黄河中流域の人口史

 黄河中流域の人類遺骸のゲノムデータを報告した研究(Wang et al., 2026)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。なお、当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します。

 本論文は、黄河中流域で発見された、中期新石器時代~明清期となる6200~100年前頃の人類遺骸112個体の新たなゲノムデータを報告しています。その結果、後期新石器時代の後の個体の主要な遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)は、最古となる6200年前頃の個体に由来する、と推定されています。一方で後期新石器時代には、文化的変容に遺伝的変化が伴っていたことも示されました。その後、後期新石器時代の黄河中流域集団的な遺伝的構成要素が広範に拡大しました。また本論文は遺伝的親族関係も調べており、社会的地位は、2500年前頃には家族内および密接な生物学的親族間で安定的に継承されたのに対して、2000年前頃には生物学的親族よりも婚姻同盟の方が重視されていた、と示唆されています。

 以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、YHg(Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ)、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、HO(Human Origins、ヒト起源)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、PC1(first principal component、第一主成分)、PC2(second principal component、第一主成分)、km(kilometre、kilometer、キロメートル)、kya(kilo years ago、千年前)、KIN(Kinship INference、親族関係の推測)、READ(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定)、ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)、cM(centimorgan、センチモルガン)、AR(Amur River、アムール川)です。

 以下の時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、HE(historical era、歴史時代)です。本論文で取り上げられる主要な文化は、仰韶(Yangshao)文化、龍山(Longshan)文化、良渚(Liangzhu)文化、崧沢(Songze)文化、大渓(Daxi)文化、曇石山(Tanshishan)文化、二里頭(Erlitou)文化、斉家(Qijia)文化です。本論文で取り上げられる主要な集団は、戎狄(Rong-Di)です。

 本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国河南省の遺跡は、義馬(Yima)市の上石河(Shangshihe)墓地、武陟(Wuzhi)県の万花(WanHua)遺跡、登封(Dengfeng)市の南洼(NanWa)遺跡、霊宝(Lingbao)市の陽平寨(Yangpingzhai)遺跡と底董(Didong)遺跡と暁塢(Xiaowu)遺跡、三門峡(Sanmenxia)市の北陽平(Beiyangping)遺跡、澠池(Mianchi)県の仰韶村(Yangshaocun)、滎陽(Xingyang)市の汪溝(Wanggou)遺跡と路糸茜(Lusixi)遺跡です。

 本論文で取り上げられる河南省以外の中華人民共和国の主要な遺跡は、河北省の雄安新区(Xiongan New Area)の東小李白龍(Dongxiaoli-Bailong)遺跡、陝西省神木(Shenmu)市の石峁(Shimao)遺跡と延安市の蘆山峁(Lushanmao)遺跡、山西省襄汾(Xiangfen)県の陶寺(Taosi)遺跡、甘粛省の黒水国(Heishuiguo)遺跡と佛爺廟湾(Foyemiaowan)遺跡、上海市の閔行(Minhang)区の馬橋(Maqiao)遺跡と青浦(Qingpu)区の福泉山(Fuquanshan)遺跡、広西チワン族自治区の宝剣山(Baojianshan)洞窟と田東(Tiandong)県の林逢(Linfeng)鎮の独山洞窟(Dushan Cave)、山東省の王城岡(Wangchenggang)遺跡、福建省の渓頭村(Xitoucun、Xitoucun)遺跡です。本論文で取り上げられる中国以外の遺跡と地域は、チベット高原の山南(Shannan)地域とナクチュ(Nagqu)県とメブラク(Mebrak)遺跡、台湾の漢本(Hanben)遺跡です。


●要約

 アジア東部の文明の重要な発祥地として、黄河中流域は長く、ヒトの文化的および生物学的進化の研究の焦点となってきました。しかし、その定住の歴史や親族関係慣行は、古代ゲノムデータの不足のため、依然として不明です。本研究では、6200~100年前頃となる、黄河中流域の8ヶ所の考古学的遺跡から新たに配列決定された古代人112個体のゲノムを提示します。本論文の分析から、すべての後期個体は最終的にはその主要な祖先系統が、仰韶文化の中核地域からの最古級のゲノムとなる、本研究で新たに生成された河南西部の6200年前頃のゲノムによって表される、地元の初期人口集団にたどれる、と示唆されます。2回のその後の大きな人口統計学的変容も特定されました。最初は、龍山文化期の河南西部における4500年前頃の文化的変容と関連する遺伝的変化で、これは陝西および山西人口集団の拡大と関連しているかもしれません。この後に、河南中央部関連祖先系統の2000年間にわたる拡大があり、これによって、ユーラシア草原地帯もしくはその近隣の外国勢力からの有意な遺伝的寄与とは無関係に、黄河流域全体の遺伝的景観が均質化しました。

 本論文は、人口統計学的歴史に加えて、2点の事例研究を通じて、古代の社会構造への知見を提供します。2500年前頃の上石河遺跡では、証拠から、社会的地位は家族内および密接な生物学的親族間で安定して継承された、と示唆されています。2000年前頃の東小李白龍遺跡によって表される社会は、祖先の系統による継承ではなく、婚姻同盟によって築かれた関係により重きを置いていたようです。まとめると、本研究は、世界の最古級の農耕中心地の1地域における局所的な連続性と長距離の人口接続との間の複雑な相互作用を明らかにし、鉄器時代中国北部における社会構造に新たな知見を提供します。


●研究史

 仰韶文化(7000~5000年前頃)は黄河流域起源で、中国で発見された最古級かつ最も重要で、最も広範に研究された新石器時代文化の一つです。その中核地域は、黄河中流の現在の河南省西部と山西省南部と陝西省東部に位置します。遺跡の分布はとくに河南省西部の三門峡地域、とりわけ霊宝市に密集しており、霊宝市では、霊宝を中心とする1000km²の地域内で、193ヶ所の新石器時代遺跡が特定されてきました。考古学的研究は、黄河中流の仰韶文化と関連する人口集団の人口統計学的歴史に新たな知見を提供してきており、仰韶文化の人口拡大を裏づけています[3、4]。しかし、これまで、河南省西部の仰韶文化期から得られた古代ゲノムデータは依然としてひじょうに限られており、2点のゲノムが報告されただけで、それぞれ前期および中期の仰韶文化期と関連しています[5、6]。仰韶文化の中核地域から得られた古代ゲノムデータの少なさから重要な問題が未解決になっており、それは、仰韶文化の中核地域内の人口集団は遺伝的に均質だったのか、それとも周辺文化との相互作用を通じて存続していたかもしれない、人口構造を示していたのか、という問題です。

 中原の肥沃な土地と戦略的位置は、とくに龍山文化期と中国の初期王朝において、顕著な農耕の発展および人口増加を促進しました。4300年前頃までに、河南西部では龍山文化の亜型である陶寺文化と関連する文化的遺物が見られます。以前の古代ゲノム研究では、河南西部の龍山文化期の人々(黄河_仰韶村_龍山によって表されます)[5]は。河南中央の部以前に刊行された同時代の人々(黄河_MNによって表されます)が有していた、アジア東部南方関連祖先系統を受け継いでおらず、むしろ、石峁文化と関連する陝西北部の同時代の集団である、石峁_LNと遺伝的には均質だった、と示唆されました。より広範な人口集団の変化が河南西部で仰韶文化期および龍山文化期に起きたのかどうか、あるいは、これが単なる例外だったのかどうか、判断するには、河南西部の龍山文化からより多くの標本が必要です。さらに、中原は、その境界内で20以上の王朝が首都を築いたことによって証明されるように、数千年にわたって中華文明の政治と経済と文化の中心地として機能しました。しかし、この地域は王朝交替や内紛や外部勢力の侵入(たとえば、戎狄や匈奴や鮮卑のような集団から)などの要因によって、顕著な変化を経てきました。先行研究は調査対象の特定期間における中原内の高水準の遺伝的安定性の証拠を報告しており、西周王朝(紀元前1046~紀元前770年)や春秋時代(紀元前770~紀元前476年)や唐王朝(618~907年)の個体群では、顕著な遺伝的置換はありませんでした[9]。ただ、その研究には春秋時代の後のデータはほとんど含まれておらず、単一の考古学的遺跡からのゲノム情報に依拠していました。したがって、重要な問題が依然として解決されておらず、それは、北方草原地帯と中原との間の文化的相互作用には、古代中国史を通じての重要な王朝期に、どの程度の人口混合を含んでいたか、というものです。

 本研究では、中国北部の河南省および河北省で発掘された、新たに報告される112個体のゲノム規模古代DNAデータを報告します(図1A)。これらのデータは利用可能なゲノム記録を大きく拡張し、河南西部の初期仰韶文化関連の3個体および龍山文化関連の9個体を含んでおり、中原の殷(商)王朝(3000年前頃)から清王朝(200~100年前頃)の個体数を3倍としました(表1)。以下は本論文の図1です。
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●DNA解析

 中国北部の河南省および河北省の8ヶ所の考古学的遺跡からデータが生成され、約6000年間の古代ゲノム時間横断区にわたります。これらのデータを得るために、骨格要素および歯からDNAが抽出され、119点の二本鎖遺伝的ライブラリが生成され、そのうち69点は124万ゲノム規模SNP(124万SNP)の標的一式で捕獲されました。さらに、2点の測定基準を用いて古代DNAの真正性が評価され、つまり、古代DNAの損傷パターンと、mtDNAおよびX染色体に基づく汚染推定値です。その結果、全個体は典型的なDNA損傷パターン(つまり、配列決定読み取りの5’末端および3’末端における高い割合のシトシンからチミンおよびグアニンからアデニンへの置換)を示した、と分かりました。高い汚染率(5%超)もしくは124万パネルでSNP数の少ない(2万ヶ所未満)の標本の除去後に、112個体が保持されました。

 その後の集団遺伝学的分析のため、SNP数の少ない新たに生成された112個体から1親等および2親等の親族(READソフトウェアから推定)が除外されました。これによって90個体が保持され、そのSNP数は124万パネルで27697~1226898ヶ所の範囲でした。最後に、これらのデータが以前に刊行されたユーラシアの古代および現在の個体群と組み合わされました。


●黄河中流の新たに生成された個体群における遺伝的類似性の概要

 より広範な地域の他の古代の人口集団およびアジア東部現代人と比較しての、黄河中流のすべての配列決定された個体の遺伝的構造の概要を得るために、まずPCAが実行されました。HOデータセットのアジア東部現代人における差異を用いて計算された最初の2主成分に、すべての古代の個体が投影されました。その結果、黄河中流の新たに生成された個体群と以前に刊行された個体群は相互と密接な類似性を示す、と分かりました。これらの結果は対での外群f3統計によっても裏づけられ(図2A)、黄河流域古代人は他のすべての検証対象の人口集団とよりも相互の方と多くの遺伝的浮動を共有していた、と示されています。以下は本論文の図2です。
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 PCA図では、黄河中流の以前に刊行された古代の個体群は3個の遺伝的クラスタ(まとまれ)を形成し、第一は5000年前頃の仰韶文化個体群(黄河_MNによって表されます)[6]、第二は河南中央部の4000年前頃の龍山文化から3000年前頃の個体群(黄河_LN、黄河_LBIAによって表されます)[6、9、11]、第三は陝西北部の4000年前頃の石峁文化個体群(石峁_LNによって表されます)と河南西部の仰韶村遺跡の4000年前頃の龍山文化個体群(黄河_仰韶村_龍山によって表されます)[5]です(図1B)。河南西部の新たに生成された初期仰韶文化関連個体群(河南_暁塢_6kyaと分類表示されます)は黄河_MNとまとまりました(図1B)。陽平寨遺跡の4個体(河南_陽平寨_4.5–4kya_1と分類表示されます)は、黄河_MNおよび黄河_仰韶村_龍山との密接な類似性を示しました(図1B)。陽平寨遺跡のもう一方の新たに生成された龍山文化関連個体群(河南_陽平寨_4.5–4kya_2と分類表示されます)のゲノムは、黄河_LNとまとまりました(図1B)。

 黄河中流の仰韶文化および龍山文化関連の個体群で観察された遺伝的多様性とは対照的に、3000~100年前頃の同じ地域の新たに生成された親族関係にない79個体は、PCA図では顕著な人口下部構造を示しませんでした(図1B)。これらの個体に含まれていたのは、河南西部の南洼遺跡の4個体(河南_南洼_3kyaと分類表示されます)、河南西の上石河遺跡の春秋時代の35個体(河南_上石河_2.5kyaと分類表示されます)、2300~2100年前頃と直接的に年代測定された底董遺跡の4個体(河南_底董_2kyaと分類表示されます)、河南の北陽平遺跡の東周王朝の7個体(河南_北陽平_2.3kyaと分類表示されます)、河北の東小李白龍遺跡の漢王朝の20個体(河北_東小李白龍_2kyaと分類表示されます)、河南の万花遺跡の明清王朝の12個体(河南_万花_0.2–0.1kyaと分類表示されます)です。底董遺跡の1個体は、おもにHOデータセットにおける超低被覆度のため、主要なクラスタ(まとまり)から逸れていることに要注意です。その後の定量的分析のため、考古学的遺跡および遺伝学的分類に基づいて個体群が分類されました。


●仰韶文化の中核地域の初期仰韶文化関連の人々

 暁塢遺跡の親族関係にない初期仰韶文化関連2個体のゲノム(河南_暁塢_6kyaと分類表示されます)が新たに生成され、この2個体は黄河中流の河南西部から得られたこれまでで最古級の仰韶文化関連個体のゲノムを表しています。新たに生成された初期仰韶関連文化個体群と後期仰韶文化関連個体群(汪溝遺跡の5200年前頃の黄河_MN個体群によって表されます)との間の遺伝的関係を定量化するために、f3形式(ヨルバ人;対象、参照)でf3統計が実行されました。この分析では、初期仰韶文化の暁塢および後期仰韶文化の黄河_MNが相互と高水準の遺伝的浮動を共有していた、と示され、黄河中流の仰韶文化関連の人々における高度な遺伝的連続性が示唆されます。

 黄河中流の仰韶文化関連の人々が仰韶文化の中核地域の初期仰韶文化関連個体群の直接的な子孫だったのかどうか、評価するために、対でのqpWave分析でこの仮説が形式的に調べられました。その結果、単一の供給源、つまり河南_暁塢_6kyaが黄河中流の後期仰韶文化の人々の遺伝的構成をうまく説明できる、と分かりました(図2B)。f4形式(ヨルバ人、X;河南_暁塢_6kya、黄河_MN)のf4統計も計算され、初期仰韶文化個体群と後期仰韶文化個体群の、本論文のデータセットで利用可能なユーラシアの古代人233個体との異なる類似性の可能性が検証されました。後期仰韶文化の人々が初期仰韶文化の人々の混合していない子孫だったならば、すべてのf4統計は有意ではない、と予測されます。その結果、ほぼすべてのf4統計では有意ではない値が生成された、と分かり、河南_暁塢_6kyaと黄河_MNは比較対象の人口集団と同様に関連していた、と示唆されます。おもな例外は、河南_暁塢_6kyaが黄河_MNと比較して一部の古代チベット人とより大きな遺伝的類似性を共有していた事例で、たとえば、f4(ヨルバ人、山南3k/ナクチュ2.7k/メブラク[12];河南_暁塢_6kya、黄河_MN)が0未満(−3.465 < Z得点< −2.547)でした。初期仰韶文化人口集団が一部の古代チベット人と追加の遺伝的類似性を要していた可能性は、除外できません。


●石峁_LNおよび黄河_LNの両者の関連する系統は河南西部の4000年前頃の龍山文化関連の人々で観察されました

 仰韶文化および龍山文化個体群が河南西部で経時的に遺伝的連続性の証拠を示すのかどうか、評価するために、f3(ヨルバ人;河南_陽平寨_4.5–4kya_1、河南_陽平寨_4.5–4kya_2、参照)が計算されました。その結果、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と河南_陽平寨_4.5–4kya_2の両者は在来の初期仰韶文化関連の人々(河南_暁塢_6kyaによって表されます)と密接な類似性を示す、と観察されました。これらの結果は、河南西部における仰韶文化集団と龍山文化集団との間の遺伝的連続性を裏づけます。

 次に、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と河南_陽平寨_4.5–4kya_2の祖先供給源の特定が試みられました。黄河_MNが参照人口集団として用いられたのは、河南_陽平寨_4.5–4kyaの人々と高度な遺伝的浮動を共有しており、欠失率が低く、標本規模が大きいからです。対でのqpWave分析は、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と河南_陽平寨_4.5–4kya_2が黄河_MNの混合していない子孫だった、とのモデルを却下しました(図2B)。f4形式(ヨルバ人、X;河南_陽平寨_4.5–4kya_1、黄河_MN)のf4統計でも、河南_陽平寨_4.5–4kya_1は、黄河_仰韶村_龍山で観察されたパターンと同様に、黄河_MNの場合よりも、アジア北東部およびチベットの古代人と有意に高い類似性を有していました。さらに、外群f3統計では、河南_陽平寨_4.5–4kya_1は、石峁_LNと遺伝的に均質だった、以前に刊行された仰韶村遺跡の龍山文化関連の人々と高度な遺伝的浮動を共有していました。対でのqpWave分析では、河南_陽平寨_4.5–4kya_1の祖先組成は黄河_仰韶村_龍山/石峁_LNによって適切に説明できる、と観察されました(図2B)。黄河_仰韶村_龍山と河南_陽平寨_4.5–4kya_1の両方における石峁_LN関連遺伝的特性の存在は、陝西北部と華南西部との間のより広範な遺伝的つながりを示唆しています。

 次に、河南_陽平寨_4.5–4kya_2の遺伝的組成の調査に焦点が当てられました。f4形式(ヨルバ人、X;河南_陽平寨_4.5–4kya_2、黄河_MN)のf4統計では、黄河_MNと比較して、河南_陽平寨_4.5–4kya_2はアジア東部南方関連集団(台湾_漢本によって表されます)とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有していた(Z得点は−2.376)、と観察されました。qpAdmで実行された2供給源混合モデル化では、黄河中流関連祖先系(黄河_MNによって表されます)とアジア東部南方関連祖先系統(5400年前頃の崧沢_福泉山と5300年前頃の良渚_馬橋と長江中下流域の6000年前頃の大渓_大渓_2[3]、アジア東部南方内陸部の8300~6400年前頃の独山洞窟および宝剣山[13]も4300年前頃の曇石山および4500年前頃の渓頭村[14]、1500年前頃の台湾_漢本[15]によって表されます)を用いると、河南_陽平寨_4.5–4kya_2に適している、と明らかになりました。このモデルでは、河南_陽平寨_4.5–4kya_2における20.6±4.8%~65.5±12.3%の祖先系統がアジア東部南方関連(台湾_漢本、良渚_馬橋、崧沢_福泉によって表されます)である、と推定されました。qpWave分析は、河南_陽平寨_4.5–4kya_2と黄河_LNとの間の遺伝的均質性を裏づけます(図2B)。

 まとめると、これらの調査結果は、河南西部の龍山文化個体群における、それぞれ当初は河南中央部の黄河_LNおよび陝西北部の石峁_LNと報告された、遺伝的に区別できない2系統の存在を明らかにしています。


●中国の王朝期における黄河全域で高度につながった遺伝子プール

 次に、殷王朝が樹立された3500年前頃以降の、中国の王朝期における中原の人口統計学的歴史が調べられました。124万パネルで充分なSNP被覆度がある、放射性炭素年代測定で3300~100年前頃の6ヶ所の遺跡から出土した、河北と河南の親族関係にない82個体のデータが分析されました。まずPCAに焦点を当てると、河南の新たに配列決定された新石器時代標本とは対照的に、河南および河北の3000~100年前頃の全個体は人口下部構造を示さない、と分かりました(図1B)。これらの全個体は、以前に特徴づけられた黄河_LN関連祖先系統との遺伝的類似性を示しました。外群f3統計も、中原におけるこれら3000~100年前頃の個体間の密接な関係を裏づけます(図2A)。これらの結果は、帝国拡大に続く、中原の遺伝的組成の祖先系統の変化と複雑さの減少を示唆しています。

 次に、形式的検定を用いて、これらの集団が遺伝的に均質だったのかどうか、調べられました。中原における殷王朝の首都と古代中国の他地域との間のつながりの、充分に報告された証拠があります。たとえば、長江中流の金属資源、長江下流の硬質土器や原初的な磁器、東方沿岸の塩、北方草原地帯の家畜ウマ、遠く南シナ海の貝殻や亀の甲羅さえ、すべてが殷王朝の首都に集中していました。資源の流れに、殷の首都の遺伝的組成を形成した大規模な人口移動が伴っていたのかどうかは、依然として不明です。f4(ヨルバ人、X;河南_南洼_殷、黄河_LN/黄河中流_王城岡_二里頭)を用いて、龍山文化および二里頭文化と関連するゲノム[11]および中原の殷王朝の新たに生成された親族関係にない5個体のゲノムを比較すると、f4値のほとんどは有意ではなかった、と観察されました。これが示唆するのは、河南中央部の在来の先行する龍山文化および二里頭文化の人々と比較して、殷王朝の人々が他系統から追加の遺伝的寄与を受けなかったことです。

 歴史的記録によると、東周王朝期の戎狄や漢王朝期の匈奴など、中原への非漢人集団の頻繁な侵入がありました。そこで次に、これらの遊牧民人口集団から中原の遺伝子プールへの顕著な遺伝子移入がこれらの期間に起きたのかどうか、評価することに焦点が当てられました。中国北西部の斉家文化(黄河上流_LN[6]によって表されます)、中国北東部の古代鮮卑のゲノム(AR_鮮卑_IA[6]によって表されます)、モンゴル高原の古代匈奴のゲノム(モンゴル_匈奴、初期匈奴_西方、初期匈奴_他[19、20]によって表されます)と関連する古代ゲノムを用いて、それぞれ戎狄と鮮卑と匈奴の遺伝的組成が表されました。新たに生成された東周王朝集団(河南_上石河_2.5kya、河南_北陽平_2.3kyaと分類表示されます)と漢王朝集団(河北_東小李白龍_2kyaと分類表示されます)が、黄河_LNと比較して有意な戎狄/匈奴/鮮卑関連祖先系統を受け継いでいたならば、f4形式(ヨルバ人、X;研究対象集団、黄河_LN)のf4統計では負の値が予測されます。しかし、ほとんどのf4統計では有意ではない値(Z得点が3未満)が得られました。これらの結果から、多様なユーラシア古代人と比較して、3000~2000年前頃の各河南集団と2000年前頃の河北集団は、龍山文化期の中原における優勢な遺伝的構成だった黄河_LNとクレード(単系統群)を形成する、と明らかになります。対でのqpWave分析も、3000~2000年前頃の各河南集団と2000年前頃の河北集団が、代表的なユーラシア系統の一覧と比較して単系統群であること一致する、と裏づけており、中原の長期の遺伝的安定性がさらに裏づけられます(図2B)。さらに、対でのqpWave分析も、新たに生成された黄河中流の中原集団と黄河下流の歴史時代の集団(山東_HEによって表されます)と黄河上流集団(黒水国_HE、佛爺廟湾_HEによって表されます)農耕のゲノム間の遺伝的均質性を裏づけています(図2B)。

 留意すべきは、河南_北陽平_2.3kyaと関連する新たに配列決定されたゲノムと、再分析された刊行されている3000年前頃の黄河_西周(黄河_LBIAに統合されて分類表示されます)がすべて、4000年前頃の陽平寨遺跡と同じ地域から得られたことです。河南_北陽平_2.3kyaと以前に刊行された3000年前頃の黄河_西周はPCAではともにクラスタ化する(まとまる)と分かり、これらの集団が3000~2300年前頃の河南西部では主要な祖先系統を表しているかもしれない、と示唆されます。f4統計ではさらに、河南_北陽平_2.3kyaと黄河_西周は、同じ地域の4000年前頃のゲノム(黄河_仰韶村_龍山、河南_陽平寨_4.5–4kya_1によって表されます)と比較して、アジア東部南方関連の人々と多くのアレルを共有していた、と示唆されます。これは河南西部における遺伝的連続の中断を示唆しており、アジア東部南方関連の遺伝子流動の流入に起因します。このアジア東部南方関連祖先系統の増加についての節約的な説明は、河南_陽平寨_4.5–4kya_1と比較してアジア東部南方関連の人々とも多くのアレルを共有していた黄河_LN関連祖先系統と関連する人口集団の大規模な東方への移住です。このモデルは対でのqpWave分析によって裏づけられ、黄河_LNと河南_北陽平_2.3kya/黄河_西周との間の遺伝的均質性を却下できません(図2B)。

 先行研究では明清王朝期の利用可能なゲノムは1点しか得られず、この個体は偶然にも遺伝的外れ値で、それは、この個体が同じ地域の以前の人々と比較して高い割合のアジア東部南方関連祖先系統を有していたからです。本研究では、明清期の親族関係にない12個体のゲノムが新たに生成されました(河南_万花_0.2–0.1kyaと分類表示されます)。これらの個体は遺伝的に相互と均質だった、と分かりました。さらに、河南_万花_0.2–0.1kya集団は同じ地域の以前の人々(黄河_LN、黄河中流_王城岡_二里頭、河南_南洼_3kya、河南_上石河_2.5kya、河南_北陽平_2.3kyaによって表されます)の混合していない子孫としてモデル化できました(図2B)。これらの結果は、中原における長期の遺伝的安定性を裏づけます。


●中原における親族関係慣行調査のデータと手法

 中原の上石河および東小李白龍墓地の広範な標本抽出および豊富な考古学的情報を活用して、ふくすうの個体から古代DNAが回収され、親族関係慣行が調べられました。READを用いて1親等および2親等の遺伝的関係が特定され、KINを用いて、最大3親等の親族が検出され、キョウダイと親子の組み合わせが区別されて、ancIBDが適用されて、最大6親等の生物学的近縁性が解明されました。


●上石河遺跡の遺伝的近縁性推定

 中国北部の河南省の義馬市に位置する上石河遺跡は、年代が春秋時代(紀元前770~紀元前403年)【研究史の項目では春秋時代の年代の終焉は紀元前476年とされていますが、春秋時代の終焉については昔から複数の見解があり、紀元前403年説もあります】の考古学的遺跡です。複数の考古学的証拠は、上石河遺跡における社会的階層化の存在を示唆しています。墓の向きに基づくと、墓は2種類に分類でき、それは南北方向の墓と東西方向の墓です。南北方向の墓に埋葬された個体群は、東西方向の墓に埋葬された個体群よりも高い社会的地位だった、と考えられており、上石河墓地は墓の向きによって区別される社会的に階層化された2集団に区別されていた、との仮説につながりました。ただ、遺伝的祖先系統および生物学的親族関係が上石河墓地で観察された社会的階層化をどのように形成したのかについいて、依然として重要な問題が残っています。

 本研究では、上石河墓地の38個体からゲノム規模データの回収に成功しました。親族関係にある個体の15組(最も近い関係で1親等~6親等の親族)のうち、10組は同じ墓の向きを共有している墓に埋葬されており、8組が南北方向、2組が東西方向の墓です。これは、社会的地位が、家族内および密接な生物学的親族間で安定的に継承された可能性が高いことを示唆しています。残りの5組は、2親等もしくはそれ以上の関係の個体群で構成されており、異なる向きの墓に埋葬されていました。注目すべきことに、これら5組の密接な親族関係のつながりのうち4組は女性と女性もしくは女性と男性のいずれかで、他の1例は2親等以上の親族関係男性と男性の組み合わせで、同じYHgを有していました。このパターンから、女性が婚姻を通じて社会的階級間の重要なつながりとして機能していた、と示唆されるかもしれませんが、この観察を確証するにはより大きな標本規模が必要です。

 上石河墓地の少なくとも男性2個体それぞれに存在する、4系統の主要なYHgが特定され、それは、(1)南北方向の墓の男性で多い、12個体のうち11個体に存在したQ1a1aおよびN1a2と、(2)男性3個体に存在したC2b1bで、そのうち2個体(SHM019、SSH-M85)は東西方向の墓に、1個体(SSH-M4)は南北方向の墓に埋葬されていました。そのうち、SSH-M4(南北方向の墓)とSHM019(東西方向の墓)は東西方向の墓のSSH-M85と密接な常染色体の親族関係を有していました。(3)さらに、東西方向の墓の3個体でO2a2b1a2a1が見つかり、そのうち2個体(KXHGM40とSSHM10)は3親等の親族でした。

 常染色体で密接な生物学的親族関係がある男性と男性の5組のうち4組は、墓の向きとY染色体系統の両方を共有しており、社会的階層化と父系の境界の高度な重なりが示唆され、父系継承の社会的構造と一致します。対照的に、mtDNA分析は顕著に高度なハプロタイプの多様性を明らかにしました。具体的には、38個体でmtDNAの異なる31系統が特定されました。親族の15組のうち1組、つまり3親等の親族であるKXHGM40とSSHM10のみが同じmtHgを共有していました。mtDNAおよびY染色体の分析を常染色体の親族関係推定と統合することによって、上石河墓地内でのおもに父系の家系構造が裏づけられます。


●東小李白龍墓地の遺伝的近縁性推定

 中国北部の河北省の雄安新区に位置する東小李白龍墓地は、前漢(西漢)王朝後期から後漢(東漢)王朝後期(紀元前206~紀元後220年)の民間墓地です。考古学的研究は、漢王朝期における夫婦の合慣行の出現を示唆してきました。しかし、考古学的証拠のみでは、合葬された個体が夫婦だったのか、それとも密接な生物学的親族(キョウダイやイトコなど)だったのかどうか、直接的には区別できません。さらに、骨格遺骸の断片化が多いため、形態学的特徴(たとえば、骨盤や頭蓋)が高精度な性別判定を提供できる場合でさえ、遺伝学的分析による分子性別特定がしばしば必要です。

 この研究では、東小李白龍墓地から26個体のゲノムの配列決定に成功し、その中には二重棺墓6基から得られた12個体のゲノム(M10、M21、M26、M43、M44、M56)が含まれます。これらの古代ゲノムは、これら合葬された個体群の生物学的親族関係および生物学的性別の直接的調査の機会を提供します。これら二重棺墓6基には、死亡時年齢が同等の、遺伝学的に女性の1個体と遺伝学的に男性の1個体が含まれていた、と分かりました。さらに、これらの個体は相互に遺伝的には親族関係になく、これらの個体は夫婦を表している可能性が高い、と示唆されますが、子供の遺伝学的証拠は検出されませんでした。5組の親子の組み合わせも再構築され、その中に同じ墓にともに埋葬された個体は存在しませんでした。このパターンは、親子の合葬が東小李白龍墓地では行なわれていなかった、との観察をうらに裏づけます。

 まとめると、これらの調査結果から、漢王朝の東小李白龍墓地によって表される社会は、祖先の系統による継承ではなく、婚姻同盟によって確立された関係をより重視していた、と示唆されるかもしれません。注目すべきことに、M10号墓には20~25歳の成人男性(DXL-M10bei)と6~8歳の女児(DXL-M10nan)が含まれていました。生物学的親族関係分析では、この2個体が父親と娘の組み合わせとは特定されず、この結果が信頼できるのは、124万パネルでの両者の重複SNPが1親等もしくは2親等の親族関係を推定するのに充分だからです。さらに、考古学的証拠から、DXL-M10beiの散在した人骨は二次移動から生じた可能性が高く、この慣行には、すでに埋葬された個体の再埋葬が含まれる、と示唆されています。親族関係にない女児との成人男性合葬は、この状況での合葬は必ずしも生物学的親族関係に基づいていなかった、との結論を補強します。


●黄河中流における6000~100年前頃の個体群のROHパターン

 4000年前頃の仰韶村遺跡[5]、3000~1000年前頃の路糸茜遺跡(黄河_西周、黄河_春秋、黄河_唐によって表されます)[9]の以前に刊行されたゲノムや、6000~5000年前頃の黄河および長江地域の最近刊行されたゲノム[3]で、ROH分析も実行されました。これら刊行されたゲノムのROHパターンは、これまで考察されてきませんでした。20cM超のROH断片の合計長は、近親交配の可能性を示唆しています。仰韶文化関連ゲノム(6000~5000年前頃)については、40個体のうち2個体がそれぞれ47cMと27cMの長いROHを有しており、これはマタイトコもしくはミイトコの間の子供であることと同等です。龍山文化関連ゲノム(4500~4000年前頃)については、4000年前頃の河南西部の7個体のうち2個体が100cM超の長いROHを示しており、これはイトコ愛゛たもしくはそれ以上の婚姻など、近親婚の存在を示唆しています。これらの結果は、黄河地域の仰韶文化および龍山文化関連社会における、低いものの無視できない水準の近親婚の存在を示唆していますが、このパターンの確証にはより大規模な標本が必要です。中原の3000~100年前頃の個体群における長いROH断片の欠如から、最近の近親交配は実質的に避けられていた、と示唆されます。


●考察

 この研究で提示された遺伝学的証拠は、新石器時代から歴史時代までの中原における人口動態の複雑なパターンを明らかにします。3点の重要な調査結果が、この重要な地域における先史時代の遺伝子流動および親族関係慣行に関する理解を一新します。

 新たに生成された暁塢標本は、黄河中流におけるこれまでで最古級の仰韶文化関連ゲノムの一つを表しています。初期~後期の仰韶文化の人々は単一の祖先供給源に起源がある、と分かり、地域的な遺伝的連続性に相当します(図3A)。考古学的記録は、仰韶文化期の後の黄河中流における大きな文化的変化を証明しています。4300年前頃までに、河南西部の新石器時代文化は山西省南部の陶寺遺跡に因んで命名された、陶寺文化によってほぼ置換されたようです。最近の古代ゲノム研究では、山西および陝西地域の4000年前頃の個体群(陶寺遺跡と石峁遺跡と蘆山峁遺跡によって表されます)は、北方草原地帯および中原関連祖先系統の混合特性を共有している、と示唆されています[29]。陽平寨遺跡の新たに生成された4000年前頃の個体群における遺伝的パターンの調査から、河南西部の人口集団も石峁_LNと類似した祖先系統を示す、と示唆されます(図3B)。河南西部の仰韶文化と関連する人々には、石峁_LN関連の祖先構成要素は観察されませんでした。龍山文化期の河南西部における石峁_LN関連の遺伝的構成要素の出現は、山西および陝西地域の人口集団との人口統計学的つながりを反映しています。陽平寨遺跡の遺伝的外れ値1個体が、4000年前頃の河南中央部でも優勢だった祖先構成要素(黄河_LNによって表されます)を示すことも分かりました。この結果は、龍山文化期における河南の中央部と西部の間の個体もしくは小規模な人口移動を示唆しています。以下は本論文の図3です。
画像

 殷王朝は文字記録が残る中華文明で最初の王朝です。新たに生成された古代ゲノムは、河南中央部の殷王朝の人々が河南龍山文化および二里頭文化関連の人々の直接的な子孫であるだけではなく、河南中央部において同じ地域の3000~2000年前頃の人々(西周や東周や春秋戦国時代を含みます)および明清期の人々(200~100年前頃)の直接的祖先でもあった、との直接的な遺伝学的証拠を提供しており、河南中央部における長期の遺伝的安定性が示唆されます。興味深いことに、龍山文化期(4000年前頃)において、黄河中流の河南中央部および西部と黄河下流の山東半島と黄河上流の青海の人々は、遺伝的に均質でした(図3B)。しかし、河南中央部と西部との間の地域的な差異が少なくとも周王朝までに消滅した一方で、黄河の中流と下流と上流の地域間の差異は少なくとも漢王朝までに消滅しました(図3C)。これらの遺伝的変化は、すべて、黄河_LN関連祖先系統の強力な拡大によって引き起こされ、黄河全域の高度に均質な遺伝子プールが生じました。

 考古学的および歴史的記録から、中原は過去3000年間にわたって、戎狄と匈奴によって代表されるいくつかの強力な政治勢力と隣接していた、と示されています。戎狄と鮮卑と匈奴による中原への移住に関する歴史的記述にも関わらず、本論文の遺伝学的分析は、それに相当する有意な人口統計学的流入を明らかにしていません。この不一致はいくつかの要因のためかもしれず、たとえば、広範な人口混合ではなく支配層の主導による限定的な規模の文化的および政治的統合か、あるいは、関連する人口集団の現時点の標本抽出における空白です。しかし、非漢人の帰属意識を有する人々が、漢人と通婚した可能性を除外できません。たとえば、河南西部の路糸茜遺跡における春秋時代の以前に刊行された古代人のゲノムは、副葬品に基づいて戎狄と特定されましたが、典型的な中原関連祖先系統を示しました[9]。これらの結果は、中原に移住した戎狄が在来の人々による強い遺伝的同化を受けた、と裏づけています。f統計が、標本規模の増加にも関わらず、密接に関連する祖先系統を含む事象の再構築にあって、充分な検出力を常に有しているわけではないことは、注目に値します。したがって、殷および秦代以降の遺伝的安定性に関する結論は、方法論的限界に影響を受けているかもしれません。本研究の方法論的限界は、人口動態の包括的理解をいくぶん制約しています。ハプロタイプに基づく詳細な規模の人口下部構造分析には、被覆度0.5倍超のショットブラストゲノムを生成したさらなる研究が不可欠でしょう。

 二つの事例研究では、鉄器時代の中国北部における社会組織を調べるためにも、古代ゲノムデータが活用されました。春秋時代の上石河遺跡では、墓の向き(社会的地位の代理)と密接な常染色体の親族関係と共通のY染色体系統の間に明確な相関が観察されました。密接な親族関係にある男性同士の5組のうち4組は墓の向きとYHgの両方を共有しており、社会的地位の父系継承とのモデルが強く裏づけられます。密接な親族間でさえ見られるひじょうに高度なミトコンドリアハプロタイプの多様性は、父方居住パターンとさらに一致します。墓の向きが異なる親族5組のうち4組に女性が含まれているパターンも、女性が婚姻によって親族集団もしくは社会的階層間で移動し、父系制度における遺伝的および社会的接合者として機能したことを示唆しています。漢王朝期の東小李白龍遺跡では、5組の親子が特定され、そのうち同じ墓にともに埋葬された個体は存在ませんでした。6基の二重棺墓も調べられ、各墓には近い死亡年齢の生物学的な成人男性1個体および成人女性1個体が含まれていました。これらの個体は相互と遺伝的親族関係にはなく、これらの個体は夫婦を表している可能性が高い、と示唆されますが、子供の遺伝学的証拠は検出されませんでした。これらの結果は、漢王朝における夫婦の合葬との考古学的仮説を裏づけます。さらに、成人男性1個体が遺伝学的に親族関係にない少女(6~8歳)と埋葬されていた墓も発見されました。これが示唆するのは、墓の埋葬についての社会的規範が夫婦以外にも拡張されており、生物学的親族関係ではなく、養子に迎えた子供など社会的結びつきによってつながった個体を組み込んでいた可能性です。


参考文献:
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