呉座勇一『軍師の日本史』
角川新書の一冊として、KADOKAWAから2026年6月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は日本人の軍師概念の変遷史で、おもに戦国時と代の武士が取り上げられていますが、単に現在の軍師概念と実態との乖離のみならず、そうした軍師像の形成過程を、江戸時代の講談や近代軍隊における参謀の存在や戦後の大衆文学を踏まえて広く検証しており、こうした軍師像を生み出した日本文化の特徴も論じられています。広い視点での軍師論と言えそうです。
本書は戦国時代の前も簡潔に取り上げており、飛鳥時代の百済から亡命してきた兵法者や、奈良時代の吉備真備などを挙げて、日本における兵法の受容を概観しています。11世紀以降には、日本独自の兵法書が編纂されるようになりますが、『孫子』などとは異なり、呪術的要素が強くなっています。
通俗的な印象では軍師の任務とされる陣形については、律令国家で全国一律の訓練が意図されましたが、律令国家が大規模な軍備に耐えられなかったことや、対蝦夷戦では陣形を用いる軍団が有効ではなかったことなどから、日本では陣形は衰退します。中世の軍記物には陣形が見えますが、漢籍からの引用が多いことや、軍が中小規模の個別の武士団の寄せ集めだったことから、実際に陣形が用いられたていたのか、本書は懐疑的です。
戦国時代には、合戦において日時や方位や方角を占う軍配者は存在しましたが、作戦立案の専門家はおらず、軍師という言葉も当時の史料には見えません。軍配者的存在は中世前期から存在し、本書はその起源として陰陽師を挙げています。本書は軍配者を、戦術家というよりはシャーマンとして把握しています。一方で中世にはそうした易学的要素だけではなく兵学への需要も高まりましたが、それは儒学の一部でした。
江戸時代に戦乱が絶えても、武士の本質は戦闘にあったので、戦への関心は相変わらず高く、名将の戦法を受け継いだと称する、軍学者が顕われます。ただ、実戦から遠ざかり、軍学が机上の空論に陥ったことを本書は指摘します。その対象は戦国時代に限らず、南北朝時代の楠木正成も人気となりました。この状況で、17世紀末に『三国志演義』が翻訳され、軍師という言葉が日本で普及していきます。とくに諸葛孔明は人気で、以後の軍記物や近世軍学や芝居などでは軍師が多用され、それらに登場する日本の軍師の多くは、諸葛孔明がモデルでした。
戦国時代の「軍師」として認識されている人物でまず取り上げられているのは、山本勘助です。近代になって『甲陽軍鑑』が「偽書」とされた反動もあり、山本勘助は実在さえ疑われることになりましたが、その後に史料の発見で山本菅助なる人物が武田信玄に仕えていたことが明らかになりました。『甲陽軍鑑』も、武田家に仕えた春日虎綱による口述が元になっている、と今では評価されています。ただ、江戸時代初期の成立までに多くの人の手が加わっている可能性も指摘されています。ただ、『甲陽軍鑑』の山本勘助と同時代史料に見える山本菅助を完全に同一視することに慎重な見解もあり、本書も、山本勘助は虚実入り混じった人物と推測しています。
上杉謙信の軍師とされる宇佐美定行(定満)は、18世紀初頭刊行の『北越軍記』などで知られています。同時代史料によると、宇佐美定満なる人物が存在し、『北越軍記』では定行が定満に解明した、とされています。宇佐美氏は長尾氏と敵対しており、長尾氏に帰順した後も、宇佐美定満は冷遇されていたようで、『北越軍記』の軍師像とは大きく異なります。この軍師像を創出したのは、紀州藩に仕えた宇佐美定祐で、紀州藩には甲州流軍学を採用する幕府への対抗心があったのではないか、と本書は推測します。
黒田官兵衛は現代の日本人が思い浮かべる代表的な軍師の一人と言えるでしょう。本書は、同じく軍師と語られていても、山本勘助や宇佐美定満と異なる官兵衛の特徴として、補佐役や参謀としてのみならず、主君に恐れられる野心家とされている点を挙げます。実際の官兵衛は、羽柴秀吉による播磨攻略の現地案内役で、現地指揮官だった、と本書は指摘します。
太原雪斎(崇孚)は今川義元の軍師とさけていますが、義元に信任されて権勢をふるったことは確かなようで、この点で山本勘助や宇佐美定満や黒田官兵衛とは異なる、と本書は指摘します。今川家における太原崇孚の地位と権限は、今川義元の師であることと、内紛を経て、義元の家督継承に貢献したことですが、本書は、都で修業した禅僧として、都との人脈があったことを挙げています。
本多正信は一般的に、徳川家康の覇業を支えた謀臣と認識されています。実際の正信は、三河一向一揆の後に家康から一度離れて、その後で帰参しましたが、確認できる最初の功績は、本能寺の変の後の甲州武士の調略のようです。家康が羽柴秀吉と対峙した時には、正信は長宗我部家との交渉を担当しています。秀吉存命時の正信は行政官僚的立場にあったようで、正信の権勢が高まったのは、井伊直政や榊原康政や本多忠勝が相次いで没して以降になる、と本書は指摘します。
本書は、近現代日本の軍師像の形成における、参謀本部の大きな役割を指摘しています。参謀本部が設置され、参謀将校の養成機関として陸大が設立されましたが、陸大では実践的な戦術教育が重視され、将帥を育成する教育が不充分だったことを、本書は指摘します。陸大の戦術教育では戦史が重視され、参謀本部は『日本戦史』を刊行していき、姉川や長篠や関ヶ原や大坂の陣といった戦国時代~江戸時代初期の戦いが取り上げられ、作戦経過に終始した叙述となっていました。これは、日本陸軍の戦史研究が作戦研究の補助だったからです。『日本戦史』は市販され、歴史小説家の種本となります。第二次世界大戦で日本は敗れ、参謀の名声も低下したものの、クラウゼヴィッツ兵学の影響を受けた米国流経営学の流行によって、参謀の重要性が認識され、それが戦国時代の「軍師」への注目にもつながりました。
本書は、第二次世界大戦後の日本の大衆文化における軍師像も検証しています。本書で取り上げられている小説のうち、司馬遼太郎作品を20代半ば近くまでよく読んでいたので、懐かしさもありましたが、『新史太閤記』と『播磨灘物語』では黒田官兵衛像が異なっており、『播磨灘物語』では、官兵衛にまつわる著名な逸話を取り込もうとして、官兵衛の性格に矛盾が生じている、との指摘は興味深く、私の記憶が曖昧になってきたこともあるでしょうが、自分の読みの浅さを痛感しました。
本書は、竹中半兵衛と黒田官兵衛の近現代の歴史小説での描かれ方から、現代日本社会における軍師像について、自己表現に関心のある芸術家肌で上の立場には向かない無欲な変人と、上に立つ器量がある野心的な人物の二類型に区分しています。ただ、本多正信など他の軍師の事例からも、器量の点では主君の方が軍師を上回っている、との設定が多く、『三国志演義』の諸葛孔明型の軍師が少ないことを、本書は指摘します。
こうした歴史小説が下地となり、『歴史読本』や『歴史と旅』などの大衆歴史雑誌、『プレジデント』のようなビジネス誌によって、1970年代半ば以降に、現代日本社会における通俗的な軍師像が最終的に形成されていきます。本書はその社会的背景として、雇用が安定し、組織人としての心構えが求められるようになったことを挙げています。また本書は、日本で軍師および参謀論が好まれた理由として、日本型組織では上意下達ではなく下意上達であることを挙げています。本書は、現代日本社会において雇用の安定性が失われつつあることから、現在の軍師人気は長続きしないだろう、との見通しを提示しています。
本書は戦国時代の前も簡潔に取り上げており、飛鳥時代の百済から亡命してきた兵法者や、奈良時代の吉備真備などを挙げて、日本における兵法の受容を概観しています。11世紀以降には、日本独自の兵法書が編纂されるようになりますが、『孫子』などとは異なり、呪術的要素が強くなっています。
通俗的な印象では軍師の任務とされる陣形については、律令国家で全国一律の訓練が意図されましたが、律令国家が大規模な軍備に耐えられなかったことや、対蝦夷戦では陣形を用いる軍団が有効ではなかったことなどから、日本では陣形は衰退します。中世の軍記物には陣形が見えますが、漢籍からの引用が多いことや、軍が中小規模の個別の武士団の寄せ集めだったことから、実際に陣形が用いられたていたのか、本書は懐疑的です。
戦国時代には、合戦において日時や方位や方角を占う軍配者は存在しましたが、作戦立案の専門家はおらず、軍師という言葉も当時の史料には見えません。軍配者的存在は中世前期から存在し、本書はその起源として陰陽師を挙げています。本書は軍配者を、戦術家というよりはシャーマンとして把握しています。一方で中世にはそうした易学的要素だけではなく兵学への需要も高まりましたが、それは儒学の一部でした。
江戸時代に戦乱が絶えても、武士の本質は戦闘にあったので、戦への関心は相変わらず高く、名将の戦法を受け継いだと称する、軍学者が顕われます。ただ、実戦から遠ざかり、軍学が机上の空論に陥ったことを本書は指摘します。その対象は戦国時代に限らず、南北朝時代の楠木正成も人気となりました。この状況で、17世紀末に『三国志演義』が翻訳され、軍師という言葉が日本で普及していきます。とくに諸葛孔明は人気で、以後の軍記物や近世軍学や芝居などでは軍師が多用され、それらに登場する日本の軍師の多くは、諸葛孔明がモデルでした。
戦国時代の「軍師」として認識されている人物でまず取り上げられているのは、山本勘助です。近代になって『甲陽軍鑑』が「偽書」とされた反動もあり、山本勘助は実在さえ疑われることになりましたが、その後に史料の発見で山本菅助なる人物が武田信玄に仕えていたことが明らかになりました。『甲陽軍鑑』も、武田家に仕えた春日虎綱による口述が元になっている、と今では評価されています。ただ、江戸時代初期の成立までに多くの人の手が加わっている可能性も指摘されています。ただ、『甲陽軍鑑』の山本勘助と同時代史料に見える山本菅助を完全に同一視することに慎重な見解もあり、本書も、山本勘助は虚実入り混じった人物と推測しています。
上杉謙信の軍師とされる宇佐美定行(定満)は、18世紀初頭刊行の『北越軍記』などで知られています。同時代史料によると、宇佐美定満なる人物が存在し、『北越軍記』では定行が定満に解明した、とされています。宇佐美氏は長尾氏と敵対しており、長尾氏に帰順した後も、宇佐美定満は冷遇されていたようで、『北越軍記』の軍師像とは大きく異なります。この軍師像を創出したのは、紀州藩に仕えた宇佐美定祐で、紀州藩には甲州流軍学を採用する幕府への対抗心があったのではないか、と本書は推測します。
黒田官兵衛は現代の日本人が思い浮かべる代表的な軍師の一人と言えるでしょう。本書は、同じく軍師と語られていても、山本勘助や宇佐美定満と異なる官兵衛の特徴として、補佐役や参謀としてのみならず、主君に恐れられる野心家とされている点を挙げます。実際の官兵衛は、羽柴秀吉による播磨攻略の現地案内役で、現地指揮官だった、と本書は指摘します。
太原雪斎(崇孚)は今川義元の軍師とさけていますが、義元に信任されて権勢をふるったことは確かなようで、この点で山本勘助や宇佐美定満や黒田官兵衛とは異なる、と本書は指摘します。今川家における太原崇孚の地位と権限は、今川義元の師であることと、内紛を経て、義元の家督継承に貢献したことですが、本書は、都で修業した禅僧として、都との人脈があったことを挙げています。
本多正信は一般的に、徳川家康の覇業を支えた謀臣と認識されています。実際の正信は、三河一向一揆の後に家康から一度離れて、その後で帰参しましたが、確認できる最初の功績は、本能寺の変の後の甲州武士の調略のようです。家康が羽柴秀吉と対峙した時には、正信は長宗我部家との交渉を担当しています。秀吉存命時の正信は行政官僚的立場にあったようで、正信の権勢が高まったのは、井伊直政や榊原康政や本多忠勝が相次いで没して以降になる、と本書は指摘します。
本書は、近現代日本の軍師像の形成における、参謀本部の大きな役割を指摘しています。参謀本部が設置され、参謀将校の養成機関として陸大が設立されましたが、陸大では実践的な戦術教育が重視され、将帥を育成する教育が不充分だったことを、本書は指摘します。陸大の戦術教育では戦史が重視され、参謀本部は『日本戦史』を刊行していき、姉川や長篠や関ヶ原や大坂の陣といった戦国時代~江戸時代初期の戦いが取り上げられ、作戦経過に終始した叙述となっていました。これは、日本陸軍の戦史研究が作戦研究の補助だったからです。『日本戦史』は市販され、歴史小説家の種本となります。第二次世界大戦で日本は敗れ、参謀の名声も低下したものの、クラウゼヴィッツ兵学の影響を受けた米国流経営学の流行によって、参謀の重要性が認識され、それが戦国時代の「軍師」への注目にもつながりました。
本書は、第二次世界大戦後の日本の大衆文化における軍師像も検証しています。本書で取り上げられている小説のうち、司馬遼太郎作品を20代半ば近くまでよく読んでいたので、懐かしさもありましたが、『新史太閤記』と『播磨灘物語』では黒田官兵衛像が異なっており、『播磨灘物語』では、官兵衛にまつわる著名な逸話を取り込もうとして、官兵衛の性格に矛盾が生じている、との指摘は興味深く、私の記憶が曖昧になってきたこともあるでしょうが、自分の読みの浅さを痛感しました。
本書は、竹中半兵衛と黒田官兵衛の近現代の歴史小説での描かれ方から、現代日本社会における軍師像について、自己表現に関心のある芸術家肌で上の立場には向かない無欲な変人と、上に立つ器量がある野心的な人物の二類型に区分しています。ただ、本多正信など他の軍師の事例からも、器量の点では主君の方が軍師を上回っている、との設定が多く、『三国志演義』の諸葛孔明型の軍師が少ないことを、本書は指摘します。
こうした歴史小説が下地となり、『歴史読本』や『歴史と旅』などの大衆歴史雑誌、『プレジデント』のようなビジネス誌によって、1970年代半ば以降に、現代日本社会における通俗的な軍師像が最終的に形成されていきます。本書はその社会的背景として、雇用が安定し、組織人としての心構えが求められるようになったことを挙げています。また本書は、日本で軍師および参謀論が好まれた理由として、日本型組織では上意下達ではなく下意上達であることを挙げています。本書は、現代日本社会において雇用の安定性が失われつつあることから、現在の軍師人気は長続きしないだろう、との見通しを提示しています。
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