河野有理『日本史はいかに物語られてきたか』
新潮選書の一冊として、新潮社から2026年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は戦後日本の思想史、とくに政治思想史を、「史観」の視点で検証し、歴史学者のみならず、作家や評論家も多数取り上げています。本書はそうしたさまざまな人々の「日本史」を、「面白い」か否かで評価する、と宣言します。これは、現在「歴史」が、「史実」と合致しているのかどうか、道徳的に正しいのかどうか、過度に気にする「癖」があり、かつては「歴史」との付き合い方にもう少し幅と奥行きがあったのではないか、との本書の問題意識に基づいています。以下、敬称は省略します。
本書がまず取り上げるのは、百田尚樹『日本国紀』です。本書は『日本国紀』のとくに前近代の記述について、淡々としている、と指摘します。私も以前、『日本国紀』は基本的に淡々とした叙述になっている、と述べたことがあり(関連記事)、本書のこの見解には同意します。本書は『日本国紀』について、「ストーリー」や「ナラティブ」が不在と指摘し、それを、「ストーリー」に不可欠な主体やキャラクターが不在であることと、因果関係への関心がほとんど払われていないことと関連づけています。『日本国紀』には「史観」がなく、「物語」が不在である、と本書は評価しています。ただ本書は、『日本国紀』の特徴として、「時代を超えたヒューマンドラマ」も挙げています。私は『日本国紀』について、歴史挿話集で、体系的な物語になっていない、と考えているので(関連記事)、本書の評価にはうなずけるところが多々ありました。
本書は続いて、『日本国紀』が強く依拠している渡部昇一『日本の歴史』全7巻を取り上げます。両者には多くの違いがあるものの、最大の違いは面白さと指摘します。独自の史観と「ストーリー」がある『日本の歴史』の方が、ずっと「面白い」というわけです。本書は、『日本の歴史』が最終的に「皇室の伝統」の連なりの強調に帰着する「内向きのナショナリズム」ならば、『日本国紀』は中韓に対する反発を軸とする「外向きのナショナリズム」と評価しています。
1990年代後半の「新しい歴史教科書をつくる会」をめぐる議論は、私も記憶に残っています。本書は、同会の批判者の中に、従来の保守運動とは異なる新たな可能性を認めた川本隆史がいたことに注目し、その「可能性の中心」として坂本多加雄を取り上げます。坂本多加雄は、個人が自分を世界の中で一貫した存在として位置づけるさいに、自分を主人公とする物語や「筋」を必要とするように、国家もそうした物語やナラティブを求める、と主張しました。本書は、「左派」が坂本のような議論を批判しながら、「左派」自身も特定の「物語」に依拠し。それを自覚できていない点を、正確に突いていた、と評価しています。坂本は、「平和と民主主義」や「世界革命」や「フランス革命の物語」といった「人類」の「(進歩の)物語」ではなく、「国家」や「国民」の物語が必要と
坂本多加雄とともに「新しい歴史教科書をつくる会」に参加した西尾幹二の『国民の歴史』について、本書は「天皇不在の史観」と評価しています。西尾が注目したのは「縄文時代」で、その長さが日本を固有の「文明」にした、と主張しました。本書はこれを、戦後日本の特殊な心性としての「縄文憧憬」と評価し、「縄文憧憬」は明らかに左派の思想資源だった、と指摘します。ただ、西尾の「縄文憧憬」を核とする「天皇抜きのナショナリズム」が、当時の保守論壇の総意を代表していたのか、疑わしいようです。
「新しい歴史教科書をつくる会」を積極的に批判していた人物に上野千鶴子がいますが、その問題提起は、新しい歴史教科書をつくる会」を強く批判していた人々には受け入れられないところもあったようです。上野は、「良心的な」歴史学の研究者と「新しい歴史教科書をつくる会」との間で、基本的な歴史観および国民観が共有されている、と主張しました。本書は、「新しい歴史教科書をつくる会」を批判していた人々にとって、歴史をさまざまな物語間の闘争として見る点で、上野と坂本多加雄の議論が「かみあう」ように見えた可能性を指摘します。もちろん、「かみあう」ことが「同じ」であることを意味しているわけではない、と本書は指摘します。
次に本書は、上野千鶴子との対談もあり、「新しい歴史教科書をつくる会」に対抗する側がまっさきに思い浮かべると考えられる、網野善彦を取り上げます。「網野史観」の重要な特徴として、本書は「日本国」の時空間的な相対化、「日本国」の内部における分権性と分極性の強調を指摘します。ただ本書は、網野の晩年の著作である『日本社会の歴史』(1997年)には、網野が課題としてきた天皇論は取り込まれず、その点で西尾幹二『国民の歴史』と共通しており、『日本社会の歴史』で捨てられた「筋」を拾い上げようとしたのが坂本多加雄だった、との見通しを提示しています。
佐藤誠三郎は、中曽根康弘政権の「ブレーン」として知られていました。佐藤は自民党支持を公言していましたが、それは、支持政党を明言せず、中立を装いながら、実際には党派的に振舞う「進歩的知識人」への強い反感に由来することを、本書は指摘します。その佐藤の共著である『文明としてのイエ社会』は、網野善彦の『日本社会』と同じく、日本社会の複数性に着目している、と本書は注意を喚起します。『文明としてのイエ社会』は、傑出した個人の活躍や漠然とした民衆の力ではなく、人類学的な意味での集団であるクランです。『文明としてのイエ社会』が重視する日本史上の「集団」は、「ウジ」と「イエ」です。『文明としてのイエ社会』は、11~16世紀にかけての「ウジ」から「イエ」への移行として日本史を描き出し、「イエ社会」が戦後日本にも強く残っていると指摘します。
『文明としてのイエ社会』は左派とフェミニズムの立場から関曠野の著書『野蛮としてのイエ社会』(1987年)で批判されましたが、関は『文明としてのイエ社会』の歴史叙述はほぼ全面的に肯定しました。関は、『文明としてのイエ社会』において天皇の存在が希薄なことを評価し、日本の左翼陣営が天皇制の意義を誇張する傾向について批判的でした。じっさいには、戦後の左翼陣営における天皇論は低調でしたが、1980年代に「日本の左翼陣営」(の一部)で、天皇論が盛んになっていたことも確かで、それを網野善彦とともに牽引したのが、日本史研究から人類学研究へと転身した山口昌男でした。山口は人類学的に天皇制を論じましたが、類似性を強調しても差異には鈍感だった、と本書は指摘します。また本書は、山口の王権論には保守的性格が潜んでおり、網野善彦が天皇制廃止論を明示的に主張するのに対して、山口が天皇の存在を直接的に否定したことはない、と指摘します。
本書は1973年刊行の小松左京『日本沈没』も取り上げており、未来学の文脈で登場したことを指摘します。未来学には、明るい未来像と悲観論の両端の振幅の大きさが含まれており、その悲観論は、大都市部の革新首長や国会での保革伯仲といった状況に対する保守勢力の危機感も背景としていた、と本書は指摘します。この未来学が盛り上がった頃に、古代史への関心も高まり、その流れから登場した梅原猛の古代史論は、「藤原氏史観」と評価されています。日本における国家成立は、藤原鎌足と藤原不比等の親子による「完全犯罪」だった、と梅原は主張します。梅原の主張の多くは上山春平との共同作業から出ており、上山は「縄文文化」を日本の「深層文化」として高く評価します。
山口昌男は吉本隆明を激しく批判しましたが、それは両者の問題意識の共通性に起因する近親憎悪でした。吉本の「転向論」は、「天皇制」と「大衆」を繰り返し対抗軸として参照し、当時の論壇における共産党の知的権威への挑戦でもあったことに、本書は注意を喚起します。吉本は、非共産党的左翼(新左翼)の思想圏の一つの中心となりましたが、過激なセクトにも馴染めなかったことを、本書は指摘します。1968年に刊行された吉本の著書『共同幻想論』は、国家とは「共同の幻想」で、「観念世界」の存在にすぎないのに、日本ではその点が充分に自覚されていない、と主張しました。本書は、問題意識を共有しながらも、義元が「起源」に拘ったのに対して、山口が「構造」に拘ったことを指摘します。
山本七平は、イザヤ・ベンダサン名義での著書や論考も含めて、1970年代に保守論壇の「顔」となりました。それを決定的にしたのは本多勝一との論争でしたが、日本社会の同調圧力に対して山本は一貫して否定的で、この点は本多のような「革新」側にとっても説得的で、とくに戦前日本社会の分析について、両者は多くを共有していた、と本書は評価します。山本と本多の対立点は、本多が自らを正義の側に置き、過去の日本を断罪したのに対して、山本は戦後の日本社会にも同調圧力は存在し、それは「革新」や「進歩」の側に重くのしかかっている、と看破したことにあった、と本書は指摘します。また本書は、本多など「革新」陣営が、山本の天皇制への見方が単純な礼賛論や擁護論などではなかったことを見過ごしている、と指摘します。
山本七平は司馬遼太郎の三島由紀夫事件についての論評を批判しましたが、本書は、多くの歴史小説を執筆し、人気作家となった司馬遼太郎と松本清張を比較しています。松本の歴史記述は基本的にマルクス主義、とくに日本の講座派の影響を受けており、「民衆の立場」に基づいていた、と本書は評価します。「土地公有論」も主張した司馬の近代日本史観は、明治と昭和を切り離して評価する点で、連続的に把握する松本と異なっていたとことを、本書は指摘します。松本は日本史に持続する「官」の偏在を凝視し、司馬は日本史に不在の「公」の可能性を幻視した、と本書は評価します。
本書は、史観をめぐる重要な論争とも言える昭和史論争も取り上げています。1955年に岩波新書で刊行された遠山茂樹と今井清一と藤原彰の『昭和史』を、翌年に亀井勝一郎が批判したことで始まりました。亀井は、皇国史観のつまらなさと唯物史観のつまらなさは、型にはまった無味乾燥な点で似ている、と論じました。ただ、本書はこの論争の背景に、亀井と遠山たちとの間の世代差も見ており、論者が主張したほどには両者の違いが大きくなかったことや、同時代の反響の大きさに対して、後世への影響力が小さかったことを指摘しています。この時期に固有の文脈で盛り上がったわけです。一方、同じ頃に進行していた近代化論争は近代化論とマルクス主義と近代主義の三派鼎立で、近代化論とマルクス主義は外形的な指標を重視する点で共通しながら、歴史的発展の見通しで相容れず、近代主義は歴史把握でマルクス主義に依拠しつつ、個人の価値意識を重視する点で近代化論およびマルクス主義と相容れなかった、と本書は指摘します。本書は、近代化論の影響が長く続き、その最大の影響は、大塚久雄や丸山眞男たち「近代主義」とマルクス主義の距離感が一気に遠ざかったことだった、と指摘します。
家永三郎は、「左翼陣営」が支援した教科書裁判で有名ですが、変節や転向が揶揄されたこともありました。時には、皇国史観から左翼史観への転向者とも言われましたが、この評価が不適切なことは、本書も認めています。ただ、家永の転向や変節が揶揄されたことについて、まったく理由がなかったわけではないことも、本書は指摘します。一つには、家永と皇国史観最大の大物とされる平泉澄との関係で、二人は東大文学部史学科の学生と主任教授の関係でしたし、家永は平泉の影響が大きい陸軍士官学校の教授職に応募しています(採用されませんでした)。さらに、家永は史料編纂所の嘱託になるとともに、文部省の外局として設置された教学局の助手としても1938~1941年に勤務しており、自身が主張するほど皇国史観との関係は遠くなかった、と本書は評価します。また、家永は戦前には聖徳太子から親鸞への連続性を強調していましたが、戦後に批判され、古代の鎮護国家的仏教を否定的に取り上げるようになり、戦後すぐの教育勅語への一定の評価も見られなくなります。
羽仁五郎は裕福な家に生まれ、マルクス主義者として弾圧されたものの、転向せず、それが戦後の権威と人気につながりました。羽仁は参議院選挙に全国区無所属で当選しましたが、1956年の参院選では22万票をかくとくしたものの、落選しました。前年に左右の社会党が統一し、それに対抗して保守合同によって自民党が誕生する中で、無所属議員の苦戦は免れなかったようです。ただ、既成左翼政党と「若者たち」の距離が拡大していく時期に政治の表舞台から姿を消したことは、「全共闘の時代」に「フレッシュな老人」として若者から人気を得ることにつながったようです。羽仁の代表作とも言える『都市の論理』は、内容的には「社共シンパ」の色合いが濃厚だったものの、「独裁」的な直接民主主義を鼓吹する羽仁の扇動は、各地の大学で疑似「人民裁判」を繰り広げた全共闘の思想および行動には、共鳴する一面があった、と本書は指摘します。
山川菊栄と高群逸枝の「恋愛」論争は、マルクス主義的フェミニズムの山川と、「新女性主義」構想の高群との違いを反映していました。ただ、高群の文章には理論的に不明確で曖昧なところがあり、高群は理論的分析を深めるのではなく、歴史を提示します。高群は、「日本婦人の典型」や「日本婦人の精神」を古代史に見いだしていき、女性史研究を進めていきます。高群が描く日本史は、古代には女性優位で、経時的に状況が悪化していくもので、古代への復帰を訴えました。高群は古代の日本社会が母系制と立証することを目指し、招婿婚は母系制社会の名残と考えました。高群の招婿婚に関する研究は家永三郎など歴史学の研究者にも支持されましたが、その後の研究で、史料批判に問題があった、と指摘されています。なお、人類の「原始(未開)社会」が一様に「母系」で、「男系社会」はそこから発展した、との見解は未だに根強いように思われますが、私は疑問に思っています(関連記事)。
皇国史観最大の大物とされる平泉澄は、1970年に『少年日本史』を著し、後に『物語日本史』と改題されて講談社学術文庫で刊行されました。ただ本書は、『少年日本史』に国粋主義的歴史叙述との印象はさほど強くない、と指摘します。たとえば、記紀の記事を鵜呑みにするのは無理とか、皇紀は事実より500~600年繰り上げられている、といった記述があります。私は1980年代に小学校の図書館で『少年日本史』を読んだことがあり、この平泉の指摘は強く印象に残りました。本書は、人物と書物を中心とした叙述になっている『物語日本史』は、『日本国紀』より物語として魅力的と評価します。『物語日本史』は、公共的価値を称揚し、それが最終的には必ず天皇に結びついています。ただ本書は、平泉自身が「皇国史観」を自称したことはなく、『物語日本史』は、平泉の戦前からの連続性よりも、むしろ非連続性に注目すべきと指摘します。本書は戦前の平泉と羽仁五郎との間に、イデオロギー的には対照的であっても、参照点となる外国文献や議論の枠組み、さらには実証史学を敵としていたことには共通点が見られることを指摘します。本書はこれについて、平泉の歴史観が、日本主義や国粋主義ではなく、羽仁五郎にとっても馴染み深い大正教養主義のバタ臭い側面を突き詰めた結果でもあることを、重視します。戦前の平泉は、「日本精神」の「発展段階」に関する構想がありましたが、『物語日本史』にはそれがまったく見られません。平泉の中では、「発展段階」論よりも「人格」間の「共鳴」を重視する論の臂臑が高くなっていき、日本史の特徴をある種の無時間性と考えるようになります。本書はそこから、平泉は次第に「正史」編纂そのものを忌避するようになったのではないか、と推測します。
本書はまとめとして、天皇の歴史と史的唯物論の二つの「正史」を極点として広がる言論空間の広がりと奥行きこそが、千前期における史論空間の豊穣さを育む沃土で、戦後はこうした「二つの正史」の存在感が失われていく過程だった、との見通しを提示しています。「天皇の歴史」は敗戦後の民主化で失墜し、「史的唯物論」も、冷戦終結のずっと前に、国際情勢とも連動した共産党の動揺と変質を契機として、その存在感が低下していきます。その後、知識層はどのように日本史を描いていくのか、苦闘し、「縄文時代」や中世が注目され、冷戦崩壊後の新たな「歴史」への希求として、「新しい歴史教科書をつくる会」もあった、と本書は評価しています。ただ、その後に、日本史を総体としてどう描くのか、との問題に正面から向き合うことがなくなった、と本書は指摘します。
本書がまず取り上げるのは、百田尚樹『日本国紀』です。本書は『日本国紀』のとくに前近代の記述について、淡々としている、と指摘します。私も以前、『日本国紀』は基本的に淡々とした叙述になっている、と述べたことがあり(関連記事)、本書のこの見解には同意します。本書は『日本国紀』について、「ストーリー」や「ナラティブ」が不在と指摘し、それを、「ストーリー」に不可欠な主体やキャラクターが不在であることと、因果関係への関心がほとんど払われていないことと関連づけています。『日本国紀』には「史観」がなく、「物語」が不在である、と本書は評価しています。ただ本書は、『日本国紀』の特徴として、「時代を超えたヒューマンドラマ」も挙げています。私は『日本国紀』について、歴史挿話集で、体系的な物語になっていない、と考えているので(関連記事)、本書の評価にはうなずけるところが多々ありました。
本書は続いて、『日本国紀』が強く依拠している渡部昇一『日本の歴史』全7巻を取り上げます。両者には多くの違いがあるものの、最大の違いは面白さと指摘します。独自の史観と「ストーリー」がある『日本の歴史』の方が、ずっと「面白い」というわけです。本書は、『日本の歴史』が最終的に「皇室の伝統」の連なりの強調に帰着する「内向きのナショナリズム」ならば、『日本国紀』は中韓に対する反発を軸とする「外向きのナショナリズム」と評価しています。
1990年代後半の「新しい歴史教科書をつくる会」をめぐる議論は、私も記憶に残っています。本書は、同会の批判者の中に、従来の保守運動とは異なる新たな可能性を認めた川本隆史がいたことに注目し、その「可能性の中心」として坂本多加雄を取り上げます。坂本多加雄は、個人が自分を世界の中で一貫した存在として位置づけるさいに、自分を主人公とする物語や「筋」を必要とするように、国家もそうした物語やナラティブを求める、と主張しました。本書は、「左派」が坂本のような議論を批判しながら、「左派」自身も特定の「物語」に依拠し。それを自覚できていない点を、正確に突いていた、と評価しています。坂本は、「平和と民主主義」や「世界革命」や「フランス革命の物語」といった「人類」の「(進歩の)物語」ではなく、「国家」や「国民」の物語が必要と
坂本多加雄とともに「新しい歴史教科書をつくる会」に参加した西尾幹二の『国民の歴史』について、本書は「天皇不在の史観」と評価しています。西尾が注目したのは「縄文時代」で、その長さが日本を固有の「文明」にした、と主張しました。本書はこれを、戦後日本の特殊な心性としての「縄文憧憬」と評価し、「縄文憧憬」は明らかに左派の思想資源だった、と指摘します。ただ、西尾の「縄文憧憬」を核とする「天皇抜きのナショナリズム」が、当時の保守論壇の総意を代表していたのか、疑わしいようです。
「新しい歴史教科書をつくる会」を積極的に批判していた人物に上野千鶴子がいますが、その問題提起は、新しい歴史教科書をつくる会」を強く批判していた人々には受け入れられないところもあったようです。上野は、「良心的な」歴史学の研究者と「新しい歴史教科書をつくる会」との間で、基本的な歴史観および国民観が共有されている、と主張しました。本書は、「新しい歴史教科書をつくる会」を批判していた人々にとって、歴史をさまざまな物語間の闘争として見る点で、上野と坂本多加雄の議論が「かみあう」ように見えた可能性を指摘します。もちろん、「かみあう」ことが「同じ」であることを意味しているわけではない、と本書は指摘します。
次に本書は、上野千鶴子との対談もあり、「新しい歴史教科書をつくる会」に対抗する側がまっさきに思い浮かべると考えられる、網野善彦を取り上げます。「網野史観」の重要な特徴として、本書は「日本国」の時空間的な相対化、「日本国」の内部における分権性と分極性の強調を指摘します。ただ本書は、網野の晩年の著作である『日本社会の歴史』(1997年)には、網野が課題としてきた天皇論は取り込まれず、その点で西尾幹二『国民の歴史』と共通しており、『日本社会の歴史』で捨てられた「筋」を拾い上げようとしたのが坂本多加雄だった、との見通しを提示しています。
佐藤誠三郎は、中曽根康弘政権の「ブレーン」として知られていました。佐藤は自民党支持を公言していましたが、それは、支持政党を明言せず、中立を装いながら、実際には党派的に振舞う「進歩的知識人」への強い反感に由来することを、本書は指摘します。その佐藤の共著である『文明としてのイエ社会』は、網野善彦の『日本社会』と同じく、日本社会の複数性に着目している、と本書は注意を喚起します。『文明としてのイエ社会』は、傑出した個人の活躍や漠然とした民衆の力ではなく、人類学的な意味での集団であるクランです。『文明としてのイエ社会』が重視する日本史上の「集団」は、「ウジ」と「イエ」です。『文明としてのイエ社会』は、11~16世紀にかけての「ウジ」から「イエ」への移行として日本史を描き出し、「イエ社会」が戦後日本にも強く残っていると指摘します。
『文明としてのイエ社会』は左派とフェミニズムの立場から関曠野の著書『野蛮としてのイエ社会』(1987年)で批判されましたが、関は『文明としてのイエ社会』の歴史叙述はほぼ全面的に肯定しました。関は、『文明としてのイエ社会』において天皇の存在が希薄なことを評価し、日本の左翼陣営が天皇制の意義を誇張する傾向について批判的でした。じっさいには、戦後の左翼陣営における天皇論は低調でしたが、1980年代に「日本の左翼陣営」(の一部)で、天皇論が盛んになっていたことも確かで、それを網野善彦とともに牽引したのが、日本史研究から人類学研究へと転身した山口昌男でした。山口は人類学的に天皇制を論じましたが、類似性を強調しても差異には鈍感だった、と本書は指摘します。また本書は、山口の王権論には保守的性格が潜んでおり、網野善彦が天皇制廃止論を明示的に主張するのに対して、山口が天皇の存在を直接的に否定したことはない、と指摘します。
本書は1973年刊行の小松左京『日本沈没』も取り上げており、未来学の文脈で登場したことを指摘します。未来学には、明るい未来像と悲観論の両端の振幅の大きさが含まれており、その悲観論は、大都市部の革新首長や国会での保革伯仲といった状況に対する保守勢力の危機感も背景としていた、と本書は指摘します。この未来学が盛り上がった頃に、古代史への関心も高まり、その流れから登場した梅原猛の古代史論は、「藤原氏史観」と評価されています。日本における国家成立は、藤原鎌足と藤原不比等の親子による「完全犯罪」だった、と梅原は主張します。梅原の主張の多くは上山春平との共同作業から出ており、上山は「縄文文化」を日本の「深層文化」として高く評価します。
山口昌男は吉本隆明を激しく批判しましたが、それは両者の問題意識の共通性に起因する近親憎悪でした。吉本の「転向論」は、「天皇制」と「大衆」を繰り返し対抗軸として参照し、当時の論壇における共産党の知的権威への挑戦でもあったことに、本書は注意を喚起します。吉本は、非共産党的左翼(新左翼)の思想圏の一つの中心となりましたが、過激なセクトにも馴染めなかったことを、本書は指摘します。1968年に刊行された吉本の著書『共同幻想論』は、国家とは「共同の幻想」で、「観念世界」の存在にすぎないのに、日本ではその点が充分に自覚されていない、と主張しました。本書は、問題意識を共有しながらも、義元が「起源」に拘ったのに対して、山口が「構造」に拘ったことを指摘します。
山本七平は、イザヤ・ベンダサン名義での著書や論考も含めて、1970年代に保守論壇の「顔」となりました。それを決定的にしたのは本多勝一との論争でしたが、日本社会の同調圧力に対して山本は一貫して否定的で、この点は本多のような「革新」側にとっても説得的で、とくに戦前日本社会の分析について、両者は多くを共有していた、と本書は評価します。山本と本多の対立点は、本多が自らを正義の側に置き、過去の日本を断罪したのに対して、山本は戦後の日本社会にも同調圧力は存在し、それは「革新」や「進歩」の側に重くのしかかっている、と看破したことにあった、と本書は指摘します。また本書は、本多など「革新」陣営が、山本の天皇制への見方が単純な礼賛論や擁護論などではなかったことを見過ごしている、と指摘します。
山本七平は司馬遼太郎の三島由紀夫事件についての論評を批判しましたが、本書は、多くの歴史小説を執筆し、人気作家となった司馬遼太郎と松本清張を比較しています。松本の歴史記述は基本的にマルクス主義、とくに日本の講座派の影響を受けており、「民衆の立場」に基づいていた、と本書は評価します。「土地公有論」も主張した司馬の近代日本史観は、明治と昭和を切り離して評価する点で、連続的に把握する松本と異なっていたとことを、本書は指摘します。松本は日本史に持続する「官」の偏在を凝視し、司馬は日本史に不在の「公」の可能性を幻視した、と本書は評価します。
本書は、史観をめぐる重要な論争とも言える昭和史論争も取り上げています。1955年に岩波新書で刊行された遠山茂樹と今井清一と藤原彰の『昭和史』を、翌年に亀井勝一郎が批判したことで始まりました。亀井は、皇国史観のつまらなさと唯物史観のつまらなさは、型にはまった無味乾燥な点で似ている、と論じました。ただ、本書はこの論争の背景に、亀井と遠山たちとの間の世代差も見ており、論者が主張したほどには両者の違いが大きくなかったことや、同時代の反響の大きさに対して、後世への影響力が小さかったことを指摘しています。この時期に固有の文脈で盛り上がったわけです。一方、同じ頃に進行していた近代化論争は近代化論とマルクス主義と近代主義の三派鼎立で、近代化論とマルクス主義は外形的な指標を重視する点で共通しながら、歴史的発展の見通しで相容れず、近代主義は歴史把握でマルクス主義に依拠しつつ、個人の価値意識を重視する点で近代化論およびマルクス主義と相容れなかった、と本書は指摘します。本書は、近代化論の影響が長く続き、その最大の影響は、大塚久雄や丸山眞男たち「近代主義」とマルクス主義の距離感が一気に遠ざかったことだった、と指摘します。
家永三郎は、「左翼陣営」が支援した教科書裁判で有名ですが、変節や転向が揶揄されたこともありました。時には、皇国史観から左翼史観への転向者とも言われましたが、この評価が不適切なことは、本書も認めています。ただ、家永の転向や変節が揶揄されたことについて、まったく理由がなかったわけではないことも、本書は指摘します。一つには、家永と皇国史観最大の大物とされる平泉澄との関係で、二人は東大文学部史学科の学生と主任教授の関係でしたし、家永は平泉の影響が大きい陸軍士官学校の教授職に応募しています(採用されませんでした)。さらに、家永は史料編纂所の嘱託になるとともに、文部省の外局として設置された教学局の助手としても1938~1941年に勤務しており、自身が主張するほど皇国史観との関係は遠くなかった、と本書は評価します。また、家永は戦前には聖徳太子から親鸞への連続性を強調していましたが、戦後に批判され、古代の鎮護国家的仏教を否定的に取り上げるようになり、戦後すぐの教育勅語への一定の評価も見られなくなります。
羽仁五郎は裕福な家に生まれ、マルクス主義者として弾圧されたものの、転向せず、それが戦後の権威と人気につながりました。羽仁は参議院選挙に全国区無所属で当選しましたが、1956年の参院選では22万票をかくとくしたものの、落選しました。前年に左右の社会党が統一し、それに対抗して保守合同によって自民党が誕生する中で、無所属議員の苦戦は免れなかったようです。ただ、既成左翼政党と「若者たち」の距離が拡大していく時期に政治の表舞台から姿を消したことは、「全共闘の時代」に「フレッシュな老人」として若者から人気を得ることにつながったようです。羽仁の代表作とも言える『都市の論理』は、内容的には「社共シンパ」の色合いが濃厚だったものの、「独裁」的な直接民主主義を鼓吹する羽仁の扇動は、各地の大学で疑似「人民裁判」を繰り広げた全共闘の思想および行動には、共鳴する一面があった、と本書は指摘します。
山川菊栄と高群逸枝の「恋愛」論争は、マルクス主義的フェミニズムの山川と、「新女性主義」構想の高群との違いを反映していました。ただ、高群の文章には理論的に不明確で曖昧なところがあり、高群は理論的分析を深めるのではなく、歴史を提示します。高群は、「日本婦人の典型」や「日本婦人の精神」を古代史に見いだしていき、女性史研究を進めていきます。高群が描く日本史は、古代には女性優位で、経時的に状況が悪化していくもので、古代への復帰を訴えました。高群は古代の日本社会が母系制と立証することを目指し、招婿婚は母系制社会の名残と考えました。高群の招婿婚に関する研究は家永三郎など歴史学の研究者にも支持されましたが、その後の研究で、史料批判に問題があった、と指摘されています。なお、人類の「原始(未開)社会」が一様に「母系」で、「男系社会」はそこから発展した、との見解は未だに根強いように思われますが、私は疑問に思っています(関連記事)。
皇国史観最大の大物とされる平泉澄は、1970年に『少年日本史』を著し、後に『物語日本史』と改題されて講談社学術文庫で刊行されました。ただ本書は、『少年日本史』に国粋主義的歴史叙述との印象はさほど強くない、と指摘します。たとえば、記紀の記事を鵜呑みにするのは無理とか、皇紀は事実より500~600年繰り上げられている、といった記述があります。私は1980年代に小学校の図書館で『少年日本史』を読んだことがあり、この平泉の指摘は強く印象に残りました。本書は、人物と書物を中心とした叙述になっている『物語日本史』は、『日本国紀』より物語として魅力的と評価します。『物語日本史』は、公共的価値を称揚し、それが最終的には必ず天皇に結びついています。ただ本書は、平泉自身が「皇国史観」を自称したことはなく、『物語日本史』は、平泉の戦前からの連続性よりも、むしろ非連続性に注目すべきと指摘します。本書は戦前の平泉と羽仁五郎との間に、イデオロギー的には対照的であっても、参照点となる外国文献や議論の枠組み、さらには実証史学を敵としていたことには共通点が見られることを指摘します。本書はこれについて、平泉の歴史観が、日本主義や国粋主義ではなく、羽仁五郎にとっても馴染み深い大正教養主義のバタ臭い側面を突き詰めた結果でもあることを、重視します。戦前の平泉は、「日本精神」の「発展段階」に関する構想がありましたが、『物語日本史』にはそれがまったく見られません。平泉の中では、「発展段階」論よりも「人格」間の「共鳴」を重視する論の臂臑が高くなっていき、日本史の特徴をある種の無時間性と考えるようになります。本書はそこから、平泉は次第に「正史」編纂そのものを忌避するようになったのではないか、と推測します。
本書はまとめとして、天皇の歴史と史的唯物論の二つの「正史」を極点として広がる言論空間の広がりと奥行きこそが、千前期における史論空間の豊穣さを育む沃土で、戦後はこうした「二つの正史」の存在感が失われていく過程だった、との見通しを提示しています。「天皇の歴史」は敗戦後の民主化で失墜し、「史的唯物論」も、冷戦終結のずっと前に、国際情勢とも連動した共産党の動揺と変質を契機として、その存在感が低下していきます。その後、知識層はどのように日本史を描いていくのか、苦闘し、「縄文時代」や中世が注目され、冷戦崩壊後の新たな「歴史」への希求として、「新しい歴史教科書をつくる会」もあった、と本書は評価しています。ただ、その後に、日本史を総体としてどう描くのか、との問題に正面から向き合うことがなくなった、と本書は指摘します。
この記事へのコメント
しかし、終戦直後の勃興から20年~30年ほど経った60年代後半にピークを迎えて70年代に大衆に敬遠され沈静化していった左翼運動のように、20年~30年ほど経った今をピークとして2030年代に飽きられる可能性があると考えます。
特にイラン戦争が引き起こすエネルギー混乱による右派政権の掲げる経済の失墜、徴兵制や文化統制を声高に叫ぶ宗教系の先鋭化、防衛増税など軍事費負担の増加などが大衆を右翼的感情から遠ざけると想定します。
ただ、その後の政治状況は、専門家ではない自分には見えにくく、不安は残ります。