北野隆一『側近が見た昭和天皇 天皇の言動でたどる昭和史』
幻冬舎新書の一冊として、幻冬舎から2025年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。以下、敬称は省略します。著者は歴史学を専攻したわけではないようで、その点に不安はありましたが、田島道治「拝謁記」や「百武三郎日記」などが取り上げられており、昭和天皇の側近の証言集としては有益なのではないか、と期待して読みました。ただ、本書は単なる証言集ではなく、当時の組織や政治制度や政治状況の解説もあり、新書として配慮された構成になっていると思います。以下、興味深い証言や見解を備忘録として取り上げます。
宇垣一成が組閣に失敗したさいに、百武三郎は辞職してまで天皇の大権を守ろうと思い詰め、宇垣内閣待望論を説いていますが、昭和天皇は宇垣をあまり評価していなかった、との見解もあり、「この様な人は総理大臣にしてはならぬと思ふ」と述べたそうです。この百武の激情を見た宮中の実務官僚は、百武への政治情報提供の抑制を申し合わせ、百武は政治に関与しなくなった、と言われていました。ただ、「百武三郎日記」によると、百武は木戸幸一内大臣と政治情勢や天皇の発言について、活発に情報を交換していたようです。また百武は、盧溝橋事件後の日中和平交渉の試みの一つである「船津工作」にも関わっています。
日中戦争が長期化する中で、日米関係は悪化していき、百武は昭和天皇の疲弊を感じ取ります。昭和天皇は外相の松岡洋右にたいへん不満を抱いていたようで、松岡が外相を更迭された(第二次近衛内閣が総辞職し、外相だけ交代させて、第三次近衛内閣が発足)さいには、百武が見たところ、昭和天皇の表情はすっきりしていたそうです。しかし、その直後の南部仏印進駐によって日米関係は大きく悪化し、昭和天皇は心労が重なっているように百武には見えたようです。昭和天皇は、1941年9月頃までは対米開戦に慎重な姿勢を示し続けたようですが、同年10月には対米開戦への覚悟を強めていったようで、それと関連してか、百武が見るところ、昭和天皇の表情は明るくなったそうです。対米開戦直後の戦果に、昭和天皇は上機嫌だったようです。
坪島文雄は1941年9月から1945年4月まで侍従武官を務め、その日記は2021年11月に遺族から国会図書館へ寄贈され、「昭和天皇実録」の典拠資料にはありません。侍従武官は、軍の報告を天皇に取り次ぎ、天皇の意向を軍に伝達する役割でした。坪島文雄の日記からは、太平洋戦争勃発後しばらくは、軍からの戦況奏上は詳しかったものの、1943年春頃からは、薄い内容になっていったことが窺えるそうです。坪島は、1945年2月には、日本敗戦を覚悟していたようで、坪島の日記によると、昭和天皇も1944年春には戦後のことをかなり気にしていたようです。
戦後の昭和天皇は、戦争責任を記者に問われて、「言葉のアヤ」と言って返答を拒否したことや、広島への原爆投下について「やむを得ないこと」と答えたことが批判されました。この頃侍従を務めていた小林忍は、昭和天皇が「御自信を失っておられる」と日記に書いています。田島道治の「拝謁記」には、昭和天皇の生の感情が垣間見えて興味深いものの、公開すべきではなかった、と反発する人も多そうです。田島道治の「拝謁記」については、当ブログで以前に原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』(関連記事)を取り上げました。
宇垣一成が組閣に失敗したさいに、百武三郎は辞職してまで天皇の大権を守ろうと思い詰め、宇垣内閣待望論を説いていますが、昭和天皇は宇垣をあまり評価していなかった、との見解もあり、「この様な人は総理大臣にしてはならぬと思ふ」と述べたそうです。この百武の激情を見た宮中の実務官僚は、百武への政治情報提供の抑制を申し合わせ、百武は政治に関与しなくなった、と言われていました。ただ、「百武三郎日記」によると、百武は木戸幸一内大臣と政治情勢や天皇の発言について、活発に情報を交換していたようです。また百武は、盧溝橋事件後の日中和平交渉の試みの一つである「船津工作」にも関わっています。
日中戦争が長期化する中で、日米関係は悪化していき、百武は昭和天皇の疲弊を感じ取ります。昭和天皇は外相の松岡洋右にたいへん不満を抱いていたようで、松岡が外相を更迭された(第二次近衛内閣が総辞職し、外相だけ交代させて、第三次近衛内閣が発足)さいには、百武が見たところ、昭和天皇の表情はすっきりしていたそうです。しかし、その直後の南部仏印進駐によって日米関係は大きく悪化し、昭和天皇は心労が重なっているように百武には見えたようです。昭和天皇は、1941年9月頃までは対米開戦に慎重な姿勢を示し続けたようですが、同年10月には対米開戦への覚悟を強めていったようで、それと関連してか、百武が見るところ、昭和天皇の表情は明るくなったそうです。対米開戦直後の戦果に、昭和天皇は上機嫌だったようです。
坪島文雄は1941年9月から1945年4月まで侍従武官を務め、その日記は2021年11月に遺族から国会図書館へ寄贈され、「昭和天皇実録」の典拠資料にはありません。侍従武官は、軍の報告を天皇に取り次ぎ、天皇の意向を軍に伝達する役割でした。坪島文雄の日記からは、太平洋戦争勃発後しばらくは、軍からの戦況奏上は詳しかったものの、1943年春頃からは、薄い内容になっていったことが窺えるそうです。坪島は、1945年2月には、日本敗戦を覚悟していたようで、坪島の日記によると、昭和天皇も1944年春には戦後のことをかなり気にしていたようです。
戦後の昭和天皇は、戦争責任を記者に問われて、「言葉のアヤ」と言って返答を拒否したことや、広島への原爆投下について「やむを得ないこと」と答えたことが批判されました。この頃侍従を務めていた小林忍は、昭和天皇が「御自信を失っておられる」と日記に書いています。田島道治の「拝謁記」には、昭和天皇の生の感情が垣間見えて興味深いものの、公開すべきではなかった、と反発する人も多そうです。田島道治の「拝謁記」については、当ブログで以前に原武史『象徴天皇の実像 「昭和天皇拝謁記」を読む』(関連記事)を取り上げました。
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