Brian M. Fagan『現代人の起源論争 新訂版 人類二度目の旅路』

 ブライアン・M・フェイガン(Brian M. Fagan)著、河合信和訳で、どうぶつ社より1997年6月に刊行されました。初版の刊行は1994年、原書の刊行は1990年です。当ブログを始める前に読んでおり、まだ当ブログで取り上げておらず、最近再読した本も今後当ブログに掲載していくことにしましたが、本書もその一環です。本書を取り上げた主要な目的は、人類、とくに現生人類(Homo sapiens)の進化の学説史を整理することです。もちろん、今となっては、訂正されたり否定されたりした1980年代の学説は多いものの、1990年代には気づかなかったり理解できなかったり見落としたりしていた視点を認識できるのではないか、とも考えて再読しました。

 本書では、現生人類はホモ・サピエンス・サピエンス(Homo sapiens sapiens)とされています。最近ではこの分類はあまり使われていないようで、現生人類はホモ・サピエンス(Homo sapiens)、ネアンデルタール人はホモ・ネアンデルターレンシス(Homo neanderthalensis)とされていますが、2022年に刊行されたコーカサスのネアンデルタール人の古代DNAデータを報告した研究(Andreeva et al., 2022)では、ネアンデルタール人は現生人類の亜種(Homo sapiens neanderthalensis)、ハイデルベルク人も現生人類の亜種と(Homo sapiens heidelbergensis)とされています。

 表題にあるように、本書の主題は現代人の起源をめぐる論争で、現生人類多地域進化説と現生人類アフリカ単一起源説が詳しく紹介されています。原書は1980年代までの現生人類の起源を巡る論争が整理されていますが、当時は多地域進化説が一方の有力な仮説として認識されており、今になって隔世の感があります。本書では、現生人類多地域進化説を「枝付き燭台」モデル、現生人類アフリカ単一起源説を「ノアの箱舟」モデルと呼んでいます。本書では考古学的知見を中心に議論が展開されていますが、当時、黎明期だったDNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)研究も少し取り上げられており、mtDNA(mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)で現代人の起源が20万年前頃以降のアフリカにある、との一般にも広く知られることになった研究(Cann et al.,1987)は、とくに詳しく解説されています。

 ネアンデルタール人については、かなり詳しく取り上げられています。当時も今も、現生人類の起源や拡散や固有性や他系統の人類が絶滅した理由をめぐる議論で、ネアンデルタール人は中心になっています。これは、ネアンデルタール人が現生人類と近い系統の人類と考えられ、同時代に存在し、地域によって共存していた可能性も考えられるからですが、何よりも、ネアンデルタール人研究が進んでいることこそ最大の理由と言うべきでしょう。ネアンデルタール人の主要な生息地域だったヨーロッパは、世界で最初に近代化が進展し、近代科学発祥の地となったので、その経済的豊かさと学術的発展から、発掘と研究が進みやすい傾向にありました。その意味で、現生人類の起源や拡散や固有性をめぐる議論でネアンデルタール人が中心になっていることには、偏りがあります。これは現在も解消されていない問題で、1990年時点では尚更です。

 ただ、原書は1990年刊行ながら、現生人類の起源と拡散の問題についてヨーロッパのみならずアジアやオセアニアも取り上げており、こうした偏りを前提とせずに、広い視野から現生人類の起源と拡散が検証されています。ただ、本書でもたびたび言及されるように、アジアやオセアニアやワラセアについて、当時の知識はきわめて限られていました。もちろん、今でもこれらの地域はヨーロッパと比較して人類進化の証拠が少ないことは否定できないでしょうが、原書刊行以降、当時の研究者からは信じられないような発見が相次ぎ、たとえば、ワラセアでは、100万年以上前の人類の存在が確認されています(Hakim et al., 2025)。

 とはいえ、本書でもやはりヨーロッパに多くの分量が割かれており、ブルガリアのバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)も取り上げられています。バチョキロ洞窟の現生人類遺骸のゲノムが解析され、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)の44000年前頃の個体とオーリナシアン(Aurignacian、オーリニャック文化)の36000年前頃の個体では遺伝的構成が大きく異なる、と後に明らかになったこと(Hajdinjak et al., 2021)は、当時の研究者には予想外だったでしょう。当時でも考古学的研究と形質人類学的研究が他地域よりずっと進んでいたこともあってか、本書ではヨーロッパにおけるネアンデルタール人から現生人類への置換説にはかなり堅固な土台がある、と評価されています。

 本書ではアメリカ大陸への人類の拡散も取り上げられており、早くも3万年前頃に到達していた、との早期説と、15000年前頃以後にアラスカに到達した、との後期説が提示されています。アメリカ大陸への人類の拡散時期については、原書刊行後に研究が大きく進展し、15000年以上前の人類の痕跡を示す証拠が増えつつあります。それらの証拠の中には、今後の研究で否定されるものもあるでしょうが、その全てが否定される可能性は低いように思います。完新世のアメリカ大陸先住民への遺伝的寄与は小さいか、ほぼ皆無かもしれませんが、アメリカ大陸に15000年以上前に人類が拡散していた可能性は高いように思います。

 本書は基本的に更新世を対象としていますが、1章を割いて完新世も短く取り上げています。完新世における人類の拡散で特筆されるのはポリネシアで、この広大な地域への拡散で、地球全体への先史時代の移住は終わった、と本書は評価しています。本書は最後に、現生人類の起源について総括し、二つの仮説(多地域進化説とアフリカ単一起源説)のうち、遺伝学でも形質人類学でも考古学でも、サハラ砂漠以南のアフリカである可能性が高いことを指摘します。本書では100万年前頃とされているホモ・エレクトス(Homo erectus)のアフリカからの拡散年代など、年代についてはその後の研究で変わったところもありますし、遺伝学については原書刊行後に劇的な進展がありましたが、本書が提示した現生人類の起源と拡散について、大枠では妥当なところが多いように思います。


参考文献:
Andreeva TV. et al.(2022): Genomic analysis of a novel Neanderthal from Mezmaiskaya Cave provides insights into the genetic relationships of Middle Palaeolithic populations. Scientific Reports, 12, 13016.
https://doi.org/10.1038/s41598-022-16164-9
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Cann RL. et al.(1987): Mitochondrial DNA and human evolution. Nature, 325, 6099, 31-36.
https://doi.org/10.1038/325031a0
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Fagan BM.著(1997)、河合信和訳『現代人の起源論争 新訂版 人類二度目の旅路』(どうぶつ社、原書の刊行は1990年、初版の刊行は1994年)

Hakim C. et al.(2025): Hominins on Sulawesi during the Early Pleistocene. Nature, 646, 8084, 378–383.
https://doi.org/10.1038/s41586-025-09348-6
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Hajdinjak M. et al.(2021): Initial Upper Palaeolithic humans in Europe had recent Neanderthal ancestry. Nature, 592, 7853, 253–257.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03335-3
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