インセスト・タブーは普遍的な習慣か?
2001年4月7日に行なわれた進化人類学分科会第5回シンポジウム(PDFファイル)で、西田利貞氏が、インセスト・タブーは普遍的な習慣なのか、問題提起しており、すでに四半世紀前の報告ですが、さすがに大家だけあって、不勉強な私にとっては今でも考えさせられる発言のように思います。まず西田氏は近親相姦が禁忌とされることの起源と進化について、近交弱勢を避けさせる遺伝的および文化的傾向をもった個体の方が、より多くの子孫を残した結果と指摘しており、私も今でも、この見解は基本的には妥当と考えています。つまり、伝統的な「唯物史観」で言われているような「原始乱婚説」は根本的に間違っている、と私は考えています。
近親相姦が禁忌とされる人類社会は現在でも過去でも珍しくありませんが、「人間がやらないことを、法律は禁止しない」ため、「人間は近親相姦を犯しがちであるから、インセスト・タブーが生まれた」と主張されることもあります。これについて西田氏は、親殺しや獣姦を例に挙げた反論がすでにあることを指摘します。たとえば、尊属殺人はめったに起こらないものの、法律で厳罰にしている国が多いのは、めったに起こらないことであっても、起こったら都合が悪いから禁止している、というわけです。ここでの「やらない」は、「めったにやらない」、「通常の状況・環境では起こらない」という意味で西田氏は使っています。
人類遺骸の近親相姦の事例として、西田氏はチンパンジーを挙げています。野生チンパンジーの観察で、兄が妹を強姦しようとして妹の抵抗を受けた例や、樹上で息子が母親と交尾しようとして、母親に叩き落とされた例があるそうです。ただ、チンパンジーでは、発情した母親と離乳期の息子(4~5歳)との間の「挿入」は、たいていの母子間で起きており、むしろ一般的な行動と考える方がよいそうです。これは、母親の注目が離乳期の息子から成体や若者の雄(交尾相手)に移り、心理的衝撃を受けて、駄々こね行動を示す息子を、母親がなだめる行動というわけです。息子が若者期になる、つまり精子を作るようになると、交尾は起こらなくなるそうです。
これらを踏まえて、西田氏は表題の件を問題提起しています。多くの文化人類学者は、インセスト・タブーが人類普遍の習慣(ヒューマン・ユニヴァーサル)と考えているようだが、疑問があり、というわけです。普遍的なのは「インセスト回避」ではないか、というわけです。西田氏は、たとえば日本においてインセスト・タブーが存在すると言えるのか、と問題提起します。この問題は、定義による、と西田氏は指摘します。日本において近親相姦を犯した人が、自殺したり、逮捕されたり、村八分にあったり、何らかの罰を受けたりするだろうか、と西田氏は問います。嘲笑くらいは受けると思われるが、一般から「嘲笑を受ける」ことも罰に含めるなら、日本にもタブーがあると言えるにしても、社会の嘲笑を受けるような行動は、窃盗や万引きや剽窃や姦通や乱交や覗きなどいくらでもあり、それらはタブーとは呼ばれない、と指摘します。故に西田氏は、インセスト回避は普遍的であるものの、インセスト・タブーは一部の民族に限られるのではないか、と主張しています。
なお、インセスト・タブーは性交の「断念」との見解について西田氏は、「本来、ヒトは近親者とのセックスを願望している」ことを含意しており、フロイトのエディプス・コンプレックスというアイデアに由来し、これはフロイトが精神分析にあたったユダヤ社会に見られる事象であることを指摘します。これについて西田氏は、幼少時に兄弟姉妹を隔離して育てるユダヤの風習によって、兄弟姉妹間の間に本来生じるべき性的嫌悪が生まれなかった場合と解釈できることを指摘します。こういった兄弟姉妹を隔離する習慣がある民族はむしろ稀で、フロイトの発言は誤りではなかったものの、多くの民族のうちの一部にしか当てはまらない、と西田氏は指摘します。
近親相姦や人類の配偶行動については、以前から色々と考えてきましたが(関連記事)、さほど勉強が進んでおらず、いつかはある程度体系的にまとめよう、と考えています。この2001年4月7日のシンポジウム以降、古代ゲノム研究が飛躍的に発展し、古代の近親相姦についても色々と明らかになってきました。その結果、古代において近親相姦は一般的ではなかったことが明らかになりつつあるように思います(関連記事)。その中で、私がとくに注目した研究では、イタリア南部の中期青銅器時代人類集団において、父親と娘の近親相姦が報告されています(関連記事)。しかし、この集団で他に近親相姦と解釈できる事例は確認されていません。やはり、人類史において基本的に近親婚は回避されてきたのでしょう。イタリア南部の中期青銅器時代人類集団における近親相姦がどのような事情で起きたのか、周囲はどのように認識していたのか、あるいは認識していなかったのか、今となっては分かりません。さすがにここまで極端な近親相姦の事例は、古代ゲノム研究で今後も確認されることは稀だと思います。
近親相姦が禁忌とされる人類社会は現在でも過去でも珍しくありませんが、「人間がやらないことを、法律は禁止しない」ため、「人間は近親相姦を犯しがちであるから、インセスト・タブーが生まれた」と主張されることもあります。これについて西田氏は、親殺しや獣姦を例に挙げた反論がすでにあることを指摘します。たとえば、尊属殺人はめったに起こらないものの、法律で厳罰にしている国が多いのは、めったに起こらないことであっても、起こったら都合が悪いから禁止している、というわけです。ここでの「やらない」は、「めったにやらない」、「通常の状況・環境では起こらない」という意味で西田氏は使っています。
人類遺骸の近親相姦の事例として、西田氏はチンパンジーを挙げています。野生チンパンジーの観察で、兄が妹を強姦しようとして妹の抵抗を受けた例や、樹上で息子が母親と交尾しようとして、母親に叩き落とされた例があるそうです。ただ、チンパンジーでは、発情した母親と離乳期の息子(4~5歳)との間の「挿入」は、たいていの母子間で起きており、むしろ一般的な行動と考える方がよいそうです。これは、母親の注目が離乳期の息子から成体や若者の雄(交尾相手)に移り、心理的衝撃を受けて、駄々こね行動を示す息子を、母親がなだめる行動というわけです。息子が若者期になる、つまり精子を作るようになると、交尾は起こらなくなるそうです。
これらを踏まえて、西田氏は表題の件を問題提起しています。多くの文化人類学者は、インセスト・タブーが人類普遍の習慣(ヒューマン・ユニヴァーサル)と考えているようだが、疑問があり、というわけです。普遍的なのは「インセスト回避」ではないか、というわけです。西田氏は、たとえば日本においてインセスト・タブーが存在すると言えるのか、と問題提起します。この問題は、定義による、と西田氏は指摘します。日本において近親相姦を犯した人が、自殺したり、逮捕されたり、村八分にあったり、何らかの罰を受けたりするだろうか、と西田氏は問います。嘲笑くらいは受けると思われるが、一般から「嘲笑を受ける」ことも罰に含めるなら、日本にもタブーがあると言えるにしても、社会の嘲笑を受けるような行動は、窃盗や万引きや剽窃や姦通や乱交や覗きなどいくらでもあり、それらはタブーとは呼ばれない、と指摘します。故に西田氏は、インセスト回避は普遍的であるものの、インセスト・タブーは一部の民族に限られるのではないか、と主張しています。
なお、インセスト・タブーは性交の「断念」との見解について西田氏は、「本来、ヒトは近親者とのセックスを願望している」ことを含意しており、フロイトのエディプス・コンプレックスというアイデアに由来し、これはフロイトが精神分析にあたったユダヤ社会に見られる事象であることを指摘します。これについて西田氏は、幼少時に兄弟姉妹を隔離して育てるユダヤの風習によって、兄弟姉妹間の間に本来生じるべき性的嫌悪が生まれなかった場合と解釈できることを指摘します。こういった兄弟姉妹を隔離する習慣がある民族はむしろ稀で、フロイトの発言は誤りではなかったものの、多くの民族のうちの一部にしか当てはまらない、と西田氏は指摘します。
近親相姦や人類の配偶行動については、以前から色々と考えてきましたが(関連記事)、さほど勉強が進んでおらず、いつかはある程度体系的にまとめよう、と考えています。この2001年4月7日のシンポジウム以降、古代ゲノム研究が飛躍的に発展し、古代の近親相姦についても色々と明らかになってきました。その結果、古代において近親相姦は一般的ではなかったことが明らかになりつつあるように思います(関連記事)。その中で、私がとくに注目した研究では、イタリア南部の中期青銅器時代人類集団において、父親と娘の近親相姦が報告されています(関連記事)。しかし、この集団で他に近親相姦と解釈できる事例は確認されていません。やはり、人類史において基本的に近親婚は回避されてきたのでしょう。イタリア南部の中期青銅器時代人類集団における近親相姦がどのような事情で起きたのか、周囲はどのように認識していたのか、あるいは認識していなかったのか、今となっては分かりません。さすがにここまで極端な近親相姦の事例は、古代ゲノム研究で今後も確認されることは稀だと思います。
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