芥川龍之介の軍人評
以前当ブログで取り上げた高杉洋平『帝国陸軍 デモクラシーとの相克』(関連記事)では、いわゆる大正デモクラシー期(厳密な大正期に限らず、昭和最初期も含めて)の軍人受難の時代が解説されています。この時期、軍縮志向のみならず、反軍事的風潮が強くなり、軍への侮蔑も強くなりました。もちろん同書でも、農村と都市や知識層と非知識層など、地域や階層によって軍への感情が異なっていた可能性も指摘されています。ただ、この時期には、軍人を批判する公然たる言動が容認され、そうした態度は進歩的思わせるような雰囲気があったことを、同書は重視しています。そうした軍人蔑視の風潮の一例として、同書は芥川龍之介『侏儒の言葉』の以下の一節を挙げています。
軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云ふ必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校のみに見得る現象である。殺戮を何とも思はぬなどは一層小児と選らぶところはない。殊に小児と似てゐるのは喇叭や軍歌に鼓舞されれば、何の為に戦ふかも問はず、欣然と敵に当たることである。
この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似てゐる。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなつた者ではない。勲章も─わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔はずに、勲章を下げて歩かれるのであらう?
大作家ともなると、人間や社会への理解が一般人より深い、と一般的には考えられているでしょうし、実際にそうであることは多そうです。では、この芥川龍之介の軍人評はどうなのでしょうか。同書は、当時、第四高等学校と東京帝大の学生として青年期を過ごした杉森久英が指摘するように、芥川龍之介の軍人批判は人道主義や平和主義に根差したものではなかった、と評価しています。杉森久英は芥川龍之介の軍人評について、
現世的権威を否定する隠逸思想を根幹とするも
であり、その批判対象を軍人に選んだところに
時代の風潮に敏感に反応する彼自身の軽薄な面をも露呈していて、いやらしい
と指摘しています。杉森久英は、こうした軍人への差別的で侮辱的な言説を
雑誌に発表し、単行本として出版しても、軍当局は居丈高になって抗議するでもなければ、不満の意を表明するでもなかった
こんな風に槍玉にあげられても、グウの音も出せないほど、当時の軍人が無気力、卑屈、かつ自信喪失の状態におちいっていたことは事実である
と指摘しています。当時の軍人受難が窺える、貴重な証言と言えるでしょう。芥川龍之介の軍人評は、杉森久英が指摘するように、時代の風潮に敏感に反応した、軽薄な面も表しているのでしょう。大作家は、時代の風潮に敏感なことが多いのでしょうが、それが時として軽薄な言説につながる場合もあります。ましてや、大衆はほとんどの場合、大作家よりも人間と社会に対する理解がずっと劣るわけで、軽薄な言動になってしまうことも多くなるとは思います。私も大衆の一人として自戒せねばなりません。
とはいえ、見識や理解の乏しさに臆して意見の表明を躊躇することが、社会にとって常によい結果をもたらすとも限らず、人間社会とは難しいものだと思います。外部から眺めている分には、それを興味深いと思う人も少なからずいるでしょうが、当事者は必死なわけで、未来が分からない中でも、手探りで精一杯生きていくしかありません。結果を知っている後世の人間から見れば、ある時代の国や社会が愚かしく見えて、間違った選択と正しい選択は自明なのかもしれませんが、同時代に生きている者のほとんどにとっては、自明ではないのでしょう。結果を知っていることは強い認知の偏りなって、過去の社会の理解を阻み、それは将来の指針も歪めるのかもしれません。
軍人は小児に近いものである。英雄らしい身振を喜んだり、所謂光栄を好んだりするのは今更此処に云ふ必要はない。機械的訓練を貴んだり、動物的勇気を重んじたりするのも小学校のみに見得る現象である。殺戮を何とも思はぬなどは一層小児と選らぶところはない。殊に小児と似てゐるのは喇叭や軍歌に鼓舞されれば、何の為に戦ふかも問はず、欣然と敵に当たることである。
この故に軍人の誇りとするものは必ず小児の玩具に似てゐる。緋縅の鎧や鍬形の兜は成人の趣味にかなつた者ではない。勲章も─わたしには実際不思議である。なぜ軍人は酒にも酔はずに、勲章を下げて歩かれるのであらう?
大作家ともなると、人間や社会への理解が一般人より深い、と一般的には考えられているでしょうし、実際にそうであることは多そうです。では、この芥川龍之介の軍人評はどうなのでしょうか。同書は、当時、第四高等学校と東京帝大の学生として青年期を過ごした杉森久英が指摘するように、芥川龍之介の軍人批判は人道主義や平和主義に根差したものではなかった、と評価しています。杉森久英は芥川龍之介の軍人評について、
現世的権威を否定する隠逸思想を根幹とするも
であり、その批判対象を軍人に選んだところに
時代の風潮に敏感に反応する彼自身の軽薄な面をも露呈していて、いやらしい
と指摘しています。杉森久英は、こうした軍人への差別的で侮辱的な言説を
雑誌に発表し、単行本として出版しても、軍当局は居丈高になって抗議するでもなければ、不満の意を表明するでもなかった
こんな風に槍玉にあげられても、グウの音も出せないほど、当時の軍人が無気力、卑屈、かつ自信喪失の状態におちいっていたことは事実である
と指摘しています。当時の軍人受難が窺える、貴重な証言と言えるでしょう。芥川龍之介の軍人評は、杉森久英が指摘するように、時代の風潮に敏感に反応した、軽薄な面も表しているのでしょう。大作家は、時代の風潮に敏感なことが多いのでしょうが、それが時として軽薄な言説につながる場合もあります。ましてや、大衆はほとんどの場合、大作家よりも人間と社会に対する理解がずっと劣るわけで、軽薄な言動になってしまうことも多くなるとは思います。私も大衆の一人として自戒せねばなりません。
とはいえ、見識や理解の乏しさに臆して意見の表明を躊躇することが、社会にとって常によい結果をもたらすとも限らず、人間社会とは難しいものだと思います。外部から眺めている分には、それを興味深いと思う人も少なからずいるでしょうが、当事者は必死なわけで、未来が分からない中でも、手探りで精一杯生きていくしかありません。結果を知っている後世の人間から見れば、ある時代の国や社会が愚かしく見えて、間違った選択と正しい選択は自明なのかもしれませんが、同時代に生きている者のほとんどにとっては、自明ではないのでしょう。結果を知っていることは強い認知の偏りなって、過去の社会の理解を阻み、それは将来の指針も歪めるのかもしれません。
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