、社会の嘲笑を受けるような行動は、窃盗や万引きや剽窃や姦通や乱交や覗きなどいくらでもあり、それらはタブーとは呼ばれない、と指摘します。故に西田氏は、インセスト回避は普遍的であるものの、インセスト・タブーは一部の民族に限られるのではないか、と主張しています。　

　なお、インセスト・タブーは性交の「断念」との見解について西田氏は、「本来、ヒトは近親者とのセックスを願望している」ことを含意しており、フロイトのエディプス・コンプレックスというアイデアに由来し、これはフロイトが精神分析にあたったユダヤ社会に見られる事象であることを指摘します。これについて西田氏は、幼少時に兄弟姉妹を隔離して育てるユダヤの風習によって、兄弟姉妹間の間に本来生じるべき性的嫌悪が生まれなかった場合と解釈できることを指摘します。こういった兄弟姉妹を隔離する習慣がある民族はむしろ稀で、フロイトの発言は誤りではなかったものの、多くの民族のうちの一部にしか当てはまらない、と西田氏は指摘します。

　近親相姦や人類の配偶行動については、以前から色々と考えてきましたが（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201901article_28.html">関連記事</a>）、さほど勉強が進んでおらず、いつかはある程度体系的にまとめよう、と考えています。この2001年4月7日のシンポジウム以降、古代ゲノム研究が飛躍的に発展し、古代の近親相姦についても色々と明らかになってきました。その結果、古代において近親相姦は一般的ではなかったことが明らかになりつつあるように思います（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202211article_20.html">関連記事</a>）。その中で、私がとくに注目した研究では、イタリア南部の中期青銅器時代人類集団において、父親と娘の近親相姦が報告されています（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202512article_25.html">関連記事</a>）。しかし、この集団で他に近親相姦と解釈できる事例は確認されていません。やはり、人類史において基本的に近親婚は回避されてきたのでしょう。イタリア南部の中期青銅器時代人類集団における近親相姦がどのような事情で起きたのか、周囲はどのように認識していたのか、あるいは認識していなかったのか、今となっては分かりません。さすがにここまで極端な近親相姦の事例は、古代ゲノム研究で今後も確認されることは稀だと思います。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　2001年4月7日に行なわれた進化人類学分科会第5回シンポジウム（<a href="https://anthro.zool.kyoto-u.ac.jp/evo_anth/evo_anth/symp0104/symp0104.pdf"><span style=color:#e00>PDFファイル</span></a>）で、西田利貞氏が、インセスト・タブーは普遍的な習慣なのか、<a href="https://anthro.zool.kyoto-u.ac.jp/evo_anth/evo_anth/symp0104/nishida.html"><span style=color:#e00>問題提起</span></a>しており、すでに四半世紀前の報告ですが、さすがに大家だけあって、不勉強な私にとっては今でも考えさせられる発言のように思います。まず西田氏は近親相姦が禁忌とされることの起源と進化について、近交弱勢を避けさせる遺伝的および文化的傾向をもった個体の方が、より多くの子孫を残した結果と指摘しており、私も今でも、この見解は基本的には妥当と考えています。つまり、伝統的な「唯物史観」で言われているような「原始乱婚説」は根本的に間違っている、と私は考えています。<br /><br />　近親相姦が禁忌とされる人類社会は現在でも過去でも珍しくありませんが、「人間がやらないことを、法律は禁止しない」ため、「人間は近親相姦を犯しがちであるから、インセスト・タブーが生まれた」と主張されることもあります。これについて西田氏は、親殺しや獣姦を例に挙げた反論がすでにあることを指摘します。たとえば、尊属殺人はめったに起こらないものの、法律で厳罰にしている国が多いのは、めったに起こらないことであっても、起こったら都合が悪いから禁止している、というわけです。ここでの「やらない」は、「めったにやらない」、「通常の状況・環境では起こらない」という意味で西田氏は使っています。<br /><br />　人類遺骸の近親相姦の事例として、西田氏はチンパンジーを挙げています。野生チンパンジーの観察で、兄が妹を強姦しようとして妹の抵抗を受けた例や、樹上で息子が母親と交尾しようとして、母親に叩き落とされた例があるそうです。ただ、チンパンジーでは、発情した母親と離乳期の息子（4～5歳）との間の「挿入」は、たいていの母子間で起きており、むしろ一般的な行動と考える方がよいそうです。これは、母親の注目が離乳期の息子から成体や若者の雄（交尾相手）に移り、心理的衝撃を受けて、駄々こね行動を示す息子を、母親がなだめる行動というわけです。息子が若者期になる、つまり精子を作るようになると、交尾は起こらなくなるそうです。<br /><br />　これらを踏まえて、西田氏は表題の件を問題提起しています。多くの文化人類学者は、インセスト・タブーが人類普遍の習慣（ヒューマン・ユニヴァーサル）と考えているようだが、疑問があり、というわけです。普遍的なのは「インセスト回避」ではないか、というわけです。西田氏は、たとえば日本においてインセスト・タブーが存在すると言えるのか、と問題提起します。この問題は、定義による、と西田氏は指摘します。日本において近親相姦を犯した人が、自殺したり、逮捕されたり、村八分にあったり、何らかの罰を受けたりするだろうか、と西田氏は問います。嘲笑くらいは受けると思われるが、一般から「嘲笑を受ける」ことも罰に含めるなら、日本にもタブーがあると言えるにしても、社会の嘲笑を受けるような行動は、窃盗や万引きや剽窃や姦通や乱交や覗きなどいくらでもあり、それらはタブーとは呼ばれない、と指摘します。故に西田氏は、インセスト回避は普遍的であるものの、インセスト・タブーは一部の民族に限られるのではないか、と主張しています。　<br /><br />　なお、インセスト・タブーは性交の「断念」との見解について西田氏は、「本来、ヒトは近親者とのセックスを願望している」ことを含意しており、フロイトのエディプス・コンプレックスというアイデアに由来し、これはフロイトが精神分析にあたったユダヤ社会に見られる事象であることを指摘します。これについて西田氏は、幼少時に兄弟姉妹を隔離して育てるユダヤの風習によって、兄弟姉妹間の間に本来生じるべき性的嫌悪が生まれなかった場合と解釈できることを指摘します。こういった兄弟姉妹を隔離する習慣がある民族はむしろ稀で、フロイトの発言は誤りではなかったものの、多くの民族のうちの一部にしか当てはまらない、と西田氏は指摘します。<br /><br />　近親相姦や人類の配偶行動については、以前から色々と考えてきましたが（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201901article_28.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）、さほど勉強が進んでおらず、いつかはある程度体系的にまとめよう、と考えています。この2001年4月7日のシンポジウム以降、古代ゲノム研究が飛躍的に発展し、古代の近親相姦についても色々と明らかになってきました。その結果、古代において近親相姦は一般的ではなかったことが明らかになりつつあるように思います（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202211article_20.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）。その中で、私がとくに注目した研究では、イタリア南部の中期青銅器時代人類集団において、父親と娘の近親相姦が報告されています（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202512article_25.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）。しかし、この集団で他に近親相姦と解釈できる事例は確認されていません。やはり、人類史において基本的に近親婚は回避されてきたのでしょう。イタリア南部の中期青銅器時代人類集団における近親相姦がどのような事情で起きたのか、周囲はどのように認識していたのか、あるいは認識していなかったのか、今となっては分かりません。さすがにここまで極端な近親相姦の事例は、古代ゲノム研究で今後も確認されることは稀だと思います。<a name="more"></a>

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            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
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