縄文人のミトコンドリアゲノム
「縄文時代」の人類のミトコンドリアゲノムを報告した研究(Yoshida et al., 2026)が公表されました。日本語の解説記事もあります。なお、「縄文時代」との時代区分や「縄文人」との表記には問題があるでしょうが、煩雑になるので、以下では「縄文時代」と「縄文人」を「」では括りません。本論文は、縄文人のミトコンドリアゲノムから縄文人の人口史を推定し、縄文時代初期における有効人口規模の増加と、その人口動態が東日本において顕著だったことを指摘しています。縄文人の母系での地域差は、有効人口規模の小さな単一集団からの拡散によって説明できることも指摘されていますが、おそらく縄文人は、現在の日本人も含めてユーラシア東部現代人の主要な祖先集団から単純に分岐したのではなく、遺伝的に大きく異なる複数集団の遺伝的混合によって形成された可能性が高そうで(関連記事)、今後の核ゲノムでのより詳細な研究が期待されます。以下、敬称は省略します。
以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、BSP(Bayesian skyline plot、ベイズ地平線図)、Nₑ(有効人口規模)、NGS(Next generation sequencing、次世代配列決定)、AMS(accelerator mass spectrometry、加速器質量分析法)、C(carbon、炭素)、MRCA(most recent common ancestor、最新共通祖先)、S(number of segregation sites、分離遺跡数)、Θw(Watterson’s estimator of population mutation rate、人口変異率のワッターソン推定量)、π(ヌクレオチド多様性)、JPT(Japanese from Tokyo、東京の日本人)、CHB(Chinese from Beijing、北京の中国人)です。本論文で取り上げられる日本の主要な遺跡は、千葉県市原市の祇園原(Gionbara、略してGB)貝塚と菊間手永(Kikumatenaga、略してKT)貝塚と西広(Saihiro、略してSH)貝塚、群馬県吾妻郡長野原町の居家以岩陰、富山市の小竹貝塚、愛知県田原市の伊川津貝塚、佐賀市の東名貝塚、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡です。
●要約
日本列島に広がっていた縄文文化は16000年前頃に始まり、1万年以上続きました。縄文文化を有する先史時代狩猟採集民である縄文人の人口史は、先史時代ユーラシア東部人を理解するうえでたいへん興味深い問題です。これまで、人口規模とその変動、つまり縄文人の人口動態は考古学的文脈で推定されてきましたが、過去20年間でもゲノム配列データを用いての統計的手法が充分に発展してきました。縄文人の人口動態を調べるために、縄文人13個体から全ミトコンドリアゲノム配列が決定され、以前に刊行されたデータを含めて縄文人40個体のミトコンドリアゲノムで集団遺伝学的分析が実行されました。模擬実験によって、縄文人に典型的な2系統のmtHg、つまりN9bとM7aとの間の東西間の頻度差異は、小さな当初の有効人口規模、極端な人口集団の分岐、東西の人口集団間の限られた移住の条件下での遺伝的浮動によって引き起こされるかもしれない、と示されも地域的に不均衡なmtHg分布は最近の核ゲノム解析によって示唆された縄文人の単系統起源想定と必ずしも矛盾しない、と示唆されました。縄文時代の草創期~掻器におけるNₑ増加が見つかり、これは現在の日本人集団のミトコンドリアゲノム配列解析では観察されませんでした。この固有の人口統計学的パターンは、東西の縄文人の間の遺伝子流動がなかった、との仮定下で、日本列島の東部において顕著です。本論文は、縄文人の人口動態に光を当て、全ミトコンドリアゲノムデータに基づいて推定された縄文人の定住史に関する代替的な想定を示します。
●研究史
縄文人は、ユーラシア大陸の東端に位置する日本列島【日本列島とユーラシア大陸が陸続きだったのは更新世の寒冷期で、現在は陸続きではありませんが】に居住していた先史時代の狩猟採集民です。縄文人は、「縄文」との名称の由来である、縄目模様で装飾された土器の最古級の使用と、狩猟採集民では一般的ではない定住生活様式が特徴です。縄文時代は土器様式の時間的変化に基づいて6期に区分されており、それは、草創期(16500~11300年前頃)、早期(11300~7100年前頃)、前期(7100~5400年前頃)、中期(5400~4400年前頃)、後期(5400~4400年前頃)、晩期(4400~3200年前頃)です。したがって、縄文時代は1万年以上にわたっていました。
縄文時代には、人口規模は経時的にどのように変わりましたか?この問題に取り組むために、小山修三は地域単位の考古学的遺跡の数と歴史時代の文献証拠に基づいて、人口規模を推定しました。その結果、縄文時代早期から前期にかけての漸進的な人口増加や、中期に最大に達したことや、日本列島の東部(おもに関東地方に相当します)では西部よりも人口が多かったことや、中部と近畿が東西の境界だったことが示唆されました。縄文時代の人口についての研究が小山の推定以降にいくつか刊行されてきましたが、日本列島全域の縄文人の全体的な人口史を網羅する包括的分析は、依然として限られています。小山の研究は重要な参考文献として機能し続けており、最近の考古学的および遺伝学的調査結果を完全に組み込む、より包括的で更新された研究の必要性が強調されます。
さらに最近では、先史時代の人口動態を推定する目的で、BSP分析が日本列島の現在の個体群の複数の全ミトコンドリアゲノムのヌクレオチド配列に適用されてきました。これら以前のBSPは、縄文時代末の後および弥生時代の始まりに伴うのNₑの急速な増加を示しており、これは水田稲作の開始と一致します。しかし、現在の日本人の遺伝子プールには、在来の縄文人と、3000年前頃に日本列島に到来した大陸からの移民のミトコンドリアゲノムが含まれているので、現代人のミトコンドリアゲノムに基づくBSP分析は、縄文人と大陸からの移民両方の人口統計学的変化を反映しているでしょう。現在の日本人の遺伝子プールから縄文人に固有のミトコンドリアゲノムを特定することは難しいため、縄文人集団のみの人口動態を観察することはできません(Watanabe et al., 2019)。一方で、Y染色体については状況が異なります。先行研究(Watanabe et al., 2019)は、アジア東部人のY染色体の系統発生分析を実行し、現在の日本人のみで構成される主要なクレード(単系統群)を特定し(本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」の人々の35.4%を構成しています)、この単系統群は縄文人に由来する可能性が高そうです。これらY染色体を用いてのBSP分析は、2500年前頃の男性人口の顕著な現象を示唆しており、縄文時代の末から弥生時代の初期移行と一致します。しかし、その研究は現在の日本人のゲノムに基づいているので、縄文人に固有の配列は、縄文人の直接的分析なしには真に特定できません。
東西の縄文人集団間の地域的不均衡に関する遺伝学的研究は、おもにmtHgの頻度が中心でした。日本列島全域の縄文人のうち、主要な3系統のハプログループ、つまりM7aとN9bとD4b2が特定されてきました。mtHg-M7aおよびN9bは現在の日本列島では低頻度ですが、いくつかの一連の先行研究では、ほぼ全ての縄文人個体はこれらのmtHgの1系統に属しており、N9bが東縄文人で優勢なのに対して、M7aは西縄文人で多い、と示されてきました。mtHg-N9およびM7のより広範な視点では、両者はユーラシア東部の沿岸地域に分布していますが、N9がおもに沿海地方(Primorsky Krai)を含めてアジア北東部で見られるのに対して、M7はおもにアジア南東部および中国南東部で見られます。この両mtHgの地域的に偏った分布は、上部旧石器時代における日本列島への縄文人の祖先集団が通ったあり得る二つの経路を示唆しており、一方はN9bによって表される北方からの経路、もう一方は、M7aによって表される西方からの経路です(篠田.,2019)。この想定に従えば、mtHgのN9bとM7aの間の頻度差異は複数回の移住の波によって引き起こされたことになり、縄文人は異なる系統の集団の混合によって形成された、と示唆されます。しかし、この想定の主要な理由の一つがユーラシア東部の現在の人口集団のmtHg分布であることは要注意で、それは、現在の人口集団の遺伝的多様性が過去数万年間の移動と混合に影響を受けてきており、必ずしも過去の遺伝的多様性を保存していないからです。
高処理能力配列決定(いわゆるNGS)によって得られた配列データに基づく最近の研究は、必ずしもこの想定を裏づけてきませんでした(Watanabe et al., 2019、Mizuno et al., 2023、Gakuhari et al., 2020、Cooke et al., 2021、Jeong et al., 2023)。全ミトコンドリアゲノム配列データから、縄文人と現在の日本人で見られるmtHg-N9bの亜型は、大陸地域に推定される起源人口集団とは異なる、と示されています。縄文人ゲノムの核ゲノム配列データからは、縄文人個体群はユーラシア東部人口集団の多様性内での高度な均質性および他のアジア東部人口集団からの深い分岐を示す、と分かってきました(Gakuhari et al., 2020、Cooke et al., 2021、Jeong et al., 2023)。縄文人41個体のより新しい核全ゲノム分析から、縄文人は系統樹で単系統群を形成し、その中で単一の地理的勾配に従って分離する、と示唆されました(Watanabe et al., 2024)。単純に解釈すると、これらのデータは代替的な状況を想定しており、縄文人の祖先人口集団は、上部旧石器時代に日本列島に最初に定着した単一系統でした。つまり、mtHgのN9bとM7aとの間の東西の頻度の差異は、縄文人の単一の祖先人口集団の拡大と関連する遺伝的浮動によって形成されたかもしれません。しかし、この想定は、縄文人の全ゲノムデータが過去10年間でやっと利用可能になったので、依然として検証されていません。
何千年もの人口史を調べる集団遺伝学の分析は、理想的には50個体以上を必要とします。しかし、古代ゲノムを用いてこの基準に達するのは困難で、それは、現代人のゲノムと比較して、分析に利用可能な古代ゲノムの標本はずっと少ないからです。とはいえ、縄文人骨からの全ミトコンドリアゲノム配列の最近の蓄積は、比較的多い数の縄文人個体群を用いての、人口動態推定への窓を開いてきました。本論文では、全ミトコンドリアゲノム配列データを用いて、縄文人の人口史が調べられます。縄文時代の遺跡で発掘された52個体のヒト遺骸からDNAが抽出され、13点の新しい完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました。以前に刊行されたミトコンドリアゲノム配列データと組み合わせて、40個体のデータセットが構築され、集団遺伝学的分析が実行されました。完全なミトコンドリアゲノム配列に基づくと、mtHgのN9bとM7aとの間で東西の頻度は異なっている、と分かり、mtHg-N9bおよびM7aはそれぞれ23000年前頃と26000年前頃に出現した、と推定されました。本論文の頻度に基づく模擬実験では、大きな頻度の差異は、とくに、小さな初期の有効人口規模や極端な人口分岐や東西の人口集団間の限られた移動の条件下では、遺伝的浮動のみで生じるかもしれない、と論証されました。人口統計学的分析の結果は、縄文時代の草創期と早期の間のNₑ増加を示しており、これは同時代のアジア東部大陸部人口集団では観察されません。注目すべきことに、日本列島の東西間で遺伝子流動がなかった、と仮定するならば、この人口組成は日本列島の西部よりも東部においてより顕著で、縄文人集団は顕著で地域的な人口統計学的多様性を示していた、と示唆されます。
●資料と手法
本論文では、千葉県市原市の祇園原貝塚と菊間手永貝塚と西広貝塚から発掘された22点の骨格遺骸が新たに分析されました。祇園原貝塚と西広貝塚は縄文時代後期〜晩期(4400~2400年前頃)、菊間手永貝塚は縄文時代後期(3200〜2400年前頃)です。この3ヶ所の遺跡は、まとめて市原縄文遺跡群と呼ばれます。放射性炭素年代測定はAMSを用いて行なわれ、海洋貯蔵効果は平均δ¹³C値を用いて推定されました。
市原縄文遺跡群から得られた新たなミトコンドリアゲノムは、既知の縄文人27個体(早期が11個体、前期が6個体、中期が3個体、後期が5個体、晩期が2個体)のデータと統合されました(図1および表1)。これら既知の縄文人は地理的に、北海道(2個体)と本土(24個体)と琉球(1個体)に区分されました。縄文人のミトコンドリアゲノムの新たなデータと既知のデータを合わせて、早期が11個体、前期が6個体、中期が3個体、後期が18個体、晩期が2個体から構成される、縄文人40個体のデータセットが得られました。さらに、琉球の上部旧石器時代の1個体(港川1号)とアフリカ北東部のスーダンの現代人1個体が、系統発生分析に含められました。以下は本論文の図1です。
系統発生分析では、MRCAが推定されました。mtHgの分岐年代について、以前の推定値が用いられ、MとNでは6万年前頃、Dでは4万年前頃、N9では2万年前頃です。mtHgの頻度模擬実験では、縄文人とその祖先集団はmtHg-N9とmtHg-M7aから構成される任意交配集団で、世代時間は25年と仮定されました。
●新たに配列決定された個体のデータ品質
市原縄文遺跡群の51点の骨格断片からDNAが得られ、ヒト参照ゲノムに対する読み取り率の範囲は0〜62.97%で、13個体が15%超でした。この13個体についてさらに配列決定され、平均深度は20〜270倍で、汚染率は2%未満の完全なミトコンドリアゲノム配列が得られました。これらのデータでは、古代DNAに特徴的な損傷パターンである、3’末端での脱アミノ化が見られました。
●主要なmtHgの分布と分岐
mtHg-N9bとM7aとの間の東西の頻度差異が全ミトコンドリアゲノム配列に基づいても観察されるのかどうか、確認するために、縄文人40個体を用いて、系統発生網が構築されました(図2)。その結果、mtHg-N9bとM7aに対応する、それぞれ26個体と12個体を含む、顕著な2単系統群が示されました。先行研究(Mizuno et al., 2023)の調査結果と一致して、縄文人40個体のうち2個体(東名貝塚の002号および020号)のみが、上部旧石器時代の港川フィッシャー遺跡の1個体(港川1号)とともに、主要な2単系統群に収まりませんでした。mtHg-N9bもしくはM7aに属する縄文人38個体は、中部と近畿の境界で東西の集団に区分されました。ミトコンドリアゲノムでは、東縄文人32個体のうち25個体はN9bに属していましたが、西縄文人8個体のうち5個体はM7aに属していました。東縄文人集団の一部と分類された市原縄文遺跡群の13個体は全員、mtHg-N9bもしくはM7aに属しており、N9bが11個体なのに対して、M7aはは2個体のみです。これらの結果は、日本列島の東部地域におけるN9bおよび西部地域におけるM7aのより高い割合を示唆した、縄文人のmtHgに関する先行研究(Adachi et al., 2021、Mizuno et al., 2023)と一致しています。
全ミトコンドリアゲノム配列を用いて、mtHg分布におけるこの東西の二分を検証するために、38個体でフィッシャーの正確確率検定が実行され、東縄文人個体群とのN9b、西縄文人個体群とのM7aの有意な関連が検出されました。9ヶ所の遺跡の31個体はN9bもしくはM7aのどちらかに分類され、N9bもしくはM7aのどちらかしか検出されない4ヶ所の遺跡が見つかりましたが、5ヶ所の遺跡ではN9bとM7a両方のmtHgが検出されました(図2)。したがって、これらのハプロタイプは厳密には特定の地域に限られているわけではありませんが、東西の縄文人集団間でN9bとM7aの頻度分布において統計的に有意な不均衡が存在しました。以下は本論文の図2です。
系統発生網形態を調べると、星型構造が観察され、複数の配列がN9b単系統群内で単一の配列から分岐していましたが、M7a単系統群内では違いました。そうした星型的構造の存在は通常、急速な人口拡大を示唆しています。これは、急速な人口統計学的拡大が、N9bの系統内もしくは東縄文人集団内で起きたことを示唆しています。
mtHg-N9bおよびM7aがいつ出現したのか、調べるために、系統発生網における各単系統群の根の分岐時期が推定されました。全ミトコンドリアゲノムを用いると、分岐時期は、N9bでは23000年前頃(95%信頼区間では31213〜19611年前)、M7aでは26000年前頃(95%信頼区間では35959〜21250年前)と推定されました。同様の推定値は、変異率を調整した、コーディング領域を用いて得られました。これらの年代は上部旧石器時代に相当しますが、これらのmtHgが出現したのは、ユーラシア東部大陸部だったのか、あるいは日本内だったのかどうかは、依然として不明です。N9bとM7aの間の分岐時期における大きな違いの欠如から、これらのmtHgが日本列島に単一の移住事象の一部として入ってきたかもしれない、と示唆されます。
その後、これらmtHg間の東西の頻度差異が、縄文人は共通の祖先人口集団に起源があった、との仮定下で、遺伝的浮動によって増加し得るのかどうか、調べるために、模擬実験が行なわれました。図3は、N9bと仮定される一方のmtHgの頻度差異(東西)が、0.5以上に達する確率を示しています。模擬実験の結果は、以下の傾向を示唆しています。第一に、より小さな初期の有効人口規模は、より高い確率と関連しています。第二に、より極端な人口分岐は、より高い確率をもたらす傾向にあります。この傾向の例外は、Nₑ=1000と移住率1%と10年の移住間隔の特定の条件下で観察され、より極端な分岐率はより低い確率につながりました。第三に、確率への移住の影響は、移住間隔で割った移住率によって定義される、世代あたりの移住率に依存する、と分かり、この値がより小さいと、確率がより大きくなります。さらに、世代あたりの移住率が低かった場合、確率は世代を経るにつれて増加する傾向にありました。要するに、これらのパターンから、単一の祖先人口集団が起源ならば、大きな東西のmtHg頻度差異は以下の条件下で起き得る、と示唆され、それは、(1)小さな初期の有効人口規模、(2)極端な人口分岐、(3)分岐した2人口集団間の限定的な移住です。これらのすべての条件下では、確率が30%近くに達しました。以下は本論文の図3です。
●縄文時代における人口統計学的変化
Nₑにおける経時的変化を評価するために、全ゲノム配列を用いてBSP分析が実行されました。縄文人全個体を含むBSPでは、Nₑにおける顕著な増加は、縄文時代の草創期から早期の移行期に相当する13000~8000年前頃に起きた、と分かりました(図4A)。興味深いことに、草創期と早期におけるそうした人口増加以下は現在の日本人個体群のBSP分析には存在せず、縄文時代の中期~末期に相当する5000~2000年前頃の人口増加を示唆していました(図4B)。この矛盾は、縄文人と3000年前頃に日本列島に移住した大陸部人口集団の両方からミトコンドリアゲノム取り込んだ、現在の日本人の遺伝子プールから生じた可能性が高そうです。したがって、縄文人では縄文時代草創期と早期の移行期に人口増加が起きたものの、アジア東部大陸部人口集団ではその期間に人口増加が起きなかった、と推測されます。本論文の図4です。
東西の人口集団間の遺伝子流動がなかったことを仮定して、東西の縄文人集団それぞれについて、BSP分析が実行されました。中部と近畿の境界を用いると、東西の縄文人の合着(合祖)時期は一致せず、同じ時間的範囲によたった両方の人口動態図を観察することはできませんでした(図4C)。この問題に取り組むために、日本列島の中央地溝帯であるフォッサマグナの西端である糸魚川静岡構造線が、代替的な境界として用いられました。東西の境界変更で、以前は小山修三の分類に従って東縄文人に割り当てられていた伊川津貝塚および小竹貝塚遺跡の個体群は、西縄文人に分類されました。分析の結果、東西両方の縄文人で人口増加が明らかになりましたが、西縄文人の人口増加は比較的緩やかでした(図4D)。
●人口拡大を検証するための多様性統計
縄文人集団内で起きた可能性が高い人口拡大を解明するために、進化的に中立と知られている、mtDNAの非コード領域を用いて、多様性統計が計算されました。表2は、現在のアジア東部人口集団(CHBとJPT)と比較しての、考古学的(複数の)遺跡(居家以岩陰、東名貝塚、小竹貝塚、市原としてまとめられる菊間手永貝塚と祇園原貝塚と西広貝塚)と地理的距離によって分類された集団のS(number of segregation sites、分離遺跡数)、Θw(Watterson’s estimator of population mutation rate、人口変異率のワッターソン推定量)、π(ヌクレオチド多様性)、田島のDの数を提示しています。これらの集団のうち、現在の人口集団を除いて、最小のπ値が0.00279(居家以岩陰)だったのに対して、最大のπ値は0.00439(東名貝塚)でした。両方の値は、縄文時代早期のものでした。東西の縄文人はほぼ同一のπ値(それぞれ、0.00310と0.00314)を示し、日本列島の東西の地域間の同等の遺伝的多様性を示唆しています。注目すべきことに、縄文人全個体のπ値(0.00330)はCHB(0.00884)とJPT(0.00785)よりかなり低く、現在の人口集団と比較して縄文人では相対的に遺伝的多様性が減少していることを示唆しています。
田島のDについて、縄文人全員と現在の日本人個体群の両方とも、BSPは異なる期間の人口増加を示しており、有意に異なる負の値が示され、急速な人口増加が示唆されます(表2)。さらに、東縄文人個体群が有意に負の田島のD値を示したのに対して、西縄文人は有意に負の値を示しませんでした。したがって、縄文人集団は全体的に、かなりの拡大を経た可能性が高く、それは東縄文人集団においてとくに明らかです。
●考察
本論文では、日本列島の北海道と本土と琉球の縄文時代の早期と前期と中期と後期と晩期を含めて、全ミトコンドリアゲノム配列データの包括的分析によって、縄文人の人口史が詳細に調べられました。蓄積された縄文人の全ミトコンドリアゲノム配列データを、半数体DNA系統発生に基づく手法であるBSP分析と統合することで、縄文人の人口動態を直接的に再構築できました。
全ミトコンドリアゲノム配列データから構築された系統発生網は、mtHgのM7aとN9bに対応する異なる2単系統群を明らかにしました(図2)。注目すべきことに、いくつかの星型構造がN9b単系統群内のみで観察され、人口増加の兆候が示唆されます。以前の調査結果と一致して、中部と近畿の境界を用いて、縄文人個体群を東西の集団に区分すると、N9b単系統群がおもに東縄文人個体群を含んでいたのに対して、M7a単系統群はおもに西縄文人個体群で構成されていました。先行研究(篠田.,2019)では、この東西の頻度差異は縄文人の祖先の日本列島への少なくとも2回の別の移住の波のためとされており、N9bは北方経路で、M7aは西方経路で到来しました。しかし、本論文の模擬実験から、そうした大きな頻度差異は、小さな初期の有効人口規模と極端な人口分岐と東西の縄文人集団間の限られた移住を考えると、単一の祖先人口集団からでさえ、遺伝的浮動を通じて生じるかもしれない、と示唆されます。大きなmtHg頻度差異が起きなかった確率は、これらの条件すべてが満たされた場合でさえ、より高かったことに要注意です。
本論文の模擬実験は、局所的な社会構造もしくは婚姻体系など、詳細な過程を組み込まず、代わりに集団全体を扱うモデルに基づいていました。mtHg頻度差異は遺伝的浮動によって起き得る、とよく知られていますが、本論文は、把握している限りでは初めて、考古学的記録からの人口統計学的変化やmtHgの推定分岐時期や観察された東西のmtHg頻度差異を含めて、日本列島の先史時代人口集団についての複数の一連の実証的証拠を、統一的な模擬実験の枠組みに明確に統合しました。この統合された手法は、縄文人集団の人口動態の研究において大きな進歩を表しています。中部と近畿の境界付近の人口障壁の可能性など、モデル仮定と考古学的現実との間の矛盾は、さらに調査されるべきです。そうした障壁は、自然の地理的もしくは環境的なものではなく、文化的だったかもしれません(山田.,2019)。それにも関わらず、本論文の調査結果は貴重な視点を提供しており、mtHg-N9bおよびM7aの非対称的分布は、最近の核ゲノム分析(Watanabe et al., 2024)によって示唆されているように、縄文人の単系統起源と必ずしも矛盾しません。
本論文の分岐年代推定値から、mtHg-N9bおよびM7aはそれぞれ23000年前頃と26000年前頃に出現した、と示唆されます。これらの年代は、現在の日本人個体群の全ゲノム配列から推定された分岐時期と類似しており、現在の日本人におけるmtHg-N9bおよびM7aの両方が縄文人起源である、との仮説を裏づけます。注目すべきことに、これらの年代は縄文人(42個体)の核ゲノムから推定された他のユーラシア東部人口集団からの縄文人の分岐時期内に収まります(Watanabe et al., 2024)。したがって、高頻度でmtHg-N9bおよびM7aの両方を有する人口集団が、ユーラシア東部から日本列島へと25000年前頃に移住して、縄文人の祖先になったかもしれません。さらに、mtHg-N9bおよびM7aの両方が日本列島外の現在の人口集団では稀にしか見られないことを考えると、これらのmtHgは日本列島内でかなりの多様化を経たかもしれません。将来、mtHg-N9bおよびM7aの両方の正確な起源を解明するためには、草創期縄文人およびユーラシア東部の上部旧石器時代個体群のmtDNA配列が必要でしょう。
BSPでは、縄文時代草創期~掻器におけるミトコンドリアのNₑの増加が観察され、これは、現在の日本人集団のミトコンドリアゲノム配列の分析では示されなかった傾向です(図4A・B)。これが妥当なのは、日本列島の現代人のミトコンドリアゲノムには、著しく高い頻度で大陸部からの移民のミトコンドリアゲノムが含まれているからです。注目すべきことに、縄文人に由来すると考えられている、現在の日本人のY染色体で行なわれたBSP分析は、本論文の推定期間と同時代のNₑの増加を示しました(Watanabe et al., 2019)。Nₑはある人口集団内の遺伝的多様性から導かれる理論的値で、実際の人口規模とは異なる概念です。Nₑの増加は一般的に、急速な内部の増加か、外部人口集団からの個体群の流入のどちらかに起因します。上部旧石器時代から縄文時代にかけての日本列島における大規模な移住もしくは人口置換の考古学的および遺伝学的証拠の欠如の観点から、内部の人口拡大がより妥当な想定のようです。しかし、ゲノムデータから推定された人口増加の時期は小山修三によって提案された年代に先行しており、この期間の人口史に関して未解決の問題を提起します。遺跡数などの考古学的証拠は、人口増加の始まりではなく、それ以前の人口増加の結果を反映しているかもしれません。あるいは、この差異は、媒介変数の選択に起因する本論文の遺伝学的推定値の不確実性に由来するかもしれません。いずれにしても、この時間的不一致は、追加のデータが利用可能になるにつれて、さらに注意が払われるべきです。
考古学的観察では長く、日本列島の東西間の遺跡数の不均衡を指摘してきており、この格差は縄文時代中期に顕著に拡大した、とされています。中部と近畿の境界を東西の境界として用いると、本論文の結果は、人口規模の観点では小山修三の推定値を裏づけており、つまりは、東縄文人の人口規模は西縄文人より大きかったわけです(図4C)。本論文の代替的な境界である糸魚川静岡構造線を用いると、西縄文人よりもずっと顕著な人口増加が東縄文人で観察されました。しかし、1万年前頃を除いて、Nₑが一貫してより大きかったのは西縄文人の方です(図4D)。東西の境界の位置に関わらず、東縄文人の図が全縄文人(40個体)と類似していたことを考えると、西縄文人標本の数は地域別分析の実行には不充分かもしれません。考古学的文脈では、人口規模を示唆する遺跡数の東西の不均衡を、自然環境や生態系の地域差と関連づける試みがなされてきました。ブナが優占する落葉広葉樹林によって特徴づけられる東日本は、オークを中心とする西日本の常緑広葉樹林と対称的です。山内清男は、サケとマスが東日本において重要な動物資源だった、との仮説を提示しました。この研究分野の次の段階では、これらの生態学的視点に基づく縄文人のゲノム情報の解釈が重要でしょう。
参考文献:
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関連記事
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関連記事
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関連記事
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山田康弘(2019)『縄文時代の歴史』(講談社)
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以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、BSP(Bayesian skyline plot、ベイズ地平線図)、Nₑ(有効人口規模)、NGS(Next generation sequencing、次世代配列決定)、AMS(accelerator mass spectrometry、加速器質量分析法)、C(carbon、炭素)、MRCA(most recent common ancestor、最新共通祖先)、S(number of segregation sites、分離遺跡数)、Θw(Watterson’s estimator of population mutation rate、人口変異率のワッターソン推定量)、π(ヌクレオチド多様性)、JPT(Japanese from Tokyo、東京の日本人)、CHB(Chinese from Beijing、北京の中国人)です。本論文で取り上げられる日本の主要な遺跡は、千葉県市原市の祇園原(Gionbara、略してGB)貝塚と菊間手永(Kikumatenaga、略してKT)貝塚と西広(Saihiro、略してSH)貝塚、群馬県吾妻郡長野原町の居家以岩陰、富山市の小竹貝塚、愛知県田原市の伊川津貝塚、佐賀市の東名貝塚、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡です。
●要約
日本列島に広がっていた縄文文化は16000年前頃に始まり、1万年以上続きました。縄文文化を有する先史時代狩猟採集民である縄文人の人口史は、先史時代ユーラシア東部人を理解するうえでたいへん興味深い問題です。これまで、人口規模とその変動、つまり縄文人の人口動態は考古学的文脈で推定されてきましたが、過去20年間でもゲノム配列データを用いての統計的手法が充分に発展してきました。縄文人の人口動態を調べるために、縄文人13個体から全ミトコンドリアゲノム配列が決定され、以前に刊行されたデータを含めて縄文人40個体のミトコンドリアゲノムで集団遺伝学的分析が実行されました。模擬実験によって、縄文人に典型的な2系統のmtHg、つまりN9bとM7aとの間の東西間の頻度差異は、小さな当初の有効人口規模、極端な人口集団の分岐、東西の人口集団間の限られた移住の条件下での遺伝的浮動によって引き起こされるかもしれない、と示されも地域的に不均衡なmtHg分布は最近の核ゲノム解析によって示唆された縄文人の単系統起源想定と必ずしも矛盾しない、と示唆されました。縄文時代の草創期~掻器におけるNₑ増加が見つかり、これは現在の日本人集団のミトコンドリアゲノム配列解析では観察されませんでした。この固有の人口統計学的パターンは、東西の縄文人の間の遺伝子流動がなかった、との仮定下で、日本列島の東部において顕著です。本論文は、縄文人の人口動態に光を当て、全ミトコンドリアゲノムデータに基づいて推定された縄文人の定住史に関する代替的な想定を示します。
●研究史
縄文人は、ユーラシア大陸の東端に位置する日本列島【日本列島とユーラシア大陸が陸続きだったのは更新世の寒冷期で、現在は陸続きではありませんが】に居住していた先史時代の狩猟採集民です。縄文人は、「縄文」との名称の由来である、縄目模様で装飾された土器の最古級の使用と、狩猟採集民では一般的ではない定住生活様式が特徴です。縄文時代は土器様式の時間的変化に基づいて6期に区分されており、それは、草創期(16500~11300年前頃)、早期(11300~7100年前頃)、前期(7100~5400年前頃)、中期(5400~4400年前頃)、後期(5400~4400年前頃)、晩期(4400~3200年前頃)です。したがって、縄文時代は1万年以上にわたっていました。
縄文時代には、人口規模は経時的にどのように変わりましたか?この問題に取り組むために、小山修三は地域単位の考古学的遺跡の数と歴史時代の文献証拠に基づいて、人口規模を推定しました。その結果、縄文時代早期から前期にかけての漸進的な人口増加や、中期に最大に達したことや、日本列島の東部(おもに関東地方に相当します)では西部よりも人口が多かったことや、中部と近畿が東西の境界だったことが示唆されました。縄文時代の人口についての研究が小山の推定以降にいくつか刊行されてきましたが、日本列島全域の縄文人の全体的な人口史を網羅する包括的分析は、依然として限られています。小山の研究は重要な参考文献として機能し続けており、最近の考古学的および遺伝学的調査結果を完全に組み込む、より包括的で更新された研究の必要性が強調されます。
さらに最近では、先史時代の人口動態を推定する目的で、BSP分析が日本列島の現在の個体群の複数の全ミトコンドリアゲノムのヌクレオチド配列に適用されてきました。これら以前のBSPは、縄文時代末の後および弥生時代の始まりに伴うのNₑの急速な増加を示しており、これは水田稲作の開始と一致します。しかし、現在の日本人の遺伝子プールには、在来の縄文人と、3000年前頃に日本列島に到来した大陸からの移民のミトコンドリアゲノムが含まれているので、現代人のミトコンドリアゲノムに基づくBSP分析は、縄文人と大陸からの移民両方の人口統計学的変化を反映しているでしょう。現在の日本人の遺伝子プールから縄文人に固有のミトコンドリアゲノムを特定することは難しいため、縄文人集団のみの人口動態を観察することはできません(Watanabe et al., 2019)。一方で、Y染色体については状況が異なります。先行研究(Watanabe et al., 2019)は、アジア東部人のY染色体の系統発生分析を実行し、現在の日本人のみで構成される主要なクレード(単系統群)を特定し(本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」の人々の35.4%を構成しています)、この単系統群は縄文人に由来する可能性が高そうです。これらY染色体を用いてのBSP分析は、2500年前頃の男性人口の顕著な現象を示唆しており、縄文時代の末から弥生時代の初期移行と一致します。しかし、その研究は現在の日本人のゲノムに基づいているので、縄文人に固有の配列は、縄文人の直接的分析なしには真に特定できません。
東西の縄文人集団間の地域的不均衡に関する遺伝学的研究は、おもにmtHgの頻度が中心でした。日本列島全域の縄文人のうち、主要な3系統のハプログループ、つまりM7aとN9bとD4b2が特定されてきました。mtHg-M7aおよびN9bは現在の日本列島では低頻度ですが、いくつかの一連の先行研究では、ほぼ全ての縄文人個体はこれらのmtHgの1系統に属しており、N9bが東縄文人で優勢なのに対して、M7aは西縄文人で多い、と示されてきました。mtHg-N9およびM7のより広範な視点では、両者はユーラシア東部の沿岸地域に分布していますが、N9がおもに沿海地方(Primorsky Krai)を含めてアジア北東部で見られるのに対して、M7はおもにアジア南東部および中国南東部で見られます。この両mtHgの地域的に偏った分布は、上部旧石器時代における日本列島への縄文人の祖先集団が通ったあり得る二つの経路を示唆しており、一方はN9bによって表される北方からの経路、もう一方は、M7aによって表される西方からの経路です(篠田.,2019)。この想定に従えば、mtHgのN9bとM7aの間の頻度差異は複数回の移住の波によって引き起こされたことになり、縄文人は異なる系統の集団の混合によって形成された、と示唆されます。しかし、この想定の主要な理由の一つがユーラシア東部の現在の人口集団のmtHg分布であることは要注意で、それは、現在の人口集団の遺伝的多様性が過去数万年間の移動と混合に影響を受けてきており、必ずしも過去の遺伝的多様性を保存していないからです。
高処理能力配列決定(いわゆるNGS)によって得られた配列データに基づく最近の研究は、必ずしもこの想定を裏づけてきませんでした(Watanabe et al., 2019、Mizuno et al., 2023、Gakuhari et al., 2020、Cooke et al., 2021、Jeong et al., 2023)。全ミトコンドリアゲノム配列データから、縄文人と現在の日本人で見られるmtHg-N9bの亜型は、大陸地域に推定される起源人口集団とは異なる、と示されています。縄文人ゲノムの核ゲノム配列データからは、縄文人個体群はユーラシア東部人口集団の多様性内での高度な均質性および他のアジア東部人口集団からの深い分岐を示す、と分かってきました(Gakuhari et al., 2020、Cooke et al., 2021、Jeong et al., 2023)。縄文人41個体のより新しい核全ゲノム分析から、縄文人は系統樹で単系統群を形成し、その中で単一の地理的勾配に従って分離する、と示唆されました(Watanabe et al., 2024)。単純に解釈すると、これらのデータは代替的な状況を想定しており、縄文人の祖先人口集団は、上部旧石器時代に日本列島に最初に定着した単一系統でした。つまり、mtHgのN9bとM7aとの間の東西の頻度の差異は、縄文人の単一の祖先人口集団の拡大と関連する遺伝的浮動によって形成されたかもしれません。しかし、この想定は、縄文人の全ゲノムデータが過去10年間でやっと利用可能になったので、依然として検証されていません。
何千年もの人口史を調べる集団遺伝学の分析は、理想的には50個体以上を必要とします。しかし、古代ゲノムを用いてこの基準に達するのは困難で、それは、現代人のゲノムと比較して、分析に利用可能な古代ゲノムの標本はずっと少ないからです。とはいえ、縄文人骨からの全ミトコンドリアゲノム配列の最近の蓄積は、比較的多い数の縄文人個体群を用いての、人口動態推定への窓を開いてきました。本論文では、全ミトコンドリアゲノム配列データを用いて、縄文人の人口史が調べられます。縄文時代の遺跡で発掘された52個体のヒト遺骸からDNAが抽出され、13点の新しい完全なミトコンドリアゲノム配列が決定されました。以前に刊行されたミトコンドリアゲノム配列データと組み合わせて、40個体のデータセットが構築され、集団遺伝学的分析が実行されました。完全なミトコンドリアゲノム配列に基づくと、mtHgのN9bとM7aとの間で東西の頻度は異なっている、と分かり、mtHg-N9bおよびM7aはそれぞれ23000年前頃と26000年前頃に出現した、と推定されました。本論文の頻度に基づく模擬実験では、大きな頻度の差異は、とくに、小さな初期の有効人口規模や極端な人口分岐や東西の人口集団間の限られた移動の条件下では、遺伝的浮動のみで生じるかもしれない、と論証されました。人口統計学的分析の結果は、縄文時代の草創期と早期の間のNₑ増加を示しており、これは同時代のアジア東部大陸部人口集団では観察されません。注目すべきことに、日本列島の東西間で遺伝子流動がなかった、と仮定するならば、この人口組成は日本列島の西部よりも東部においてより顕著で、縄文人集団は顕著で地域的な人口統計学的多様性を示していた、と示唆されます。
●資料と手法
本論文では、千葉県市原市の祇園原貝塚と菊間手永貝塚と西広貝塚から発掘された22点の骨格遺骸が新たに分析されました。祇園原貝塚と西広貝塚は縄文時代後期〜晩期(4400~2400年前頃)、菊間手永貝塚は縄文時代後期(3200〜2400年前頃)です。この3ヶ所の遺跡は、まとめて市原縄文遺跡群と呼ばれます。放射性炭素年代測定はAMSを用いて行なわれ、海洋貯蔵効果は平均δ¹³C値を用いて推定されました。
市原縄文遺跡群から得られた新たなミトコンドリアゲノムは、既知の縄文人27個体(早期が11個体、前期が6個体、中期が3個体、後期が5個体、晩期が2個体)のデータと統合されました(図1および表1)。これら既知の縄文人は地理的に、北海道(2個体)と本土(24個体)と琉球(1個体)に区分されました。縄文人のミトコンドリアゲノムの新たなデータと既知のデータを合わせて、早期が11個体、前期が6個体、中期が3個体、後期が18個体、晩期が2個体から構成される、縄文人40個体のデータセットが得られました。さらに、琉球の上部旧石器時代の1個体(港川1号)とアフリカ北東部のスーダンの現代人1個体が、系統発生分析に含められました。以下は本論文の図1です。
系統発生分析では、MRCAが推定されました。mtHgの分岐年代について、以前の推定値が用いられ、MとNでは6万年前頃、Dでは4万年前頃、N9では2万年前頃です。mtHgの頻度模擬実験では、縄文人とその祖先集団はmtHg-N9とmtHg-M7aから構成される任意交配集団で、世代時間は25年と仮定されました。
●新たに配列決定された個体のデータ品質
市原縄文遺跡群の51点の骨格断片からDNAが得られ、ヒト参照ゲノムに対する読み取り率の範囲は0〜62.97%で、13個体が15%超でした。この13個体についてさらに配列決定され、平均深度は20〜270倍で、汚染率は2%未満の完全なミトコンドリアゲノム配列が得られました。これらのデータでは、古代DNAに特徴的な損傷パターンである、3’末端での脱アミノ化が見られました。
●主要なmtHgの分布と分岐
mtHg-N9bとM7aとの間の東西の頻度差異が全ミトコンドリアゲノム配列に基づいても観察されるのかどうか、確認するために、縄文人40個体を用いて、系統発生網が構築されました(図2)。その結果、mtHg-N9bとM7aに対応する、それぞれ26個体と12個体を含む、顕著な2単系統群が示されました。先行研究(Mizuno et al., 2023)の調査結果と一致して、縄文人40個体のうち2個体(東名貝塚の002号および020号)のみが、上部旧石器時代の港川フィッシャー遺跡の1個体(港川1号)とともに、主要な2単系統群に収まりませんでした。mtHg-N9bもしくはM7aに属する縄文人38個体は、中部と近畿の境界で東西の集団に区分されました。ミトコンドリアゲノムでは、東縄文人32個体のうち25個体はN9bに属していましたが、西縄文人8個体のうち5個体はM7aに属していました。東縄文人集団の一部と分類された市原縄文遺跡群の13個体は全員、mtHg-N9bもしくはM7aに属しており、N9bが11個体なのに対して、M7aはは2個体のみです。これらの結果は、日本列島の東部地域におけるN9bおよび西部地域におけるM7aのより高い割合を示唆した、縄文人のmtHgに関する先行研究(Adachi et al., 2021、Mizuno et al., 2023)と一致しています。
全ミトコンドリアゲノム配列を用いて、mtHg分布におけるこの東西の二分を検証するために、38個体でフィッシャーの正確確率検定が実行され、東縄文人個体群とのN9b、西縄文人個体群とのM7aの有意な関連が検出されました。9ヶ所の遺跡の31個体はN9bもしくはM7aのどちらかに分類され、N9bもしくはM7aのどちらかしか検出されない4ヶ所の遺跡が見つかりましたが、5ヶ所の遺跡ではN9bとM7a両方のmtHgが検出されました(図2)。したがって、これらのハプロタイプは厳密には特定の地域に限られているわけではありませんが、東西の縄文人集団間でN9bとM7aの頻度分布において統計的に有意な不均衡が存在しました。以下は本論文の図2です。
系統発生網形態を調べると、星型構造が観察され、複数の配列がN9b単系統群内で単一の配列から分岐していましたが、M7a単系統群内では違いました。そうした星型的構造の存在は通常、急速な人口拡大を示唆しています。これは、急速な人口統計学的拡大が、N9bの系統内もしくは東縄文人集団内で起きたことを示唆しています。
mtHg-N9bおよびM7aがいつ出現したのか、調べるために、系統発生網における各単系統群の根の分岐時期が推定されました。全ミトコンドリアゲノムを用いると、分岐時期は、N9bでは23000年前頃(95%信頼区間では31213〜19611年前)、M7aでは26000年前頃(95%信頼区間では35959〜21250年前)と推定されました。同様の推定値は、変異率を調整した、コーディング領域を用いて得られました。これらの年代は上部旧石器時代に相当しますが、これらのmtHgが出現したのは、ユーラシア東部大陸部だったのか、あるいは日本内だったのかどうかは、依然として不明です。N9bとM7aの間の分岐時期における大きな違いの欠如から、これらのmtHgが日本列島に単一の移住事象の一部として入ってきたかもしれない、と示唆されます。
その後、これらmtHg間の東西の頻度差異が、縄文人は共通の祖先人口集団に起源があった、との仮定下で、遺伝的浮動によって増加し得るのかどうか、調べるために、模擬実験が行なわれました。図3は、N9bと仮定される一方のmtHgの頻度差異(東西)が、0.5以上に達する確率を示しています。模擬実験の結果は、以下の傾向を示唆しています。第一に、より小さな初期の有効人口規模は、より高い確率と関連しています。第二に、より極端な人口分岐は、より高い確率をもたらす傾向にあります。この傾向の例外は、Nₑ=1000と移住率1%と10年の移住間隔の特定の条件下で観察され、より極端な分岐率はより低い確率につながりました。第三に、確率への移住の影響は、移住間隔で割った移住率によって定義される、世代あたりの移住率に依存する、と分かり、この値がより小さいと、確率がより大きくなります。さらに、世代あたりの移住率が低かった場合、確率は世代を経るにつれて増加する傾向にありました。要するに、これらのパターンから、単一の祖先人口集団が起源ならば、大きな東西のmtHg頻度差異は以下の条件下で起き得る、と示唆され、それは、(1)小さな初期の有効人口規模、(2)極端な人口分岐、(3)分岐した2人口集団間の限定的な移住です。これらのすべての条件下では、確率が30%近くに達しました。以下は本論文の図3です。
●縄文時代における人口統計学的変化
Nₑにおける経時的変化を評価するために、全ゲノム配列を用いてBSP分析が実行されました。縄文人全個体を含むBSPでは、Nₑにおける顕著な増加は、縄文時代の草創期から早期の移行期に相当する13000~8000年前頃に起きた、と分かりました(図4A)。興味深いことに、草創期と早期におけるそうした人口増加以下は現在の日本人個体群のBSP分析には存在せず、縄文時代の中期~末期に相当する5000~2000年前頃の人口増加を示唆していました(図4B)。この矛盾は、縄文人と3000年前頃に日本列島に移住した大陸部人口集団の両方からミトコンドリアゲノム取り込んだ、現在の日本人の遺伝子プールから生じた可能性が高そうです。したがって、縄文人では縄文時代草創期と早期の移行期に人口増加が起きたものの、アジア東部大陸部人口集団ではその期間に人口増加が起きなかった、と推測されます。本論文の図4です。
東西の人口集団間の遺伝子流動がなかったことを仮定して、東西の縄文人集団それぞれについて、BSP分析が実行されました。中部と近畿の境界を用いると、東西の縄文人の合着(合祖)時期は一致せず、同じ時間的範囲によたった両方の人口動態図を観察することはできませんでした(図4C)。この問題に取り組むために、日本列島の中央地溝帯であるフォッサマグナの西端である糸魚川静岡構造線が、代替的な境界として用いられました。東西の境界変更で、以前は小山修三の分類に従って東縄文人に割り当てられていた伊川津貝塚および小竹貝塚遺跡の個体群は、西縄文人に分類されました。分析の結果、東西両方の縄文人で人口増加が明らかになりましたが、西縄文人の人口増加は比較的緩やかでした(図4D)。
●人口拡大を検証するための多様性統計
縄文人集団内で起きた可能性が高い人口拡大を解明するために、進化的に中立と知られている、mtDNAの非コード領域を用いて、多様性統計が計算されました。表2は、現在のアジア東部人口集団(CHBとJPT)と比較しての、考古学的(複数の)遺跡(居家以岩陰、東名貝塚、小竹貝塚、市原としてまとめられる菊間手永貝塚と祇園原貝塚と西広貝塚)と地理的距離によって分類された集団のS(number of segregation sites、分離遺跡数)、Θw(Watterson’s estimator of population mutation rate、人口変異率のワッターソン推定量)、π(ヌクレオチド多様性)、田島のDの数を提示しています。これらの集団のうち、現在の人口集団を除いて、最小のπ値が0.00279(居家以岩陰)だったのに対して、最大のπ値は0.00439(東名貝塚)でした。両方の値は、縄文時代早期のものでした。東西の縄文人はほぼ同一のπ値(それぞれ、0.00310と0.00314)を示し、日本列島の東西の地域間の同等の遺伝的多様性を示唆しています。注目すべきことに、縄文人全個体のπ値(0.00330)はCHB(0.00884)とJPT(0.00785)よりかなり低く、現在の人口集団と比較して縄文人では相対的に遺伝的多様性が減少していることを示唆しています。
田島のDについて、縄文人全員と現在の日本人個体群の両方とも、BSPは異なる期間の人口増加を示しており、有意に異なる負の値が示され、急速な人口増加が示唆されます(表2)。さらに、東縄文人個体群が有意に負の田島のD値を示したのに対して、西縄文人は有意に負の値を示しませんでした。したがって、縄文人集団は全体的に、かなりの拡大を経た可能性が高く、それは東縄文人集団においてとくに明らかです。
●考察
本論文では、日本列島の北海道と本土と琉球の縄文時代の早期と前期と中期と後期と晩期を含めて、全ミトコンドリアゲノム配列データの包括的分析によって、縄文人の人口史が詳細に調べられました。蓄積された縄文人の全ミトコンドリアゲノム配列データを、半数体DNA系統発生に基づく手法であるBSP分析と統合することで、縄文人の人口動態を直接的に再構築できました。
全ミトコンドリアゲノム配列データから構築された系統発生網は、mtHgのM7aとN9bに対応する異なる2単系統群を明らかにしました(図2)。注目すべきことに、いくつかの星型構造がN9b単系統群内のみで観察され、人口増加の兆候が示唆されます。以前の調査結果と一致して、中部と近畿の境界を用いて、縄文人個体群を東西の集団に区分すると、N9b単系統群がおもに東縄文人個体群を含んでいたのに対して、M7a単系統群はおもに西縄文人個体群で構成されていました。先行研究(篠田.,2019)では、この東西の頻度差異は縄文人の祖先の日本列島への少なくとも2回の別の移住の波のためとされており、N9bは北方経路で、M7aは西方経路で到来しました。しかし、本論文の模擬実験から、そうした大きな頻度差異は、小さな初期の有効人口規模と極端な人口分岐と東西の縄文人集団間の限られた移住を考えると、単一の祖先人口集団からでさえ、遺伝的浮動を通じて生じるかもしれない、と示唆されます。大きなmtHg頻度差異が起きなかった確率は、これらの条件すべてが満たされた場合でさえ、より高かったことに要注意です。
本論文の模擬実験は、局所的な社会構造もしくは婚姻体系など、詳細な過程を組み込まず、代わりに集団全体を扱うモデルに基づいていました。mtHg頻度差異は遺伝的浮動によって起き得る、とよく知られていますが、本論文は、把握している限りでは初めて、考古学的記録からの人口統計学的変化やmtHgの推定分岐時期や観察された東西のmtHg頻度差異を含めて、日本列島の先史時代人口集団についての複数の一連の実証的証拠を、統一的な模擬実験の枠組みに明確に統合しました。この統合された手法は、縄文人集団の人口動態の研究において大きな進歩を表しています。中部と近畿の境界付近の人口障壁の可能性など、モデル仮定と考古学的現実との間の矛盾は、さらに調査されるべきです。そうした障壁は、自然の地理的もしくは環境的なものではなく、文化的だったかもしれません(山田.,2019)。それにも関わらず、本論文の調査結果は貴重な視点を提供しており、mtHg-N9bおよびM7aの非対称的分布は、最近の核ゲノム分析(Watanabe et al., 2024)によって示唆されているように、縄文人の単系統起源と必ずしも矛盾しません。
本論文の分岐年代推定値から、mtHg-N9bおよびM7aはそれぞれ23000年前頃と26000年前頃に出現した、と示唆されます。これらの年代は、現在の日本人個体群の全ゲノム配列から推定された分岐時期と類似しており、現在の日本人におけるmtHg-N9bおよびM7aの両方が縄文人起源である、との仮説を裏づけます。注目すべきことに、これらの年代は縄文人(42個体)の核ゲノムから推定された他のユーラシア東部人口集団からの縄文人の分岐時期内に収まります(Watanabe et al., 2024)。したがって、高頻度でmtHg-N9bおよびM7aの両方を有する人口集団が、ユーラシア東部から日本列島へと25000年前頃に移住して、縄文人の祖先になったかもしれません。さらに、mtHg-N9bおよびM7aの両方が日本列島外の現在の人口集団では稀にしか見られないことを考えると、これらのmtHgは日本列島内でかなりの多様化を経たかもしれません。将来、mtHg-N9bおよびM7aの両方の正確な起源を解明するためには、草創期縄文人およびユーラシア東部の上部旧石器時代個体群のmtDNA配列が必要でしょう。
BSPでは、縄文時代草創期~掻器におけるミトコンドリアのNₑの増加が観察され、これは、現在の日本人集団のミトコンドリアゲノム配列の分析では示されなかった傾向です(図4A・B)。これが妥当なのは、日本列島の現代人のミトコンドリアゲノムには、著しく高い頻度で大陸部からの移民のミトコンドリアゲノムが含まれているからです。注目すべきことに、縄文人に由来すると考えられている、現在の日本人のY染色体で行なわれたBSP分析は、本論文の推定期間と同時代のNₑの増加を示しました(Watanabe et al., 2019)。Nₑはある人口集団内の遺伝的多様性から導かれる理論的値で、実際の人口規模とは異なる概念です。Nₑの増加は一般的に、急速な内部の増加か、外部人口集団からの個体群の流入のどちらかに起因します。上部旧石器時代から縄文時代にかけての日本列島における大規模な移住もしくは人口置換の考古学的および遺伝学的証拠の欠如の観点から、内部の人口拡大がより妥当な想定のようです。しかし、ゲノムデータから推定された人口増加の時期は小山修三によって提案された年代に先行しており、この期間の人口史に関して未解決の問題を提起します。遺跡数などの考古学的証拠は、人口増加の始まりではなく、それ以前の人口増加の結果を反映しているかもしれません。あるいは、この差異は、媒介変数の選択に起因する本論文の遺伝学的推定値の不確実性に由来するかもしれません。いずれにしても、この時間的不一致は、追加のデータが利用可能になるにつれて、さらに注意が払われるべきです。
考古学的観察では長く、日本列島の東西間の遺跡数の不均衡を指摘してきており、この格差は縄文時代中期に顕著に拡大した、とされています。中部と近畿の境界を東西の境界として用いると、本論文の結果は、人口規模の観点では小山修三の推定値を裏づけており、つまりは、東縄文人の人口規模は西縄文人より大きかったわけです(図4C)。本論文の代替的な境界である糸魚川静岡構造線を用いると、西縄文人よりもずっと顕著な人口増加が東縄文人で観察されました。しかし、1万年前頃を除いて、Nₑが一貫してより大きかったのは西縄文人の方です(図4D)。東西の境界の位置に関わらず、東縄文人の図が全縄文人(40個体)と類似していたことを考えると、西縄文人標本の数は地域別分析の実行には不充分かもしれません。考古学的文脈では、人口規模を示唆する遺跡数の東西の不均衡を、自然環境や生態系の地域差と関連づける試みがなされてきました。ブナが優占する落葉広葉樹林によって特徴づけられる東日本は、オークを中心とする西日本の常緑広葉樹林と対称的です。山内清男は、サケとマスが東日本において重要な動物資源だった、との仮説を提示しました。この研究分野の次の段階では、これらの生態学的視点に基づく縄文人のゲノム情報の解釈が重要でしょう。
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https://doi.org/10.47248/hpgg2303040008
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Mizuno F. et al.(2023): Diversity in matrilineages among the Jomon individuals of Japan. Annals of Human Biology, 50, 1, 324–331.
https://doi.org/10.1080/03014460.2023.2224060
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Watanabe Y et al.(2019): Analysis of whole Y-chromosome sequences reveals the Japanese population history in the Jomon period. Scientific Reports, 9, 8556.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44473-z
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Watanabe Y. et al.(2024): Cold adaptation in Upper Paleolithic hunter-gatherers of eastern Eurasia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2024.05.03.591810
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Yoshida K. et al.(2026): Demographic history of the Jomon people: insights from whole-mitogenome analysis. Anthropological Science, 134, 1, 15–28.
https://doi.org/10.1537/ase.251024
篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
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山田康弘(2019)『縄文時代の歴史』(講談社)
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この記事へのコメント
今回の論文のシナリオは自身で「大きなmtHg頻度差異が起きなかった確率は、これらの条件すべてが満たされた場合でさえ、より高かったことに要注意です。」と言ってしまっているので可能性はかなり低いと思います。
2024年の同チームの論文を含めて個人的な違和感が以下のとおりです。ですが、とても面白い論文だったとは感じました。
①先行研究でM7aとN9bの共通祖先がさらに2万~1万年古く推定されている点がこのチームの解析結果と合わない
②N9bとM7aがそれぞれ約23000年前と約26000年前に出現したとする研究と矛盾
③文化の伝播(約1万6千年前)とゲノムの伝播を同じテーブルに載せている前提がおかしい
④東西縄文人が一定期間交わらなかったことを前提としているのに、約1万6千年と約1万年前の差を食い違いとみなしている点が論理矛盾を起こしている
⑤「極端に不均等な状態で東西集団に分かれる」、「両者の間の移動が少ない」という"自然選択"を前提条件にしているにも関わらず、 遺伝的浮動(偶然や確率的な要因)が起因としている点が矛盾
これまでの古代ゲノム研究からは、文化と遺伝の関係は多様だったことが示唆されるので、文化(考古学)と遺伝(古代人と現代人のゲノム研究)は今後も安易に関連づけてはならない、と考えています。
N9bとM7aの正確な起源の解明については、本論文も認めているように、草創期縄文人およびユーラシア東部の上部旧石器時代個体群のmtDNA配列が必要と思います。
おっしゃる通りだと思います
今後ともブログ更新頑張ってください