髙橋昌明『武士の成立 武士像の創出』再掲
かつてサイトの読後雑感で感想を述べた本のうち、読み辛い記事の段落構成を訂正して当ブログに再掲することにしました。現在とは考え方が違っているところもありますし、文字遣いも当ブログとはかなり異なっているのですが、明らかな誤字と段落構成の訂正以外はそのままにしておきます。今回は、2001年12月27日にサイトに掲載した『武士の成立 武士像の創出』を訂正して以下に再掲します。
東京大学出版会より1999年に発行された。最近の読後雑感は要約がやたら長く、殆どそれだけといった感じになっているので、今後は簡潔に述べていくよう心掛けたい。
髙橋氏の主張は従来の「常識的」な武士成立史と武士像への批判であるが、それに留まらず、「常識的」な日本史像への批判ともなっている。通説では、農奴主としての在地領主が治安悪化に対応して武装化したのが武士の起源である、と説明されるが、そこでは武士の定義が深く問い掛けられるということはなく、武士の存在は自明のこととされている、と髙橋氏は疑問を呈される。
そこで、先ず武士とはどういう存在なのかということが追求されるわけなのだが、髙橋氏の見解は、「武士とは社会的分業が家業の形態をとる歴史段階において成立する職業身分の一つ」というもので、武士=芸能人説(武士職能論)の立場からの説明である。また、武士の身分を認知するのは、究極的には王権ということになる。
次に問題になるのは、武士がどのように成立してきたかということだが、鎧や弓という武士にとって最重要の武具や、武士にとって重要な武芸である騎射は、都の貴族社会に由来するものであった。髙橋氏はこの点を重視し、武士は地方の農村で誕生したとする通説に対して、武士は律令国家や王朝貴族社会の産物である、と主張される。髙橋氏の見解では、武士は奈良・平安初期から存在するのであり(武官系武士)、平安中期以降に登場する本格的な武士(軍事貴族)は、武官系武士、中でも近衛府の武官の系譜を間接的に引くものであった、ということになる。
こうした視点に立った時、文弱で退廃した貴族と質朴な武士、鎌倉(東国)武士こそ武士の典型という通俗的な観念も疑問で、貴族は本来は武にも長けており、また実務にも通じていたのである。このような通俗的な観念が形成されるに至ったのは、鎌倉幕府以降、次第に武家が朝廷を圧倒していき、貴族が文芸に自らのアイデンティティを見出すようになり、遂には豊臣・徳川の両武家政権が貴族を文芸の枠に押し込めたためでもある。こうして現実の政治力を失い、文芸に耽溺する近世の貴族から、古代・中世の貴族を類推したわけである。
だが、こうした観念が定着した理由は、それだけではない。関東に本拠を構えた徳川政権が鎌倉幕府を美化し模範としたこと、更には富国強兵を掲げる明治政府が武を尊んだことも、定着の理由となった。また、漢詩漢文を日本文化史の主流ではないとし、和歌や『源氏物語』に見られる心情を日本人本来の観念とした国学の浸透は、平安貴族を実態とは大きく異なった文弱なものと印象付け、これも上記観念の定着した理由となった。国学の解釈は大変に魅力的なもので、故に江戸後期になって浸透していったのだが、その解釈とそれに由来する歴史観は、相対化する必要があろう。
こうした髙橋氏の主張に対しては、既に多くの批判がなされている。通説とは大いに異なるところがあるだけに、当然の反応とも言える。確かに、あまりにも武士と都との繋がりが強調されているところはどうかと私も思うし、実際そうした批判も研究者からなされているが、従来、あまりにも武士と貴族や都とを異質なもの・関係の薄いものとしてきた通説へのアンチテーゼでもあるわけだから、そうした傾向になるのは仕方のないところもあると思う。
ただ、では髙橋氏の見解が極論なのかというと、必ずしもそうではないと思う。武士の源流が都にあるとの見解は、「源流」の定義も含めて今後も検討が必要で、直ちに通説に取って代わるというわけにはいかないだろうが、成立期の武士と都との密接した関わりは、大いに着目されるべきだろう。従来、形骸化したとの予断から、都の射礼のような儀式は武士の「実戦的な」武芸とは無縁と考えられがちだったが、こうした儀式が武士の正当性を保障する武芸へと繋がったとの指摘は、実に重要だと思う。
実際、源頼朝が都の武芸を取り入れることに熱心だったことといい、鎌倉武士の代表的武芸とも言える流鏑馬が、実は朝廷で誕生した可能性があることといい、髙橋氏の見解にはかなりの妥当性を認めるべきだと思う。今後は、都(朝廷・王権)との関係も重視しつつ、より妥当性のある武士論の構築が望まれるところで、本書は、その際に重要な役割を果たす名著となるのではなかろうか。
東京大学出版会より1999年に発行された。最近の読後雑感は要約がやたら長く、殆どそれだけといった感じになっているので、今後は簡潔に述べていくよう心掛けたい。
髙橋氏の主張は従来の「常識的」な武士成立史と武士像への批判であるが、それに留まらず、「常識的」な日本史像への批判ともなっている。通説では、農奴主としての在地領主が治安悪化に対応して武装化したのが武士の起源である、と説明されるが、そこでは武士の定義が深く問い掛けられるということはなく、武士の存在は自明のこととされている、と髙橋氏は疑問を呈される。
そこで、先ず武士とはどういう存在なのかということが追求されるわけなのだが、髙橋氏の見解は、「武士とは社会的分業が家業の形態をとる歴史段階において成立する職業身分の一つ」というもので、武士=芸能人説(武士職能論)の立場からの説明である。また、武士の身分を認知するのは、究極的には王権ということになる。
次に問題になるのは、武士がどのように成立してきたかということだが、鎧や弓という武士にとって最重要の武具や、武士にとって重要な武芸である騎射は、都の貴族社会に由来するものであった。髙橋氏はこの点を重視し、武士は地方の農村で誕生したとする通説に対して、武士は律令国家や王朝貴族社会の産物である、と主張される。髙橋氏の見解では、武士は奈良・平安初期から存在するのであり(武官系武士)、平安中期以降に登場する本格的な武士(軍事貴族)は、武官系武士、中でも近衛府の武官の系譜を間接的に引くものであった、ということになる。
こうした視点に立った時、文弱で退廃した貴族と質朴な武士、鎌倉(東国)武士こそ武士の典型という通俗的な観念も疑問で、貴族は本来は武にも長けており、また実務にも通じていたのである。このような通俗的な観念が形成されるに至ったのは、鎌倉幕府以降、次第に武家が朝廷を圧倒していき、貴族が文芸に自らのアイデンティティを見出すようになり、遂には豊臣・徳川の両武家政権が貴族を文芸の枠に押し込めたためでもある。こうして現実の政治力を失い、文芸に耽溺する近世の貴族から、古代・中世の貴族を類推したわけである。
だが、こうした観念が定着した理由は、それだけではない。関東に本拠を構えた徳川政権が鎌倉幕府を美化し模範としたこと、更には富国強兵を掲げる明治政府が武を尊んだことも、定着の理由となった。また、漢詩漢文を日本文化史の主流ではないとし、和歌や『源氏物語』に見られる心情を日本人本来の観念とした国学の浸透は、平安貴族を実態とは大きく異なった文弱なものと印象付け、これも上記観念の定着した理由となった。国学の解釈は大変に魅力的なもので、故に江戸後期になって浸透していったのだが、その解釈とそれに由来する歴史観は、相対化する必要があろう。
こうした髙橋氏の主張に対しては、既に多くの批判がなされている。通説とは大いに異なるところがあるだけに、当然の反応とも言える。確かに、あまりにも武士と都との繋がりが強調されているところはどうかと私も思うし、実際そうした批判も研究者からなされているが、従来、あまりにも武士と貴族や都とを異質なもの・関係の薄いものとしてきた通説へのアンチテーゼでもあるわけだから、そうした傾向になるのは仕方のないところもあると思う。
ただ、では髙橋氏の見解が極論なのかというと、必ずしもそうではないと思う。武士の源流が都にあるとの見解は、「源流」の定義も含めて今後も検討が必要で、直ちに通説に取って代わるというわけにはいかないだろうが、成立期の武士と都との密接した関わりは、大いに着目されるべきだろう。従来、形骸化したとの予断から、都の射礼のような儀式は武士の「実戦的な」武芸とは無縁と考えられがちだったが、こうした儀式が武士の正当性を保障する武芸へと繋がったとの指摘は、実に重要だと思う。
実際、源頼朝が都の武芸を取り入れることに熱心だったことといい、鎌倉武士の代表的武芸とも言える流鏑馬が、実は朝廷で誕生した可能性があることといい、髙橋氏の見解にはかなりの妥当性を認めるべきだと思う。今後は、都(朝廷・王権)との関係も重視しつつ、より妥当性のある武士論の構築が望まれるところで、本書は、その際に重要な役割を果たす名著となるのではなかろうか。
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