河内春人『継体天皇 六世紀に現れた世襲王権の「始祖王」』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2026年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、継体天皇(以下、天皇号が使用されていないと思われる段階の倭王についても、便宜的に漢風諡号と天皇号を用います)の画期性を指摘します。それ以前に、日本列島各地の豪族はヤマト政権を盟主としていたものの、ヤマト政権が中央集権的に支配しているわけではなく、王権の内部には大王を輩出する王族集団が複数存在し、近親が継承するとは決まっていなかった、というわけです。しかし、継体天皇以降、天皇(大王)位の継承はその子孫に限定されます。本書は、継体天皇を日本史の展開の中に位置づけています。
本書はまず、継体天皇登場の前提となる、5世紀末~6世紀初頭の状況を、記紀のみではなく考古学的研究も踏まえて検証します。本書は、前方後円墳の規模と位置と『宋書』から、いわゆる倭の五王には2系統(讃および珍と、済および興および武)が存在し、古市古墳群に讃と珍、百舌鳥古墳群に済と興と武の墓があるだろう、と推測します。本書は、規模が縮小しつつも、古市古墳群では前方後円墳が6世紀前半まで継続的に造営されていることなどから、文献から導かれる武烈天皇での王統断絶との解釈に疑問を呈します。一方、継体天皇の出自母体である北陸集団と強い関わりを有しているのが三島古墳群で、その中には継体天皇の本当の陵墓と考えられている今城塚古墳や、それよりもさかのぼる太田茶臼山古墳があります。本書は、百舌鳥古墳群集団が大王位を掌握した5世紀半ば以前に河内に進出した北陸集団が、古市古墳群集団と結んで前方後円墳の形を共有し、百舌鳥古墳群集団を牽制したのではないか、と推測します。ここで問題とするのが雄略天皇の位置づけで、一般的には、稲荷山古墳鉄剣銘に見える「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」および『宋書』に見える倭王武と同一人物と考えられており、雄略朝は画期とされています。本書は、ワカタケル大王が存在し、後世に伝えられたことは事実としても、先制的権力を構築できたのか、確実ではないし、この時代の王権は大王個人の能力に依存する不安定な体制だった、と指摘します。
古墳の規模の変遷から、百舌鳥古墳群集団には、ニサンザイ古墳被葬者以降、大王として認められた人物は出なかった、と本書は推測します。大王位は百舌鳥古墳群集団から古市古墳群集団へと回帰したのではないか、というわけです。その後で継体天皇が出現しますが、本書は、武烈天皇の悪逆な行為が王統断絶を強調するための作為だった、と指摘します。武烈天皇は、継体天皇の即位を正当化するために創作された、というわけです。本書は、この5世紀後半~6世紀前半における重要な出来事として、氏姓制度の成立を挙げています。氏(ウヂ)は血縁集団ではなく、王権によって政治的に編成された組織で、氏に属していること自体が社会的地位を示しており、ウヂ名は王権によって与えられ、豪族が自動的に名乗っていたわけではない、と本書は指摘します。ウヂの成立以前には、各地に地縁や血縁で複合しながらゆるやかに結合する地方豪族が存在しましたが、王権がその集団に名を与えることはありませんでした。豪族は始祖を根拠として結合し、実際に血縁があったとは限らず、それは王権も同様だった、と本書は指摘します。継体即位の前提として、上述の三島古墳群に見られる北陸集団の河内への進出とともに、広範な婚姻関係も指摘されています。とくに尾張集団との婚姻関係は、東山道経路の掌握の点で注目されています。なお、こうした遠方の勢力との婚姻について、男性が首長だった場合、妻問いではなく、嫁取りだった可能性も指摘されています。なお、継体の真名はフトと推定されています。
即位後の継体の治世については、『日本書紀』では朝鮮半島情勢が多く記されており(これは、継体天皇の息子の欽明天皇も同様ですが)、本書でもやや詳しく解説されています。本書の指摘で重要になるのは、朝鮮半島の諸勢力との関係が王権に一元化されていたわけではなく、各豪族の独自の判断と行動が珍しくなかったことです。また、『日本書紀』の「任那」の範囲が、元々の金官国、その概念の拡張としての加耶諸国総体のみならず、朝鮮半島南部の百済でも新羅でもない地域を消去法的に含む場合があることも、重要になると思います。そもそも「任那四県」に該当する地域は任那ではなく慕韓で、5世紀~6世紀初頭の朝鮮半島には、高句麗と百済と新羅と加耶以外の国々もまだ存在していました。継体の治世で最大の危機は本書でも磐井の乱とされており、ヤマト政権と新羅や地方豪族との対立、朝鮮半島と地方豪族との独自の結びつきを背景にした複雑なもので、地方豪族の支援で即位した継体は、その後に地方豪族の力を抑制する方針へと変わっていき、磐井の敗北がヤマト王権と豪族との間の制度的な君臣関係成立の契機となったことを本書は指摘します。
継体天皇の死については、『日本書紀』に異説が引用されており、継体天皇の死に伴う政変(辛亥の変)も想定されてきました。本書は、継体天皇が死亡したのは531年と推定します。この531年死亡説については、『日本書紀』が引用した「百済本記」に、天皇と太子と皇子が同時に死亡した、とあります。本書はこの見解に否定的です。継体天皇の後の3代の天皇はいずれも継体天皇の息子ですが、前王統の出自と伝わる手白香王女との間に生まれた欽明への継承が当初から想定されていたのではないか、と私も含めて考えていた人は多いかもしれません。ただ、継体は即位時にすでに高齢で、手白香王女との間に王子が生まれる保証はなく、むしろ、尾張勢力出身の目子媛との間に生まれた勾大兄(安閑天皇)と檜隈高田皇子(宣化天皇)が手白香王女の妹を后としていたこと、さらには、王族の有力年長者が王族を統括して補佐する大兄制度の確立に、本書は注目しています。天皇(大王)が近親者を大兄として王族を統括させ、天皇の没後には大兄の実績を持つ王族が大王に選ばれやすくなります。こうして、大王位は近親による世襲という意識が成立したのではないか、との見通しを本書は提示しています。本書は、世襲王権の起点として後世に意識されたことに、継体天皇の画期性を見ています。
本書はまず、継体天皇登場の前提となる、5世紀末~6世紀初頭の状況を、記紀のみではなく考古学的研究も踏まえて検証します。本書は、前方後円墳の規模と位置と『宋書』から、いわゆる倭の五王には2系統(讃および珍と、済および興および武)が存在し、古市古墳群に讃と珍、百舌鳥古墳群に済と興と武の墓があるだろう、と推測します。本書は、規模が縮小しつつも、古市古墳群では前方後円墳が6世紀前半まで継続的に造営されていることなどから、文献から導かれる武烈天皇での王統断絶との解釈に疑問を呈します。一方、継体天皇の出自母体である北陸集団と強い関わりを有しているのが三島古墳群で、その中には継体天皇の本当の陵墓と考えられている今城塚古墳や、それよりもさかのぼる太田茶臼山古墳があります。本書は、百舌鳥古墳群集団が大王位を掌握した5世紀半ば以前に河内に進出した北陸集団が、古市古墳群集団と結んで前方後円墳の形を共有し、百舌鳥古墳群集団を牽制したのではないか、と推測します。ここで問題とするのが雄略天皇の位置づけで、一般的には、稲荷山古墳鉄剣銘に見える「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」および『宋書』に見える倭王武と同一人物と考えられており、雄略朝は画期とされています。本書は、ワカタケル大王が存在し、後世に伝えられたことは事実としても、先制的権力を構築できたのか、確実ではないし、この時代の王権は大王個人の能力に依存する不安定な体制だった、と指摘します。
古墳の規模の変遷から、百舌鳥古墳群集団には、ニサンザイ古墳被葬者以降、大王として認められた人物は出なかった、と本書は推測します。大王位は百舌鳥古墳群集団から古市古墳群集団へと回帰したのではないか、というわけです。その後で継体天皇が出現しますが、本書は、武烈天皇の悪逆な行為が王統断絶を強調するための作為だった、と指摘します。武烈天皇は、継体天皇の即位を正当化するために創作された、というわけです。本書は、この5世紀後半~6世紀前半における重要な出来事として、氏姓制度の成立を挙げています。氏(ウヂ)は血縁集団ではなく、王権によって政治的に編成された組織で、氏に属していること自体が社会的地位を示しており、ウヂ名は王権によって与えられ、豪族が自動的に名乗っていたわけではない、と本書は指摘します。ウヂの成立以前には、各地に地縁や血縁で複合しながらゆるやかに結合する地方豪族が存在しましたが、王権がその集団に名を与えることはありませんでした。豪族は始祖を根拠として結合し、実際に血縁があったとは限らず、それは王権も同様だった、と本書は指摘します。継体即位の前提として、上述の三島古墳群に見られる北陸集団の河内への進出とともに、広範な婚姻関係も指摘されています。とくに尾張集団との婚姻関係は、東山道経路の掌握の点で注目されています。なお、こうした遠方の勢力との婚姻について、男性が首長だった場合、妻問いではなく、嫁取りだった可能性も指摘されています。なお、継体の真名はフトと推定されています。
即位後の継体の治世については、『日本書紀』では朝鮮半島情勢が多く記されており(これは、継体天皇の息子の欽明天皇も同様ですが)、本書でもやや詳しく解説されています。本書の指摘で重要になるのは、朝鮮半島の諸勢力との関係が王権に一元化されていたわけではなく、各豪族の独自の判断と行動が珍しくなかったことです。また、『日本書紀』の「任那」の範囲が、元々の金官国、その概念の拡張としての加耶諸国総体のみならず、朝鮮半島南部の百済でも新羅でもない地域を消去法的に含む場合があることも、重要になると思います。そもそも「任那四県」に該当する地域は任那ではなく慕韓で、5世紀~6世紀初頭の朝鮮半島には、高句麗と百済と新羅と加耶以外の国々もまだ存在していました。継体の治世で最大の危機は本書でも磐井の乱とされており、ヤマト政権と新羅や地方豪族との対立、朝鮮半島と地方豪族との独自の結びつきを背景にした複雑なもので、地方豪族の支援で即位した継体は、その後に地方豪族の力を抑制する方針へと変わっていき、磐井の敗北がヤマト王権と豪族との間の制度的な君臣関係成立の契機となったことを本書は指摘します。
継体天皇の死については、『日本書紀』に異説が引用されており、継体天皇の死に伴う政変(辛亥の変)も想定されてきました。本書は、継体天皇が死亡したのは531年と推定します。この531年死亡説については、『日本書紀』が引用した「百済本記」に、天皇と太子と皇子が同時に死亡した、とあります。本書はこの見解に否定的です。継体天皇の後の3代の天皇はいずれも継体天皇の息子ですが、前王統の出自と伝わる手白香王女との間に生まれた欽明への継承が当初から想定されていたのではないか、と私も含めて考えていた人は多いかもしれません。ただ、継体は即位時にすでに高齢で、手白香王女との間に王子が生まれる保証はなく、むしろ、尾張勢力出身の目子媛との間に生まれた勾大兄(安閑天皇)と檜隈高田皇子(宣化天皇)が手白香王女の妹を后としていたこと、さらには、王族の有力年長者が王族を統括して補佐する大兄制度の確立に、本書は注目しています。天皇(大王)が近親者を大兄として王族を統括させ、天皇の没後には大兄の実績を持つ王族が大王に選ばれやすくなります。こうして、大王位は近親による世襲という意識が成立したのではないか、との見通しを本書は提示しています。本書は、世襲王権の起点として後世に意識されたことに、継体天皇の画期性を見ています。
この記事へのコメント
個人的には、弥生後期まで(纏向より前)の畿内地域には複雑な階層を持つ王権が存在せず、”大和盆地で発達した複数の首長”が成立する土壌が希薄なため前者と考えています。
遺骸が発見されて、ゲノムや同位体を分析できれば、初期王権の担い手の出自が詳しく解明できそうですが。