三谷博『明治維新10講』
岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2025年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は明治維新を、国内政局のみならず、広く世界史に位置づけています。本書はまず、体制改革の必要性は認識されても、最終的な目標を設定し、その必要性と正当性を訴えた人物がいなかった点で、明治維新はフランス革命やロシア革命とは異なる、と指摘します。明治維新には、代替構想も革命党も存在せず、目前の課題に注目し、議論しただけだった、というわけです。また本書は、他の革命と比較しての、明治維新における犠牲者が少なかったことも指摘します。本書では、「革命」は「体制(政治体制、社会的権利)」の人為的変革との意味で用いられています。
本書は明治維新の前提として、まず近世の政治体制を解説します。本書は近世日本の政治体制を「双頭・連邦」と呼んでおり、これは著者が創った概念です。近世日本には、京都の天皇と江戸の将軍の2人の君主がおり、将軍の配下には200人以上の大名がいました。武士では知行に地方知行(土地の直接的支給)と蔵米知行(大名からの俸禄としての支給)がありましたが、地方知行も実質的には蔵米知行と同様の事例が少なくはなく、家臣の大名への重属性が高いこうした体制は、明治維新の前提承久の一つになっているようです。大名の家臣は、重臣と平士と徒士に大別されます。大名家での意思決定は、下級から上級への提案を、家老会議が実質的に最終判断して、大名が権威を付与する体制でした。近世の平民の多くは、その居住地によって百姓(農村部)と町人(都市部)に区別されます。18世紀以降の商品作物の発展に伴い、大名側が平民を「国家(大名領国)」に包摂する傾向が強くなります。こうした近世後期の日本全体にまたがる交流網は、市場のみならず学問でも形成され、そうした知識層は交流の中で「方言」と「中央標準語」を使い分けるようになります。
これらは明治維新の国内的前提となりますが、本書は国際的前提も重視しています。つまり、明治維新の犠牲者がフランス革命やロシア革命よりずっと少なかったのは、隣国の日本への関心が低く、近世アジア東部の各国は互いに疎遠だったわけです。本書は、近世日本の国境閉鎖政策は厳しく、その対外方針は「海禁」ではなく「鎖国」と呼ぶほかない、と主張します。近世アジア東部の国際秩序では、ダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の中華王朝的側面では、華夷秩序が形成され、琉球や朝鮮やベトナムが加わり、日本は直接的には加わりませんでしたが、近世日本では日本を中心・頂点とする「中華」の秩序観が形成されます。対外的には閉鎖的な近世日本では、その世界像が、中世までの天竺(インド)と震旦(唐、中華地域)と本朝(日本)から、日本と世界の二分法へと変わっていきます。また、閉鎖的な社会ではあっても、近世後期には蘭学を通じて世界への関心が高まります。近世日本の対西洋政策は松平定信政権期に始まり、その継承が幕末の交渉で活かされたようです。松平定信は、「鎖国」を堅持しつつ、「避戦」に配慮し、万一に備えて「海防」も進めようとしました。こうした方針を可能にしたのはアジア東部の国際環境でしたが、それはアヘン戦争で根本的に変わります。
アヘン戦争に幕府(公儀)幕閣は危機感を強め、天保の改革は対処の一環でしたが、失敗に終わります。その後、幕閣で政権を担った阿部正弘は、鎖国政策の強化を意図し、海防に庶民の動員も提案します。当時の公犠はおおむね、避戦では一致していたものの、鎖国の維持と海防充実では意見が別れていました。この状況で1853年にペリーが来航し、公犠は大名と旗本全員に意見を諮問しています。翌年の日米和親条約では、日本側の思惑通り、通商と通信は回避され、本書は時間稼ぎの条約と評価しています。アメリカ合衆国はこれ以降、日本に通商を望み、日本は1857年にオランダ、続いてロシアと締結した通商取り決めに準拠する予定でしたが、交渉全権の1人だった岩瀬忠震は開国急進派で、急進的な方針に転換し、1858年2月には、日米条約案が妥結したものの、その調印は朝廷の承認を得るために延期されました。公儀はこの条約交渉の間に大名に諮問しましたが、日米和親条約のさいとは異なり、大半は通商開始を支持し、強硬な反対論は少数でした。
この日米通商開始の承認を朝廷から得ようとしたことと、同時に進行していた将軍後継者が絡み合い、日米和親条約締結後に安定していた国内政局は、突如として激しい対立に至り、体制に修復不可能な亀裂が生じた、との見通しを本書は提示します。こに対立の背景には、軍事的脅迫による条約締結は屈辱との認識がありました。本書はこの体制不安定化の背景として、近世において平時には社会の安定に寄与していた地位と富と権能の不整合が、西洋による侵略が現実になった激動期には、とても放置できなくなったことも指摘しています。朝廷や大大名や志士といった従来は公儀の政治に関わらず、基本的には公儀に従っていた勢力が、公儀と対立を深めていきます。この間、大老に就任した井伊直弼が、有力大名やその家臣などに強硬な処分を下したことから、おおむね同意を得ていた条約が「不正」とみなされ、以後の政局では難題となります。この激しい政治対立は桜田門外の変に至り、公儀の正統性を傷つけました。人々は公儀から距離を置き始め、「幕府」という呼称が急速に普及します。この政争激化によって、公儀の全国政治独占が破れ、暗殺が横行し、大義があれば、暴力も含めて身分不相応の行動が許容される、との認識が広がりました。この過程で、「公議」や「公論」といった政治用語が普及し、「王政」復古を展望する者さえ現れました。
桜田門外の変以後の、政治勢力については幕府と越前および薩摩と志士(+長州)、争点については公議と攘夷と強兵と、本書はまとめています。幕府は洋式海軍設立を最優先課題と考えていたなど、各勢力の各争点への立場と優先度は異なっており、それが政争を激化させ、秩序を崩壊させていきました。本書はこの間の政争について、対外問題が争点の核となったものの、世界情勢に基づく長期的で合理的な判断よりも、内政の是正を主張する急進主義が政局の全体を支配した、と評価しています。攘夷急進主義は1863〜1864年の一連の政治的事件によって失墜し、この間に日米の通商条約問題以降こじれていた朝廷と幕府の和解も進みま、「公武合体」体制が成立しますが、幕府は一部有力大名が提案した「公議」の制度化(公議政体)を認めず、本書は幕府の運命の大きな分岐点を見ています。この間、西洋列強は薩摩や長州など攘夷派と見ていた大藩が開港策に転じた一方で、朝廷対策のため横浜鎖港に拘った幕府への疑念を深めます。
幕府から公議政体への移行を何度も断わられた薩摩は、激しく対立していた長州に接近します。その後の第二次長州征討は幕府の事実上の敗北に終わり、近世日本の秩序を支えていた幕府の「御威光」は消滅した、と本書は指摘します。ここで、徳川慶喜は拒否し続けていた公議政体への移行も考慮し始めます。しかし、孝明天皇は「公武合体」体制に拘り、徳川慶喜は就任に慎重だった将軍に任じられますが、その直後に孝明天皇が急死し、徳川慶喜は最大の政治的後ろ盾を失います。1867年、四侯と徳川慶喜との会議でも、公議体制への移行はなされず、薩摩と土佐の提携と駆け引きが続く中で、徳川慶喜は朝廷への政権返上を諸大名の代表者の前で宣言します(大政奉還)。徳川慶喜はこれを、土佐や薩摩への譲歩ではなく、新体制構築の好機と考えていました。この時点での徳川慶喜の構想は、公議と集権化と脱身分化の点で薩摩や長州と変わらず、両者の徳川の役割と実現の方法で、薩長は徳川の排除を構想していました。徳川慶喜の構想は、王政復古の政変から鳥羽・伏見の戦いへと至る激動の中で破綻しました。
こうして明治政府が誕生しますが、その集権化と脱身分化から、単なる政権移動ではなかった、と本書は評価しています。明治政府発足直後の五箇条誓文では、第1条で幕末政治の主題だった「公議」と「公論」が、第2条では脱身分化が、第4条と第5条では旧慣打破と世界から学ぶことが謳われました。明治政府は発足から10年も経たずに、大名領国を廃止し、武士身分の解体と被差別身分の平民統合を進めました。この急進的な改革には反作用もあり、廃藩置県からの7年間は、内乱が相次ぎました。これらの内乱を鎮圧した明治政府は国内の軍事組織を独占し、それが政府批判の言論にも比較的寛容だった理由ではないか、と本書は推測します。こうして明治政府は安定しますが、本書は近世との比較で、集権化や脱身分化とともに、責任主体が共同体から各家、さらには個人へと移ったことも指摘します。
本書は明治維新の前提として、まず近世の政治体制を解説します。本書は近世日本の政治体制を「双頭・連邦」と呼んでおり、これは著者が創った概念です。近世日本には、京都の天皇と江戸の将軍の2人の君主がおり、将軍の配下には200人以上の大名がいました。武士では知行に地方知行(土地の直接的支給)と蔵米知行(大名からの俸禄としての支給)がありましたが、地方知行も実質的には蔵米知行と同様の事例が少なくはなく、家臣の大名への重属性が高いこうした体制は、明治維新の前提承久の一つになっているようです。大名の家臣は、重臣と平士と徒士に大別されます。大名家での意思決定は、下級から上級への提案を、家老会議が実質的に最終判断して、大名が権威を付与する体制でした。近世の平民の多くは、その居住地によって百姓(農村部)と町人(都市部)に区別されます。18世紀以降の商品作物の発展に伴い、大名側が平民を「国家(大名領国)」に包摂する傾向が強くなります。こうした近世後期の日本全体にまたがる交流網は、市場のみならず学問でも形成され、そうした知識層は交流の中で「方言」と「中央標準語」を使い分けるようになります。
これらは明治維新の国内的前提となりますが、本書は国際的前提も重視しています。つまり、明治維新の犠牲者がフランス革命やロシア革命よりずっと少なかったのは、隣国の日本への関心が低く、近世アジア東部の各国は互いに疎遠だったわけです。本書は、近世日本の国境閉鎖政策は厳しく、その対外方針は「海禁」ではなく「鎖国」と呼ぶほかない、と主張します。近世アジア東部の国際秩序では、ダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の中華王朝的側面では、華夷秩序が形成され、琉球や朝鮮やベトナムが加わり、日本は直接的には加わりませんでしたが、近世日本では日本を中心・頂点とする「中華」の秩序観が形成されます。対外的には閉鎖的な近世日本では、その世界像が、中世までの天竺(インド)と震旦(唐、中華地域)と本朝(日本)から、日本と世界の二分法へと変わっていきます。また、閉鎖的な社会ではあっても、近世後期には蘭学を通じて世界への関心が高まります。近世日本の対西洋政策は松平定信政権期に始まり、その継承が幕末の交渉で活かされたようです。松平定信は、「鎖国」を堅持しつつ、「避戦」に配慮し、万一に備えて「海防」も進めようとしました。こうした方針を可能にしたのはアジア東部の国際環境でしたが、それはアヘン戦争で根本的に変わります。
アヘン戦争に幕府(公儀)幕閣は危機感を強め、天保の改革は対処の一環でしたが、失敗に終わります。その後、幕閣で政権を担った阿部正弘は、鎖国政策の強化を意図し、海防に庶民の動員も提案します。当時の公犠はおおむね、避戦では一致していたものの、鎖国の維持と海防充実では意見が別れていました。この状況で1853年にペリーが来航し、公犠は大名と旗本全員に意見を諮問しています。翌年の日米和親条約では、日本側の思惑通り、通商と通信は回避され、本書は時間稼ぎの条約と評価しています。アメリカ合衆国はこれ以降、日本に通商を望み、日本は1857年にオランダ、続いてロシアと締結した通商取り決めに準拠する予定でしたが、交渉全権の1人だった岩瀬忠震は開国急進派で、急進的な方針に転換し、1858年2月には、日米条約案が妥結したものの、その調印は朝廷の承認を得るために延期されました。公儀はこの条約交渉の間に大名に諮問しましたが、日米和親条約のさいとは異なり、大半は通商開始を支持し、強硬な反対論は少数でした。
この日米通商開始の承認を朝廷から得ようとしたことと、同時に進行していた将軍後継者が絡み合い、日米和親条約締結後に安定していた国内政局は、突如として激しい対立に至り、体制に修復不可能な亀裂が生じた、との見通しを本書は提示します。こに対立の背景には、軍事的脅迫による条約締結は屈辱との認識がありました。本書はこの体制不安定化の背景として、近世において平時には社会の安定に寄与していた地位と富と権能の不整合が、西洋による侵略が現実になった激動期には、とても放置できなくなったことも指摘しています。朝廷や大大名や志士といった従来は公儀の政治に関わらず、基本的には公儀に従っていた勢力が、公儀と対立を深めていきます。この間、大老に就任した井伊直弼が、有力大名やその家臣などに強硬な処分を下したことから、おおむね同意を得ていた条約が「不正」とみなされ、以後の政局では難題となります。この激しい政治対立は桜田門外の変に至り、公儀の正統性を傷つけました。人々は公儀から距離を置き始め、「幕府」という呼称が急速に普及します。この政争激化によって、公儀の全国政治独占が破れ、暗殺が横行し、大義があれば、暴力も含めて身分不相応の行動が許容される、との認識が広がりました。この過程で、「公議」や「公論」といった政治用語が普及し、「王政」復古を展望する者さえ現れました。
桜田門外の変以後の、政治勢力については幕府と越前および薩摩と志士(+長州)、争点については公議と攘夷と強兵と、本書はまとめています。幕府は洋式海軍設立を最優先課題と考えていたなど、各勢力の各争点への立場と優先度は異なっており、それが政争を激化させ、秩序を崩壊させていきました。本書はこの間の政争について、対外問題が争点の核となったものの、世界情勢に基づく長期的で合理的な判断よりも、内政の是正を主張する急進主義が政局の全体を支配した、と評価しています。攘夷急進主義は1863〜1864年の一連の政治的事件によって失墜し、この間に日米の通商条約問題以降こじれていた朝廷と幕府の和解も進みま、「公武合体」体制が成立しますが、幕府は一部有力大名が提案した「公議」の制度化(公議政体)を認めず、本書は幕府の運命の大きな分岐点を見ています。この間、西洋列強は薩摩や長州など攘夷派と見ていた大藩が開港策に転じた一方で、朝廷対策のため横浜鎖港に拘った幕府への疑念を深めます。
幕府から公議政体への移行を何度も断わられた薩摩は、激しく対立していた長州に接近します。その後の第二次長州征討は幕府の事実上の敗北に終わり、近世日本の秩序を支えていた幕府の「御威光」は消滅した、と本書は指摘します。ここで、徳川慶喜は拒否し続けていた公議政体への移行も考慮し始めます。しかし、孝明天皇は「公武合体」体制に拘り、徳川慶喜は就任に慎重だった将軍に任じられますが、その直後に孝明天皇が急死し、徳川慶喜は最大の政治的後ろ盾を失います。1867年、四侯と徳川慶喜との会議でも、公議体制への移行はなされず、薩摩と土佐の提携と駆け引きが続く中で、徳川慶喜は朝廷への政権返上を諸大名の代表者の前で宣言します(大政奉還)。徳川慶喜はこれを、土佐や薩摩への譲歩ではなく、新体制構築の好機と考えていました。この時点での徳川慶喜の構想は、公議と集権化と脱身分化の点で薩摩や長州と変わらず、両者の徳川の役割と実現の方法で、薩長は徳川の排除を構想していました。徳川慶喜の構想は、王政復古の政変から鳥羽・伏見の戦いへと至る激動の中で破綻しました。
こうして明治政府が誕生しますが、その集権化と脱身分化から、単なる政権移動ではなかった、と本書は評価しています。明治政府発足直後の五箇条誓文では、第1条で幕末政治の主題だった「公議」と「公論」が、第2条では脱身分化が、第4条と第5条では旧慣打破と世界から学ぶことが謳われました。明治政府は発足から10年も経たずに、大名領国を廃止し、武士身分の解体と被差別身分の平民統合を進めました。この急進的な改革には反作用もあり、廃藩置県からの7年間は、内乱が相次ぎました。これらの内乱を鎮圧した明治政府は国内の軍事組織を独占し、それが政府批判の言論にも比較的寛容だった理由ではないか、と本書は推測します。こうして明治政府は安定しますが、本書は近世との比較で、集権化や脱身分化とともに、責任主体が共同体から各家、さらには個人へと移ったことも指摘します。
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