国風文化再論
7年ほど前に、「国風文化」についてまとめたことがあります(関連記事)。遣唐使が結果的に9世紀前半で最後となって以降も、日本は「中国文化」の影響を強く受け続けており、それは唐に使者を派遣していた時代よりも強かった、と考えていた時代の記事でしたが、最近では、そのように単純化することも問題かもしれない、と考えが変わりました。とくに大きな影響を受けたのは、有富純也編『日本の古代とは何か 最新研究でわかった奈良時代と平安時代の実像』所収の小塩慶「 “「唐風文化」から「国風文化」へ”は成り立つのか」です(関連記事)。
この論考はまず、平安時代初期の桓武朝や嵯峨朝の「唐風化」の起点として、藤原仲麻呂の「唐風趣味」を挙げています。これ以降、天皇の実名(諱)を避けること(避諱)や、天皇に唐風の尊号を授与するとなど、天皇の「唐風化」があり、吉備真備たち遣唐使が持ち帰った知識によって、儀礼の「唐風化」も進みました。同時に、吉備真備たち遣唐使が持ち帰った知識によって、儀礼の「唐風化」が進み、公的教育機関としての大学寮の整備によって、教科書が南北朝時代の書籍から隋代や唐代の書籍へと切り替わっていきます。こうした奈良時代後半の「唐風化」が、桓武朝や嵯峨朝の「唐風化」の前提にあったわけです。桓武朝の「唐風化」には、桓武天皇の出自が皇族としては低く、天皇としての権威確立のため、さまざまに模索していたことも背景にありました。
この「唐風化」から「国風化」への移行では、仁明朝が注目されています。仁明朝では、和歌が再び表舞台に現れ始めます。9世紀後半に、即位の正当性が弱かった光孝天皇と宇多天皇は、仁明朝の政治文化の継承によって権威確立を図っていき、「国風化」の傾向が明確に現れていきます。この9世紀後半は、「唐風化」の観点では9世紀前半の延長線上にあり、「国風化」の観点では10世紀以降とのつながりの方が強い、と指摘されています。これと関連するのは、宇多朝において天皇の私的な側近の政治的役割が拡大していくことで、私的なものの公的な場への進出が文化動向とも連動しているのではないか、というわけです。たとえば、『古今和歌集』では、宇多天皇と醍醐天皇の近臣やその縁者の歌が多く採録されていましたが、『古今和歌集』は醍醐天皇の命によって編纂されたので、和歌が公的な位置づけを認められるようになっていきます。
こうした「国風化」の進展の背景として、唐の衰退が挙げられていますが、唐王朝へ公的な使者が派遣されなくなっても、唐や五代十国から文化が流入しなくなったわけではなく、海商によって大陸から多数の「唐物」が日本列島へと輸入されました。ただ、日本から大陸へと公的な使者が派遣されなくなったことによって、体系的な文化移入が難しくなり、文化導入が断片的になったことも指摘されています。平安時代後期の日本が、宋文化を全面的には受け入れず、唐文化に拘り続けた一方で、高麗は宋を規範としていきます。こうした状況とも関連して、「国風文化」期の漢籍由来の知識は唐代以前の書物に依拠しており、清少納言の教養にしても、基本的には漢学の入門書(幼学書)の範囲を超えていない可能性が指摘されています。
そもそも「唐風化」にしても日本側で取捨選択したり改変したりしており、「国風化」でも「唐物」が尊重されていたため、「唐風文化」から「国風文化」として古代日本の文化史を把握することは単純すぎるかもしれない、と小塩慶「 “「唐風文化」から「国風文化」へ”は成り立つのか」は指摘します。「国風文化」の時代とされる10世紀以降にしても、漢は公的、和は私的といった役割分担が見られました。それでも、10世紀以降の日本では全体として文化動向が国内志向へと大きく変わっており、「唐風文化」から「国風文化」への移行という見方がなおも有効であるようです。
佐々木恵介『日本古代の歴史4 平安京の時代』(関連記事)は、「国風文化」の前提として、9世紀における漢文作成能力の向上という「内在的発展」も指摘しています。その根拠の一つとなるのが、六国史の記事の密度や編纂効率の向上です。また日本の漢詩文は、形式と題材と美意識のすべてにおいて、唐からの直輸入だった9世紀前半と比較すると、9世紀後半には、漢詩文という形式をとりながら、日本の身近な風景や人物に題材がとられるようになり、その美意識にも独自のものが見られるようになります。日本の知識人たちは、9世紀後半には漢詩文を自己のものに消化していったようです。日本で編纂された類書も、9世紀前半には中華地域的視点に限られていたものの、10世紀前半には日本の事象も対象とされていきます。これらは「本朝意識」の芽生えとも言えそうで、「国風文化」や、その本格的な始まりを告げる10世紀初頭の『古今和歌集』の編纂に象徴される和歌の「復興」もそうした文脈で解され、「復興」された和歌は洗練・内在化されていった漢詩文の影響を強く受けていたようです。
日本では唐に公的な使者が派遣されなくなって以降、「中国」と交渉が途絶え、独自の文化が形成されていき、「国風文化」はその嚆矢になる、といった見解は極端です。じっさい、唐に公的な使者が派遣されなくなって以降、「日中」の経済的関係は飛躍的に発展し、それに伴って「中国」から日本へと文化も伝わった、と指摘されています(関連記事)。しかし、それが遣唐使の時代とは異なるもので、体系的な文化移入が難しくなり、文化導入が断片的になったことで、日本文化の「国風化」が進展したことも否定できないようです。その意味で、「国風文化」という概念が全面的に間違っているようには思えず、人間の複雑な営みの的確な解釈の難しさも改めて示されているようです。
この論考はまず、平安時代初期の桓武朝や嵯峨朝の「唐風化」の起点として、藤原仲麻呂の「唐風趣味」を挙げています。これ以降、天皇の実名(諱)を避けること(避諱)や、天皇に唐風の尊号を授与するとなど、天皇の「唐風化」があり、吉備真備たち遣唐使が持ち帰った知識によって、儀礼の「唐風化」も進みました。同時に、吉備真備たち遣唐使が持ち帰った知識によって、儀礼の「唐風化」が進み、公的教育機関としての大学寮の整備によって、教科書が南北朝時代の書籍から隋代や唐代の書籍へと切り替わっていきます。こうした奈良時代後半の「唐風化」が、桓武朝や嵯峨朝の「唐風化」の前提にあったわけです。桓武朝の「唐風化」には、桓武天皇の出自が皇族としては低く、天皇としての権威確立のため、さまざまに模索していたことも背景にありました。
この「唐風化」から「国風化」への移行では、仁明朝が注目されています。仁明朝では、和歌が再び表舞台に現れ始めます。9世紀後半に、即位の正当性が弱かった光孝天皇と宇多天皇は、仁明朝の政治文化の継承によって権威確立を図っていき、「国風化」の傾向が明確に現れていきます。この9世紀後半は、「唐風化」の観点では9世紀前半の延長線上にあり、「国風化」の観点では10世紀以降とのつながりの方が強い、と指摘されています。これと関連するのは、宇多朝において天皇の私的な側近の政治的役割が拡大していくことで、私的なものの公的な場への進出が文化動向とも連動しているのではないか、というわけです。たとえば、『古今和歌集』では、宇多天皇と醍醐天皇の近臣やその縁者の歌が多く採録されていましたが、『古今和歌集』は醍醐天皇の命によって編纂されたので、和歌が公的な位置づけを認められるようになっていきます。
こうした「国風化」の進展の背景として、唐の衰退が挙げられていますが、唐王朝へ公的な使者が派遣されなくなっても、唐や五代十国から文化が流入しなくなったわけではなく、海商によって大陸から多数の「唐物」が日本列島へと輸入されました。ただ、日本から大陸へと公的な使者が派遣されなくなったことによって、体系的な文化移入が難しくなり、文化導入が断片的になったことも指摘されています。平安時代後期の日本が、宋文化を全面的には受け入れず、唐文化に拘り続けた一方で、高麗は宋を規範としていきます。こうした状況とも関連して、「国風文化」期の漢籍由来の知識は唐代以前の書物に依拠しており、清少納言の教養にしても、基本的には漢学の入門書(幼学書)の範囲を超えていない可能性が指摘されています。
そもそも「唐風化」にしても日本側で取捨選択したり改変したりしており、「国風化」でも「唐物」が尊重されていたため、「唐風文化」から「国風文化」として古代日本の文化史を把握することは単純すぎるかもしれない、と小塩慶「 “「唐風文化」から「国風文化」へ”は成り立つのか」は指摘します。「国風文化」の時代とされる10世紀以降にしても、漢は公的、和は私的といった役割分担が見られました。それでも、10世紀以降の日本では全体として文化動向が国内志向へと大きく変わっており、「唐風文化」から「国風文化」への移行という見方がなおも有効であるようです。
佐々木恵介『日本古代の歴史4 平安京の時代』(関連記事)は、「国風文化」の前提として、9世紀における漢文作成能力の向上という「内在的発展」も指摘しています。その根拠の一つとなるのが、六国史の記事の密度や編纂効率の向上です。また日本の漢詩文は、形式と題材と美意識のすべてにおいて、唐からの直輸入だった9世紀前半と比較すると、9世紀後半には、漢詩文という形式をとりながら、日本の身近な風景や人物に題材がとられるようになり、その美意識にも独自のものが見られるようになります。日本の知識人たちは、9世紀後半には漢詩文を自己のものに消化していったようです。日本で編纂された類書も、9世紀前半には中華地域的視点に限られていたものの、10世紀前半には日本の事象も対象とされていきます。これらは「本朝意識」の芽生えとも言えそうで、「国風文化」や、その本格的な始まりを告げる10世紀初頭の『古今和歌集』の編纂に象徴される和歌の「復興」もそうした文脈で解され、「復興」された和歌は洗練・内在化されていった漢詩文の影響を強く受けていたようです。
日本では唐に公的な使者が派遣されなくなって以降、「中国」と交渉が途絶え、独自の文化が形成されていき、「国風文化」はその嚆矢になる、といった見解は極端です。じっさい、唐に公的な使者が派遣されなくなって以降、「日中」の経済的関係は飛躍的に発展し、それに伴って「中国」から日本へと文化も伝わった、と指摘されています(関連記事)。しかし、それが遣唐使の時代とは異なるもので、体系的な文化移入が難しくなり、文化導入が断片的になったことで、日本文化の「国風化」が進展したことも否定できないようです。その意味で、「国風文化」という概念が全面的に間違っているようには思えず、人間の複雑な営みの的確な解釈の難しさも改めて示されているようです。
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