ユーラシア東方内陸部の人口史

 中華人民共和国寧夏回族自治区(以下、寧夏と省略)で発見された人類遺骸のゲノムデータを報告した研究(Chang et al., 2026)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文の「年前」との年代表記は1950年が基準になっており、これは放射性炭素年代測定の基準年代が一般的には1950年とされているからだと思います。なお、当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本論文の「civilization」を「文明」と訳します。

 本論文は、寧夏で発見された後期新石器時代~ダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)期の人類遺骸のゲノム解析から、寧夏の新石器時代集団は、黄河流域新石器時代集団とアジア北東部古代人集団とチベット高原集団的な遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有しており、その後の政治的変動によって、寧夏の人類集団の遺伝的構成が変容していったことを示しています。西周~漢代にかけては黄河流域集団の移住が示唆され、北朝~隋唐期にはユーラシア西部的な祖先系統が顕著に増加し、これはシルクロード(絹の道)経由だった可能性が高そうです。西夏のタングート集団は、黄河上流の氐・羌人口集団との密接な遺伝的つながりを示しています。

 以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA))、PCA(principal component analysis、主成分分析)、READ(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定)、AR(Amur River、アムール川)、EPAS1(Endothelial PAS Domain Protein 1、内皮PASドメインタンパク質1)、HG(hunter gatherer、狩猟採集民)、k(kilo years ago、千年前)、C(cytosine、シトシン)、T(thymine、チミン)です。

 以下の時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、、BA(Bronze Age、青銅器時代)、EBA(Early Bronze Age、前期青銅器時代)、MBA(Middle Bronze Age、中期青銅器時代)、MLBA(Middle to Late Bronze Age、中期~後期青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)です。

 本論文で取り上げられる主要な文化と技術は、ルヴァロワ(Levallois)技術、斉家(Qijia)文化、菜園(Caiyuan)文化、常山下層(Lower Changshan)文化、BMAC(Bactrio Margian Archaeological Complex、バクトリア・マルギアナ考古学複合体)、シンタシュタ(Sintashta)文化です。本論文で取り上げられる主要な人類集団と勢力は、ANE(Ancestral North Eurasian、古代北ユーラシア人)、ANA(Ancient Northeast Asian、アジア北東部古代人)、氐・羌(Di-Qiang)、トゥプト(Tubo、吐蕃)、西戎(Xirong)、タングート(Dangxiang、党項)です。

 本論文で取り上げられる主要な中華人民共和国寧夏回族自治区の地域と遺跡は、以下の通りです。銀川(Yinchuan)市では、興慶府(Xingqing Prefecture)、楊郎(Yanglang)墓地、永寧(Yongning)県の閩寧(Minning)西夏期墓地、水洞溝(Shuidonggou)遺跡です。中衛(Zhongwei)市では、海原(Haiyuan)県の五台(Wutai)遺跡および石硯子(Shiyanzi)墓地と沙坡頭(Shapotou)区の常楽(Changle)墓地と宣和(Xuanhe)墓地、です。固原(Guyuan)市では、原州(Yuanzhou)区の九龍山(Jiulongshan)東周期墓地と南塬(Nanyuan)墓地と南塬水庵(Nanyuan Shuichang)墓地と楊家庄(Yangjia Zhuang)墓地と西関(Xiguan)墓地と開城(Kaicheng)墓地、隆徳(Longde)県の隆徳沙塘北塬(Longde Shatang Beiyuan)遺跡、南郊(Nanjiao)墓地、彭陽(Pengyang)県の姚河塬(Yaoheyuan)遺跡と王大戸(Wangdahu)東周期墓地と張街村(Zhangjie Cun)墓地と楊坪(Yangping)墓地と海子塬(Haiziyuan)墓地と劉河村(Liuhe Cun)墓地とメンギュアンシアン(Mengyuan Xiang)墓地と開城(Kaicheng)墓地です。呉忠(Wuzhong)市では、塩池(Yanchi)県の張家場(Zhangjiachang)墓地、隆徳沙塘北塬(Longde Shatang Beiyuan)遺跡です。漢代の郡は、北地(Beidi)と安定(Anding)です。

 本論文で取り上げられる中華人民共和国の寧夏回族自治区以外の主要な地域と遺跡は、陝西省神木(Shenmu)市の石峁(Shimao)遺跡、青海省の玉樹(Yushu)県と長安(Chang’an)です。本論文で取り上げられる中国以外の主要な地域と遺跡は、台湾の漢本(Hanben)遺跡、(現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では新疆ウイグル自治区とされている)東トルキスタンの小河(Xiaohe)墓地遺跡、チベット高原のガリ(Ngari)県とシガツェ(Shigatse)県と山南(Shannan)地域とナクチュ(Nagqu)県とチャムド(Chamdo)とゾングリ(Zongri)遺跡、ロシアのバイカル湖地域の同時代のシャマンカ(Shamanka)遺跡とマリタ(Mal'ta、略してMA)遺跡、トルクメニスタンのゴヌル・テペ(Gonur Tepe)遺跡、ルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡です。


●要約

 寧夏はユーラシア草原地帯とアジア東部との間の交差点に位置し、文化的交流とヒトの移動の重要な回廊でしたが、その遺伝的歴史は依然として充分には分かっていません。この研究では、4245~301年前頃の寧夏の23ヶ所の考古学的遺跡から発見された、89個体が配列決定されました。その調査結果から、寧夏の新石器時代住民は黄河と古代アジア北東部とチベット高原に由来する祖先構成要素を有していた、と示されます。経時的に、この地域は歴史的移住および政治的変化と関連する、大きな遺伝的変化を経ました。西周および漢代(3000~1700年前頃)には、中原諸政権の拡大が黄河人口集団の寧夏への移動を促進し、明清期(582~301年前)に至るまでの寧夏の遺伝的構造に影響を及ぼしました。東周の北方青銅器複合体(2700~2000年前頃)と関連する個体群は、ユーラシア草原地帯人口集団と黄河人口集団との間の混合を示します。北朝および隋唐期(1600~1000年前頃)には、ユーラシア西部祖先系統が顕著に増加し、これは絹の道の移動を反映している可能性が高そうです。西夏のタングート集団は、黄河上流の氐・羌人口集団との密接な遺伝的つながりを示しています。後期新石器時代~清王朝(4200~301年前頃)の寧夏の遺伝的歴史の再構築は、歴史的過程によって形成された複雑な遺伝的動態を明らかにしています。


●研究史

 ユーラシア全域の人口集団間の相互作用と文化的交流は、この地域の文明的景観の形成に重要でした[1、2]。最近の考古ゲノム研究では、古代ローマ[3]やコーカサス[4、5]や東トルキスタン[6]や河西回廊[7]など交差点地域は、地理的に異なる生態学的および文化的単位をつなぎ、ヒトの移動と混合の坩堝として機能した、と明らかにされてきました。これらの地域の遺伝的歴史は、動的で複雑な状況を示しており、人口集団の統合もしくは置換の複数の波と多様な起源によって特徴づけられています。さらに、混合のそうした過程は特定の移住経路と関連していたか、性別の偏ったパターンを示したかもしれません[7]。

 寧夏は中国の内陸北西部に位置し、ユーラシア草原地帯と中原や、チベット高原とモンゴル高原の収束点にあります。歴史を通じて、寧夏は東西間の文化的および人口の相互作用の重要な回廊として機能してきました[9]。その独特な地理的位置のため、寧夏はユーラシアの文明の枠組みにおける交差点の一つとなりました。寧夏が歴史時代にヒトの移動のより広範な波に、どのように対応し、統合されたのかについては、遺伝学的証拠を用いたさらなる調査が必要な課題です。

 ユーラシアにおける重要な東西のつながりとしての寧夏の重要性は、旧石器時代後期の水洞溝文化(46000~10000年前頃)までさかのぼることができます。水洞溝遺跡で発掘された石器はルヴァロワ技術の特徴を示しており、これは同時代のユーラシア全域(たとえば、モンゴルやシベリアやさらに西方の地域)でも観察できます。これは、早くも数万年前となる、地域横断の人口移動もしくは文化的交流を示唆しています。後期新石器時代までに、4800年前頃に出現した、局所的に発展した菜園文化(寧夏在来の新石器時代文化で、定住農耕によって特徴づけられます)と、その影響下で発展したその後の斉家文化(新石器時代と青銅器時代の間の中国北西部の移行期文化で、4200~3400年前頃となり、彩陶と初期の銅の冶金で有名です)が、地域的な文化の統合と発展をさらに論証しています。

 周王朝(中国の中原を起源とする初期王朝【周を中原起源とするのは適切ではないようにも思いますが】である、2996~2721年前の西周と、2720~2206年前の東周です)期における寧夏の歴史的軌跡は、ユーラシアの東西の文明間の相互作用の状況内で展開しました。西周初期には、寧夏の姚河塬遺跡の発見は、封建制によって促進された、政治的実態の形での中原農耕文明の最初の強力な北西への拡大を表しています。しかし、西周の中期~後期以降、気候変化の背景で、ユーラシア草原地帯全域での遊牧民集団の拡大が、草原地帯およびその周辺の人々の農耕地帯への到来につながりました。寧夏は遊牧と定住農耕が収束する交差点に位置していました。考古学者によって発掘された東周王朝の埋葬には、ウマやウシやヒツジの頭および蹄が墓の供物として含まれており、これはアジア北部における遊牧民の埋葬伝統の独特な特徴です。この慣行は、モンゴル高原の北部および西部や天山山脈のイリ川流域などの地域全体で見られます。動物模様の銘板や帯飾りや鶴嘴などの副葬品が伴っていることも、強い草原地帯の文化的特徴を示しており、これは北方青銅器複合体と呼ばれています。東周期には、姚河塬遺跡の衰退と北方青銅器複合体の出現が、農耕の辺境地点から、草原地帯の文化体系内へと統合されてユーラシア内陸部をつなぐ、交流の拠点への変容を反映しています。

 漢王朝期(2152~1730年前)には、中原王朝は北西へと強力な支配を及ぼし、寧夏に郡や県が設置されました。河西回廊地域に関する以前の考古ゲノム研究から、辺境への漢代の移住政策が祖先的構成要素の変化につながった、と明らかになりました[7、25]。一方で、ユーラシアの交易と旅の経路、つまり絹の道が次第に栄えて、寧夏はその東部沿いの重要な拠点へと変容しました。それにも関わらず、中原からの農耕人口集団の大規模な流入と交易路沿いの人々の移動によって形成された遺伝的景観は、依然として解明されていません。

 北朝および隋唐期(1564~1043年前)には、「史(Shi)」姓の家系と関連する墓地遺跡によって例証されるように、寧夏南部におけるソグド人の共同体の存在が、アジア中央部のアムダリヤ川およびシルダリヤ川流域のこの交易に特化した民族集団が、ユーラシアの交易および旅の経路沿いに東方へと移動し、移民集落を築いた、との直接的証拠を提供します。これら持続的な東西の人口移動は、寧夏と中国のより広範な北西部地域の文化的景観および遺伝的構造を再編したかもしれません[32]。

 912年前に、黄河上流域で活動していた少数民族【という用語が適切なのか、疑問は残りますが】であるタングート人によって樹立された西夏王朝が、興慶府(現在の銀川市)を都として、約2世紀にわたって寧夏地域を統治しました。タングートはその形成期および発展期に、漢やトゥプトや鮮卑や他の集団からさまざまな文化要素を取り込みました。タングート人の民族的起源については、その起源が鮮卑もしくは羌にさかのぼる、との既存の仮説を裏づける、歴史的記録もしくはゲノム研究における明確な証拠はありません。

 寧夏における各時代は、重要な人口統計学的事象と関連しているかもしれません。この研究では、寧夏全域の23ヶ所の考古学的遺跡を網羅する、古代人89個体からゲノム規模データが生成されて分析され、標本の年代範囲は後期新石器時代~明清期です。本論文の目的は以下の二つの問題への解答で、それは、(1)寧夏における初期人口集団の遺伝的特性、(2)寧夏の人々の遺伝子プールへの力士文化的および人口拡大の影響です。


●標本と古代DNA生成

 寧夏地域の89点の古代人標本は以下の通りで、後期新石器時代~銅器時代の移行期(菜園文化から3個体、斉家文化から4個体)、青銅器時代~鉄器時代(西周から6個体、東周から11個体)、漢王朝(27個体)、北朝~隋唐期(25個体)、西夏(2個体)、その後の歴史時代(990~674年前の宋が1個体、679~582年前の元が3個体、582~38年前の明清が7個体)です。124万パネルを用いて、この研究の標本で得られたのは、平均で542936ヶ所のSNPです。本論文はまず、124万パネルで4万ヶ所以上の対象SNPと、ミトコンドリアに基づく手法とX染色体に基づく手法によって決定された現代人の汚染水準が3%未満の標本を検証しました。5点の標本は不充分なSNP網羅率(対象のSNPが4万ヶ所未満)のため除外され、9点の標本は汚染の可能性が特定されました。これらの汚染された標本については、古代DNAの損傷に典型的な特徴を示す断片のみに分析が限定されました。この追加の処理後に、1点の制限された標本が汚染の閾値を満たし、さらなる分析に含められました。

 76個体から高品質な遺伝的データの取得に成功しました。遺伝的親族関係を評価するために、READとTKGWV2とlcMLkinの3通りの手法が採用され、少なくとも1通りの手法によって検出された、2親等以上の関係の10組の個体が見つかりました。親族関係にある個体の選別後に、親族関係にない69個体の高品質な古代ゲノムが保持されました(図1)。このデータセットは、寧夏地域の古代人のゲノムの収集物を表しています。放射性炭素年代測定および文化的帰属に基づいて、標本は以下の5点の下位データセットに分類され、それは、新石器時代、周王朝、漢王朝、北朝および隋唐、隋唐後の王朝です。以下は本論文の図1です。
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 本論文はまずPCAで分析を始めて、さまざまな期間の寧夏地域における人口集団の全体的なゲノム構造を調べました(図2)。第1主成分(PC1)は東西の人口集団を明確に区別しました。PC1沿いの東方クラスタ(まとまり)内では、第2主成分はアジア東部の南北の人口集団をさらに分離しました。寧夏人口集団の主要な遺伝的構造は、PC1沿いのPCA図の右側の位置によって示唆されるように、ユーラシア東部の特徴を示しました(図2)。東方の異なる2人口集団、つまり黄河農耕民関連集団とANA関連集団は、新石器時代以降にこの地域で共存しており、PCA図のPC2構成要素沿いに分化していました(図2A)。さらに、漢王朝期には、1個体(I42418)がPC1沿いの東方クラスタから逸れており(図2C)、ユーラシア西部人の遺伝的類似性の増加を示しています。これはこの期間における非在来祖先系統の統合の可能性を示しており、北朝および隋唐王朝期にさらに強化される傾向です(図2D)。これらの観察は、教師無ADMIXTURE分析によって裏づけられました。寧夏人口集団の遺伝的構造はおもに4祖先構成要素から成り、それは、濃緑色の黄河農耕民関連、黄緑色のアジア東部北方関連、濃青色のANA関連、桃色のユーラシア西部関連です。寧夏人口集団の異なる期間は、これらの構成要素のさまざまな組み合わせと割合を示しました。異なる期間の人口集団がPCA図で異なる位置を占めているPCAの結果(図2)とともに、この証拠から、寧夏人口集団は経時的に大きく分化しており、周辺人口集団からの人口統計学的影響によって形成された中国北西部の動的な遺伝的歴史を反映している、と示唆されます。以下は本論文の図2です。
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 このパターンを定量的観点でより効率的に分析するために、循環に基づくqpWave分析が採用され、人口集団が異なる44集団に分類されました。さらに、より広範な研究者にとって読みやすくなるように、重要な用語と略語と民族集団が補足データ1Gに含められました。


●新石器時代寧夏への黄河農耕民とANAとチベット高原人口集団の遺伝的影響

 本論文では、菜園文化と斉家文化を表している、中国北西部の2ヶ所の考古学的遺跡から発見された5個体の古代ゲノムが調べられました。これらのゲノムを古代ユーラシア人口集団の以前に刊行されたデータと比較することによって、寧夏の新石器時代人口集団の遺伝的構造はおもにユーラシア東部的特徴を示す、と分かりました(図2A)。この特徴をさらに解明するために、黄河およびANAおよびアジア南東部の人口集団と関連する勾配を取り込んだ、三角形の分布パターンを特徴とする、追加のPCAが実行されました。この分析は、同じ斉家文化遺跡内の2ヶ所の遺跡間と個体間の有意な遺伝的差異を明らかにしました。

 五台_菜園個体は異なる遺伝的構造を示しました。五台_菜園はPCA図では黄河関連勾配とANA関連勾配の間に位置し、ADMIXTURE図では濃緑色と濃青色の両方を示しました。五台_菜園は祖先系統の大半(約80%)がANA人口集団に由来する、とモデル化でき、チベット高原人口集団からの追加の寄与(約20%)があります。注目すべきことに、五台_菜園はチベット高原固有の適応的なEPAS1ハプロタイプも有しており、このハプロタイプはチベット高原の適応と関連しています[38]。これは、黄河流域の後期新石器時代個体群における適応的なEPAS1の最初の報告事例を表しています。本論文の調査結果はqpAdmモデルを裏づけ、過剰適合によるものではなく、チベット高原人口集団には、低地に帰還し、在来人口集団と混合する歴史があったことを示唆しています。

 斉家文化と関連する沙塘北塬遺跡では、二つの異なる遺伝的構造が特定されました(図2A)。一方の集団(沙塘北塬_斉家)は3個体から構成され、黄河農耕民の遺伝的勾配沿いにクラスタ化し(まとまり)、ADMIXTURE図では黄河農耕民と関連する濃緑色を示しました。もう一方の集団(沙塘北塬_斉家_2)は単一個体から構成され、PCAおよびADMIXTURE図ではANA人口集団と最も密接に関連していました。定量的なクラスタに基づくf₃分析とf₄形式(ムブティ人、参照;沙塘北塬_斉家_2、中国_黄河_MN)のf₄分析とqpAdmにわる祖先系統割合の推定値は、これらの定性的結果を裏づけます。沙塘北塬_斉家集団が黄河農耕民から逸れていた一方で、沙塘北塬_斉家_2の1個体はANA人口集団から逸れていました。これらの調査結果から、ANA人口集団は少なくとも4000年前頃までに黄河流域へと南方に拡大し、在来の黄河農耕民と混合した、と示唆され、これは、黄河農耕民とANA人口集団との間で以前に観察された混合パターン(中国_石峁_LNと中国_黄河上流_LN)を説明できるかもしれません[39]。

 まとめると、人口集団の交流の重要な交差点として、中原とモンゴル高原とチベット高原の人口集団は新石器時代に寧夏地域へと広がりました。その相互作用はまとめて、寧夏における新石器時代人口集団の遺伝子プールに寄与しました。


●周王朝期における黄河_LN関連祖先系統の出現とANE関連祖先系統の流入

 周王朝期に、寧夏地域は草原地帯人口集団と中原人口集団の両方からの文化的影響を受け、北西部の辺境に沿った人口統計学的移動における寧夏の役割についても不確実性が生じました。これを調べるために、西周王朝期の姚河塬遺跡の古代人4個体のゲノムと、東周王朝の他の考古学的遺跡の古代人9個体のゲノムが分析されました。

 分析の結果、姚河塬_西周集団は黄河農耕民と関連する遺伝的勾配を占めている、と明らかになりました。しかし、姚河塬_西周集団は、PCA図で見られるように、中期新石器時代黄河農耕民(中国_黄河_MN)もしくは在来の後期新石器時代人口集団とではなく、中期新石器時代後の黄河中流域農耕民(中国_黄河_LN、中国_黄河_LBIA)とまとまりました(図2B)。ADMIXTURE分析では、姚河塬_西周は中国_黄河_LNおよび中国_黄河_LBIAと類似する遺伝的特性を示し、注目すべきことに、中国_黄河_MNには存在しなかった、アジア東部南方人と関連する追加の黄緑色の構成要素を特徴としています。これはf₄分析(ムブティ人、台湾_漢本_IA;沙塘北塬_斉家、中国_黄河_MN)における有意な負のZ値(Z < − 3)によって、さらに裏づけられました。これらの調査結果から、姚河塬遺跡の支配層個体の祖先系統は中国_黄河_LNに直接的に由来するか、中国_黄河_MNとアジア東部南方祖先構成要素(中国_黄河_LNの遺伝的構成と類似する約10%)のいずれかだった、と示唆されます(図3)。これが示唆しているのは、姚河塬遺跡の好意埋葬区域の支配層人口は後期新石器時代黄河農耕民の移動と関連しており、それは周王朝の拡大および北西辺境地域への支配に顕著な役割を果たしたことです。以下は本論文の図3です。
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 西周から東周へと移行する頃、中央の行政権の衰退はこの地域への新たな遺伝的祖先系統の流入と一致しました。東周の4ヶ所の考古学的遺跡の人口集団は、PCA図(図2B)とクラスタに基づくf₃分析ではANA人口集団と密接にクラスタ化しました(まとまりました)。しかし、赤色の構成要素で表されるANE祖先系統と関連する独特な遺伝的構成用がADMIXTURE分析で現れます。この観察は、f₄分析(ムブティ人、東トルキスタン_小河_BA;東周寧夏集団、沙塘北塬_斉家_2)における負のZ値によってさらに裏づけられ、その範囲は−0.71~−3.96で,平均は−2.39です。このANE関連祖先系統構成要素は、そのゲノムの約4%に寄与した、と推定されました。

 本論文は、東周期人口集団へのANE関連祖先系統の流入を説明する、以下の2通りの仮説を提示し、それは、(1)ANE関連人口集団が直接的に寧夏地域へと拡大し、在来人口集団と混合した、とする直接的仮説と、(2)ANE関連の遺伝的影響がすでに混合した人口集団を通じて間接的にもたらされ、その人口集団が後に寧夏地域へと拡大し、在来集団と混合した、との媒介拡大仮説です。

 両方の仮説を検証するために、循環に基づくqpAdmモデル化が採用されて、祖先系統の競合する供給源が評価され、それは、(1)ANE人口集団からの直接的寄与と、(2)ANEとANA両方の祖先系統を有するすでに混合した人口集団からの間接的寄与です。ロシア_シャマンカ_EBAをすでに混合した人口集団の代理として用いると[40]、供給源の一つとしてすでに混合した人口集団を組み込むモデルは、直接的なANE祖先系統に依拠するモデルと比較して、ほとんどの東周期寧夏人口集団により優れた適合を提供した、と分かりました。これらの人口集団は3方向混合を用いて最適にモデル化され、中原の黄河およびANAおよびすでにANEとANAの両祖先系統と混合した人口集団からの、さまざまな祖先系統の割合を反映しています。具体的には、その遺伝的構成は10.4~25%の中国_黄河_MN関連祖先系統、62.8~73.4%のAR_EN関連祖先系統、12.1~18.3%のロシア_シャマンカ_EBA関連祖先系統で構成されています。

 qpAdmモデルの優れた適合に基づいて、東周期寧夏へのANE関連祖先系統の導入についての妥当な状況として、媒介拡大仮説が提示されます。しかし、循環に基づくqpAdmの枠組みのみでは、ANE祖先系統の直接的な寄与と、すでに混合した集団を媒介しての間接的寄与とを区別する、決定的な証拠を提供できない、と本論文は認識しています。より確信をもって言えるのは、ANE関連祖先系統によって表される新たな遺伝子流動が、これら東周期人口集団に入ったことです。周辺地域の刊行されている古代ゲノムデータを考慮すると、新石器時代から青銅器時代までの北方の人口集団はANE関連祖先系統の水準増加を示しています。したがって、寧夏で観察されたANE祖先系統はおそらく、青銅器時代~鉄器時代の移行期に南方へと拡大下これら北方人口集団によって媒介されました。この解釈は、決定的な結論もしくは証明された機序としてではなく、地域的な古代DNA研究によって部分的に裏づけられ、本論文のqpAdmモデル化と一致する、妥当な想定とみなされるべきことを、本論文は強調します。

 まとめると、本論文の調査結果は、周王朝期における寧夏への人口移動の異なる二つの波を明らかにしています。それは周政権の興亡の歴史的背景において、北西部辺境の遺伝子プールにおける動的な変化を反映しています。


●漢王朝期における草原地帯牧畜民およびBMAC関連祖先系統の出現と黄河_LN関連祖先系統の増加

 漢王朝の辺境統治政策下における人口集団の遺伝的組成を調べるために、9ヶ所の考古学的遺跡から収集された漢王朝の古代人22個体のゲノムが分析され、その遺伝的構造が調べられて、在来人口集団の以前に存在した遺伝的組成と比較されました。

 楊家庄_漢_2を除いて、寧夏地域の漢代の全個体はPCA図では密接にまとまっており、姚河塬_西周や中国_黄河_LNや中国_黄河_LBIAと類似した遺伝的組成を占めています(図2C)。これは、これらの集団間の共有された遺伝的類似性を示唆しています。ADMIXTURE分析はこれをさらに裏づけており、これらの人口集団における濃緑色と黄緑色の構成要素のより高い割合を明らかにしています。さらに、クラスタに基づく外群f₃分析およびf₄分析(ムブティ人、参照;漢代寧夏集団、中国_黄河_MN)はその密接な遺伝的関係を定量的に確証しており、共通の祖先系統および中国_黄河_MNと比較してのアジア東部南方人口集団との追加の類似性が浮き彫りになっています。さらに、これらの人口集団はその祖先系統の大半が中国_黄河_MN関連集団に由来する、とモデル化でき(74.1~100%、平均で95.2%)、アジア東部南方人口集団(平均9.7%)とANA人口集団(平均11.2%)からのわずかな寄与があります。これは、この期間における中原から中国北西部への人口移動のより広範なパターンを示唆しています。

 対照的に、楊家庄_漢_2はPCA図では東西の勾配の中間に位置し(図2C)、ADMIXTURE分析では、ANA人口集団およびユーラシア西部人と関連する追加の遺伝的構成要素を示しました。定量的なクラスタに基づく外群f₃分析およびf₄分析では、楊家庄_漢_2の遺伝的類似性はアジア東部系統とは異なっていた、と論証されました。この個体【楊家庄_漢_2】は4方向混合としてモデル化でき、42.1%の中国_黄河_LN関連祖先系統、32.1%のANA関連祖先系統、19.8%の草原地帯_MLBA関連祖先系統、7%のBMAC関連祖先系統で構成されています。考古学的証拠では、楊家庄埋葬遺跡から発掘された土器には遊牧民の影響の痕跡がある、と示唆されています。具体的には、楊家庄_漢_2について、草原地帯関連祖先系統の有意な女性に偏った寄与が見つかりました。同様の性別の偏りは、河西回廊やキタイ(契丹)やモンゴル帝国で観察されました。ユーラシアの交易および旅の経路は、漢人男性と非漢人女性との間の通婚を促進したかもしれません。

 楊家庄_漢_2の混合年代を推定するために、単一個体における混合事象を年代測定するよう設計された手法である、DATESが適用されました。分析の結果、楊家庄_漢_2への草原地帯_MLBA関連およびBMAC関連祖先系統の流入は同じ頃に起き、楊家庄_漢_2の死のそれぞれ約14世代前と12世代前だった、と明らかになりました。これは、この2構成要素【草原地帯_MLBA関連とBMAC関連】が、別々の混合事象を通じてではなく、すでに混合していた人口集団によったもたらされたことを示唆しています。1世代28年と仮定すると、この混合は400年間以内に起きた可能性が高そうです。楊家庄_漢_2の放射性炭素年代測定の範囲は、2107~1942年前です。これらの結果から、中国北西部への草原地帯牧畜民およびBMAC関連祖先系統の流入は漢王朝(2152~1730年前)の前に起きたかもしれない、と示唆されます。


●北朝および隋唐王朝における草原地帯牧畜民およびBMAC関連祖先系統の増加

 本論文では、ユーラシアの交易および旅の経路が最も栄えた期間を表している、北朝および隋唐王朝【北朝~唐代よりもモンゴル帝国の頃の方が、ユーラシアの交易路は栄えていたのではないか、とも思いますが】の7ヶ所の考古学的遺跡の古代人18個体のゲノムが提示されます。

 PCAおよびADMIXTURE分析によって論証されているように、分析の結果、この期間のほとんどの個体はユーラシア西部人口集団と強い遺伝的類似性を示した、と明らかになりました(図2D)。注目すべきことに、2個体(H81507とH91502)はユーラシア西部集団と密接にクラスタ化し(まとまり)、その遺伝的構成要素の80%以上はユーラシア西部祖先系統に由来します(図2D)。これは、この2個体が隋唐王朝期に寧夏へと到来したユーラシア西部人口集団そのものを表しているかもしれない、と示唆しています。定量的に、クラスタに基づく外群f₃分析およびf₄分析が実行され、隋唐王朝期の寧夏人口集団の全体的な遺伝的類似性が、他の王朝および刊行されているユーラシア人口集団と比較されました。その結果、少なくとも8集団(九龍山_隋唐_1、九龍山_隋唐_2、九龍山_隋唐_3、南塬_隋唐、南塬_隋唐_2、南塬_隋唐_3、南塬_隋唐_4、南塬_隋唐_5)が、典型的なアジア東部の遺伝的パターンから有意に逸れた遺伝的特性を示した、と分かりました。これらの集団は、f₄分析(ムブティ人、ロシア_MLBA_シンタシュタ/ルクセンブルク_ロシュブール/トルクメニスタン_ゴヌル_BA_1;寧夏隋唐期8集団、中国_黄河_MN)における有意に負のZ値(Z < − 3)によって証明されているように、西方人口集団との強い遺伝的類似性を示しました。これら8人口集団のうち3人口集団、つまり九龍山_隋唐_1と九龍山_隋唐_2と南塬_隋唐_5は黄河関連祖先系統なしでモデル化できました。他の5人口集団は、13.4~60.6%とさまざまな程度の中国_黄河_LNの祖先系統を、ANAや草原地帯_MLBAやBMACの追加の祖先系統構成要素とともに示しました。さらに、九龍山_隋唐_2の1個体(H81506)は、ヨーロッパ祖先系統の人々で一般的な乳糖耐性(rs182549における遺伝子型がCT)を示しました。

 南塬遺跡では、個体間で異なる遺伝的パターンが観察されました。南塬_隋唐_1の祖先系統は直接的に中国_黄河_LNに由来しますが、南塬_隋唐_5は黄河農耕民の検出可能な祖先系統を示さず、13.9%のANA関連祖先系統と40.4%の草原地帯_MLBA関連祖先系統と45.7%のBMAC関連祖先系統の混合としてモデル化できます。集団2~4が黄河農耕民とユーラシア西部人口集団との間のさまざまな割合の混合を示したのに対して、塬_隋唐_2と塬_隋唐_4は侵入してきたユーラシア西部由来の男性と在来の黄河由来の女性の混合パターンを示しました。こうした混合事象は、個体の死の4~14世代前に起きた、と推定されます。これらの調査結果は、東西の人口集団間の共存と活発な相互作用の期間を示しており、この混合は以前の漢王朝人口集団から継承されたのではなく、比較的近い過去に起きた可能性が高いことを示唆しています。このパターンは、他の同時代の遺跡の混合推定値によってさらに裏づけられ、そうした遺跡では、個体の混合事象は平均して死の約10世代前に起きました。

 まとめると、寧夏の北朝および隋唐王朝の7ヶ所の考古学的遺跡の14集団では、12集団が草原地帯_MLBAもしくはBMAC関連人口集団からの追加の祖先系統構成要素を示しました。祖先系統が完全に中国_黄河_LNに由来するのは2集団のみでした。これらの調査結果は、ユーラシアの交易および旅の経路がじっさいに東西の人口集団間の人口移動と遺伝的混合のより広範なパターンを促進した、との直接的なDNA証拠を提供します。


●隋唐王朝後の寧夏における遺伝的多様性と祖先系統の動態

 漢人集団と寧夏の隋唐王朝期人口集団の分析は、顕著な人口移動性および中国北西部全域にわたる東西の集団間の遺伝的相互作用を浮き彫りにしています。しかし、以前に確立した祖先系統が存続したのかどうか、あるいは、とくにこの期間における寧夏地域の統治の変動を考えると、新たな遺伝的流入が隋唐期の後に起きたのかどうかは、依然として不明です。

 この問題に取り組むために、隋唐王朝後の7ヶ所の考古学的遺跡の古代人10個体のゲノムが調べられました。これらの個体は多様な遺伝的構造を示し、PCA図では異なる位置を占めていました。典型的なアジア東部の遺伝的パターンから顕著に逸れていたほとんどの隋唐王朝人口集団とは異なり、隋唐王朝後の人口集団の遺伝的類似性は、黄河農耕民祖先系統に豊富な以前に特定された集団と密接にまとまりました。これは外群f₃分析によって裏づけられ、隋唐王朝後の寧夏人口集団の主要な祖先系統構成要素は黄河農耕民に由来していた、と示唆されます。しかし、これらの人口集団はその祖先系統が黄河農耕民のみに由来していたわけではなく、チベット高原やANAや草原地帯関連の人口集団との遺伝的類似性も示しました。これは、クラスタに基づくf₄形式(ムブティ人、参照;隋唐後寧夏集団、中国_黄河_MN)のf₄分析によって裏づけられ、9人口集団のうち7人口集団が別のアジア東部関連集団を形成しました。遺伝的組成推定から、これらの全人口集団は黄河関連祖先系統を含んでおり、主要な祖先系統は中国_黄河_LNだった、と示されました。中国_黄河_LN関連祖先系統の割合の範囲は50.6~100%で、平均で79.5%となり(図3)、クラスタに基づくf検定と一致します。

 これら寧夏人口集団で、中国_黄河_LN関連祖先系統に加えて、追加の5祖先系統構成要素が特定され、それは、ANA関連(12.2~26.2%、平均19.0%)、草原地帯関連(2.7~14.6%、平均7.6%)、アジア東部南方関連(14.6%)、チベット高原人口集団関連(49.4%)、ANE関連(7.3%)の祖先系統です。東西の人口集団間で漢代から隋唐代において観察された混合と比較すると、これらその後の期間の人口集団の混合年代は、少なくとも40世代前に起きた、と推定されました。これは、草原地帯関連祖先系統構成要素が近い過去の混合でもたらされたのではなく、むしろ、これら隋唐後の寧夏人口集団のゲノムにすでに存在していた遺伝的遺産を表している、と示唆しています。

 興味深いことに、寧夏地域の西夏期では、その遺伝的構成は、50.6%の中国_黄河_LN関連祖先系統と49.4%のチベット高原人口集団関連祖先系統から構成されています(図3)。チベット高原関連祖先系統がじっさいに、用いられた特定のチベット高原の代理に関係なく、この個体に存在するのかどうか、検証するために、供給源パネルが拡張され、さまざまな下位地域の古代チベット高原人口集団が含められ(人口集団と地域の代表は先行研究[38]に従います)、それは、北東を表しているゾングリ5.1kと玉樹2.8kに加えて、ガリ2.3k(西方)、シガツェ2.6k(南西)、山南3k、ナクチュ2.7k(中央)、チャムド2.8k_1(南西)です。これらの検定で、全てのチベット高原供給源の位置の最適なモデルにはチベット高原関連構成要素が必要で、チベット高原祖先系統はこの個体に一貫して寄与していたことが示唆されます。しかし、一部の古代チベット高原人口集団(玉樹2.8kとゾングリ5.1kを除きます)は、最適な遺伝的モデル化に追加のANA構成要素を必要としました。これは恐らく、玉樹2.8kとゾングリ5.1kがすでにある程度のANA関連祖先系統を有していたからです[7]。したがって、チベット高原祖先系統の兆候はこの個体では堅牢で、追加のANAの寄与の証拠はさまざまなチベット高原供給源では一致しませんでした。一つの妥当な説明は、チベット高原北東部の地理的位置がANA人口集団との相互作用に機会を提供した、というものです。そのため、この個体の遺伝的起源は、これらのすでに混合していたチベット高原北東部人口集団と黄河地域の人口集団の相互作用を通じて形成されたかもしれません。

 この独特な遺伝的組成は西夏期のみに現れ、その後は消滅しました。このパターンは少数集団であるタングートと関連しており、タングートは中原の支配者に取って代わり、西夏国(912~723年前)を寧夏に建て、タングート部族の起源を解明する継続中の試みに寄与するかもしれません。

 したがって、新石器時代から明清王朝までの近隣人口集団からの複数の影響、とくに、隋唐期における在来人口集団への西方人口集団の影響にも関わらず、これら寧夏人口集団の主要な遺伝的構成要素は依然として黄河農耕民と密接に関連していた、と分かりました。


●考察

 本論文では、中国の寧夏地域の古代人89個体のゲノムが分析されました。歴史時代全体のゲノムデータの調査によって、寧夏の人口史は直線的な軌跡をたどったのではなく、多様な起源の人口集団との混合の連続した波によって形成された重層的な歴史として展開した、と明らかになります(図4)。以下は本論文の図4です。
画像

 新石器時代には、寧夏の初期人口集団の遺伝的特性は3系統の祖先供給源によって形成されており、それはチベット高原人口集団(ゾングリ5.1k)とANAと黄河_MN人口集団です。遺伝学的には、寧夏の初期人口集団は黄河中流~上流域の新石器時代人口集団(6231~4860年前頃)と高い遺伝的均質性を示しました。[41]この遺伝的連続性は、遺伝子と地理と文化によって共に形成された包括的現象を表しています。黄河およびその近隣地域沿いの中期新石器時代人口集団の遺伝的構造の知見から、黄河_MN祖先系統は、考古学的文化の拡大と雑穀農耕の出現という二重の要因下で外部へと大きく広がった、と示唆されています。この拡大は、黄河流域のさまざまな地域にまたがって、異なる遺伝的下部構造を形成しました[41]。こうした背景で、寧夏地域の菜園文化は出現し、その後で斉家文化の文化的本質に影響を及ぼしました。斉家文化は、中国北西部における新石器時代から青銅器時代への意向を示す、きわめて重要な考古学的文化です。本論文の調査結果は、先史時代の中国北部における人口集団の相互作用と文化拡散と文明の軌跡の理解に、重要な生物学的証拠を提供します。

 寧夏の姚河塬遺跡から発掘された高位の西周期の墓の個体群は、黄河流域の人口集団と顕著な遺伝的類似性を示します。西周の封建制と姚河塬遺跡の軍事的前哨地としての背景を考えると、支配層の遺伝的特性は、寧夏地域へのユーラシア東部人口集団との密接なつながりを有する、新たな政治的に組織された集団の流入を反映しています。この人口移動の遺伝的影響が依然として限られていたのかどうか、族内婚慣行もしくは婚姻戦略が支配層に存在した血統の帰属意識の維持を目的としていたのかどうか、遺伝的背景に基づいて社会的階層化が出現していたのかどうかは、追加の考古遺伝学的データによってさらなる体系的調査が待たれる問題です。

 東周期の寧夏地域における北方青銅器複合体と関連する人口集団の遺伝的特性は、ANAと黄河_MNとANEの3祖先構成要素の混合を示しています。注目すべきことに、寧夏への到来前にANAとANEの構成要素がすでに混合していたことは、ユーラシア東端の初期牧畜文化の拡散およびその地方化の過程の背後にある、動的な機序に知見を提供します。寧夏における東周期人口集団のゲノムはおもに2回の重要な混合事象を反映しており、最初に、ANAとANEの構成要素が混合した北方草原地帯で起き、次に、寧夏地域で局所的に起きて、南方の農耕人口集団との最終的な遺伝的統合につながりました。これは、気候変化の背景と、在来集団との深い統合において、寧夏をユーラシア草原地帯牧畜民の南方への移動の重要な地帯に位置づけます。これら南方に移動した草原地帯人口集団は、黄河関連祖先系統を有する在来集団との協力や交易や争いや通婚に関わった可能性が高く、それらがまとまり、「西戎」として中原の文献伝承で参照される複雑な歴史的実態が形成されました。

 漢の辺境防衛体系は帝国支配の重要な軍事的保障として機能し、寧夏地域は北地郡および安定郡として知られる行政管区に次々と組み込まれました。漢の国境沿いに実行された駐屯地および開墾政策は、寧夏への中原祖先系統の第二次の大規模な流入を促進し、局所的な遺伝的構造における中原構成要素の割合が顕著に増加しました。国家権力によって形成された社会政治的背景において、個体水準で東西の系統間の遺伝的混合の事例が観察されました。注目すべきことに、河西回廊の同時代の個体群でも発見された遺伝的混合パターン[7、25]である、漢代個体群における草原地帯およびアジア中央部関連祖先系統と関連した女性に偏った遺伝的寄与の検出から、ユーラシアの交易および旅の経路はヒトの移動と生物学的混合の両方にとっての回廊として機能した、と論証されます。

 隋唐期には、寧夏人口集団の遺伝的構造はユーラシアにまたがる前例のない水準を示しており、ほとんどの個体はユーラシア西部の人口集団との強い遺伝的類似性を示しています。とくに注目すべきパターンは、ユーラシア西部祖先系統の男性と在来の黄河流域祖先系統の女性との間の遺伝的混合です。これは、男性優位の商業や軍事や職人の集団が寧夏で長期にわたる共同体を築き、地元の女性と通婚した、という社会的慣習に対応している可能性が高そうです。このパターンは、ユーラシア交易路沿いの、ソグド人などアジア中央部の移民集団の定住を述べている歴史的記録と一致します。隋唐期には、寧夏は北西辺境の要塞として機能していただけではなく、長安を西方地域と結びつける交通と商業の重要な拠点にもなりました。

 西夏期の1個体(閩寧_西夏_G122115)の独特な遺伝的組成は、チベット高原と黄河_MNとの間の混合によって特徴づけられ、タングート人の「羌人起源」との学説と一致します。西夏期のタングート人の1個体における古代の局所的に由来する「ゾングリ的」祖先系統の検出が重要なのは、それが青海・甘粛・寧夏地域におけるこの構成要素の深い局所的起源と長期の連続性を論証しているからです。しかし、タングート人の起源へのより深い調査には、将来の追加の標本データに基づくさらなる研究が必要です。元王朝下の統一後、寧夏の遺伝子プールはその後の歴史時代において、アジア東部祖先系統が優占する安定した遺伝的特性へと戻りましたが、それ以前のユーラシアの相互作用の痕跡が保持されています。数千年にわたる寧夏地域における遺伝的動態は、交差点と政治的権力の変遷とより広範なユーラシアの交流網としての地理的役割における、相互作用を反映しています。

 この研究では、ほぼ3500年間にわたる古代人89個体のゲノムが生成され、寧夏の動的な人口史の再構築において重要な進展を表しましたが、寧夏内の時間的な標本抽出は依然として不均一です。いくつかの重要な文化期はわずか数個体のみで表されており、これによって、遺伝的多様性および人口統計学的過程の全範囲を把握する能力は限られていました。たとえば、品質閾値を満たした菜園文化と関連する個体は1人のみで、この個体は独特な遺伝器特性を示しており、菜園文化の内部の下部構造が過小評価されている可能性は高そうです。同様に、西夏期(タングート人)において下流分析で利用可能だったのは1個体のみで、タングート人の起源についての推測が偏るかもしれません。より包括的で正確な人口史の再構築と、歴史的文献で記録された集団の遺伝的起源のより堅牢な評価には、寧夏全域のより広範な時空間的標本抽出を組み込んだ将来の研究が不可欠でしょう。


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