河西陽平『日ソ中立条約 スターリンのインテリジェンス』
角川新書の一冊として、KADOKAWAから2026年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、ソ連成立初期から第二次世界大戦にかけての、日本に関する情報がソ連ではどのように収集され、ソ連の指導層、とくにスターリンがどう解釈し、政治および軍事的判断が決定されたのか、検証しています。日本では有名で、重要な情報をスターリンにもたらした、と通俗的には言われてきたリヒャルト・ゾルゲも取り上げられています。本書は、こうした俗説も取り上げつつ、ソ連の対日諜報を検証しています。
日ソの国交樹立(1925年1月20日)以前からソ連は対日諜報活動に力を入れていたようで、ウラジオストクやハルビンやソウル、国交樹立後は東京に拠点が置かれましたが、シベリア出兵があったわけで、ソ連が日本を警戒するのは当然と言えるでしょう。当初から、日本にはソ連への協力者がいたそうで、日本人の私としては慨嘆したくなりますが、当然、ソ連側にも日本への協力者がいたのでしょう。革命と内戦を経て疲弊していたソ連は、外国には自軍の戦力を過大に評価させようと画策していました。ただ当時は、日本軍ではソ連への関心が低く、日本の脅威になると考えていた軍人は少なかったようです。
ソ連は対日諜報活動から満洲事変のような事態をある程度予想していたものの、実際に起きると、極東軍が貧弱だったため、日本の軍事的脅威への警戒を大きく高めます。さらに、日本の広田弘毅駐ソ大使や日本のソ連駐在武官が、将来ソ連が軍備を整える前に、日本はソ連と戦争すべきと考えていたことがソ連側に知られ、スターリンは日本を強く警戒するようになったようです。ただ、大粛清によって、ソ連の対日諜報網は大打撃を受け、ゾルゲを高く評価していた人物も銃殺され、スターリンはゾルゲに強い警戒を抱いたようです。貧弱だったソ連の極東軍は、1933年初頭には、1929年の2倍以上に増強されます。日本では、石原莞爾がソ連の軍拡を強く警戒しますが、それは陸軍でもごく一部だったようです。
1938年の張鼓峰事件は、機械化された赤軍に日本の朝鮮軍が苦戦した、と言われてきましたが、白兵戦では日本側が圧倒し、ソ連は日本側の3.3倍以上の兵力を投入しながら、3倍以上の損害を出したそうです。この張鼓峰事件から、ソ連は軍備増強を、日本は白兵戦が赤軍に通用する、と考えて、翌年のノモンハン事件につながったようです。ただ、ノモンハン事件で日本軍が手痛い打撃を受けても、日本陸軍ではソ連を軽視する論調が依然として強く残っていました。一方で、主張していた国境線の回復に成功したソ連側の被害は日本以上で、ソ連は極東軍をさらに増強します。
この間も日中戦争は続いており、その解決策、さらにはアメリカ合衆国との交渉力強化のため、日本でもソ連との提携、さらには日本とドイツとイタリアにソ連も加えて四ヶ国同盟を画策する動き一部に出て、それが1941年4月の日ソ中立条約締結につながります。ただ、この時点ですでにドイツは対ソ開戦を決めており、松岡洋右が乗り気だった四ヶ国同盟の可能性はすでにありませんでした。この日ソ中立条約のわずか2ヶ月後に、独ソ戦が始まります。ドイツのソ連攻撃の兆候は、個々の質の差は当然あるとしても、ソ連の諜報活動で正確に把握されており、スターリンを初めとしてソ連の指導層は、おおむね軽視していました。そうした中で、ゾルゲが伝えたドイツのソ連攻撃に関する情報は、さほど正確ではなく、スターリンも重視していなかったようです。
独ソ戦勃発後、日本陸軍ではソ連への対応について意見が分かれました。独ソ戦勃発に伴う動員および各種準備命令である関東軍特種演習(関特演)は有名ですが、現実にはとても軍備は整っておらず、陸軍上層部にもそれを認識していた者は多かったようです。しかし、ソ連にとって日本陸軍の動向はたいへんな脅威に思えて、独ソ戦勃発後にさらなる情報収集を進めますが、ゾルゲも含めて、日本の対ソ攻撃についての報告多くは両論併記で、開始時期も未定でした。本書は、ゾルゲの報告は日本が1941年のうちの対ソ攻撃を断念した、とスターリンに確信させるには至らなかったし、極東軍からヨーロッパ戦線への兵力転出はあったものの、それがモスクワ攻防戦の帰趨に大きな影響を与えたとは言えない、と指摘します。スターリンは、ゾルゲからの報告後も、日本軍の動向を警戒していました。太平洋戦争の勃発後も、ソ連は日本軍の動向を警戒していましたが、日ソ両者とも、兵力を増強していたものの、物資が不足していたようです。
独ソ戦ではスターリングラードの戦いでドイツ軍が多くの兵力を失い、ソ連に余裕が生じてきたのに対して、中国戦線でも太平洋戦線でも解決の見通しが立たず、太平洋戦線では劣勢に転じた日本では、ますます対ソ開戦の不可が戦略の柱となっていきます。スターリンは1943年10月には、アメリカ合衆国に独ソ戦勝利後の対日参戦を初めて伝えます。独ソ戦でソ連が決定的に優位に立ち、日本が太平洋戦線でさらに劣勢に追い込まれる中で、日本はソ連との中立条約維持に希望を託すようになり、それはソ連側には筒抜けでした。日本は、ソ連から日ソ中立条約の不延長を通告され(1945年4月5日)、翌月にドイツが降伏しても、ソ連の仲介による講和を画策して、参謀本部には、ソ連と組んでアメリカ合衆国およびイギリスとの戦争継続を主張する者さえいました。尤も、日本の政府も軍部も、対ソ楽観論一色だったわけではなく、ソ連の対日参戦を警戒していました。こうした楽観論は、ソ連の対日参戦によって最終的に破綻しました。本書からは、正確な情報収集とその的確な判断の難しさが改めて窺えますが、それは現在も変わらないのでしょう。
日ソの国交樹立(1925年1月20日)以前からソ連は対日諜報活動に力を入れていたようで、ウラジオストクやハルビンやソウル、国交樹立後は東京に拠点が置かれましたが、シベリア出兵があったわけで、ソ連が日本を警戒するのは当然と言えるでしょう。当初から、日本にはソ連への協力者がいたそうで、日本人の私としては慨嘆したくなりますが、当然、ソ連側にも日本への協力者がいたのでしょう。革命と内戦を経て疲弊していたソ連は、外国には自軍の戦力を過大に評価させようと画策していました。ただ当時は、日本軍ではソ連への関心が低く、日本の脅威になると考えていた軍人は少なかったようです。
ソ連は対日諜報活動から満洲事変のような事態をある程度予想していたものの、実際に起きると、極東軍が貧弱だったため、日本の軍事的脅威への警戒を大きく高めます。さらに、日本の広田弘毅駐ソ大使や日本のソ連駐在武官が、将来ソ連が軍備を整える前に、日本はソ連と戦争すべきと考えていたことがソ連側に知られ、スターリンは日本を強く警戒するようになったようです。ただ、大粛清によって、ソ連の対日諜報網は大打撃を受け、ゾルゲを高く評価していた人物も銃殺され、スターリンはゾルゲに強い警戒を抱いたようです。貧弱だったソ連の極東軍は、1933年初頭には、1929年の2倍以上に増強されます。日本では、石原莞爾がソ連の軍拡を強く警戒しますが、それは陸軍でもごく一部だったようです。
1938年の張鼓峰事件は、機械化された赤軍に日本の朝鮮軍が苦戦した、と言われてきましたが、白兵戦では日本側が圧倒し、ソ連は日本側の3.3倍以上の兵力を投入しながら、3倍以上の損害を出したそうです。この張鼓峰事件から、ソ連は軍備増強を、日本は白兵戦が赤軍に通用する、と考えて、翌年のノモンハン事件につながったようです。ただ、ノモンハン事件で日本軍が手痛い打撃を受けても、日本陸軍ではソ連を軽視する論調が依然として強く残っていました。一方で、主張していた国境線の回復に成功したソ連側の被害は日本以上で、ソ連は極東軍をさらに増強します。
この間も日中戦争は続いており、その解決策、さらにはアメリカ合衆国との交渉力強化のため、日本でもソ連との提携、さらには日本とドイツとイタリアにソ連も加えて四ヶ国同盟を画策する動き一部に出て、それが1941年4月の日ソ中立条約締結につながります。ただ、この時点ですでにドイツは対ソ開戦を決めており、松岡洋右が乗り気だった四ヶ国同盟の可能性はすでにありませんでした。この日ソ中立条約のわずか2ヶ月後に、独ソ戦が始まります。ドイツのソ連攻撃の兆候は、個々の質の差は当然あるとしても、ソ連の諜報活動で正確に把握されており、スターリンを初めとしてソ連の指導層は、おおむね軽視していました。そうした中で、ゾルゲが伝えたドイツのソ連攻撃に関する情報は、さほど正確ではなく、スターリンも重視していなかったようです。
独ソ戦勃発後、日本陸軍ではソ連への対応について意見が分かれました。独ソ戦勃発に伴う動員および各種準備命令である関東軍特種演習(関特演)は有名ですが、現実にはとても軍備は整っておらず、陸軍上層部にもそれを認識していた者は多かったようです。しかし、ソ連にとって日本陸軍の動向はたいへんな脅威に思えて、独ソ戦勃発後にさらなる情報収集を進めますが、ゾルゲも含めて、日本の対ソ攻撃についての報告多くは両論併記で、開始時期も未定でした。本書は、ゾルゲの報告は日本が1941年のうちの対ソ攻撃を断念した、とスターリンに確信させるには至らなかったし、極東軍からヨーロッパ戦線への兵力転出はあったものの、それがモスクワ攻防戦の帰趨に大きな影響を与えたとは言えない、と指摘します。スターリンは、ゾルゲからの報告後も、日本軍の動向を警戒していました。太平洋戦争の勃発後も、ソ連は日本軍の動向を警戒していましたが、日ソ両者とも、兵力を増強していたものの、物資が不足していたようです。
独ソ戦ではスターリングラードの戦いでドイツ軍が多くの兵力を失い、ソ連に余裕が生じてきたのに対して、中国戦線でも太平洋戦線でも解決の見通しが立たず、太平洋戦線では劣勢に転じた日本では、ますます対ソ開戦の不可が戦略の柱となっていきます。スターリンは1943年10月には、アメリカ合衆国に独ソ戦勝利後の対日参戦を初めて伝えます。独ソ戦でソ連が決定的に優位に立ち、日本が太平洋戦線でさらに劣勢に追い込まれる中で、日本はソ連との中立条約維持に希望を託すようになり、それはソ連側には筒抜けでした。日本は、ソ連から日ソ中立条約の不延長を通告され(1945年4月5日)、翌月にドイツが降伏しても、ソ連の仲介による講和を画策して、参謀本部には、ソ連と組んでアメリカ合衆国およびイギリスとの戦争継続を主張する者さえいました。尤も、日本の政府も軍部も、対ソ楽観論一色だったわけではなく、ソ連の対日参戦を警戒していました。こうした楽観論は、ソ連の対日参戦によって最終的に破綻しました。本書からは、正確な情報収集とその的確な判断の難しさが改めて窺えますが、それは現在も変わらないのでしょう。
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