『卑弥呼』第163話「四歩の間」

 『ビッグコミックオリジナル』2026年3月5日号掲載分の感想です。前回は、山社(ヤマト)国と暈(クマ)国の境の庵で、ヤノハと、暈国の大夫で実質的な最高権力者である鞠智彦(ククチヒコ)の取り子(養子)となった、日見彦(ヒミヒコ)候補とされているニニギ(ヤエト)が対面したところで終了しました。今回は、ヤノハがかつて殺害してしまった親友のモモソの霊?から、妊娠中の子供(ヤエト)を殺さねば、その子供に殺される、と預言されたことを回想している場面から始まります。ニニギが待つ山社と暈の境の庵へと、ヤノハが入っていったのを見た鞠智彦は、ニニギがヤノハを殺せば必ず戦になる、と懸念していました。ヤノハが実母とは知らず、それどころか、ヤノハを深く恨むヒルメに騙され、ヤノハが両親(実際は養父母)を殺させた、と思い込んでいるニニギは、ヤノハを殺そうと考えています。鞠智彦の腹心であるウガヤは、日見子(ヒミコ)であるヤノハが死ねば、筑紫島(ツクシノシマ、九州を指すと思われます)連合軍と戦っても暈国の勝利は確実と考えていますが、鞠智彦は、暈国が勝っても、その戦いに乗じて日下(ヒノモト)が攻めてきて倭国大乱となり、さらに魏か呉が援軍と称して来襲すれば、倭国自体がなくなるかもしれないことを懸念していました。ウガヤは急いでニニギを止めようとしますが、ニニギがヤノハ殺害を決断していればもはや手遅れで、ニニギを殺すしかない、と鞠智彦は考えていました。時を選ばず人を殺す阿呆には日見彦の資格がなく、日見子(ヤノハ)と日見彦(ニニギ)の片方のみが死ねば倭国の大乱となるが、両方が同時に死ねば、神の怒りが下った、と筑紫の王も民も納得するはず、というわけです。

 庵の中では、ヤノハが実子のヤエト(ニニギ)と再会しましたが、ヤノハはあくまでも日見子として振る舞い、ヤエトを日見彦として扱います。ニニギがヤノハに、お目にかかれて光栄です、と挨拶すると、日見彦殿は嘘が下手だ、とヤノハは指摘します。無理に笑顔を作っているが、ヤノハを今すぐ殺したい思いが目にあふれている、というわけです。殺意を見抜かれたニニギは動揺し、ご冗談を、と返すのが精一杯でした。動揺する実子のニニギに、この先一生、日見彦を演じるつもりなのか、日見彦としての望みは何なのか、とヤノハは問いかけます。ニニギが笑顔を浮かべて、民の幸せだ、人は天寿を全うできれば、もっと幸せになれると思う、と答えると、そなたには無理だろう、とヤノハは指摘します。心外な様子のニニギから、日見子様にはできるのか、と問われたヤノハは、自分にも無理だが、今のそなたよりは少しだけ、民を幸せにする術を心得ている、と答えます。今のそなたは、本当は民の幸せなど考えていない、とヤノハに指摘されたニニギは憤慨します。そなたが考えていることは、自分のみがどう生き残るかだけだ、とヤノハに指摘されたニニギは、図星だったので動揺します。ヤノハはニニギに、日見彦になりたくてなったわけではなく、日見彦にならなければ死んでいたので、日見彦の振りをしようと考えたのだろうが、これからの人生は苦悩と苦難の連続となり、自分と同じで、そなたと同じく自分は先のことがまるで分からず、それは所詮偽物だからだ、と笑顔で伝えます。

 魏の洛陽では、トメ将軍一行が、魏からの賜った見事な品々に感銘を受けていました。ミマアキは、青銅(アオカネ)ではなく鉄(カネ)の鏡があることに気づき、暈の鞠智彦に鏡を多数奪われた山社には鏡が少ないので、日見子様(ヤノハ)は喜ぶだろう、と考えます。魏からの最大の下賜品は「親魏倭王」の印で、トメ将軍一行は、筑紫島までこれら倭国泰平の希望の品々である恩賜を無事に届けたい、と改めて決意します。

 山社国と暈国の境の庵では、ヤノハが自身を偽物の日見子と認めたことに、ニニギは動揺します。天照様の姿は見えないし、声も聞こえない、と打ち明けるヤノハに、自分には見える、とニニギは意地を張っているかのように言います。では、天照様はどのようなお顔とお姿なのか、とヤノハに問われたニニギは、声だけしか聞こえない、と返答に窮します。それでもニニギは、自分が先の大地震(おおなゐ)を予言して、大勢の民を救ったのは、地震神(ナイノカミ)が自分の前に現れたからだ、とヤノハに必死に訴えます。地震神の姿をヤノハに尋ねられたニニギは、人か魔物か、半身に黥があった、と答えます。ヤノハは、ニニギが地震神と考えているのは、弟で、ニニギの実父でもあるチカラオ(ナツハ)だと気づき、声は聞きづらかったのではないか、とニニギに尋ねます。言い当てられて沈黙するニニギに、どうやってトンカラリンの洞窟を抜けたのか、とヤノハは問いかけます。自分は勘と知恵と腕っぷしのおかげで、天照様の導きはなかった、と打ち明けるヤノハに、自分には導きがあった、とニニギは興奮した様子で言います。するとヤノハは、賢いイヌが突然現れ、そなたを導いたのだろう、とニニギに指摘し、またしてもヤノハに言い当てられたニニギは沈黙します。ヤノハはニニギに、最後に聞きたいと言って、自分をこの場で殺すのか、それとも今日はやめておくのか、と尋ねますが、ニニギは答えられません。ヤノハはニニギに、人を幸せにする方法について、自分も当初、人が天寿を全うすることこそ答えと思っていたが、それだけでは足りず、食は民の天と語ります。顕人神(アラヒトガミ)の務めは民を飢えさせないことだ、と語るヤノハに、それが幸せの答えなのか、とニニギは尋ねます。ヤノハはニニギに、それでも人は幸せにはなれず、それは、天寿と食が民の幸せの足場にすぎないからで、戦と飢えのない世を作って初めて、民自らが、己を幸せにする方法を考える余裕ができる、と諭すように答えます。我々顕人神ができるのは、幸せの地固めだけという意味が分かるか、とヤノハに問いかけられたニニギは、何かを悟ったようです。ヤノハは、これから去るが、出口までの四歩の間、そなたに背中向けるので、殺すなら四歩の間だ、とニニギに語りかけます。ニニギはヤノハを殺したいのに、身体が動かず、またいつか会おう、と挨拶するヤノハを黙って見送ることしかできませんでした。ニニギは、自分の甘さを痛感し、今はヤノハの器にとても及ばない、と屈辱に震えます。庵から無事に出てきたヤノハを、鞠智彦やウガヤが確認したところで、今回は終了です。


 今回は、ヤノハとニニギの対峙が中心となりました。鞠智彦の冷酷な判断も描かれ、成熟したヤノハと鞠智彦に対して、ニニギの未熟さが際立っていましたが、ニニギはまだ子供なので仕方のないところでしょう。ニニギがヤノハに圧倒されたのは、ヤノハが実子のニニギにかつての自分を見るなど、人生経験の差も大きいとしても、ヤノハがチカラオからニニギについての情報を得ていたことも大きいように思います。ヤノハとニニギ(ヤエト)の関係は、ヤノハがニニギを実子と知っている一方で、ニニギはそうとは知らず、ヤノハを両親(ニニギは知りませんが、実際は養父母)の仇と深く恨んでいることで、複雑な関係になっており、話が面白くなっています。今回、ヤノハはニニギの自分への殺意に気づいたものの、その理由まではまだ知らないように思います。ニニギの自分への殺意に気づいてもなお、ヤノハが自身を偽物の日見子とニニギに打ち明け、ニニギを教育するかのように振る舞ったのは、モモソから実子に殺されると預言されており、覚悟していたことや、実子への愛情とともに、将来はニニギに日見彦として倭国の泰平を託そうと考えているからでもあるのでしょう。ニニギはヤノハをまだ恨んでおり、将来殺すことを諦めてはいないでしょうが、まだ自分が日見子(ヤノハ)の器には遠く及ばず、さらなる研鑽が必要と痛感したようです。ニニギが、ヤノハと地震神(チカラオ)こそ実の両親で、ヤノハが養父母の仇ではないと知るのかどうか、ヤノハが実子のニニギにどのように「殺される」のかも含めて、ヤノハとニニギの関係は終盤の主題となりそうで、たいへん注目しています。

 以前から気になっているのが、『三国志』では、卑弥呼の死後に男王が擁立されたもののまとまらず、卑弥呼の一族である台与(壱与)という13歳の少女を擁立することで国が収まった、と見えることです。作中の現時点は239年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)でしょうから、卑弥呼(日見子)の死まで10年弱とすると、台与は現時点で3歳前後と推定されますが、作中ではまだそれらしき人物は登場していないように思います。以前は、作中の年代をもっと古く見積もっていたので、ヤノハとチカラオとの間の子供(ニニギ)の娘(ヤノハの孫)が『三国志』に見える台与と予想していました(第73話)。しかし、ニニギ(ヤエト)は『三国志』に見える狗奴国(暈国、後の熊襲)の卑弥弓呼(日見彦)と思われ、何よりも、まだ子供で、3歳前後の娘がいるような年齢ではなさそうですから、チカラオに娘がいるという設定なのでしょうか。本作ではどこまで描かれるのかまだ分かりませんが、台与が登場する可能性は高そうなので、その出自や人物像には注目しています。なお、残念ながら次号は休載のようです。最近は休載が増えてきた感もあり、まだ完結までかなり時間を要しそうなだけに、やや心配ではあります。

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