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    <title>雑記帳</title>
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    <description>おもに古人類学の論文の備忘録です。文中の赤字の箇所にはリンクが張られています。文中の青字の箇所は引用文です。文中の緑字の箇所は追記です。【】は管理人の注釈です。詳しく英語論文を取り上げた記事では、2022年9月以降、原則として冒頭で要約の翻訳を掲載しています。当ブログでは年代に関しては、注記しないかぎり、原則として西暦（グレゴリオ暦）を用いています。本・漫画・ドラマを取り上げた当ブログの記事のなかには、内容を詳細に紹介したものも少なくないので、未読・未視聴の方はご注意ください。メールアドレスはalksnjdb＠yahoo.co.jpです。スパムよけのため、「＠」としていますので、「@」に変更して送信してください。ホームページのアドレスはhttps://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/index.htmです。ツイッターのアドレスはhttps://x.com/Florisbadです。</description>
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    <itunes:summary> おもに古人類学の論文の備忘録です。文中の赤字の箇所にはリンクが張られています。文中の青字の箇所は引用文です。文中の緑字の箇所は追記です。【】は管理人の注釈です。詳しく英語論文を取り上げた記事では、2022年9月以降、原則として冒頭で要約の翻訳を掲載しています。当ブログでは年代に関しては、注記しないかぎり、原則として西暦（グレゴリオ暦）を用いています。 本・漫画・ドラマを取り上げた当ブログの記事のなかには、内容を詳細に紹介したものも少なくないので、未読・未視聴の方はご注意ください。  メールアドレスは alksnjdb＠yahoo.co.jp です。スパムよけのため、「＠」としていますので、「@」に変更して送信してください。  ホームページのアドレスは https://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/index.htm です。  ツイッターのアドレスは https://x.com/Florisbad です。</itunes:summary>
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    <itunes:author>雑記帳</itunes:author>
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      <title>大河ドラマ『豊臣兄弟！』第38回「和を以って、大和をなす」</title>
      <pubDate>Mon, 05 Oct 2026 08:43:42 +0900</pubDate>
            <description>　今回は小一郎（羽柴秀長）の大和統治が描かれました。小一郎は主人公だけに、大和統治はある程度描かれるとは思っていましたが、終盤は小一郎の大和統治と「豊臣兄弟」の関係を中心に、徳川家康や羽柴秀次や千宗易（千利休）が関わってくる展開になるのでしょうか。正直なところ、これまで小一郎が目立つ場面は空回りする傾向にあっただけに、大和統治で本格的に小一郎の見せ場を作ってもらいたいところですが、地味というか視聴者受けしないのは否めないでしょう。序盤から小一郎の銭への執着を描いてきたのは、大..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　今回は小一郎（羽柴秀長）の大和統治が描かれました。小一郎は主人公だけに、大和統治はある程度描かれるとは思っていましたが、終盤は小一郎の大和統治と「豊臣兄弟」の関係を中心に、徳川家康や羽柴秀次や千宗易（千利休）が関わってくる展開になるのでしょうか。正直なところ、これまで小一郎が目立つ場面は空回りする傾向にあっただけに、大和統治で本格的に小一郎の見せ場を作ってもらいたいところですが、地味というか視聴者受けしないのは否めないでしょう。序盤から小一郎の銭への執着を描いてきたのは、大和編のための布石だと思うので、次回以降も期待したいところです。

　この大和統治で、小一郎は千宗易（千利休）に助力を頼みます。これまで、小一郎と千宗易は、ある程度親しいものの、そこまで深い信頼関係があったようには見えませんでした。ただ、小一郎が拠点の郡山で商業を栄えさせるために、筆に注目し、そこで小一郎が見せた筆の質の良さに注目した千宗易は、顧客候補として狩野永徳を小一郎に紹介します。狩野永徳の登場は今回だけか、今後あるとしてもわずかでしょうが、本作は本当に配役面では頑張っていると思います。ただ、脚本と演出にもっと力を入れてもらいたい、と嫌味も言いたくなります。

　藤吉郎（羽柴秀吉）の氏についての問題も描かれ、藤原氏となった藤吉郎は、新たな氏を何とするか悩み、豊臣と決めます。もちろん、形式的には豊臣氏は天皇から下賜されるわけですが。作中ではすでに天正14年に入っていると思いますが、その前年には石川数正が徳川家から出奔し、羽柴家に従っています。数正は序盤から登場しており、太閤記ものでは重要人物として描かれても不思議ではないだけに、数正の出奔が描かれないどころか、言及さえされないのは疑問が残るところです。ただ、予告を見ると、次回は数正が登場するようで、ここで数正の出奔の経緯も描かれるのでしょうか。あるいは、作中では藤吉郎が新たな氏として豊臣を考えたのは天正13年のことで、まだ数正の出奔前なのでしょうか。ここまで家康と数正の描写は悪くないように思うので、数正の出奔も捻ってくるのではないか、と予想していますし、期待もあります。<a></a>

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　今回は小一郎（羽柴秀長）の大和統治が描かれました。小一郎は主人公だけに、大和統治はある程度描かれるとは思っていましたが、終盤は小一郎の大和統治と「豊臣兄弟」の関係を中心に、徳川家康や羽柴秀次や千宗易（千利休）が関わってくる展開になるのでしょうか。正直なところ、これまで小一郎が目立つ場面は空回りする傾向にあっただけに、大和統治で本格的に小一郎の見せ場を作ってもらいたいところですが、地味というか視聴者受けしないのは否めないでしょう。序盤から小一郎の銭への執着を描いてきたのは、大和編のための布石だと思うので、次回以降も期待したいところです。<br /><br />　この大和統治で、小一郎は千宗易（千利休）に助力を頼みます。これまで、小一郎と千宗易は、ある程度親しいものの、そこまで深い信頼関係があったようには見えませんでした。ただ、小一郎が拠点の郡山で商業を栄えさせるために、筆に注目し、そこで小一郎が見せた筆の質の良さに注目した千宗易は、顧客候補として狩野永徳を小一郎に紹介します。狩野永徳の登場は今回だけか、今後あるとしてもわずかでしょうが、本作は本当に配役面では頑張っていると思います。ただ、脚本と演出にもっと力を入れてもらいたい、と嫌味も言いたくなります。<br /><br />　藤吉郎（羽柴秀吉）の氏についての問題も描かれ、藤原氏となった藤吉郎は、新たな氏を何とするか悩み、豊臣と決めます。もちろん、形式的には豊臣氏は天皇から下賜されるわけですが。作中ではすでに天正14年に入っていると思いますが、その前年には石川数正が徳川家から出奔し、羽柴家に従っています。数正は序盤から登場しており、太閤記ものでは重要人物として描かれても不思議ではないだけに、数正の出奔が描かれないどころか、言及さえされないのは疑問が残るところです。ただ、予告を見ると、次回は数正が登場するようで、ここで数正の出奔の経緯も描かれるのでしょうか。あるいは、作中では藤吉郎が新たな氏として豊臣を考えたのは天正13年のことで、まだ数正の出奔前なのでしょうか。ここまで家康と数正の描写は悪くないように思うので、数正の出奔も捻ってくるのではないか、と予想していますし、期待もあります。<a name="more"></a>

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            <category>大河ドラマ</category>
      <author>雑記帳</author>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202610article_4.html</link>
      <title>アメリカ合衆国の「白人民族主義」</title>
      <pubDate>Sun, 04 Oct 2026 12:02:33 +0900</pubDate>
            <description>　アメリカ合衆国の「白人民族主義」に関する研究（Patrick et al., 2026）が公表されました。本論文の「white nationalism」をどう訳すべきか、迷いましたが、先行研究（会田.,2017）に倣って「白人民族主義」と訳します。アメリカ合衆国の公共生活において、「白人民族主義」はますます目立つようになってきています。しかし、これまでの調査研究では、この思潮への支持が、間接的な指標を通じて捉えられる潜在的な構成概念として扱われてきたため、「白人民族主義」へ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　アメリカ合衆国の「白人民族主義」に関する<a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-11018-0">研究</a>（Patrick et al., 2026）が公表されました。本論文の「white nationalism」をどう訳すべきか、迷いましたが、先行研究（会田.,2017）に倣って「白人民族主義」と訳します。アメリカ合衆国の公共生活において、「白人民族主義」はますます目立つようになってきています。しかし、これまでの調査研究では、この思潮への支持が、間接的な指標を通じて捉えられる潜在的な構成概念として扱われてきたため、「白人民族主義」への明示的な支持を予測する因子やその支持の広がりについての知識は不足しています。

　本論文は、「白人民族主義」運動の中核的な信条を回答者に伝えた上で、その運動を支持するかどうかを問う測定法の導入によって、その妥当性を検証しました。このような支持の表明は、この運動への組織的な所属とは別のものであり、本論文では後者は測定対象としていません。本論文は、非ヒスパニック系「白人」成人を対象とした、2021～2025年に実施した3回の全国調査の結果に基づいて、「白人民族主義」への支持には以下の3点の特徴があることを示します。

　（1）個人的な困難や地域社会の苦境に直面する白人の間で支持が高く、これは、緊張理論と整合します。（2）地域の「人種」構成や近年の人口動態の変化とは関連せず、これは、地位脅威に関する説明を複雑なものにしています。（3）親密な友人関係を主としてオンラインに持つ「白人」で支持が高く、これは、オンラインでの動員によって過激主義が促進される、という理論と整合します。

　「白人民族主義」への支持は、所得および教育水準の低い「白人」、共和党支持者や保守派の「白人」、政治に不満を抱く「白人」の間でより一般的でした。本論文の全国確率標本での推定支持率は、「白人」成人全体で4.9%、18～29歳の「白人」男性では13.5%でした。「白人民族主義」への支持は、「白人」の「人種」観の独特な次元を構成するようであり、その中核的な考えを支持する「白人」の多くは、それが何と呼ばれるものであるかを認識していません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/136859">引用</a>です。


社会科学：米国における白人ナショナリズム支持の予測因子と広がり

社会科学：白人ナショナリズム支持の傾向分析

　今回、米国における白人ナショナリズム支持の測定を目的として、非ヒスパニック系白人米国人を対象に実施された、3回の全国代表調査の結果が報告されている。白人ナショナリズムへの支持は全体としては限定的であったが、若い白人男性、教育水準の低い白人、所得の低い白人、信仰心の強い白人に集中しており、いずれも個人的な困難の経験によって促される傾向があることが見いだされた。


参考文献：
Patrick JE, Bisbee J, and Tucker JA.(2026): Predictors and prevalence of support for white nationalism in the United States. Nature, 657, 8133, 964–972.
https://doi.org/10.1038/s41586-026-11018-0

会田弘継(2017)「忘れ去られた異端者らの復権：トランプ政権誕生の思想史」『立教アメリカン・スタディーズ 』第39号P7-33
https://cir.nii.ac.jp/crid/1390290699762709760
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202505article_4.html">関連記事</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　アメリカ合衆国の「白人民族主義」に関する<a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-11018-0"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Patrick et al., 2026）が公表されました。本論文の「white nationalism」をどう訳すべきか、迷いましたが、先行研究（会田.,2017）に倣って「白人民族主義」と訳します。アメリカ合衆国の公共生活において、「白人民族主義」はますます目立つようになってきています。しかし、これまでの調査研究では、この思潮への支持が、間接的な指標を通じて捉えられる潜在的な構成概念として扱われてきたため、「白人民族主義」への明示的な支持を予測する因子やその支持の広がりについての知識は不足しています。<br /><br />　本論文は、「白人民族主義」運動の中核的な信条を回答者に伝えた上で、その運動を支持するかどうかを問う測定法の導入によって、その妥当性を検証しました。このような支持の表明は、この運動への組織的な所属とは別のものであり、本論文では後者は測定対象としていません。本論文は、非ヒスパニック系「白人」成人を対象とした、2021～2025年に実施した3回の全国調査の結果に基づいて、「白人民族主義」への支持には以下の3点の特徴があることを示します。<br /><br />　（1）個人的な困難や地域社会の苦境に直面する白人の間で支持が高く、これは、緊張理論と整合します。（2）地域の「人種」構成や近年の人口動態の変化とは関連せず、これは、地位脅威に関する説明を複雑なものにしています。（3）親密な友人関係を主としてオンラインに持つ「白人」で支持が高く、これは、オンラインでの動員によって過激主義が促進される、という理論と整合します。<br /><br />　「白人民族主義」への支持は、所得および教育水準の低い「白人」、共和党支持者や保守派の「白人」、政治に不満を抱く「白人」の間でより一般的でした。本論文の全国確率標本での推定支持率は、「白人」成人全体で4.9%、18～29歳の「白人」男性では13.5%でした。「白人民族主義」への支持は、「白人」の「人種」観の独特な次元を構成するようであり、その中核的な考えを支持する「白人」の多くは、それが何と呼ばれるものであるかを認識していません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/136859"><span style=color:#e00>引用</span></a>です。<br /><br /><br /><span style=color:#00c>社会科学：米国における白人ナショナリズム支持の予測因子と広がり<br /><br />社会科学：白人ナショナリズム支持の傾向分析<br /><br />　今回、米国における白人ナショナリズム支持の測定を目的として、非ヒスパニック系白人米国人を対象に実施された、3回の全国代表調査の結果が報告されている。白人ナショナリズムへの支持は全体としては限定的であったが、若い白人男性、教育水準の低い白人、所得の低い白人、信仰心の強い白人に集中しており、いずれも個人的な困難の経験によって促される傾向があることが見いだされた。</span><br /><br /><br />参考文献：<br />Patrick JE, Bisbee J, and Tucker JA.(2026): Predictors and prevalence of support for white nationalism in the United States. Nature, 657, 8133, 964–972.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-11018-0" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-026-11018-0</a><br /><br />会田弘継(2017)「忘れ去られた異端者らの復権：トランプ政権誕生の思想史」『立教アメリカン・スタディーズ 』第39号P7-33<br /><a href="https://cir.nii.ac.jp/crid/1390290699762709760" target="_blank">https://cir.nii.ac.jp/crid/1390290699762709760</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202505article_4.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><a name="more"></a>

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            <category>社会科学</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202610article_3.html</link>
      <title>覚張隆史『日本人とは何か　私たちのルーツを巡る700万年の物語』</title>
      <pubDate>Sat, 03 Oct 2026 06:00:32 +0900</pubDate>
            <description>　SB新書の一冊として、SBクリエイティブより2026年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本人の遺伝的形成過程を検証していますが、その前提としての現生人類（Homo sapiens）の出現とアフリカから世界各地への拡散も取り上げており、現生人類の出現にいたる人類進化史も短く言及しています。本書では、現生人類の出アフリカをめぐる議論が、考古学的研究も踏まえてやや詳しく紹介されています。本書が指摘するように、現生人類は20万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　SB新書の一冊として、SBクリエイティブより2026年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本人の遺伝的形成過程を検証していますが、その前提としての現生人類（Homo sapiens）の出現とアフリカから世界各地への拡散も取り上げており、現生人類の出現にいたる人類進化史も短く言及しています。本書では、現生人類の出アフリカをめぐる議論が、考古学的研究も踏まえてやや詳しく紹介されています。本書が指摘するように、現生人類は20万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散していたかもしれないものの、これら初期の出アフリカ現生人類集団と現代人との系統関係は不明です。なお、「縄文時代」との時代区分や「縄文人」との表記には問題があるでしょうが、煩雑になるので、以下では「縄文時代」と「縄文人」を「」では括りません。

　日本列島への人類の到来というか旧石器時代の始まりは、本書では38000年前頃とされています。それ以前とされる日本列島の遺跡も複数報告されていますが、数は少なく、確実で継続的な人類の痕跡が確認されるのは38000年前頃以降と言えるでしょう。4万年以上前の日本列島における人類の痕跡は、それが本当だとしても、38000年前頃以降の日本列島の人類と遺伝的もしくは文化的につながっているのか、そもそも担い手が現生人類なのか否か、現時点では断定できないと思います。その意味で、日本列島における人類史を38000年前頃以降とするのは、現時点では妥当でしょう。

　日本列島の旧石器時代の人類遺骸は、本州および四国および九州とそのごく近隣の島々を中心とする「本土」ではほとんど見つかっておらず、むしろより高温な沖縄諸島の方で見つかっており、中には、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号（Mizuno et al., 2021）のように、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）解析に成功した事例もあります。本書は、石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡で発見された27000年前頃の男性人類遺骸（白保4号）についても言及しています。ただ、本書でも指摘されているように、白保4号のゲノムデータはまだ論文として公表されておらず、昨年（2025年）開催された国立科学博物館特別展「古代DNA ―日本人のきた道―」での展示（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202504article_8.html">関連記事</a>）以上の情報は現時点で公開されてないようです。

　本書は縄文人の起源について、縄文時代草創期集団の祖先は旧石器時代のアジア東部南方沿岸地域に存在し、その集団の祖先は、さらな古い時期にアジア東部に存在した南北の旧石器時代集団の混合によって形成されたのではないか、と推測しています。論文化されていない白保4号のゲノムに関する公開情報では、縄文人の遺伝的構成については、白保4号的な構成要素6割と、沿海州の古代人的な構成要素4割でモデル化できるそうです。本書は、縄文人が24000年前頃にアジア東部の大陸集団と遺伝的に分岐した可能性を指摘していますが、本書が指摘するように、縄文人の形成過程についてはまだ断定できる段階になく、研究の進展を俟つしかなさそうです。

　日本列島では、弥生時代に穀物栽培が本格的に始まり、水田稲作は当初から体系的だったので、こうした本格的な農耕はユーラシア大陸部から導入された、と考えられています。実際、本書が指摘するように、日本列島では縄文時代には人類集団の遺伝的構成が比較的均質で（Watanabe et al., 2026）、日本列島外集団からの大規模な遺伝子流動はなかったようですが、弥生時代になると、縄文人とは異質な遺伝的構成要素が確認されるようになります（Ishiya et al., 2026）。本書は、弥生時代にユーラシア大陸部から日本列島に到来した集団の起源について、まだ断定できる段階ではなく、複数地域の集団が関わっていた可能性を指摘しており、現時点では妥当だと思います。在来の縄文人的構成要素とユーラシア大陸部から到来した集団の構成要素の混合として、弥生時代の日本列島の人類集団のゲノムはモデル化できますが、本書でも指摘されているように、混合の過程は時空間的に異なっており、たとえば西北九州では、縄文人的構成要素のみでゲノムをモデル化できる個体と、縄文人的構成要素と新たな大陸的構成要素の混合としてゲノムをモデル化できる個体が混在しており（Kim et al., 2026）、北関東の弥生時代中期の人類のゲノムは遺伝的に縄文人と均質です（神澤他.,2024）。

　古墳時代については、著者も深く関わった研究（Cooke et al., 2021）で、現代日本人の「三重構造モデル」が提唱されました。「三重構造モデル」では当初、弥生時代にアジア北東部的構成要素が流入して縄文人的構成要素と混合し、古墳時代にアジア東部的構成要素が流入して在来集団と混合し、現代日本人のゲノムが形成された、と推定されました（Cooke et al., 2021）。しかし、その後の研究で、アジア東部的構成要素はすでに弥生時代に中期に到来していたことが示されました（Kim et al., 2025）。その意味で、当初の「三重構造モデル」は訂正されねばなりませんが、現代日本人の遺伝的構成を三重構造で説明することは依然として妥当と思います（Liu et al., 2024）。縄文時代と弥生時代の高品質なゲノムデータを報告した研究（Ishiya et al., 2026）でも、弥生時代と古墳時代の人類の遺伝的差異が指摘されています。ただ、本書でも指摘されているように、弥生時代～古墳時代にかけての人口動態の正確な理解には、弥生時代～古墳時代の日本列島や、近い年代の朝鮮半島の古代ゲノムデータがさらに必要となります。

　それらを踏まえた上で本書は、古墳時代に到来した集団が、在来集団と比較して多数派ではなかったものの、「政治的中枢を形成した少数層」だった可能性を指摘しています。また本書は、古墳時代における日本列島への人類集団の到来が1回のみではなかった可能性も示唆しており、古墳時代も日本列島の人類集団の遺伝的構成は複雑だったことが窺えます。古墳時代における日本列島人類集団の遺伝的差異については、時空間のみならず階層も考慮する必要があるのかもしれません。古墳時代の人類集団の遺伝的差異は、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡で発見された5～6世紀の2個体のゲノムが、5割程度の縄文人的構成要素でモデル化できること（安達他.,2021）にも示されているように思います。類似した遺伝的構成要素を区別する手法がさらに改善されれば、おそらく三重以上に複雑な、日本列島の人口史が明らかになるのではないか、と私は予測しています。

　本書では、長野県飯田市の溝口の塚古墳の被葬者のゲノム解析が報告されており、この研究については迂闊にも把握していませんでしたが、ひじょうに興味深い結果となっています。溝口の塚古墳の男性被葬者のゲノムは縄文人的構成要素とアジア東部的構成要素のみが検出され、アジア北東部的構成要素は明確には検出されませんでした。また、この男性個体の縄文人的構成要素の割合はひじょうに高かったそうです。さらに、この男性個体は、大韓民国慶尚南道金海市の大成洞（Daesung-dong）古墳で発見された女性個体との間に、5～6親等程度の血縁関係が確認されたそうです。当時の日本列島と朝鮮半島南岸との間では、長距離の人口移動があったようです。

　本書は歴史時代も視野に入れて、日本列島における現代人集団の形成過程をひじょうに複雑な過程として描いていますが、歴史時代の人類遺骸のゲノム研究については、残念ながら日本列島はヨーロッパや中国と比較して大きく遅れている、と言えるでしょう。歴史時代の人類遺骸のゲノム研究が進めば、家族や社会の構造について理解が深まっていくのではないか、と期待されます。さらに本書は、今後の日本列島の人口動態も視野に入れています。近年、日本に多くの外国出身者が居住していることを、とくに都市部の住民は実感していると思います。本書は医療にゲノム研究が役立つ可能性も指摘していますが、こうした「実用的な」側面もあるため、ゲノム研究はますます盛んになっていくでしょう。本書は、現時点での研究の限界を踏まえて慎重に叙述を進めており、新書形式であることへの配慮もなされていると思います。一般層が日本人の遺伝的形成過程について最新の知見を得るのに適しており、日本人起源論に関心のある方には強くお勧めできます。


参考文献：
Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202602article_9.html">関連記事</a>

Ishiya K. et al.(2026): High-coverage ancient genomes reveal divergent population histories and prehistoric starch-related genetic variation in Japan. PNAS, 123, 30, e2606162123.
https://doi.org/10.1073/pnas.2606162123
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_31.html">関連記事</a>

Kim J. et al.(2025): Genetic analysis of a Yayoi individual from the Doigahama site provides insights into the origins of immigrants to the Japanese Archipelago. Journal of Human Genetics, 70, 1, 47–57.
https://doi.org/10.1038/s10038-024-01295-w
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html">関連記事</a>

Kim J. et al.(2026): Ancient genomes reveal early-stage admixture and genetic diversity in the Northwestern Kyushu Yayoi. Scientific Reports, 16, 4833.
https://doi.org/10.1038/s41598-026-34996-7
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202602article_9.html">関連記事</a>

Liu X. et al.(2024): Decoding triancestral origins, archaic introgression, and natural selection in the Japanese population by whole-genome sequencing. Science Advances, 10, 16, eadi8419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.adi8419
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202404article_25.html">関連記事</a>

Mizuno F. et al.(2021): Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences. Scientific Reports, 11, 12018.
https://doi.org/10.1038/s41598-021-91357-2
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202106article_15.html">関連記事</a>

Watanabe Y. et al.(2026): Jomon genomics reveal cold adaptation in Upper Paleolithic hunter-gatherers of eastern Eurasia. Science Advances, 12, 33, eaea7469.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aea7469
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安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202109article_16.html">関連記事</a>

神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2024)「群馬県八束脛洞窟遺跡出土弥生時代中期人骨の核ゲノム分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第252集P125-133
https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000324
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202501article_16.html">関連記事</a>

覚張隆史(2026) 『日本人とは何か　私たちのルーツを巡る700万年の物語』（SBクリエイティブ）<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　SB新書の一冊として、SBクリエイティブより2026年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本人の遺伝的形成過程を検証していますが、その前提としての現生人類（Homo sapiens）の出現とアフリカから世界各地への拡散も取り上げており、現生人類の出現にいたる人類進化史も短く言及しています。本書では、現生人類の出アフリカをめぐる議論が、考古学的研究も踏まえてやや詳しく紹介されています。本書が指摘するように、現生人類は20万年以上前にアフリカからユーラシアへと拡散していたかもしれないものの、これら初期の出アフリカ現生人類集団と現代人との系統関係は不明です。なお、「縄文時代」との時代区分や「縄文人」との表記には問題があるでしょうが、煩雑になるので、以下では「縄文時代」と「縄文人」を「」では括りません。<br /><br />　日本列島への人類の到来というか旧石器時代の始まりは、本書では38000年前頃とされています。それ以前とされる日本列島の遺跡も複数報告されていますが、数は少なく、確実で継続的な人類の痕跡が確認されるのは38000年前頃以降と言えるでしょう。4万年以上前の日本列島における人類の痕跡は、それが本当だとしても、38000年前頃以降の日本列島の人類と遺伝的もしくは文化的につながっているのか、そもそも担い手が現生人類なのか否か、現時点では断定できないと思います。その意味で、日本列島における人類史を38000年前頃以降とするのは、現時点では妥当でしょう。<br /><br />　日本列島の旧石器時代の人類遺骸は、本州および四国および九州とそのごく近隣の島々を中心とする「本土」ではほとんど見つかっておらず、むしろより高温な沖縄諸島の方で見つかっており、中には、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号（Mizuno et al., 2021）のように、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）解析に成功した事例もあります。本書は、石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡で発見された27000年前頃の男性人類遺骸（白保4号）についても言及しています。ただ、本書でも指摘されているように、白保4号のゲノムデータはまだ論文として公表されておらず、昨年（2025年）開催された国立科学博物館特別展「古代DNA ―日本人のきた道―」での展示（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202504article_8.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）以上の情報は現時点で公開されてないようです。<br /><br />　本書は縄文人の起源について、縄文時代草創期集団の祖先は旧石器時代のアジア東部南方沿岸地域に存在し、その集団の祖先は、さらな古い時期にアジア東部に存在した南北の旧石器時代集団の混合によって形成されたのではないか、と推測しています。論文化されていない白保4号のゲノムに関する公開情報では、縄文人の遺伝的構成については、白保4号的な構成要素6割と、沿海州の古代人的な構成要素4割でモデル化できるそうです。本書は、縄文人が24000年前頃にアジア東部の大陸集団と遺伝的に分岐した可能性を指摘していますが、本書が指摘するように、縄文人の形成過程についてはまだ断定できる段階になく、研究の進展を俟つしかなさそうです。<br /><br />　日本列島では、弥生時代に穀物栽培が本格的に始まり、水田稲作は当初から体系的だったので、こうした本格的な農耕はユーラシア大陸部から導入された、と考えられています。実際、本書が指摘するように、日本列島では縄文時代には人類集団の遺伝的構成が比較的均質で（Watanabe et al., 2026）、日本列島外集団からの大規模な遺伝子流動はなかったようですが、弥生時代になると、縄文人とは異質な遺伝的構成要素が確認されるようになります（Ishiya et al., 2026）。本書は、弥生時代にユーラシア大陸部から日本列島に到来した集団の起源について、まだ断定できる段階ではなく、複数地域の集団が関わっていた可能性を指摘しており、現時点では妥当だと思います。在来の縄文人的構成要素とユーラシア大陸部から到来した集団の構成要素の混合として、弥生時代の日本列島の人類集団のゲノムはモデル化できますが、本書でも指摘されているように、混合の過程は時空間的に異なっており、たとえば西北九州では、縄文人的構成要素のみでゲノムをモデル化できる個体と、縄文人的構成要素と新たな大陸的構成要素の混合としてゲノムをモデル化できる個体が混在しており（Kim et al., 2026）、北関東の弥生時代中期の人類のゲノムは遺伝的に縄文人と均質です（神澤他.,2024）。<br /><br />　古墳時代については、著者も深く関わった研究（Cooke et al., 2021）で、現代日本人の「三重構造モデル」が提唱されました。「三重構造モデル」では当初、弥生時代にアジア北東部的構成要素が流入して縄文人的構成要素と混合し、古墳時代にアジア東部的構成要素が流入して在来集団と混合し、現代日本人のゲノムが形成された、と推定されました（Cooke et al., 2021）。しかし、その後の研究で、アジア東部的構成要素はすでに弥生時代に中期に到来していたことが示されました（Kim et al., 2025）。その意味で、当初の「三重構造モデル」は訂正されねばなりませんが、現代日本人の遺伝的構成を三重構造で説明することは依然として妥当と思います（Liu et al., 2024）。縄文時代と弥生時代の高品質なゲノムデータを報告した研究（Ishiya et al., 2026）でも、弥生時代と古墳時代の人類の遺伝的差異が指摘されています。ただ、本書でも指摘されているように、弥生時代～古墳時代にかけての人口動態の正確な理解には、弥生時代～古墳時代の日本列島や、近い年代の朝鮮半島の古代ゲノムデータがさらに必要となります。<br /><br />　それらを踏まえた上で本書は、古墳時代に到来した集団が、在来集団と比較して多数派ではなかったものの、「政治的中枢を形成した少数層」だった可能性を指摘しています。また本書は、古墳時代における日本列島への人類集団の到来が1回のみではなかった可能性も示唆しており、古墳時代も日本列島の人類集団の遺伝的構成は複雑だったことが窺えます。古墳時代における日本列島人類集団の遺伝的差異については、時空間のみならず階層も考慮する必要があるのかもしれません。古墳時代の人類集団の遺伝的差異は、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡で発見された5～6世紀の2個体のゲノムが、5割程度の縄文人的構成要素でモデル化できること（安達他.,2021）にも示されているように思います。類似した遺伝的構成要素を区別する手法がさらに改善されれば、おそらく三重以上に複雑な、日本列島の人口史が明らかになるのではないか、と私は予測しています。<br /><br />　本書では、長野県飯田市の溝口の塚古墳の被葬者のゲノム解析が報告されており、この研究については迂闊にも把握していませんでしたが、ひじょうに興味深い結果となっています。溝口の塚古墳の男性被葬者のゲノムは縄文人的構成要素とアジア東部的構成要素のみが検出され、アジア北東部的構成要素は明確には検出されませんでした。また、この男性個体の縄文人的構成要素の割合はひじょうに高かったそうです。さらに、この男性個体は、大韓民国慶尚南道金海市の大成洞（Daesung-dong）古墳で発見された女性個体との間に、5～6親等程度の血縁関係が確認されたそうです。当時の日本列島と朝鮮半島南岸との間では、長距離の人口移動があったようです。<br /><br />　本書は歴史時代も視野に入れて、日本列島における現代人集団の形成過程をひじょうに複雑な過程として描いていますが、歴史時代の人類遺骸のゲノム研究については、残念ながら日本列島はヨーロッパや中国と比較して大きく遅れている、と言えるでしょう。歴史時代の人類遺骸のゲノム研究が進めば、家族や社会の構造について理解が深まっていくのではないか、と期待されます。さらに本書は、今後の日本列島の人口動態も視野に入れています。近年、日本に多くの外国出身者が居住していることを、とくに都市部の住民は実感していると思います。本書は医療にゲノム研究が役立つ可能性も指摘していますが、こうした「実用的な」側面もあるため、ゲノム研究はますます盛んになっていくでしょう。本書は、現時点での研究の限界を踏まえて慎重に叙述を進めており、新書形式であることへの配慮もなされていると思います。一般層が日本人の遺伝的形成過程について最新の知見を得るのに適しており、日本人起源論に関心のある方には強くお勧めできます。<br /><br /><br />参考文献：<br />Cooke NP. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419" target="_blank">https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202602article_9.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />Ishiya K. et al.(2026): High-coverage ancient genomes reveal divergent population histories and prehistoric starch-related genetic variation in Japan. PNAS, 123, 30, e2606162123.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.2606162123" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.2606162123</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202607article_31.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />Kim J. et al.(2025): Genetic analysis of a Yayoi individual from the Doigahama site provides insights into the origins of immigrants to the Japanese Archipelago. Journal of Human Genetics, 70, 1, 47–57.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s10038-024-01295-w" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s10038-024-01295-w</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202410article_17.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />Kim J. et al.(2026): Ancient genomes reveal early-stage admixture and genetic diversity in the Northwestern Kyushu Yayoi. Scientific Reports, 16, 4833.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41598-026-34996-7" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41598-026-34996-7</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202602article_9.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />Liu X. et al.(2024): Decoding triancestral origins, archaic introgression, and natural selection in the Japanese population by whole-genome sequencing. Science Advances, 10, 16, eadi8419.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.adi8419" target="_blank">https://doi.org/10.1126/sciadv.adi8419</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202404article_25.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />Mizuno F. et al.(2021): Population dynamics in the Japanese Archipelago since the Pleistocene revealed by the complete mitochondrial genome sequences. Scientific Reports, 11, 12018.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41598-021-91357-2" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41598-021-91357-2</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202106article_15.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />Watanabe Y. et al.(2026): Jomon genomics reveal cold adaptation in Upper Paleolithic hunter-gatherers of eastern Eurasia. Science Advances, 12, 33, eaea7469.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.aea7469" target="_blank">https://doi.org/10.1126/sciadv.aea7469</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202608article_16.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118<br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202109article_16.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2024)「群馬県八束脛洞窟遺跡出土弥生時代中期人骨の核ゲノム分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第252集P125-133<br /><a href="https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000324" target="_blank">https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/records/2000324</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202501article_16.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />覚張隆史(2026) 『日本人とは何か　私たちのルーツを巡る700万年の物語』（SBクリエイティブ）<a name="more"></a>

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            <category>読書</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202610article_2.html</link>
      <title>白亜紀のゼレステス類哺乳類の分類</title>
      <pubDate>Fri, 02 Oct 2026 07:20:32 +0900</pubDate>
            <description>　白亜紀のゼレステス類哺乳類の分類に関する研究（Giallombardo et al., 2026）が公表されました。コウモリ類や霊長類や鯨類を含むクレード（単系統群）である有胎盤哺乳類は、古第三紀における多様化の過程できわめて多様な臼歯を発達させました。これは、肉食や草食といった派生的な食性を示しています。一方で、有胎盤類のステム系統である白亜紀の真獣類分類群は、歯列がより保存的で、概して、高く鋭い咬頭を有する、食虫性向きの臼歯を備えていました。38年前に、後期白亜紀のゼレ..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　白亜紀のゼレステス類哺乳類の分類に関する<a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10861-5">研究</a>（Giallombardo et al., 2026）が公表されました。コウモリ類や霊長類や鯨類を含むクレード（単系統群）である有胎盤哺乳類は、古第三紀における多様化の過程できわめて多様な臼歯を発達させました。これは、肉食や草食といった派生的な食性を示しています。一方で、有胎盤類のステム系統である白亜紀の真獣類分類群は、歯列がより保存的で、概して、高く鋭い咬頭を有する、食虫性向きの臼歯を備えていました。38年前に、後期白亜紀のゼレステス類哺乳類の比較的低い（丘状歯状の）咬頭を有する臼歯が発見され、それが草食性の有胎盤類である偶蹄類の臼歯と収斂するものだったことから、白亜紀に、より有胎盤類に似た化石哺乳類の未知の放散があった、と示唆されました。しかし、ゼレステス類の単一個体のものとして関連付けられる歯や頭蓋や骨格の標本は発見されておらず、ゼレステス類が形態的および系統発生学的にどのような動物だったかに関して、仮説を厳密に検証することはできていませんでした。

　本論文は、モンゴルで発見された後期白亜紀の新たな化石動物タミルハナ・バルカルセリ（Tamirkhan balcarceli）を報告しまる。その模式標本は単一個体のもので、四角形のゼレステス類様臼歯を伴う頭蓋と、走行への適応が見られる部分的な後肢からなる。タミルハナ・バルカルセリは、ゼレステス類の臼歯が、従来、よく知られた白亜紀の単系統群であるザランブダレステス科（Zalambdalestidae）の診断基準とされてきた特徴である、細長い下顎第1切歯（エナメル質が限局していて開放根が頬歯の下に伸びています）、涙骨を貫く管（translacrimal canal）、中足骨が細長くて遠位部が癒合した後肢と併存したことを示しています。したがって、ゼレステス類はザランブダレステス上科（Zalambdalestoidea）内の歯の特徴が異なる動物群であり、骨格的特徴はこの単系統群のものでした。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/136860">引用</a>です。


古生物学：白亜紀のゼレステス類哺乳類はザランブダレステス上科に属する

古生物学：ゼレステス類の系統的位置付け

　ゼレステス類は謎めいた白亜紀の哺乳類で、これまでは偶蹄類のごく初期の放散を代表すると考えられてきた。しかし今回、新たな標本の発見により、ゼレステス類が既知の白亜紀哺乳類群「ザランブダレステス類」に近縁であることが明らかになった。


参考文献：
Giallombardo A. et al.(2026): Cretaceous zhelestid mammals are zalambdalestoids. Nature, 657, 8133, 973–980.
https://doi.org/10.1038/s41586-026-10861-5<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　白亜紀のゼレステス類哺乳類の分類に関する<a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10861-5"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Giallombardo et al., 2026）が公表されました。コウモリ類や霊長類や鯨類を含むクレード（単系統群）である有胎盤哺乳類は、古第三紀における多様化の過程できわめて多様な臼歯を発達させました。これは、肉食や草食といった派生的な食性を示しています。一方で、有胎盤類のステム系統である白亜紀の真獣類分類群は、歯列がより保存的で、概して、高く鋭い咬頭を有する、食虫性向きの臼歯を備えていました。38年前に、後期白亜紀のゼレステス類哺乳類の比較的低い（丘状歯状の）咬頭を有する臼歯が発見され、それが草食性の有胎盤類である偶蹄類の臼歯と収斂するものだったことから、白亜紀に、より有胎盤類に似た化石哺乳類の未知の放散があった、と示唆されました。しかし、ゼレステス類の単一個体のものとして関連付けられる歯や頭蓋や骨格の標本は発見されておらず、ゼレステス類が形態的および系統発生学的にどのような動物だったかに関して、仮説を厳密に検証することはできていませんでした。<br /><br />　本論文は、モンゴルで発見された後期白亜紀の新たな化石動物タミルハナ・バルカルセリ（Tamirkhan balcarceli）を報告しまる。その模式標本は単一個体のもので、四角形のゼレステス類様臼歯を伴う頭蓋と、走行への適応が見られる部分的な後肢からなる。タミルハナ・バルカルセリは、ゼレステス類の臼歯が、従来、よく知られた白亜紀の単系統群であるザランブダレステス科（Zalambdalestidae）の診断基準とされてきた特徴である、細長い下顎第1切歯（エナメル質が限局していて開放根が頬歯の下に伸びています）、涙骨を貫く管（translacrimal canal）、中足骨が細長くて遠位部が癒合した後肢と併存したことを示しています。したがって、ゼレステス類はザランブダレステス上科（Zalambdalestoidea）内の歯の特徴が異なる動物群であり、骨格的特徴はこの単系統群のものでした。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/nature/highlights/136860"><span style=color:#e00>引用</span></a>です。<br /><br /><br /><span style=color:#00c>古生物学：白亜紀のゼレステス類哺乳類はザランブダレステス上科に属する<br /><br />古生物学：ゼレステス類の系統的位置付け<br /><br />　ゼレステス類は謎めいた白亜紀の哺乳類で、これまでは偶蹄類のごく初期の放散を代表すると考えられてきた。しかし今回、新たな標本の発見により、ゼレステス類が既知の白亜紀哺乳類群「ザランブダレステス類」に近縁であることが明らかになった。</span><br /><br /><br />参考文献：<br />Giallombardo A. et al.(2026): Cretaceous zhelestid mammals are zalambdalestoids. Nature, 657, 8133, 973–980.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-026-10861-5" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-026-10861-5</a><a name="more"></a>

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            <category>自然科学</category>
      <author>雑記帳</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,sicambre/521693139</guid>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202610article_1.html</link>
      <title>イベリア半島北東部の更新世人類化石のゲノム</title>
      <pubDate>Thu, 01 Oct 2026 09:25:42 +0900</pubDate>
            <description>　先月（2026年9月）17～19日にかけてスペインのブルゴスで開かれたヒト進化研究ヨーロッパ協会第16回総会で、スペインのカタルーニャ州のジローナ（Girona）県のバニョラス（Banyoles）で発見された人類化石の遺伝学的研究（Szymanski et al., 2026）が報告されました。この研究の要約はPDFファイルで読めます（P270）。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。　バニョラス下顎は、1886年にバニョラス（..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　先月（2026年9月）17～19日にかけてスペインのブルゴスで開かれたヒト進化研究ヨーロッパ協会第16回総会で、スペインのカタルーニャ州のジローナ（Girona）県のバニョラス（Banyoles）で発見された人類化石の遺伝学的研究（Szymanski et al., 2026）が報告されました。この研究の要約は<a href="https://drive.google.com/file/d/19BeoSe5vhCUWQvdAmEvqFAx_phBCLtXN/view?usp=sharing">PDFファイル</a>で読めます（P270）。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。

　バニョラス下顎は、1886年にバニョラス（イベリア半島北東部の）の町と湖の近くにある石灰岩採石場で発見されました。バニョラス下顎は考古学的背景を伴わない孤立した古生物学的発見ですが、周囲の石灰華の年代測定とエナメル質および象牙質断片の直接的な年代測定から、73000～41000年前頃に位置づけられています。形態学的には、現生人類（Homo sapiens）に派生的な特徴（たとえば、明確な顎）がバニョラス下顎には描けており、1915年以降、バニョラス下顎はネアンデルタール人（Homo neanderthalensis）もしくは中期更新世ホモ属に分類されました。最近の形態計測研究は、バニョラス下顎を初期現生人類に分類しました。

　バニョラス個体の分類学的および人口集団水準の類似性を明らかにするために、古代DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）用に右側第三大臼歯から6点の部分標本が採取されました。DNAは各部分標本から抽出され、一本鎖DNAライブラリへと変換され、それがヒトのmtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）および核DNAでさらに濃縮されました。

　バニョラス個体のDNA保存状態は概して悪いと分かりましたが、より深い歯の内部から採取された部分標本では、真正の古代DNA断片の割合がより高くなりました。すべての部分標本は高水準の現代人のDNA汚染（60%超）を示し、下流分析では厳格な選別戦略の適用が必要となりました。

　mtDNAと核DNAの両方で、現生人類とネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人（Denisovan）の系統に固有の診断可能な部位が検証されると、現生人類の多様体の裏づけのみが見つかり、最近の形態学に基づく分類が支持されました。性染色体の分析はX染色体とY染色体両方の等しい裏づけを示し、バニョラス個体は男性と示唆されます。、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）はUと分かり、これはLGM（Last Glacial Maximum、最終氷期極大期）の前後の旧石器時代人口集団において一般的な系統です。

　現代人のゲノム（124万参照パネル）における124万ヶ所の可変部位［5］を用いて、バニョラス個体が現生人類集団と比較されました。バニョラス標本について示唆されていた年代とは異なり、バニョラス個体は、チェコのコニェプルシ（Koněprusy）洞窟群で発見された洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン（Zlatý kůň）と呼ばれる個体や、シベリア南部西方のウスチイシム（Ust’-Ishim）で発見された個体といった、4万年前頃に生存していた現生人類の個体群とはまとまりません。むしろ、バニョラス個体のゲノムは、コステンキ・ボルシェヴォ（Kostenki-Borshchevo）遺跡群の一つであるコステンキ14号（Kostenki 14）遺跡個体など33000～23000年前頃の個体群や、ヨーロッパのオーリナシアン（Aurignacian、オーリニャック文化）やグラヴェティアン（Gravettian、グラヴェット文化）と関連するその後の個体群の方と、より近くなっています。このより新しい位置づけは、ネアンデルタール人と初期現生人類との間の混合事象により近い時期に生存していた個体群で予測される、バニョラス個体における長いネアンデルタール人由来断片の欠如によってさらに裏づけられます。

　まとめると、遺伝学的証拠は、バニョラス個体が以前に考えられていたよりも新しい上部旧石器時代の男性個体であることを示しています。しかし、バニョラス個体には、その古代型の形態、および遺伝的データと以前の問題測定の試みとの間の不一致があり、将来の研究に多くの問題が残されています。


参考文献：
Szymanski M. et al.(2026): Ancient DNA analyses of the Banyoles mandible. The 16th Annual ESHE Meeting.

［5］Mathieson I. et al.(2015): Genome-wide patterns of selection in 230 ancient Eurasians. Nature, 528, 7583, 499–503.
https://doi.org/10.1038/nature16152
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201512article_27.html">関連記事</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　先月（2026年9月）17～19日にかけてスペインのブルゴスで開かれたヒト進化研究ヨーロッパ協会第16回総会で、スペインのカタルーニャ州のジローナ（Girona）県のバニョラス（Banyoles）で発見された人類化石の遺伝学的研究（Szymanski et al., 2026）が報告されました。この研究の要約は<a href="https://drive.google.com/file/d/19BeoSe5vhCUWQvdAmEvqFAx_phBCLtXN/view?usp=sharing"><span style=color:#e00>PDFファイル</span></a>で読めます（P270）。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。<br /><br />　バニョラス下顎は、1886年にバニョラス（イベリア半島北東部の）の町と湖の近くにある石灰岩採石場で発見されました。バニョラス下顎は考古学的背景を伴わない孤立した古生物学的発見ですが、周囲の石灰華の年代測定とエナメル質および象牙質断片の直接的な年代測定から、73000～41000年前頃に位置づけられています。形態学的には、現生人類（Homo sapiens）に派生的な特徴（たとえば、明確な顎）がバニョラス下顎には描けており、1915年以降、バニョラス下顎はネアンデルタール人（Homo neanderthalensis）もしくは中期更新世ホモ属に分類されました。最近の形態計測研究は、バニョラス下顎を初期現生人類に分類しました。<br /><br />　バニョラス個体の分類学的および人口集団水準の類似性を明らかにするために、古代DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）用に右側第三大臼歯から6点の部分標本が採取されました。DNAは各部分標本から抽出され、一本鎖DNAライブラリへと変換され、それがヒトのmtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）および核DNAでさらに濃縮されました。<br /><br />　バニョラス個体のDNA保存状態は概して悪いと分かりましたが、より深い歯の内部から採取された部分標本では、真正の古代DNA断片の割合がより高くなりました。すべての部分標本は高水準の現代人のDNA汚染（60%超）を示し、下流分析では厳格な選別戦略の適用が必要となりました。<br /><br />　mtDNAと核DNAの両方で、現生人類とネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人（Denisovan）の系統に固有の診断可能な部位が検証されると、現生人類の多様体の裏づけのみが見つかり、最近の形態学に基づく分類が支持されました。性染色体の分析はX染色体とY染色体両方の等しい裏づけを示し、バニョラス個体は男性と示唆されます。、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）はUと分かり、これはLGM（Last Glacial Maximum、最終氷期極大期）の前後の旧石器時代人口集団において一般的な系統です。<br /><br />　現代人のゲノム（124万参照パネル）における124万ヶ所の可変部位［5］を用いて、バニョラス個体が現生人類集団と比較されました。バニョラス標本について示唆されていた年代とは異なり、バニョラス個体は、チェコのコニェプルシ（Koněprusy）洞窟群で発見された洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン（Zlatý kůň）と呼ばれる個体や、シベリア南部西方のウスチイシム（Ust’-Ishim）で発見された個体といった、4万年前頃に生存していた現生人類の個体群とはまとまりません。むしろ、バニョラス個体のゲノムは、コステンキ・ボルシェヴォ（Kostenki-Borshchevo）遺跡群の一つであるコステンキ14号（Kostenki 14）遺跡個体など33000～23000年前頃の個体群や、ヨーロッパのオーリナシアン（Aurignacian、オーリニャック文化）やグラヴェティアン（Gravettian、グラヴェット文化）と関連するその後の個体群の方と、より近くなっています。このより新しい位置づけは、ネアンデルタール人と初期現生人類との間の混合事象により近い時期に生存していた個体群で予測される、バニョラス個体における長いネアンデルタール人由来断片の欠如によってさらに裏づけられます。<br /><br />　まとめると、遺伝学的証拠は、バニョラス個体が以前に考えられていたよりも新しい上部旧石器時代の男性個体であることを示しています。しかし、バニョラス個体には、その古代型の形態、および遺伝的データと以前の問題測定の試みとの間の不一致があり、将来の研究に多くの問題が残されています。<br /><br /><br />参考文献：<br />Szymanski M. et al.(2026): Ancient DNA analyses of the Banyoles mandible. The 16th Annual ESHE Meeting.<br /><br />［5］Mathieson I. et al.(2015): Genome-wide patterns of selection in 230 ancient Eurasians. Nature, 528, 7583, 499–503.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature16152" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature16152</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201512article_27.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><a name="more"></a>

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            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202609article_30.html</link>
      <title>バチョキロ洞窟の新たな現生人類遺骸</title>
      <pubDate>Wed, 30 Sep 2026 09:59:14 +0900</pubDate>
            <description>　今月（2026年9月）17～19日にかけてスペインのブルゴスで開かれたヒト進化研究ヨーロッパ協会第16回総会で、ブルガリアのバチョキロ洞窟（Bacho Kiro Cave）で発見された新たな現生人類（Homo sapiens）遺骸に関する研究（Schuh et al., 2026）が報告されました。この研究の要約はPDFファイルで読めます（P248）。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。　バチョキロ洞窟は、ユーラシア西部への初..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　今月（2026年9月）17～19日にかけてスペインのブルゴスで開かれたヒト進化研究ヨーロッパ協会第16回総会で、ブルガリアのバチョキロ洞窟（Bacho Kiro Cave）で発見された新たな現生人類（Homo sapiens）遺骸に関する研究（Schuh et al., 2026）が報告されました。この研究の要約は<a href="https://drive.google.com/file/d/19BeoSe5vhCUWQvdAmEvqFAx_phBCLtXN/view?usp=sharing">PDFファイル</a>で読めます（P248）。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。

　バチョキロ洞窟は、ユーラシア西部への初期現生人類の最初期の拡散、およびUP（Upper Paleolithic、上部旧石器時代）の最初期段階における現生人類と最後のネアンデルタール人との相互作用に関する理解にとって、重要な遺跡として注目されてきました［1］。この期間のヒト遺骸の少なさのため、最初のユーラシア西部人の形態学的および遺伝学的差異はよく分かっていません。バチョキロ洞窟における最近の発掘調査では新たなヒト遺骸が得られ、それにはほぼ完全な左側上顎と数点の遊離した歯が含まれており、そのうち一部はIUP（Initial Upper Paleolithic、初期上部旧石器）遺物群と確実に関連づけられている層位から出土しました。以前に回収されたミトコンドリアおよび核の遺伝的データ［2］やこの研究で提示される新たな古遺伝学的データ（2点）から、少なくとも6個体を特定でき、その内訳は男性5個体と女性1個体です。この研究は、さまざまな年齢層によって表されるこれらの個体の解剖学的現分析を、以前に刊行された年代と一致する新たな放射性炭素年代測定とともに提示し、これらの遺物群は確実にIUP内に位置づけられます。

　上顎と歯の幾何学的形態計測分析は一貫して、6個体すべてを現代人の範囲内に位置づけ、形態学的記述は特徴的なネアンデルタール人形質の欠如を示唆しています。上顎と歯の大きさは現代人の分布の上限に近い傾向があり、成人と亜成人の両方で大きな個体が示唆されますが、顔面の比率の大きな減少は、中部旧石器時代の現生人類と比較して、本論文のデータセットのすべての初期UP個体ですでに特定できます。この期間では稀と考えられている1点の歯の形質（大臼歯のエナメル質伸長）が特定され、これは現在のアジア東部人およびアメリカ大陸先住民においてより高頻度で存在します。

　単一の考古学的人口集団に帰属するにも関わらず、遺伝学的証拠は、分析された個体間の最大6親等までの密接な親族関係の欠如を示しています。核DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）分析は、これらバチョキロ洞窟のIUP個体群が、その後のヨーロッパ集団とよりも、アジア東部およびアメリカ大陸の古代と現在両方の人口集団の方と密接な類似性を有している、と論証しており、バチョキロ洞窟IUP個体群がヨーロッパにおける連続性が限定的な初期人口集団の拡散を表している、との見解が強固になります。

　バチョキロ洞窟のすべてのIUP個体は少なくとも2回のネアンデルタール人からの遺伝子移入の証拠を示しており、2回目の波はこれらの個体が生きていた10～15世代前未満のことでした。遺伝子型と表現型の関係を調べるために、現代人と比較して有意により高い水準の遺伝子移入を示す、これらの個体におけるネアンデルタール人からの遺伝子移入のパターンが調べられました。まず、1000人ゲノム計画の比較現代人データセットにおけるこれらの断片の分布が、とくに頭蓋顔面発達と関わる遺伝子に焦点を当てて、調べられました。順列検定を用いた予備的な分析では、遺伝子のこの部分集合全体でのネアンデルタール人祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）の枯渇は示唆されず、体系的な負の選択がなかったことを示唆しています。

　まとめると、これらの結果はヨーロッパ西部における最初期現生人類の形態学的および遺伝学的多様性を浮き彫りにしていますが、古代型の遺伝子移入の発達の影響について新たな問題を提起しています。


参考文献：
Schuh A. et al.(2026): New fossil remains from Bacho Kiro Cave, Bulgaria: morphological and genetic insights into early Homo sapiens variation. The 16th Annual ESHE Meeting.

［1］Hublin JJ. et al.(2020): Initial Upper Palaeolithic Homo sapiens from Bacho Kiro Cave, Bulgaria. Nature, 581, 7808, 299–302.
https://doi.org/10.1038/s41586-020-2259-z
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202005article_20.html">関連記事</a>

［2］Hajdinjak M. et al.(2021): Initial Upper Palaeolithic humans in Europe had recent Neanderthal ancestry. Nature, 592, 7853, 253–257.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03335-3
<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202104article_9.html">関連記事</a><a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　今月（2026年9月）17～19日にかけてスペインのブルゴスで開かれたヒト進化研究ヨーロッパ協会第16回総会で、ブルガリアのバチョキロ洞窟（Bacho Kiro Cave）で発見された新たな現生人類（Homo sapiens）遺骸に関する研究（Schuh et al., 2026）が報告されました。この研究の要約は<a href="https://drive.google.com/file/d/19BeoSe5vhCUWQvdAmEvqFAx_phBCLtXN/view?usp=sharing"><span style=color:#e00>PDFファイル</span></a>で読めます（P248）。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。<br /><br />　バチョキロ洞窟は、ユーラシア西部への初期現生人類の最初期の拡散、およびUP（Upper Paleolithic、上部旧石器時代）の最初期段階における現生人類と最後のネアンデルタール人との相互作用に関する理解にとって、重要な遺跡として注目されてきました［1］。この期間のヒト遺骸の少なさのため、最初のユーラシア西部人の形態学的および遺伝学的差異はよく分かっていません。バチョキロ洞窟における最近の発掘調査では新たなヒト遺骸が得られ、それにはほぼ完全な左側上顎と数点の遊離した歯が含まれており、そのうち一部はIUP（Initial Upper Paleolithic、初期上部旧石器）遺物群と確実に関連づけられている層位から出土しました。以前に回収されたミトコンドリアおよび核の遺伝的データ［2］やこの研究で提示される新たな古遺伝学的データ（2点）から、少なくとも6個体を特定でき、その内訳は男性5個体と女性1個体です。この研究は、さまざまな年齢層によって表されるこれらの個体の解剖学的現分析を、以前に刊行された年代と一致する新たな放射性炭素年代測定とともに提示し、これらの遺物群は確実にIUP内に位置づけられます。<br /><br />　上顎と歯の幾何学的形態計測分析は一貫して、6個体すべてを現代人の範囲内に位置づけ、形態学的記述は特徴的なネアンデルタール人形質の欠如を示唆しています。上顎と歯の大きさは現代人の分布の上限に近い傾向があり、成人と亜成人の両方で大きな個体が示唆されますが、顔面の比率の大きな減少は、中部旧石器時代の現生人類と比較して、本論文のデータセットのすべての初期UP個体ですでに特定できます。この期間では稀と考えられている1点の歯の形質（大臼歯のエナメル質伸長）が特定され、これは現在のアジア東部人およびアメリカ大陸先住民においてより高頻度で存在します。<br /><br />　単一の考古学的人口集団に帰属するにも関わらず、遺伝学的証拠は、分析された個体間の最大6親等までの密接な親族関係の欠如を示しています。核DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）分析は、これらバチョキロ洞窟のIUP個体群が、その後のヨーロッパ集団とよりも、アジア東部およびアメリカ大陸の古代と現在両方の人口集団の方と密接な類似性を有している、と論証しており、バチョキロ洞窟IUP個体群がヨーロッパにおける連続性が限定的な初期人口集団の拡散を表している、との見解が強固になります。<br /><br />　バチョキロ洞窟のすべてのIUP個体は少なくとも2回のネアンデルタール人からの遺伝子移入の証拠を示しており、2回目の波はこれらの個体が生きていた10～15世代前未満のことでした。遺伝子型と表現型の関係を調べるために、現代人と比較して有意により高い水準の遺伝子移入を示す、これらの個体におけるネアンデルタール人からの遺伝子移入のパターンが調べられました。まず、1000人ゲノム計画の比較現代人データセットにおけるこれらの断片の分布が、とくに頭蓋顔面発達と関わる遺伝子に焦点を当てて、調べられました。順列検定を用いた予備的な分析では、遺伝子のこの部分集合全体でのネアンデルタール人祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）の枯渇は示唆されず、体系的な負の選択がなかったことを示唆しています。<br /><br />　まとめると、これらの結果はヨーロッパ西部における最初期現生人類の形態学的および遺伝学的多様性を浮き彫りにしていますが、古代型の遺伝子移入の発達の影響について新たな問題を提起しています。<br /><br /><br />参考文献：<br />Schuh A. et al.(2026): New fossil remains from Bacho Kiro Cave, Bulgaria: morphological and genetic insights into early Homo sapiens variation. The 16th Annual ESHE Meeting.<br /><br />［1］Hublin JJ. et al.(2020): Initial Upper Palaeolithic Homo sapiens from Bacho Kiro Cave, Bulgaria. Nature, 581, 7808, 299–302.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-020-2259-z" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-020-2259-z</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202005article_20.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［2］Hajdinjak M. et al.(2021): Initial Upper Palaeolithic humans in Europe had recent Neanderthal ancestry. Nature, 592, 7853, 253–257.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-021-03335-3" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-021-03335-3</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202104article_9.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><a name="more"></a>

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            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202609article_29.html</link>
      <title>大河ドラマ『豊臣兄弟！』第37回「秀長の国」</title>
      <pubDate>Tue, 29 Sep 2026 11:27:19 +0900</pubDate>
            <description>　今回は、小一郎（羽柴秀長）の大和入りが描かれました。これまでの太閤記ものでは、小一郎の大和統治はさほど描かれてこなかったように思いますが、本作では小一郎が主人公ですから、わりと詳しく描かれるようです。小一郎の家臣も増えて、藤堂高虎は割と早くから登場していましたが、吉川平介もすでに登場しており、「豊臣兄弟」の確執も終盤の見どころとなりそうです。大和統治となると、やはり興福寺は欠かせず、今回は興福寺の僧も登場しましたが、演出があまりにも過剰だったように思います。さらに、興福寺の..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　今回は、小一郎（羽柴秀長）の大和入りが描かれました。これまでの太閤記ものでは、小一郎の大和統治はさほど描かれてこなかったように思いますが、本作では小一郎が主人公ですから、わりと詳しく描かれるようです。小一郎の家臣も増えて、藤堂高虎は割と早くから登場していましたが、吉川平介もすでに登場しており、「豊臣兄弟」の確執も終盤の見どころとなりそうです。大和統治となると、やはり興福寺は欠かせず、今回は興福寺の僧も登場しましたが、演出があまりにも過剰だったように思います。さらに、興福寺の僧に留まらず、大和の商人や村落も描かれ、大河ドラマではこうした描写は好まれないように思いますが、私は注目しています。

　小一郎の大和統治となると、気になるのは、<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202605article_26.html">第20回</a>で描かれた、松永久秀が遺した地図です。この地図には、大和に隠された南朝の秘宝が記されていましたが、それがどこまで本当なのか、あるいは別の意味が秘められているのか、放送当時から気になっていました。本作は人物を無駄遣いというか、使い捨てにする傾向があり、小一郎の舅である安藤守就の本能寺の変直後の最期も、描かれないどころか言及さえされていませんから（今後、言及される可能性も残ってはいますが）、けっきょく触れられずに終わる懸念もありますが、さすがにこの件はきっちりと描いてくれるのではないか、と思います。

　石田三成は茶々に冷たく諫言していましたが、司馬遼太郎作品では、近江出身の三成は浅井長政の娘である茶々を崇拝していたとか、尾張派と近江派の対立といった図式とかが描かれていたこともあるように記憶しています。この図式に関しては、司馬作品を読んでいた当時から疑問を抱いていましたが、詳しく調べたわけではないので、断定は控えます。三成と茶々が悪役的な役割を担う作品では、1981年放送の大河ドラマ『おんな太閤記』など、両者が提携して陰謀を企む展開もありました。本作で関ヶ原の戦いや大坂の陣に言及されるのか分かりませんし、茶々と三成の関係は本作の主題ではありませんが、両者の関係にも注目しています。

　蜂須賀小六（正勝）は今回で退場となるようで、「豊臣兄弟」や前野長康とのやり取りがそれなりに描かれました。小六は藤吉郎（羽柴秀吉）の家臣では（小一郎を除くと）最も存在感があっただけに、寂しさがあります。本作では、小一郎の死後も多少言及されるかもしれませんが、序盤からの重要人物で小一郎の死の前に退場となりそうなのは、後は「豊臣兄弟」の妹の「あさひ」くらいでしょうか。「あさひ」の場合、その前に徳川家康との婚姻が描かれますが、太閤記ものではここが見せ場の一つになるので、どう描かれるのか、注目しています。<a></a>

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　今回は、小一郎（羽柴秀長）の大和入りが描かれました。これまでの太閤記ものでは、小一郎の大和統治はさほど描かれてこなかったように思いますが、本作では小一郎が主人公ですから、わりと詳しく描かれるようです。小一郎の家臣も増えて、藤堂高虎は割と早くから登場していましたが、吉川平介もすでに登場しており、「豊臣兄弟」の確執も終盤の見どころとなりそうです。大和統治となると、やはり興福寺は欠かせず、今回は興福寺の僧も登場しましたが、演出があまりにも過剰だったように思います。さらに、興福寺の僧に留まらず、大和の商人や村落も描かれ、大河ドラマではこうした描写は好まれないように思いますが、私は注目しています。<br /><br />　小一郎の大和統治となると、気になるのは、<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202605article_26.html"><span style=color:#e00>第20回</span></a>で描かれた、松永久秀が遺した地図です。この地図には、大和に隠された南朝の秘宝が記されていましたが、それがどこまで本当なのか、あるいは別の意味が秘められているのか、放送当時から気になっていました。本作は人物を無駄遣いというか、使い捨てにする傾向があり、小一郎の舅である安藤守就の本能寺の変直後の最期も、描かれないどころか言及さえされていませんから（今後、言及される可能性も残ってはいますが）、けっきょく触れられずに終わる懸念もありますが、さすがにこの件はきっちりと描いてくれるのではないか、と思います。<br /><br />　石田三成は茶々に冷たく諫言していましたが、司馬遼太郎作品では、近江出身の三成は浅井長政の娘である茶々を崇拝していたとか、尾張派と近江派の対立といった図式とかが描かれていたこともあるように記憶しています。この図式に関しては、司馬作品を読んでいた当時から疑問を抱いていましたが、詳しく調べたわけではないので、断定は控えます。三成と茶々が悪役的な役割を担う作品では、1981年放送の大河ドラマ『おんな太閤記』など、両者が提携して陰謀を企む展開もありました。本作で関ヶ原の戦いや大坂の陣に言及されるのか分かりませんし、茶々と三成の関係は本作の主題ではありませんが、両者の関係にも注目しています。<br /><br />　蜂須賀小六（正勝）は今回で退場となるようで、「豊臣兄弟」や前野長康とのやり取りがそれなりに描かれました。小六は藤吉郎（羽柴秀吉）の家臣では（小一郎を除くと）最も存在感があっただけに、寂しさがあります。本作では、小一郎の死後も多少言及されるかもしれませんが、序盤からの重要人物で小一郎の死の前に退場となりそうなのは、後は「豊臣兄弟」の妹の「あさひ」くらいでしょうか。「あさひ」の場合、その前に徳川家康との婚姻が描かれますが、太閤記ものではここが見せ場の一つになるので、どう描かれるのか、注目しています。<a name="more"></a>

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            <category>相撲</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202609article_28.html</link>
      <title>大相撲秋場所千秋楽</title>
      <pubDate>Mon, 28 Sep 2026 05:58:51 +0900</pubDate>
            <description>　今場所は、霧島関の横綱昇進が最大の注目でしたが、不振の両横綱が立ち直れるのかどうかも、私も含めて案じていた人は多かったように思います。その両横綱のうち、豊昇龍関は全休となり、手術後の復調に時間がかかっているようです。豊昇龍関は今場所が横綱10場所目で、まだ優勝がなく、今年（2026年）に入って、初場所が10勝5敗、春場所が11勝4敗、夏場所が初日に負けて2日目から休場、名古屋場所が7勝7敗で千秋楽は休場でした。まだ横綱審議委員会から引退勧告を出すのは早いと思いますが、まずは..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　今場所は、霧島関の横綱昇進が最大の注目でしたが、不振の両横綱が立ち直れるのかどうかも、私も含めて案じていた人は多かったように思います。その両横綱のうち、豊昇龍関は全休となり、手術後の復調に時間がかかっているようです。豊昇龍関は今場所が横綱10場所目で、まだ優勝がなく、今年（2026年）に入って、初場所が10勝5敗、春場所が11勝4敗、夏場所が初日に負けて2日目から休場、名古屋場所が7勝7敗で千秋楽は休場でした。まだ横綱審議委員会から引退勧告を出すのは早いと思いますが、まずは状態を立て直すことに専念すべきで、状態が戻らないようなら、来場所も休場でもかまわないと思います。ただ、その場合は来年初場所が正念場となります。

　霧島関は7日目まで2敗で、今場所後の横綱昇進の可能性がまだわずかに残っていましたが、8日目に負けて落ち込んだのか、9日目と10日目も負けてしまい、千秋楽に勝ち越しがかかるところまで追い込まれ、千秋楽は琴櫻関に勝って何とか勝ち越し、8勝7敗で場所を終えました。これで横綱昇進は一から出直しとなってしまいました。今場所の霧島関は、7日目まで2敗だったものの、相撲内容は全体的に悪かったので、この結果も仕方のないところでしょうか。この1年近く、最も成績が安定しているのは霧島関でしょうが、なかなか12勝の壁を破ることができませんでした。ただ、以前よりも八百長が激減しているのだとしたら、13勝以上はなかなか難しいでしょうし、連続して13勝以上はなおさら難しくなります。大関や横綱の昇進基準、さらには大関や横綱に昇進してからの成績も、その点を踏まえる必要があるとは思います。

　優勝争いを牽引したのはもう一人の横綱である大の里関で、4日目に高安関に負けたものの、8日目に単独首位に立ちました。ただ、大の里関は強い時と脆い時の差が激しいというか、立ち会いで圧倒すると強いものの、圧倒できなかった場合は安易に引く癖が修正されていないどころか、悪化している感さえあります。今場所で完全に相撲勘を取り戻して、来場所からは圧倒的な強さを見せてもらいたいところですが、この1年間の苦境で、立ち会いで抵抗されると引いてしまう癖がすっかり定着してしまったのではないか、と懸念されます。その意味で、単独首位に立ち、最初に勝ち越しを決めても、大の里関を安心して見ていられる状況ではありませんでした。それでも、大の里関はこのところ負けていた伯乃富士関と藤ノ川関と熱海富士関に勝ち、単独首位で星二つの差をつけて13日目に霧島関に攻め急いだ感もあって負けてしまい、やはりまだ復調していないのかな、とさらに不安になりました。

　大の里関は14日目に琴櫻関に負けてしまい、千秋楽を迎えた時点で、優勝争いは大の里関と安青錦関に絞られ、相星決戦となる結びの一番で両者が対戦するという、盛り上がる展開となりましたが、大の里関を応援している私にとっては、13日目と14日目は攻め急いだ感があり、何とも残念でした。大の里関は安青錦関には合口がよいものの、終盤の状態からは、とても楽観できる状況ではなく、不安が残りました。結びの一番では、大の里関が立ち合いから圧倒し、突き出して安青錦関を破り、1年振りとなる6回目の優勝を果たしました。かなり不安でしたが、大の里関の復活優勝となり、安堵しています。安青錦関にとって、やはり横綱昇進の最大の壁は大の里関になりそうです。安青錦関には、まず足の怪我が完治するよう、願っています。

　今場所は、熱海富士関の大関昇進も話題で、熱海富士関は10日目に勝ち越しを決めて、しかも琴櫻関相手に堂々とした勝ち方だったので、今場所後の大関昇進と優勝もあるかな、と思いましたが、11日目から4連敗となり、千秋楽も新関脇の藤ノ川関に負けて二桁勝利に届かず、8勝7敗で場所を終えました。熱海富士関はさらに力強くなった感じで、大の里関相手にも立ち合いの圧力で負けていないどころか、上回っている感さえありますが、相撲の上手さの点でまだ足りないところがあるように思います。熱海富士関は多数の関取を抱える伊勢ヶ濱部屋所属で、稽古環境には恵まれているだけに、来場所での巻き返しと、近いうちに大関に昇進することを期待しています。ただ、来場所13勝以上で優勝し、内容がよければ、来場所後に熱海富士関が大関に昇進しても不思議ではないように思います。

　藤ノ川関は11勝4敗として、大関昇進の起点を作りましたが、正直なところ、他の力士による研究が進めば、大関昇進は容易ではないように思います。上述のように、近年では以前よりも八百長が激減しているのだとしたら、大関に昇進できるだけの成績を残すのはなかなか難しいように思います。その意味で、大関昇進、さらには横綱昇進の基準も変えていくべきなのでしょうが、相撲協会も報道陣も愛好者も保守的な傾向が強そうですから、どうしても以前の基準で考えてしまうのでしょうか。そもそも、八百長が激減している状況で、1場所15日で1年6場所は多すぎるように思いますが、これは大関と横綱の昇進基準以上に変えるのが難しそうです。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　今場所は、霧島関の横綱昇進が最大の注目でしたが、不振の両横綱が立ち直れるのかどうかも、私も含めて案じていた人は多かったように思います。その両横綱のうち、豊昇龍関は全休となり、手術後の復調に時間がかかっているようです。豊昇龍関は今場所が横綱10場所目で、まだ優勝がなく、今年（2026年）に入って、初場所が10勝5敗、春場所が11勝4敗、夏場所が初日に負けて2日目から休場、名古屋場所が7勝7敗で千秋楽は休場でした。まだ横綱審議委員会から引退勧告を出すのは早いと思いますが、まずは状態を立て直すことに専念すべきで、状態が戻らないようなら、来場所も休場でもかまわないと思います。ただ、その場合は来年初場所が正念場となります。<br /><br />　霧島関は7日目まで2敗で、今場所後の横綱昇進の可能性がまだわずかに残っていましたが、8日目に負けて落ち込んだのか、9日目と10日目も負けてしまい、千秋楽に勝ち越しがかかるところまで追い込まれ、千秋楽は琴櫻関に勝って何とか勝ち越し、8勝7敗で場所を終えました。これで横綱昇進は一から出直しとなってしまいました。今場所の霧島関は、7日目まで2敗だったものの、相撲内容は全体的に悪かったので、この結果も仕方のないところでしょうか。この1年近く、最も成績が安定しているのは霧島関でしょうが、なかなか12勝の壁を破ることができませんでした。ただ、以前よりも八百長が激減しているのだとしたら、13勝以上はなかなか難しいでしょうし、連続して13勝以上はなおさら難しくなります。大関や横綱の昇進基準、さらには大関や横綱に昇進してからの成績も、その点を踏まえる必要があるとは思います。<br /><br />　優勝争いを牽引したのはもう一人の横綱である大の里関で、4日目に高安関に負けたものの、8日目に単独首位に立ちました。ただ、大の里関は強い時と脆い時の差が激しいというか、立ち会いで圧倒すると強いものの、圧倒できなかった場合は安易に引く癖が修正されていないどころか、悪化している感さえあります。今場所で完全に相撲勘を取り戻して、来場所からは圧倒的な強さを見せてもらいたいところですが、この1年間の苦境で、立ち会いで抵抗されると引いてしまう癖がすっかり定着してしまったのではないか、と懸念されます。その意味で、単独首位に立ち、最初に勝ち越しを決めても、大の里関を安心して見ていられる状況ではありませんでした。それでも、大の里関はこのところ負けていた伯乃富士関と藤ノ川関と熱海富士関に勝ち、単独首位で星二つの差をつけて13日目に霧島関に攻め急いだ感もあって負けてしまい、やはりまだ復調していないのかな、とさらに不安になりました。<br /><br />　大の里関は14日目に琴櫻関に負けてしまい、千秋楽を迎えた時点で、優勝争いは大の里関と安青錦関に絞られ、相星決戦となる結びの一番で両者が対戦するという、盛り上がる展開となりましたが、大の里関を応援している私にとっては、13日目と14日目は攻め急いだ感があり、何とも残念でした。大の里関は安青錦関には合口がよいものの、終盤の状態からは、とても楽観できる状況ではなく、不安が残りました。結びの一番では、大の里関が立ち合いから圧倒し、突き出して安青錦関を破り、1年振りとなる6回目の優勝を果たしました。かなり不安でしたが、大の里関の復活優勝となり、安堵しています。安青錦関にとって、やはり横綱昇進の最大の壁は大の里関になりそうです。安青錦関には、まず足の怪我が完治するよう、願っています。<br /><br />　今場所は、熱海富士関の大関昇進も話題で、熱海富士関は10日目に勝ち越しを決めて、しかも琴櫻関相手に堂々とした勝ち方だったので、今場所後の大関昇進と優勝もあるかな、と思いましたが、11日目から4連敗となり、千秋楽も新関脇の藤ノ川関に負けて二桁勝利に届かず、8勝7敗で場所を終えました。熱海富士関はさらに力強くなった感じで、大の里関相手にも立ち合いの圧力で負けていないどころか、上回っている感さえありますが、相撲の上手さの点でまだ足りないところがあるように思います。熱海富士関は多数の関取を抱える伊勢ヶ濱部屋所属で、稽古環境には恵まれているだけに、来場所での巻き返しと、近いうちに大関に昇進することを期待しています。ただ、来場所13勝以上で優勝し、内容がよければ、来場所後に熱海富士関が大関に昇進しても不思議ではないように思います。<br /><br />　藤ノ川関は11勝4敗として、大関昇進の起点を作りましたが、正直なところ、他の力士による研究が進めば、大関昇進は容易ではないように思います。上述のように、近年では以前よりも八百長が激減しているのだとしたら、大関に昇進できるだけの成績を残すのはなかなか難しいように思います。その意味で、大関昇進、さらには横綱昇進の基準も変えていくべきなのでしょうが、相撲協会も報道陣も愛好者も保守的な傾向が強そうですから、どうしても以前の基準で考えてしまうのでしょうか。そもそも、八百長が激減している状況で、1場所15日で1年6場所は多すぎるように思いますが、これは大関と横綱の昇進基準以上に変えるのが難しそうです。<a name="more"></a>

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            <category>相撲</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202609article_27.html</link>
      <title>過去12000年間のアジア東部南西の人口史</title>
      <pubDate>Sun, 27 Sep 2026 09:15:43 +0900</pubDate>
            <description>　古代ゲノムデータに基づく過去12000年間のアジア東部南西の人口史に関する研究（Bai et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。また、本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン（大清帝国、清王朝）の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。　本論文は、現在の中華人民共和国貴州省の遺跡..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　古代ゲノムデータに基づく過去12000年間のアジア東部南西の人口史に関する<a href="https://doi.org/10.1093/nsr/nwag398">研究</a>（Bai et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。また、本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン（大清帝国、清王朝）の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。

　本論文は、現在の中華人民共和国貴州省の遺跡で発見された人類遺骸の新たなゲノムデータを報告し、既知の古代人および現代人のゲノムデータと統合することで、アジア東部南西の過去12000年間の人口史を検証しています。アジア東部南西の人類集団には末期更新世～新石器時代まで、アジア東部現代人の主要な遺伝的祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）と深い分岐関係にある、基底部アジア東部祖先系統の影響が残っていましたが、この祖先系統はアジア東部南西に置いて青銅器時代までに消滅しました。1200年前頃以降、この地域で人類集団間の遺伝的相互作用が活発化し、それは語族のパターンに従っていました。

　本論文で注目されるのは、すでに更新世末期に、黄河流域の新石器時代集団に見られるアジア東部北方的な祖先系統が、アジア東部南西に存在していた、と示されたことです。本論文では、これが更新世末期におけるアジア東部の北方らか南方への人口移動を示唆していた考古学的研究と整合的かもしれない、と指摘されています。このアジア東部北方的な祖先系統がどのように末期更新世までにアジア東部南西に出現したのか、まだ不明ですが、更新世～完新世にかけてのユーラシア東部の複雑な人口史が窺えます。本論文は、ユーラシア東部、とくにその南方において少ない更新世人類のゲノムデータを新たに報告した点で、ユーラシア東部の人口史の解明に大きく寄与していると思います。日本列島の人口史の解明が、ユーラシア東部の動向と関連づけられ、解明されていくことが期待されます。

　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、SNP（Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、km（kilometre、kilometer、キロメートル）、K（kilo years ago、千年前）、AR（Amur River、アムール川）です。以下の時代区分の略称は、P（Paleolithic、旧石器時代）、N（Neolithic、新石器時代）、EN（Early Neolithic、前期新石器時代）、LN（Late Neolithic、後期新石器時代）、BA（Bronze Age、青銅器時代）、H（historical era、歴史時代）です。本論文で取り上げられる主要な文化は、ホアビニアン（Hòabìnhian、ホアビン文化）です。

　本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国貴州省の遺跡は、牛坡洞（Niupodong）遺跡、大洞（Dadong）遺跡、招果（Zhaoguo）洞遺跡、穿洞（Chuandong）遺跡、棺材洞（Guancaidong）遺跡、仙人橋（Xianrenqiao）遺跡、甘掌（Ganzhang）遺跡（漢字表記は間違っているかもしれません）、果里村（Guolicun）遺跡、猫猫洞（Maomaodong）遺跡、ツァオハイ（Caohai）遺跡、松山（Songshan）遺跡です。

　本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国広西壮族（チワン族）自治区（以下、広西）の遺跡は、隆林洞窟（Longlin Cave）、田東（Tiandong）県の林逢（Linfeng）鎮の独山洞窟（Dushan Cave）、宝剣山（Baojianshan）洞窟、高峰（Gaofeng）遺跡と花橋（Huaqiao）遺跡と化図岩（Huatuyan）遺跡（高峰遺跡と花橋遺跡と化図岩遺跡の人類集団はGaoHuaHuaと呼ばれます）、バロン（Balong）遺跡とバンダ（Banda）遺跡とキンチャン（Qinchang）遺跡と岑遜（Cenxun）遺跡（バロン遺跡とバンダ遺跡とキンチャン遺跡と岑遜遺跡の千年紀半ばの古代人はBaBanQinCen集団と呼ばれます）、ラセン（Lacen）遺跡です。

　本論文で取り上げられる貴州省と広西以外の主要な中華人民共和国の遺跡は、北京市の南西56kmに位置する田園洞（Tianyuan Cave）、雲南省では対子（Duizi）遺跡と玉渓（Yuxi）市の通海（Tonghai）県の興義（Xingyi）遺跡と玉渓市の澄江県の雪山（Xueshan）遺跡および金蓮山（Jinlianshan）遺跡と臘甸（Ladian）遺跡、山東省では博山（Boshan）遺跡と扁扁（Bianbian）遺跡、福建省では奇和洞（Qihe Cave）遺跡、安徽省では馬鞍山（Ma’anshan）市の和県（Hexian）です。本論文で取り上げられる中国以外の主要な遺跡は、チベット高原のゾングリ（Zongri）遺跡です。


●要約

　アジア東部南方とアジア南東部とチベット高原を結ぶ重要な交差点であるアジア東部南西は、初期のヒトの移住に関する研究にとって重要な地域です。しかし、この地域の東部、とくに貴州省における古代DNA研究は依然として不足しています。本論文は、12000年間にわたる期間の貴州人口集団の最初のゲノム研究を提示し、その中には1万年以上前の貴州の5個体が含まれます。刊行されている貴州省および雲南省の標本と組み合わせると、旧石器時代から前期新石器時代までのアジア東部南西におけるヒト集団の複雑な遺伝的歴史が明らかになります。旧石器時代の人口集団は、最近報告された基底部アジア東部興義_EN祖先系統とアジア東部北方に存在する祖先系統その混合のパターンの異質な分布によって特徴づけられました。青銅器時代までに、この謎めいた基底部祖先系統はもはやこの地域では検出されなくなりました。1200年前頃以降、貴州と広西の人口集団間の遺伝的相互作用は、言語固有のパターンにしたがって活発化しました。全体的に本論文の結果は、過去12000年間にわたるアジア東部南西の複雑な人口動態を明らかにします。


●研究史

　アジア東部南西には、現在の中国の雲南省と貴州省と広西が含まれます。アジア東部低地とチベット高原とアジア南東部を結ぶ重要な回廊として、アジア東部南西は初期アジア人口集団の移動と相互作用に重要な役割を果たしてきました［1］。最近のゲノム研究が報告した雲南中央部の7000年前頃の興義個体は、「失われた」深く分岐した基底部アジア東部系統に属しており、アジア東部北方の40000～33000年前頃の田園祖先系統や、アジア南東部における8000～4000年前頃のホアビン文化関連祖先系統とは異なります［1、5～7］。これら深い祖先系統はアジア東部人口集団の南北の祖先系統への文化の前に分岐した、と分かりました［8～10］。これらの研究は、アジアの人口集団の初期の分岐の解明のため、アジア東部南西の古代ゲノム研究の重要性を強調しました。しかし、この地域の東部、とくに現在の貴州省では、旧石器時代と前期新石器時代の遺伝的データの利用可能性に大きな空白が依然としてあります。

　旧石器時代から新石器時代への移行は、古代人の社会の発展における重要な転換点を表しており、それは、新たな生計慣行の導入には人口の移動および置換を伴うことが多かったからです［6、11～15］。遺伝的多様性の維持、および基底部アジア東部系統の残存がこの過程を通じて存続したのかどうかは、アジア東部南方人の人口史の理解において重要な問題です。先行研究では、この地域の西部において、後期新石器時代から青銅器時代の雲南人口集団は、現在のオーストロアジア語族話者の祖先およびアジア東部北方古代人と関連する遺伝的構成要素を有しており、より在来的な興義関連基底部アジア東部祖先系統を置換した、と示されました［5］。近隣の広西地域の対応する古代ゲノムデータの不足と、南東部沿岸の福建地域における興義関連祖先系統の欠如［16、17］を考えると、この期間における基底部アジア東部系統の存続や、南北両方からのより新しい新石器時代アジア東部祖先系統との相互作用は、依然としてよく分かっていません。貴州地域の後期新石器時代人口集団に焦点を当てる古代ゲノム研究は、これらの問題に重要な知見を提供できます。

　現在のアジア東部南西は、アジア東部における最高水準の民族多様性の地域で、クラ・ダイ語族やミャオ・ヤオ（モン・ミエン）語族を話す人口集団を含めて、多くの少数民族が存在します。遺伝的つながりが、これらの語族集団と1500～500年前頃の広西の人口集団との間で論証されました［16］。貴州と広西の歴史時代の少数人口集団間の遺伝的関係の調査は、現在のアジア東部南西の民族集団の相互作用と移住の歴史に関する理解を深めるでしょう。

　現在の知識におけるこれらの間隙に取り組むために、旧石器時代から歴史時代までの貴州省の8ヶ所の考古学的遺跡で発見された36個体から、標本が得られました。本研究の目的は、旧石器時代アジア東部南西人の遺伝的特徴、新石器文化の確立期における人口動態、この地域の現在の遺伝的および民族的多様性につながる機序への、役立つ科学的知見の提供です。


●DNA解析

　アジア東部南西の貴州地域の36個体から、120万ヶ所の祖先系統の情報をもたらす部位から構成される、ゲノム規模SNPデータの取得が試みられました。放射性炭素年代測定によって、これらの遺骸は較正年代で12000～300年前頃（基準は紀元後1950年）に位置づけられました（図1）。すべての結果は、内在性由来を示唆する、典型的な古代DNA損傷特性［19］を示しました。不充分なSNP数（15000ヶ所未満）の標本の除外後に、全標本について現代のミトコンドリア汚染水準、男性についてX染色体の汚染率が推定されました。5%以上の標本については、古代DNA損傷の兆候があるDNA断片のみ、分析に用いられました。選別後の汚染推定値が依然として5%以上か、残っているSNP数が15000ヶ所未満の場合、標本は除外されました。次に、残りの標本の各組み合わせ間で親族関係の程度が評価され、密接に関連する2個体（2親等の親族関係）と遺伝的に同一の標本2点（同じ個体）が見つかりました。これらの各組み合わせについて、人口集団分析に含めるために、最も多い数のSNP数の標本が選択されました。以下は本論文の図1です。
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　品質および親族関係の選別後に、120万対象SNPの17999～877796ヶ所のSNP数を有する、親族関係にない28個体が維持されました。古代貴州人口集団の周辺のアジア東部人との遺伝的関係を調べるために、新たに配列決定されたデータが、古代のアジア東部の南北とアジア南東部と近隣のユーラシアの刊行されている人口集団と統合されました。


●旧石器時代から前期新石器時代までのアジア東部南西人の遺伝的特性

　選別を通過した新たに配列決定された28個体のうち5個体の年代は1万年以上前で、貴州省の重要な旧石器時代遺跡が網羅されており、招果と牛坡洞と大洞が含まれます。これらの新たなデータによって、1万年以上前のアジア東部南方の旧石器時代のゲノムの数は3倍となります（図1）。これらのデータが、アジア東部南西の刊行されている旧石器時代から前期新石器時代人口集団と統合され、包括的なゲノムデータセットが作成されました。

　アジア東部南西の初期人口集団の遺伝的特徴を調べるために、現在のアジア人口集団を用いて計算された主成分空間に、アジア東部南西の初期人口集団が投影されました。旧石器時代貴州の5個体はPCAでは別のクラスタ（まとまり）を形成し、検証対象の2人口集団間の共有されている遺伝的浮動の量を測定する外群f3統計では、旧石器時代貴州の5個体は類似した祖先系統を共有していた、と論証されました（図2）。これをさらに検証し、これら旧石器時代貴州標本がどのくらい深く分岐しているのか、調べるために、D統計を用いて、旧石器時代貴州個体が新石器時代および基底部アジア東部系統と比較されました。田園個体およびホアビニアン個体（La368によって粗さ割れます）と比較して、旧石器時代貴州標本は新石器時代アジア東部人とより多くのアレル（対立遺伝子）を共有しており、D（アジア東部新石器時代個体、田園/AR33K/ホアビニアン個体；招果M1/招果M2/牛坡洞M9/大洞、ムブティ人）ではZ = 2.1–11.4です。しかし、周辺地域に局在する、最近報告された基底部アジア東部祖先系統の興義_ENと比較すると、大洞遺跡個体を除いて旧石器時代貴州個体群はほぼすべての事例で、この深く分岐した基底部祖先系統とは、新石器時代アジア東部人に対してと同様に遺伝的に等距離でした。以下は本論文の図2です。
<a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB32.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB32.jpeg" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="470" /></a>
　全体的に、旧石器時代貴州個体群は、新石器時代アジア東部の北方もしくは南方のいずれかと遺伝的類似性の有意なパターンを示さず、より被覆度の高い招果M1および招果M2によって表される旧石器時代貴州個体は、ゾングリ5.1Kを除くほぼ全ての他のアジア東部古代人よりも、興義_ENと多くの遺伝的浮動を共有しており、D(招果M1/招果M2、ゾングリ5.1Kと隆林洞窟個体以外のアジア東部古代人;興義_EN、ムブティ人)ではZ = 2.3–9.5です。このパターンが予測されたのは、ゾングリ5.1Kと隆林洞窟個体の両方が興義_EN関連祖先系統を含んでいる、と示されたからです［5］。これらの結果から、旧石器時代貴州標本は、アジア東部の南北の人口集団の分離より早くに分岐した、興義_EN祖先系統をある程度含んでいた、と示唆されます。

　貴州省の11000年前頃の隆林個体は、深く分岐したアジア東部祖先系統を有する別の旧石器時代個体で、基底部アジア東部の興義_EN関連祖先系統と、新石器時代アジア東部南方祖先系統の混合と分かりました［5］。隆林個体も基底部の田園個体およびホアビニアン個体とよりも、新石器時代アジア東部人の方と多くのアレルを共有していますが、旧石器時代貴州標本と同様に、興義_ENおよび新石器時代アジア東部人と同等に密接です［16］。田園個体およびホアビニアン個体の基底部アジア東部祖先系統と比較すると、隆林個体と旧石器時代貴州個体群は両方とも相互と遺伝的により類似しており、興義_EN祖先系統では区別できません（図3A）。最尤系統樹でも、招果M1個体は隆林個体および興義_ENと同様に、新石器時代の南北のアジア東部人に対して外群として機能する、と示されました。これらの結果から、旧石器時代貴州標本は隆林個体で見られる同じ基底部アジア東部興義_EN関連祖先系統を共有している、と示唆されます。以下は本論文の図3です。
<a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB33.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB33.jpeg" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="475" /></a>
　新石器時代の南北のアジア東部人に対する旧石器時代貴州標本と隆林個体との間の遺伝的差異をさらに評価するために、D統計が実行された結果、旧石器時代貴州標本、とくにSNP数が最も多い11000年前頃の招果M1は、隆林個体よりも、山東半島沿岸部と黄河内陸部地域の両方の新石器時代人口集団で見られる祖先系統と類似した祖先系統を有意に多く有していた、と示されます（図3B）。独山洞窟および宝剣山洞窟の9000～6000年前頃の広西人口集団はそれぞれ、隆林個体的祖先系統と南方の福建沿岸祖先系統、独山個体的祖先系統とホアビニアン個体関連祖先系統の混合でしたが、旧石器時代貴州標本では、福建もしくはホアビニアン関連祖先系統のいずれかの有意な兆候は見つかりませんでした（図3A・B）。混合図分析でも、招果M1個体は興義_EN関連祖先系統と、隆林個体には存在しない古代の広範なアジア東部北方祖先系統との間の混合としてモデル化できる、と示されました。招果M1へのアジア東部北方からの影響は、最尤系統樹でも裏づけられました。隆林個体を供給源として含めると、招果M1は、隆林個体および追加の約11.5～13.4%のアジア東部北方祖先系統（たとえば、博山遺跡や扁扁遺跡の個体）としてモデル化できます（図4）。以下は本論文の図4です。
<a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB34.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB34.jpeg" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="180" /></a>
　まとめると、本論文の結果は、1万年以上前の旧石器時代アジア東部南西における複雑な遺伝的景観と、雲南中央部の興義_EN個体群によって表される「失われた」基底部アジア東部祖先系統が、この地域に広く分布していたことを明らかにします。この期間には、貴州および広西の旧石器時代人口集団は興義_EN関連の基底部アジア東部祖先系統と新石器時代アジア東部の南方もしくは北方祖先系統の混合で（基底部アジア東部集団と新石器時代のアジア東部の南北の集団を表すのに用いられた人口集団については、図2Aを参照）、そのうち、貴州標本ではアジア東部北方祖先系統の割合がより高く、広西標本にはアジア東部南方祖先系統の割合がより高く存在しました。この期間以後、沿岸部福建人口集団とアジア南東部のホアビニアンシミの祖先系統は広西地域へと拡大しましたが［16］、貴州のさらに内陸部では見つかりませんでした。


●青銅器時代までにアジア東部南西から基底部アジア東部祖先系統は消滅します

　基底部アジア東部の興義_EN祖先系統が後期新石器時代および青銅器時代まで貴州で特定されるのかどうか、調べるために、穿洞遺跡の4000～2000年前頃の層から発掘された4個体が配列決定されました。これらの標本は、雲南以外のアジア東部南西における後期新石器時代と歴史時代の間に存在した時間的空白を埋めます。PCA図において（図2A）、穿洞遺跡個体群は、旧石器時代貴州標本とよりも、山東もしくは黄河地域の集団など、新石器時代アジア東部北方人口集団の方と近くでクラスタ化しました（まとまりました）。穿洞遺跡の4個体のうち3個体のSNP数は25000ヶ所未満なので、すべての穿洞遺跡標本は統計的検出力を向上させるために単一の集団へ統合されました。

　青銅器時代貴州地域における基底部アジア東部祖先系統の存在を調べるために、D統計を用いて、興義_ENと穿洞遺跡個体群との間でアレル共有が計算されました。その結果、青銅器時代穿洞群は、他のアジア東部古代人よりも興義_ENと多くのアレルを共有していたわけではない、と分かり、これはその後の歴史時代の貴州人口集団でも一貫していました。興義_EN祖先系統が青銅器時代アジア東部南西人に寄与したのかどうか、検証するために、穿洞遺跡人口集団や雲南および福建の他の後期新石器時代～青銅器時代の人口集団がqpAdmモデル化で標的集団として選定され、興義_EN人口集団がこれら標的人口集団の祖先供給源として機能できるのかどうか、評価されました。その結果、基底部アジア東部興義_EN関連祖先系統のごく低い割合が雲南西部の2000年前頃の対子遺跡人口集団に存在したものの（約10.8%）、穿洞遺跡を含めて他の標的人口集団には存在しなかった、と示されました。興義_ENはqpAdm分析でその後の青銅器時代の貴州もしくは雲南人口集団の妥当な供給源としてモデル化できないので、興義_EN祖先系統はこの期間までに既知のアジア東部南西人口集団から消滅した、と提案されます。

　穿洞遺跡人口集団は、興義_LN祖先系統の1方向でモデル化できました（図4）。最初に後期新石器時代雲南個体で特定された興義_LN祖先系統は地域的な系統で、興義_ENとは連続しておらず、以前に報告されたアジア東部の南北の祖先系統勾配とは異なります。雲南地域では、興義_LNは後期新石器時代までに、それ以前の在来の興義_EN関連の基底部アジア東部祖先系統を置換し、現在のオーストロアジア語族話者の祖先と関連している、と提案されています［5］。qpAdmの結果に基づき、4000～2000年前頃の穿洞遺跡個体群の考古学的背景がおおむね信頼できると仮定すると、同様の祖先系統の置換は青銅器時代の開始の頃もしくはその前に貴州地域でも起きていた（3100～3000年前頃）、と主張されます。この仮説をさらに検証するために、穿洞遺跡人口集団と旧石器時代貴州人口集団との間の遺伝的差異が評価されました。全体的に、穿洞遺跡人口集団は旧石器時代貴州人口集団とよりも、広西地域外の新石器時代アジア東部人口集団と多くのアレルを共有していました（図3C）。さらに、穿洞遺跡人口集団を他の新石器時代アジア東部人口集団と比較すると、旧石器時代貴州人口集団との類似性は検出されず、D(アジア東部古代人、穿洞個体;貴州_P、ムブティ人)では−2.2 &lt; Z &lt; 2.8でした。これらの全ての結果は、4000年前頃以前に起きた、貴州における以前の在来の興義_EN関連基底部アジア東部祖先系統の置換を裏づけます。

　しかし、本論文の結果は、特定の祖先人口集団がこれらの遺伝的変化を引き起こしたのか、判断するには不充分でした。雲南中央部の興義_LN人口集団は穿洞遺跡人口集団の1方向の妥当な供給源でしたが、興義_LN人口集団と興義_BAや雪山遺跡や金蓮山遺跡の人口集団など他の雲南中央部人口集団は、黄河および山東地域の新石器時代アジア東部北方人やアジア東部南方の一部の福建人口集団と類似したD統計値を示しました（図3C）。穿洞遺跡人口集団と雲南中央部人口集団と新石器時代アジア東部人口集団の間の遺伝的関係はD統計によって解決できず、D(興義_LN、古代黄河/山東/福建;穿洞、ムブティ人)では−1.9 &lt; Z &lt; 2.4、D(興義_LN、穿洞;古代黄河/山東/福建、ムブティ人)では−3.3 &lt; Z &lt; 1.2、D(古代黄河/山東/福建、穿洞;興義_LN、ムブティ人)では−2.5 &lt; Z &lt; −0.1です。これらの結果は、穿洞遺跡人口集団と興義_LNがクレード（単系統群）であることも、穿洞遺跡人口集団が興義_LNと新石器時代の黄河もしくは山東もしくは福建人口集団の混合であることも裏づけていません。検証対象の新石器時代アジア東部人では、雲南西部の臘甸遺跡人口集団はD(興義_LN、古代黄河/山東/福建;穿洞、ムブティ人)検定で最大量の祖先系統を共有していました。雲南西部人口集団も雲南中央部祖先系統人口集団とアジア東部北方の人口集団との間の混合でしたが、穿洞遺跡人口集団と雲南西部人口集団との間の遺伝的類似性が、直接的なつながり、もしくは雲南中央部およびアジア東部北方人口集団からの共通の遺伝子流動を反映しているのかどうかは、判断できません。

　全体的に本論文の結果から、基底部アジア東部興義_EN遺伝的構成要素は、青銅器時代までにアジア東部南西では消滅した、と示唆されます。しかし、現時点のデータは、この置換を引き起こした特定の供給源人口集団を特定できていません。近隣の雲南地域もしくはより遠いアジア東部北方の供給源からの遺伝子流動が、妥当な説明を表しています。


●歴史時代の貴州および広西人口集団の遺伝的類似性

　1100～300年前頃の標本抽出によって、次に歴史時代における貴州人口集団の遺伝的特徴が調べられました。PCA図では、歴史時代の貴州人口集団は同様の期間、とくに広西の500年前頃のGaoHuaHua人口集団と重なっていました（図2A）。外群f3視覚図では、歴史時代の貴州人口集団とGaoHuaHuaはともにまとまりました（図2B）。D統計を用いてのこの遺伝的関係の統計的評価では、歴史時代の広西人口集団は他の古代のアジア東部の南北の個体群よりも歴史時代の奇襲人口集団とより近く、qpAdmモデル化も歴史時代の貴州人口集団と広西人口集団の祖先系統共有を裏づける、と示されました（図4）。

　記録および碑文によると、棺材洞遺跡や仙人橋遺跡や甘掌遺跡や果里村遺跡を含めて貴州地域の洞窟埋葬は、ミャオ・ヤオ人の祖先に属していました。先行研究では、広西の洞窟埋葬人口集団では、GaoHuaHua人口集団によって表されるミャオ・ヤオ（モン・ミエン）語族話者と関連する個体群は、チワン語（タイ・カダイ語族）話者（たとえば、BaBanQinCen人口集団やラセン遺跡人口集団）と関連する人々とは顕著な遺伝的分化を示しており、少なくとも500年前頃までの大きな人口構造が示唆される、と示されました［16］。新たに配列決定された貴州の歴史時代の個体群をD統計でこれら広西人口集団と比較することによって、貴州の歴史時代の洞窟埋葬人口集団は他の歴史時代の広西遺跡標本（たとえば、BaBanQinCen集団やラセン遺跡集団）や他のアジア東部標本とよりもGaoHuaHuaの方と密接にまとまっている、と分かり、D(臘甸、新石器時代アジア東部人;GaoHuaHua、ムブティ人)では −26.9 &lt; Z &lt; −4.4、D(アジア東部古代人、GaoHuaHua;貴州_H、ムブティ人)では−25.0 &lt; Z &lt; −4.2、D(GaoHuaHua、州_H;アジア東部古代人、ムブティ人)では−1.4 &lt; Z &lt; 4.1です（図5A）。まとめると、ミャオ・ヤオ祖先系統を有する貴州および広西の歴史時代の人口集団は、近隣のチワン語話者関連人口集団とよりも相互の方と密接な遺伝的類似性を示し、ミャオ・ヤオ語族集団とチワン語集団との間の遺伝的分化が少なくとも500年前頃にはすでに確立していた、との結論がさらに裏づけられます。以下は本論文の図5です。
<a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB35.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB35.jpeg" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="332" /></a>
　歴史時代の貴州人口集団の遺伝的特徴を形成した移動事象をさらに調べるために、歴史時代の貴州人口集団が新石器時代の穿洞遺跡人口集団と比較されました。その結果、後期新石器時代および青銅器時代に見られるように、アジア東部北方祖先系統の影響は歴史時代の貴州人口集団にも見られる、と分かりました（図5B）。さまざまな地域の新石器時代アジア東部北方人口集団のうち、新石器時代黄河祖先系統が歴史時代の貴州人口集団とアレル共有の最も顕著な兆候を有しており、新石器時代黄河祖先系統がこの期間の遺伝子流動の可能性が高い祖先系統供給源だった、と示唆されます。さらに、歴史時代の貴州人口集団は、地理的に貴州に隣接する、9000年前頃の広西の独山洞窟個体とも遺伝的類似性を示しました（図5B）。全体的に、アジア東部北方人とより在来的な人口集団の二重の影響下で、貴州および広西人口集団の遺伝的組成は歴史時代には次第に収束しました。


●考察

　本研究は、過去12000年間にわたるアジア東部南西の貴州地域の遺伝的な人口史を調べました。その結果、旧石器時代から前期新石器時代のアジア東部南西人口集団には複雑な遺伝的特性があった、と示されました。貴州も同時代の広西および雲南地域と同様に、旧石器時代には在来の基底部アジア東部興義_EN祖先系統を示し、アジア東部北方との有意により強い遺伝的類似性がありました。後期新石器時代および青銅器時代（4000～2000年前頃）には、雲南中央部およびアジア東部北方祖先系統はアジア東部南西に影響を及ぼし続け、基底部アジア東部の興義_EN祖先系統は、青銅器時代までにはアジア東部南西でもはや検出できなくなります。歴史時代（1100～300年前頃）における新石器時代広西および沿岸部福建関連人口集団からの追加の遺伝子流動は、貴州と広西の人口集団間の遺伝的均質化に寄与しました。

　以前には、アジア東部南方から得られた1万年以上前のゲノムデータは、おもに基底部の興義_EN祖先系統と沿岸部福建人口集団と類似した遺伝的構成要素を有していた11000年前頃の隆林洞窟の1個体と、沿岸部福建の12000年前頃の奇和洞3号のみでした［5、16］。本研究は、1万年以上前の貴州の3ヶ所の航行学的遺跡の5個体から得られたゲノム規模データを提供し、新石器時代の前のアジア東部南方の遺伝的記録を大きく拡張します。北方的な遺伝的構成要素は以前には、8300年前頃に福建沿岸地域に出現し始めた、と報告されましたが［17］、貴州の新たに配列決定された旧石器時代のゲノムデータは今や、11000年前頃以前のアジア東部南西内におけるアジア東部北方祖先系統の地域的に異質な分布パターンの証拠を提供し、これは提唱されている農耕関連のシナ・チベット語族話者人口集団の拡大に先行します［25、26］。

　まとめると、これらの調査結果から、アジア東部の北方から南方への遺伝子流動は以前に報告されていたよりも前に起きたか、アジア東部北方人口集団と関連する系統が旧石器時代にアジア東部南西に存在していた、と示唆されます。更新世末には、貴州の石器インダストリーはおもに2種類に区分され、それは打撃技法によって特徴づけられる猫猫洞様式と、「小型剥片石器」によって区別される馬鞍山様式です。貴州における小型剥片石器伝統の発見は、南方への北方採食民の移動と関連している、と考えられましたが、代替的な仮説では、この技術の在来起源が提唱されました。本論文の新たな遺伝学的結果から、招果遺跡や大洞遺跡など小型剥片石器伝統と関連する古代の個体群は、アジア東部北方人と関連する遺伝的構成要素を有している、と明らかになります。これらの調査結果から、旧石器時代の貴州における小型剥片石器伝統は北方集団によってもたらされた、との仮説を裏づける遺伝学的証拠が初めて提供されます。

　貴州地域は広大なカルスト地形によって特徴づけられます。この山がちな環境は、外部の人口集団の流入には地理的障壁として機能した可能性が高そうで、農耕に適した土地が限られていることによって、新石器時代農耕集団にとってさほど魅力的ではなかったかもしれません。考古学的証拠は、新石器時代の貴州において同時代の雲南地域よりも農耕慣行がさほど発達していなかったことを示唆しています。しかし、外部からの人口統計学的影響を制約するかもしれない山がちな地形にも関わらず、基底部アジア東部の興義_EN祖先系統は青銅器時代まで存続せず、この地域における後期新石器時代から青銅器時代への移行は顕著な人口変化によって特徴づけられていた、と示唆されます。

　少なくとも1100年前頃以降、貴州地域と近隣の広西地域の古代の人口集団間の遺伝的相互作用が活発化し、沿岸部福建人口集団関連祖先系統が貴州で出現し始めました。歴史的記録から、北宋王朝末に向かって、宋政府は貴州を広西および大理王国との馬交易の中継拠点として使い始めた、と示されています。貴州および広西における馬交易は、これら2地域間の人口集団の移動と相互作用を促進した可能性が高そうです。貴州の松山遺跡の漢文化集団は、おもに黄河関連祖先系統を有していたものの、同時代の広西人口集団とは異なっていました［37、38］。対照的に、貴州の新たに配列決定されたミャオ・ヤオ人の動埋葬人口集団は、広西のチワン人の洞窟埋葬人口集団ではなく、歴史時代のミャオ・ヤオ人とまとまりました。これらのパターンから、モン・ミエン語族話者（ミャオ・ヤオ人）とクラ・ダイ語族話者（チワン人）の間の遺伝的分離は、貴州と広西の人口集団で維持されていた、と示唆されました。アジア南東部現代人の遺伝学的研究は、地理的孤立が異なる言語集団間の遺伝的分化の主因と示唆しましたが、本論文の新たな結果から、言語と分化の差異もアジア東部南西の歴史時代人口集団の遺伝的階層化の形成に大きな役割を果たしたかもしれない、と示唆されました。


●まとめ

　全体的に、本研究は過去12000年間にわたる貴州における古代人口集団の遺伝的歴史を調べ、いくつかの重要な問題に新たな知見を提供します。本論文の調査結果は、早くも12000年前頃にアジア東部南西において、アジア東部北方祖先系統と基底部アジア東部の興義_EN系統が共存していたことを明らかにします。本論文はさらに、貴州の小型剥片石器伝統を北方狩猟採集民の南方への移動と結びつける、最初の遺伝学的証拠を提供します。青銅器時代（4000～2000年前頃）までに、興義_EN関連祖先系統はアジア東部南西では置換され、もはや検出できなくなりました。歴史時代には、貴州人口集団と広西人口集団との間の相互作用が活発化したものの、言語特有の帰属によって依然として制約されており、ミャオ・ヤオ人集団とチワン人集団との間の遺伝的差異は、少なくとも500年前頃以降、この地域にはすでに存在していました。


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      <content:encoded><![CDATA[
　古代ゲノムデータに基づく過去12000年間のアジア東部南西の人口史に関する<a href="https://doi.org/10.1093/nsr/nwag398"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Bai et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。また、本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン（大清帝国、清王朝）の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。<br /><br />　本論文は、現在の中華人民共和国貴州省の遺跡で発見された人類遺骸の新たなゲノムデータを報告し、既知の古代人および現代人のゲノムデータと統合することで、アジア東部南西の過去12000年間の人口史を検証しています。アジア東部南西の人類集団には末期更新世～新石器時代まで、アジア東部現代人の主要な遺伝的祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）と深い分岐関係にある、基底部アジア東部祖先系統の影響が残っていましたが、この祖先系統はアジア東部南西に置いて青銅器時代までに消滅しました。1200年前頃以降、この地域で人類集団間の遺伝的相互作用が活発化し、それは語族のパターンに従っていました。<br /><br />　本論文で注目されるのは、すでに更新世末期に、黄河流域の新石器時代集団に見られるアジア東部北方的な祖先系統が、アジア東部南西に存在していた、と示されたことです。本論文では、これが更新世末期におけるアジア東部の北方らか南方への人口移動を示唆していた考古学的研究と整合的かもしれない、と指摘されています。このアジア東部北方的な祖先系統がどのように末期更新世までにアジア東部南西に出現したのか、まだ不明ですが、更新世～完新世にかけてのユーラシア東部の複雑な人口史が窺えます。本論文は、ユーラシア東部、とくにその南方において少ない更新世人類のゲノムデータを新たに報告した点で、ユーラシア東部の人口史の解明に大きく寄与していると思います。日本列島の人口史の解明が、ユーラシア東部の動向と関連づけられ、解明されていくことが期待されます。<br /><br />　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、SNP（Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、km（kilometre、kilometer、キロメートル）、K（kilo years ago、千年前）、AR（Amur River、アムール川）です。以下の時代区分の略称は、P（Paleolithic、旧石器時代）、N（Neolithic、新石器時代）、EN（Early Neolithic、前期新石器時代）、LN（Late Neolithic、後期新石器時代）、BA（Bronze Age、青銅器時代）、H（historical era、歴史時代）です。本論文で取り上げられる主要な文化は、ホアビニアン（Hòabìnhian、ホアビン文化）です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国貴州省の遺跡は、牛坡洞（Niupodong）遺跡、大洞（Dadong）遺跡、招果（Zhaoguo）洞遺跡、穿洞（Chuandong）遺跡、棺材洞（Guancaidong）遺跡、仙人橋（Xianrenqiao）遺跡、甘掌（Ganzhang）遺跡（漢字表記は間違っているかもしれません）、果里村（Guolicun）遺跡、猫猫洞（Maomaodong）遺跡、ツァオハイ（Caohai）遺跡、松山（Songshan）遺跡です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国広西壮族（チワン族）自治区（以下、広西）の遺跡は、隆林洞窟（Longlin Cave）、田東（Tiandong）県の林逢（Linfeng）鎮の独山洞窟（Dushan Cave）、宝剣山（Baojianshan）洞窟、高峰（Gaofeng）遺跡と花橋（Huaqiao）遺跡と化図岩（Huatuyan）遺跡（高峰遺跡と花橋遺跡と化図岩遺跡の人類集団はGaoHuaHuaと呼ばれます）、バロン（Balong）遺跡とバンダ（Banda）遺跡とキンチャン（Qinchang）遺跡と岑遜（Cenxun）遺跡（バロン遺跡とバンダ遺跡とキンチャン遺跡と岑遜遺跡の千年紀半ばの古代人はBaBanQinCen集団と呼ばれます）、ラセン（Lacen）遺跡です。<br /><br />　本論文で取り上げられる貴州省と広西以外の主要な中華人民共和国の遺跡は、北京市の南西56kmに位置する田園洞（Tianyuan Cave）、雲南省では対子（Duizi）遺跡と玉渓（Yuxi）市の通海（Tonghai）県の興義（Xingyi）遺跡と玉渓市の澄江県の雪山（Xueshan）遺跡および金蓮山（Jinlianshan）遺跡と臘甸（Ladian）遺跡、山東省では博山（Boshan）遺跡と扁扁（Bianbian）遺跡、福建省では奇和洞（Qihe Cave）遺跡、安徽省では馬鞍山（Ma’anshan）市の和県（Hexian）です。本論文で取り上げられる中国以外の主要な遺跡は、チベット高原のゾングリ（Zongri）遺跡です。<br /><br /><br /><strong>●要約</strong><br /><br />　アジア東部南方とアジア南東部とチベット高原を結ぶ重要な交差点であるアジア東部南西は、初期のヒトの移住に関する研究にとって重要な地域です。しかし、この地域の東部、とくに貴州省における古代DNA研究は依然として不足しています。本論文は、12000年間にわたる期間の貴州人口集団の最初のゲノム研究を提示し、その中には1万年以上前の貴州の5個体が含まれます。刊行されている貴州省および雲南省の標本と組み合わせると、旧石器時代から前期新石器時代までのアジア東部南西におけるヒト集団の複雑な遺伝的歴史が明らかになります。旧石器時代の人口集団は、最近報告された基底部アジア東部興義_EN祖先系統とアジア東部北方に存在する祖先系統その混合のパターンの異質な分布によって特徴づけられました。青銅器時代までに、この謎めいた基底部祖先系統はもはやこの地域では検出されなくなりました。1200年前頃以降、貴州と広西の人口集団間の遺伝的相互作用は、言語固有のパターンにしたがって活発化しました。全体的に本論文の結果は、過去12000年間にわたるアジア東部南西の複雑な人口動態を明らかにします。<br /><br /><br /><strong>●研究史</strong><br /><br />　アジア東部南西には、現在の中国の雲南省と貴州省と広西が含まれます。アジア東部低地とチベット高原とアジア南東部を結ぶ重要な回廊として、アジア東部南西は初期アジア人口集団の移動と相互作用に重要な役割を果たしてきました［1］。最近のゲノム研究が報告した雲南中央部の7000年前頃の興義個体は、「失われた」深く分岐した基底部アジア東部系統に属しており、アジア東部北方の40000～33000年前頃の田園祖先系統や、アジア南東部における8000～4000年前頃のホアビン文化関連祖先系統とは異なります［1、5～7］。これら深い祖先系統はアジア東部人口集団の南北の祖先系統への文化の前に分岐した、と分かりました［8～10］。これらの研究は、アジアの人口集団の初期の分岐の解明のため、アジア東部南西の古代ゲノム研究の重要性を強調しました。しかし、この地域の東部、とくに現在の貴州省では、旧石器時代と前期新石器時代の遺伝的データの利用可能性に大きな空白が依然としてあります。<br /><br />　旧石器時代から新石器時代への移行は、古代人の社会の発展における重要な転換点を表しており、それは、新たな生計慣行の導入には人口の移動および置換を伴うことが多かったからです［6、11～15］。遺伝的多様性の維持、および基底部アジア東部系統の残存がこの過程を通じて存続したのかどうかは、アジア東部南方人の人口史の理解において重要な問題です。先行研究では、この地域の西部において、後期新石器時代から青銅器時代の雲南人口集団は、現在のオーストロアジア語族話者の祖先およびアジア東部北方古代人と関連する遺伝的構成要素を有しており、より在来的な興義関連基底部アジア東部祖先系統を置換した、と示されました［5］。近隣の広西地域の対応する古代ゲノムデータの不足と、南東部沿岸の福建地域における興義関連祖先系統の欠如［16、17］を考えると、この期間における基底部アジア東部系統の存続や、南北両方からのより新しい新石器時代アジア東部祖先系統との相互作用は、依然としてよく分かっていません。貴州地域の後期新石器時代人口集団に焦点を当てる古代ゲノム研究は、これらの問題に重要な知見を提供できます。<br /><br />　現在のアジア東部南西は、アジア東部における最高水準の民族多様性の地域で、クラ・ダイ語族やミャオ・ヤオ（モン・ミエン）語族を話す人口集団を含めて、多くの少数民族が存在します。遺伝的つながりが、これらの語族集団と1500～500年前頃の広西の人口集団との間で論証されました［16］。貴州と広西の歴史時代の少数人口集団間の遺伝的関係の調査は、現在のアジア東部南西の民族集団の相互作用と移住の歴史に関する理解を深めるでしょう。<br /><br />　現在の知識におけるこれらの間隙に取り組むために、旧石器時代から歴史時代までの貴州省の8ヶ所の考古学的遺跡で発見された36個体から、標本が得られました。本研究の目的は、旧石器時代アジア東部南西人の遺伝的特徴、新石器文化の確立期における人口動態、この地域の現在の遺伝的および民族的多様性につながる機序への、役立つ科学的知見の提供です。<br /><br /><br /><strong>●DNA解析</strong><br /><br />　アジア東部南西の貴州地域の36個体から、120万ヶ所の祖先系統の情報をもたらす部位から構成される、ゲノム規模SNPデータの取得が試みられました。放射性炭素年代測定によって、これらの遺骸は較正年代で12000～300年前頃（基準は紀元後1950年）に位置づけられました（図1）。すべての結果は、内在性由来を示唆する、典型的な古代DNA損傷特性［19］を示しました。不充分なSNP数（15000ヶ所未満）の標本の除外後に、全標本について現代のミトコンドリア汚染水準、男性についてX染色体の汚染率が推定されました。5%以上の標本については、古代DNA損傷の兆候があるDNA断片のみ、分析に用いられました。選別後の汚染推定値が依然として5%以上か、残っているSNP数が15000ヶ所未満の場合、標本は除外されました。次に、残りの標本の各組み合わせ間で親族関係の程度が評価され、密接に関連する2個体（2親等の親族関係）と遺伝的に同一の標本2点（同じ個体）が見つかりました。これらの各組み合わせについて、人口集団分析に含めるために、最も多い数のSNP数の標本が選択されました。以下は本論文の図1です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB31.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB31.jpeg" alt="画像" width="365" height="445" class="up-image" title="図1" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB31.jpeg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　品質および親族関係の選別後に、120万対象SNPの17999～877796ヶ所のSNP数を有する、親族関係にない28個体が維持されました。古代貴州人口集団の周辺のアジア東部人との遺伝的関係を調べるために、新たに配列決定されたデータが、古代のアジア東部の南北とアジア南東部と近隣のユーラシアの刊行されている人口集団と統合されました。<br /><br /><br /><strong>●旧石器時代から前期新石器時代までのアジア東部南西人の遺伝的特性</strong><br /><br />　選別を通過した新たに配列決定された28個体のうち5個体の年代は1万年以上前で、貴州省の重要な旧石器時代遺跡が網羅されており、招果と牛坡洞と大洞が含まれます。これらの新たなデータによって、1万年以上前のアジア東部南方の旧石器時代のゲノムの数は3倍となります（図1）。これらのデータが、アジア東部南西の刊行されている旧石器時代から前期新石器時代人口集団と統合され、包括的なゲノムデータセットが作成されました。<br /><br />　アジア東部南西の初期人口集団の遺伝的特徴を調べるために、現在のアジア人口集団を用いて計算された主成分空間に、アジア東部南西の初期人口集団が投影されました。旧石器時代貴州の5個体はPCAでは別のクラスタ（まとまり）を形成し、検証対象の2人口集団間の共有されている遺伝的浮動の量を測定する外群f3統計では、旧石器時代貴州の5個体は類似した祖先系統を共有していた、と論証されました（図2）。これをさらに検証し、これら旧石器時代貴州標本がどのくらい深く分岐しているのか、調べるために、D統計を用いて、旧石器時代貴州個体が新石器時代および基底部アジア東部系統と比較されました。田園個体およびホアビニアン個体（La368によって粗さ割れます）と比較して、旧石器時代貴州標本は新石器時代アジア東部人とより多くのアレル（対立遺伝子）を共有しており、D（アジア東部新石器時代個体、田園/AR33K/ホアビニアン個体；招果M1/招果M2/牛坡洞M9/大洞、ムブティ人）ではZ = 2.1–11.4です。しかし、周辺地域に局在する、最近報告された基底部アジア東部祖先系統の興義_ENと比較すると、大洞遺跡個体を除いて旧石器時代貴州個体群はほぼすべての事例で、この深く分岐した基底部祖先系統とは、新石器時代アジア東部人に対してと同様に遺伝的に等距離でした。以下は本論文の図2です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB32.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB32.jpeg" alt="画像" width="365" height="470" class="up-image" title="図2" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB32.jpeg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　全体的に、旧石器時代貴州個体群は、新石器時代アジア東部の北方もしくは南方のいずれかと遺伝的類似性の有意なパターンを示さず、より被覆度の高い招果M1および招果M2によって表される旧石器時代貴州個体は、ゾングリ5.1Kを除くほぼ全ての他のアジア東部古代人よりも、興義_ENと多くの遺伝的浮動を共有しており、D(招果M1/招果M2、ゾングリ5.1Kと隆林洞窟個体以外のアジア東部古代人;興義_EN、ムブティ人)ではZ = 2.3–9.5です。このパターンが予測されたのは、ゾングリ5.1Kと隆林洞窟個体の両方が興義_EN関連祖先系統を含んでいる、と示されたからです［5］。これらの結果から、旧石器時代貴州標本は、アジア東部の南北の人口集団の分離より早くに分岐した、興義_EN祖先系統をある程度含んでいた、と示唆されます。<br /><br />　貴州省の11000年前頃の隆林個体は、深く分岐したアジア東部祖先系統を有する別の旧石器時代個体で、基底部アジア東部の興義_EN関連祖先系統と、新石器時代アジア東部南方祖先系統の混合と分かりました［5］。隆林個体も基底部の田園個体およびホアビニアン個体とよりも、新石器時代アジア東部人の方と多くのアレルを共有していますが、旧石器時代貴州標本と同様に、興義_ENおよび新石器時代アジア東部人と同等に密接です［16］。田園個体およびホアビニアン個体の基底部アジア東部祖先系統と比較すると、隆林個体と旧石器時代貴州個体群は両方とも相互と遺伝的により類似しており、興義_EN祖先系統では区別できません（図3A）。最尤系統樹でも、招果M1個体は隆林個体および興義_ENと同様に、新石器時代の南北のアジア東部人に対して外群として機能する、と示されました。これらの結果から、旧石器時代貴州標本は隆林個体で見られる同じ基底部アジア東部興義_EN関連祖先系統を共有している、と示唆されます。以下は本論文の図3です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB33.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB33.jpeg" alt="画像" width="365" height="475" class="up-image" title="図3" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB33.jpeg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　新石器時代の南北のアジア東部人に対する旧石器時代貴州標本と隆林個体との間の遺伝的差異をさらに評価するために、D統計が実行された結果、旧石器時代貴州標本、とくにSNP数が最も多い11000年前頃の招果M1は、隆林個体よりも、山東半島沿岸部と黄河内陸部地域の両方の新石器時代人口集団で見られる祖先系統と類似した祖先系統を有意に多く有していた、と示されます（図3B）。独山洞窟および宝剣山洞窟の9000～6000年前頃の広西人口集団はそれぞれ、隆林個体的祖先系統と南方の福建沿岸祖先系統、独山個体的祖先系統とホアビニアン個体関連祖先系統の混合でしたが、旧石器時代貴州標本では、福建もしくはホアビニアン関連祖先系統のいずれかの有意な兆候は見つかりませんでした（図3A・B）。混合図分析でも、招果M1個体は興義_EN関連祖先系統と、隆林個体には存在しない古代の広範なアジア東部北方祖先系統との間の混合としてモデル化できる、と示されました。招果M1へのアジア東部北方からの影響は、最尤系統樹でも裏づけられました。隆林個体を供給源として含めると、招果M1は、隆林個体および追加の約11.5～13.4%のアジア東部北方祖先系統（たとえば、博山遺跡や扁扁遺跡の個体）としてモデル化できます（図4）。以下は本論文の図4です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB34.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB34.jpeg" alt="画像" width="365" height="180" class="up-image" title="図4" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB34.jpeg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　まとめると、本論文の結果は、1万年以上前の旧石器時代アジア東部南西における複雑な遺伝的景観と、雲南中央部の興義_EN個体群によって表される「失われた」基底部アジア東部祖先系統が、この地域に広く分布していたことを明らかにします。この期間には、貴州および広西の旧石器時代人口集団は興義_EN関連の基底部アジア東部祖先系統と新石器時代アジア東部の南方もしくは北方祖先系統の混合で（基底部アジア東部集団と新石器時代のアジア東部の南北の集団を表すのに用いられた人口集団については、図2Aを参照）、そのうち、貴州標本ではアジア東部北方祖先系統の割合がより高く、広西標本にはアジア東部南方祖先系統の割合がより高く存在しました。この期間以後、沿岸部福建人口集団とアジア南東部のホアビニアンシミの祖先系統は広西地域へと拡大しましたが［16］、貴州のさらに内陸部では見つかりませんでした。<br /><br /><br /><strong>●青銅器時代までにアジア東部南西から基底部アジア東部祖先系統は消滅します</strong><br /><br />　基底部アジア東部の興義_EN祖先系統が後期新石器時代および青銅器時代まで貴州で特定されるのかどうか、調べるために、穿洞遺跡の4000～2000年前頃の層から発掘された4個体が配列決定されました。これらの標本は、雲南以外のアジア東部南西における後期新石器時代と歴史時代の間に存在した時間的空白を埋めます。PCA図において（図2A）、穿洞遺跡個体群は、旧石器時代貴州標本とよりも、山東もしくは黄河地域の集団など、新石器時代アジア東部北方人口集団の方と近くでクラスタ化しました（まとまりました）。穿洞遺跡の4個体のうち3個体のSNP数は25000ヶ所未満なので、すべての穿洞遺跡標本は統計的検出力を向上させるために単一の集団へ統合されました。<br /><br />　青銅器時代貴州地域における基底部アジア東部祖先系統の存在を調べるために、D統計を用いて、興義_ENと穿洞遺跡個体群との間でアレル共有が計算されました。その結果、青銅器時代穿洞群は、他のアジア東部古代人よりも興義_ENと多くのアレルを共有していたわけではない、と分かり、これはその後の歴史時代の貴州人口集団でも一貫していました。興義_EN祖先系統が青銅器時代アジア東部南西人に寄与したのかどうか、検証するために、穿洞遺跡人口集団や雲南および福建の他の後期新石器時代～青銅器時代の人口集団がqpAdmモデル化で標的集団として選定され、興義_EN人口集団がこれら標的人口集団の祖先供給源として機能できるのかどうか、評価されました。その結果、基底部アジア東部興義_EN関連祖先系統のごく低い割合が雲南西部の2000年前頃の対子遺跡人口集団に存在したものの（約10.8%）、穿洞遺跡を含めて他の標的人口集団には存在しなかった、と示されました。興義_ENはqpAdm分析でその後の青銅器時代の貴州もしくは雲南人口集団の妥当な供給源としてモデル化できないので、興義_EN祖先系統はこの期間までに既知のアジア東部南西人口集団から消滅した、と提案されます。<br /><br />　穿洞遺跡人口集団は、興義_LN祖先系統の1方向でモデル化できました（図4）。最初に後期新石器時代雲南個体で特定された興義_LN祖先系統は地域的な系統で、興義_ENとは連続しておらず、以前に報告されたアジア東部の南北の祖先系統勾配とは異なります。雲南地域では、興義_LNは後期新石器時代までに、それ以前の在来の興義_EN関連の基底部アジア東部祖先系統を置換し、現在のオーストロアジア語族話者の祖先と関連している、と提案されています［5］。qpAdmの結果に基づき、4000～2000年前頃の穿洞遺跡個体群の考古学的背景がおおむね信頼できると仮定すると、同様の祖先系統の置換は青銅器時代の開始の頃もしくはその前に貴州地域でも起きていた（3100～3000年前頃）、と主張されます。この仮説をさらに検証するために、穿洞遺跡人口集団と旧石器時代貴州人口集団との間の遺伝的差異が評価されました。全体的に、穿洞遺跡人口集団は旧石器時代貴州人口集団とよりも、広西地域外の新石器時代アジア東部人口集団と多くのアレルを共有していました（図3C）。さらに、穿洞遺跡人口集団を他の新石器時代アジア東部人口集団と比較すると、旧石器時代貴州人口集団との類似性は検出されず、D(アジア東部古代人、穿洞個体;貴州_P、ムブティ人)では−2.2 < Z < 2.8でした。これらの全ての結果は、4000年前頃以前に起きた、貴州における以前の在来の興義_EN関連基底部アジア東部祖先系統の置換を裏づけます。<br /><br />　しかし、本論文の結果は、特定の祖先人口集団がこれらの遺伝的変化を引き起こしたのか、判断するには不充分でした。雲南中央部の興義_LN人口集団は穿洞遺跡人口集団の1方向の妥当な供給源でしたが、興義_LN人口集団と興義_BAや雪山遺跡や金蓮山遺跡の人口集団など他の雲南中央部人口集団は、黄河および山東地域の新石器時代アジア東部北方人やアジア東部南方の一部の福建人口集団と類似したD統計値を示しました（図3C）。穿洞遺跡人口集団と雲南中央部人口集団と新石器時代アジア東部人口集団の間の遺伝的関係はD統計によって解決できず、D(興義_LN、古代黄河/山東/福建;穿洞、ムブティ人)では−1.9 < Z < 2.4、D(興義_LN、穿洞;古代黄河/山東/福建、ムブティ人)では−3.3 < Z < 1.2、D(古代黄河/山東/福建、穿洞;興義_LN、ムブティ人)では−2.5 < Z < −0.1です。これらの結果は、穿洞遺跡人口集団と興義_LNがクレード（単系統群）であることも、穿洞遺跡人口集団が興義_LNと新石器時代の黄河もしくは山東もしくは福建人口集団の混合であることも裏づけていません。検証対象の新石器時代アジア東部人では、雲南西部の臘甸遺跡人口集団はD(興義_LN、古代黄河/山東/福建;穿洞、ムブティ人)検定で最大量の祖先系統を共有していました。雲南西部人口集団も雲南中央部祖先系統人口集団とアジア東部北方の人口集団との間の混合でしたが、穿洞遺跡人口集団と雲南西部人口集団との間の遺伝的類似性が、直接的なつながり、もしくは雲南中央部およびアジア東部北方人口集団からの共通の遺伝子流動を反映しているのかどうかは、判断できません。<br /><br />　全体的に本論文の結果から、基底部アジア東部興義_EN遺伝的構成要素は、青銅器時代までにアジア東部南西では消滅した、と示唆されます。しかし、現時点のデータは、この置換を引き起こした特定の供給源人口集団を特定できていません。近隣の雲南地域もしくはより遠いアジア東部北方の供給源からの遺伝子流動が、妥当な説明を表しています。<br /><br /><br /><strong>●歴史時代の貴州および広西人口集団の遺伝的類似性</strong><br /><br />　1100～300年前頃の標本抽出によって、次に歴史時代における貴州人口集団の遺伝的特徴が調べられました。PCA図では、歴史時代の貴州人口集団は同様の期間、とくに広西の500年前頃のGaoHuaHua人口集団と重なっていました（図2A）。外群f3視覚図では、歴史時代の貴州人口集団とGaoHuaHuaはともにまとまりました（図2B）。D統計を用いてのこの遺伝的関係の統計的評価では、歴史時代の広西人口集団は他の古代のアジア東部の南北の個体群よりも歴史時代の奇襲人口集団とより近く、qpAdmモデル化も歴史時代の貴州人口集団と広西人口集団の祖先系統共有を裏づける、と示されました（図4）。<br /><br />　記録および碑文によると、棺材洞遺跡や仙人橋遺跡や甘掌遺跡や果里村遺跡を含めて貴州地域の洞窟埋葬は、ミャオ・ヤオ人の祖先に属していました。先行研究では、広西の洞窟埋葬人口集団では、GaoHuaHua人口集団によって表されるミャオ・ヤオ（モン・ミエン）語族話者と関連する個体群は、チワン語（タイ・カダイ語族）話者（たとえば、BaBanQinCen人口集団やラセン遺跡人口集団）と関連する人々とは顕著な遺伝的分化を示しており、少なくとも500年前頃までの大きな人口構造が示唆される、と示されました［16］。新たに配列決定された貴州の歴史時代の個体群をD統計でこれら広西人口集団と比較することによって、貴州の歴史時代の洞窟埋葬人口集団は他の歴史時代の広西遺跡標本（たとえば、BaBanQinCen集団やラセン遺跡集団）や他のアジア東部標本とよりもGaoHuaHuaの方と密接にまとまっている、と分かり、D(臘甸、新石器時代アジア東部人;GaoHuaHua、ムブティ人)では −26.9 < Z < −4.4、D(アジア東部古代人、GaoHuaHua;貴州_H、ムブティ人)では−25.0 < Z < −4.2、D(GaoHuaHua、州_H;アジア東部古代人、ムブティ人)では−1.4 < Z < 4.1です（図5A）。まとめると、ミャオ・ヤオ祖先系統を有する貴州および広西の歴史時代の人口集団は、近隣のチワン語話者関連人口集団とよりも相互の方と密接な遺伝的類似性を示し、ミャオ・ヤオ語族集団とチワン語集団との間の遺伝的分化が少なくとも500年前頃にはすでに確立していた、との結論がさらに裏づけられます。以下は本論文の図5です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB35.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB35.jpeg" alt="画像" width="365" height="332" class="up-image" title="図5" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Bai20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E58D97E8A5BFE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026070229E59BB35.jpeg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　歴史時代の貴州人口集団の遺伝的特徴を形成した移動事象をさらに調べるために、歴史時代の貴州人口集団が新石器時代の穿洞遺跡人口集団と比較されました。その結果、後期新石器時代および青銅器時代に見られるように、アジア東部北方祖先系統の影響は歴史時代の貴州人口集団にも見られる、と分かりました（図5B）。さまざまな地域の新石器時代アジア東部北方人口集団のうち、新石器時代黄河祖先系統が歴史時代の貴州人口集団とアレル共有の最も顕著な兆候を有しており、新石器時代黄河祖先系統がこの期間の遺伝子流動の可能性が高い祖先系統供給源だった、と示唆されます。さらに、歴史時代の貴州人口集団は、地理的に貴州に隣接する、9000年前頃の広西の独山洞窟個体とも遺伝的類似性を示しました（図5B）。全体的に、アジア東部北方人とより在来的な人口集団の二重の影響下で、貴州および広西人口集団の遺伝的組成は歴史時代には次第に収束しました。<br /><br /><br /><strong>●考察</strong><br /><br />　本研究は、過去12000年間にわたるアジア東部南西の貴州地域の遺伝的な人口史を調べました。その結果、旧石器時代から前期新石器時代のアジア東部南西人口集団には複雑な遺伝的特性があった、と示されました。貴州も同時代の広西および雲南地域と同様に、旧石器時代には在来の基底部アジア東部興義_EN祖先系統を示し、アジア東部北方との有意により強い遺伝的類似性がありました。後期新石器時代および青銅器時代（4000～2000年前頃）には、雲南中央部およびアジア東部北方祖先系統はアジア東部南西に影響を及ぼし続け、基底部アジア東部の興義_EN祖先系統は、青銅器時代までにはアジア東部南西でもはや検出できなくなります。歴史時代（1100～300年前頃）における新石器時代広西および沿岸部福建関連人口集団からの追加の遺伝子流動は、貴州と広西の人口集団間の遺伝的均質化に寄与しました。<br /><br />　以前には、アジア東部南方から得られた1万年以上前のゲノムデータは、おもに基底部の興義_EN祖先系統と沿岸部福建人口集団と類似した遺伝的構成要素を有していた11000年前頃の隆林洞窟の1個体と、沿岸部福建の12000年前頃の奇和洞3号のみでした［5、16］。本研究は、1万年以上前の貴州の3ヶ所の航行学的遺跡の5個体から得られたゲノム規模データを提供し、新石器時代の前のアジア東部南方の遺伝的記録を大きく拡張します。北方的な遺伝的構成要素は以前には、8300年前頃に福建沿岸地域に出現し始めた、と報告されましたが［17］、貴州の新たに配列決定された旧石器時代のゲノムデータは今や、11000年前頃以前のアジア東部南西内におけるアジア東部北方祖先系統の地域的に異質な分布パターンの証拠を提供し、これは提唱されている農耕関連のシナ・チベット語族話者人口集団の拡大に先行します［25、26］。<br /><br />　まとめると、これらの調査結果から、アジア東部の北方から南方への遺伝子流動は以前に報告されていたよりも前に起きたか、アジア東部北方人口集団と関連する系統が旧石器時代にアジア東部南西に存在していた、と示唆されます。更新世末には、貴州の石器インダストリーはおもに2種類に区分され、それは打撃技法によって特徴づけられる猫猫洞様式と、「小型剥片石器」によって区別される馬鞍山様式です。貴州における小型剥片石器伝統の発見は、南方への北方採食民の移動と関連している、と考えられましたが、代替的な仮説では、この技術の在来起源が提唱されました。本論文の新たな遺伝学的結果から、招果遺跡や大洞遺跡など小型剥片石器伝統と関連する古代の個体群は、アジア東部北方人と関連する遺伝的構成要素を有している、と明らかになります。これらの調査結果から、旧石器時代の貴州における小型剥片石器伝統は北方集団によってもたらされた、との仮説を裏づける遺伝学的証拠が初めて提供されます。<br /><br />　貴州地域は広大なカルスト地形によって特徴づけられます。この山がちな環境は、外部の人口集団の流入には地理的障壁として機能した可能性が高そうで、農耕に適した土地が限られていることによって、新石器時代農耕集団にとってさほど魅力的ではなかったかもしれません。考古学的証拠は、新石器時代の貴州において同時代の雲南地域よりも農耕慣行がさほど発達していなかったことを示唆しています。しかし、外部からの人口統計学的影響を制約するかもしれない山がちな地形にも関わらず、基底部アジア東部の興義_EN祖先系統は青銅器時代まで存続せず、この地域における後期新石器時代から青銅器時代への移行は顕著な人口変化によって特徴づけられていた、と示唆されます。<br /><br />　少なくとも1100年前頃以降、貴州地域と近隣の広西地域の古代の人口集団間の遺伝的相互作用が活発化し、沿岸部福建人口集団関連祖先系統が貴州で出現し始めました。歴史的記録から、北宋王朝末に向かって、宋政府は貴州を広西および大理王国との馬交易の中継拠点として使い始めた、と示されています。貴州および広西における馬交易は、これら2地域間の人口集団の移動と相互作用を促進した可能性が高そうです。貴州の松山遺跡の漢文化集団は、おもに黄河関連祖先系統を有していたものの、同時代の広西人口集団とは異なっていました［37、38］。対照的に、貴州の新たに配列決定されたミャオ・ヤオ人の動埋葬人口集団は、広西のチワン人の洞窟埋葬人口集団ではなく、歴史時代のミャオ・ヤオ人とまとまりました。これらのパターンから、モン・ミエン語族話者（ミャオ・ヤオ人）とクラ・ダイ語族話者（チワン人）の間の遺伝的分離は、貴州と広西の人口集団で維持されていた、と示唆されました。アジア南東部現代人の遺伝学的研究は、地理的孤立が異なる言語集団間の遺伝的分化の主因と示唆しましたが、本論文の新たな結果から、言語と分化の差異もアジア東部南西の歴史時代人口集団の遺伝的階層化の形成に大きな役割を果たしたかもしれない、と示唆されました。<br /><br /><br /><strong>●まとめ</strong><br /><br />　全体的に、本研究は過去12000年間にわたる貴州における古代人口集団の遺伝的歴史を調べ、いくつかの重要な問題に新たな知見を提供します。本論文の調査結果は、早くも12000年前頃にアジア東部南西において、アジア東部北方祖先系統と基底部アジア東部の興義_EN系統が共存していたことを明らかにします。本論文はさらに、貴州の小型剥片石器伝統を北方狩猟採集民の南方への移動と結びつける、最初の遺伝学的証拠を提供します。青銅器時代（4000～2000年前頃）までに、興義_EN関連祖先系統はアジア東部南西では置換され、もはや検出できなくなりました。歴史時代には、貴州人口集団と広西人口集団との間の相互作用が活発化したものの、言語特有の帰属によって依然として制約されており、ミャオ・ヤオ人集団とチワン人集団との間の遺伝的差異は、少なくとも500年前頃以降、この地域にはすでに存在していました。<br /><br /><br />参考文献：<br />Bai F. et al.(2026): Paleogenomics retraces the ancient population history of Southwestern East Asia for the past 12,000 years. National Science Review, 13, 17, nwag398.<br /><a href="https://doi.org/10.1093/nsr/nwag398" target="_blank">https://doi.org/10.1093/nsr/nwag398</a><br /><br />［1］Yang MA.(2022): A genetic history of migration, diversification, and admixture in Asia. Human Population Genetics and Genomics, 2, 1, 0001.<br /><a href="https://doi.org/10.47248/hpgg2202010001" target="_blank">https://doi.org/10.47248/hpgg2202010001</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202202article_11.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［5］Wang T. et al.(2025): Prehistoric genomes from Yunnan reveal ancestry related to Tibetans and Austroasiatic speakers. Science, 388, 6750, eadq9792.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.adq9792" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.adq9792</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202506article_3.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［6］McColl H. et al.(2018): The prehistoric peopling of Southeast Asia. Science, 361, 6397, 88–92.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aat3628" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aat3628</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201807article_11.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［7］Yang MA. et al.(2017): 40,000-Year-Old Individual from Asia Provides Insight into Early Population Structure in Eurasia. Current Biology, 27, 20, 3202–3208.E19.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.cub.2017.09.030" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.cub.2017.09.030</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201710article_16.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［8］Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202106article_1.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［9］Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202006article_3.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［10］Liu J. et al.(2025): East Asian Gene flow bridged by northern coastal populations over past 6000 years. Nature Communications, 16, 1322.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41467-025-56555-w" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41467-025-56555-w</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202502article_6.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［11］Chen F. et al.(2015): Agriculture facilitated permanent human occupation of the Tibetan Plateau after 3600 BP. Science, 347, 6219, 248-250.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.1259172" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.1259172</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201411article_26.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［12］Wang H. et al.(2023): Human genetic history on the Tibetan Plateau in the past 5100 years. Science Advances, 9, 11, eadd5582.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.add5582" target="_blank">https://doi.org/10.1126/sciadv.add5582</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_22.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［13］Liu CC. et al.(2022): Ancient genomes from the Himalayas illuminate the genetic history of Tibetans and their Tibeto-Burman speaking neighbors. Nature Communications, 13, 1203.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41467-022-28827-2" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41467-022-28827-2</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202203article_18.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［14］Ding M.. et al.(2020): Ancient mitogenomes show plateau populations from last 5200 years partially contributed to present-day Tibetans. Proceedings of the Royal Society B, 287, 1923, 20192968.<br /><a href="https://doi.org/10.1098/rspb.2019.2968" target="_blank">https://doi.org/10.1098/rspb.2019.2968</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202005article_27.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［15］Lipson M. et al.(2018): Ancient genomes document multiple waves of migration in Southeast Asian prehistory. Science, 361, 6397, 92–95.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aat3188" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aat3188</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201805article_29.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［16］Wang T. et al.(2021): Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago. Cell, 184, 14, 3829–3841.E21.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202106article_27.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［17］Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aba0909" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aba0909</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202005article_26.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［19］Briggs AW. et al.(2007): Patterns of damage in genomic DNA sequences from a Neandertal. PNAS, 104, 37, 14616-14621.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.0704665104" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.0704665104</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/200707article_24.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［22］Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature14317" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature14317</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201506article_14.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［23］Fu Q. et al.(2015): An early modern human from Romania with a recent Neanderthal ancestor. Nature, 524, 7564, 216–219.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/nature14558" target="_blank">https://doi.org/10.1038/nature14558</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201506article_28.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［25］Sagart L. et al.(2019): Dated language phylogenies shed light on the ancestry of Sino-Tibetan. PNAS, 116, 21, 10317–10322.<br /><a href="https://doi.org/10.1073/pnas.1817972116" target="_blank">https://doi.org/10.1073/pnas.1817972116</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201905article_12.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［26］Zhang M. et al.(2019): Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic. Nature, 569, 7754, 112–115.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-019-1153-z" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-019-1153-z</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201904article_37.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［37］Zhu K. et al.(2024): The demic diffusion of Han culture into the Yunnan-Guizhou plateau inferred from ancient genomes. National Science Review, 11, 12, nwae387.<br /><a href="https://doi.org/10.1093/nsr/nwae387" target="_blank">https://doi.org/10.1093/nsr/nwae387</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202504article_9.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［38］Wan W. et al.(2025): Ancient genomes in Southwest China revealed genetic interactions among diverse populations in the historical period. BMC Biology, 23:174.<br /><a href="https://doi.org/10.1186/s12915-025-02299-4" target="_blank">https://doi.org/10.1186/s12915-025-02299-4</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202507article_6.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><a name="more"></a>

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            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,sicambre/521655685</guid>
                </item>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202609article_26.html</link>
      <title>北野隆一『側近が見た昭和天皇　天皇の言動でたどる昭和史』</title>
      <pubDate>Sat, 26 Sep 2026 09:14:44 +0900</pubDate>
            <description>　幻冬舎新書の一冊として、幻冬舎から2025年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。以下、敬称は省略します。著者は歴史学を専攻したわけではないようで、その点に不安はありましたが、田島道治「拝謁記」や「百武三郎日記」などが取り上げられており、昭和天皇の側近の証言集としては有益なのではないか、と期待して読みました。ただ、本書は単なる証言集ではなく、当時の組織や政治制度や政治状況の解説もあり、新書として配慮された構成になっていると思います。以下、興味深い証言や見解を備忘録とし..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　幻冬舎新書の一冊として、幻冬舎から2025年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。以下、敬称は省略します。著者は歴史学を専攻したわけではないようで、その点に不安はありましたが、田島道治「拝謁記」や「百武三郎日記」などが取り上げられており、昭和天皇の側近の証言集としては有益なのではないか、と期待して読みました。ただ、本書は単なる証言集ではなく、当時の組織や政治制度や政治状況の解説もあり、新書として配慮された構成になっていると思います。以下、興味深い証言や見解を備忘録として取り上げます。

　宇垣一成が組閣に失敗したさいに、百武三郎は辞職してまで天皇の大権を守ろうと思い詰め、宇垣内閣待望論を説いていますが、昭和天皇は宇垣をあまり評価していなかった、との見解もあり、「この様な人は総理大臣にしてはならぬと思ふ」と述べたそうです。この百武の激情を見た宮中の実務官僚は、百武への政治情報提供の抑制を申し合わせ、百武は政治に関与しなくなった、と言われていました。ただ、「百武三郎日記」によると、百武は木戸幸一内大臣と政治情勢や天皇の発言について、活発に情報を交換していたようです。また百武は、盧溝橋事件後の日中和平交渉の試みの一つである「船津工作」にも関わっています。

　日中戦争が長期化する中で、日米関係は悪化していき、百武は昭和天皇の疲弊を感じ取ります。昭和天皇は外相の松岡洋右にたいへん不満を抱いていたようで、松岡が外相を更迭された（第二次近衛内閣が総辞職し、外相だけ交代させて、第三次近衛内閣が発足）さいには、百武が見たところ、昭和天皇の表情はすっきりしていたそうです。しかし、その直後の南部仏印進駐によって日米関係は大きく悪化し、昭和天皇は心労が重なっているように百武には見えたようです。昭和天皇は、1941年9月頃までは対米開戦に慎重な姿勢を示し続けたようですが、同年10月には対米開戦への覚悟を強めていったようで、それと関連してか、百武が見るところ、昭和天皇の表情は明るくなったそうです。対米開戦直後の戦果に、昭和天皇は上機嫌だったようです。

　坪島文雄は1941年9月から1945年4月まで侍従武官を務め、その日記は2021年11月に遺族から国会図書館へ寄贈され、「昭和天皇実録」の典拠資料にはありません。侍従武官は、軍の報告を天皇に取り次ぎ、天皇の意向を軍に伝達する役割でした。坪島文雄の日記からは、太平洋戦争勃発後しばらくは、軍からの戦況奏上は詳しかったものの、1943年春頃からは、薄い内容になっていったことが窺えるそうです。坪島は、1945年2月には、日本敗戦を覚悟していたようで、坪島の日記によると、昭和天皇も1944年春には戦後のことをかなり気にしていたようです。

　戦後の昭和天皇は、戦争責任を記者に問われて、「言葉のアヤ」と言って返答を拒否したことや、広島への原爆投下について「やむを得ないこと」と答えたことが批判されました。この頃侍従を務めていた小林忍は、昭和天皇が「御自信を失っておられる」と日記に書いています。田島道治の「拝謁記」には、昭和天皇の生の感情が垣間見えて興味深いものの、公開すべきではなかった、と反発する人も多そうです。田島道治の「拝謁記」については、当ブログで以前に原武史『象徴天皇の実像　「昭和天皇拝謁記」を読む』（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html">関連記事</a>）を取り上げました。<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　幻冬舎新書の一冊として、幻冬舎から2025年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。以下、敬称は省略します。著者は歴史学を専攻したわけではないようで、その点に不安はありましたが、田島道治「拝謁記」や「百武三郎日記」などが取り上げられており、昭和天皇の側近の証言集としては有益なのではないか、と期待して読みました。ただ、本書は単なる証言集ではなく、当時の組織や政治制度や政治状況の解説もあり、新書として配慮された構成になっていると思います。以下、興味深い証言や見解を備忘録として取り上げます。<br /><br />　宇垣一成が組閣に失敗したさいに、百武三郎は辞職してまで天皇の大権を守ろうと思い詰め、宇垣内閣待望論を説いていますが、昭和天皇は宇垣をあまり評価していなかった、との見解もあり、「この様な人は総理大臣にしてはならぬと思ふ」と述べたそうです。この百武の激情を見た宮中の実務官僚は、百武への政治情報提供の抑制を申し合わせ、百武は政治に関与しなくなった、と言われていました。ただ、「百武三郎日記」によると、百武は木戸幸一内大臣と政治情勢や天皇の発言について、活発に情報を交換していたようです。また百武は、盧溝橋事件後の日中和平交渉の試みの一つである「船津工作」にも関わっています。<br /><br />　日中戦争が長期化する中で、日米関係は悪化していき、百武は昭和天皇の疲弊を感じ取ります。昭和天皇は外相の松岡洋右にたいへん不満を抱いていたようで、松岡が外相を更迭された（第二次近衛内閣が総辞職し、外相だけ交代させて、第三次近衛内閣が発足）さいには、百武が見たところ、昭和天皇の表情はすっきりしていたそうです。しかし、その直後の南部仏印進駐によって日米関係は大きく悪化し、昭和天皇は心労が重なっているように百武には見えたようです。昭和天皇は、1941年9月頃までは対米開戦に慎重な姿勢を示し続けたようですが、同年10月には対米開戦への覚悟を強めていったようで、それと関連してか、百武が見るところ、昭和天皇の表情は明るくなったそうです。対米開戦直後の戦果に、昭和天皇は上機嫌だったようです。<br /><br />　坪島文雄は1941年9月から1945年4月まで侍従武官を務め、その日記は2021年11月に遺族から国会図書館へ寄贈され、「昭和天皇実録」の典拠資料にはありません。侍従武官は、軍の報告を天皇に取り次ぎ、天皇の意向を軍に伝達する役割でした。坪島文雄の日記からは、太平洋戦争勃発後しばらくは、軍からの戦況奏上は詳しかったものの、1943年春頃からは、薄い内容になっていったことが窺えるそうです。坪島は、1945年2月には、日本敗戦を覚悟していたようで、坪島の日記によると、昭和天皇も1944年春には戦後のことをかなり気にしていたようです。<br /><br />　戦後の昭和天皇は、戦争責任を記者に問われて、「言葉のアヤ」と言って返答を拒否したことや、広島への原爆投下について「やむを得ないこと」と答えたことが批判されました。この頃侍従を務めていた小林忍は、昭和天皇が「御自信を失っておられる」と日記に書いています。田島道治の「拝謁記」には、昭和天皇の生の感情が垣間見えて興味深いものの、公開すべきではなかった、と反発する人も多そうです。田島道治の「拝謁記」については、当ブログで以前に原武史『象徴天皇の実像　「昭和天皇拝謁記」を読む』（<a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_23.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a>）を取り上げました。<a name="more"></a>

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            <category>読書</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202609article_25.html</link>
      <title>青銅器時代ヨーロッパの経済行動</title>
      <pubDate>Fri, 25 Sep 2026 00:00:23 +0900</pubDate>
            <description>　取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、青銅器時代ヨーロッパの経済行動に関する研究（Ialongo, and Nn., 2024）が公表されました。ヒトは常にモノを売買してきたのでしょうか？この一見すると些細な問題は、文化的進化の理解における最も顕著な盲点の一つ、つまり、現在において「現代的な」経済的行動と認識されるものの出現を浮き彫りにします。本論文で検証される仮説は、おもに青銅器時代と重なる先史時代ヨーロッパ（紀元前2300～紀元前800年頃）における消費パターンが..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、青銅器時代ヨーロッパの経済行動に関する<a href="https://doi.org/10.1038/s41562-024-01926-4">研究</a>（Ialongo, and Nn., 2024）が公表されました。ヒトは常にモノを売買してきたのでしょうか？この一見すると些細な問題は、文化的進化の理解における最も顕著な盲点の一つ、つまり、現在において「現代的な」経済的行動と認識されるものの出現を浮き彫りにします。本論文で検証される仮説は、おもに青銅器時代と重なる先史時代ヨーロッパ（紀元前2300～紀元前800年頃）における消費パターンが対数正規分布し、日常的な支出が供給および需要および収入と相関する、と予測する標準的な経済理論によって説明できる、というものです。

　青銅器時代のヨーロッパの考古学に関するこれまでの研究では、身分の高い個人が生産と貿易を管理し、社会内のほとんどの個人世帯はめったに商品を交換しなかった、と仮定されることが多くありました。これは、多くの世帯が少数の高価な買い物をしていたことになり、より多くの安価な買い物をする現代の経済とは異なります。しかし、青銅器時代のヨーロッパ社会における、地位の高くない個人の経済行動と比較してどうなのかについては、ほとんど知られていない。

　ヨーロッパ北部および南部（イタリア、スイス、オーストリア、スロベニア、ドイツ）にまたがる遺跡から発見された、紀元前2300～紀元前800年頃の銅および銅合金の大規模なデータベース（23711点）に基づくと、これらの物体の質量が、紀元前1500年以降（計量技術の発明と普及の後）には一貫して10グラムの倍数に従っている、と分かりました。さらに、その全体的な分布は、重量規制貨幣に関する現代経済理論の予測と一致することも分かりました。これらの金属断片は貨幣的に使用され、消費の代用指標として扱われた、というわけです。

　2通りの代替的な想定を模擬実験すると、（1）無作為行動では考古学的データで観察された分布は生じず、（2）現代的な経済的行動が先史時代の消費に最適なモデルを提供する、と示されます。青銅器時代のヨーロッパでは、金属だけが支払手段ではなかったものの、計量技術の普及によって、物々交換など他の制度よりも貨幣的な金属断片が取引の主要な手段になった、と推測されます。紀元前三千年紀以降の他地域との比較の進展も期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/14987">引用</a>です。


考古学：先史時代のヨーロッパにおける経済行動は現代の消費行動に似ていた

　青銅器時代のヨーロッパ（紀元前2300年–800年）の経済取引は、現代の経済行動と類似していた可能性があるという考古学的証拠に基づいた論文が、Nature Human Behaviourに掲載される。この発見は、経済行動が最近の人類史を通じて驚くほど一貫していた可能性を示唆している。

　青銅器時代のヨーロッパの考古学に関するこれまでの研究では、身分の高い個人が生産と貿易を管理し、社会内のほとんどの個人世帯はめったに商品を交換しなかったと仮定されることが多かった。これは、多くの世帯が少数の高価な買い物をし、より多くの安価な買い物をする現代の経済とは異なる。しかし、青銅器時代のヨーロッパ社会における、地位の高くない個人の経済行動と比較してどうなのかについては、ほとんど知られていない。

　Nicola IalongoとGiancarlo Lagoは、ヨーロッパ北部と南部（イタリア、スイス、オーストリア、スロベニア、ドイツ）の遺跡から発見された、紀元前2300年から前800年の間に作られた23,711個の銅と銅合金の品々を調査した。著者らは、これらの物体の質量が、紀元前1500年以降（計量技術の発明と普及の後）、一貫して10グラムの倍数に従っていること、そしてその全体的な分布が、重量規制貨幣に関する現代経済理論の予測と一致していることを発見した。著者らは、統計モデルを用いて、銅合金のサンプル内の重さの分布はおそらくランダムな状況によるものではないと判断し、銅合金が紀元前1500年以降ヨーロッパで貨幣として使用されていたことを示唆した。

　さらなるシミュレーションの結果、著者らはさらに、（これらの金属製品が貨幣として流通していたと仮定して）現代の経済理論でその分布を説明できると結論づけた。著者らは、青銅器時代のヨーロッパにも、現在と同様に、家庭レベルの需要と地域市場が重要な経済的原動力であったことを示唆している。

　IalongoとLagoは、青銅器時代のヨーロッパでは、金属だけが通貨や支払手段ではなかったことを認めている。しかし、著者らは、計量技術の普及によって、物々交換など他のシステムよりも貨幣が取引の主要な手段となったことを指摘している。



参考文献：
Ialongo N, and Lago G.(2024): Consumption patterns in prehistoric Europe are consistent with modern economic behaviour. Nature Human Behaviour, 8, 9, 1660–1675.
https://doi.org/10.1038/s41562-024-01926-4<a></a>

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      <content:encoded><![CDATA[
　取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、青銅器時代ヨーロッパの経済行動に関する<a href="https://doi.org/10.1038/s41562-024-01926-4"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Ialongo, and Nn., 2024）が公表されました。ヒトは常にモノを売買してきたのでしょうか？この一見すると些細な問題は、文化的進化の理解における最も顕著な盲点の一つ、つまり、現在において「現代的な」経済的行動と認識されるものの出現を浮き彫りにします。本論文で検証される仮説は、おもに青銅器時代と重なる先史時代ヨーロッパ（紀元前2300～紀元前800年頃）における消費パターンが対数正規分布し、日常的な支出が供給および需要および収入と相関する、と予測する標準的な経済理論によって説明できる、というものです。<br /><br />　青銅器時代のヨーロッパの考古学に関するこれまでの研究では、身分の高い個人が生産と貿易を管理し、社会内のほとんどの個人世帯はめったに商品を交換しなかった、と仮定されることが多くありました。これは、多くの世帯が少数の高価な買い物をしていたことになり、より多くの安価な買い物をする現代の経済とは異なります。しかし、青銅器時代のヨーロッパ社会における、地位の高くない個人の経済行動と比較してどうなのかについては、ほとんど知られていない。<br /><br />　ヨーロッパ北部および南部（イタリア、スイス、オーストリア、スロベニア、ドイツ）にまたがる遺跡から発見された、紀元前2300～紀元前800年頃の銅および銅合金の大規模なデータベース（23711点）に基づくと、これらの物体の質量が、紀元前1500年以降（計量技術の発明と普及の後）には一貫して10グラムの倍数に従っている、と分かりました。さらに、その全体的な分布は、重量規制貨幣に関する現代経済理論の予測と一致することも分かりました。これらの金属断片は貨幣的に使用され、消費の代用指標として扱われた、というわけです。<br /><br />　2通りの代替的な想定を模擬実験すると、（1）無作為行動では考古学的データで観察された分布は生じず、（2）現代的な経済的行動が先史時代の消費に最適なモデルを提供する、と示されます。青銅器時代のヨーロッパでは、金属だけが支払手段ではなかったものの、計量技術の普及によって、物々交換など他の制度よりも貨幣的な金属断片が取引の主要な手段になった、と推測されます。紀元前三千年紀以降の他地域との比較の進展も期待されます。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/14987"><span style=color:#e00>引用</span></a>です。<br /><br /><br /><span style=color:#00c>考古学：先史時代のヨーロッパにおける経済行動は現代の消費行動に似ていた<br /><br />　青銅器時代のヨーロッパ（紀元前2300年–800年）の経済取引は、現代の経済行動と類似していた可能性があるという考古学的証拠に基づいた論文が、Nature Human Behaviourに掲載される。この発見は、経済行動が最近の人類史を通じて驚くほど一貫していた可能性を示唆している。<br /><br />　青銅器時代のヨーロッパの考古学に関するこれまでの研究では、身分の高い個人が生産と貿易を管理し、社会内のほとんどの個人世帯はめったに商品を交換しなかったと仮定されることが多かった。これは、多くの世帯が少数の高価な買い物をし、より多くの安価な買い物をする現代の経済とは異なる。しかし、青銅器時代のヨーロッパ社会における、地位の高くない個人の経済行動と比較してどうなのかについては、ほとんど知られていない。<br /><br />　Nicola IalongoとGiancarlo Lagoは、ヨーロッパ北部と南部（イタリア、スイス、オーストリア、スロベニア、ドイツ）の遺跡から発見された、紀元前2300年から前800年の間に作られた23,711個の銅と銅合金の品々を調査した。著者らは、これらの物体の質量が、紀元前1500年以降（計量技術の発明と普及の後）、一貫して10グラムの倍数に従っていること、そしてその全体的な分布が、重量規制貨幣に関する現代経済理論の予測と一致していることを発見した。著者らは、統計モデルを用いて、銅合金のサンプル内の重さの分布はおそらくランダムな状況によるものではないと判断し、銅合金が紀元前1500年以降ヨーロッパで貨幣として使用されていたことを示唆した。<br /><br />　さらなるシミュレーションの結果、著者らはさらに、（これらの金属製品が貨幣として流通していたと仮定して）現代の経済理論でその分布を説明できると結論づけた。著者らは、青銅器時代のヨーロッパにも、現在と同様に、家庭レベルの需要と地域市場が重要な経済的原動力であったことを示唆している。<br /><br />　IalongoとLagoは、青銅器時代のヨーロッパでは、金属だけが通貨や支払手段ではなかったことを認めている。しかし、著者らは、計量技術の普及によって、物々交換など他のシステムよりも貨幣が取引の主要な手段となったことを指摘している。</span><br /><br /><br /><br />参考文献：<br />Ialongo N, and Lago G.(2024): Consumption patterns in prehistoric Europe are consistent with modern economic behaviour. Nature Human Behaviour, 8, 9, 1660–1675.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41562-024-01926-4" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41562-024-01926-4</a><a name="more"></a>

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            <category>アフロユーラシア史前近代</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202609article_24.html</link>
      <title>ピレネー山脈の高山地帯の湖における魚類の導入</title>
      <pubDate>Thu, 24 Sep 2026 08:57:23 +0900</pubDate>
            <description>　取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、ピレネー山脈の高山地帯の湖における魚類の導入についての研究（Fagín et al., 2025）が公表されました。高山湖には自然の障壁のため歴史的に魚類はいませんでしたが、ヒトが広く魚類を導入してきました。こうした魚類の導入はとくに過去数十年間に活発でしたが、歴史的記録は、すでに14世紀および15世紀にヨーロッパの高山地帯に魚類が導入されたことを示唆しており、そればかりか、高山地帯の集中的な土地利用がそれ以前に始まっていたならば..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、ピレネー山脈の高山地帯の湖における魚類の導入についての<a href="https://doi.org/10.1038/s41467-025-57801-x">研究</a>（Fagín et al., 2025）が公表されました。高山湖には自然の障壁のため歴史的に魚類はいませんでしたが、ヒトが広く魚類を導入してきました。こうした魚類の導入はとくに過去数十年間に活発でしたが、歴史的記録は、すでに14世紀および15世紀にヨーロッパの高山地帯に魚類が導入されたことを示唆しており、そればかりか、高山地帯の集中的な土地利用がそれ以前に始まっていたならば、高山地帯への魚類の導入はそれ以前に起きたかもしれません。

　本論文は、ピレネー山脈の深い高山湖であるレドン湖（Lake Redon）の堆積物記録から得られた古代環境DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）を用いて、この仮説を調べました。レドン湖には現在、約6万匹のブラウントラウトが生息しています。この堆積物から魚類のDNAは検出されませんでしたが、18S rRNA（ribosomal Ribonucleic Acid、リボソームリボ核酸）遺伝子を用いて、さまざまなクレード（単系統群）の魚類の外部寄生生物が7世紀以降に特定され、キネトプラスト綱（Kinetoplastea）のイクチオボド（Ichthyobodo）は、その一貫した存在のためとくに注目されます。

　これは、この地域で魚類の放流が記録され始める約500年前のことです。本論文は7世紀以降のレドン湖における魚類寄生生物の継続的存在を示し、近隣の考古学的遺骸および光合成色素によって証明される湖の一次生産量の増加によって裏づけられるように、これはローマ後期および西ゴートのヒツジの放牧のための広範な山岳地帯の利用と一致します。本論文は、周辺の人口が変化しても、湖に生息する魚の個体数は一定だった、と推測しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/15206">引用</a>です。


遺伝学：古代のDNAから湖魚の早期導入が明らかに

　スペインのピレネー山脈にある標高の高い湖の堆積物コアから抽出された古代DNAの分析により、西暦7世紀にはすでに人間の手によって魚が湖に放流されていた可能性が明らかになった。Nature Communications に掲載されるこの発見を報告する論文は、レドン湖（Lake Redon）には歴史的証拠からこれまで考えられていたよりもはるかに早くから魚が存在していたことを示唆しており、人間活動がこれらの生態系に与える影響についてさらなる洞察を提供している。

　高山湖は自然の障壁により歴史的に魚が存在しなかったが、14世紀から15世紀にかけてヨーロッパの高山湖に魚が放流されたことが歴史文書に記録され始めた。これらの記録は主に特定の湖における漁業権や取引についての詳細であるが、魚の放流がそれ以前から行われていたかどうかは不明である。

　調査のため、Elena Faginらは、スペインのピレネー山脈にあるレドン湖から採取した、長さ30センチメートルの堆積物コアを調べた。この湖には現在、約6万匹のブラウントラウトが生息している。湖の堆積物からは魚のDNAは検出されなかったが、著者らは魚の寄生虫と魚の餌のDNAを特定し、魚の代理として使用することで、魚の導入を調査することができた。

　魚の寄生虫に属するDNAは、西暦7世紀にはすでに確認されており、9世紀にはより一貫したシグナルが確認された。これは、この地域で魚の放流が記録され始める約500年前のことである。これは、この地域がローマ後期および西ゴート族（Visigothic）の時代に羊の放牧地として利用されていたことを示す、近隣の考古学的発掘調査による証拠と一致している。著者らは、周辺の人間の人口が変化しても、湖に生息する魚の個体数は一定であったと推測している。そこから、魚は定着していたが、気候の変化の影響を受けていた可能性があることが推測される。

　これらの発見は、古代のDNAが歴史的な人間の活動を理解し、高山生態系への定住の影響について、これまで不明瞭であった部分を明らかにするのに役立つかもしれないことを示している。


参考文献：
Fagín E. et al.(2025): Parasite sedimentary DNA reveals fish introduction into a European high-mountain lake by the seventh century. Nature Communications, 16, 3081.
https://doi.org/10.1038/s41467-025-57801-x<a></a>

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　取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、ピレネー山脈の高山地帯の湖における魚類の導入についての<a href="https://doi.org/10.1038/s41467-025-57801-x"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Fagín et al., 2025）が公表されました。高山湖には自然の障壁のため歴史的に魚類はいませんでしたが、ヒトが広く魚類を導入してきました。こうした魚類の導入はとくに過去数十年間に活発でしたが、歴史的記録は、すでに14世紀および15世紀にヨーロッパの高山地帯に魚類が導入されたことを示唆しており、そればかりか、高山地帯の集中的な土地利用がそれ以前に始まっていたならば、高山地帯への魚類の導入はそれ以前に起きたかもしれません。<br /><br />　本論文は、ピレネー山脈の深い高山湖であるレドン湖（Lake Redon）の堆積物記録から得られた古代環境DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）を用いて、この仮説を調べました。レドン湖には現在、約6万匹のブラウントラウトが生息しています。この堆積物から魚類のDNAは検出されませんでしたが、18S rRNA（ribosomal Ribonucleic Acid、リボソームリボ核酸）遺伝子を用いて、さまざまなクレード（単系統群）の魚類の外部寄生生物が7世紀以降に特定され、キネトプラスト綱（Kinetoplastea）のイクチオボド（Ichthyobodo）は、その一貫した存在のためとくに注目されます。<br /><br />　これは、この地域で魚類の放流が記録され始める約500年前のことです。本論文は7世紀以降のレドン湖における魚類寄生生物の継続的存在を示し、近隣の考古学的遺骸および光合成色素によって証明される湖の一次生産量の増加によって裏づけられるように、これはローマ後期および西ゴートのヒツジの放牧のための広範な山岳地帯の利用と一致します。本論文は、周辺の人口が変化しても、湖に生息する魚の個体数は一定だった、と推測しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの<a href="https://www.natureasia.com/ja-jp/research/highlight/15206"><span style=color:#e00>引用</span></a>です。<br /><br /><br /><span style=color:#00c>遺伝学：古代のDNAから湖魚の早期導入が明らかに<br /><br />　スペインのピレネー山脈にある標高の高い湖の堆積物コアから抽出された古代DNAの分析により、西暦7世紀にはすでに人間の手によって魚が湖に放流されていた可能性が明らかになった。Nature Communications に掲載されるこの発見を報告する論文は、レドン湖（Lake Redon）には歴史的証拠からこれまで考えられていたよりもはるかに早くから魚が存在していたことを示唆しており、人間活動がこれらの生態系に与える影響についてさらなる洞察を提供している。<br /><br />　高山湖は自然の障壁により歴史的に魚が存在しなかったが、14世紀から15世紀にかけてヨーロッパの高山湖に魚が放流されたことが歴史文書に記録され始めた。これらの記録は主に特定の湖における漁業権や取引についての詳細であるが、魚の放流がそれ以前から行われていたかどうかは不明である。<br /><br />　調査のため、Elena Faginらは、スペインのピレネー山脈にあるレドン湖から採取した、長さ30センチメートルの堆積物コアを調べた。この湖には現在、約6万匹のブラウントラウトが生息している。湖の堆積物からは魚のDNAは検出されなかったが、著者らは魚の寄生虫と魚の餌のDNAを特定し、魚の代理として使用することで、魚の導入を調査することができた。<br /><br />　魚の寄生虫に属するDNAは、西暦7世紀にはすでに確認されており、9世紀にはより一貫したシグナルが確認された。これは、この地域で魚の放流が記録され始める約500年前のことである。これは、この地域がローマ後期および西ゴート族（Visigothic）の時代に羊の放牧地として利用されていたことを示す、近隣の考古学的発掘調査による証拠と一致している。著者らは、周辺の人間の人口が変化しても、湖に生息する魚の個体数は一定であったと推測している。そこから、魚は定着していたが、気候の変化の影響を受けていた可能性があることが推測される。<br /><br />　これらの発見は、古代のDNAが歴史的な人間の活動を理解し、高山生態系への定住の影響について、これまで不明瞭であった部分を明らかにするのに役立つかもしれないことを示している。</span><br /><br /><br />参考文献：<br />Fagín E. et al.(2025): Parasite sedimentary DNA reveals fish introduction into a European high-mountain lake by the seventh century. Nature Communications, 16, 3081.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41467-025-57801-x" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41467-025-57801-x</a><a name="more"></a>

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            <category>自然科学</category>
      <author>雑記帳</author>
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                </item>
        <item>
      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202609article_23.html</link>
      <title>黄河中流域の人口史</title>
      <pubDate>Wed, 23 Sep 2026 08:44:42 +0900</pubDate>
            <description>　黄河中流域の人類遺骸のゲノムデータを報告した研究（Wang et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン（大清帝国、清王朝）の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。なお、当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論..</description>
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　黄河中流域の人類遺骸のゲノムデータを報告した<a href="https://doi.org/10.1093/nsr/nwag395">研究</a>（Wang et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン（大清帝国、清王朝）の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。なお、当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します。

　本論文は、黄河中流域で発見された、中期新石器時代～明清期となる6200～100年前頃の人類遺骸112個体の新たなゲノムデータを報告しています。その結果、後期新石器時代の後の個体の主要な遺伝的祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）は、最古となる6200年前頃の個体に由来する、と推定されています。一方で後期新石器時代には、文化的変容に遺伝的変化が伴っていたことも示されました。その後、後期新石器時代の黄河中流域集団的な遺伝的構成要素が広範に拡大しました。また本論文は遺伝的親族関係も調べており、社会的地位は、2500年前頃には家族内および密接な生物学的親族間で安定的に継承されたのに対して、2000年前頃には生物学的親族よりも婚姻同盟の方が重視されていた、と示唆されています。

　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、mtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）、YHg（Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ）、SNP（Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、HO（Human Origins、ヒト起源）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、PC1（first principal component、第一主成分）、PC2（second principal component、第一主成分）、km（kilometre、kilometer、キロメートル）、kya（kilo years ago、千年前）、KIN（Kinship INference、親族関係の推測）、READ（Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定）、ROH（runs of homozygosity、同型接合連続領域）、cM（centimorgan、センチモルガン）、AR（Amur River、アムール川）です。

　以下の時代区分の略称は、N（Neolithic、新石器時代）、EN（Early Neolithic、前期新石器時代）、MN（Middle Neolithic、中期新石器時代）、LN（Late Neolithic、後期新石器時代）、BA（Bronze Age、青銅器時代）、LBA（Late Bronze Age、後期青銅器時代）、LBIA（Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代～鉄器時代）、IA（Iron Age、鉄器時代）、HE（historical era、歴史時代）です。本論文で取り上げられる主要な文化は、仰韶（Yangshao）文化、龍山（Longshan）文化、良渚（Liangzhu）文化、崧沢（Songze）文化、大渓（Daxi）文化、曇石山（Tanshishan）文化、二里頭（Erlitou）文化、斉家（Qijia）文化です。本論文で取り上げられる主要な集団は、戎狄（Rong-Di）です。

　本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国河南省の遺跡は、義馬（Yima）市の上石河（Shangshihe）墓地、武陟（Wuzhi）県の万花（WanHua）遺跡、登封（Dengfeng）市の南洼（NanWa）遺跡、霊宝（Lingbao）市の陽平寨（Yangpingzhai）遺跡と底董（Didong）遺跡と暁塢（Xiaowu）遺跡、三門峡（Sanmenxia）市の北陽平（Beiyangping）遺跡、澠池（Mianchi）県の仰韶村（Yangshaocun）、滎陽（Xingyang）市の汪溝（Wanggou）遺跡と路糸茜（Lusixi）遺跡です。

　本論文で取り上げられる河南省以外の中華人民共和国の主要な遺跡は、河北省の雄安新区（Xiongan New Area）の東小李白龍（Dongxiaoli-Bailong）遺跡、陝西省神木（Shenmu）市の石峁（Shimao）遺跡と延安市の蘆山峁（Lushanmao）遺跡、山西省襄汾（Xiangfen）県の陶寺（Taosi）遺跡、甘粛省の黒水国（Heishuiguo）遺跡と佛爺廟湾（Foyemiaowan）遺跡、上海市の閔行（Minhang）区の馬橋（Maqiao）遺跡と青浦（Qingpu）区の福泉山（Fuquanshan）遺跡、広西チワン族自治区の宝剣山（Baojianshan）洞窟と田東（Tiandong）県の林逢（Linfeng）鎮の独山洞窟（Dushan Cave）、山東省の王城岡（Wangchenggang）遺跡、福建省の渓頭村（Xitoucun、Xitoucun）遺跡です。本論文で取り上げられる中国以外の遺跡と地域は、チベット高原の山南（Shannan）地域とナクチュ（Nagqu）県とメブラク（Mebrak）遺跡、台湾の漢本（Hanben）遺跡です。


●要約

　アジア東部の文明の重要な発祥地として、黄河中流域は長く、ヒトの文化的および生物学的進化の研究の焦点となってきました。しかし、その定住の歴史や親族関係慣行は、古代ゲノムデータの不足のため、依然として不明です。本研究では、6200～100年前頃となる、黄河中流域の8ヶ所の考古学的遺跡から新たに配列決定された古代人112個体のゲノムを提示します。本論文の分析から、すべての後期個体は最終的にはその主要な祖先系統が、仰韶文化の中核地域からの最古級のゲノムとなる、本研究で新たに生成された河南西部の6200年前頃のゲノムによって表される、地元の初期人口集団にたどれる、と示唆されます。2回のその後の大きな人口統計学的変容も特定されました。最初は、龍山文化期の河南西部における4500年前頃の文化的変容と関連する遺伝的変化で、これは陝西および山西人口集団の拡大と関連しているかもしれません。この後に、河南中央部関連祖先系統の2000年間にわたる拡大があり、これによって、ユーラシア草原地帯もしくはその近隣の外国勢力からの有意な遺伝的寄与とは無関係に、黄河流域全体の遺伝的景観が均質化しました。

　本論文は、人口統計学的歴史に加えて、2点の事例研究を通じて、古代の社会構造への知見を提供します。2500年前頃の上石河遺跡では、証拠から、社会的地位は家族内および密接な生物学的親族間で安定して継承された、と示唆されています。2000年前頃の東小李白龍遺跡によって表される社会は、祖先の系統による継承ではなく、婚姻同盟によって築かれた関係により重きを置いていたようです。まとめると、本研究は、世界の最古級の農耕中心地の1地域における局所的な連続性と長距離の人口接続との間の複雑な相互作用を明らかにし、鉄器時代中国北部における社会構造に新たな知見を提供します。


●研究史

　仰韶文化（7000～5000年前頃）は黄河流域起源で、中国で発見された最古級かつ最も重要で、最も広範に研究された新石器時代文化の一つです。その中核地域は、黄河中流の現在の河南省西部と山西省南部と陝西省東部に位置します。遺跡の分布はとくに河南省西部の三門峡地域、とりわけ霊宝市に密集しており、霊宝市では、霊宝を中心とする1000km²の地域内で、193ヶ所の新石器時代遺跡が特定されてきました。考古学的研究は、黄河中流の仰韶文化と関連する人口集団の人口統計学的歴史に新たな知見を提供してきており、仰韶文化の人口拡大を裏づけています［3、4］。しかし、これまで、河南省西部の仰韶文化期から得られた古代ゲノムデータは依然としてひじょうに限られており、2点のゲノムが報告されただけで、それぞれ前期および中期の仰韶文化期と関連しています［5、6］。仰韶文化の中核地域から得られた古代ゲノムデータの少なさから重要な問題が未解決になっており、それは、仰韶文化の中核地域内の人口集団は遺伝的に均質だったのか、それとも周辺文化との相互作用を通じて存続していたかもしれない、人口構造を示していたのか、という問題です。

　中原の肥沃な土地と戦略的位置は、とくに龍山文化期と中国の初期王朝において、顕著な農耕の発展および人口増加を促進しました。4300年前頃までに、河南西部では龍山文化の亜型である陶寺文化と関連する文化的遺物が見られます。以前の古代ゲノム研究では、河南西部の龍山文化期の人々（黄河_仰韶村_龍山によって表されます）［5］は。河南中央の部以前に刊行された同時代の人々（黄河_MNによって表されます）が有していた、アジア東部南方関連祖先系統を受け継いでおらず、むしろ、石峁文化と関連する陝西北部の同時代の集団である、石峁_LNと遺伝的には均質だった、と示唆されました。より広範な人口集団の変化が河南西部で仰韶文化期および龍山文化期に起きたのかどうか、あるいは、これが単なる例外だったのかどうか、判断するには、河南西部の龍山文化からより多くの標本が必要です。さらに、中原は、その境界内で20以上の王朝が首都を築いたことによって証明されるように、数千年にわたって中華文明の政治と経済と文化の中心地として機能しました。しかし、この地域は王朝交替や内紛や外部勢力の侵入（たとえば、戎狄や匈奴や鮮卑のような集団から）などの要因によって、顕著な変化を経てきました。先行研究は調査対象の特定期間における中原内の高水準の遺伝的安定性の証拠を報告しており、西周王朝（紀元前1046～紀元前770年）や春秋時代（紀元前770～紀元前476年）や唐王朝（618～907年）の個体群では、顕著な遺伝的置換はありませんでした［9］。ただ、その研究には春秋時代の後のデータはほとんど含まれておらず、単一の考古学的遺跡からのゲノム情報に依拠していました。したがって、重要な問題が依然として解決されておらず、それは、北方草原地帯と中原との間の文化的相互作用には、古代中国史を通じての重要な王朝期に、どの程度の人口混合を含んでいたか、というものです。

　本研究では、中国北部の河南省および河北省で発掘された、新たに報告される112個体のゲノム規模古代DNAデータを報告します（図1A）。これらのデータは利用可能なゲノム記録を大きく拡張し、河南西部の初期仰韶文化関連の3個体および龍山文化関連の9個体を含んでおり、中原の殷（商）王朝（3000年前頃）から清王朝（200～100年前頃）の個体数を3倍としました（表1）。以下は本論文の図1です。
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●DNA解析

　中国北部の河南省および河北省の8ヶ所の考古学的遺跡からデータが生成され、約6000年間の古代ゲノム時間横断区にわたります。これらのデータを得るために、骨格要素および歯からDNAが抽出され、119点の二本鎖遺伝的ライブラリが生成され、そのうち69点は124万ゲノム規模SNP（124万SNP）の標的一式で捕獲されました。さらに、2点の測定基準を用いて古代DNAの真正性が評価され、つまり、古代DNAの損傷パターンと、mtDNAおよびX染色体に基づく汚染推定値です。その結果、全個体は典型的なDNA損傷パターン（つまり、配列決定読み取りの5’末端および3’末端における高い割合のシトシンからチミンおよびグアニンからアデニンへの置換）を示した、と分かりました。高い汚染率（5%超）もしくは124万パネルでSNP数の少ない（2万ヶ所未満）の標本の除去後に、112個体が保持されました。

　その後の集団遺伝学的分析のため、SNP数の少ない新たに生成された112個体から1親等および2親等の親族（READソフトウェアから推定）が除外されました。これによって90個体が保持され、そのSNP数は124万パネルで27697～1226898ヶ所の範囲でした。最後に、これらのデータが以前に刊行されたユーラシアの古代および現在の個体群と組み合わされました。


●黄河中流の新たに生成された個体群における遺伝的類似性の概要

　より広範な地域の他の古代の人口集団およびアジア東部現代人と比較しての、黄河中流のすべての配列決定された個体の遺伝的構造の概要を得るために、まずPCAが実行されました。HOデータセットのアジア東部現代人における差異を用いて計算された最初の2主成分に、すべての古代の個体が投影されました。その結果、黄河中流の新たに生成された個体群と以前に刊行された個体群は相互と密接な類似性を示す、と分かりました。これらの結果は対での外群f3統計によっても裏づけられ（図2A）、黄河流域古代人は他のすべての検証対象の人口集団とよりも相互の方と多くの遺伝的浮動を共有していた、と示されています。以下は本論文の図2です。
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　PCA図では、黄河中流の以前に刊行された古代の個体群は3個の遺伝的クラスタ（まとまれ）を形成し、第一は5000年前頃の仰韶文化個体群（黄河_MNによって表されます）［6］、第二は河南中央部の4000年前頃の龍山文化から3000年前頃の個体群（黄河_LN、黄河_LBIAによって表されます）［6、9、11］、第三は陝西北部の4000年前頃の石峁文化個体群（石峁_LNによって表されます）と河南西部の仰韶村遺跡の4000年前頃の龍山文化個体群（黄河_仰韶村_龍山によって表されます）［5］です（図1B）。河南西部の新たに生成された初期仰韶文化関連個体群（河南_暁塢_6kyaと分類表示されます）は黄河_MNとまとまりました（図1B）。陽平寨遺跡の4個体（河南_陽平寨_4.5–4kya_1と分類表示されます）は、黄河_MNおよび黄河_仰韶村_龍山との密接な類似性を示しました（図1B）。陽平寨遺跡のもう一方の新たに生成された龍山文化関連個体群（河南_陽平寨_4.5–4kya_2と分類表示されます）のゲノムは、黄河_LNとまとまりました（図1B）。

　黄河中流の仰韶文化および龍山文化関連の個体群で観察された遺伝的多様性とは対照的に、3000～100年前頃の同じ地域の新たに生成された親族関係にない79個体は、PCA図では顕著な人口下部構造を示しませんでした（図1B）。これらの個体に含まれていたのは、河南西部の南洼遺跡の4個体（河南_南洼_3kyaと分類表示されます）、河南西の上石河遺跡の春秋時代の35個体（河南_上石河_2.5kyaと分類表示されます）、2300～2100年前頃と直接的に年代測定された底董遺跡の4個体（河南_底董_2kyaと分類表示されます）、河南の北陽平遺跡の東周王朝の7個体（河南_北陽平_2.3kyaと分類表示されます）、河北の東小李白龍遺跡の漢王朝の20個体（河北_東小李白龍_2kyaと分類表示されます）、河南の万花遺跡の明清王朝の12個体（河南_万花_0.2–0.1kyaと分類表示されます）です。底董遺跡の1個体は、おもにHOデータセットにおける超低被覆度のため、主要なクラスタ（まとまり）から逸れていることに要注意です。その後の定量的分析のため、考古学的遺跡および遺伝学的分類に基づいて個体群が分類されました。


●仰韶文化の中核地域の初期仰韶文化関連の人々

　暁塢遺跡の親族関係にない初期仰韶文化関連2個体のゲノム（河南_暁塢_6kyaと分類表示されます）が新たに生成され、この2個体は黄河中流の河南西部から得られたこれまでで最古級の仰韶文化関連個体のゲノムを表しています。新たに生成された初期仰韶関連文化個体群と後期仰韶文化関連個体群（汪溝遺跡の5200年前頃の黄河_MN個体群によって表されます）との間の遺伝的関係を定量化するために、f3形式（ヨルバ人；対象、参照）でf3統計が実行されました。この分析では、初期仰韶文化の暁塢および後期仰韶文化の黄河_MNが相互と高水準の遺伝的浮動を共有していた、と示され、黄河中流の仰韶文化関連の人々における高度な遺伝的連続性が示唆されます。

　黄河中流の仰韶文化関連の人々が仰韶文化の中核地域の初期仰韶文化関連個体群の直接的な子孫だったのかどうか、評価するために、対でのqpWave分析でこの仮説が形式的に調べられました。その結果、単一の供給源、つまり河南_暁塢_6kyaが黄河中流の後期仰韶文化の人々の遺伝的構成をうまく説明できる、と分かりました（図2B）。f4形式（ヨルバ人、X；河南_暁塢_6kya、黄河_MN）のf4統計も計算され、初期仰韶文化個体群と後期仰韶文化個体群の、本論文のデータセットで利用可能なユーラシアの古代人233個体との異なる類似性の可能性が検証されました。後期仰韶文化の人々が初期仰韶文化の人々の混合していない子孫だったならば、すべてのf4統計は有意ではない、と予測されます。その結果、ほぼすべてのf4統計では有意ではない値が生成された、と分かり、河南_暁塢_6kyaと黄河_MNは比較対象の人口集団と同様に関連していた、と示唆されます。おもな例外は、河南_暁塢_6kyaが黄河_MNと比較して一部の古代チベット人とより大きな遺伝的類似性を共有していた事例で、たとえば、f4（ヨルバ人、山南3k/ナクチュ2.7k/メブラク［12］；河南_暁塢_6kya、黄河_MN）が0未満（−3.465 &lt; Z得点&lt; −2.547）でした。初期仰韶文化人口集団が一部の古代チベット人と追加の遺伝的類似性を要していた可能性は、除外できません。


●石峁_LNおよび黄河_LNの両者の関連する系統は河南西部の4000年前頃の龍山文化関連の人々で観察されました

　仰韶文化および龍山文化個体群が河南西部で経時的に遺伝的連続性の証拠を示すのかどうか、評価するために、f3（ヨルバ人；河南_陽平寨_4.5–4kya_1、河南_陽平寨_4.5–4kya_2、参照）が計算されました。その結果、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と河南_陽平寨_4.5–4kya_2の両者は在来の初期仰韶文化関連の人々（河南_暁塢_6kyaによって表されます）と密接な類似性を示す、と観察されました。これらの結果は、河南西部における仰韶文化集団と龍山文化集団との間の遺伝的連続性を裏づけます。

　次に、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と河南_陽平寨_4.5–4kya_2の祖先供給源の特定が試みられました。黄河_MNが参照人口集団として用いられたのは、河南_陽平寨_4.5–4kyaの人々と高度な遺伝的浮動を共有しており、欠失率が低く、標本規模が大きいからです。対でのqpWave分析は、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と河南_陽平寨_4.5–4kya_2が黄河_MNの混合していない子孫だった、とのモデルを却下しました（図2B）。f4形式（ヨルバ人、X；河南_陽平寨_4.5–4kya_1、黄河_MN）のf4統計でも、河南_陽平寨_4.5–4kya_1は、黄河_仰韶村_龍山で観察されたパターンと同様に、黄河_MNの場合よりも、アジア北東部およびチベットの古代人と有意に高い類似性を有していました。さらに、外群f3統計では、河南_陽平寨_4.5–4kya_1は、石峁_LNと遺伝的に均質だった、以前に刊行された仰韶村遺跡の龍山文化関連の人々と高度な遺伝的浮動を共有していました。対でのqpWave分析では、河南_陽平寨_4.5–4kya_1の祖先組成は黄河_仰韶村_龍山/石峁_LNによって適切に説明できる、と観察されました（図2B）。黄河_仰韶村_龍山と河南_陽平寨_4.5–4kya_1の両方における石峁_LN関連遺伝的特性の存在は、陝西北部と華南西部との間のより広範な遺伝的つながりを示唆しています。

　次に、河南_陽平寨_4.5–4kya_2の遺伝的組成の調査に焦点が当てられました。f4形式（ヨルバ人、X；河南_陽平寨_4.5–4kya_2、黄河_MN）のf4統計では、黄河_MNと比較して、河南_陽平寨_4.5–4kya_2はアジア東部南方関連集団（台湾_漢本によって表されます）とより多くのアレル（対立遺伝子）を共有していた（Z得点は−2.376）、と観察されました。qpAdmで実行された2供給源混合モデル化では、黄河中流関連祖先系（黄河_MNによって表されます）とアジア東部南方関連祖先系統（5400年前頃の崧沢_福泉山と5300年前頃の良渚_馬橋と長江中下流域の6000年前頃の大渓_大渓_2［3］、アジア東部南方内陸部の8300～6400年前頃の独山洞窟および宝剣山［13］も4300年前頃の曇石山および4500年前頃の渓頭村［14］、1500年前頃の台湾_漢本［15］によって表されます）を用いると、河南_陽平寨_4.5–4kya_2に適している、と明らかになりました。このモデルでは、河南_陽平寨_4.5–4kya_2における20.6±4.8%～65.5±12.3%の祖先系統がアジア東部南方関連（台湾_漢本、良渚_馬橋、崧沢_福泉によって表されます）である、と推定されました。qpWave分析は、河南_陽平寨_4.5–4kya_2と黄河_LNとの間の遺伝的均質性を裏づけます（図2B）。

　まとめると、これらの調査結果は、河南西部の龍山文化個体群における、それぞれ当初は河南中央部の黄河_LNおよび陝西北部の石峁_LNと報告された、遺伝的に区別できない2系統の存在を明らかにしています。


●中国の王朝期における黄河全域で高度につながった遺伝子プール

　次に、殷王朝が樹立された3500年前頃以降の、中国の王朝期における中原の人口統計学的歴史が調べられました。124万パネルで充分なSNP被覆度がある、放射性炭素年代測定で3300～100年前頃の6ヶ所の遺跡から出土した、河北と河南の親族関係にない82個体のデータが分析されました。まずPCAに焦点を当てると、河南の新たに配列決定された新石器時代標本とは対照的に、河南および河北の3000～100年前頃の全個体は人口下部構造を示さない、と分かりました（図1B）。これらの全個体は、以前に特徴づけられた黄河_LN関連祖先系統との遺伝的類似性を示しました。外群f3統計も、中原におけるこれら3000～100年前頃の個体間の密接な関係を裏づけます（図2A）。これらの結果は、帝国拡大に続く、中原の遺伝的組成の祖先系統の変化と複雑さの減少を示唆しています。

　次に、形式的検定を用いて、これらの集団が遺伝的に均質だったのかどうか、調べられました。中原における殷王朝の首都と古代中国の他地域との間のつながりの、充分に報告された証拠があります。たとえば、長江中流の金属資源、長江下流の硬質土器や原初的な磁器、東方沿岸の塩、北方草原地帯の家畜ウマ、遠く南シナ海の貝殻や亀の甲羅さえ、すべてが殷王朝の首都に集中していました。資源の流れに、殷の首都の遺伝的組成を形成した大規模な人口移動が伴っていたのかどうかは、依然として不明です。f4（ヨルバ人、X；河南_南洼_殷、黄河_LN/黄河中流_王城岡_二里頭）を用いて、龍山文化および二里頭文化と関連するゲノム［11］および中原の殷王朝の新たに生成された親族関係にない5個体のゲノムを比較すると、f4値のほとんどは有意ではなかった、と観察されました。これが示唆するのは、河南中央部の在来の先行する龍山文化および二里頭文化の人々と比較して、殷王朝の人々が他系統から追加の遺伝的寄与を受けなかったことです。

　歴史的記録によると、東周王朝期の戎狄や漢王朝期の匈奴など、中原への非漢人集団の頻繁な侵入がありました。そこで次に、これらの遊牧民人口集団から中原の遺伝子プールへの顕著な遺伝子移入がこれらの期間に起きたのかどうか、評価することに焦点が当てられました。中国北西部の斉家文化（黄河上流_LN［6］によって表されます）、中国北東部の古代鮮卑のゲノム（AR_鮮卑_IA［6］によって表されます）、モンゴル高原の古代匈奴のゲノム（モンゴル_匈奴、初期匈奴_西方、初期匈奴_他［19、20］によって表されます）と関連する古代ゲノムを用いて、それぞれ戎狄と鮮卑と匈奴の遺伝的組成が表されました。新たに生成された東周王朝集団（河南_上石河_2.5kya、河南_北陽平_2.3kyaと分類表示されます）と漢王朝集団（河北_東小李白龍_2kyaと分類表示されます）が、黄河_LNと比較して有意な戎狄/匈奴/鮮卑関連祖先系統を受け継いでいたならば、f4形式（ヨルバ人、X；研究対象集団、黄河_LN）のf4統計では負の値が予測されます。しかし、ほとんどのf4統計では有意ではない値（Z得点が3未満）が得られました。これらの結果から、多様なユーラシア古代人と比較して、3000～2000年前頃の各河南集団と2000年前頃の河北集団は、龍山文化期の中原における優勢な遺伝的構成だった黄河_LNとクレード（単系統群）を形成する、と明らかになります。対でのqpWave分析も、3000～2000年前頃の各河南集団と2000年前頃の河北集団が、代表的なユーラシア系統の一覧と比較して単系統群であること一致する、と裏づけており、中原の長期の遺伝的安定性がさらに裏づけられます（図2B）。さらに、対でのqpWave分析も、新たに生成された黄河中流の中原集団と黄河下流の歴史時代の集団（山東_HEによって表されます）と黄河上流集団（黒水国_HE、佛爺廟湾_HEによって表されます）農耕のゲノム間の遺伝的均質性を裏づけています（図2B）。

　留意すべきは、河南_北陽平_2.3kyaと関連する新たに配列決定されたゲノムと、再分析された刊行されている3000年前頃の黄河_西周（黄河_LBIAに統合されて分類表示されます）がすべて、4000年前頃の陽平寨遺跡と同じ地域から得られたことです。河南_北陽平_2.3kyaと以前に刊行された3000年前頃の黄河_西周はPCAではともにクラスタ化する（まとまる）と分かり、これらの集団が3000～2300年前頃の河南西部では主要な祖先系統を表しているかもしれない、と示唆されます。f4統計ではさらに、河南_北陽平_2.3kyaと黄河_西周は、同じ地域の4000年前頃のゲノム（黄河_仰韶村_龍山、河南_陽平寨_4.5–4kya_1によって表されます）と比較して、アジア東部南方関連の人々と多くのアレルを共有していた、と示唆されます。これは河南西部における遺伝的連続の中断を示唆しており、アジア東部南方関連の遺伝子流動の流入に起因します。このアジア東部南方関連祖先系統の増加についての節約的な説明は、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と比較してアジア東部南方関連の人々とも多くのアレルを共有していた黄河_LN関連祖先系統と関連する人口集団の大規模な東方への移住です。このモデルは対でのqpWave分析によって裏づけられ、黄河_LNと河南_北陽平_2.3kya/黄河_西周との間の遺伝的均質性を却下できません（図2B）。

　先行研究では明清王朝期の利用可能なゲノムは1点しか得られず、この個体は偶然にも遺伝的外れ値で、それは、この個体が同じ地域の以前の人々と比較して高い割合のアジア東部南方関連祖先系統を有していたからです。本研究では、明清期の親族関係にない12個体のゲノムが新たに生成されました（河南_万花_0.2–0.1kyaと分類表示されます）。これらの個体は遺伝的に相互と均質だった、と分かりました。さらに、河南_万花_0.2–0.1kya集団は同じ地域の以前の人々（黄河_LN、黄河中流_王城岡_二里頭、河南_南洼_3kya、河南_上石河_2.5kya、河南_北陽平_2.3kyaによって表されます）の混合していない子孫としてモデル化できました（図2B）。これらの結果は、中原における長期の遺伝的安定性を裏づけます。


●中原における親族関係慣行調査のデータと手法

　中原の上石河および東小李白龍墓地の広範な標本抽出および豊富な考古学的情報を活用して、ふくすうの個体から古代DNAが回収され、親族関係慣行が調べられました。READを用いて1親等および2親等の遺伝的関係が特定され、KINを用いて、最大3親等の親族が検出され、キョウダイと親子の組み合わせが区別されて、ancIBDが適用されて、最大6親等の生物学的近縁性が解明されました。


●上石河遺跡の遺伝的近縁性推定

　中国北部の河南省の義馬市に位置する上石河遺跡は、年代が春秋時代（紀元前770～紀元前403年）【研究史の項目では春秋時代の年代の終焉は紀元前476年とされていますが、春秋時代の終焉については昔から複数の見解があり、紀元前403年説もあります】の考古学的遺跡です。複数の考古学的証拠は、上石河遺跡における社会的階層化の存在を示唆しています。墓の向きに基づくと、墓は2種類に分類でき、それは南北方向の墓と東西方向の墓です。南北方向の墓に埋葬された個体群は、東西方向の墓に埋葬された個体群よりも高い社会的地位だった、と考えられており、上石河墓地は墓の向きによって区別される社会的に階層化された2集団に区別されていた、との仮説につながりました。ただ、遺伝的祖先系統および生物学的親族関係が上石河墓地で観察された社会的階層化をどのように形成したのかについいて、依然として重要な問題が残っています。

　本研究では、上石河墓地の38個体からゲノム規模データの回収に成功しました。親族関係にある個体の15組（最も近い関係で1親等～6親等の親族）のうち、10組は同じ墓の向きを共有している墓に埋葬されており、8組が南北方向、2組が東西方向の墓です。これは、社会的地位が、家族内および密接な生物学的親族間で安定的に継承された可能性が高いことを示唆しています。残りの5組は、2親等もしくはそれ以上の関係の個体群で構成されており、異なる向きの墓に埋葬されていました。注目すべきことに、これら5組の密接な親族関係のつながりのうち4組は女性と女性もしくは女性と男性のいずれかで、他の1例は2親等以上の親族関係男性と男性の組み合わせで、同じYHgを有していました。このパターンから、女性が婚姻を通じて社会的階級間の重要なつながりとして機能していた、と示唆されるかもしれませんが、この観察を確証するにはより大きな標本規模が必要です。

　上石河墓地の少なくとも男性2個体それぞれに存在する、4系統の主要なYHgが特定され、それは、（1）南北方向の墓の男性で多い、12個体のうち11個体に存在したQ1a1aおよびN1a2と、（2）男性3個体に存在したC2b1bで、そのうち2個体（SHM019、SSH-M85）は東西方向の墓に、1個体（SSH-M4）は南北方向の墓に埋葬されていました。そのうち、SSH-M4（南北方向の墓）とSHM019（東西方向の墓）は東西方向の墓のSSH-M85と密接な常染色体の親族関係を有していました。（3）さらに、東西方向の墓の3個体でO2a2b1a2a1が見つかり、そのうち2個体（KXHGM40とSSHM10）は3親等の親族でした。

　常染色体で密接な生物学的親族関係がある男性と男性の5組のうち4組は、墓の向きとY染色体系統の両方を共有しており、社会的階層化と父系の境界の高度な重なりが示唆され、父系継承の社会的構造と一致します。対照的に、mtDNA分析は顕著に高度なハプロタイプの多様性を明らかにしました。具体的には、38個体でmtDNAの異なる31系統が特定されました。親族の15組のうち1組、つまり3親等の親族であるKXHGM40とSSHM10のみが同じmtHgを共有していました。mtDNAおよびY染色体の分析を常染色体の親族関係推定と統合することによって、上石河墓地内でのおもに父系の家系構造が裏づけられます。


●東小李白龍墓地の遺伝的近縁性推定

　中国北部の河北省の雄安新区に位置する東小李白龍墓地は、前漢（西漢）王朝後期から後漢（東漢）王朝後期（紀元前206～紀元後220年）の民間墓地です。考古学的研究は、漢王朝期における夫婦の合慣行の出現を示唆してきました。しかし、考古学的証拠のみでは、合葬された個体が夫婦だったのか、それとも密接な生物学的親族（キョウダイやイトコなど）だったのかどうか、直接的には区別できません。さらに、骨格遺骸の断片化が多いため、形態学的特徴（たとえば、骨盤や頭蓋）が高精度な性別判定を提供できる場合でさえ、遺伝学的分析による分子性別特定がしばしば必要です。

　この研究では、東小李白龍墓地から26個体のゲノムの配列決定に成功し、その中には二重棺墓6基から得られた12個体のゲノム（M10、M21、M26、M43、M44、M56）が含まれます。これらの古代ゲノムは、これら合葬された個体群の生物学的親族関係および生物学的性別の直接的調査の機会を提供します。これら二重棺墓6基には、死亡時年齢が同等の、遺伝学的に女性の1個体と遺伝学的に男性の1個体が含まれていた、と分かりました。さらに、これらの個体は相互に遺伝的には親族関係になく、これらの個体は夫婦を表している可能性が高い、と示唆されますが、子供の遺伝学的証拠は検出されませんでした。5組の親子の組み合わせも再構築され、その中に同じ墓にともに埋葬された個体は存在しませんでした。このパターンは、親子の合葬が東小李白龍墓地では行なわれていなかった、との観察をうらに裏づけます。

　まとめると、これらの調査結果から、漢王朝の東小李白龍墓地によって表される社会は、祖先の系統による継承ではなく、婚姻同盟によって確立された関係をより重視していた、と示唆されるかもしれません。注目すべきことに、M10号墓には20～25歳の成人男性（DXL-M10bei）と6～8歳の女児（DXL-M10nan）が含まれていました。生物学的親族関係分析では、この2個体が父親と娘の組み合わせとは特定されず、この結果が信頼できるのは、124万パネルでの両者の重複SNPが1親等もしくは2親等の親族関係を推定するのに充分だからです。さらに、考古学的証拠から、DXL-M10beiの散在した人骨は二次移動から生じた可能性が高く、この慣行には、すでに埋葬された個体の再埋葬が含まれる、と示唆されています。親族関係にない女児との成人男性合葬は、この状況での合葬は必ずしも生物学的親族関係に基づいていなかった、との結論を補強します。


●黄河中流における6000～100年前頃の個体群のROHパターン

　4000年前頃の仰韶村遺跡［5］、3000～1000年前頃の路糸茜遺跡（黄河_西周、黄河_春秋、黄河_唐によって表されます）［9］の以前に刊行されたゲノムや、6000～5000年前頃の黄河および長江地域の最近刊行されたゲノム［3］で、ROH分析も実行されました。これら刊行されたゲノムのROHパターンは、これまで考察されてきませんでした。20cM超のROH断片の合計長は、近親交配の可能性を示唆しています。仰韶文化関連ゲノム（6000～5000年前頃）については、40個体のうち2個体がそれぞれ47cMと27cMの長いROHを有しており、これはマタイトコもしくはミイトコの間の子供であることと同等です。龍山文化関連ゲノム（4500～4000年前頃）については、4000年前頃の河南西部の7個体のうち2個体が100cM超の長いROHを示しており、これはイトコ愛゛たもしくはそれ以上の婚姻など、近親婚の存在を示唆しています。これらの結果は、黄河地域の仰韶文化および龍山文化関連社会における、低いものの無視できない水準の近親婚の存在を示唆していますが、このパターンの確証にはより大規模な標本が必要です。中原の3000～100年前頃の個体群における長いROH断片の欠如から、最近の近親交配は実質的に避けられていた、と示唆されます。


●考察

　この研究で提示された遺伝学的証拠は、新石器時代から歴史時代までの中原における人口動態の複雑なパターンを明らかにします。3点の重要な調査結果が、この重要な地域における先史時代の遺伝子流動および親族関係慣行に関する理解を一新します。

　新たに生成された暁塢標本は、黄河中流におけるこれまでで最古級の仰韶文化関連ゲノムの一つを表しています。初期～後期の仰韶文化の人々は単一の祖先供給源に起源がある、と分かり、地域的な遺伝的連続性に相当します（図3A）。考古学的記録は、仰韶文化期の後の黄河中流における大きな文化的変化を証明しています。4300年前頃までに、河南西部の新石器時代文化は山西省南部の陶寺遺跡に因んで命名された、陶寺文化によってほぼ置換されたようです。最近の古代ゲノム研究では、山西および陝西地域の4000年前頃の個体群（陶寺遺跡と石峁遺跡と蘆山峁遺跡によって表されます）は、北方草原地帯および中原関連祖先系統の混合特性を共有している、と示唆されています［29］。陽平寨遺跡の新たに生成された4000年前頃の個体群における遺伝的パターンの調査から、河南西部の人口集団も石峁_LNと類似した祖先系統を示す、と示唆されます（図3B）。河南西部の仰韶文化と関連する人々には、石峁_LN関連の祖先構成要素は観察されませんでした。龍山文化期の河南西部における石峁_LN関連の遺伝的構成要素の出現は、山西および陝西地域の人口集団との人口統計学的つながりを反映しています。陽平寨遺跡の遺伝的外れ値1個体が、4000年前頃の河南中央部でも優勢だった祖先構成要素（黄河_LNによって表されます）を示すことも分かりました。この結果は、龍山文化期における河南の中央部と西部の間の個体もしくは小規模な人口移動を示唆しています。以下は本論文の図3です。
<a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Wang20et20al.2026E38080E9BB84E6B2B3E4B8ADE6B581E59F9FE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026062629E59BB33.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Wang20et20al.2026E38080E9BB84E6B2B3E4B8ADE6B581E59F9FE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026062629E59BB33.jpeg" alt="&#x753B;&#x50CF;" width="365" height="531" /></a>
　殷王朝は文字記録が残る中華文明で最初の王朝です。新たに生成された古代ゲノムは、河南中央部の殷王朝の人々が河南龍山文化および二里頭文化関連の人々の直接的な子孫であるだけではなく、河南中央部において同じ地域の3000～2000年前頃の人々（西周や東周や春秋戦国時代を含みます）および明清期の人々（200～100年前頃）の直接的祖先でもあった、との直接的な遺伝学的証拠を提供しており、河南中央部における長期の遺伝的安定性が示唆されます。興味深いことに、龍山文化期（4000年前頃）において、黄河中流の河南中央部および西部と黄河下流の山東半島と黄河上流の青海の人々は、遺伝的に均質でした（図3B）。しかし、河南中央部と西部との間の地域的な差異が少なくとも周王朝までに消滅した一方で、黄河の中流と下流と上流の地域間の差異は少なくとも漢王朝までに消滅しました（図3C）。これらの遺伝的変化は、すべて、黄河_LN関連祖先系統の強力な拡大によって引き起こされ、黄河全域の高度に均質な遺伝子プールが生じました。

　考古学的および歴史的記録から、中原は過去3000年間にわたって、戎狄と匈奴によって代表されるいくつかの強力な政治勢力と隣接していた、と示されています。戎狄と鮮卑と匈奴による中原への移住に関する歴史的記述にも関わらず、本論文の遺伝学的分析は、それに相当する有意な人口統計学的流入を明らかにしていません。この不一致はいくつかの要因のためかもしれず、たとえば、広範な人口混合ではなく支配層の主導による限定的な規模の文化的および政治的統合か、あるいは、関連する人口集団の現時点の標本抽出における空白です。しかし、非漢人の帰属意識を有する人々が、漢人と通婚した可能性を除外できません。たとえば、河南西部の路糸茜遺跡における春秋時代の以前に刊行された古代人のゲノムは、副葬品に基づいて戎狄と特定されましたが、典型的な中原関連祖先系統を示しました［9］。これらの結果は、中原に移住した戎狄が在来の人々による強い遺伝的同化を受けた、と裏づけています。f統計が、標本規模の増加にも関わらず、密接に関連する祖先系統を含む事象の再構築にあって、充分な検出力を常に有しているわけではないことは、注目に値します。したがって、殷および秦代以降の遺伝的安定性に関する結論は、方法論的限界に影響を受けているかもしれません。本研究の方法論的限界は、人口動態の包括的理解をいくぶん制約しています。ハプロタイプに基づく詳細な規模の人口下部構造分析には、被覆度0.5倍超のショットブラストゲノムを生成したさらなる研究が不可欠でしょう。

　二つの事例研究では、鉄器時代の中国北部における社会組織を調べるためにも、古代ゲノムデータが活用されました。春秋時代の上石河遺跡では、墓の向き（社会的地位の代理）と密接な常染色体の親族関係と共通のY染色体系統の間に明確な相関が観察されました。密接な親族関係にある男性同士の5組のうち4組は墓の向きとYHgの両方を共有しており、社会的地位の父系継承とのモデルが強く裏づけられます。密接な親族間でさえ見られるひじょうに高度なミトコンドリアハプロタイプの多様性は、父方居住パターンとさらに一致します。墓の向きが異なる親族5組のうち4組に女性が含まれているパターンも、女性が婚姻によって親族集団もしくは社会的階層間で移動し、父系制度における遺伝的および社会的接合者として機能したことを示唆しています。漢王朝期の東小李白龍遺跡では、5組の親子が特定され、そのうち同じ墓にともに埋葬された個体は存在ませんでした。6基の二重棺墓も調べられ、各墓には近い死亡年齢の生物学的な成人男性1個体および成人女性1個体が含まれていました。これらの個体は相互と遺伝的親族関係にはなく、これらの個体は夫婦を表している可能性が高い、と示唆されますが、子供の遺伝学的証拠は検出されませんでした。これらの結果は、漢王朝における夫婦の合葬との考古学的仮説を裏づけます。さらに、成人男性1個体が遺伝学的に親族関係にない少女（6～8歳）と埋葬されていた墓も発見されました。これが示唆するのは、墓の埋葬についての社会的規範が夫婦以外にも拡張されており、生物学的親族関係ではなく、養子に迎えた子供など社会的結びつきによってつながった個体を組み込んでいた可能性です。


参考文献：
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      <content:encoded><![CDATA[
　黄河中流域の人類遺骸のゲノムデータを報告した<a href="https://doi.org/10.1093/nsr/nwag395"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Wang et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン（大清帝国、清王朝）の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。なお、当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します。<br /><br />　本論文は、黄河中流域で発見された、中期新石器時代～明清期となる6200～100年前頃の人類遺骸112個体の新たなゲノムデータを報告しています。その結果、後期新石器時代の後の個体の主要な遺伝的祖先系統（祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry）は、最古となる6200年前頃の個体に由来する、と推定されています。一方で後期新石器時代には、文化的変容に遺伝的変化が伴っていたことも示されました。その後、後期新石器時代の黄河中流域集団的な遺伝的構成要素が広範に拡大しました。また本論文は遺伝的親族関係も調べており、社会的地位は、2500年前頃には家族内および密接な生物学的親族間で安定的に継承されたのに対して、2000年前頃には生物学的親族よりも婚姻同盟の方が重視されていた、と示唆されています。<br /><br />　以下の略称は、DNA（deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸）、mtDNA（mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA）、mtHg（mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ）、YHg（Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ）、SNP（Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、HO（Human Origins、ヒト起源）、PCA（principal component analysis、主成分分析）、PC1（first principal component、第一主成分）、PC2（second principal component、第一主成分）、km（kilometre、kilometer、キロメートル）、kya（kilo years ago、千年前）、KIN（Kinship INference、親族関係の推測）、READ（Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定）、ROH（runs of homozygosity、同型接合連続領域）、cM（centimorgan、センチモルガン）、AR（Amur River、アムール川）です。<br /><br />　以下の時代区分の略称は、N（Neolithic、新石器時代）、EN（Early Neolithic、前期新石器時代）、MN（Middle Neolithic、中期新石器時代）、LN（Late Neolithic、後期新石器時代）、BA（Bronze Age、青銅器時代）、LBA（Late Bronze Age、後期青銅器時代）、LBIA（Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代～鉄器時代）、IA（Iron Age、鉄器時代）、HE（historical era、歴史時代）です。本論文で取り上げられる主要な文化は、仰韶（Yangshao）文化、龍山（Longshan）文化、良渚（Liangzhu）文化、崧沢（Songze）文化、大渓（Daxi）文化、曇石山（Tanshishan）文化、二里頭（Erlitou）文化、斉家（Qijia）文化です。本論文で取り上げられる主要な集団は、戎狄（Rong-Di）です。<br /><br />　本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国河南省の遺跡は、義馬（Yima）市の上石河（Shangshihe）墓地、武陟（Wuzhi）県の万花（WanHua）遺跡、登封（Dengfeng）市の南洼（NanWa）遺跡、霊宝（Lingbao）市の陽平寨（Yangpingzhai）遺跡と底董（Didong）遺跡と暁塢（Xiaowu）遺跡、三門峡（Sanmenxia）市の北陽平（Beiyangping）遺跡、澠池（Mianchi）県の仰韶村（Yangshaocun）、滎陽（Xingyang）市の汪溝（Wanggou）遺跡と路糸茜（Lusixi）遺跡です。<br /><br />　本論文で取り上げられる河南省以外の中華人民共和国の主要な遺跡は、河北省の雄安新区（Xiongan New Area）の東小李白龍（Dongxiaoli-Bailong）遺跡、陝西省神木（Shenmu）市の石峁（Shimao）遺跡と延安市の蘆山峁（Lushanmao）遺跡、山西省襄汾（Xiangfen）県の陶寺（Taosi）遺跡、甘粛省の黒水国（Heishuiguo）遺跡と佛爺廟湾（Foyemiaowan）遺跡、上海市の閔行（Minhang）区の馬橋（Maqiao）遺跡と青浦（Qingpu）区の福泉山（Fuquanshan）遺跡、広西チワン族自治区の宝剣山（Baojianshan）洞窟と田東（Tiandong）県の林逢（Linfeng）鎮の独山洞窟（Dushan Cave）、山東省の王城岡（Wangchenggang）遺跡、福建省の渓頭村（Xitoucun、Xitoucun）遺跡です。本論文で取り上げられる中国以外の遺跡と地域は、チベット高原の山南（Shannan）地域とナクチュ（Nagqu）県とメブラク（Mebrak）遺跡、台湾の漢本（Hanben）遺跡です。<br /><br /><br /><strong>●要約</strong><br /><br />　アジア東部の文明の重要な発祥地として、黄河中流域は長く、ヒトの文化的および生物学的進化の研究の焦点となってきました。しかし、その定住の歴史や親族関係慣行は、古代ゲノムデータの不足のため、依然として不明です。本研究では、6200～100年前頃となる、黄河中流域の8ヶ所の考古学的遺跡から新たに配列決定された古代人112個体のゲノムを提示します。本論文の分析から、すべての後期個体は最終的にはその主要な祖先系統が、仰韶文化の中核地域からの最古級のゲノムとなる、本研究で新たに生成された河南西部の6200年前頃のゲノムによって表される、地元の初期人口集団にたどれる、と示唆されます。2回のその後の大きな人口統計学的変容も特定されました。最初は、龍山文化期の河南西部における4500年前頃の文化的変容と関連する遺伝的変化で、これは陝西および山西人口集団の拡大と関連しているかもしれません。この後に、河南中央部関連祖先系統の2000年間にわたる拡大があり、これによって、ユーラシア草原地帯もしくはその近隣の外国勢力からの有意な遺伝的寄与とは無関係に、黄河流域全体の遺伝的景観が均質化しました。<br /><br />　本論文は、人口統計学的歴史に加えて、2点の事例研究を通じて、古代の社会構造への知見を提供します。2500年前頃の上石河遺跡では、証拠から、社会的地位は家族内および密接な生物学的親族間で安定して継承された、と示唆されています。2000年前頃の東小李白龍遺跡によって表される社会は、祖先の系統による継承ではなく、婚姻同盟によって築かれた関係により重きを置いていたようです。まとめると、本研究は、世界の最古級の農耕中心地の1地域における局所的な連続性と長距離の人口接続との間の複雑な相互作用を明らかにし、鉄器時代中国北部における社会構造に新たな知見を提供します。<br /><br /><br /><strong>●研究史</strong><br /><br />　仰韶文化（7000～5000年前頃）は黄河流域起源で、中国で発見された最古級かつ最も重要で、最も広範に研究された新石器時代文化の一つです。その中核地域は、黄河中流の現在の河南省西部と山西省南部と陝西省東部に位置します。遺跡の分布はとくに河南省西部の三門峡地域、とりわけ霊宝市に密集しており、霊宝市では、霊宝を中心とする1000km²の地域内で、193ヶ所の新石器時代遺跡が特定されてきました。考古学的研究は、黄河中流の仰韶文化と関連する人口集団の人口統計学的歴史に新たな知見を提供してきており、仰韶文化の人口拡大を裏づけています［3、4］。しかし、これまで、河南省西部の仰韶文化期から得られた古代ゲノムデータは依然としてひじょうに限られており、2点のゲノムが報告されただけで、それぞれ前期および中期の仰韶文化期と関連しています［5、6］。仰韶文化の中核地域から得られた古代ゲノムデータの少なさから重要な問題が未解決になっており、それは、仰韶文化の中核地域内の人口集団は遺伝的に均質だったのか、それとも周辺文化との相互作用を通じて存続していたかもしれない、人口構造を示していたのか、という問題です。<br /><br />　中原の肥沃な土地と戦略的位置は、とくに龍山文化期と中国の初期王朝において、顕著な農耕の発展および人口増加を促進しました。4300年前頃までに、河南西部では龍山文化の亜型である陶寺文化と関連する文化的遺物が見られます。以前の古代ゲノム研究では、河南西部の龍山文化期の人々（黄河_仰韶村_龍山によって表されます）［5］は。河南中央の部以前に刊行された同時代の人々（黄河_MNによって表されます）が有していた、アジア東部南方関連祖先系統を受け継いでおらず、むしろ、石峁文化と関連する陝西北部の同時代の集団である、石峁_LNと遺伝的には均質だった、と示唆されました。より広範な人口集団の変化が河南西部で仰韶文化期および龍山文化期に起きたのかどうか、あるいは、これが単なる例外だったのかどうか、判断するには、河南西部の龍山文化からより多くの標本が必要です。さらに、中原は、その境界内で20以上の王朝が首都を築いたことによって証明されるように、数千年にわたって中華文明の政治と経済と文化の中心地として機能しました。しかし、この地域は王朝交替や内紛や外部勢力の侵入（たとえば、戎狄や匈奴や鮮卑のような集団から）などの要因によって、顕著な変化を経てきました。先行研究は調査対象の特定期間における中原内の高水準の遺伝的安定性の証拠を報告しており、西周王朝（紀元前1046～紀元前770年）や春秋時代（紀元前770～紀元前476年）や唐王朝（618～907年）の個体群では、顕著な遺伝的置換はありませんでした［9］。ただ、その研究には春秋時代の後のデータはほとんど含まれておらず、単一の考古学的遺跡からのゲノム情報に依拠していました。したがって、重要な問題が依然として解決されておらず、それは、北方草原地帯と中原との間の文化的相互作用には、古代中国史を通じての重要な王朝期に、どの程度の人口混合を含んでいたか、というものです。<br /><br />　本研究では、中国北部の河南省および河北省で発掘された、新たに報告される112個体のゲノム規模古代DNAデータを報告します（図1A）。これらのデータは利用可能なゲノム記録を大きく拡張し、河南西部の初期仰韶文化関連の3個体および龍山文化関連の9個体を含んでおり、中原の殷（商）王朝（3000年前頃）から清王朝（200～100年前頃）の個体数を3倍としました（表1）。以下は本論文の図1です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Wang20et20al.2026E38080E9BB84E6B2B3E4B8ADE6B581E59F9FE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026062629E59BB31.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Wang20et20al.2026E38080E9BB84E6B2B3E4B8ADE6B581E59F9FE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026062629E59BB31.jpeg" alt="画像" width="365" height="365" class="up-image" title="図1" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Wang20et20al.2026E38080E9BB84E6B2B3E4B8ADE6B581E59F9FE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026062629E59BB31.jpeg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br /><br /><strong>●DNA解析</strong><br /><br />　中国北部の河南省および河北省の8ヶ所の考古学的遺跡からデータが生成され、約6000年間の古代ゲノム時間横断区にわたります。これらのデータを得るために、骨格要素および歯からDNAが抽出され、119点の二本鎖遺伝的ライブラリが生成され、そのうち69点は124万ゲノム規模SNP（124万SNP）の標的一式で捕獲されました。さらに、2点の測定基準を用いて古代DNAの真正性が評価され、つまり、古代DNAの損傷パターンと、mtDNAおよびX染色体に基づく汚染推定値です。その結果、全個体は典型的なDNA損傷パターン（つまり、配列決定読み取りの5’末端および3’末端における高い割合のシトシンからチミンおよびグアニンからアデニンへの置換）を示した、と分かりました。高い汚染率（5%超）もしくは124万パネルでSNP数の少ない（2万ヶ所未満）の標本の除去後に、112個体が保持されました。<br /><br />　その後の集団遺伝学的分析のため、SNP数の少ない新たに生成された112個体から1親等および2親等の親族（READソフトウェアから推定）が除外されました。これによって90個体が保持され、そのSNP数は124万パネルで27697～1226898ヶ所の範囲でした。最後に、これらのデータが以前に刊行されたユーラシアの古代および現在の個体群と組み合わされました。<br /><br /><br /><strong>●黄河中流の新たに生成された個体群における遺伝的類似性の概要</strong><br /><br />　より広範な地域の他の古代の人口集団およびアジア東部現代人と比較しての、黄河中流のすべての配列決定された個体の遺伝的構造の概要を得るために、まずPCAが実行されました。HOデータセットのアジア東部現代人における差異を用いて計算された最初の2主成分に、すべての古代の個体が投影されました。その結果、黄河中流の新たに生成された個体群と以前に刊行された個体群は相互と密接な類似性を示す、と分かりました。これらの結果は対での外群f3統計によっても裏づけられ（図2A）、黄河流域古代人は他のすべての検証対象の人口集団とよりも相互の方と多くの遺伝的浮動を共有していた、と示されています。以下は本論文の図2です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Wang20et20al.2026E38080E9BB84E6B2B3E4B8ADE6B581E59F9FE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026062629E59BB32.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Wang20et20al.2026E38080E9BB84E6B2B3E4B8ADE6B581E59F9FE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026062629E59BB32.jpeg" alt="画像" width="365" height="162" class="up-image" title="図2" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Wang20et20al.2026E38080E9BB84E6B2B3E4B8ADE6B581E59F9FE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026062629E59BB32.jpeg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　PCA図では、黄河中流の以前に刊行された古代の個体群は3個の遺伝的クラスタ（まとまれ）を形成し、第一は5000年前頃の仰韶文化個体群（黄河_MNによって表されます）［6］、第二は河南中央部の4000年前頃の龍山文化から3000年前頃の個体群（黄河_LN、黄河_LBIAによって表されます）［6、9、11］、第三は陝西北部の4000年前頃の石峁文化個体群（石峁_LNによって表されます）と河南西部の仰韶村遺跡の4000年前頃の龍山文化個体群（黄河_仰韶村_龍山によって表されます）［5］です（図1B）。河南西部の新たに生成された初期仰韶文化関連個体群（河南_暁塢_6kyaと分類表示されます）は黄河_MNとまとまりました（図1B）。陽平寨遺跡の4個体（河南_陽平寨_4.5–4kya_1と分類表示されます）は、黄河_MNおよび黄河_仰韶村_龍山との密接な類似性を示しました（図1B）。陽平寨遺跡のもう一方の新たに生成された龍山文化関連個体群（河南_陽平寨_4.5–4kya_2と分類表示されます）のゲノムは、黄河_LNとまとまりました（図1B）。<br /><br />　黄河中流の仰韶文化および龍山文化関連の個体群で観察された遺伝的多様性とは対照的に、3000～100年前頃の同じ地域の新たに生成された親族関係にない79個体は、PCA図では顕著な人口下部構造を示しませんでした（図1B）。これらの個体に含まれていたのは、河南西部の南洼遺跡の4個体（河南_南洼_3kyaと分類表示されます）、河南西の上石河遺跡の春秋時代の35個体（河南_上石河_2.5kyaと分類表示されます）、2300～2100年前頃と直接的に年代測定された底董遺跡の4個体（河南_底董_2kyaと分類表示されます）、河南の北陽平遺跡の東周王朝の7個体（河南_北陽平_2.3kyaと分類表示されます）、河北の東小李白龍遺跡の漢王朝の20個体（河北_東小李白龍_2kyaと分類表示されます）、河南の万花遺跡の明清王朝の12個体（河南_万花_0.2–0.1kyaと分類表示されます）です。底董遺跡の1個体は、おもにHOデータセットにおける超低被覆度のため、主要なクラスタ（まとまり）から逸れていることに要注意です。その後の定量的分析のため、考古学的遺跡および遺伝学的分類に基づいて個体群が分類されました。<br /><br /><br /><strong>●仰韶文化の中核地域の初期仰韶文化関連の人々</strong><br /><br />　暁塢遺跡の親族関係にない初期仰韶文化関連2個体のゲノム（河南_暁塢_6kyaと分類表示されます）が新たに生成され、この2個体は黄河中流の河南西部から得られたこれまでで最古級の仰韶文化関連個体のゲノムを表しています。新たに生成された初期仰韶関連文化個体群と後期仰韶文化関連個体群（汪溝遺跡の5200年前頃の黄河_MN個体群によって表されます）との間の遺伝的関係を定量化するために、f3形式（ヨルバ人；対象、参照）でf3統計が実行されました。この分析では、初期仰韶文化の暁塢および後期仰韶文化の黄河_MNが相互と高水準の遺伝的浮動を共有していた、と示され、黄河中流の仰韶文化関連の人々における高度な遺伝的連続性が示唆されます。<br /><br />　黄河中流の仰韶文化関連の人々が仰韶文化の中核地域の初期仰韶文化関連個体群の直接的な子孫だったのかどうか、評価するために、対でのqpWave分析でこの仮説が形式的に調べられました。その結果、単一の供給源、つまり河南_暁塢_6kyaが黄河中流の後期仰韶文化の人々の遺伝的構成をうまく説明できる、と分かりました（図2B）。f4形式（ヨルバ人、X；河南_暁塢_6kya、黄河_MN）のf4統計も計算され、初期仰韶文化個体群と後期仰韶文化個体群の、本論文のデータセットで利用可能なユーラシアの古代人233個体との異なる類似性の可能性が検証されました。後期仰韶文化の人々が初期仰韶文化の人々の混合していない子孫だったならば、すべてのf4統計は有意ではない、と予測されます。その結果、ほぼすべてのf4統計では有意ではない値が生成された、と分かり、河南_暁塢_6kyaと黄河_MNは比較対象の人口集団と同様に関連していた、と示唆されます。おもな例外は、河南_暁塢_6kyaが黄河_MNと比較して一部の古代チベット人とより大きな遺伝的類似性を共有していた事例で、たとえば、f4（ヨルバ人、山南3k/ナクチュ2.7k/メブラク［12］；河南_暁塢_6kya、黄河_MN）が0未満（−3.465 < Z得点< −2.547）でした。初期仰韶文化人口集団が一部の古代チベット人と追加の遺伝的類似性を要していた可能性は、除外できません。<br /><br /><br /><strong>●石峁_LNおよび黄河_LNの両者の関連する系統は河南西部の4000年前頃の龍山文化関連の人々で観察されました</strong><br /><br />　仰韶文化および龍山文化個体群が河南西部で経時的に遺伝的連続性の証拠を示すのかどうか、評価するために、f3（ヨルバ人；河南_陽平寨_4.5–4kya_1、河南_陽平寨_4.5–4kya_2、参照）が計算されました。その結果、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と河南_陽平寨_4.5–4kya_2の両者は在来の初期仰韶文化関連の人々（河南_暁塢_6kyaによって表されます）と密接な類似性を示す、と観察されました。これらの結果は、河南西部における仰韶文化集団と龍山文化集団との間の遺伝的連続性を裏づけます。<br /><br />　次に、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と河南_陽平寨_4.5–4kya_2の祖先供給源の特定が試みられました。黄河_MNが参照人口集団として用いられたのは、河南_陽平寨_4.5–4kyaの人々と高度な遺伝的浮動を共有しており、欠失率が低く、標本規模が大きいからです。対でのqpWave分析は、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と河南_陽平寨_4.5–4kya_2が黄河_MNの混合していない子孫だった、とのモデルを却下しました（図2B）。f4形式（ヨルバ人、X；河南_陽平寨_4.5–4kya_1、黄河_MN）のf4統計でも、河南_陽平寨_4.5–4kya_1は、黄河_仰韶村_龍山で観察されたパターンと同様に、黄河_MNの場合よりも、アジア北東部およびチベットの古代人と有意に高い類似性を有していました。さらに、外群f3統計では、河南_陽平寨_4.5–4kya_1は、石峁_LNと遺伝的に均質だった、以前に刊行された仰韶村遺跡の龍山文化関連の人々と高度な遺伝的浮動を共有していました。対でのqpWave分析では、河南_陽平寨_4.5–4kya_1の祖先組成は黄河_仰韶村_龍山/石峁_LNによって適切に説明できる、と観察されました（図2B）。黄河_仰韶村_龍山と河南_陽平寨_4.5–4kya_1の両方における石峁_LN関連遺伝的特性の存在は、陝西北部と華南西部との間のより広範な遺伝的つながりを示唆しています。<br /><br />　次に、河南_陽平寨_4.5–4kya_2の遺伝的組成の調査に焦点が当てられました。f4形式（ヨルバ人、X；河南_陽平寨_4.5–4kya_2、黄河_MN）のf4統計では、黄河_MNと比較して、河南_陽平寨_4.5–4kya_2はアジア東部南方関連集団（台湾_漢本によって表されます）とより多くのアレル（対立遺伝子）を共有していた（Z得点は−2.376）、と観察されました。qpAdmで実行された2供給源混合モデル化では、黄河中流関連祖先系（黄河_MNによって表されます）とアジア東部南方関連祖先系統（5400年前頃の崧沢_福泉山と5300年前頃の良渚_馬橋と長江中下流域の6000年前頃の大渓_大渓_2［3］、アジア東部南方内陸部の8300～6400年前頃の独山洞窟および宝剣山［13］も4300年前頃の曇石山および4500年前頃の渓頭村［14］、1500年前頃の台湾_漢本［15］によって表されます）を用いると、河南_陽平寨_4.5–4kya_2に適している、と明らかになりました。このモデルでは、河南_陽平寨_4.5–4kya_2における20.6±4.8%～65.5±12.3%の祖先系統がアジア東部南方関連（台湾_漢本、良渚_馬橋、崧沢_福泉によって表されます）である、と推定されました。qpWave分析は、河南_陽平寨_4.5–4kya_2と黄河_LNとの間の遺伝的均質性を裏づけます（図2B）。<br /><br />　まとめると、これらの調査結果は、河南西部の龍山文化個体群における、それぞれ当初は河南中央部の黄河_LNおよび陝西北部の石峁_LNと報告された、遺伝的に区別できない2系統の存在を明らかにしています。<br /><br /><br /><strong>●中国の王朝期における黄河全域で高度につながった遺伝子プール</strong><br /><br />　次に、殷王朝が樹立された3500年前頃以降の、中国の王朝期における中原の人口統計学的歴史が調べられました。124万パネルで充分なSNP被覆度がある、放射性炭素年代測定で3300～100年前頃の6ヶ所の遺跡から出土した、河北と河南の親族関係にない82個体のデータが分析されました。まずPCAに焦点を当てると、河南の新たに配列決定された新石器時代標本とは対照的に、河南および河北の3000～100年前頃の全個体は人口下部構造を示さない、と分かりました（図1B）。これらの全個体は、以前に特徴づけられた黄河_LN関連祖先系統との遺伝的類似性を示しました。外群f3統計も、中原におけるこれら3000～100年前頃の個体間の密接な関係を裏づけます（図2A）。これらの結果は、帝国拡大に続く、中原の遺伝的組成の祖先系統の変化と複雑さの減少を示唆しています。<br /><br />　次に、形式的検定を用いて、これらの集団が遺伝的に均質だったのかどうか、調べられました。中原における殷王朝の首都と古代中国の他地域との間のつながりの、充分に報告された証拠があります。たとえば、長江中流の金属資源、長江下流の硬質土器や原初的な磁器、東方沿岸の塩、北方草原地帯の家畜ウマ、遠く南シナ海の貝殻や亀の甲羅さえ、すべてが殷王朝の首都に集中していました。資源の流れに、殷の首都の遺伝的組成を形成した大規模な人口移動が伴っていたのかどうかは、依然として不明です。f4（ヨルバ人、X；河南_南洼_殷、黄河_LN/黄河中流_王城岡_二里頭）を用いて、龍山文化および二里頭文化と関連するゲノム［11］および中原の殷王朝の新たに生成された親族関係にない5個体のゲノムを比較すると、f4値のほとんどは有意ではなかった、と観察されました。これが示唆するのは、河南中央部の在来の先行する龍山文化および二里頭文化の人々と比較して、殷王朝の人々が他系統から追加の遺伝的寄与を受けなかったことです。<br /><br />　歴史的記録によると、東周王朝期の戎狄や漢王朝期の匈奴など、中原への非漢人集団の頻繁な侵入がありました。そこで次に、これらの遊牧民人口集団から中原の遺伝子プールへの顕著な遺伝子移入がこれらの期間に起きたのかどうか、評価することに焦点が当てられました。中国北西部の斉家文化（黄河上流_LN［6］によって表されます）、中国北東部の古代鮮卑のゲノム（AR_鮮卑_IA［6］によって表されます）、モンゴル高原の古代匈奴のゲノム（モンゴル_匈奴、初期匈奴_西方、初期匈奴_他［19、20］によって表されます）と関連する古代ゲノムを用いて、それぞれ戎狄と鮮卑と匈奴の遺伝的組成が表されました。新たに生成された東周王朝集団（河南_上石河_2.5kya、河南_北陽平_2.3kyaと分類表示されます）と漢王朝集団（河北_東小李白龍_2kyaと分類表示されます）が、黄河_LNと比較して有意な戎狄/匈奴/鮮卑関連祖先系統を受け継いでいたならば、f4形式（ヨルバ人、X；研究対象集団、黄河_LN）のf4統計では負の値が予測されます。しかし、ほとんどのf4統計では有意ではない値（Z得点が3未満）が得られました。これらの結果から、多様なユーラシア古代人と比較して、3000～2000年前頃の各河南集団と2000年前頃の河北集団は、龍山文化期の中原における優勢な遺伝的構成だった黄河_LNとクレード（単系統群）を形成する、と明らかになります。対でのqpWave分析も、3000～2000年前頃の各河南集団と2000年前頃の河北集団が、代表的なユーラシア系統の一覧と比較して単系統群であること一致する、と裏づけており、中原の長期の遺伝的安定性がさらに裏づけられます（図2B）。さらに、対でのqpWave分析も、新たに生成された黄河中流の中原集団と黄河下流の歴史時代の集団（山東_HEによって表されます）と黄河上流集団（黒水国_HE、佛爺廟湾_HEによって表されます）農耕のゲノム間の遺伝的均質性を裏づけています（図2B）。<br /><br />　留意すべきは、河南_北陽平_2.3kyaと関連する新たに配列決定されたゲノムと、再分析された刊行されている3000年前頃の黄河_西周（黄河_LBIAに統合されて分類表示されます）がすべて、4000年前頃の陽平寨遺跡と同じ地域から得られたことです。河南_北陽平_2.3kyaと以前に刊行された3000年前頃の黄河_西周はPCAではともにクラスタ化する（まとまる）と分かり、これらの集団が3000～2300年前頃の河南西部では主要な祖先系統を表しているかもしれない、と示唆されます。f4統計ではさらに、河南_北陽平_2.3kyaと黄河_西周は、同じ地域の4000年前頃のゲノム（黄河_仰韶村_龍山、河南_陽平寨_4.5–4kya_1によって表されます）と比較して、アジア東部南方関連の人々と多くのアレルを共有していた、と示唆されます。これは河南西部における遺伝的連続の中断を示唆しており、アジア東部南方関連の遺伝子流動の流入に起因します。このアジア東部南方関連祖先系統の増加についての節約的な説明は、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と比較してアジア東部南方関連の人々とも多くのアレルを共有していた黄河_LN関連祖先系統と関連する人口集団の大規模な東方への移住です。このモデルは対でのqpWave分析によって裏づけられ、黄河_LNと河南_北陽平_2.3kya/黄河_西周との間の遺伝的均質性を却下できません（図2B）。<br /><br />　先行研究では明清王朝期の利用可能なゲノムは1点しか得られず、この個体は偶然にも遺伝的外れ値で、それは、この個体が同じ地域の以前の人々と比較して高い割合のアジア東部南方関連祖先系統を有していたからです。本研究では、明清期の親族関係にない12個体のゲノムが新たに生成されました（河南_万花_0.2–0.1kyaと分類表示されます）。これらの個体は遺伝的に相互と均質だった、と分かりました。さらに、河南_万花_0.2–0.1kya集団は同じ地域の以前の人々（黄河_LN、黄河中流_王城岡_二里頭、河南_南洼_3kya、河南_上石河_2.5kya、河南_北陽平_2.3kyaによって表されます）の混合していない子孫としてモデル化できました（図2B）。これらの結果は、中原における長期の遺伝的安定性を裏づけます。<br /><br /><br /><strong>●中原における親族関係慣行調査のデータと手法</strong><br /><br />　中原の上石河および東小李白龍墓地の広範な標本抽出および豊富な考古学的情報を活用して、ふくすうの個体から古代DNAが回収され、親族関係慣行が調べられました。READを用いて1親等および2親等の遺伝的関係が特定され、KINを用いて、最大3親等の親族が検出され、キョウダイと親子の組み合わせが区別されて、ancIBDが適用されて、最大6親等の生物学的近縁性が解明されました。<br /><br /><br /><strong>●上石河遺跡の遺伝的近縁性推定</strong><br /><br />　中国北部の河南省の義馬市に位置する上石河遺跡は、年代が春秋時代（紀元前770～紀元前403年）【研究史の項目では春秋時代の年代の終焉は紀元前476年とされていますが、春秋時代の終焉については昔から複数の見解があり、紀元前403年説もあります】の考古学的遺跡です。複数の考古学的証拠は、上石河遺跡における社会的階層化の存在を示唆しています。墓の向きに基づくと、墓は2種類に分類でき、それは南北方向の墓と東西方向の墓です。南北方向の墓に埋葬された個体群は、東西方向の墓に埋葬された個体群よりも高い社会的地位だった、と考えられており、上石河墓地は墓の向きによって区別される社会的に階層化された2集団に区別されていた、との仮説につながりました。ただ、遺伝的祖先系統および生物学的親族関係が上石河墓地で観察された社会的階層化をどのように形成したのかについいて、依然として重要な問題が残っています。<br /><br />　本研究では、上石河墓地の38個体からゲノム規模データの回収に成功しました。親族関係にある個体の15組（最も近い関係で1親等～6親等の親族）のうち、10組は同じ墓の向きを共有している墓に埋葬されており、8組が南北方向、2組が東西方向の墓です。これは、社会的地位が、家族内および密接な生物学的親族間で安定的に継承された可能性が高いことを示唆しています。残りの5組は、2親等もしくはそれ以上の関係の個体群で構成されており、異なる向きの墓に埋葬されていました。注目すべきことに、これら5組の密接な親族関係のつながりのうち4組は女性と女性もしくは女性と男性のいずれかで、他の1例は2親等以上の親族関係男性と男性の組み合わせで、同じYHgを有していました。このパターンから、女性が婚姻を通じて社会的階級間の重要なつながりとして機能していた、と示唆されるかもしれませんが、この観察を確証するにはより大きな標本規模が必要です。<br /><br />　上石河墓地の少なくとも男性2個体それぞれに存在する、4系統の主要なYHgが特定され、それは、（1）南北方向の墓の男性で多い、12個体のうち11個体に存在したQ1a1aおよびN1a2と、（2）男性3個体に存在したC2b1bで、そのうち2個体（SHM019、SSH-M85）は東西方向の墓に、1個体（SSH-M4）は南北方向の墓に埋葬されていました。そのうち、SSH-M4（南北方向の墓）とSHM019（東西方向の墓）は東西方向の墓のSSH-M85と密接な常染色体の親族関係を有していました。（3）さらに、東西方向の墓の3個体でO2a2b1a2a1が見つかり、そのうち2個体（KXHGM40とSSHM10）は3親等の親族でした。<br /><br />　常染色体で密接な生物学的親族関係がある男性と男性の5組のうち4組は、墓の向きとY染色体系統の両方を共有しており、社会的階層化と父系の境界の高度な重なりが示唆され、父系継承の社会的構造と一致します。対照的に、mtDNA分析は顕著に高度なハプロタイプの多様性を明らかにしました。具体的には、38個体でmtDNAの異なる31系統が特定されました。親族の15組のうち1組、つまり3親等の親族であるKXHGM40とSSHM10のみが同じmtHgを共有していました。mtDNAおよびY染色体の分析を常染色体の親族関係推定と統合することによって、上石河墓地内でのおもに父系の家系構造が裏づけられます。<br /><br /><br /><strong>●東小李白龍墓地の遺伝的近縁性推定</strong><br /><br />　中国北部の河北省の雄安新区に位置する東小李白龍墓地は、前漢（西漢）王朝後期から後漢（東漢）王朝後期（紀元前206～紀元後220年）の民間墓地です。考古学的研究は、漢王朝期における夫婦の合慣行の出現を示唆してきました。しかし、考古学的証拠のみでは、合葬された個体が夫婦だったのか、それとも密接な生物学的親族（キョウダイやイトコなど）だったのかどうか、直接的には区別できません。さらに、骨格遺骸の断片化が多いため、形態学的特徴（たとえば、骨盤や頭蓋）が高精度な性別判定を提供できる場合でさえ、遺伝学的分析による分子性別特定がしばしば必要です。<br /><br />　この研究では、東小李白龍墓地から26個体のゲノムの配列決定に成功し、その中には二重棺墓6基から得られた12個体のゲノム（M10、M21、M26、M43、M44、M56）が含まれます。これらの古代ゲノムは、これら合葬された個体群の生物学的親族関係および生物学的性別の直接的調査の機会を提供します。これら二重棺墓6基には、死亡時年齢が同等の、遺伝学的に女性の1個体と遺伝学的に男性の1個体が含まれていた、と分かりました。さらに、これらの個体は相互に遺伝的には親族関係になく、これらの個体は夫婦を表している可能性が高い、と示唆されますが、子供の遺伝学的証拠は検出されませんでした。5組の親子の組み合わせも再構築され、その中に同じ墓にともに埋葬された個体は存在しませんでした。このパターンは、親子の合葬が東小李白龍墓地では行なわれていなかった、との観察をうらに裏づけます。<br /><br />　まとめると、これらの調査結果から、漢王朝の東小李白龍墓地によって表される社会は、祖先の系統による継承ではなく、婚姻同盟によって確立された関係をより重視していた、と示唆されるかもしれません。注目すべきことに、M10号墓には20～25歳の成人男性（DXL-M10bei）と6～8歳の女児（DXL-M10nan）が含まれていました。生物学的親族関係分析では、この2個体が父親と娘の組み合わせとは特定されず、この結果が信頼できるのは、124万パネルでの両者の重複SNPが1親等もしくは2親等の親族関係を推定するのに充分だからです。さらに、考古学的証拠から、DXL-M10beiの散在した人骨は二次移動から生じた可能性が高く、この慣行には、すでに埋葬された個体の再埋葬が含まれる、と示唆されています。親族関係にない女児との成人男性合葬は、この状況での合葬は必ずしも生物学的親族関係に基づいていなかった、との結論を補強します。<br /><br /><br /><strong>●黄河中流における6000～100年前頃の個体群のROHパターン</strong><br /><br />　4000年前頃の仰韶村遺跡［5］、3000～1000年前頃の路糸茜遺跡（黄河_西周、黄河_春秋、黄河_唐によって表されます）［9］の以前に刊行されたゲノムや、6000～5000年前頃の黄河および長江地域の最近刊行されたゲノム［3］で、ROH分析も実行されました。これら刊行されたゲノムのROHパターンは、これまで考察されてきませんでした。20cM超のROH断片の合計長は、近親交配の可能性を示唆しています。仰韶文化関連ゲノム（6000～5000年前頃）については、40個体のうち2個体がそれぞれ47cMと27cMの長いROHを有しており、これはマタイトコもしくはミイトコの間の子供であることと同等です。龍山文化関連ゲノム（4500～4000年前頃）については、4000年前頃の河南西部の7個体のうち2個体が100cM超の長いROHを示しており、これはイトコ愛゛たもしくはそれ以上の婚姻など、近親婚の存在を示唆しています。これらの結果は、黄河地域の仰韶文化および龍山文化関連社会における、低いものの無視できない水準の近親婚の存在を示唆していますが、このパターンの確証にはより大規模な標本が必要です。中原の3000～100年前頃の個体群における長いROH断片の欠如から、最近の近親交配は実質的に避けられていた、と示唆されます。<br /><br /><br /><strong>●考察</strong><br /><br />　この研究で提示された遺伝学的証拠は、新石器時代から歴史時代までの中原における人口動態の複雑なパターンを明らかにします。3点の重要な調査結果が、この重要な地域における先史時代の遺伝子流動および親族関係慣行に関する理解を一新します。<br /><br />　新たに生成された暁塢標本は、黄河中流におけるこれまでで最古級の仰韶文化関連ゲノムの一つを表しています。初期～後期の仰韶文化の人々は単一の祖先供給源に起源がある、と分かり、地域的な遺伝的連続性に相当します（図3A）。考古学的記録は、仰韶文化期の後の黄河中流における大きな文化的変化を証明しています。4300年前頃までに、河南西部の新石器時代文化は山西省南部の陶寺遺跡に因んで命名された、陶寺文化によってほぼ置換されたようです。最近の古代ゲノム研究では、山西および陝西地域の4000年前頃の個体群（陶寺遺跡と石峁遺跡と蘆山峁遺跡によって表されます）は、北方草原地帯および中原関連祖先系統の混合特性を共有している、と示唆されています［29］。陽平寨遺跡の新たに生成された4000年前頃の個体群における遺伝的パターンの調査から、河南西部の人口集団も石峁_LNと類似した祖先系統を示す、と示唆されます（図3B）。河南西部の仰韶文化と関連する人々には、石峁_LN関連の祖先構成要素は観察されませんでした。龍山文化期の河南西部における石峁_LN関連の遺伝的構成要素の出現は、山西および陝西地域の人口集団との人口統計学的つながりを反映しています。陽平寨遺跡の遺伝的外れ値1個体が、4000年前頃の河南中央部でも優勢だった祖先構成要素（黄河_LNによって表されます）を示すことも分かりました。この結果は、龍山文化期における河南の中央部と西部の間の個体もしくは小規模な人口移動を示唆しています。以下は本論文の図3です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Wang20et20al.2026E38080E9BB84E6B2B3E4B8ADE6B581E59F9FE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026062629E59BB33.jpeg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Wang20et20al.2026E38080E9BB84E6B2B3E4B8ADE6B581E59F9FE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026062629E59BB33.jpeg" alt="画像" width="365" height="531" class="up-image" title="図3" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Wang20et20al.2026E38080E9BB84E6B2B3E4B8ADE6B581E59F9FE381AEE58FA4E4BBA3E382B2E3838EE383A0282026062629E59BB33.jpeg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　殷王朝は文字記録が残る中華文明で最初の王朝です。新たに生成された古代ゲノムは、河南中央部の殷王朝の人々が河南龍山文化および二里頭文化関連の人々の直接的な子孫であるだけではなく、河南中央部において同じ地域の3000～2000年前頃の人々（西周や東周や春秋戦国時代を含みます）および明清期の人々（200～100年前頃）の直接的祖先でもあった、との直接的な遺伝学的証拠を提供しており、河南中央部における長期の遺伝的安定性が示唆されます。興味深いことに、龍山文化期（4000年前頃）において、黄河中流の河南中央部および西部と黄河下流の山東半島と黄河上流の青海の人々は、遺伝的に均質でした（図3B）。しかし、河南中央部と西部との間の地域的な差異が少なくとも周王朝までに消滅した一方で、黄河の中流と下流と上流の地域間の差異は少なくとも漢王朝までに消滅しました（図3C）。これらの遺伝的変化は、すべて、黄河_LN関連祖先系統の強力な拡大によって引き起こされ、黄河全域の高度に均質な遺伝子プールが生じました。<br /><br />　考古学的および歴史的記録から、中原は過去3000年間にわたって、戎狄と匈奴によって代表されるいくつかの強力な政治勢力と隣接していた、と示されています。戎狄と鮮卑と匈奴による中原への移住に関する歴史的記述にも関わらず、本論文の遺伝学的分析は、それに相当する有意な人口統計学的流入を明らかにしていません。この不一致はいくつかの要因のためかもしれず、たとえば、広範な人口混合ではなく支配層の主導による限定的な規模の文化的および政治的統合か、あるいは、関連する人口集団の現時点の標本抽出における空白です。しかし、非漢人の帰属意識を有する人々が、漢人と通婚した可能性を除外できません。たとえば、河南西部の路糸茜遺跡における春秋時代の以前に刊行された古代人のゲノムは、副葬品に基づいて戎狄と特定されましたが、典型的な中原関連祖先系統を示しました［9］。これらの結果は、中原に移住した戎狄が在来の人々による強い遺伝的同化を受けた、と裏づけています。f統計が、標本規模の増加にも関わらず、密接に関連する祖先系統を含む事象の再構築にあって、充分な検出力を常に有しているわけではないことは、注目に値します。したがって、殷および秦代以降の遺伝的安定性に関する結論は、方法論的限界に影響を受けているかもしれません。本研究の方法論的限界は、人口動態の包括的理解をいくぶん制約しています。ハプロタイプに基づく詳細な規模の人口下部構造分析には、被覆度0.5倍超のショットブラストゲノムを生成したさらなる研究が不可欠でしょう。<br /><br />　二つの事例研究では、鉄器時代の中国北部における社会組織を調べるためにも、古代ゲノムデータが活用されました。春秋時代の上石河遺跡では、墓の向き（社会的地位の代理）と密接な常染色体の親族関係と共通のY染色体系統の間に明確な相関が観察されました。密接な親族関係にある男性同士の5組のうち4組は墓の向きとYHgの両方を共有しており、社会的地位の父系継承とのモデルが強く裏づけられます。密接な親族間でさえ見られるひじょうに高度なミトコンドリアハプロタイプの多様性は、父方居住パターンとさらに一致します。墓の向きが異なる親族5組のうち4組に女性が含まれているパターンも、女性が婚姻によって親族集団もしくは社会的階層間で移動し、父系制度における遺伝的および社会的接合者として機能したことを示唆しています。漢王朝期の東小李白龍遺跡では、5組の親子が特定され、そのうち同じ墓にともに埋葬された個体は存在ませんでした。6基の二重棺墓も調べられ、各墓には近い死亡年齢の生物学的な成人男性1個体および成人女性1個体が含まれていました。これらの個体は相互と遺伝的親族関係にはなく、これらの個体は夫婦を表している可能性が高い、と示唆されますが、子供の遺伝学的証拠は検出されませんでした。これらの結果は、漢王朝における夫婦の合葬との考古学的仮説を裏づけます。さらに、成人男性1個体が遺伝学的に親族関係にない少女（6～8歳）と埋葬されていた墓も発見されました。これが示唆するのは、墓の埋葬についての社会的規範が夫婦以外にも拡張されており、生物学的親族関係ではなく、養子に迎えた子供など社会的結びつきによってつながった個体を組み込んでいた可能性です。<br /><br /><br />参考文献：<br />Wang R. et al.(2026): A 6,000-year genomic transect in the middle Yellow River. National Science Review, 13, 17, nwag395.<br /><a href="https://doi.org/10.1093/nsr/nwag395" target="_blank">https://doi.org/10.1093/nsr/nwag395</a><br /><br />［3］Xiong J. et al.(2025): The genomic history of East Asian Middle Neolithic millet- and rice-agricultural populations. Cell Genomics, 5, 10, 100976.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.xgen.2025.100976" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.xgen.2025.100976</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202510article_12.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［4］Sun L. et al.(2025): The demic expansion of Yangshao culture inferred from ancient human genomes. BMC Biology, 23:186.<br /><a href="https://doi.org/10.1186/s12915-025-02286-9" target="_blank">https://doi.org/10.1186/s12915-025-02286-9</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202507article_4.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［5］Li S. et al.(2024): Ancient genomic time transect unravels the population dynamics of Neolithic middle Yellow River farmers. Science Bulletin, 69, 21, 3365-3370.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.09.002" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.09.002</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202411article_22.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［6］Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202006article_3.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［9］Ma H. et al.(2025): Ancient genomes shed light on the long-term genetic stability in the Central Plain of China. Science Bulletin, 70, 3, 333-337.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.07.024" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.07.024</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202502article_4.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［11］Fang H. et al.(2025): Dynamic history of the Central Plain and Haidai region inferred from Late Neolithic to Iron Age ancient human genomes. Cell Reports, 44, 2, 115262.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.celrep.2025.115262" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.celrep.2025.115262</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202502article_5.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［12］Wang H. et al.(2023): Human genetic history on the Tibetan Plateau in the past 5100 years. Science Advances, 9, 11, eadd5582.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/sciadv.add5582" target="_blank">https://doi.org/10.1126/sciadv.add5582</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202303article_22.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［13］Wang T. et al.(2021): Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago. Cell, 184, 14, 3829–3841.E21.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202106article_27.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［14］Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aba0909" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aba0909</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202005article_26.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［15］Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202103article_15.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［19］Damgaard PB. et al.(2018): The first horse herders and the impact of early Bronze Age steppe expansions into Asia. Science, 360, 6396, eaar7711.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aar7711" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aar7711</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201805article_20.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［20］Jeong C. et al.(2020): A Dynamic 6,000-Year Genetic History of Eurasia’s Eastern Steppe. 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]]></content:encoded>
            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
      <guid isPermaLink="false">blog:https://blog.seesaa.jp,sicambre/521626533</guid>
                </item>
        <item>
      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202609article_22.html</link>
      <title>アジア東部の最初期ホモ属化石</title>
      <pubDate>Tue, 22 Sep 2026 00:00:13 +0900</pubDate>
            <description>　取り上げるのが遅れてしまいましたが、アジア東部の最初期ホモ属化石の年代を報告した研究（Tu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、中華人民共和国湖南省の遺跡で発見されたホモ属化石が177万±8万年前までさかのぼることを示しました。これによって、初期ホモ属は急速にアジア東部に拡散した可能性が指摘されています。中国では200万年以上前とされる石器が発見されており［14］、その担い..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　取り上げるのが遅れてしまいましたが、アジア東部の最初期ホモ属化石の年代を報告した<a href="https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.ady2270">研究</a>（Tu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、中華人民共和国湖南省の遺跡で発見されたホモ属化石が177万±8万年前までさかのぼることを示しました。これによって、初期ホモ属は急速にアジア東部に拡散した可能性が指摘されています。中国では200万年以上前とされる石器が発見されており［14］、その担い手と177万年前頃の人類との関係についても、研究の進展が期待されます。

　以下の略称は、Ar（Argon、アルゴン）、Be（beryllium、ベリリウム）、U（Uran、ウラン）、ESR（electron spin resonance、電子スピン共鳴法）年代測定、m（metre、meter、メートル）、g（gram、グラム）です。以下の時代区分は、ハラミヨ亜期（Jaramillo Subchron）、上桂（Kamikatsura）、サンタ・ローザ（Santa Rosa）、ブリュンヌ期（Brunhes Chron）、松山期（Matuyama Chron）、オルドヴァイ（Olduvai）亜期です。本論文で取り上げられる主要な生物は、ホモ・エレクトス（Homo erectus）、ホモ・エルガスター（Homo ergaster）ステゴドン属（Stegodon）、ゴンフォテリウム属（Gomphotherium）、ジャイアントパンダ属（Ailuropoda）、サンシマハイエナ（Hyaena licenti）、小型イノシシ（Sus xiaozhu）です。本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国の遺跡と地域は、湖北省十堰（Shiyan）市鄖陽（Yunyang）区の鄖県（Yunxian）遺跡、陝西省藍田県の公王嶺（Gongwangling）および上陳（Shangchen）遺跡、北京市房山区の周口店（Zhoukoudian）遺跡、山西省の西侯渡（Xihoudu）遺跡、雲南省楚雄イ族自治州の元謀（Yuanmou）遺跡です。本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国以外の遺跡と地域は、インドネシアのサンギラン・ドーム（Sangiran Dome）、ジョージア（グルジア）のドマニシ（Dmanisi）です。


●要約

　ほぼ完全なホモ・エレクトスの頭蓋3点の発見によって、鄖県はアジア東部における最も重要な初期更新世人類遺跡の一つになっています。しかし、鄖県化石の年代は申請できる数値的な年代測定結果の欠如のため、依然として議論されています。本研究では、充分に確立された等時線²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定が、鄖県遺跡の2ヶ所の堆積層から得られた石英礫に適用されました。この年代測定結果から、鄖県頭蓋は177万±8万年前までさかのぼり（±1σの内部誤差）、アジア東部において原位置で発見された最古級のホモ・エレクトス化石を表しています。鄖県化石にずっと古い年代が割り当てられたことは、初期ホモ・エレクトスの急速な拡散と広がりとのモデルを裏づけ、アジア東部における最古級の考古学と人類古生物学との間の年代の隔たりを縮めるのに寄与します。


●研究史

　アジアにおける最古級のホモ・エレクトス化石の年代は今では、ジョージアのドマニシにおける185万～175万年前頃とされています。しかし、ジョージアの東方では、アジア東部における最古級のホモ・エレクトス化石の年代については、議論が続いています。たとえば、インドネシアのサンギラン・ドームの初期ホモ・エレクトス化石は、その発見状況についての問題を考慮して、長く160万年前頃から151万年以上前の範囲、その後には130万年前頃と議論されました［5］。中国において提案され「初期」の遺跡の年代も、議論されてきました。これまで、最古級のホモ・エレクトス化石があるとみなされてきたのは、元謀と公王嶺の2ヶ所の遺跡でした。今では、元謀遺跡は²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定に基づいて最近提案された年代ではそれよりわずかに古いと考えられており、その堆積物は172万年前頃に位置づけられています。しかし、元謀遺跡については問題となるのは、2点のホモ・エレクトスの上顎切歯が明らかに表面採集だった事実です。最近の年代測定再構築が堅牢とみなされていることを考えると、この元謀化石の出土状況の欠如は問題です。幸いなことに、公王嶺遺跡のホモ・エレクトス頭蓋は原位置で発見されたので、にこの問題はありません。公王嶺遺跡の事例では、化石は当初115万年前頃、最近では黄土と古土壌の層序に関する古時期の研究によって163万年前頃と年代測定されました［11］。このより新しい年代は、²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定によって裏づけられ、今では公王嶺遺跡のホモ・エレクトス化石の問題として認められています。

　それにも関わらず、アジア東部における最古級の人類化石の年代は、とくに前期更新世人類化石の存在数を考えると、依然として大きな議論の的となっています。さらに、240万年前頃の西侯渡遺跡や210万年前頃の上陳遺跡［14］によって代用されるような、最初期の考古学的痕跡は実際、公王嶺遺跡に約80万年ほど先行します。さらなる原位置の人類化石の特定および確実な年代測定は、この年代的間隙を埋めるのに役立つかもしれません。本論文は、鄖県ホモ・エレクトス遺跡の等時線²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定分析を提示し、人工遺物と人類化石を含む層は確実に177万年前頃と年代測定できる、と結論づけます。元謀遺跡のようなよく知られた事例とは異なり、鄖県遺跡の出土状況と化石について疑問がないものの、公王嶺遺跡より明らかに古いことを考えると、鄖県遺跡のこの年代はとくに重要です。

　鄖県遺跡は、かなり完全なホモ・エレクトス頭蓋の原位置の発見でよく知られています。そのうちの2点（EV9001とEV9002）の堆積圧縮に起因する重度の変形のため、その形態学的差異の全容の判断は困難でした（図1C）。多くの研究では、鄖県化石は周口店出土地1のホモ・エレクトス頭蓋とは顕著に異なっている、と示唆されてきました。鄖県遺跡における新たな最近の野外調査では、最初の2点の頭蓋から約33～35m離れて、第三のかなり完全な人類頭蓋が発見されました。EV9001およびEV9002より保存状態が良好かつより完全で、EV9001およびEV9002と同じ体積層から出土したと報告されている、この化石の詳細な形態計測分析が待たれます。鄖県遺跡からは、前期旧石器時代に典型的な500点以上の人工遺物（現地で利用可能な珪岩で作られた、石核やチョッパーや剥片）が発掘されました。以下は本論文の図1です。
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　鄖県遺跡から発掘された関連する哺乳類化石は、中国南部の典型的なステゴドン属およびジャイアントパンダ属分類群です。明確な前期更新世（もしくはそれ以前）の分類群（たとえば、ゴンフォテリウム属やサンシマハイエナ）の欠如から、初期の研究者は、鄖県遺跡の年代が中期更新世と示唆した一方で、前期～中期更新世の小型イノシシの存在は、生物年代学に中期更新世初期であることを示唆しました。しかし、最近の研究では鄖県遺跡と公王嶺遺跡の動物相の間には多くの類似性があり、鄖県遺跡は明確に前期更新世にさかのぼる、と示唆されました。

　鄖県遺跡のより詳しい年代範囲を特定する最初の試みは古地磁気研究で、主要な化石/考古学層はブリュンヌ/松山境界に先行する、と示唆され、87万～83万年前頃の年代が提案されました。放射性年代測定でのこの最初の試みは、9点の関連する哺乳類の歯のESR年代測定分析で、60万年前頃の平均年代が得られました。その後、試掘坑WTから得られた試料の古地磁気分析に基づいて、先行研究は下層の正磁極帯をハラミヨ亜期と関連づけ、2点の地磁気挙動をそれぞれ上桂（899000年前頃）およびサンタ・ローザ（936000年前頃）に割り当てました。これらの研究では、サンタ・ローザ事象は人類化石があるC3層と関連している、と関欠け得られました。その後、動物の歯の3点のESR/U系列年代では、加重平均110万±16万年前の結果が得られました。この年代範囲を考慮して、鄖県遺跡は広く100万～80　万年前頃とされており、明らかに前期更新世ではあるものの、元謀遺跡もしくは公王嶺遺跡のいずれかよりずっと新しいことになります。

　上述の試みにも関わらず、鄖県人類の正確な年代は全として議論の主題になっています。宇宙起源の²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定は、堆積物の直接的な年代測定の手段を提供します。この年代測定のための等時線手法の開発は年代測定に適した遺跡の範囲を大きく拡張し、得られた年代結果の信頼性を著しく改善しました。この年代測定手法の適用は、鄖県遺跡の独立しており堅牢な年代制約を提供できるかもしれません。

　鄖県遺跡では発見以来、一連の体系的な発掘調査が行なわれてきました。発掘された試掘坑AおよびBおよびWTは、漢江の第4段丘に位置しています（図1）。これらの試掘坑で明らかになった層序系列は整合しています。試掘坑WTの層序はより完全で、学際的研究の基準断面として採用されてきました。堆積系列は6層に区分でき、人類頭蓋は試掘坑AおよびBにおけるC3層最上部の石灰質結石層準から回収されました（図2）。以下は本論文の図2です。
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　等時線²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定の砕屑物一式2点が試掘坑WTの西壁から原位置で収集され、人類図がEV9001とEV90002と最近発見された化石からは、それぞれ75mと78mと43m離れています。10点の石英で構成されている砕屑物（YX14-1～YX14-6、YX14-8、YQSA-1、YQSA-3、YQSA-4）は、深さ5.0～5.3mでC3化石および人工遺物含有層から採集され、これは人類縋外が発掘されたのと同じ層準です（図2）。別の10点の砕屑物の一式は、YX-A～YX-Jと番号を割り当てられ、深さ8.1～8.3mでC6の砂利層（以下、C6一式と呼ばれます）から採取されました。


●結果

　2点の標本一式の測定された²⁶Ar/¹⁰Be濃度および年代結果は表1に提示され、図3で示されており、元の測定値は補足表2で提供されています。試料C3一式については、²⁶Ar/¹⁰Be濃度から177万±8万年前の等時線年代（±1σの内部誤差、以下同様）と、埋没後の¹⁰Be濃度N10,pb = (38.7 ± 4.9) × 10³の1gあたり原子量が得られました（図3）。試料YX14-3は等時線を下回っており、より古い堆積物から再移動した、と示唆されるので、年代計算から除外されました。試料YX-Cは等時線を上回りましたが、2σ内で予測値と重なったので、残されました。以下は本論文の図3です。
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　C6一式については、9点の濃度の組み合わせのうち8点が176万±22万年前の年代の等時線上に位置しています（図3）。試料YX-Hはこの等時線の下に位置しており、外れ値として除外されました。それは、計算に含めると、等時線適合の荷重偏差平均二乗値が1.87から2.58へと大きく上昇し、適切な等時線適合の許容範囲（2.07未満）を超えるからです。この等時線値は1gあたりの原子量がN10,pb = (17.7 ± 4.5) × 10³で、C3一式よりわずかに低く、より深い埋没深度と一致します。C3およびC6の年代が統計的に区別できないのは恐らく、この2層の堆積速度の高さと、とくにC6一式の比較的大きな誤差範囲のためです。本論文で提示されるこの年代結果の不確実性は、内部的な分析および回帰の誤差のみを反映しています。生成率比および崩壊定数における不確実さを取り込むことによって、全体的な不確実性は、C3では11万年、C6では23万年増加します。他の年代測定手法から得られた年代結果と比較するさいには、これらの不確実性が用いられるべきです。


●考察

　等時線年代は、試料が特定の速度で一貫して埋没した、との仮定によって計算されました。そうならば、計算されたC3の埋没後の¹⁰Be濃度は、元々の埋没深度8±2mに相当します。実際の埋没深度と比較すると、これは、約3mの上部の土壌が試掘坑WTからごく最近に除去されたことを示唆しています。この再構築は、地元村民から情報が得られたように、1960年代および1970年代における農業整地事象とよく一致します。

　C6一式の年代（176万±22万年前、全体的な不確実性は±23万年前）は誤差範囲内で、オルドヴァイ亜期（195万～178万年前頃）の数値的範囲と一致します。したがって、C5～C6層の正磁極帯およびその下のRBa-RBe層は、以前に先行研究によって割り当てられたハラミヨ亜期（107万～99万年前頃）ではなく、オルドヴァイ事象に相当するに違いありません（図2）。178万年前頃となるオルドヴァイ亜期の上部は、下に位置するC3層の下限年代として機能するかもしれません。鄖県遺跡の精緻な磁気層序を確証するには、より高解像度でのさらなる調査が必要です。

　C3一式の採取層準には石器が多く、年代測定された試料の一部には人類による加工の痕跡があるので、この層準の年代（177万±8万年前、全体的な不確実性は±11万年前）は、鄖県遺跡における人類の居住期間の直接的な時間的制約を提供します。C3一式は人類頭蓋が発掘された層から採取されたので、鄖県遺跡のホモ・エレクトス化石は以前に提案されたよりもずっと古い年代に割り当てられます。分析の基準として100万年前頃との元々の年代を用いた、鄖県2号の最近の系統発生的研究［35］を考えると、鄖県遺跡のこれら更新されてずっと古い年代が、これらの化石の系統発生的分析および位置づけをどのように変化するのかは、興味深いところです。

　堅牢性および内部一貫性以外に、本論文の年代結果はより広範な地質構造的観点からも妥当です。鄖県盆地の第5段丘の砂利層から採取された砕屑物試料1点に関する以前に報告された単純な年代は、204万±11万年前頃の下限年代の可能性を示唆していますが、そうした単一の試料埋没年代の信頼性が依然として限られているのは、埋没後の生成および/もしくはより古い堆積物からの再堆積の可能性のためです。本研究では、第3段丘の砂利層から得られた試料2点（WJG-GL、WJG-SD）からはそれぞれ、68万±9万年前と89万±10万年前の下限年代が得られました。16mの一反した埋没深度におけるミュー粒子による埋没後の生成について補正することによって、112万±19万年前と123万±17万年前の上限年代が得られ、加重平均は118万±13万年前です。したがって、第3段丘の年代は89万±10万年前と118万±13万年前の間に位置づけることができ、これは断面上部で特定されたブリュンヌ/松山逆転と一致します。鄖県遺跡におけるC6一式の埋没年代およびオルドヴァイ亜期との相関は、鄖県ポンチの第4段丘の砂利層について180万年前頃の年代を示唆しており、これは第3および第5段丘の予備的な年代枠組みと一致します。

　本論文で提示された放射性年代から、鄖県遺跡のホモ・エレクトス化石はアジア東部における最古級の確実に年代測定された人類化石で、おそらくは元謀遺跡の化石とほぼ同年代であるもの、公王嶺遺跡の化石より明らかに古い、と提案されます。鄖県遺跡の年代は、177万年前頃のホモ・エレクトスがジョージアのドマニシのみならず、もっと広範に分布していたことも示唆していますが、オルドヴァイ亜期の上部に位置するドマニシ遺跡（185万～178万年前頃）がわずかに古いはずです。これは、200万年前頃以後に始まった、アジア全域へのホモ・エレクトスの急速な拡散モデルを裏づけます［39］。これらの人類の年代はさかのぼり続けているので、中国における、243万年前頃の西侯渡遺跡や210万年前頃の上陳遺跡［14］のような遺跡における最古級の年代と、人類古生物学との間の年代的空白は急速に縮まりつつある、と示唆されます。しかし、ホモ・エレクトスはいつどこに最初に出現したのか、現時点で前期更新世初期にさかのぼる、中国や他地域におけるこれらいくつかの遺跡の居住者の一部だった可能性はあるのかに関して、問題は残っています［14］。もしそうでなければ、次にアジアの最初期の居住者の可能性として別の人類を検討すべきで、それは特に、アジアにおける最古級の遺跡が今や、ホモ・エルガスター/ホモ・エレクトスのこれまで認められてきた出現（190万年前頃）に先行するからです。本論文で提示された鄖県遺跡の年代は、そうした問題に取り組むための一歩前進となります。


参考文献：
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      <content:encoded><![CDATA[
　取り上げるのが遅れてしまいましたが、アジア東部の最初期ホモ属化石の年代を報告した<a href="https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.ady2270"><span style=color:#e00>研究</span></a>（Tu et al., 2026）が公表されました。［］は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、中華人民共和国湖南省の遺跡で発見されたホモ属化石が177万±8万年前までさかのぼることを示しました。これによって、初期ホモ属は急速にアジア東部に拡散した可能性が指摘されています。中国では200万年以上前とされる石器が発見されており［14］、その担い手と177万年前頃の人類との関係についても、研究の進展が期待されます。<br /><br />　以下の略称は、Ar（Argon、アルゴン）、Be（beryllium、ベリリウム）、U（Uran、ウラン）、ESR（electron spin resonance、電子スピン共鳴法）年代測定、m（metre、meter、メートル）、g（gram、グラム）です。以下の時代区分は、ハラミヨ亜期（Jaramillo Subchron）、上桂（Kamikatsura）、サンタ・ローザ（Santa Rosa）、ブリュンヌ期（Brunhes Chron）、松山期（Matuyama Chron）、オルドヴァイ（Olduvai）亜期です。本論文で取り上げられる主要な生物は、ホモ・エレクトス（Homo erectus）、ホモ・エルガスター（Homo ergaster）ステゴドン属（Stegodon）、ゴンフォテリウム属（Gomphotherium）、ジャイアントパンダ属（Ailuropoda）、サンシマハイエナ（Hyaena licenti）、小型イノシシ（Sus xiaozhu）です。本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国の遺跡と地域は、湖北省十堰（Shiyan）市鄖陽（Yunyang）区の鄖県（Yunxian）遺跡、陝西省藍田県の公王嶺（Gongwangling）および上陳（Shangchen）遺跡、北京市房山区の周口店（Zhoukoudian）遺跡、山西省の西侯渡（Xihoudu）遺跡、雲南省楚雄イ族自治州の元謀（Yuanmou）遺跡です。本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国以外の遺跡と地域は、インドネシアのサンギラン・ドーム（Sangiran Dome）、ジョージア（グルジア）のドマニシ（Dmanisi）です。<br /><br /><br /><strong>●要約</strong><br /><br />　ほぼ完全なホモ・エレクトスの頭蓋3点の発見によって、鄖県はアジア東部における最も重要な初期更新世人類遺跡の一つになっています。しかし、鄖県化石の年代は申請できる数値的な年代測定結果の欠如のため、依然として議論されています。本研究では、充分に確立された等時線²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定が、鄖県遺跡の2ヶ所の堆積層から得られた石英礫に適用されました。この年代測定結果から、鄖県頭蓋は177万±8万年前までさかのぼり（±1σの内部誤差）、アジア東部において原位置で発見された最古級のホモ・エレクトス化石を表しています。鄖県化石にずっと古い年代が割り当てられたことは、初期ホモ・エレクトスの急速な拡散と広がりとのモデルを裏づけ、アジア東部における最古級の考古学と人類古生物学との間の年代の隔たりを縮めるのに寄与します。<br /><br /><br /><strong>●研究史</strong><br /><br />　アジアにおける最古級のホモ・エレクトス化石の年代は今では、ジョージアのドマニシにおける185万～175万年前頃とされています。しかし、ジョージアの東方では、アジア東部における最古級のホモ・エレクトス化石の年代については、議論が続いています。たとえば、インドネシアのサンギラン・ドームの初期ホモ・エレクトス化石は、その発見状況についての問題を考慮して、長く160万年前頃から151万年以上前の範囲、その後には130万年前頃と議論されました［5］。中国において提案され「初期」の遺跡の年代も、議論されてきました。これまで、最古級のホモ・エレクトス化石があるとみなされてきたのは、元謀と公王嶺の2ヶ所の遺跡でした。今では、元謀遺跡は²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定に基づいて最近提案された年代ではそれよりわずかに古いと考えられており、その堆積物は172万年前頃に位置づけられています。しかし、元謀遺跡については問題となるのは、2点のホモ・エレクトスの上顎切歯が明らかに表面採集だった事実です。最近の年代測定再構築が堅牢とみなされていることを考えると、この元謀化石の出土状況の欠如は問題です。幸いなことに、公王嶺遺跡のホモ・エレクトス頭蓋は原位置で発見されたので、にこの問題はありません。公王嶺遺跡の事例では、化石は当初115万年前頃、最近では黄土と古土壌の層序に関する古時期の研究によって163万年前頃と年代測定されました［11］。このより新しい年代は、²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定によって裏づけられ、今では公王嶺遺跡のホモ・エレクトス化石の問題として認められています。<br /><br />　それにも関わらず、アジア東部における最古級の人類化石の年代は、とくに前期更新世人類化石の存在数を考えると、依然として大きな議論の的となっています。さらに、240万年前頃の西侯渡遺跡や210万年前頃の上陳遺跡［14］によって代用されるような、最初期の考古学的痕跡は実際、公王嶺遺跡に約80万年ほど先行します。さらなる原位置の人類化石の特定および確実な年代測定は、この年代的間隙を埋めるのに役立つかもしれません。本論文は、鄖県ホモ・エレクトス遺跡の等時線²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定分析を提示し、人工遺物と人類化石を含む層は確実に177万年前頃と年代測定できる、と結論づけます。元謀遺跡のようなよく知られた事例とは異なり、鄖県遺跡の出土状況と化石について疑問がないものの、公王嶺遺跡より明らかに古いことを考えると、鄖県遺跡のこの年代はとくに重要です。<br /><br />　鄖県遺跡は、かなり完全なホモ・エレクトス頭蓋の原位置の発見でよく知られています。そのうちの2点（EV9001とEV9002）の堆積圧縮に起因する重度の変形のため、その形態学的差異の全容の判断は困難でした（図1C）。多くの研究では、鄖県化石は周口店出土地1のホモ・エレクトス頭蓋とは顕著に異なっている、と示唆されてきました。鄖県遺跡における新たな最近の野外調査では、最初の2点の頭蓋から約33～35m離れて、第三のかなり完全な人類頭蓋が発見されました。EV9001およびEV9002より保存状態が良好かつより完全で、EV9001およびEV9002と同じ体積層から出土したと報告されている、この化石の詳細な形態計測分析が待たれます。鄖県遺跡からは、前期旧石器時代に典型的な500点以上の人工遺物（現地で利用可能な珪岩で作られた、石核やチョッパーや剥片）が発掘されました。以下は本論文の図1です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Tu20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E381AEE69C80E5889DE69C9FE381AEE3839BE383A2E383BBE382A8E383ACE382AFE38388E382B9282026021829E59BB31.jpg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Tu20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E381AEE69C80E5889DE69C9FE381AEE3839BE383A2E383BBE382A8E383ACE382AFE38388E382B9282026021829E59BB31.jpg" alt="画像" width="365" height="447" class="up-image" title="図1" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Tu20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E381AEE69C80E5889DE69C9FE381AEE3839BE383A2E383BBE382A8E383ACE382AFE38388E382B9282026021829E59BB31.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　鄖県遺跡から発掘された関連する哺乳類化石は、中国南部の典型的なステゴドン属およびジャイアントパンダ属分類群です。明確な前期更新世（もしくはそれ以前）の分類群（たとえば、ゴンフォテリウム属やサンシマハイエナ）の欠如から、初期の研究者は、鄖県遺跡の年代が中期更新世と示唆した一方で、前期～中期更新世の小型イノシシの存在は、生物年代学に中期更新世初期であることを示唆しました。しかし、最近の研究では鄖県遺跡と公王嶺遺跡の動物相の間には多くの類似性があり、鄖県遺跡は明確に前期更新世にさかのぼる、と示唆されました。<br /><br />　鄖県遺跡のより詳しい年代範囲を特定する最初の試みは古地磁気研究で、主要な化石/考古学層はブリュンヌ/松山境界に先行する、と示唆され、87万～83万年前頃の年代が提案されました。放射性年代測定でのこの最初の試みは、9点の関連する哺乳類の歯のESR年代測定分析で、60万年前頃の平均年代が得られました。その後、試掘坑WTから得られた試料の古地磁気分析に基づいて、先行研究は下層の正磁極帯をハラミヨ亜期と関連づけ、2点の地磁気挙動をそれぞれ上桂（899000年前頃）およびサンタ・ローザ（936000年前頃）に割り当てました。これらの研究では、サンタ・ローザ事象は人類化石があるC3層と関連している、と関欠け得られました。その後、動物の歯の3点のESR/U系列年代では、加重平均110万±16万年前の結果が得られました。この年代範囲を考慮して、鄖県遺跡は広く100万～80　万年前頃とされており、明らかに前期更新世ではあるものの、元謀遺跡もしくは公王嶺遺跡のいずれかよりずっと新しいことになります。<br /><br />　上述の試みにも関わらず、鄖県人類の正確な年代は全として議論の主題になっています。宇宙起源の²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定は、堆積物の直接的な年代測定の手段を提供します。この年代測定のための等時線手法の開発は年代測定に適した遺跡の範囲を大きく拡張し、得られた年代結果の信頼性を著しく改善しました。この年代測定手法の適用は、鄖県遺跡の独立しており堅牢な年代制約を提供できるかもしれません。<br /><br />　鄖県遺跡では発見以来、一連の体系的な発掘調査が行なわれてきました。発掘された試掘坑AおよびBおよびWTは、漢江の第4段丘に位置しています（図1）。これらの試掘坑で明らかになった層序系列は整合しています。試掘坑WTの層序はより完全で、学際的研究の基準断面として採用されてきました。堆積系列は6層に区分でき、人類頭蓋は試掘坑AおよびBにおけるC3層最上部の石灰質結石層準から回収されました（図2）。以下は本論文の図2です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Tu20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E381AEE69C80E5889DE69C9FE381AEE3839BE383A2E383BBE382A8E383ACE382AFE38388E382B9282026021829E59BB32.jpg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Tu20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E381AEE69C80E5889DE69C9FE381AEE3839BE383A2E383BBE382A8E383ACE382AFE38388E382B9282026021829E59BB32.jpg" alt="画像" width="365" height="508" class="up-image" title="図2" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Tu20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E381AEE69C80E5889DE69C9FE381AEE3839BE383A2E383BBE382A8E383ACE382AFE38388E382B9282026021829E59BB32.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　等時線²⁶Ar/¹⁰Be埋没年代測定の砕屑物一式2点が試掘坑WTの西壁から原位置で収集され、人類図がEV9001とEV90002と最近発見された化石からは、それぞれ75mと78mと43m離れています。10点の石英で構成されている砕屑物（YX14-1～YX14-6、YX14-8、YQSA-1、YQSA-3、YQSA-4）は、深さ5.0～5.3mでC3化石および人工遺物含有層から採集され、これは人類縋外が発掘されたのと同じ層準です（図2）。別の10点の砕屑物の一式は、YX-A～YX-Jと番号を割り当てられ、深さ8.1～8.3mでC6の砂利層（以下、C6一式と呼ばれます）から採取されました。<br /><br /><br /><strong>●結果</strong><br /><br />　2点の標本一式の測定された²⁶Ar/¹⁰Be濃度および年代結果は表1に提示され、図3で示されており、元の測定値は補足表2で提供されています。試料C3一式については、²⁶Ar/¹⁰Be濃度から177万±8万年前の等時線年代（±1σの内部誤差、以下同様）と、埋没後の¹⁰Be濃度N<sub>10,pb</sub> = (38.7 ± 4.9) × 10³の1gあたり原子量が得られました（図3）。試料YX14-3は等時線を下回っており、より古い堆積物から再移動した、と示唆されるので、年代計算から除外されました。試料YX-Cは等時線を上回りましたが、2σ内で予測値と重なったので、残されました。以下は本論文の図3です。<br /><div align="center"><a href="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Tu20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E381AEE69C80E5889DE69C9FE381AEE3839BE383A2E383BBE382A8E383ACE382AFE38388E382B9282026021829E59BB33.jpg"><img src="https://sicambre.up.seesaa.net/image/Tu20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E381AEE69C80E5889DE69C9FE381AEE3839BE383A2E383BBE382A8E383ACE382AFE38388E382B9282026021829E59BB33.jpg" alt="画像" width="365" height="285" class="up-image" title="図3" onclick="location.href = 'https://sicambre.seesaa.net/upload/detail/image/Tu20et20al.2026E38080E382A2E382B8E382A2E69DB1E983A8E381AEE69C80E5889DE69C9FE381AEE3839BE383A2E383BBE382A8E383ACE382AFE38388E382B9282026021829E59BB33.jpg.html'; return false;" style="cursor:pointer;" /></a></div><br />　C6一式については、9点の濃度の組み合わせのうち8点が176万±22万年前の年代の等時線上に位置しています（図3）。試料YX-Hはこの等時線の下に位置しており、外れ値として除外されました。それは、計算に含めると、等時線適合の荷重偏差平均二乗値が1.87から2.58へと大きく上昇し、適切な等時線適合の許容範囲（2.07未満）を超えるからです。この等時線値は1gあたりの原子量がN<sub>10,pb</sub> = (17.7 ± 4.5) × 10³で、C3一式よりわずかに低く、より深い埋没深度と一致します。C3およびC6の年代が統計的に区別できないのは恐らく、この2層の堆積速度の高さと、とくにC6一式の比較的大きな誤差範囲のためです。本論文で提示されるこの年代結果の不確実性は、内部的な分析および回帰の誤差のみを反映しています。生成率比および崩壊定数における不確実さを取り込むことによって、全体的な不確実性は、C3では11万年、C6では23万年増加します。他の年代測定手法から得られた年代結果と比較するさいには、これらの不確実性が用いられるべきです。<br /><br /><br /><strong>●考察</strong><br /><br />　等時線年代は、試料が特定の速度で一貫して埋没した、との仮定によって計算されました。そうならば、計算されたC3の埋没後の¹⁰Be濃度は、元々の埋没深度8±2mに相当します。実際の埋没深度と比較すると、これは、約3mの上部の土壌が試掘坑WTからごく最近に除去されたことを示唆しています。この再構築は、地元村民から情報が得られたように、1960年代および1970年代における農業整地事象とよく一致します。<br /><br />　C6一式の年代（176万±22万年前、全体的な不確実性は±23万年前）は誤差範囲内で、オルドヴァイ亜期（195万～178万年前頃）の数値的範囲と一致します。したがって、C5～C6層の正磁極帯およびその下のRBa-RBe層は、以前に先行研究によって割り当てられたハラミヨ亜期（107万～99万年前頃）ではなく、オルドヴァイ事象に相当するに違いありません（図2）。178万年前頃となるオルドヴァイ亜期の上部は、下に位置するC3層の下限年代として機能するかもしれません。鄖県遺跡の精緻な磁気層序を確証するには、より高解像度でのさらなる調査が必要です。<br /><br />　C3一式の採取層準には石器が多く、年代測定された試料の一部には人類による加工の痕跡があるので、この層準の年代（177万±8万年前、全体的な不確実性は±11万年前）は、鄖県遺跡における人類の居住期間の直接的な時間的制約を提供します。C3一式は人類頭蓋が発掘された層から採取されたので、鄖県遺跡のホモ・エレクトス化石は以前に提案されたよりもずっと古い年代に割り当てられます。分析の基準として100万年前頃との元々の年代を用いた、鄖県2号の最近の系統発生的研究［35］を考えると、鄖県遺跡のこれら更新されてずっと古い年代が、これらの化石の系統発生的分析および位置づけをどのように変化するのかは、興味深いところです。<br /><br />　堅牢性および内部一貫性以外に、本論文の年代結果はより広範な地質構造的観点からも妥当です。鄖県盆地の第5段丘の砂利層から採取された砕屑物試料1点に関する以前に報告された単純な年代は、204万±11万年前頃の下限年代の可能性を示唆していますが、そうした単一の試料埋没年代の信頼性が依然として限られているのは、埋没後の生成および/もしくはより古い堆積物からの再堆積の可能性のためです。本研究では、第3段丘の砂利層から得られた試料2点（WJG-GL、WJG-SD）からはそれぞれ、68万±9万年前と89万±10万年前の下限年代が得られました。16mの一反した埋没深度におけるミュー粒子による埋没後の生成について補正することによって、112万±19万年前と123万±17万年前の上限年代が得られ、加重平均は118万±13万年前です。したがって、第3段丘の年代は89万±10万年前と118万±13万年前の間に位置づけることができ、これは断面上部で特定されたブリュンヌ/松山逆転と一致します。鄖県遺跡におけるC6一式の埋没年代およびオルドヴァイ亜期との相関は、鄖県ポンチの第4段丘の砂利層について180万年前頃の年代を示唆しており、これは第3および第5段丘の予備的な年代枠組みと一致します。<br /><br />　本論文で提示された放射性年代から、鄖県遺跡のホモ・エレクトス化石はアジア東部における最古級の確実に年代測定された人類化石で、おそらくは元謀遺跡の化石とほぼ同年代であるもの、公王嶺遺跡の化石より明らかに古い、と提案されます。鄖県遺跡の年代は、177万年前頃のホモ・エレクトスがジョージアのドマニシのみならず、もっと広範に分布していたことも示唆していますが、オルドヴァイ亜期の上部に位置するドマニシ遺跡（185万～178万年前頃）がわずかに古いはずです。これは、200万年前頃以後に始まった、アジア全域へのホモ・エレクトスの急速な拡散モデルを裏づけます［39］。これらの人類の年代はさかのぼり続けているので、中国における、243万年前頃の西侯渡遺跡や210万年前頃の上陳遺跡［14］のような遺跡における最古級の年代と、人類古生物学との間の年代的空白は急速に縮まりつつある、と示唆されます。しかし、ホモ・エレクトスはいつどこに最初に出現したのか、現時点で前期更新世初期にさかのぼる、中国や他地域におけるこれらいくつかの遺跡の居住者の一部だった可能性はあるのかに関して、問題は残っています［14］。もしそうでなければ、次にアジアの最初期の居住者の可能性として別の人類を検討すべきで、それは特に、アジアにおける最古級の遺跡が今や、ホモ・エルガスター/ホモ・エレクトスのこれまで認められてきた出現（190万年前頃）に先行するからです。本論文で提示された鄖県遺跡の年代は、そうした問題に取り組むための一歩前進となります。<br /><br /><br />参考文献：<br />Tu H. et al.(2026): The oldest in situ Homo erectus crania in eastern Asia: The Yunxian site dates to ~1.77 Ma. Science Advances, 12, 8, eady2270.<br /><a href="https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.ady2270" target="_blank">https://www.science.org/doi/10.1126/sciadv.ady2270</a><br /><br />［5］Matsu’ura S. et al.(2020): Age control of the first appearance datum for Javanese Homo erectus in the Sangiran area. Science, 367, 6474, 210–214.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.aau8556" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.aau8556</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202001article_16.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［11］Zhu MD. et al.(2015): New dating of the Homo erectus cranium from Lantian (Gongwangling), China. Journal of Human Evolution, 78, 144–157.<br /><a href="https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2014.10.001" target="_blank">https://doi.org/10.1016/j.jhevol.2014.10.001</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201605article_8.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［14］Zhu Z. et al.(2018): Hominin occupation of the Chinese Loess Plateau since about 2.1 million years ago. Nature, 559, 7715, 608–612.<br /><a href="https://doi.org/10.1038/s41586-018-0299-4" target="_blank">https://doi.org/10.1038/s41586-018-0299-4</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201807article_19.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［35］Feng X. et al.(2025): The phylogenetic position of the Yunxian cranium elucidates the origin of Homo longi and the Denisovans. Science, 389, 6767, 1320–1324.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.ado9202" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.ado9202</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/202509article_28.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><br /><br />［39］Antón S, Potts R, and Aiello LC.(2014): Evolution of early Homo: An integrated biological perspective. Science, 345, 6192, 1236828.<br /><a href="https://doi.org/10.1126/science.1236828" target="_blank">https://doi.org/10.1126/science.1236828</a><br /><a href="https://sicambre.seesaa.net/article/201407article_5.html"><span style=color:#e00>関連記事</span></a><a name="more"></a>

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            <category>古人類学</category>
      <author>雑記帳</author>
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      <link>https://sicambre.seesaa.net/article/202609article_21.html</link>
      <title>大河ドラマ『豊臣兄弟！』第36回「姫若子と鬼若子」</title>
      <pubDate>Mon, 21 Sep 2026 08:52:36 +0900</pubDate>
            <description>　今回は、羽柴軍の四国侵攻が描かれました。羽柴軍の総大将は小一郎（羽柴秀長）で、主人公の小一郎にとって最大の見せ場になるかもしれない、と放送開始前には予想していたので、どう描かれるのか、注目していました。藤吉郎（羽柴秀吉）は織田信雄、次いで徳川家康と講和し、家康の息子の於義伊（結城秀康）が人質として大坂城に赴き、藤吉郎と対面する場面も描かれましたが、本作終盤では家康が重要な役割を果たすようなので、於義伊も今後、目立つ場面があるかもしれません。今回見た限りでは、於義伊は慎重とい..</description>
            <itunes:summary><![CDATA[
　今回は、羽柴軍の四国侵攻が描かれました。羽柴軍の総大将は小一郎（羽柴秀長）で、主人公の小一郎にとって最大の見せ場になるかもしれない、と放送開始前には予想していたので、どう描かれるのか、注目していました。藤吉郎（羽柴秀吉）は織田信雄、次いで徳川家康と講和し、家康の息子の於義伊（結城秀康）が人質として大坂城に赴き、藤吉郎と対面する場面も描かれましたが、本作終盤では家康が重要な役割を果たすようなので、於義伊も今後、目立つ場面があるかもしれません。今回見た限りでは、於義伊は慎重というか臆病な性格のようです。

　羽柴軍の四国侵攻は割とあっさりした描写で、どうも本作では四国攻めは小一郎の最大の見せ場とはならないようです。ただ、長宗我部元親の心境はそれなりに描かれたので、息子の長宗我部信親とともに、この後で描かれると思われる羽柴軍の九州侵攻にも登場するのではないか、と予想しています。ただ、本作は登場人物を「使い捨てる」傾向があるだけに、九州侵攻は描かれても、長宗我部親子は登場しないかもしれませんが。小一郎の家臣では船団の準備を担った吉川平介も登場し、おそらくは知名度がひじょうに低いと思われる吉川平介をわざわざ登場させたからには、その最期が「豊臣兄弟」の衝突？とともに描かれるのではないか、と思います。

　藤吉郎の関白任官をめぐる話は、割と長く描かれました。藤吉郎の関白任官は、「豊臣兄弟」の立身出世を最も象徴的に表しているだけに、もちろん言及されるとは思っていましたが、意外と長い描写でした。藤吉郎の関白任官と絡んで千宗易（千利休）も登場しましたが、俗っぽい人物として描かれています。ただ、単に俗っぽいだけではなく、もっと底知れない恐ろしさも感じさせますが、まだ小一郎ともさほど深い中ではなさそうで、今後、両者の関係が深まる契機も描かれるのでしょうか。藤吉郎にとって古参家臣となる蜂須賀小六（正勝）は今回なかなか目立ちましたが、そろそろ退場が近いからでしょうか。「豊臣兄弟」の家臣は、浅野長吉（長政）でさえさほど目立たない中で、小六は存在感がありました。ただ、今回で退場ではなく、もう少し出番があるとは思いますが。<a></a>

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　今回は、羽柴軍の四国侵攻が描かれました。羽柴軍の総大将は小一郎（羽柴秀長）で、主人公の小一郎にとって最大の見せ場になるかもしれない、と放送開始前には予想していたので、どう描かれるのか、注目していました。藤吉郎（羽柴秀吉）は織田信雄、次いで徳川家康と講和し、家康の息子の於義伊（結城秀康）が人質として大坂城に赴き、藤吉郎と対面する場面も描かれましたが、本作終盤では家康が重要な役割を果たすようなので、於義伊も今後、目立つ場面があるかもしれません。今回見た限りでは、於義伊は慎重というか臆病な性格のようです。<br /><br />　羽柴軍の四国侵攻は割とあっさりした描写で、どうも本作では四国攻めは小一郎の最大の見せ場とはならないようです。ただ、長宗我部元親の心境はそれなりに描かれたので、息子の長宗我部信親とともに、この後で描かれると思われる羽柴軍の九州侵攻にも登場するのではないか、と予想しています。ただ、本作は登場人物を「使い捨てる」傾向があるだけに、九州侵攻は描かれても、長宗我部親子は登場しないかもしれませんが。小一郎の家臣では船団の準備を担った吉川平介も登場し、おそらくは知名度がひじょうに低いと思われる吉川平介をわざわざ登場させたからには、その最期が「豊臣兄弟」の衝突？とともに描かれるのではないか、と思います。<br /><br />　藤吉郎の関白任官をめぐる話は、割と長く描かれました。藤吉郎の関白任官は、「豊臣兄弟」の立身出世を最も象徴的に表しているだけに、もちろん言及されるとは思っていましたが、意外と長い描写でした。藤吉郎の関白任官と絡んで千宗易（千利休）も登場しましたが、俗っぽい人物として描かれています。ただ、単に俗っぽいだけではなく、もっと底知れない恐ろしさも感じさせますが、まだ小一郎ともさほど深い中ではなさそうで、今後、両者の関係が深まる契機も描かれるのでしょうか。藤吉郎にとって古参家臣となる蜂須賀小六（正勝）は今回なかなか目立ちましたが、そろそろ退場が近いからでしょうか。「豊臣兄弟」の家臣は、浅野長吉（長政）でさえさほど目立たない中で、小六は存在感がありました。ただ、今回で退場ではなく、もう少し出番があるとは思いますが。<a name="more"></a>

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            <category>大河ドラマ</category>
      <author>雑記帳</author>
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