井上文則『ヨーロッパは、いかに創られたか フン王アッティラのローマ帝国侵攻』

 世界史のリテラシーの一冊として、NHK出版から2026年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、フンのヨーロッパへの侵攻に焦点を当て、ローマ帝国(西ローマ帝国)の崩壊過程と、その後の「ヨーロッパ」世界への影響を検証しています。本書はフン人の歴史の起点を4世紀後半に置いています。フン人は4世紀後半以降に急速にローマ帝国領内に侵攻したわけではなく、当初の大規模な征服活動はグレウトゥンギ人の王国で一旦停止しています。フン人がローマ帝国領への本格的侵攻を始めたのは395年で、それはアジア南西部方面でした。ヨーロッパ方面へのフン人の本格的な侵攻が再開されたのは、400年頃でした。

 アッティラはフン人の王族に生まれて、王だった叔父のルガの死後、後継者となった兄のブレダから共同統治者に任命されました。ブレダはドナウ川下流域以東、アッティラはその西方を担当し、領土はブレダの方がずっと大きかったようです。アッティラは、従来のフンの方針を継承し、東ローマ帝国とは、条約締結と破棄および攻撃を繰り返しつつ、西ローマ帝国には「蛮族」の「ゲルマン人」との戦いで援軍を派遣しています。アッティラは、445年に兄のブレダを殺害した後に、西ローマ帝国との関係を大きく変えます。451年、アッティラは西ローマ帝国領のガリアへと侵攻します。本書は、アッティラがスキタイ人の宝剣を入手したことで、世界の武力征服を構想したことや、服属させていた定住農耕民の「ゲルマン系」集団からの豊かな土地の獲得への圧力があったことを、西ローマ帝国攻撃の要因と推測しています。アッティラのガリア侵攻は失敗し、翌452年、アッティラはイタリアに侵攻してイタリア中部まで軍を進めたものの、疫病もあって撤退します。その翌年にアッティラは死亡します。アッティラの死後、その息子たちの間で相続をめぐる争いが勃発し、服属民の反乱によって、アッティラの帝国は短期間で崩壊します。

 本書は、フン人の先駆者的存在として、スキタイ人と匈奴を取り上げています。フン人の起源を匈奴とする見解は古くから提示されてきており、議論が続いていますが、最近の古代ゲノム研究では、ヨーロッパでもカルパチア盆地のフン人が、匈奴の最上位支配層の一部の子孫だった、と示されています(関連記事)。もちろん、単純にフン人を匈奴の子孫とは言えませんが、遺伝的にも文化的にも、フン人が匈奴の影響を受けたことは否定できないでしょう。ただ、フン人が遺伝的にも文化的にも多様な起源を有することも確かで、それはスキタイ人にも匈奴にも当てはまることだと思います。

 本書は、フン人とローマ帝国(西ローマ帝国)の滅亡との関係も検証しています。フン人の西侵が「ゲルマン系」集団の移動を活発化させ、ローマ帝国領内への移動を促進したことは否定できないでしょう。本書は、フン人の圧力による「ゲルマン人の大移動」がなければ、ローマ帝国がもっと長く存続していたのではないか、と指摘します。ただ、フン人が東ローマ帝国を滅ぼせた可能性は低く(そもそも、本書でも指摘されているように、フン人にとって東ローマ帝国は略奪と貢納の対象で、征服の対象ではなかったようですが)、西ローマ帝国を滅ぼせた可能性はあるものの、アッティラ晩年以前には西ローマ帝国に援軍を送っており、5世紀前半にはドナウ川およびライン川以東に留まった「ゲルマン系」集団を支配したことで、「ゲルマン系」集団のローマ帝国領への大規模な侵入は抑えられていたのではないか、と本書は指摘します。453年のアッティラの死後、フン人の帝国は崩壊し、「ゲルマン系」集団の移動が活発化したことが、西ローマ帝国の「滅亡」を促進したのではないか、というわけです。

 フン人は単なる略奪者で、ヨーロッパ社会の発展に直接的には貢献しなかった、との大家の見解もあるそうです。しかし本書は、東ゴートやフランクなど「ゲルマン系」集団が、ローマ帝国の支配下にあった時には存在しなかった国家を外交術も含めて形成していったところに、フン人の影響を見ています。また、東ローマ帝国はフン人の騎射技術を取り入れて、軍事力を高めたようです。本書は、フン人がヨーロッパ世界にもたらした恐怖は長く続き、それが最終的に克服されたのは、アメリカ大陸を征服したからだった、との見解を提示しています。慎重に考えたい問題ではありますが、興味深い見解と思います。フン人や匈奴やスキタイはユーラシア史において注目すべき集団なので、本書のような歴史学に基づく一般書とともに、古代ゲノム研究も追いかけていくつもりです。

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