周藤芳幸『ミケーネ文明 古代ギリシアの原像』

 岩波新書(赤版)の一冊として、岩波書店より2026年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしているので、この記事でも「文明」とは表記せず、「文化」などに置き換えます。本書はミケーネ文化の概説で、ミケーネ文化を広く地中海世界に位置づけ、同時代の他地域および紀元前8世紀以降のギリシア社会との関係も取り上げるとともに、研究史も解説しています。本書のミケーネ文化の時代区分は、初期(紀元前17世紀後半~紀元前16世紀末)、前期(紀元前15世紀頃)、中期(紀元前14世紀頃)、後期(紀元前13世紀頃)、末期(紀元前12世紀頃)です。紀元前8世紀以降のギリシアの文化は本書では、古典ギリシア文化もしくはボリス社会と呼ばれています。

 紀元前3200年頃にギリシアで初期青銅器時代が始まると、ギリシア南部ではオリーヴやブドウなどの作物の栽培や海上交易が盛んになり、エーゲ海の島々では特徴的な大理石製の石偶を納める葬制で知られる、キクラデス文化が栄えました。初期青銅器時代中頃には、ギリシア本土において器面を暗色の化粧土で覆った土器(ソースボート)が広がり、ギリシア中部ではボイオティアやアッティカやアルゴリスを中心に、しばしば城壁を伴う多数の集落が形成されました。紀元前2200年頃以降、こうした遺跡では暴力的な破壊の痕跡が見られるようになります。なお、これをインド・ヨーロッパ語族の到来と結びつける説は、考古学的には説得力がないそうです。ギリシア本土、とくに南部ではこの混乱からなかなか立ち直ることができなかったのに対して、クレタ島では紀元前2000年頃に大規模な宮殿が築かれるようになり、ミノア文化が始まります。

 この状況で、ペロポネソス半島の北東部のアルゴリスおよび南西部のメッセニアを中心に、紀元前17世紀頃に突如として出現したように見えるのがミケーネ文化です。これは中期青銅器時代~後期青銅器時代の移行期に相当し、葬制面での文化的断絶が確認されていないことから、ミノア文化の刺激を受けて、在来集団主導でミケーネ文化が始まったようです。紀元前15世紀頃の前期ミケーネ時代の特徴は、トロス墓と呼ばれる石造岩室墓が築かれたことです。トロス墓は、細長い通路(ドローモス)と幅の狭い入口(ストミオン)と埋葬施設である主室(トロス)から構成されています。トロス墓には大量の精製土器が供えられましたが、こうした土器は器形でも文様でも同時代のミノア文化の影響を強く受けていました。クレタ島のミノア文化の諸宮殿には、前期ミケーネ時代末における一斉に大規模な破壊を受けた痕跡があり、その理由は依然として不明です。その後まもなく、クレタ島はミケーネ文化の一部に取り込まれましたが、この新たな文化の担い手が、ギリシア本土からクレタ島に到来した集団なのか、ミケーネ文化を取り入れた在来集団だったのか、確定していません。

 中期ミケーネ時代にミケーネ文化が確立し、ティリンスなどでメガロン様式の構造(前庭部と控えの間と中央に炉のある主室が直列で配置されています)を特徴とする宮殿が築かれるようになります。線文字B粘土板は中期ミケーネ時代前半にまでさかのぼる可能性もあるようです。中期ミケーネ時代後半から後期ミケーネ時代にかけて、ミケーネ文化圏の影響は、東方ではアナトリア半島沿岸部からキプロス島やレヴァント、南方ではエジプト、毛西方ではサルデーニャ島にまで広がりました。これは、ギリシア本土がミケーネやピュロスなど少数の有力王国に統合され、安定したためと推測されています。

 こうして繁栄したミケーネ文化ですが、紀元前1200年頃に諸宮殿が相次いで焼壊し、王を頂点とする位階的構造も瓦解して、線文字Bも使われなくなります。これは、地中海東部世界における紀元前1200年頃の破局(関連記事)の一部として把握されるべきかもしれません。ただ、末期ミケーネ時代において、ティリンスではメガロンが部分的に修復され、都市域が広がったり、初期には低下した土器の質が中期には頂点に達したりするなど、紀元前1200年頃にミケーネ文化が滅亡した、と断定することには問題があるようです。

 ただ、紀元前11世紀になると、ギリシア本土では当初優勢だったミケーネ文化の要素が次第に衰微し、考古学的証拠が極端に乏しくなります。これは、青銅器時代から鉄器時代への移行期に相当しますが、この時期には牧畜中心の移動性の高い社会が形成されたようで、それが考古学的証拠の乏しさと関連しているかもしれません。この紀元前1000年前後の数百年間(より広くは紀元前1200年頃~ポリスが出現する紀元前750年頃)は「暗黒時代」と呼ばれてきて、ミケーネ時代のような大規模建築物もない、と考えられていましたが、エウボイア島では紀元前10世紀の大型建築遺構が確認されています。

 紀元前9~紀元前8世紀は緩やかな回復の時代だったようで、途絶えていた東方との交易が再び盛んになります。紀元前8世紀はギリシア史におけるルネサンスとも言われており、本書ではホメロスの叙事詩『イリアス』と『オデュッセイア』の成立が画期として重視されていますが、これはミケーネ文化の単なる「再生」ではなかったことも指摘されています。つまり、人々が力を注いだ建築物は、支配者(王)のための宮殿ではなく、信仰する神々のための宮殿で、都市は広場(アゴラ)を中心に展開し、文字では、宮殿の書記しか使えない線文字Bではなく、誰でも使えるアルファベットが普及しました。こうして、古典ギリシア文化の根幹となる都市国家(ポリス)が成立しました。ボリス世界は、基本的な社会単位が水平的関係の市民共同体にある点で、小規模な王国を基本単位としていたミケーネ文化とは異なっていました。一方で、線文字Bの解読によって明らかになったように、ミケーネ文化でもポリス世界でもギリシア語が話されていたことは重要な共通点で、それとも関連して宗教と儀礼ではミケーネ文化とポリス世界との間に連続性が認められます。

 ミケーネ文化には線文字Bがあったので、遺物や遺構のみならず、文字情報からも当時の社会を推測できます。ただ、線文字Bの出土状況は遺跡によって大きく異なるので、ミケーネ文化全体を線文字Bのみで論じることには慎重であるべきなのでしょう。線文字Bには「王」に相当すると考えられる言葉(ワナクス)もありますが、具体的な王名は不明です。線文字Bと遺物や遺構から窺えるミケーネ文化の社会については、貢納王政や首長制段階の再分配などの議論がありましたが、現在では、宮殿が線文字Bでおもに管理していたのは社会的位階などに関わる饗宴で用いられた奢侈品で、宮殿の介入が必ずしも及ばない、農作物や生活用品の交換に基づく経済領域が広がっていた、との見解が有力になりつつあるそうです。

 上述のように、ミケーネ文化圏の影響は地中海東部地域に広がり、線文字Bでは外交関係の記録がないものの、エジプト側の記録から、ミケーネ時代のエーゲ海地域とエジプトとの交流が明らかになっており、エジプトからエーゲ海地域に外交使節が派遣された可能性も指摘されています。ただ、後期青銅器時代におけるエーゲ海地域とエジプトとの交流が両地域に与えた影響は、限定的で選択的だったようです。これは他の地域にも当てはまるようで、ミケーネ時代におけるエーゲ海地域と地中海東部の他地域との交流が文化の均質化を促したわけではない、と本書は指摘します。

この記事へのコメント

熊笹
2026年04月27日 20:55
ミケーネ期はステップ系集団の流入が文化を激変させてはいないため、ヘレニック語が宮廷や都市を中心に広まり、非ヘレニック在来語が地方を中心に残存していたかもしれませんね。これが青銅器時代の崩壊でヘレニック語に交替したと考えています。
管理人
2026年04月28日 05:51
言語については、考古学や人類学や遺伝学で定義された特定集団内でも、地域差や階層差があることは極端に珍しいわけでもないかもしれないので、安易に考古学や人類学や遺伝学の研究成果と直結させてはならないように思います。