田中仰『監督、神になる 池田高校 記憶の衝突』
文藝春秋社より2026年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。以下、敬称は省略します。私と同年代の人々は、子供の頃に徳島県立池田高校の校歌を聞く機会が多く、私も今でも歌詞と曲調を覚えているくらいです。高校野球への関心は、21世紀になって低下しましたが、新聞ではそれなりに追いかけていました(関連記事)。それも、甲子園大会のみならず、地方大会にも注目しており、とくに和歌山県と広島県と徳島県です。要は、箕島と広島商業と池田が予選でどうなっているのか、確認していたわけですが、この習慣は今でも続いています。
そのため、池田高校野球部への関心は今でも高く、監督だった蔦文也が講演会に熱心で野球指導は疎かとの批判が、孫の蔦哲一朗の映画の紹介記事で随分前に言及されていたことも記憶に残っていました。そのため、本書を読んだわけですが、蔦文也に関しては、自伝的な本を1980年代に図書館で読んだ記憶ことがあり、おそらく蔦文也『攻めダルマの教育論』(ごま書房、1983年)だと思います。ただ、内容はほとんど覚えておらず、本書を読む前には、蔦文也が短期間プロ野球選手だったことと、池田高校の社会科教諭だったことくらいしか思い出せませんでした。そのため、蔦文也については甲子園での一般的な印象しかなく、本書でその印象がどう変わるのか、あるいは変わらないのか、注目して読み進めました。
蔦文也への印象や感情は、身近に接していた人物でも大きく異なっています。その人の個性や立場、さらにはそれらに基づく人間関係によっても、蔦文也への認識が大きく変わることは、普遍的な人間心理として理解しやすいところがあります。蔦文也が没してからすでに四半世紀以上経過し、蔦も歴史上の人物になりつつあります。とはいえ、まだ身近で見ていた人物が多数存命で、証言が可能です。それでも、見方に大きな違いが出るわけですから、前近代の人物の評価は本当に難しく、自戒を込めて言うと、人物論が単なる好き嫌いになってしまう危険性には、常に注意しておかねばならないのでしょう。
私にとって興味深い証言者だったのは、川原良正です。川原は池田高校野球部出身で、池田が選抜で準優勝した1974年からコーチを務め、一度肺炎で現場を離れた後で、1982年5月から7年半、蔦に請われて池田高校野球部を指導したそうです。高校時代に選手として、さらには池田高校野球部の全盛期にコーチとして、蔦を間近で見ていた川原は、貴重な証言者と言えるでしょう。川原の蔦への評価は、指導力のない素人監督と辛辣です。蔦の指導基準は、投手ならば球速140キロ以上を投げられるか、打者ならば遠くに飛ばせるか、といったくらいで、大会前の連携練習は川原に任せて、蔦は先に帰宅していたそうです。筋トレの時間はさほど長くなく、練習時間の7割は打撃で、残り3割で守備や筋トレをやっていたそうです。打ち勝つ野球にしても、甲子園で優勝した年は優れた投手がいた、と川原は冷ややかです。一方で、蔦は報道陣への対応や包容力や相手への威圧感は優れたており、蔦の名前で好選手が集まったことも事実で、蔦のことは今でも好きだ、とも川原は語っています。川原によると、蔦は純粋な人で、当初は熱心だったものの、1983年の選抜優勝頃から少しずつおかしくなっていき、講演会に頻繁に出かけるようになり、多い時は1ヶ月に25日も練習に不在で、大事な大会の試合中に、川原に任せて講演会に行ったこともあるそうです。川原は、無給でコーチを務めていたそうです。著者は川原から、当時の部員が蔦を「金の好きな欲望ジジイ」と告発した手紙も見せられています。川原は蔦に、講演会を控えるよう進言したものの、蔦は、「金は、やめられん」と答えたそうです。
ただ、著者はこの取材だけでは納得できないものを感じており、さらに取材を進めます。川原への取材を取り上げた記事は、池田高校の関係者に不評だった、との噂も著者の耳に入っていたそうです。著者は蔦文也の次男の隆司にも取材しています。蔦家は江戸時代から煙草で裕福だったため、蔦文也も恵まれた学生生活を送っていたようです。蔦は徳島商から同志社大学へと進学し、在学中の1943年12月に海軍に入隊しています。蔦は海軍では、特攻隊の偵察員だったそうです。敗戦後、蔦家は農地改革で土地を失い、蔦は社会人野球を経てプロ野球に進みますが、1年で退団し、1951年、池田高校の教諭となり、翌年、野球部の監督に就任します。本書は、「特攻くずれ」、「プロ野球くずれ」としての鬱屈が蔦にはあり、泥酔して人々に絡んでいたのではないか、と推測します。そうした蔦への周囲の評価は、1971年の甲子園初出場、1974年の「さわやかイレブン」による選抜準優勝で変わっていきます。すでにその前から、蔦は優秀な中学生を勧誘していたそうですが、蔦の厳しい指導に耐えられず、退部者が続出し、「さわやかイレブン」も11人しか部員が残らなかったからでした。その「さわやかイレブン」で投手だった山本智久は、少人数だからこそできたことがあり、蔦は名声の高まりとともに増えた部員を指導しきれず、講演会に出向くようになったのは、把握しきれない部員から逃げていた側面もあるのではないか、と推測しています。
池田は1979年の選手権大会で準優勝でしたが、この時の主戦投手が橋川正人です。橋川の証言は、蔦が新しいもの好きだった側面を明らかにしています。当時、池田高校野球部にはすでにスピードガンがあり、スポーツドリンクも取り入れられ、夏季練習では当時としては珍しく1時間単位で休憩があったそうです。この準優勝は影響が大きく、池田高校野球部には徳島県の有望な中学生が集まるようになったそうです。それが、池田高校の全盛期をもたらしたわけですが、それだけで甲子園であれだけの成績を残せるだろうか、と本書は疑問を呈します。筋トレにしても金属バットにしても、偶然が重なった側面もあったようです。そもそも、地方の公立高校にしては、池田高校野球部の設備が整っていたことに本書は着目します。それは、池田高校が甲子園の常連になる前から築かれていた後援会組織への寄付金もありましたが、何よりも、甲子園出場時に臨時で組織された後援会への寄付金が大きく、ここで得た寄付金を設備費充てて、しばらくやり繰りしていたそうです。甲子園出場が遠のくと、部費が枯渇してくるわけで、高校の競技で設備や甲子園への応援団派遣などあまりにも費用がかかることに、池田高校野球部の部長を長く務めた白川進も疑問を呈しています。本書も、蔦が私費で野球部の寮を建て、金策に苦しみ、講演会に熱心になった可能性を指摘しています。また本書は、狭い地域だったからこそ、同調圧力で寄付金が集まった側面も指摘します。
甲子園夏春連覇の主力選手の一人だった江上光治は、蔦や白川が必死に多額の寄付金を集めていたことを知らなかったそうです。その江上によると、蔦は指導でも采配でも優れていたわけではなく、徳島県内の高校にはサインが見破られており、サインミスも多かったそうです。そうした蔦を、とくに夏春連覇以降、徳島県外の報道陣が神格化していった、と江上は指摘しています。1980年代後半だったか、1990年代だったか忘れましたが、池田高校とPL学園の比較で、池田高校出身の成功したプロ野球選手が少ないのは、監督の指導が悪いというか、基礎を教えられていないからではないか、との記事を読んだ記憶があるので、江上の蔦に対する評価にも納得できるところがあります。江上は、甲子園3季連続優勝を目指してPL学園に準決勝で負けたことについては、自分たちに驕りがあった、と認めています。江上は蔦について、当時の野球部員は全面的に信頼していたわけではないものの、蔦がグラウンドを一人で黙々と整備する姿は、部員が蔦を信じるよすがになった、と考えています。
蔦への見方は、人によって大きく異なります。蔦の監督晩年の部員には、あからさまに蔦を批判する者もいますし、上述の蔦を告発しようとした部員にも著者は取材しています(匿名)。本書のさまざまな証言から浮かび上がる蔦文也像を私なりにまとめると、幸運から類稀な成功を収め、自らの分を超えた立場に祭り上げられ、自分を見失いかけた人です。ただ、幸運を類稀な成功に結びつけることができたのは、蔦の強い野球への情熱に支えられた絶え間ない努力があってのことだと思います。蔦は、選手の指導にも試合の采配にも長けておらず、正直なところ名将と呼ぶのは躊躇われます。人間性でも、聖人君子とはとても言えそうにありません。しかし、純粋なところがあり、野球への情熱は本物でした。蔦に人を惹きつける魅力があったのは確かで、監督としての蔦に否定的なことを述べた川原にしても、今でも蔦が好きと述べています。有望な選手が集まったのも、蔦がいてこそと言えるでしょう。ただ、とくに甲子園夏春連覇後に、蔦の神格化が大衆媒体で進み、そうした蔦文也像に憧れて池田高校野球部に入った選手の中には、肥大化した野球部と自己像に対処できず、翻弄される蔦文也を間近で見て失望する人がいても、不思議ではないと思います。
本書は、蔦文也と直接的に関わったさまざまな人の証言から、蔦の多面性を見事に浮き彫りにしているように思います。また本書は、蔦文也の人物像と蔦文也をめぐる「記憶の衝突」のみならず、高校野球に巨額の金が動く歪さも示しています。冷静に考えると、高校の部活動にこれだけ巨額の金が動くのは、やはり健全とは言えないでしょう。とはいえ、ここまで肥大化した高校野球を解体とまでいかずとも縮小させるのは、現時点では現実的ではありません。ただ、高校野球に限らず野球人気が低下していけば、高校野球も他の高校の部活動と同じような扱いとなるのでしょうが。本書で残念なのは、池田高校野球部出身の双璧とも言える畠山準と水野雄仁の証言がないことですが、取材を断わられたのでしょうか。この二人の証言がないことも、蔦文也をめぐる「記憶の衝突」の表れと解釈すべきかもしれません。
そのため、池田高校野球部への関心は今でも高く、監督だった蔦文也が講演会に熱心で野球指導は疎かとの批判が、孫の蔦哲一朗の映画の紹介記事で随分前に言及されていたことも記憶に残っていました。そのため、本書を読んだわけですが、蔦文也に関しては、自伝的な本を1980年代に図書館で読んだ記憶ことがあり、おそらく蔦文也『攻めダルマの教育論』(ごま書房、1983年)だと思います。ただ、内容はほとんど覚えておらず、本書を読む前には、蔦文也が短期間プロ野球選手だったことと、池田高校の社会科教諭だったことくらいしか思い出せませんでした。そのため、蔦文也については甲子園での一般的な印象しかなく、本書でその印象がどう変わるのか、あるいは変わらないのか、注目して読み進めました。
蔦文也への印象や感情は、身近に接していた人物でも大きく異なっています。その人の個性や立場、さらにはそれらに基づく人間関係によっても、蔦文也への認識が大きく変わることは、普遍的な人間心理として理解しやすいところがあります。蔦文也が没してからすでに四半世紀以上経過し、蔦も歴史上の人物になりつつあります。とはいえ、まだ身近で見ていた人物が多数存命で、証言が可能です。それでも、見方に大きな違いが出るわけですから、前近代の人物の評価は本当に難しく、自戒を込めて言うと、人物論が単なる好き嫌いになってしまう危険性には、常に注意しておかねばならないのでしょう。
私にとって興味深い証言者だったのは、川原良正です。川原は池田高校野球部出身で、池田が選抜で準優勝した1974年からコーチを務め、一度肺炎で現場を離れた後で、1982年5月から7年半、蔦に請われて池田高校野球部を指導したそうです。高校時代に選手として、さらには池田高校野球部の全盛期にコーチとして、蔦を間近で見ていた川原は、貴重な証言者と言えるでしょう。川原の蔦への評価は、指導力のない素人監督と辛辣です。蔦の指導基準は、投手ならば球速140キロ以上を投げられるか、打者ならば遠くに飛ばせるか、といったくらいで、大会前の連携練習は川原に任せて、蔦は先に帰宅していたそうです。筋トレの時間はさほど長くなく、練習時間の7割は打撃で、残り3割で守備や筋トレをやっていたそうです。打ち勝つ野球にしても、甲子園で優勝した年は優れた投手がいた、と川原は冷ややかです。一方で、蔦は報道陣への対応や包容力や相手への威圧感は優れたており、蔦の名前で好選手が集まったことも事実で、蔦のことは今でも好きだ、とも川原は語っています。川原によると、蔦は純粋な人で、当初は熱心だったものの、1983年の選抜優勝頃から少しずつおかしくなっていき、講演会に頻繁に出かけるようになり、多い時は1ヶ月に25日も練習に不在で、大事な大会の試合中に、川原に任せて講演会に行ったこともあるそうです。川原は、無給でコーチを務めていたそうです。著者は川原から、当時の部員が蔦を「金の好きな欲望ジジイ」と告発した手紙も見せられています。川原は蔦に、講演会を控えるよう進言したものの、蔦は、「金は、やめられん」と答えたそうです。
ただ、著者はこの取材だけでは納得できないものを感じており、さらに取材を進めます。川原への取材を取り上げた記事は、池田高校の関係者に不評だった、との噂も著者の耳に入っていたそうです。著者は蔦文也の次男の隆司にも取材しています。蔦家は江戸時代から煙草で裕福だったため、蔦文也も恵まれた学生生活を送っていたようです。蔦は徳島商から同志社大学へと進学し、在学中の1943年12月に海軍に入隊しています。蔦は海軍では、特攻隊の偵察員だったそうです。敗戦後、蔦家は農地改革で土地を失い、蔦は社会人野球を経てプロ野球に進みますが、1年で退団し、1951年、池田高校の教諭となり、翌年、野球部の監督に就任します。本書は、「特攻くずれ」、「プロ野球くずれ」としての鬱屈が蔦にはあり、泥酔して人々に絡んでいたのではないか、と推測します。そうした蔦への周囲の評価は、1971年の甲子園初出場、1974年の「さわやかイレブン」による選抜準優勝で変わっていきます。すでにその前から、蔦は優秀な中学生を勧誘していたそうですが、蔦の厳しい指導に耐えられず、退部者が続出し、「さわやかイレブン」も11人しか部員が残らなかったからでした。その「さわやかイレブン」で投手だった山本智久は、少人数だからこそできたことがあり、蔦は名声の高まりとともに増えた部員を指導しきれず、講演会に出向くようになったのは、把握しきれない部員から逃げていた側面もあるのではないか、と推測しています。
池田は1979年の選手権大会で準優勝でしたが、この時の主戦投手が橋川正人です。橋川の証言は、蔦が新しいもの好きだった側面を明らかにしています。当時、池田高校野球部にはすでにスピードガンがあり、スポーツドリンクも取り入れられ、夏季練習では当時としては珍しく1時間単位で休憩があったそうです。この準優勝は影響が大きく、池田高校野球部には徳島県の有望な中学生が集まるようになったそうです。それが、池田高校の全盛期をもたらしたわけですが、それだけで甲子園であれだけの成績を残せるだろうか、と本書は疑問を呈します。筋トレにしても金属バットにしても、偶然が重なった側面もあったようです。そもそも、地方の公立高校にしては、池田高校野球部の設備が整っていたことに本書は着目します。それは、池田高校が甲子園の常連になる前から築かれていた後援会組織への寄付金もありましたが、何よりも、甲子園出場時に臨時で組織された後援会への寄付金が大きく、ここで得た寄付金を設備費充てて、しばらくやり繰りしていたそうです。甲子園出場が遠のくと、部費が枯渇してくるわけで、高校の競技で設備や甲子園への応援団派遣などあまりにも費用がかかることに、池田高校野球部の部長を長く務めた白川進も疑問を呈しています。本書も、蔦が私費で野球部の寮を建て、金策に苦しみ、講演会に熱心になった可能性を指摘しています。また本書は、狭い地域だったからこそ、同調圧力で寄付金が集まった側面も指摘します。
甲子園夏春連覇の主力選手の一人だった江上光治は、蔦や白川が必死に多額の寄付金を集めていたことを知らなかったそうです。その江上によると、蔦は指導でも采配でも優れていたわけではなく、徳島県内の高校にはサインが見破られており、サインミスも多かったそうです。そうした蔦を、とくに夏春連覇以降、徳島県外の報道陣が神格化していった、と江上は指摘しています。1980年代後半だったか、1990年代だったか忘れましたが、池田高校とPL学園の比較で、池田高校出身の成功したプロ野球選手が少ないのは、監督の指導が悪いというか、基礎を教えられていないからではないか、との記事を読んだ記憶があるので、江上の蔦に対する評価にも納得できるところがあります。江上は、甲子園3季連続優勝を目指してPL学園に準決勝で負けたことについては、自分たちに驕りがあった、と認めています。江上は蔦について、当時の野球部員は全面的に信頼していたわけではないものの、蔦がグラウンドを一人で黙々と整備する姿は、部員が蔦を信じるよすがになった、と考えています。
蔦への見方は、人によって大きく異なります。蔦の監督晩年の部員には、あからさまに蔦を批判する者もいますし、上述の蔦を告発しようとした部員にも著者は取材しています(匿名)。本書のさまざまな証言から浮かび上がる蔦文也像を私なりにまとめると、幸運から類稀な成功を収め、自らの分を超えた立場に祭り上げられ、自分を見失いかけた人です。ただ、幸運を類稀な成功に結びつけることができたのは、蔦の強い野球への情熱に支えられた絶え間ない努力があってのことだと思います。蔦は、選手の指導にも試合の采配にも長けておらず、正直なところ名将と呼ぶのは躊躇われます。人間性でも、聖人君子とはとても言えそうにありません。しかし、純粋なところがあり、野球への情熱は本物でした。蔦に人を惹きつける魅力があったのは確かで、監督としての蔦に否定的なことを述べた川原にしても、今でも蔦が好きと述べています。有望な選手が集まったのも、蔦がいてこそと言えるでしょう。ただ、とくに甲子園夏春連覇後に、蔦の神格化が大衆媒体で進み、そうした蔦文也像に憧れて池田高校野球部に入った選手の中には、肥大化した野球部と自己像に対処できず、翻弄される蔦文也を間近で見て失望する人がいても、不思議ではないと思います。
本書は、蔦文也と直接的に関わったさまざまな人の証言から、蔦の多面性を見事に浮き彫りにしているように思います。また本書は、蔦文也の人物像と蔦文也をめぐる「記憶の衝突」のみならず、高校野球に巨額の金が動く歪さも示しています。冷静に考えると、高校の部活動にこれだけ巨額の金が動くのは、やはり健全とは言えないでしょう。とはいえ、ここまで肥大化した高校野球を解体とまでいかずとも縮小させるのは、現時点では現実的ではありません。ただ、高校野球に限らず野球人気が低下していけば、高校野球も他の高校の部活動と同じような扱いとなるのでしょうが。本書で残念なのは、池田高校野球部出身の双璧とも言える畠山準と水野雄仁の証言がないことですが、取材を断わられたのでしょうか。この二人の証言がないことも、蔦文也をめぐる「記憶の衝突」の表れと解釈すべきかもしれません。
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