松浦玲『新選組』第3刷
岩波新書(赤版)の一冊として、2003年10月に刊行されました。第1刷の刊行は2003年10月です。古書店で100円だったので購入しましたが、いつか読もうと思いながら、新選組にそこまで強い関心を抱いているわけではないので、ずっと放置していました。確か、2010年放送の大河ドラマ『龍馬伝』の頃に購入した記憶があるので、15年くらいは放置していたようです。私もいつまで本を読めるのか分からず、読む能力自体は維持できても、個人的もしくは社会的事情から読む時間的余裕が全くなくなることもあるわけで、今のうちに、購入しながら未読の本を少しずつ読んでいこう、と考えた次第です。本書の特徴は、新選組研究で充分には活用されていない(もちろん、本書刊行時の著者の認識です)近藤勇の手紙を大きく扱っていることです。土方歳三や沖田総司の手紙が短いのに対して、近藤の手紙は長いそうで、これについて、郷里への責任感の違いに起因する可能性を、本書は指摘しています。
本書は、新選組の前提としての浪士組を重視しています近藤も土方も沖田もこの浪士組250人の一員として上京したわけですが、近藤は清河八郎とは異なり江戸に戻らず、京都に残り、残留組は京都守護職である松平容保の「御預」となります。近藤は芹澤鴨とともに将軍滞京を訴え、この時点での両者は協調関係にあったようです。近藤たち壬生浪士にとって、1863年8月18日の政変は転機となり、新選組の名称はこの政変以後となります。この政変で過激浪士や過激派寄りの諸藩への政治的配慮の必要性が激減し、芹澤鴨の粛清もその文脈で理解できるようです。
近藤はそれでも攘夷への拘りがありましたが、禁門の変から下関砲撃を経て、「単純攘夷」への疑問が生じていたようです。本書は、浪士組の頃から「尽忠報国」を掲げてきた新選組には、思想集団的性格があったものの、(即時)攘夷への疑問と断念から思想集団ではなくなり、それでも組織を維持しようとすると、規律を肥大化させるしかなかった、と指摘します。本書は新選組のこの転機として、山南敬助の処分を挙げています。
王政復古と鳥羽・伏見の戦いを経て、新選組は江戸へと退却し、甲陽鎮撫隊として派遣され、敗走します。しかし、近藤と土方は諦めず、新選組の再編に取り組みます。大久保剛と名乗っていた近藤は、下総の流山にいたところを、新政府軍に包囲され、囚われます。近藤は大久保大和と名乗ったものの、高台寺党の者が新政府軍におり、正体が見破られます。近藤の扱いを巡って、土佐は厳罰、薩摩は寛容を主張し、けっきょく近藤は斬首となります。新選組の残党には、戊辰戦争で旧幕府軍として戦った者も少なくありません。新選組の隊員には昭和期まで生きた者もおり、幕末と現代との時間的近さを感じます。
本書は、新選組の前提としての浪士組を重視しています近藤も土方も沖田もこの浪士組250人の一員として上京したわけですが、近藤は清河八郎とは異なり江戸に戻らず、京都に残り、残留組は京都守護職である松平容保の「御預」となります。近藤は芹澤鴨とともに将軍滞京を訴え、この時点での両者は協調関係にあったようです。近藤たち壬生浪士にとって、1863年8月18日の政変は転機となり、新選組の名称はこの政変以後となります。この政変で過激浪士や過激派寄りの諸藩への政治的配慮の必要性が激減し、芹澤鴨の粛清もその文脈で理解できるようです。
近藤はそれでも攘夷への拘りがありましたが、禁門の変から下関砲撃を経て、「単純攘夷」への疑問が生じていたようです。本書は、浪士組の頃から「尽忠報国」を掲げてきた新選組には、思想集団的性格があったものの、(即時)攘夷への疑問と断念から思想集団ではなくなり、それでも組織を維持しようとすると、規律を肥大化させるしかなかった、と指摘します。本書は新選組のこの転機として、山南敬助の処分を挙げています。
王政復古と鳥羽・伏見の戦いを経て、新選組は江戸へと退却し、甲陽鎮撫隊として派遣され、敗走します。しかし、近藤と土方は諦めず、新選組の再編に取り組みます。大久保剛と名乗っていた近藤は、下総の流山にいたところを、新政府軍に包囲され、囚われます。近藤は大久保大和と名乗ったものの、高台寺党の者が新政府軍におり、正体が見破られます。近藤の扱いを巡って、土佐は厳罰、薩摩は寛容を主張し、けっきょく近藤は斬首となります。新選組の残党には、戊辰戦争で旧幕府軍として戦った者も少なくありません。新選組の隊員には昭和期まで生きた者もおり、幕末と現代との時間的近さを感じます。
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