小島太『賞賛と罵声と』
講談社より2025年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。著者は騎手から調教師へと転身し、2018年に調教師を定年となり、その頃には私の競馬への情熱はかなり低下していたので、定年後の著者の動向についても、とくに関心を抱いていませんでした。ただ、確か昨年(2025年)、おそらく本書の刊行に伴う取材だったのでしょうが、著者は週刊誌の取材でがんであることを告白しており、そのことも気になって、本書を読むことにしました。著者は2022年が終わる頃に肺がんでステージ4との診断結果を聞かされたそうで、2024年11月には股関節手術も受け、痛みがとれたことで、本書刊行時点では歩けるようになったそうです。著者の著書には『競馬八方破れ言いたい放題』(ベストブック、1993年)があり、こちらも自伝的な本でしたが、1990年代に図書館で読んだ記憶があります。同書の記憶はもう曖昧ですが、競馬場で観客が騒ぐようになったことへの否定的意見や、騎手および私生活での人間関係についても、割と率直に明かしていたように思います。以下、敬称は省略します。
著者は北海道で生まれ育ち、父親が農耕馬の売買と蹄鉄屋を経営し、道営競馬の馬主資格も持っていたことから、幼い頃から馬に乗っており、小学6年生になった頃には、草競馬でも勝っていたそうです。著者は道営競馬に通うようになり、特別に調教で乗せてもらっていたそうですが、その許可証を出したのが、武豊の祖父の武芳彦だったそうです。著者は騎手への強い憧れを抱くようになり、試験に合格して、中学卒業後の1963年に馬事公苑に入所します。当時は、入所とともに厩舎に所属することになっており、著者は高木良三厩舎に属することになりました。著者は、これが素晴らしい出会いだった、と高木調教師に感謝しています。著者は高木から、酒と煙草はよいが、博奕にだけは手を出すな、と言われており、応援の意味も込めて馬券を少額購入する程度で、賭け事には基本的に無縁とのことです。失礼ながら、これはかなり意外でした。著者の馬事公苑の同期には、田島良保や安田富男や池上昌弘や平井雄二などがいました。著者は、いかにもといった下積み生活を送ったようですが、現在の競馬学校では、もっと洗練された教育体系なのでしょうか。
著者の初騎乗は1966年3月5日、東京競馬場でのことで、10着でした。その後も著者はなかなか勝てませんでしたが、同年7月9日に初勝利を挙げます。著者は、師匠の高木が、自分の性格を考えて、天狗にならないよう、あえて有力馬をなかなか乗せなかったのではないか、と考えています。著者は障害競走にも騎乗しており、初の重賞勝ちは騎手として2年目の東京障害特別でした。著者はその半月後には、平地重賞の関屋記念を勝っています。著者はアメリカジョッキークラブカップでタケホープに乗ってハイセイコーに勝っており、これは知りませんでした(どこかで読んで、忘れてしまったのかもしれませんが)。こうして騎手として注目されるようになった著者ですが、その分、罵声を浴びることも増えたそうです。著者は海外競馬にも早くから目を向けていましたが、今のように制度が整った時代でなかったのは、不幸なことでした。
著者は子供の頃から日本ダービーに憧れ続けてきただけに、日本ダービーには1章を割いています。著者の日本ダービー初勝利はサクラショウリに騎乗した1978年のことで、レース前の強気な発言とは裏腹に、距離が長いのではないか、と不安が大きかったそうです。著者の日本ダービー2勝目は1988年で、騎乗馬は同じく全演植が所有していたサクラチヨノオーでした。サクラチヨノオーは皐月賞で3着に負け、著者は切れ味不足を懸念していましたが、日本ダービーでは完璧な騎乗ができた、と自負しています。ただ、著者は日本ダービーでは、勝てそうだったのに負けた方が強く印象に残っているそうで、1981年のサンエイソロンでの2着と、1982年のアズマハンターでの3着には、深く後悔しています。
著者は憧れの騎手として野平祐二を、年下ながら大成する前から注目していた騎手として、蛯名正義を挙げています。武豊については、著者との特別対談が掲載されています。上述のように、著者は武豊の祖父の武芳彦と縁があり、その息子で武豊の父親である武邦彦とはとくに親しかったそうです。著者と武家との縁は多少知っていましたが、本当に深い縁だったのだ、と思った次第です。田原成貴の名前も挙げられていましたが、詳しく述べられなかったのは残念でした。横山典弘にも、サクラローレルとの関連で言及されています。
著者は1996年に騎手を引退して調教師に転身し、翌年に厩舎を開きます。著者は調教師に転身した時から、人気商売の騎手とは異なり、裏方に徹する、と決めていたそうです。著者に調教師として初めての重賞勝ちをもたらしたのはイーグルカフェでしたが、そのイーグルカフェがNHKマイルカップも勝ち、これが小島厩舎にとって初の大レース(JRAGI)勝ちでした。この時の鞍上は岡部幸雄で、著者との不仲も噂としてありましたが、『競馬八方破れ言いたい放題』で述べられていたように、著者はとくに岡部幸雄を嫌っているわけでも、敵視しているわけでもなさそうです。本当に岡部幸雄を嫌っていたのは、著者の義父でもあった境勝太郎のようです。調教師としての著者にとって最強馬と言えるマンハッタンカフェの凱旋門賞挑戦については、天皇賞(春)からのぶっつけだったことなどから、思い出出走だったのではないか、と私はずっと考えてきましたが、著者は、フランスに行ってから好調で、レース中の故障発生がなければ勝っていた、と主張しています。一般論としては、部外者の邪推よりは当事者だった著者の認識を重く見るべきでしょう。
競走馬の意外な評価としては、著者が騎乗したサクラバクシンオーよりも、著者が調教師として管理した、サクラプレジデントの方が、短距離では上だったかもしれない、と指摘されています。そのサクラバクシンオーは、短距離馬の体型ではなく、中距離も走れそうな感触だったが、気管系の限界で失速するような感じで、距離が延びてよいわけではない、と評価されています。そのサクラバクシンオーの父親であるサクラユタカオーは、素直な性格の馬だったそうです。なお、著者は騎乗した馬では、サクラローレルを最強と評価しています。
記憶が曖昧ですが、『競馬八方破れ言いたい放題』と比較すると、本書は優等生的にまとまっているように思います。同書では、著者の離婚についても述べられていましたが、本書では言及がありません。株式会社さくらコマースの創業者である全演植との関係についても、本書では喧嘩したことも述べられているものの、同書ではもっと詳しかったように記憶しています。確か、著者はサクラユタカオーで天皇賞(秋)を勝った頃には、すでに全演植との関係がおかしくなりつつあり、それはモガミの冠名の馬主と親しくなったからだ、と同書では割と率直に明かされていました。全体的に本書は『競馬八方破れ言いたい放題』と比較すると「穏当な」記述になっており、それは、騎手時代に刊行された同書に対して、本書は調教師も経た後であることが大きいのかもしれません。「人間として成長した」と言うべきでしょうか。ただ、本書では、離婚について言及されていないこととも関連しているのでしょうが、著者の義父でもあった境勝太郎について、「サクラのメイン厩舎だった境勝太郎調教師も私の騎手人生を語るうえで欠かせない存在だ」としか述べられていないのは、さすがにどうかと思います。そうした不満もありますが、全体的には興味深く読み進められました。
著者は北海道で生まれ育ち、父親が農耕馬の売買と蹄鉄屋を経営し、道営競馬の馬主資格も持っていたことから、幼い頃から馬に乗っており、小学6年生になった頃には、草競馬でも勝っていたそうです。著者は道営競馬に通うようになり、特別に調教で乗せてもらっていたそうですが、その許可証を出したのが、武豊の祖父の武芳彦だったそうです。著者は騎手への強い憧れを抱くようになり、試験に合格して、中学卒業後の1963年に馬事公苑に入所します。当時は、入所とともに厩舎に所属することになっており、著者は高木良三厩舎に属することになりました。著者は、これが素晴らしい出会いだった、と高木調教師に感謝しています。著者は高木から、酒と煙草はよいが、博奕にだけは手を出すな、と言われており、応援の意味も込めて馬券を少額購入する程度で、賭け事には基本的に無縁とのことです。失礼ながら、これはかなり意外でした。著者の馬事公苑の同期には、田島良保や安田富男や池上昌弘や平井雄二などがいました。著者は、いかにもといった下積み生活を送ったようですが、現在の競馬学校では、もっと洗練された教育体系なのでしょうか。
著者の初騎乗は1966年3月5日、東京競馬場でのことで、10着でした。その後も著者はなかなか勝てませんでしたが、同年7月9日に初勝利を挙げます。著者は、師匠の高木が、自分の性格を考えて、天狗にならないよう、あえて有力馬をなかなか乗せなかったのではないか、と考えています。著者は障害競走にも騎乗しており、初の重賞勝ちは騎手として2年目の東京障害特別でした。著者はその半月後には、平地重賞の関屋記念を勝っています。著者はアメリカジョッキークラブカップでタケホープに乗ってハイセイコーに勝っており、これは知りませんでした(どこかで読んで、忘れてしまったのかもしれませんが)。こうして騎手として注目されるようになった著者ですが、その分、罵声を浴びることも増えたそうです。著者は海外競馬にも早くから目を向けていましたが、今のように制度が整った時代でなかったのは、不幸なことでした。
著者は子供の頃から日本ダービーに憧れ続けてきただけに、日本ダービーには1章を割いています。著者の日本ダービー初勝利はサクラショウリに騎乗した1978年のことで、レース前の強気な発言とは裏腹に、距離が長いのではないか、と不安が大きかったそうです。著者の日本ダービー2勝目は1988年で、騎乗馬は同じく全演植が所有していたサクラチヨノオーでした。サクラチヨノオーは皐月賞で3着に負け、著者は切れ味不足を懸念していましたが、日本ダービーでは完璧な騎乗ができた、と自負しています。ただ、著者は日本ダービーでは、勝てそうだったのに負けた方が強く印象に残っているそうで、1981年のサンエイソロンでの2着と、1982年のアズマハンターでの3着には、深く後悔しています。
著者は憧れの騎手として野平祐二を、年下ながら大成する前から注目していた騎手として、蛯名正義を挙げています。武豊については、著者との特別対談が掲載されています。上述のように、著者は武豊の祖父の武芳彦と縁があり、その息子で武豊の父親である武邦彦とはとくに親しかったそうです。著者と武家との縁は多少知っていましたが、本当に深い縁だったのだ、と思った次第です。田原成貴の名前も挙げられていましたが、詳しく述べられなかったのは残念でした。横山典弘にも、サクラローレルとの関連で言及されています。
著者は1996年に騎手を引退して調教師に転身し、翌年に厩舎を開きます。著者は調教師に転身した時から、人気商売の騎手とは異なり、裏方に徹する、と決めていたそうです。著者に調教師として初めての重賞勝ちをもたらしたのはイーグルカフェでしたが、そのイーグルカフェがNHKマイルカップも勝ち、これが小島厩舎にとって初の大レース(JRAGI)勝ちでした。この時の鞍上は岡部幸雄で、著者との不仲も噂としてありましたが、『競馬八方破れ言いたい放題』で述べられていたように、著者はとくに岡部幸雄を嫌っているわけでも、敵視しているわけでもなさそうです。本当に岡部幸雄を嫌っていたのは、著者の義父でもあった境勝太郎のようです。調教師としての著者にとって最強馬と言えるマンハッタンカフェの凱旋門賞挑戦については、天皇賞(春)からのぶっつけだったことなどから、思い出出走だったのではないか、と私はずっと考えてきましたが、著者は、フランスに行ってから好調で、レース中の故障発生がなければ勝っていた、と主張しています。一般論としては、部外者の邪推よりは当事者だった著者の認識を重く見るべきでしょう。
競走馬の意外な評価としては、著者が騎乗したサクラバクシンオーよりも、著者が調教師として管理した、サクラプレジデントの方が、短距離では上だったかもしれない、と指摘されています。そのサクラバクシンオーは、短距離馬の体型ではなく、中距離も走れそうな感触だったが、気管系の限界で失速するような感じで、距離が延びてよいわけではない、と評価されています。そのサクラバクシンオーの父親であるサクラユタカオーは、素直な性格の馬だったそうです。なお、著者は騎乗した馬では、サクラローレルを最強と評価しています。
記憶が曖昧ですが、『競馬八方破れ言いたい放題』と比較すると、本書は優等生的にまとまっているように思います。同書では、著者の離婚についても述べられていましたが、本書では言及がありません。株式会社さくらコマースの創業者である全演植との関係についても、本書では喧嘩したことも述べられているものの、同書ではもっと詳しかったように記憶しています。確か、著者はサクラユタカオーで天皇賞(秋)を勝った頃には、すでに全演植との関係がおかしくなりつつあり、それはモガミの冠名の馬主と親しくなったからだ、と同書では割と率直に明かされていました。全体的に本書は『競馬八方破れ言いたい放題』と比較すると「穏当な」記述になっており、それは、騎手時代に刊行された同書に対して、本書は調教師も経た後であることが大きいのかもしれません。「人間として成長した」と言うべきでしょうか。ただ、本書では、離婚について言及されていないこととも関連しているのでしょうが、著者の義父でもあった境勝太郎について、「サクラのメイン厩舎だった境勝太郎調教師も私の騎手人生を語るうえで欠かせない存在だ」としか述べられていないのは、さすがにどうかと思います。そうした不満もありますが、全体的には興味深く読み進められました。
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