西ローマ帝国崩壊後のヨーロッパ中央部の人口動態

 取り上げるのが遅れてしまいましたが、西ローマ帝国崩壊後のヨーロッパ中央部の人口動態に関する研究(Blöcher et al., 2026)が公表されました。本論文は、ローマ帝国の辺境だった現在のドイツ南部を中心に、ローマ帝国末期から古代末期となる4~7世紀の人口動態を古代ゲノムデータによって検証しています。ドイツ南部の古代人258個体のゲノムデータが、既知の古代人および現代人のゲノムデータとともに分析され、西ローマ帝国が崩壊した5世紀後半に、大きな人口動態の変化が明らかになりました。この時に、ヨーロッパ北部集団的な遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を有する集団が、遺伝的に多様なローマ属州集団と混合しました。こうした遺伝的構造は6世紀を通じて維持され、混合が進んだことで、7世紀初期までにヨーロッパ中央部現代人と類似した遺伝的構成の集団が形成されました。家系図再構築から、核家族を中心としており、生涯にわたる一夫一妻制や厳格な近親婚回避や柔軟な家系存続が行なわれていてた、と推測されたものの、逆縁婚(レヴィレート婚)の証拠は示されませんでした。これらは、後にヨーロッパの家族を形成したローマ帝国後期の社会慣習との連続性を示唆しています。

 以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、YHg(Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)、IBD(identity-by-descent、同祖対立遺伝子)、cM(centimorgan、センチモルガン)、FIS(deviation from Hardy–Weinberg equilibrium、ハーディー・ワインベルグ平衡からの逸脱)、FST(fixation index、2集団の遺伝的分化の程度を示す固定指数)、km(kilometre、kilometer、キロメートル)です。

 本論文で取り上げられる主要なドイツの地域と遺跡は、ドナウ・イーザル(Danube-Isar)地域、オーバーバイエルン(Upper Bavaria)のヴァイルハイム(Weilheim、略してWh)、ニーダーバイエルン(Lower Bavaria)、ライン・マイン(Rhine-Main)地域のビュッテルボルン(Büttelborn)とメムリンゲン(Mömlingen)、ローマ帝国の属州のゲルマニア・スペリオル(Germania Superior)とゲルマニア・プリマ(Germania Prima)と第二ラエティア(Rhaetia Secunda)、セクアニ(Sequania)、アズルブルク(Azlburg)、ケーマーテン(Kemathen)、プフェルリング(Pförring)、アルトハイム(Altheim、略してAlh)、ヴェルファースハイム(Wölfersheim、略してW)、ミヒャエルスブーフ(Michaelsbuch)、現代のマインツ(Mainz)となるモグンティアクム(Moguntiacum)近郊のエルトヴィレ(Eltville)、ブルクヴァインティング(Burgweinting)、メートリング(Mödling)、ヒデストルフ(Hiddestorf)です。

 本論文で取り上げられる主要なドイツ以外の地域と遺跡は、オーストリアのソコルガッセ(Csokorgasse、Czocorgasse)、セルビアのヴィミナシウム(Viminacium)、ドナウ・デルタ(Danube Delta)のアルガムム(Argamum)、アナトリア半島のドリケ(Doliche)、イタリアのスピナ(Spina)とコッレーニョ(Collegno)、ハンガリーのソラッド(Szólád)、カザフスタンのベレル(Berel)、フランスのプロヴァンス(Provence)です。


●要約

 古代から中世への移行期のヨーロッパ西部および中央部における新たな政治的および社会的構造の出現は長く、大規模な移住が原因とされてきました。ししかし、新たな証拠はますます、ローマ世界の再編における小集団の役割を強調しています。本論文では、ローマ帝国辺境のドイツ南部から得られた古代人258個体のゲノムが提示され、古代人2500個体および現代人379個体のゲノムとともに分析されます。集団遺伝学的分析から、ローマ帝国の構造の5世紀後半の崩壊と一致する大きな人口動態の変化が明らかになり、そのさいに、ヨーロッパ北部祖先系統の創始者人口集団が遺伝的に多様なローマ属州集団と混合しました。家系図再構築と、標本抽出されていない親族の祖先系統を推測手法であるfiliaから、広範な通婚と最小限の文化的差異が示唆されます。遺伝的構造は6世紀を通じて維持され、混合によって7世紀初期までにはヨーロッパ中央部現代人と類似した人口集団が形成されました。系図のつながりのある個体の年代を精緻化するChronographの使用によって、28年の世代時間、女性は39.8歳、男性は43.3歳の平均寿命、高い乳児死亡率、約1/4の子供が10歳までに片親を亡くすものの、それでも祖父母とともに育った社会だったことが推定されました。家系図からは核家族を中心とした社会が明らかになり、生涯にわたる一夫一妻制や厳格な近親婚回避や柔軟な家系存続が行なわれていた一方で、逆縁婚は行なわれておらず、後にヨーロッパの家族を形成したローマ帝国後期の社会慣習との連続性が示唆されています。


●研究史

 古代末期~中世初期(4~7世紀)の移行期に、ヨーロッパ中央部では顕著な政治的および文化的および人口統計学的変化が見られ、それはローマ帝国の支配の崩壊とキリスト教の拡大と新たな集落形態によって特徴づけられます。ヨーロッパ西部および中央部において、この政治的情勢は大きく変わり、新たな政治形態が出現しました。しかし、地域社会と非支配層の人々の生活に関する知識は依然として限られており、それは文献が乏しく、完全に発掘調査された集落がほとんどないからです。したがって、農村集落と関連する墓地はこの移行期に関する重要な情報を提供します。450年頃以降、フランス北部およびオランダからイタリア北部およびハンガリー西部までの以前のローマ帝国辺境地帯全域で、副葬品を伴う独特な「列状墓地(Row-Graves)」が出現しました。これらの埋葬は、衣服や武器や装身具や容器を副葬品とすることが多く、5~7世紀のヨーロッパ中央部における日常生活と死に独自の知見を提供します。ドイツ南部の列状墓地と関連する地域社会は通常、小さな農耕として特徴づけられ、作物栽培や家畜(ブタとウシ)によって支えられていたものの、より広範な交流網に組み込まれ、社会階層が発達しつつありました。一部の墓は、5世紀末までにキリスト教の象徴を示しています。

 この変容する社会文化的状況における人口統計学的過程の理解を深めるために、複数の考古学的遺跡から中世前期221個体のゲノムが配列決定され、現在のドイツ南部となるローマ帝国の北部辺境地帯に焦点が当てられました。2ヶ所の地域の列状墓地が調べられ、それは、(1)オーバーバイエルンとニーダーバイエルンのドナウ・イーザル地域で、ヴァイルハイムとアルトハイムに焦点が当てられ、アルトハイムは5世紀初期と確実に年代測定された層と広範な考古学的研究の点で注目に値し、(2)ビュッテルボルンとメムリンゲンによっておもに表されるライン・マイン地域です(図1)。古代には、両地域はローマ帝国の一部でした。ライン・マイン地域は3世紀後期までゲルマニア・スペリオル属州とされ、その頃に国境がライン川へと西方に動き、残りの属州領域は5世紀のローマ支配の崩壊までゲルマニア・プリマおよび第2属州として再編されました。ドナウ・イーザル地域は西ローマ帝国の崩壊まで第二ラエティアに属しており、おそらくは5世紀後半に東ゴートの支配下に入りましたが、その範囲については依然として議論になっています。540年頃まで、この地域はフランク王国の影響下に入り、軍隊の指揮は後にバイエルン公国へと発展した公爵によって率いられました。以下は本論文の図1です。
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 これらの社会政治的変化の人口統計学的および社会的影響を評価するために、新たなベイズ手法であるChronographが開発され、この手法は、考古学的な墓地の年代測定から得られた年代の兆候と放射性炭素年代測定と遺伝的関係と骨学的な死亡時年齢推定値を組み合わせることによって、全個体の誕生年代と死亡年代を同時に推定します。この手法では正確な誕生年代推定値が得られ、標本の50%では39.1年未満の信用区間が、標本の90%では108.2年未満の信用区間が得られます。特定された親族がいる個体については、家系図データからの推測を含めて、信用区間はそれぞれ33.8年と57.5年へさらに縮小します。下流分析において、特定の時点もしくは期間に生存していた全個体の事後標本を用いて、残存する不確実性が充分に考慮されました(図1)。

 比較の為、新たに生成されたゲノムと、現在のドイツ南部および東部とオーストリアとイタリアとハンガリーの4~8世紀の刊行されているゲノム(14~21)で、データセットが補完されました。それ以前の期間のゲノム多様性を調べるために、近隣の古代末期の遺跡(アズルブルク、ケーマーテン、プフェルリング)の20個体のゲノムと、ヨーロッパ全域およびそれ以外の重要な遺跡(セルビアのヴィミナシウム、ドナウ・デルタのアルガムム、アナトリア半島のドリケ)の16個体のゲノムがさらに配列決定され、中央値深度2.25倍で新たに生成された258個体のゲノムが得られました。アルトハイムについては、追加の114点のストロンチウム同位体比が測定され、個体の移動性および移住のパターンがさらに調べられました。


●祖先系統の変化と人口構造

 まずPCAが実行され、ドナウ・イーザルの主要な遺跡であるアルトハイムの個体群が、ユーラシア西部の1600個体以上の鉄器時代および先ローマ期個体のゲノムのデータセットと比較されました。この分析では、アルトハイムの墓地における異なる3祖先系統段階が明らかになり(400~470年頃、470~620年頃、620~660年頃)、大きな人口統計学的変化が示唆されます。以下は本論文の図2です。
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 最初期段階(400~470年頃)では、特定の時点で生存していたのは最大で20個体未満(直接的な標本抽出か、最大3親等の標本抽出された親族のつながりのどちらか)でした(図1)。これらの個体は、上述のドイツ北部(図2)やオランダやデンマーク鉄器時代のヨーロッパ北部人(図2a)および現在の人口集団とクラスタ化し(まとまっており)、祖先の起源が北方であることと一致します[22]。以後、「北方祖先系統」という用語は、この遺伝的背景を示すのに用いられます。その後の段階(470~620年頃)には、特定された個体か図は急増し、550年頃には約70個体(そのうち37個体が標本抽出されました)と最大に達しました。この期間の個体群はPCA空間において、その前後いずれかの段階の個体群よりも顕著に広い分布を示します。一部の個体は依然としてヨーロッパ枠部の鉄器時代人口集団と重なっていますが、他の個体は地中海西部もしくはヨーロッパ南東部の集団との類似性を示すかねヨーロッパ人のゲノム差異の完全に範囲外に位置し、多様な祖先系統の人々のかなりの流入が示唆されます。PCAでは、フランク王国の540年頃のこの地の獲得が、人口構造に検出可能な変化を引き起こさなかった、と示されます(図2b・c)。

 470~620年頃の間のPCA空間で観察された高度な個体間の多様性は、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアと父系のY染色体)と、ドイツ北部および南部の都市(キールとミュンヘン)の現代ドイツ人との比較において反映されており(図2f)、人口集団の遺伝的不均一性が浮き彫りになっています。しかし、全体的な常染色体遺伝的多様性推定値(θ)は、現在の人口集団よりわずかに高くなっています。θは歴史時代のゲノムでは過小評価されているかもしれませんが、このパターンから、この期間はより遺伝的構造化されており、個体はさほど混合していなかった、と示唆されています。これをさらに調べるために、FISが定量化され、FISが470年ごろ以後に急速に増加し、550年頃に最大に達した後で、7世紀にかけて次第に減少して、これが一時的な下部構造および社会的統合の過程と一致する、と分かりました(図3a)。以下は本論文の図3です。
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 アルトハイムにおける高い遺伝的多様性に寄与した祖先構成要素の詳細な特徴づけのため、twigstats[22]の系図に基づく祖先系統描写手法が用いられ、これはRelateから得られた祖先組換え図に基づいており、全ゲノム配列決定データの解像度が活用されています(図3b)。大陸規模では、アルトハイムの470~620年頃の人口集団は、ヨーロッパの北部と南部と南東部にまたがる供給源人口集団によってモデル化でき、これはChromoPainter2およびPANEでの祖先系統推定でも裏づけられるパターンです。特定された祖先系統の3/4以上は、ヨーロッパ北方供給源(ヨーロッパ北部が34%、ブリテン島北部が9%)とヨーロッパ南部もしくは南東部供給源(ローマ期ヨーロッパ南東部が20%、鉄器時代イタリア中央部が16%)の共存に割り当てることができます。ローマ期ヨーロッパ南東部は主要な供給源人口集団として際立っており、これはYHg頻度によってさらに裏づけられるパターンで、おそらくはローマ軍の主要な兵員募集拠点としてのバルカン半島の役割を反映しています。ヨーロッパ中央部とポントス草原地帯とバルト海の供給源人口集団からの寄与は、依然としてわずかです。

 しかし、注目すべきことに、主要な祖先系統供給源であるヨーロッパ北部とローマ期ヨーロッパ南東部と鉄器時代イタリア中央部は、ドイツ南部における最古級の列状墓地の出現前に、研究対象地域内においてすでに在来集団で見られます(図2a)。以前の古遺伝学的研究は、ヨーロッパ北部集団のヨーロッパ中央部およびパンノニアへの5世紀後半までの移動を示唆してきましたが[15、19、22]、その正確な時期は依然として不明です。プフェルリングやケーマーテンなど北方祖先系統を有する本論文で提示されるいくつかの新たに配列決定された個体や、アルトハイムの最古級の埋葬Alh_61(400~425年頃)やAlh_98(412~414年頃)は、列状墓地遺構に先行します。染色体IBD断片の共有パターンは、北方からローマ辺境地帯への初期移住のさらなる証拠を裏づけており、長いIBD断片(20cM超~400cM)がドナウ・イーザル地域内で遺跡を結びつけているのに対して、より短い断片(20cM)のみが、ドナウ・イーザル地域とライン・マイン地域の遺跡の個体間で共有されており、これはある程度の地域的な孤立と一致します。まとめると、これらの調査結果から、北方祖先系統を有する多くの個体はすでに、4世紀後半までにローマ辺境地帯で定着していた、と示唆されます。

 ローマ期のヨーロッパ南東部祖先系統は、同様に4世紀までのこの地域に定着していました。アズルブルクの近隣のローマの軍事基地では、ほとんどの個体は鉄器時代イタリア中央部祖先系統とともにこの構成要素を有していましたが、他の個体はヨーロッパ北部供給源も示しており、古代末期ローマ軍の多様な組成を反映しています。アルトハイムの人口集団は、これら在来の供給源を用いて充分にモデル化できます(図3b)。

 ストロンチウム同位体データは、ほとんどのアルトハイム個体のおもに地元出身であることと一致します。少数のアルトハイム個体は、地元ではない痕跡を示しており、これは理論的にはバイエルン・アルプス山麓以外のいくつかの地域から由来するかもしれませんが、考古学的および歴史的背景の観点では、ドナウ川の北側のさほど遠くない地域の出身である可能性の方がより高そうです。注目すべきことに、土本出身ではないと特定された最古級の6個体は、全員が女性でした。地元出社んではない者の割合は、470年頃の約35%(90%信用区間で21~50%)から540年頃までに約7%(90%信用区間で3~12%)へと減少し、620年頃までには完全に消滅しており、人口構造およびその後の混合の拡大期には移動性が減少したことを示唆しており、これはより広範な地域の傾向と一致します。

 明らかになりつつある状況では、辺境地帯ですでに確立されており、北方からの継続的流入によって追加されていたかもしれず、470年頃以降に近隣のローマ的背景からかなりのアズルブルク的祖先系統を取り込んだ、ない北方祖先系統の人口集団を描いています。同時に、アルトハイムにおける埋葬活動は、墓地の北東部へと移動しました。その後の150年間、北方祖先系統を有する創始者集団と、ローマ属州共同体からのその後の到来者との間の相互作用が、高度な遺伝的多様性および人口構造を生み出しました。混合が遺跡で進展するにつれて(直接的証拠は後述)、個体間の多様性と下部構造の両方が次第に減少しました。620年頃以後に埋葬された個体は再び、現代および鉄器時代のヨーロッパ北部および中央部集団のゲノムとまとまりますが、第1段階と比較して、PCA空間ではわずかにヨーロッパ南部および南東部個体群の方へと動いていまするこの期間に、標本抽出された個体の数は約10に減少し、これは、真の人口統計学的縮小か、より可能性が高い、まだ標本抽出されていないか発掘されていない区域への埋葬慣行の変化のいずれかを反映しています。しかし、これらの標本におけるいくつかの親族の存在は明らかに速度を誇張しているかもしれず、その速度で、遺伝的祖先系統がこの期間に、その後でドイツ南部の特徴的な遺伝的痕跡を形成するものへと収束していきます(図2f)。


●ドイツ南部全域の類似した人口動態

 ドイツ南部の他の中世前期墓地から得られたデータ(図1)はアルトハイムで確証されたモデルと一致しており、地域全体の同じような人口統計学的過程が示唆されます。より小さな標本規模は解像度を制約しますが、6世紀の遺跡は一貫して、ヨーロッパの北方から南部もしくは南東部まで広範な祖先系統の差異を示しています。これは、ヴァイルハイム(480~540年頃)など、長く定住されていたローマ帝国の以前の領域内および辺境から遠く離れた内陸部の遺跡にも当てはまり、そうした遺跡の個体の祖先系統は、470年頃行このアルトハイムについては、3系統の代理供給源によってモデル化でき、それは、アズルブルクのローマ墓地個体が約37%、ヨーロッパ中央部で標本抽出された祖先系統が約34%、ブリテン島北部集団からの約12%です。北方祖先系統の割合がおそらく明らかにローマ軍もしくは関連する市民の状況に由来するならば、5世紀後半から6世紀初期までの列状墓地における祖先系統の大半は真にローマ起源だったでしょう。ライン・マイン地域では、モグンティアクム(現代のマインツ市)近くのエルトヴィレの6世紀墓地被葬者のゲノムは、同様にアルトハイムの中期段階(470~620年頃)個体群と類似しています。同様の組成は、ビュッテルボルンとメムリンゲンにおいて、その2~3世代後に観察されます。

 大まかに同様のパターンとともに、ライン・マイン地域とドナウ・イーザル地域の比較は、いくつかの注目すべき違いを明らかにしています。ドナウ・イーザル地域の中世前期個体群のゲノムがより高い割合の鉄器時代イタリア中央部祖先系統を有しているのに対して、ライン・マイン地域の中世前期個体群のゲノムはより高い割合のブリテン島(ブリテン島北部とローマ期前のブリテン島南部の両方)とヨーロッパ東部中央とバルト海の祖先系統を有しています。このパターンはPCA空間で観察された差異と一致しており、ライン・マイン地域クラスタ(まとまり)には勾配の最南端構成要素が欠けており、同じ供給源の単純に変化した割合ではなく、部分的に異なる祖先供給源が示唆されます。これらの違いと一致して、集落間のFST値は高く、ドイツ北部もしくは南部の現代人集団間での観察を明らかに上回っています。

 祖先系統の全体的な混合は全体的に明らかで、広範な地域を超えた人口統計学的変化が反映されていますが、異なる個々の祖先系統が列状墓地遺構の後期段階まで存続しています。アルトハイムでは、6世紀と年代測定された6個体が、おもにイタリア供給源に割り当てられる祖先系統を示しており、北方祖先系統との混合は最小限です。ミヒャエルスブーフでは、8世紀でさえ、依然として2個体が有している祖先系統は現在この地域では驚くほど典型的ではなく、ローマ帝国後の構造の長引く孤立地帯か、この地域外からのその後の遺伝子流動か、両者の混在を反映しています。より遠い祖先系統も明らかで、アルトハイムの男性1個体(Alh_245、528~553年頃)は、現代のカザフスタンのベレルのネクロポリス(大規模共同墓地)の個体群と名がIBD断片を共有しており、その祖先系統の約2/3はアジア東部供給源、約1/3は西方草原地帯人口集団に由来します。ヴェルファースハイムの同時代の男性1個体(W67)は、このアジア祖先系統が少ないにも関わらず、同様の祖先系統を有していましたが、人為的な頭蓋変形がある5世紀後半の女性2個体(Wh4とWh59)は、草原地帯関連祖先系統が欠けており、代わりにローマ期後の混合と一致するパターンを示します[14]。

 歴史的観点からは、470年頃以前のアルトハイムの個体群は、辺境地帯で暮らしていたローマの兵士もしくは小作人の子孫だったか、5世紀初期にローマ権力によって農耕従事者としてアルトハイム地域に入植させられたかもしれません。ローマの権力が5世紀後半に衰えるつれて、軍隊と経済の構造の崩壊によって、コロヌス(小作人)や奴隷などの従属的農民を地主に縛りつけていた社会的および法的結びつきが緩み、そりによって地域的な移動性が促進されました。個々の事例で長距離移住を除外はできませんが、それは新たな遺伝的パターンの説明に必要ありません。むしろ、日雇い労働者や商人などの地域的な移動が6世紀におけるアルトハイムへの寒暖のない流入を支えていた可能性が高そうです。さらに、ドナウ・イーザルにおける軍事的紛争は、在来の農民を立ち退かせ、武装集団を移動させたかもしれません。同様の状況は、ライン・マイン地域の6世紀の個体群で観察されたゲノムのパターンを説明できるかもしれず、5世紀におけるライン川辺境沿いのローマの軍事構造の消滅とそれに伴う経済的および社会的つながりの崩壊とともに、個人と家族と集団が移動し始め、その一部はライン川を渡り、新たな共同体を形成したか、既存の共同体に加わりました。


●通婚と関連する人口統計学的変化

 家族水準で推定された人口統計学的変化の影響を評価するために、家系図が構築され、家族関係を活用し、標本抽出されていない個体群についてf₄統計を推定するための新規手法である、filiaが適用されました。アルトハイムでは、この手法はおもにヨーロッパ北部祖先系統の個体群とローマ期のアズルブルク集団的祖先系の個体群の間で、すぐに通婚が起きたことを明らかにし、個々の祖先系統に関わらず、在来共同体への新参者の急速な統合が示唆されます(図4)。最も極端なf₄値を有する24個体の分析は、副葬品における個々の差異と年代的差異がかなりあることを示していますが、分布の両端に位置する個体の埋葬間の体系的な違いを示していません。以下は本論文の図4です。
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 考古学的解釈は、多くの埋葬が明らかに再度開けられていることによって、やや複雑ですが、このパターンは、物質文化がおおむね遺伝的祖先系統から切り離されていたことを示唆しています。これらの調査結果は、パンノニアのソラッドおよびイタリア北部のコッレーニョ[15、29]やアルトハイムの近くのブルクヴァインティングとは対照的で、ブルクヴァインティングでは、隣接する2埋葬群が祖先系統と物質文化において著しく異なっており、ほぼ完全に北方祖先系統の女性が豊富な副葬品とともに埋葬されていたのに対して、隣接する混合祖先系統群の副葬品は質素でした。対照的に、アルトハイムはより簡素な農村生活様式を反映しており、同等の社会的もしくは文化的差異はありません。


●生活史の媒介変数

 古代末期および中世前期の局所的社会に関する詳細な人口統計学的データは、依然として少ないままです。ローマ帝国については、碑文と文献が移動性と結婚年齢の異なる推定値を提供しています。中世前期のプロヴァンスでは、1000人以上の小作農に関する研究から、少年と少女は12歳頃に結婚可能となり、誕生時の平均余命は約20年で、女性は男性より早く結婚した一方で、一般的に再婚を避けていた、と示唆されています。アルトハイムでは、Chronographによって推定された誕生および死亡年代を用いて、局所的な中世前期共同体の重要な生活史の媒介変数を推定できます。乳児と子供両方の死亡率は少女より少年の方で高く、すべての特定された少年と少女のそれぞれ9.7%(90%信用区間で9.7~9.7%)と7.8%(90%信用区間で7.7~8.3%)が、7歳に達しませんでした。それにも関わらず、平均寿命は女性(39.8年、90%信用区間で38.5~41.1年)より男性(43.3年、90%信用区間で41.6~45.2年)の方が高く、この原因は10歳頃の後の女性の死亡率がより高いことで(図5)、出産が大きな危険因子だったことを示唆しています。以下は本論文の図5です。
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 平均世代時間は28.0年でした(90%信用区間で26.4~29.6年、図5)。片親の子供は比較的一般的で、5歳時と10歳時に片親を失っている子供の割合はそれぞれ、11.3%(90%信用区間で6.4~17.0%)と25.5%(90%信用区間で17.7~34.0%)でしたが、同じ年齢までに両親ともに失った子供の割合は、それぞれわずか0.5%(90%信用区間で0.0~1.9%)と2.5%(90%信用区間で0.0~5.9%)でした。しかし、子供大半は祖父母とともに育ち、すべての子供の81.8%(90%信用区間で54.6~100%)は誕生時に少なくとも1人の祖父母が生きており、10歳時に少なくとも1人の祖父母が生きている確率は67.4%(90%信用区間で30.0~90.0%)でした。母親は平均して配偶者より0.7歳(90%信用区間で-6.5~11.7歳)若い、と推定されましたが、より年長の父親の事後裏づけが90%超なのは、77組の夫婦のうち5組(6.5%)だけでした。


●家族構造と文化的遺産

 現代的なヨーロッパの親族制度の発展における鍵となる要因として、古代末期と中世前期との間の家族構造やキリスト教の影響を調べてきた研究の長い歴史があります。しかし、資料はほぼ規範的な文献か支配層の刊行の記録なのに対して、非支配層の局所的社会については、すべて地理や年代や文化が異なる地域の少数のゲノム研究の調査結果[37~41]以外には、ほとんど知られていません。親族間の空間的クラスタ化(まとまること)を評価するために、アルトハイムとビュッテルボルンにおける墓地の分布が分析されました(図6)。アルトハイムでは、1~4親等の親族(77~137個体)が親族関係にない個体よりも有意に近くでともに埋葬されており、配偶者(6個体)も近くに埋葬されていました。ビュッテルボルンでも、空間配置はおもに密接な生物学的近縁性によって形成されており、遠い親族はほとんど影響を及ぼしませんでした。たとえば、父親と母親と3人の子供が、オバや遠い親類などより遠い親族から分離された、円形のまとまりを占めています(図6)。埋葬の近さが社会的関係を反映している、と仮定すると、これらのパターンは共同体が核家族もしくは直系家族を中心に共同体が組織されており、時に半キョウダイ(両親の一方のみが同じキョウダイ)など拡大親族よよって時に保管されていることと一致します。これは、小さな核家族単位が通常はより広範な親族網に組み込まれている農耕社会の世界的なパターンを反映しており、ローマ帝国初期以降や750年頃以後のドイツ南部の地域社会に関する歴史的研究と一致します。以下は本論文の図6です。
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 アルトハイム(図4)とビュッテルボルン(図6)の再構築された家系図に基づいて、どの居住および相続の規則がそうしたデータと適合するのか、調べられました。家系図は多くの場合、息子を介して継続していましたが(アルトハイムでは20事例、ビュッテルボルンでは9事例)、娘を介しての継続もありました(アルトハイムでは9事例、ビュッテルボルンでは2事例)。ビュッテルボルンでは、5世代にわたる男性親族(図6)が緊密にまとまって埋葬されていました。対照的に、4世代以上にわたってほぼ女性のみでつながる系図の個体群については、ほとんど空間的クラスタ化を観察できませんでした(図6、橙色)。遺跡間では、女性は男性よりも埋葬された他の場所に埋葬された個体と有意により大きなIBD断片を共有しています。しかし、遺跡内では、女性は男性と比較してずっと少ないIBD断片(8cM超)を共有しており(女性が30.92に対して、男性は170.55±13.08)、その血縁度は、アルトハイムでは6倍、ビュッテルボルンでは1.5倍低くなっています。これらの推定されたパターンは、ほとんどの女性が夫の家族の近くに居住するのに対して、一部の男性が、とくに息子がいない場合に妻の近くに居住した、柔軟な父方居住制度と一致します。しかし、アルトハイムとビュッテルボルンの両遺跡におけるY染色体とミトコンドリアの多様性は、厳格な父系相続および厳格な父方居住とは一致しません。むしろ、柔軟な父系制もしくは双系制が示唆され、そうした制度では、家系はおもに息子を介して継承されるものの、時には娘を介して継承されたこともあります。少なくともアルトハイムでは、結婚は家系図が息子を介して継承される場合にはおもに族外婚だった(21事例のうち16事例)のに対して、族内婚は継承が娘を介した場合により一般的だった(9事例のうち5事例)、とさらに観察され、これは現代の母方居住もしくは母系社会での記録を反映しているパターンです。

 まとめると、中世前期ドイツ南部における居住と宗族のパターンは、ローマ後期に確立されたパターンを密接に反映していました。ローマ帝国の文献は双系的相続制度への一貫した傾向を示しており、ローマ法では、娘は特定の条件下で遺言がない事例では等しく継承できました。しかし、遺言での財産への女性の権利に関する制限は、他の相続規則とともに、概して資産は男系を介して継承されました。しかし、紀元後数世紀以降、娘を介した相続は次第に強化され、これは古代末期まで続いた発展でした。遺言は時に、とくに土地が関わる場合、より多くの取り分を受け取った男性の子孫に特権が与えられたこともありましたが、娘は多くの場合平等に扱われ、息子がいない場合は、主要な相続人となることさえありました。5世紀と6世紀には、西ローマ法とユスティニアヌス法の両方やローマ帝国後の西方の王国における法慣習は、遺言もしくは無遺言による娘とその子供の相続権をさらに保証したので、双系的相続が強化されました。同時に、ローマ後期社会では家族の伝統は次第に、父系と母系の両方から受け継がれる、と考えられました。

 ローマ後期およびローマ期後の西方では、キリスト教社会はしだいに生涯にわたる一夫一妻制をますます強調し、離婚はより厳格な法規制がなされるようになった一方で、未亡人は尊ばれ、再婚は道徳的に問題がある、と考えられるようになりました。近親婚間の結婚は強く非難されるようになり、500年頃以降、教会評議会や世俗権力会議によって多くの禁止令が出されました。このように、キリスト教はそれ以前の社会的傾向を強化し、文献および碑文研究から、近親婚はキリスト教化以前の来訪ではすでにほぼ避けられており、生涯の一夫一妻制が広く推奨される理想となった、と示唆されています。8世紀に刊行されたものの、それ以前の規範を反映しているバイエルン部族法(Lex Baiuvariorum)第7編1条は、歴史的および考古学的研究がローマ支配の崩壊後のキリスト教の継続的な影響を示唆している、バイエルンでの近親婚と逆縁婚の厳格な禁止を確認しています。これらの文献と一致して、本論文のデータから、生涯の一夫一妻制は、限られた離婚もしくは未亡人の再婚を伴い、6世紀のドイツ南部では支配的な規範だった、と示唆されており、本論文は単一の配偶者との結婚の可能性がある68個体を特定したものの、アルトハイムとビュッテルボルンでは、複数の配偶者との間に子供を儲けたのはわずか5個体(男性3個体と女性2個体)で、年代順で連続単婚と矛盾する事例はありません。他の配偶者の子供が存在しなかったか、他の場所に埋葬されたことを完全には除外できませんが、アルトハイムにおける本論文の標本の高い網羅率(38%、90%信用区間で22~55%)のため、そうしたパターンが体系的に検出を逃れる可能性は低そうです。

 長いROH(12cM超)がほぼ欠けており、配偶者間で共有されているIBDがないことは、6親等以上の関係を除外する、厳格な近親婚回避を裏づけています。小さな推定共同体規模(1世代の1集落あたり最大で約70個体)を考えると、そうした回避は恐らくより広範な社会的交流網での通婚を促進しました。しかし、配偶者間の近縁性の同様の欠如は族内婚、つまりアルトハイムの夫婦間でも観察されました。最近の遺伝学的研究から、近親婚回避はブリテン諸島の鉄器時代人口集団[50]や西パンノニア平原のアヴァール社会[37、51]など非キリスト教社会にも存在した、と示唆されています。しかし、アヴァール社会はアルトハイムやビュッテルボルンには存在しない逆縁婚の証拠を示しており、これはバイエルン部族法と一致します。

 全体的に、アルトハイムは父方居住傾向と父系もしくは双系相続傾向のどちらかによって特徴づけられ、イングランド南西部の母方居住の鉄器時代社会[50]を除いて、以前に研究された遺跡よりも娘を介しての家系の継続が高頻度でした。複数の繁殖関係の割合は低く、ヨーロッパ北部中央のフランスの新石器時代共同体のみが、より低い割合を示しています[52]。これらの調査結果は文献と一致し、6世紀までにヨーロッパ中央部の農耕社会はすでに、ラテン・キリスト教ヨーロッパの特徴となった居住および結婚の慣行をすでに維持していた、と示唆しています。


●移行期の再考

 古代末期から中世前期への移行は伝統的に、北方の「蛮族」と衰退期のローマ帝国との間の争いとして把握されてきましたが、近年の研究は多面的変容を明らかにしています[19、29]。ゲノムと同位体と文献と考古学の証拠の統合は今や、ヨーロッパ中央部における人口統計学的および文化的および社会的動態、とくに農耕社会の日常生活に関する、より明確な視点を提供します。本論文で報告された人口統計学的過程のほとんどは局所的に起きましたが、ローマ帝国辺境へのそれ以前の北方から南方への移住の枠組み内で進展しました。個体間の長いIBD断片(20cM超)の分析は、列状墓地出現のずっと前になる、広範な地域横断の移住を確証します。ライン・マイン地域およびドナウ・イーザル地域の37個体は200km以上離れた遺跡の同時代人と長い断片を共有しており、その範囲はドイツ北部やオランダやイングランドやオーストリアやハンガリーやクロアチアや、遠くセルビア東部のヴィミナシウムにまでまたがっています。IBD共有は北方祖先系統の個体間で最も強く、主成分1(PC1)沿いに減少します。生物学的親族関係データから、この移住には人口集団全体ではなく個体群と小さな親族集団が含まれており、マタイトコが270km以上離れて埋葬されており(ビュッテルボルンとヒデストルフ)、ドナウ・イーザル地域をソラッドの支配層埋葬(約500km離れています)およびウィーン近郊の墓地とつなぐ複数のつながりがある、と示唆されます。その後の移動は、4~5世紀の変わり目にほぼ確立した、この人口統計学的景観に対して展開しました。これらの生物学的関係が個人自身によって認識されていた社会的つながりに対応していたのかどうかは、依然として不明ですが、ヨーロッパ中央部全域の家族的および社会的つながりを促進し、パンノニアとイタリア北部へと広がっていた、地域横断網を反映しているかもしれません。そうした交流網の存続はローマの影響力のある伝統や基盤内に組み込まれており、中世前期ヨーロッパにまたがる列状墓地遺構のその後の急速でまとまりがある拡大を促進したかもしれません。

 アルトハイムでは、埋葬は414年頃に初めて出現し、当初は景観において孤立しており、ヨーロッパ中央部鉄器時代人口集団とは異なるゲノム特性を有する、ヨーロッパ北部祖先系統の個体に属していました。北方からの移住はおそらく継続しましたが、これら初期個体とその後に続いた人々の大半は、おそらくローマの領域内もしくはその近くで確立していた家系の子孫でした。こうした個体群は、辺境地帯に暮らしていたローマの兵士か、より広範なアルトハイム地域に農業従事者として定住していた農民の子孫を表しているかもしれません。そうした人々の民族的もしくは社会的自己認識は依然として不明ですが、その重要な470年前頃の層位までおもに行なわれていた集団内の結婚は、おそらくはコロヌスと他の非支配層集団に適用された結婚に対する法的制約によって強化されました。その埋葬はローマの影響を受けた慣行と他の慣行を組み合わせ、土葬と副葬品の混合文化で、列状墓地遺構の特徴の前兆となった、衣服や装身具が伴っていました。

 470年頃の人口統計学的変化では、ローマ期の都市や城塞に典型的な祖先系統を有する人々が後背地へと移動し始め、中世前期ドイツ南部の列状墓地に埋葬されていきます。古代末期西方の他地域の調査結果と一致して、5世紀後半におけるローマの構造の崩壊はおそらく、ドイツ南部における農民の土地への結びつきを弱めて、地域的な移動を可能にして、6世紀を通じての局所的共同体への間断のない流入を維持しました。祖各地域におけるローマ期集落の独自の遺伝的組成を反映して、先系統は遺跡間で同一ではありませんが、ローマ属州人口集団に由来する一般的過程はドイツ南部全域で大まかには類似しています。長距離移住はおそらく個体の事例もしくは例えば小集団で起きましたが、アルトハイムとメートリングやソコルガッセなどの遺跡との間のつながりは恐らく、6世紀におけるウィーン盆地への段階的もしくは直接的移動を反映しており、470年頃以後のドイツ南部におけるより広範に出現しつつあった遺伝的パターンを説明するのに、大規模な移住は必要ではありません。

 その後の150年間にわたり、通婚は、ドイツ南部現代人を含めて、すでに遺伝的にヨーロッパ中央部現代人と類似していた人口集団を生み出し、北方祖先系統の人々は、おそらく継続的な移動によって維持される、人数の優位のため不均衡に寄与しました。ローマ関連祖先系統は本論文の研究対象地域において、中程度ではあるものの永続的な兆候を残し、それは後の北方および東方からの流入によってわずかに変容し[41、57]、そのすべては現在のドイツ人のゲノムで依然として検出可能です。文化的には、これらの地域社会は柔軟な相続のローマの慣行を継続し、生涯の一夫一妻制などキリスト教の理想を取り入れ、離婚もしくは未亡人となった後の再婚は最小限だったようです。こうした社会は、近親婚と逆縁婚を厳格に避けました。このパターンがライン川とドナウ川の境界に固有だったのか、あるいは以前のローマ帝国北方辺境地域全域のより広範な傾向だったのかどうかは、調査が必要ですが、本論文で提示されたライン・マイン地域の証拠は、より広い適用範囲を示唆しています。

 ドイツ南部におけるゲノムのパターンは、人々が話していた日常語である、この地域の中世の方言にも光を当てるかもしれません[15、19]。北方祖先系統の個体間のつながりは、ラテン語とガリア語など地元の言語がおそらくは優越していたドイツ南部への、初期ゲルマン語方言の拡大を促進したかもしれません。これらのより古い言語はおもに、人名や地名のみで残っていましたが、北方祖先系統の比較的大規模な寄与は、ドイツ南部および近隣地域における主要な方言としての、先文字期古高ドイツ語の出現を促進したかもしれません。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


集団遺伝学:ローマ帝国崩壊期の南ドイツにおける家族制度の起源

ゲノミクス:ローマ帝国崩壊期にヨーロッパ人の形成に影響を与えた変化

 西ローマ帝国の崩壊後、中央ヨーロッパにおける家族構造および人口動態の変化に関する知見を報告する論文が、Nature にオープンアクセスで掲載される。本研究は、かつて遺伝的に異なっていた集団が融合することで新たな社会が形成され、その過程が、現代の中央ヨーロッパに見られる遺伝的景観を形づくったことを示している。

 西暦4世紀から7世紀にかけて、中央ヨーロッパでは古代末期から中世初期への移行が進んだ。この移行期は、西ローマ帝国の崩壊やキリスト教の普及といった大規模な社会変動に加え、地域全体の政治情勢の変化を特徴としている。一方で、この時代に生きた一般の人々の日常生活については、これまでほとんど明らかにされてこなかった。

 Jens Blöcher、Leonardo Vallini、Joachim Burgerら(ヨハネス・グーテンベルク大学マインツ〔ドイツ〕)は、南ドイツの古代墓地から出土したローマ後期および中世初期(西暦400~700年)の個体258人分のゲノムを解析した。その結果、ローマ後期において、この地域には遺伝的に異なる2つの集団、すなわち北方の祖先を持つ人々、およびローマ植民地の住民が存在していたことが示された。後者の集団は、遺伝的多様性がきわめて高く、ヨーロッパ全域、さらにはアジアからも祖先を受け継いでいた。ローマ帝国の崩壊は、多くの集団の移動を可能にし、新たな社会の出現をもたらした。遺伝的には多様であったにもかかわらず、地域ごとの異なる集団は相互に混血し、共通の物質文化を共有していたことが示された。

 著者らは、男性の平均寿命が43.3歳、女性が39.8歳であったこと、また、出産が女性にとって早期死亡の主要なリスク要因となり得たことを明らかにした。一方で、この地域の子供たちの大半(81.8%)は、少なくとも一人の祖父母とともに成長していたことも判明した。著者らは、キリスト教の台頭により、核家族と生涯にわたる一夫一婦制が重視されていたと指摘している。

 著者らは、これらの知見が、ヨーロッパの親族制度の起源を含め、古代末期から中世初期への移行に関する洞察を提供すると結論づけている。また、著者らは、この移行は複雑であり、単に「野蛮人」とローマ帝国の対立という従来の見方だけではとらえきれない複雑なものであったと指摘する。得られたデータは、大規模な民族移動ではなく、家族や親族を基盤とした小規模な集団による移動が行われていたことを示している。


集団遺伝学:ローマ帝国崩壊期の南ドイツにおける家族制度の起源

 今回、古代DNA研究により、ローマ帝国崩壊期の中央ヨーロッパにおける家族構造と人口動態変化、そしてヨーロッパの親族制度の起源が明らかにされている。



参考文献:
Blöcher J. et al.(2026): Demography and life histories across the Roman frontier in Germany 400–700 ce. Nature, 654, 8120, 984–993.
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