岡本隆司『清朝は、「中国」に何をもたらしたか アヘン戦争』

 世界史のリテラシーの一冊として、NHK出版から2026年5月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、1840年に起きたアヘン戦争の「中国」への影響と意義を、ダイチン・グルン(大清帝国、以下、清朝)に限定せず、現代までのもっと広い歴史的視野から検証しています。アヘン戦争勃発の1840年が現行の中華人民共和国憲法の前文の一節で言及されているくらい、アヘン戦争は現代の中国で重視されています。1840年以降、「中国(以下、「」では括りません)」は半植民地・半封建の国家に変わっていった、というわけです。こうした見解は日本でも根強いかもしれませんが、本書はその見直しを提言しています。

 18世紀以降、イギリスは中国から大量の茶を輸入し、イギリスには中国に大量輸出できる産物がなかったので、赤字対策としてインド産のアヘンを中国に輸出したことがアヘン戦争の原因だった、とは日本の社会科の授業でも習うでしょうが、本書はさらに踏み込んでいます。産業革命で綿製品を大量に生産できるようになったイギリスは、植民地化が進行していたインドに輸出し、インドがイギリス産の綿製品を購入できるためには、もはや中国に輸出する綿花だけでは充分ではなく、色々と模索した中にアヘンがあった、と本書は指摘します。イギリスも当初から長期的な確信があって、インド産のアヘンを中国に売り込んだわけではなかったようです。中国でアヘンを購入したのは秘密結社で、この売買体制は強固でした。18世紀末から1838年にかけて、中国におけるインド産アヘンの輸入量は10倍に増えます。このイギリスとインドと中国の貿易関係に、アメリカ合衆国も組み込まれていました。アメリカ合衆国イギリスに綿花を輸出し、中国からは茶を輸入していました。アヘン貿易がなくなれば、この世界的な経済網が成り立たなくなるわけで、アヘン貿易の存続はイギリスにとって死活問題となります。

 中国が対処すべき相手は、インドからアヘンを持ち込むイギリスと、中国でアヘンを売りさばく秘密結社でしたが、中国はイギリスを選択します。清朝の道光帝は林則徐に命じてアヘンをイギリスから没収させ、焼却させました。これにイギリスが反発して戦争になりましたが、戦争を始めたのは現地当局とその軍隊で、本国が追認した形となりました。戦闘自体は1839年から始まっていましたが、イギリス議会で清朝との開戦が決議されたのは1840年だったので、1840年にアヘン戦争は勃発した、と一般的には認識されています。イギリス議会で、麻薬の売買を求めての開戦は正義に反する、との意見も根強かったものの、「自由貿易」を根拠に開戦が決議されます。本書は、「自由貿易」を求めていたのはイギリス商人だけではなく、中国の商人も同様だった、と指摘します。そもそも中国へとアヘンを持ち込む前から、イギリスは華夷秩序下での制限が多い貿易に不満でした。ただ、清朝はイギリスと貿易を華夷秩序下の恩恵と位置づけたものの、貿易をできるだけ民間に任せる方針で、民間の動きを把握できていないところが多く、その極端な事例がアヘンでした。

 アヘン戦争でイギリス軍が勝ったのは、武器の性能と戦意に差があったからで、18世紀の泰平と好況で、清朝の正規軍の戦力が低下していたことを、本書は指摘します。一方で本書は、後の歴史につながる事象として、地元民が立ち上げた民兵によって、イギリス軍が大打撃を受けたことに注目しています。ただ本書は、そうした民兵がアヘン密輸の従事者と本質的には変わらない性格も有していたことを指摘します。そうした民兵が清朝に刃を向ける可能性は充分にあったわけです。本書はこうした民間を把握できていない清朝の性格について、もっと時間的に広い範囲で把握しています。そもそも、アヘンが民間に浸透してしまったのは、清朝が民間を把握できておらず、政権と民間、上下が乖離しており、疎遠だったからでした。この点で、中国が同時代の日本とは対照的だったことを本書は指摘します。清朝は極端に「安上がりな」政権で、民衆を救う意思も能力もなく、民衆は相互扶助組織を各地で自律的に形成していきます。18世紀の人口増加によって民間団体も増え、団体間の軋轢が激しくなり、治安が悪化していきます。アヘンが社会に浸透した背景には、こうした社会構造があったことを本書は指摘します。清朝の支配層は、新たに征服した地域で、明王朝が支配していた中国はもちろん、モンゴルやチベットでも少数派で、在来の慣習や制度を尊重しないわけにはいきませんでした。

 こうした社会構造の中国を、アヘン戦争が大きく変えたわけではない、と本書は指摘します。支配層の秩序意識や世界観のみならず、貿易など「外国」との実務の場を含む民間も同様でした。治外法権にしても、「外夷」商人の取り締まりは少なくとも唐代以降「外国」商館の責任者の管轄で、大きな問題とは認識されていませんでした。イギリスが期待した綿製品も、アヘン戦争後の中国ではさほど売れませんでした。中国の農村で行なわれていた副業の綿布生産は、その低価格で産業革命後のイギリスの綿製品との競争力を保っていました。1856~1860年のアロー戦争でさえ、中国を大きく変えたわけではなかった、と本書は指摘します。

 その中国を大きく変えたのが日本で、清朝から見ると朝貢国だった琉球を、日本が清朝の意向をよく理解できず編入したことから、清朝は日本を強く警戒します。清朝は、これが他の朝貢国に波及していくことを警戒していました。清朝は朝貢国を属国と位置づけ、朝鮮への内政干渉を強めていき、朝鮮をめぐって日清間の対立が激化した結果として1894年に起きた日清戦争で完敗した結果、アジア東部は本格的に帝国主義列強の脅威に晒され、従来の秩序や世界観は大きな変容を迫られます。日清戦争の前まで、「洋務」という言葉に代表される中国の改革は実務の水準留まっていましたが、政治経済上の制度や思想にまで拡大しました。これ以降、漢人知識人の間では、清朝の勢力範囲をまとめたたまとする構想が有力になっていきますが、それは清朝滅亡後には、漢語と無縁で、儒教も「中華」も尊重しないモンゴル人やチベット人に受け入れられるものではありませんでした。しかし、清朝末期から続いたこれらの改革は、上下乖離の社会構造を前に、国民国家の形成を成し遂げられず、それは現在の中華人民共和国においても同様で、「一つの中国」や「中華民族」の復興が「中国の夢」として語られていることに現れている、と本書は指摘します。

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