岩井秀一郎『今村 均 敗戦日本の不敗の司令官』

 PHP新書の一冊として、PHP研究所より2023年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、「聖将」と評価する人もいる今村均の評伝です。ただ、本書はそのように今村を崇拝する立場からは距離を取っており、今村が判断を誤ったことや、過酷な命令を下したことも指摘しています。本書は今村を、天才型ではなく反省と修養を忘れなかった人物と把握し、その「偉大な平凡さ」を指摘します。今村のこうした個性の形成には、子供の頃から夜尿症に悩まされていたことも大きく影響しているようです。

 今村は1886年6月28日、仙台で生まれました。父親は裁判所の判事で、異動が多かったようです。今村は自らを「性急短気」と述べており、一般的な印象や一部の同時代人の証言とは異なりますが、陸軍省兵務局長時代には、やや神経過敏な性格とも見られていました。今村は生来の鷹揚な人物だったわけではなく、自分の性格を矯正しようと努力していたのではないか、と本書は推測します。

 中学に進んだ今村は一高か高等商業学校の受験を考え、地元の貴族院議員から学費提供の申し出も受けていましたが、提供者に従属することになる、と母親に反対され、母親は今村に軍人になるよう諭したばかりか、士官学校に願書を提出します。悩んだ今村は、観兵式で明治天皇のを見た感激から、陸軍士官学校を受験して合格します。今村は士官学校第19期となりますが、第19期は、幼年学校出身者がおらず、全員、一般中学出身者である点が特徴です。今村の同期には、本間雅晴や田中静壱がいます。士官候補生時代の今村は、3期上の板垣征四郎に傾倒していたようです。

 今村は任官後に陸大に合格し、この時に梅津美治郎の世話になっています。1915年12月、今村は陸大を首席で卒業し、第一次世界大戦中にイギリス駐在を命じられています。今村はこの視察と道中で、イギリスとアメリカ合衆国の豊かさと、日本の資源の乏しさを指摘しています。一方で今村は、イギリスの「国防観念」と「公徳心」に注目し、日本ではそれが希薄であることを懸念しています。帰国後の今村は参謀本部に勤めるとともに、上原勇作の副官となります。

 1931年8月、今村は参謀本部の作戦課長に就任します。今村は連隊長を希望していましたが、永田鉄山が説得しました。今村は一夕会に加わっていませんでしたが、永田には信頼されていたようです。その直後に勃発した満洲事変への対応で、朝鮮軍の独断越境は参謀総長による上奏で裁可されれば問題はない、と考えて書類を作成し、捺印だけを求めたことで、永田から叱責されています。満洲事変勃発の翌月の十月事件の収束というか決起の封じ込めには今村も貢献していますが、今村が首謀者の寛大な処分を梅津美治郎に要請したことについて、悪影響になったのではないか、と本書は批判的です。満洲事変のさい、政友会が民政党内閣打倒に利用すべく、今村に接近したこともあり、今村は政治に警戒心を抱くようになります。

 1931年12月、民政党から政友会へと政権が替わり、陸軍の人事で今村は歩兵連隊長となりますが、これを左遷と受け取る者もいたようです。1935年3月、今村は少将に昇進し、京城にある歩兵第40連隊長に任命されます。当初は、工藤義雄が第40旅団長、今村が東京の第1旅団長の予定でしたが、工藤が妻の病気のため朝鮮行きに難色を示したことで、今村が朝鮮に派遣されました。今村はこの人事を、軍隊錬成に不便な東京ではなくなったことで喜んでいたようですが、この人事を左遷と考える者もいたそうです。翌年の二・二六事件で、工藤は監督不行届のため予備役に回されており、本書は、今村が東京に残って当初の予定通り第1旅団長に任命されていたら、今村が二・二六事件後に予備役に回された可能性も指摘しています。

 その二・二六事件後の定期異動で、今村は関東軍参謀副長に任命されます。今村は関東軍の立場から梅津美治郎を説得したものの、関東軍の「独断専行」を改めようとしていた梅津に諭され、反省するところが大いにあったようです。1938年1月、今村は兵務局長に任命されますが、今村の仕事に不満を抱く者もいたようで、その性格から今村には不向きだったかもしれない、と本書は指摘します。それもあってか、今村は1938年11月に第5師団長に任命され、中国で実戦指揮を執ることになります。第5師団はノモンハン事件への対応で北方に派遣され、すでに事態が収束しつつあったので、戦闘には加わらなかったり後で、南方へと派遣されて南寧で敵の大軍に苦戦したものの、よく耐えて日本軍の反攻に結びつけ、本書はここに今村の「将器」が開花した、と評価しています。

 1940年3月、今村は教育総監部本部長に任命されます。当時、中国戦線の軍紀が乱れていたため、戦場における教訓書の必要性が議論されており、教育総監部に教訓の作成が命じられました。その結果できたのが戦陣訓でしたが、当初こそ満足していた今村も、軍司令官として赴任すると、長すぎて道徳の主眼点がはっきりしない、と後悔しています。今村は1941年7月に広東の第23軍司令官に赴任し、同年11月には第16軍司令官に任命され、日米交渉がまとまらない場合は、蘭印を攻略するよう命じられます。

 対米英開戦後、第16軍は作戦計画の立案を引き続き進め、文化人も動員して宣伝班が設置され、軍政部も置かれました。第16軍は蘭印占領後、軍政を始めます。第16軍の軍政は「緩和策」で、大きな反抗も起きませんでしたが、陸軍中央の武藤章のように、強圧的統治を主張する者もいました。しかし、戦況が悪化する中で、今村は第8方面軍司令官に任命され、ジャワ島を離れます。今村は、ガダルカナル島を巡る攻防にも関わり、ガダルカナル島の放棄後には、はラバウルで「自給自足」体制を築きます。これには、南寧の戦いで食糧に苦しんだ経験も大きかったようです。また今村は、統制のため戦闘訓練を欠かしませんでした。

 敗戦後の今村の高潔な姿勢は、比較的よく知られているように思います。今村は自害に失敗し、一度は帰国できたものの、再度志願してマヌス島の収容所に戻り、同収容所の閉鎖後は、巣鴨で残りの刑期を過ごし、1954年1月に釈放となります。その後、今村は「謹慎」に入りますが、訪ねてくる人もいれば、呼ばれて出ていくこともあったそうです。今村の死は、1968年10月4日のことでした。今村は戦争末期には、戦況の劣勢が 陸軍の科学技術を無視した精神至上主義であったことを指摘し、敗戦後に捕虜となったさいには、将兵に旧制中学程度の学力をつけさせるために、臨時の教育を行なっています。本書が描く今村は、「英傑」でも「天才」でもなく、生涯にわたって自己を省みて、修養を続けた人で、多くの人にとって、見習うべきところが多いように思います。

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