澤田典子『古代マケドニア全史 フィリッポスとアレクサンドロスの王国』

 講談社選書メチエの一冊として、2025年3月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はマケドニアの通史ですが、おもに取り上げられているのは建国伝説から紀元前336年のフィリッポス2世の死亡までとなります。これは、バルカンに基盤を置くマケドニア王国の統治者としての「真の意味でのマケドニア王」はフィリッポス2世が最後だった、との認識に基づいています。フィリッポス2世の息子であるアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)については、ちくまプリマー新書から2020年に刊行された著者の『よみがえる天才4 アレクサンドロス大王』で詳しく取り上げられており(関連記事)、本書とあわせて読むと、マケドニア史への理解が深まるでしょう。

 本書はまず、マケドニアはフィリッポス2世の時代に急速に台頭した新参勢力ではなく、それ以前の数世紀の歴史があったことを指摘します。これは、マケドニア人自身が同時代に残した文献の少なさにも起因しており、そのためにマケドニアの研究はギリシアの他地域と比較してずっと遅れていました。また、マケドニア研究は、近代のマケドニアが多民族混在の複雑な政治環境にあったことや、何よりも、アレクサンドロス大王の知名度があまりにも高く、アレクサンドロス大王個人に関心が集中してしまったことで、遅れてしまいました。本書は、伝統的なアテネ中心史観やアレクサンドロス大王中心史観、さらにはその反動としてのフィリッポス2世賛美史観からの脱却を意図しています。

 マケドニアには明確な地理的定義についての合意はなく、マケドニア王国の勢力拡大とともにマケドニアの血の敵範囲も大きく変わり、これが広義のマケドニアです。一方、狭義のマケドニアは通常、低地マケドニアおよび上部マケドニアと呼ばれる地域で、本書のマケドニアは広義ではなく狭義の方を指します。低地マケドニアとは、パイコ山とべルミオン山とピエリア山脈に囲まれた平野部(エマティア平野、ピエリア平野)で、マケドニアの発祥地を含む中核地域です。低地マケドニアの西方に位置するのが上部マケドニアと呼ばれる山岳地帯で、エリメイアやオレスティスなど複数の地域にから構成されています。これらの地域にはそれぞれ小さな王国があり、低地マケドニアを中核とするマケドニア王国によって次第に併合されていきます。これら狭義のマケドニアは、東方ではトラキアとカルディア、北方ではパイオニア、北西ではイリュリア、南西ではエペイロス、南方ではテッサリアと接していました。マケドニアは木材資源や鉱物資源に恵まれており、王国発展の基盤なりました。

 マケドニア王国の起源については文献でも考古学でも確実な証拠はなく、ピンドス山脈で移牧を営んでいたマケドニア人が、ピエリア山脈の山裾に定住し、紀元前7世紀半ばにアイガイを都として建国した、と大まかに考えられています。マケドニア人の民族的帰属については、文献の少なさもあり、合意は得られていないようです。低地マケドニアには王国の前から人々が居住しており、とくに紀元前9世紀~紀元前8世紀には繁栄していたようです。マケドニア建国以前の人々についてはよく分かっていませんが、イリュリア人やピエリア人やボッティアイア人やパイオニア人などの存在が推定されています。マケドニア王国の権力構造については、時期による変遷も想定され、議論になっていますが、フィリッポス2世とアレクサンドロス大王は実質的な専制君主だったようです。マケドニア王国のとくに上流階層は、「競争社会」と呼ばれるギリシアでも、とりわけ競争的だったようで、これはアレクサンドロス大王の大規模な遠征の背景でもあるのでしょう。

 曖昧模糊としている初期のマケドニア王国ですが、現存の同時代史料に初めて登場するマケドニア王は、紀元前6世紀後半のアミュンタス1世です。それ以前の王名もヘロドトスによって伝えられていますが、同時代史料では確認されていません。ただ、アミュンタス1世の前から、マケドニア王国は着実に版図を拡大していったようです。その具体的様相には不明なところが多々あるものの、ギリシアのポリス世界のみならず、ペルシアとも接触があったようです。紀元前497年頃に没したアミュンタス1世の後に即位した息子のアレクサンドロス1世の頃から、マケドニア王国に関するある程度まとまった情報が得られるようになります。アレクサンドロス1世は、ペルシアに従属していた時期もあったものの、ペルシア戦争でギリシア側が勝利すると、自らをギリシア人と強く主張していったようです。アレクサンドロス1世の治世において、マケドニア王国は勢力を拡大していきます。アレクサンドロス1世が紀元前454年頃に没すると、息子のペルディッカス2世が即位し、アテネがマケドニア以外に木材の入手さ月を確保したことで、マケドニアとアテネの関係は悪化します。ペルディッカス2世はペロポネソス戦争とも関わり、それも受動的ではなく能動的で、アテネとは敵対と和解を繰り返します。ペルディッカス2世が紀元前414年頃に死亡すると、その息子のアルケラオスが即位しますが、父のペルディッカス2世と同様に、即位を巡る一族の争いがあったようです。アルケラオスは東方のみならず南方へと勢力を拡大し、高名な文化人を招聘するなど文化政策に注力するとともに、アイガイからペラへの遷都を実行したようですが、これは、アルケラオスが紀元前399年に暗殺された後の政争を制して、紀元前393/392年に即位した、アレクサンドロス1世の曽孫であるアミュンタス3世のことだった、との見解も提示されているそうです。

 紀元前4世紀初頭のアミュンタス3世の即位から、その後のアレクサンドロス2世およびペルディッカス3世の即位を経て紀元前360/359年のフィリッポス2世の即位までは、マケドニアに関する現存史料がひじょうに乏しいそうです。この間、ギリシア世界ではテーベが台頭し、フィリッポス2世は即位前の10代半ばに3年間、人質としてテーベで過ごしています。アミュンタス3世の治世は、イリュリアとの抗争など苦難も多かったようですが、アテネとは木材の輸出によって良好な関係を築くなど、巧みな外交手腕で息子のフィリッポス2世の台頭の基盤を築いた、との評価もあるようです。アミュンタス3世の死後、その息子のアレクサンドロス2世が即位しますが、これは順調な王位継承だったようです。しかし、アレクサンドロス2世は、ギリシア世界で台頭したテーベや、再度侵攻してきたイリュリアへの対応など、外交的危機に直面します。アレクサンドロス2世の在位期間は短く、暗殺されますが、外交的失点とともに、重装歩兵の育成などで貴族層の不満を招来したことも背景にあったようです。アレクサンドロス2世暗殺の首謀者であるプトレマイオスは、元々マケドニア王族ではなかったものの、アミュンタス3世の娘と結婚し、つまりはアレクサンドロス2世と義兄弟の関係にあった、と考えられています。プトレマイオスはアレクサンドロス2世を暗殺した後、3年間マケドニア王国の実権を握った、とされていますが、自ら即位したのか、アレクサンドロス2世の弟であるペルディッカス3世の摂政となったのかは、議論になっています。ただ、プトレマイオスの名前を刻んだ貨幣が見つかっていないことから、本書は非即位説の方を有力としています。紀元前365年、ペルディッカス3世はプトレマイオスを殺害し、対イリュリアでモロッソスと同盟を締結したようです。この同盟で、フィリッポス2世とモロッソスの王女であるオリュンピアスが結婚し、両者の間に生まれたのがアレクサンドロス大王です。ペルディッカス3世はイリュリアとの戦いで死亡しましたが、マケドニアの対イリュリア政策が守勢から攻勢へと転じる契機になった点で、本書はフィリッポス2世のギリシア征服の直接的基盤を築いたとして、評価しています。

 紀元前360/359年、ペルディッカス3世の戦死後、フィリッポス2世の治世が始まります。フィリッポス2世が、ペルディッカス3世の幼い息子である甥のアミュンタス4世の摂政となり、しばらくして即位したのか、最初から即位したのかは、議論になっていますが、本書は後者を指示しています。フィリッポス2世の治世は当初、マケドニア王位を異母兄弟が狙い、ペルディッカス3世を戦死させたイリュリアが攻めてくるなど、まさに内憂外患でした。ただ本書は、マケドニア王国の歴史において国王のそうした苦難がフィリッポス2世に限らなかったことを指摘します。フィリッポス2世は、買収や婚姻などで外敵を抑え込んでいき、その政治外交手腕はひじょうにすぐれていたようです。マケドニア王家は、一夫一妻制のポリス世界とは異なり一夫多妻制でしたが、フィリッポス2世の前にも一夫多妻制だったのか、確証はないようです。また、マケドニア王の妻に正室と側室の区別はなく、妻の地位は実家の権勢や実家とマケドニア王との関係などにより決まる、流動的なものでした。ただ、これがマケドニアの王位継承を不安定にした側面もあるようです。フィリッポス2世の妻は、最後に結婚したマケドニアのクレオパトラを除くと、ギリシア征服の過程での政略結婚でした。

 フィリッポス2世は軍事改革も進めたと考えられていますが、史料的制約のため確実な具体的内容は分からないようです。ただ、騎兵と重装歩兵の大幅な拡充はフィリッポス2世の功績と考えられています。長槍などの装備や戦術や季節を問わない動員や海軍の組織化や攻城兵器の開発などでも、フィリッポス2世は改革を進めていったようです。こうした軍事改革の成果なのか、フィリッポス2世はイリュリアにマケドニア王国として初めて戦勝し、イリュリアを完全に従属させることはできなかったものの、イリュリア軍のマケドニア領内への侵攻を防ぎました。また、フィリッポス2世は新たな征服地の支配層を民衆から切断して首都のペラに集め、近習として自らに仕えさせました。そうした政策の一環なのか、フィリッポス2世は他国の出身者を積極的に登用していきました。フィリッポス2世は都市建設や住民移動も進めましたが、これはすでに紀元前5世紀のマケドニアでも行なわれていました。フィリッポス2世はこうした改革を進めつつ、ギリシア世界の征服に乗り出し、征服地で自分の名前にちなんだ植民市を建設していきます。この習慣は、フィリッポス2世の息子のアレクサンドロス大王やその「後継者(ディアドコイ)」に継承されます。フィリッポス2世のギリシア征服において、本書は第三次神聖戦争の講和を重視しており、フィリッポス2世が第三次神聖戦争の真の唯一の勝者だった、と指摘します。

 マケドニア王国は第三次神聖戦争などポリス世界のみと関わっていたわけではなく、ペルシアとの強いつながりもありました。ペルシアにおいて政争で敗れた高官がマケドニアに亡命することは珍しくなく、マケドニア王国の制度や慣行はペルシアから強い影響を受けており、それはフィリッポス2世の時代に加速しました。フィリッポス2世は、ペルシアやポリス世界からの亡命人を受け入れるだけではなく、文化人を積極的にマケドニアへ招聘し、歴史家に自らの事績を描かせ、自己正当化を図り、これは息子のアレクサンドロス大王にも継承されました。フィリッポス2世の自己正当化は、自身の直接的な事績のみならず、マケドニアの建国伝説にも及んでいた、と推測されています、フィリッポス2世は第三次神聖戦争後も、文化的振興とともにポリス世界の征服を進め、スパルタへの反感を利用して、ペロポネソス半島にも勢力を拡大していきます。フィリッポス2世は紀元前338年のカイロネイアの会戦に大勝し、ギリシア世界での覇権を確立しますが、本書はカイロネイアの会戦の画期性な疑問を呈しています。すでに完了に近づいていたフィリッポス2世のギリシア世界征服の最後の仕上げにすぎなかったのではないか、というわけです。また、カイロネイアの会戦の前に、多数のポリスはすでに自治独立を失っており、会戦の結果として自治独立を失ったのはアテネのみだったことも指摘されています。ギリシア世界の大半において、覇権がアテネやスパルタやテーベなど一部のポリスからマケドニアに交替したにすぎない、というわけです。

 カイロネイアの会戦後、フィリッポス2世はスパルタ以外のギリシア諸都市の代表を招集し、コリントス同盟が締結されます。この体制では、強大なマケドニア王国を背景に、ギリシア諸都市の平和と自由自治が保障されました。フィリッポス2世はコリントス同盟の名でペルシアへの遠征も宣言し、その名目はペルシア戦争におけるペルシアのギリシア侵攻への報復、およびペルシアの支配下にあるギリシア人都市の解放でした。本書は、フィリッポス2世が即位当初からペルシア征服を具体的に計画していたわけではなく、征服したギリシアの安定統治のためにペルシアを必要としたのではないか、と推測しています。フィリッポス2世は紀元前336年春、まず1万人の部隊を小アジアへと派遣し、ペルシアの支配下にあったギリシア人の諸都市は、次々とマケドニアに帰順していきます。

 マケドニア宮廷では、フィリッポス2世がそれまでの妻とは異なりマケドニア人貴族の娘であるクレオパトラと紀元前337年に結婚し、それ自体は直ちにマケドニア王家を分断させたわけではなかったものの、その宴会で、クレオパトラの後見人である伯父のアッタロスがアレクサンドロス大王を公然と侮辱し、フィリッポス2世がアッタロスに肩入れしたことで、フィリッポス2世とアレクサンドロス大王の対立が顕在化し、アレクサンドロス大王はイリュリアに滞在します。アレクサンドロス大王はすぐに父のフィリッポス2世と和解し、帰国しましたが、アレクサンドロス大王の母親であるオリュンピアスは、郷里のモロッソスに留まりました。本書は、フィリッポス2世がマケドニア貴族と結婚したことで、マケドニア国内の勢力均衡が乱れて、不穏な事態を招来したため、アレクサンドロス大王はマケドニア王家としては遅くまで結婚しなかったのではないか、と推測しています。紀元前336年秋、フィリッポス2世は、娘のクレオパトラとモロッソス王アレクサンドロス(オリュンピアスの弟)との婚礼の祝典において、側近護衛官のパウサニアスに刺殺されました。このフィリッポス2世殺害事件について、パウサニアスに個人的動機があったことを伝える文献もありますが、当時から「黒幕」の存在を想定する人が少なくなかったようです。ただ、やはり本書も、このフィリッポス2世殺害事件の「真相」の解明が困難であることを指摘しています。フィリッポス2世の死後、王位を継承したアレクサンドロス大王は、重臣の支持を得て、潜在的な競合者であるアミュンタス4世とともに、仇敵とも言えるアッタロスも殺害し、テーベなどマケドニアから離反した勢力を鎮圧して、ギリシア世界におけるマケドニアの覇権の維持に成功した後で、本格的に東方遠征に向かいました。

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