網野善彦氏が遺した問題

 最近、個人的なテレビ視聴の歴史について述べましたが(関連記事)、まだある程度記憶が残っているうちに、体系的ではなくとも備忘録として残しておきたい、と思ったからです。今回は、以前から考えている歴史にまつわる問題について、備忘録として残しておきます。これらの問題について、今後いつかはある程度の見通しを立てられるようにしたいものですが、大きな問題でもあるので、難しいところがあります。ただ、いつかは少なくとも自分で体系的に整理し、私見を述べたいとは考えています。

 網野善彦『無縁・苦界・楽』増補版第8刷(平凡社、1994年、初版第1刷の刊行は1978年)の「まえがき」には、以下のようにあります。

 歴史学を一生の仕事とする決意を固めるのと、ほとんど同じころ、私は高等学校(都立北園高校)の教壇に立った。私にとって、これが初めての教師経験であり、生徒諸君の質問に窮して教壇上で絶句、立ち往生することもしばしばであった。その中でつぎの二つの質問だけは、鮮明に記憶している。
「あなたは、天皇の力が弱くなり、滅びそうになったと説明するが、なぜ、それでも天皇は滅びなかったのか。形だけの存在なら、とり除かれてもよかったはずなのに、なぜだれもそれができなかったのか」。これは、ほとんど毎年のごとく、私が平安末・鎌倉初期の内乱、南北朝の動乱、戦国・織豊期の動乱の授業をしているときに現れた。伝統の利用、権力者の弱さ等々、あれこれの説明はこの質問者を一応だまらせることはできたが、どうにも納得し難いものが、私自身の心の中に深く根を下していったのである。
 もう一つの質問に対しては、私は一言の説明もなしえず、完全に頭を下げざるをなかった。
「なぜ、平安末・鎌倉という時代にのみ、すぐれた宗教家が輩出したのか。ほかの時代ではなく、どうしてこの時代にこのような現象がおこったのか、説明せよ」。
 この二つの質問には、いまも私は完全な解答を出すことができない。ただ、そのとき以来、脳裏に焼きつき、いつも私の念頭から離れなかったこの問題について考えつづけてきた結果の一部を、一つの試論としてまとめたのが本書である。


 天皇(という政治的枠組み)がなぜ続いたのか、平安末期~鎌倉時代にかけてのみ優れた宗教家が輩出したのはなぜか、というのは、確かに日本史における大きな問題とは思います。尤も、平安末期~鎌倉時代にかけて「のみ」優れた宗教家が輩出した、との前提が妥当なのか、問われるとは思います。とはいえ、近年でも、平安末期~鎌倉時代にかけては仏教が最も生き生きとした時代だった、とも指摘されています(関連記事)。ただ、「鎌倉新仏教」という概念については、第二次世界大戦後に提唱された顕密体制論によって、大きく見直されることになりました。

 そうした知見も踏まえて、中世初期の日本仏教について、以前にまとめました(関連記事)。この記事で取り上げた近年の見解では、仏教では三要素である戒律と修行と教学の三学一致が基本であるものの、平安時代後期にはとくに上級の僧侶で教学が極端に重視されるようになり、それに対して、三学全体を盛んにしていこうとした入宋僧などが現れた一方で、三学の修業は困難なので、そこに拘らず、異なる救済を創造する、という念仏系や法華系の教えが現れた、とされます(関連記事)。その極端な方向性の違いが、この時期の日本仏教を活性化させたのでしょうが、その前提となるのは、やはり11世紀半ばに末法の世に入った、との認識が深く浸透していたことなのだと思います。もちろん、中世初期に日本仏教が活性化した理由として、末法の世のみを挙げるのは不適切でしょうし、いつかは、自分なりに体系的に整理しておきたいところです。

 天皇がなぜ続いたのかは、現代日本社会においてもっと関心の高い問題と思います。ここに本質的な尊さ若しくは後進性を見いだすのは、正反対の立場のように見えて、似ているように思います。それは、日本(史)の特殊性を重く見ていることが背景にあるからです。もちろん、日本も日本史もそれ自体が特異で独特な存在であることは確かですが、それは他地域にも当てはまることです。やや突き放して考えてみると、天皇が続いたのは惰性が大きかった、とも言えるかもしれません。もう少し学術的に言えば、「経路依存性」です。

 まだインターネットが普及していなかった1990年代前半に、生命科学系の分野を専攻していた同年生まれの知人に、称徳天皇が道鏡に譲位しようとしたのは、天皇が元々は世襲制でなかった、との記憶がまだ残っていたからで、この企てが成功していたら、天皇制は続かなかったか、世襲制ではなくなったかもしれない、と指摘されたことがありました。それでも、貴族のほとんどは道鏡への譲位に反対しており、やはり当時から世襲は定着していたのではないか、というように反論した記憶がありますが、この問題はずっと自分の「課題」として頭に残っていました。

 近年では、5世紀以前の日本(と言うと、日本ではなく倭国だ、と網野氏に怒られそうですが)において、君主(王)の地位は一家系(的集団)に独占されていたのではなく、複数の王統が存在した、との見解が有力なようですが、奈良時代にはそうした記憶がまだ曖昧ながら残っており、それが称徳天皇の道鏡への譲位の試みの背景にあった、と考えることができるかもしれません。そうすると、世襲の天皇が続いたのは、称徳天皇の企てが失敗し、その後も世襲が続いたことで、天皇は世襲されるものとの観念が日本の知識(支配)層で完全に固定された結果にすぎないのかもしれません。惰性で続いた、というわけですが、これもひじょうに単純化した見方であることは否めず、この問題について、いつかは、自分なりに体系的に整理して、一定の見解を提示したいものです。

 天皇と関連して、小学生の頃よりずっと疑問に思っているのは、天皇が実際の権力を有していたのは平安時代初期までで、その後は後醍醐天皇のような例外を除けば、祭祀を司る存在として権威や象徴にすぎなかったので、現代まで続いた、というような見解です。こうした見解では、摂関期には天皇が政治権力的に無力な存在だった、と想定されています。ただ、幼帝を補佐する摂政はともかく、関白が天皇を無視して権力を振るえたわけではありませんし、院政期にしても、少なくとも堀河天皇と二条天皇は、実際の政治権力を振るわなかった、とはとても言えないでしょう。院政の象徴的存在とも言える白河上皇にしても、堀河天皇と関白の藤原師通が長命だった場合、史実のような政治権力を振るえたのか、大いに疑問が残ります。

 天皇は平安時代初期以降に権力から切り離され、祭祀を司る存在として権威や象徴にすぎなかった、というような見解は、第二次世界大戦後の天皇の在り様を過去に投影したところが多分にあり、妥当ではないように思います。そもそも近現代の視点では、前近代の政治には祭祀というか宗教的要素が多分にあり、それは摂関にしても上皇にしても同様で、武家政権の実質的な最高権力者にもそうした側面があるのではないか、と思います。南北朝時代を経て、天皇の実効的な政治権力が古代と比較して著しく低下したことは否定できないかもしれませんが、それは朝廷の政治権力の低下を反映しているわけで、この時期以降の天皇を中世初期や古代に遡及させることは問題だと思います。多様な話題で断定的に主張し、自分の見解に反する主張を見下す、「現実主義者」で「知の巨人」であるかのように振る舞う人が、天皇には古代から権力はなく、村祭の神輿のようなものと主張することもありますが、私はそうした見解にはまったく同意しません。この問題についてもいつか、自分なりに体系的に整理して、一定の見解を提示したいものです。

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