アジア東部北方の新石器時代集団の学際的研究

 アジア東部北方の新石器時代人類集団の遺伝的構成と食性に関する研究(Zhang et al., 2026)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。なお、以下の年代は基本的に較正されています。また、本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。

 本論文は、中華人民共和国河北省の遺跡で発見された新石器時代の個体群のゲノムおよび同位体データを報告しています。この集団は、9000~7500年前頃に食性が変わり、キビ(Panicum miliaceum)やアワ(Setaria italica)といった雑穀の採集、さらには栽培への移行が示唆されますが、遺伝的には近隣のモンゴル高原の前期完新世集団と類似しており、遺伝的連続性は保たれていました。その後、5500年前頃までに、この集団のゲノムには中期新石器時代黄河集団およびバイカル湖集団と類似した遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)も見られるようになりますが、9000~7500年前頃の個体群で見られた祖先系統も保持されていました。アジア東部北方の初期雑穀農耕民は遺伝的に異質で、雑穀農耕が単一の人口集団の拡散および置換によって広がったわけではないことを示唆しています。また、この遺跡では9000年前頃と7500年前頃の居住地埋葬で1親等の親族関係が特定され、食性の変化に大きな遺伝的構成および埋葬の変化が伴っていなかったことも示されました。本論文は、遺伝と文化の関係が複雑であること(関連記事)を、改めて示しているように思います。

 以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、YHg(Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ)、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)、AMS(accelerator mass spectrometry、加速器質量分析法)、C(carbon、炭素)、N(nitrogen、窒素)、K(kilo years ago、千年前、小文字のkも同様)、SE(Standard Error、標準誤差)、DG(Diploid genotypes、二倍体遺伝子型)、有効人口規模(Nₑ)、WLR西遼河(West Liao River、西遼河)、AR(Amur River、アムール川)、ANA(Ancient Northeast Asian、アジア北東部古代人)、ANE(Ancient Northern Eurasian、古代北ユーラシア人)、APS(Ancient Paleo-Siberian、古代旧シベリア人)です。

 以下の時代区分の略称は、UP(Upper Paleolithic)、M(Mesolithic、中石器時代)、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)です。

 本論文で取り上げられる主要な文化は、興隆窪(Xinglongwa)文化、紅山(Hongshan)文化、大地湾(Dadiwan)文化、老官台(Laoguantai)文化、裴李崗(Peiligang)文化、仰韶(Yangshao)文化、後李(Houli)文化、 大汶口(Dawenkou)文化、スタルチェヴォ(Starčevo)文化、線形陶器(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)文化、ナトゥーフィアン(Natufian、ナトゥーフ文化)、です。

 本論文で取り上げられる主要な遺跡は、以下の通りです。中華人民共和国では、河北省承徳(Chengde)市の興隆(Xinglong、略してXL)遺跡、山東省の扁扁(Bianbian)遺跡と博山(Boshan)遺跡と小高(Xiaogao)遺跡と小荊山(Xiaojingshan、略してXJS)遺跡です。モンゴルでは、裕民(Yumin)遺跡、ハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡です。台湾では、亮島(Liangdao、LD)遺跡です。ロシアでは、極東沿岸の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave、Chertovy Vorota)遺跡、シベリアのマリタ(Mal'ta、略してMA)遺跡とアフォントヴァ・ゴラ(Afontova Gora、略してAG)遺跡とヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site、ヤナ犀角遺跡)とコリマ川(Kolyma River)とウスチキャフタ3(Ust-Kyakhta-3、略してUKY)遺跡です。トルコでは、チャタルヒュユク(Çatalhöyük)遺跡とボンクル(Boncuklu)遺跡です。


●要約

 農耕がアジア東部においてどのように出現し、この遺構と人口統計学的および社会的動態がどのように関連したのかは、以前として完全には理解されていません。本論文は、較正年代で9000~5000年前頃となる中国北部の興隆遺跡の11個体から得られたゲノム規模データを、コラーゲンから得られた炭素および窒素安定同位体組成とともに提示します。遺伝学的分析から、これらの個体は近隣の裕民遺跡個体と遺伝的に均質と示され、前期完新世のモンゴル高原における人口集団の相互作用と一致する共通の地域的祖先系統特性、およびこの特性が興隆遺跡では少なくとも1500年間(9000~7500年前頃)存続した、と示唆されます。この長期の地域的な人口安定性は、7500年前頃となる同位体および大型化石(肉眼で識別可能な化石)の証拠によって示唆されるように、雑穀農耕への移行の背景を提供しています。7500~5500年前頃の間に、中国北部全域の初期雑穀関連人口集団は異質な遺伝的構造を示しており、中国北部における初期雑穀関連人口集団は遺伝的に異質で、単一の均質な人口集団に由来したわけではなかった、と示唆されます。5500年前頃までに、興隆遺跡の個体群はそれ以前の興隆遺跡およびバイカル湖関連祖先系統との類似性を維持しながら、中期新石器時代黄河雑種農耕民との混合を示します。それぞれ9000年前頃および7500年前頃となる、居住地埋葬の共同埋葬個体は両方とも1親等の親族関係を示しており、生物学的親族に基づく居住地埋葬慣行における連続性の可能性が示唆されます。まとめると、これらの調査結果から、興隆遺跡において食性の変化には、大きな人口統計学的置換もしくは親族に基づく居住地埋葬慣行の遺伝学的に検出可能な変化が必ずしも伴っていなかった、と示唆されます。


●研究史

 農耕の開始はヒトの歴史において重要な変化を表しており、遊動的な採食生活様式から定住食料生産への移行が含まれます。そうした移行は人口拡大および社会的変化に対応しており、ヒト集団の遺伝的景観を再編した、と一般的に仮定されています。これらの経済と社会と人口動態の課程間の関係は、特定の地域的状況ではさらなる科学的調査が必要です。中国北部は植物の栽培化と動物の家畜化の独立した中心地の一つです。中国北部で歴史的に人口を支えた二つの主要穀物であるキビとアワは、この地域で最初に栽培されました。キビとアワは世界で最古級の作物で、広範な地域にわたって主食となり、青銅器時代までにアジア東部からヨーロッパへと広がりました。

 考古植物学的データは初期雑穀の広い地理的範囲を示しており、まず11000年前頃に初めて採集され、7500年前頃以後には、黄河中流および下流域から西遼河地域までの低山地帯の縁に位置する丘陵で広く栽培されました。この雑穀の広がりは、8000~7000年前頃となる黄河の老官台文化や裴李崗文化や後李文化および西遼河の興隆窪文化など、初期新石器時代文化の出現と一致していました。異なる物質伝統にも関わらず、そうした集団は主食として雑穀中心の戦略を共有していました。仰韶文化や紅山文化を含めてその後の文化は中国北部全域に広く拡大しましたが、物質表現や社会的慣行では顕著な違いを維持しました[15]。6000年前頃以後、仰韶文化は雑穀農耕とおそらくはシナ・チベット語族話者集団をより広範なアジア東部の地域へと拡散させ、地域的な遺伝的特性を作り変えました。仰韶文化関連祖先系統は、大汶口文化や大地湾文化などの集団で特定されてきました[15~17]。新石器時代雑穀農耕民がそれ以前の採食集団から継承された遺伝的異質性を保持していたのか、あるいは初期雑穀農耕人口集団による人口統計学的拡大によって形成された祖先系統の類似性を共有していたのかどうかは、依然として不明です。アジア北東部全域における採食集団間の人口相互作用の程度も、依然としてよく分かっていません。

 9000年前頃以降、中国北部における定住生活様式は、小規模で分散した共同体によって特徴づけられ、後期新石器時代までに、共同体に基づく危険性分担は次第に限定的な共有や世帯単位の経済へと移行しました。先行研究では、後期新石器時代までに、中国北部の世帯は食料生産および消費で独立した単位になった、と示唆されました。これらの世帯の内部構成やその基盤となる親族関係原則は、依然としてよく分かっていません。初期雑穀農耕民が自身を、核家族か拡大親族集団か複合的単位で組織したのかどうかは、アジア東部における初期農耕社会がどのように形成されたのか、および、農耕の出現における親族関係および生物学的近縁性に関するより広範な議論に、重要な意味を有しています。

 過去20年間で、ゲノム情報に基づく証拠は、農耕および農耕人口集団の起源と拡大に関する理解を変えてきました。アジア南西部では、初期農耕人口集団が遺伝的に分化した採食民集団から局所的に出現し、丘陵斜面地帯(Hilly Flanks)沿いの最古級の農耕民間の顕著な遺伝的異質性が生じました[23~25]。ヨーロッパでは、対照的に、スタルチェヴォ文化集団やLBK文化集団など新石器時代文化と関連する最初の農耕民は、アナトリア半島人口集団と祖先系統を共有しており、ヨーロッパ大陸全域に急速に拡大し、遺伝的均質性の程度はずっと大きくなっています[26~28]。アジア南西部およびヨーロッパからの証拠は、農耕開始の背景にある社会的慣例の違いも示唆しています。アジア南西部では、共同埋葬が密接な親族で較正されていることは稀で、生物学的親族関係を超えた個人間の同盟への重視が示唆されるのに対して、一部のヨーロッパの事例は父方居住が示唆されます[26]。これらの比較事例は有益な文脈を提供しますが、中国北部における初期雑穀農耕の人口史と共同体の親族関係組織は、依然としてよく分かっていません。

 興隆遺跡と裕民遺跡における最近発見は、そうした調査への有力な手がかりをもたらしています。現在の河北省の半乾燥地帯に位置するこれらの集落は、ヤンガー・ドライアス(11000~9000年前頃)以降の雑穀栽培および定住生活様式を明らかにしていますが、その遺物群は初期新石器時代雑穀農耕民とは顕著に異なっており、狩猟および採食の特徴を保持しています(図1)。本論文は、興隆遺跡から得られた古代DNAおよび安定同位体の結果を提示します。興隆遺跡はほぼ9000年にわたる長期間続いた集落で、アジア東部における雑穀栽培と関連する現時点で利用可能な最古級のゲノムの一部が得られました。これらの結果は、黄河と西遼河とそれ以外の地域の比較ゲノム枠組み内に位置づけられます。本論文は以下の3点の重要な問題に取り組み、それは、(1)興隆遺跡における雑穀農耕の出現と関連する人口動態、(2)初期雑穀農耕集団間の地域的分化の程度およびその相互作用、(3)そうした初期雑穀農耕民の親族関係のパターンです。本論文は、これらの問題に取り組むことによって、中国北部における農耕への移行の人口統計学的および社会的基盤を明らかにして、さまざまな地域的状況における初期農耕への移行の世界的な理解に寄与します。以下は本論文の図1です。
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●興隆遺跡の考古学的および年代的背景

 興隆遺跡は中国北東部においてモンゴル高原の南縁沿いに位置し、アジア東部におけるヒトの居住と初期農耕出現の長期の記録が保存されています(図1)。考古学的調査は、上部旧石器時代(11000年前頃まで)から歴史時代の王朝期(600年前頃)までにわたる、層序系列を明らかにしてきました。とりわけ重要なのは、初期の雑穀利用から、定住集落パターンの増加と関連するより確立した農耕活動への生計における変化を記録した、5文化層から構成される広範な期間(9000~5000年前頃)です。興隆遺跡は、雑穀関連生計と集落組織化と栽培空間における変化が、単一地点における連続して充分に年代測定された層序枠組み内でともに検証できる、アジア東部における数少ない遺跡の一つを表しています。体系的な浮遊選別法に基づく考古学的分析では、限定的な野生植物遺骸とともに、初期新石器時代層からキビの炭化粒が回収されました。選択された雑穀粒の直接的なAMS放射性炭素年代測定から、8000~7500年前頃の較正年代が得られ、これは中国北部において現時点で報告されている最古級の直接的に年代測定されたキビの一部を表しています。

 興隆遺跡から、11人の埋葬が回収されました。異なる層序を表している6個体の直接的な放射性炭素年代から、1個体(その後の遊牧民時代に分類されます)を除いて全個体は中石器時代および新石器時代に属する、と示されます(表1)。これら年代測定された埋葬から、雑穀に基づく農耕発展の重要な段階が把握され、それは初期(9000~7500年前頃)と後期(5500年前頃)です。具体的には、4個体が埋葬F11、3個体が埋葬F3、残りの個体が埋葬M1とM2とM4とM5から回収されました。ゲノム規模ライブラリは、124万SNPが対象の溶液内濃縮を用いて作成され、平均被覆度0.04~2.85倍で、1個体につき44383~1031598ヶ所のSNPが得られました(表1)。mtDNAの汚染推定値は一貫して低く(1~2%)、男性のX染色体の汚染推定値も同様に最小限(0.6~1.1%)でした(表1)。本論文で分析された興隆遺跡の11個体のうち、7個体が以前に報告されたのに対して、4個体は本論文で新たに報告されます。


●生計の変化に関する考古植物学的および同位体の証拠

 興隆遺跡の15個体から抽出されたコラーゲンで、許容範囲内の%Cおよび%N値が得られ、C/N比は2.9~3.6の範囲内に収まり、全体的に良好な保存状態が示唆されます。同位体分析の結果はデータS1Bに提示されており、図2で可視化され、要約統計はデータS1CおよびS1Dと補足図2で示されます。9000年前頃の興隆遺跡個体(5個体)は、おもにC₃植物に基づく食性と一致する同位体痕跡を示しており、少量のC₄植物資源を摂取していたかもしれません。対照的に、7500年前頃の個体(5個体)は多量のC₄植物資源消費の明確な証拠を示します。具体的にはそれぞれ、δ¹³C値が9000年前頃の集団における-17.8‰ ± 0.4‰から7500年前頃の集団における-14.9‰ ± 2.0‰へと変わったのに対して、δ¹⁵N値は顕著には変わらず、9.6‰ ± 0.5 ‰から9.7‰ ± 0.4 ‰へと変化しました。このパターンは考古植物学的記録と一致し、興隆遺跡のキビとアワの遺骸は直接的には7500年前頃と年代測定されており、それ以前の証拠は現時点では確認されていません。以下は本論文の図2です。
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 したがって、9000年前頃と7500年前頃の集団間の同位体変化は、9000~7500年前頃の間の雑穀農耕への移行を示唆しており、それは興隆遺跡における同位体と大型化石(肉眼で識別可能な化石)の証拠に記録されています。そうした生計の変化は、より広範なモンゴル高原南東部全域の先行研究によってさらに裏づけられ、8000~7000年前頃の間の雑穀の栽培および消費の明確な証拠が論証されています。7500年前頃の個体群のδ¹³C値は、黄河中流域の別の初期新石器時代雑穀農耕集団である老官台文化の個体群と同等で、モンゴル高原南部の興隆窪文化個体群よりは低いものの、黄河下流域の後李文化個体群よりは高く、8000~7000年前頃の初期雑穀農耕集団間の雑穀への依存のさまざまな程度が示されています。5500年前頃までに、興隆遺跡個体群は雑穀消費への依存低下を示しており、これは、農耕と採食と漁撈と狩猟を統合することが多い、新石器時代経済の流動的で混合した特徴を反映しています、


●初期興隆遺跡の個体群における遺伝的連続性および裕民遺跡個体との類似性

 興隆遺跡個体群と古代および現在両方のユーラシア人との間の遺伝的関係を調べるためにまずは、現在のユーラシア人口集団から計算された主成分に古代人のゲノムが投影されました。その結果、興隆遺跡個体群はユーラシア東部勾配沿いに並び、バイカル湖の初期新石器時代狩猟採集民(バイカル_EN)と黄河流域中期新石器時代農耕民(黄河_MN)の遺伝的特性間に位置している、と分かりました。アジア東部人のPCAでは、より古い興隆遺跡個体群(興隆_9k、興隆_7.5k)は緊密にまとまっています(図3A)。外群f₃統計はこれら両集団【興隆_9k、興隆_7.5k】間で共有されている最大限の浮動を示し、f₄形式(ムブティ人、興隆_9k/興隆_7.5k;興隆_7.5k/興隆_9k、X)の対称検定はZ < −3、f₄形式(ムブティ人、X;興隆_7.5k、興隆_9k)の対称検定は以ほぼ0で、単系統群の関係であることと一致し、9000~7500年前頃の間の興隆遺跡における遺伝的連続性が示唆されます。この推定は、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアと父系のY染色体)によってさらに裏づけられ、それは9000~7500年前頃の男性個体全員のYHgが同じN1a1a1~(CTS7728)だからです(表1)。したがって、下流分析ではこれらの個体は単一集団(興隆9_7.5k)として統合されました。興隆9_7.5kは近隣の裕民遺跡個体(裕民)ともクラスタ化し(まとまり)、外群f₃統計およびf₄統計の両方は密接な類似性を示唆し(図3A)、両集団【興隆9_7.5kと裕民】は前期完新世を通じてモンゴル高原南東部で存続した地域的な祖先系統背景内に位置づけられます。PCAでは、興隆9_7.5kと裕民は、ANE(MA1、AG3)やANA(AR14K、AR13-10K、悪魔の門_N)や中国北部の新石器時代農耕民と関連する集団を含めて、アジア東部北方の以前に刊行された古代の人口集団と直接的にはまとまりません(図3A)。以下は本論文の図3です。
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 アジア東部北方古代人のうち、興隆9_7.5kと裕民個体は、黄河や西遼河やアムール川地域の集団とよりも、モンゴル高原およびバイカル湖の人口集団の方と密接な遺伝的類似性を示します(補足図3B)。興隆9_7.5kの祖先系統を調べるために広範な参照パネルを用いてqpAdmが適用され、それは、AG3とMA1と興隆9_7.5kと西シベリア_Nから構成されるANE、AR14KとAR13-10KとAR9Kから構成されるANA、UKYとコリマ_Mから構成されるAPS、亮島1号および亮島2号を含む亮島_ENから構成される中国南東部沿岸、東モンゴル_Nと北モンゴル_Nから構成されるモンゴル高原、バイカル_ENとトランスバイカル_8.5kから構成されるバイカル湖、ヤナ_UPです。1方向と2方向と3方向のqpAdmモデルの大半からは、安定しているか解釈可能な解決が得られない、と分かりました。ここでも、モデルの解釈可能性は、形式的な適合(p > 0.05)と祖先系統係数の安定性の両方を用いて評価されました。0もしくは1に近い係数があるか、大きなSEがあるか、基準0 < 係数 − 2SE < 1を満たさない係数のモデルは、制約が不充分とみなされました。

 少数のモデルがp値の閾値を形式的に満たしますが、その推定祖先系統係数は極端で、大きなSEと関連しており、興隆9_7.5kは現時点で利用可能な参照人口集団を用いて堅牢にはモデル化できない、と示唆されます。この結果はf₄分析によってさらに裏づけられ、外群f₃において興隆9_7.5kと最高の共有浮動を示す人口集団と比較して、裕民個体のみが追加の類似性を示すのに対して、モンゴル高原とバイカル湖と中国北部の集団は複数のユーラシア人口集団と余分なアレル(対立遺伝子)を共有しています。まとめると、これらの結果から、興隆9_7.5kと裕民個体は前期完新世におけるモンゴル高原南緯東部に特徴的な遺伝的に均質な祖先系統背景に属している、と示唆され、以後は興隆関連祖先系統と呼ばれます。興隆遺跡個体群における深いアジア祖先系統がさらに推定され、現在のアジア東部人口集団と同等の割合が見つかり、深いアジア祖先系統の増加の証拠はありません。


●5500年前頃以後の興隆遺跡における人口統計学的変化には複数のアジア北東部祖先系統が関わっています

 その後の興隆遺跡個体群は、遺伝的混合と経時的に変化する祖先系統特性の証拠を示します。興隆_5.5kと興隆_0.6kは両方とも、モンゴル高原およびバイカル湖地域の新石器時代集団の方へと動いていますが、両者はPCAでは相互とクラスタ化せず(まとまらず)、単一の共有された祖先系統の軌跡ではなく、分化した遺伝的特性が示唆されます(図3A)。qpAdm分析では、興隆_5.5kは興隆9_7.5kや裕民個体や東モンゴル_Nや北モンゴル_Nや悪魔の門_Nやトランスバイカル_8.5k後を含めて、複数の1方向供給源人口集団を用いるとモデル化できません。しかし、その後のf₄統計では、興隆_5.5kはこれら候補供給源人口集団のどれともクレード(単系統群)を形成しない、と示され、これら1方向モデルは興隆_5.5kの祖先系統組成を完全には捉えていない、と示唆されます。2方向および3方向の両方のqpAdm分析では、興隆_5.5kについてのいくつかのモデルでは、0.05以上のp値で許容可能な全体的な適合度が得られました。しかし、これら形式的に許容可能なモデルの多くは、境界値(0もしくは1)に近い祖先系統係数やひじょうに大きなSEと関連しており、推定された混合割合の制約が不充分であることを示唆しています。同じ係数安定性基準の適用後に、興隆関連祖先系統を黄河_MNおよびバイカル_ENと、もしくはバイカル_ENを黄河_MNと組み合わせ2方向モデルのみで、安定して解釈可能な祖先系統推定値が得られました。3方向モデルのうち、興隆9_7.5kおよび黄河_MNおよびバイカル_ENと関連する祖先系統を組み込んだモデルのみで、全ての構成要素にわたり安定して解釈可能な祖先系統推定値が得られました。これらの裏づけられたqpAdmモデルは、興隆_5.5kへの興隆関連祖先系統と黄河関連祖先系統とバイカル関連祖先系統の寄与を示唆しています。

 最も新しい個体(600年前頃の興隆_0.6k)はユーラシア東部の以前に刊行された遊牧民集団と最高の遺伝的類似性を示し、それに含まれるのは、大興安嶺山脈周辺の鉄器時代の鮮卑(AR_鮮卑_IA)、モンゴル高原の600年前頃の柔然個体群(柔然_TL1)、ウルタウ山脈(Ulytau Mountains)のジョチ・ハンのジョチ・ウルス(Golden Horde、キプチャク=ハン国、金帳汗国)軍です。さらに、f₄(ムブティ人、X;AR_鮮卑_IA/柔然_TL1、興隆_0.6k)がほぼ0であることは、これら歴史時代の遊牧民人口集団間の密接な遺伝的類似性を裏づけており、歴史時代までにこの地域で遺伝的変化があったことと一致します。


●初期雑穀関連人口集団間の地域的な遺伝的構造

 PCAでは、興隆遺跡個体群は、黄河および西遼河地域の新石器時代農耕人口集団を含めて、中国北部全域の以前に刊行された初期雑穀農耕人口集団とは遺伝的に分化している、と示され、中国北部における初期農耕共同体間の大きな遺伝的異質性が浮き彫りになります(図3A)。注目すべきことに、黄河および西遼河地域の雑穀農耕集団は、興隆遺跡個体群とよりも相互の方と密接にまとまります(図3A)。ADMIXTUREの結果はさらに、黄河および西遼河関連集団におけるアジア東部南方関連祖先系統の割合増加を示唆しています(図3B)。先行研究では、西遼河中期新石器時代人口集団は黄河およびアムール川関連集団の混合としてモデル化できる、と示唆されました[15]。しかし、f₄統計は、黄河およびアムール川両方の集団と比較して、西遼河中期新石器時代集団と興隆関連人口集団との間で共有される過剰なアレル(対立遺伝子)を示唆しており、つまりf₄(ムブティ人.DG、西遼河_MN/HMMH_MN;黄河もしくはアムール川関連集団、興隆関連個体群)が0超(−1.7 ≤ Z ≤ 7.7)です。

 さらに、qpAdmを用いて西遼河_MNについて祖先系統モデルが評価されました。代替的な供給源を区別するために、一連の循環検定が実行され、同じ係数安定性基準が適用されて、祖先系統推定値が不確実性の考慮後にも依然として安定している(0 < 係数 − 2SE < 1)モデルのみが保持されました。この段階的に制約する枠組み下では、興隆関連祖先系統を黄河関連祖先系統とともに含むモデルのみが、西遼河_MNについてこれらの基準を一貫して満たしており、これは以前の調査結果[32]と一致します(図4B)。HMMH_MNは、関連するものの異なる祖先系統パターンを示します。外群f₃統計では、HMMH_MNは興隆関連人口集団との強い類似性を示します。しかし、興隆9_7.5kと比較すると、HMMH_MNは黄河やアムール川やモンゴル/バイカル関連人口集団との追加のアレル共有を示しており、西遼河_MNでの観察よりも複雑な祖先系統組成が示唆されます。興隆関連祖先系統を黄河かアムール川かモンゴル/バイカル関連供給源と組み合わせた対応するモデルからは、充分に制約された解決が得られず、単一の2方向モデルはその祖先系統を適切に説明しない、と示唆されます。このパターンをさらに調べるために、f₄形式(ムブティ人、HMMH_MN;黄河、AR/モンゴルおよびバイカル)のf₄統計が調べられました。有意に正の結果がモンゴルおよびバイカル関連人口集団のみで観察され(2.0 < Z < 8.8)、HMMH_MNとモンゴル/バイカル集団との間で共有される過剰なアレルが示唆されます。まとめると、これらの結果は、HMMH_MNが興隆関連およびモンゴル/バイカル関連人口集団からの寄与を含む、より複雑な祖先系統を反映している可能性が高いことと一致し、これは先行研究[32]と一致します。この推定はHMMH_MNの単一個体に基づいており、より広範な評価については追加のゲノムデータが必要なことに留意してください。以下は本論文の図4です。
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 次に、興隆関連祖先系統が黄河人口集団に寄与したのかどうか、検証されました。その結果、黄河_MNは亮島_ENに加えて、興隆9_7.5kか北モンゴル_Nかバイカル_ENのいずれかの祖先系統を必要とする混合として最適にモデル化される、と示されます。循環モデル全体で、興隆関連祖先系統を含むと、黄河_MNについてモデル適合度が改善され、推定寄与率は43.5±5.3%です(図4B)。博山遺跡個体は一部のモデルで代替供給源として使用できますが、その推定寄与率は一貫して裏づけられず、同じ係数安定性基準下では安定した祖先系統推定値が得られませんでした。したがって、これらのモデルは重視されませんでした。まとめると、これらの結果から、興隆関連祖先系統は黄河と西遼河の両流域で中期新石器時代人口集団の遺伝的構成に寄与したかもしれない、と示唆されます。先行研究では、中国北部沿岸の7700年前頃の小荊山遺跡個体群は、アムール川人口集団と関連しているかもしれない、アジア東部北方人との類似性を示しています。追加のf₄統計は、興隆遺跡個体群と裕民個体とよりも、小荊山関連集団とアムール川関連集団との間の方でアレル共有が有意に多いことを示唆しており、これは正のf₄(ムブティ人、AR14K後;黄河/西遼河/山東_9k、小荊山)によって裏づけられます(図4C)。対照的に、f₄(ムブティ人、興隆9_7.5k/興隆_5.5k/裕民;小荊山、黄河/西遼河/山東_9k)値は概して正か有意ではありません(図4A)。これらの結果は、中国北部全域の新石器時代祖先系統の形成における地域的な差異を示唆しており、小荊山遺跡個体群は、内陸部の黄河および西遼河人口集団で観察された遺伝子流動意外に、追加のアムール川関連の遺伝子流動を受けた可能性が高そうです。


●興隆遺跡人口集団における親族関係のパターンと有効人口規模

 初期農耕共同体の社会組織の理解には、親族関係パターンと世帯(居住集団)構造の解明が不可欠です。これに取り組むために、片親性遺伝標識(母系のmtHgと父系のYHg)で補完された常染色体近縁推定値を用いて、共同埋葬された興隆遺跡の個体間の生物学的関係が推定されました。その結果、住居内の共同埋葬個体群は密接な遺伝的親族であることが多い、と分かりました。住居F11(9000年前頃)では、4個体のうち3個体が核家族を形成し(母親と息子と息子)、この居住共同埋葬から得られた以前の観察[35]を拡張します(図5A)。4人目の男性は近親者ではありませんが、他の個体と同じmtHgを共有していました。その男性はこの家族の息子の1人と同じYHgを有しており、遠い父系での関係のつながりが示唆されます。その後の期間(住居M3、7500年前頃)では、別の核家族(父親と母親と息子)が特定され、以前に報告された家系図[35]と一致します(図5A)。対照的に、別々に埋葬された5500年前頃の個体群は、検出可能な親族関係を示しませんでした。以下は本論文の図5です。
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 両親の近縁性と人口規模を評価するために、hapROHでROHが分析されました。中石器時代および新石器時代の興隆遺跡の個体は近い過去の近親婚を示唆するROHパターンを示さず、標本抽出された個体間の近親婚の割合が低かったことを示唆しています。歴史時代の1個体は、マタイトコ間の婚姻と一致する長いROH断片を示しました。Nₑ推定値は、9000~5500年前頃にかけての小さく縮小する人口を示唆しており、黄河農耕集団からの遺伝子流動の証拠にも関わらず、中期新石器時代に急激な減少(Nₑ=1316)がありました(図5B)。これは、おもに黄河祖先系統に由来する後期新石器時代人口集団がかなりの増加(Nₑ=3952)を経た西遼河地域[15]と対照的です(図5B)。黄河流域内自体では、Nₑは約2000年にわたって約12倍に増加し、農耕強化および社会的複雑さの増加と一致します(図5B)。しかし、本論文は、これらのNₑ推定値が大きな標本抽出不確実性の影響を受けやすいことを強調します。それは、各時間的集団が数個体によってのみ表されており、実際の人口水準のNₑ値は、これらの個体が完全に代表的でない場合、異なるかもしれないからです。


●考察

 本研究では、中国北部における農耕発展の初期段階を表す興隆遺跡の、9000~5500年前頃の雑穀を消費していた個体群から得られたゲノム規模データが報告されます。興隆遺跡のデータセットの一部に関する以前の刊行物は、おもに地域的な人口構造と祖先系統モデル化に焦点を当てていましたが[32、35、36]、本研究は分析の充填をこれらのゲノムパターンの考古学的意味へと遷し、埋葬状況と同位体証拠を統合して、人口統計学的連続性と生計の変容と親族関係パターンの間の関係を調べました。地域的な人口構造に関する以前の分析[32]と一致して、興隆遺跡個体群の遺伝的特性は以前に刊行された8400年前頃の裕民遺跡の1個体と密接に合致しており、モンゴル高原南東部における共通の祖先系統背景が示唆されます。この祖先系統の直接的な供給源は依然として確定していませんが、興隆遺跡個体群は、f統計に基づくと、他のアジア東部人口集団とよりも、モンゴル高原およびバイカル湖地域の古代人集団の方と密接な類似性を示します。この遺伝的類似性は大まかには物質の類似性と一致しており、興隆遺跡および近隣の遺跡の土器はモンゴル高原およびバイカル湖地域と類似しており、これは上部旧石器時代以降の単一の直接的な移住ではなく、長期の相互作用を反映しているかもしれません。

 興隆関連の遺伝的特性は1500年以上安定し続けており、以前に報告されたように[32]、興隆遺跡における長期の人口連続性が示唆されます。居住埋葬の状況を考えると、これらの観察は、生物学的近縁性が少なくとも一部の居住埋葬慣行に関わっていたことを示唆しています。9000~7500年前頃における社会的および人口統計学的連続性の背景に対して、興隆遺跡の考古学的証拠は、7500年前頃における雑穀農耕への明確な経済的および食性の移行を示します。これは、7500年前頃と直接的に年代測定されたキビおよびアワの穀粒の回収、農耕関連の道具の増加、主食としての雑穀の多量の消費に関する同位体証拠によって裏づけられています。この証拠は9000年前頃の興隆遺跡共同体からの連続性ではなく、新たな試みを表しており、以前に記録された前期完新世気候最適期のより広範なモンゴル高原南東部における、雑穀に基づく定住農耕経済への移行を示しています。

 他の中国北部の環境を見ると、本研究の個体群は黄河下流域の後李文化(8000~7000年前頃)やその後の黄河中流域の仰韶文化(6000~5000年前頃)や西遼河の紅山文化(5500~5000年前頃)の初期農耕集団と明らかに区別され、初期の雑穀に基づく共同体間の大きな遺伝的多様性が強調されます。このパターンは、中国北部全域の雑穀農耕の拡大が、単一の遺伝的に均一な農耕人口集団によって引き起こされた可能性は低いことを示唆しています。むしろ、農耕慣行は遺伝的に多様な集団間で広がったようで、雑穀農耕の辺境地帯全域で異質な遺伝的痕跡が残りましたが、同位体証拠は8000~7000年前頃の広く共通する雑穀の食性への取り込みを示しています。このパターンは、文化的適応が重要な役割を果たした地理的に分散した過程として、栽培化を考えている学者の間で合意が高まりつつあることと一致します。

 本論文の結果から、仰韶文化と紅山文化の両方の人口集団は興隆関連祖先系統を有している、と示され、中期新石器時代(6000~5000年前頃)までに、持続的な相互作用と遺伝子流動がしだいにそれ以前の異質性を減少させつつあった、と示唆されます。5500年前頃までに、興隆遺跡集団も近隣地域との相互作用の明確な兆候を示します。この段階の個体群は、前期新石器時代バイカル関連祖先系統との類似性も示しながら、初期興隆遺跡人口集団との連続性を保持していました。さらなるqpAdmモデル化では、興隆_5.5kは黄河流域の中期新石器時代仰韶文化関連農耕民からの追加の遺伝的寄与を有していた、と示唆されています(図4B)。これは、この期間に中国北部全域に出現した農耕人口集団を含む、同様の人口統計学的混合を報告した、先行研究[15、16]と一致します。これは雑穀栽培の広範な地理的拡大の帰還で、5000年前頃までにキビとアワが北方ではアムール川、南方では台湾、チベット高原の東縁および北東縁に到達したいことに、留意すべきです。雑穀経済の中期新石器時代の拡大と集約化は、人口の増加および混合を促し、一部の五地域の人口集団間の遺伝的分化の縮小をもたらしました。

 より広範な比較的視点に立つと、興隆遺跡で報告された農耕への軌跡はアジア南西部とヨーロッパの両方で観察されたパターンとは異なっており、アジア南西部では、比較的孤立した採食民が農耕生計を採用し、新石器時代における遺伝的異質性につながり、ヨーロッパでは、農耕と新石器化の開始が大規模な人口拡散によって特徴づけられました[23、24、26]。興隆遺跡では、雑穀農耕は明確に、人口拡散の結果でも、遺伝的に孤立した人口集団の農耕生計戦略の採用でもありませんでした。本研究で提示されたデータは局所的な状況を示しており、モンゴル高原全域の更新世採食民間のゲノム情報が得られている人口集団の相互作用の後で、前期完新世における生計選択の分岐が続き、シスバイカルとモンゴル高原北部における採食の連続と、7500年前頃から始まるモンゴル高原南東部の定住雑穀栽培がありました。この比較の意図は、農耕への移行の大陸規模の類型論の証拠としてではなく、文脈的枠組みとしてです。

 雑穀に基づく農耕経済へのそうした移行にも関わらず、本論文の結果から、1親等の親族を含む生物学的親族に基づく居住地埋葬慣行は、移行期の標本抽出された二つの時期に現れる、と示されます。この観察はアジア南西部との類似性と違いの両方を示しており、アジア南西部では、ナトゥーフィアン採食民(15000~11700年前頃)は、農耕のずっと前に恒久的集落と集団埋葬を行なっていましたが、共同埋葬が密接な親族で較正されることは稀でした。しかし、本論文で観察されたパターンはアナトリア半島中央部とは対照的で、そこでは、建物内埋葬は住居と密接に関連しているものの、骨学的統合および限られた古代DNAの証拠から、共同居住者が一様に密接な生物学的親族ではなかった、と示唆されます。チャタルヒュユクやボンクルなど遺跡では、「家屋」は、役割が厳密な親族関係の結びつきを超えて拡張された、社会的に複雑な単位として機能していたようです[42~44]。この対照性は新石器時代の慣行の多様性を浮き彫りにしつつ、居住地埋葬を全体としての世帯の慣例もしくは社会組織と直接的に同等資することに対して、注意も歓喜しています。より広く見ると、これらの比較から、生物学的親族関係と社会的帰属は初期農耕社会においてさまざまなやり方で組み合わされていたかもしれない、と示唆されます。

 まとめると、本論文の結果は、興隆遺跡で報告された局所的な様相を明らかにしており、ここでは、雑穀農耕への経済的移行は、明確な遺伝的置換を伴っておらず、標本抽出された二つの時期にわたって、繰り返しの親族に基づく居住地埋葬慣行と併存していたかもしれません。より広く見ると、この事例から、人口史と生計の変化と親族関係の慣行は初期農耕の出現期には必ずしも緊密に関連していなかったかもしれない、と示唆され、農耕への移行の複雑さが強調されます。現時点の証拠は必然的に単一の遺跡と中程度の数の個体に限られていますが、興隆遺跡は、これらの過程が中国北部における雑穀農耕の出現期にどのように交差し得るのか、理解するための充分に記録された事例を提供します。


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