楊海英『未完の中国文化大革命 毛沢東と日本の連動』

 PHP新書の一冊として、PHP研究所より2026年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。以下、敬称は省略します。本書は文化大革命を、1966~1976年までの10年間ほどの中国における毛沢東個人が主導した権力闘争による政治現象としてだけではなく、その前提となる歴史にさかのぼり、単なる過去の出来事として語るのではなく、現代への影響も視野に入れて検証しています。また本書は、文化大革命において、特定の民族が弾圧の標的とされたことを指摘し、とくにモンゴル人を取り上げるとともに、文化大革命と日本との関わりも指摘しており、時空間的に広い視点から文化大革命を検証しています。本書は最後に近年の文化大革命研究も整理しており、文化大革命研究の基礎資料の紹介と共に、文化大革命をより深く知る上でたいへん有益です。基礎資料として本書が重視するのは、文化大革命中に中国政府が攻撃対象の高官の人事資料を紅衛兵に流し、それに基づいて紅衛兵が作成して配布した「毛沢東と共産党の政敵を批判する資料」です。文化大革命の終結後、中国政府はそうした文書を処分するよう命じましたが、著者も含めて研究者が、廃品回収所からまだ残っていたそうした資料(ゴミ資料と呼ばれています)を買い取ったそうです。本書では他に、特別に入手した当時の中国政府の公文書や、プロパガンダ資料を基礎資料として挙げています。本書で紹介されている文献では、平凡社新書の馬場公彦『世界史のなかの文化大革命』を当ブログで取り上げたことがあったので(関連記事)、文化大革命を中国だけで完結する政治現象と把握していない本書の視点にも、違和感はありませんでした。

 本書は文化大革命の淵源、さらには中国共産党(以下、中国共産党は単に共産党と表記します)の暴力体質の原点として、1927年3月に発表された、『湖南農民運動考察報告』を挙げています。ここで毛沢東は、恐怖現象を短期間で創出し、暴力的に革命を行なうべきと主張しました。こうした暴力体質は国共内戦においても、共産党が政権を掌握し、中華人民共和国が成立してからも変わらず、公開処刑が広範に行なわれたことで、民衆の暴力嗜好が刺激され、弱者虐待の心理を助長したことも、文化大革命の背景として本書は指摘します。こうした日中戦争から国共内戦を経て中華人民共和国成立初期において、「反革命分子」が公開も含めて多数処刑されましたが、毛沢東自身が各地の「処刑比率」を指示しており、ここからも、共産党政権、とくに毛沢東時代の残酷さが窺えるように思います。「反革命分子」とは、「人民民主専政を転覆し、人民民主事業を破壊しようとする者」と定義され、具体的には、帝国主義との結託者、匪賊、地主、搾取階級、国民政府幹部、宗教関係者などです。こうした共産党による弾圧の過程で、伝統的な親族の絆や宗族制度も大打撃を受け、少年が祖父を密告するようなこともありました。本書は、それまでの中国史で見られる王朝交替では、社会的安定のために前政権の知識層も含めて支配層が登用されたのに対して、中華人民共和国では前政権の支配層が徹底的に弾圧されたことに、従来との大きな違いを見ています。

 文化大革命の前史として、本書は百花斉放百家争鳴とその後の反右派闘争にかなりの分量を割いています。毛沢東はこれによって共産党体制に批判的な知識人を炙り出して弾圧したわけですが、それは漢人社会に留まらず、他の民族にも及びました。新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)のウイグル人知識人も大量に粛清され、その多くはソ連への留学経験がありました。ただ、南モンゴル(内モンゴル自治区)では、モンゴル人指導者のウラーンフーが反右派闘争に協力しなかったので、他地域と比較して被害は小さかったようです。文化大革命終結後の1980年代に、反右派闘争で糾弾された人々の名誉回復が進められましたが、当時の最高権力者だった鄧小平が最後まで許さなかった人の中で、章伯鈞と儲安平を本書は取り上げています。章伯鈞は、毛沢東の政治姿勢を批判し、連邦制を主張したことが、儲安平は、政党が国家を指導しても、国家が党の所有物になるわけではない、と主張したことが、共産党体制から文化大革命終結後も危険視され続けた原因のようです。反右派闘争で逮捕された知識人は約180万人とも推定されており、死者数は不明とのことです。本書は、百花斉放百家争鳴とその後の反右派闘争によって、知識人が国家について論じ、批判するような精神(士風)が失われた、と指摘します。これによって、共産党の政策を批判する広範な社会的土壌が失われたわけです。

 本書が知識層の動向と運命を取り上げているのは、文化大革命はまさに文字通り、文化領域を突破口とした政治運動だったからで、それは知識層だけではなく、識字率の低い階層に演劇を通じて革命理論が浸透していったことも、本書は指摘します。文化大革命の口火を切ったのが、呉晗による京劇脚本『海瑞罷官』に対する、「四人組」の一人である姚文元からの批判でした。姚文元は上海の日刊紙『文匯報』に「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」を寄稿しますが、この論文が掲載されたのは1965年11月10日で、翌年5月16日には、「新しい文化革命を始める通知」が採択され、学界では一般的にこの日が文化大革命の開始とみなされているそうです。文化大革命には、強引な集団農業化と大躍進による惨事の責任を問われて、国家主席の辞任に追い込まれた毛沢東が、後任の国家主席である劉少奇を主要な対象として仕掛けた奪権闘争の側面が多分にあります。本書は、主観的には毛沢東に忠誠を誓っていた劉少奇が、毛沢東の真意を見抜けずに、従来型の「上から」の政治運動(文化革命)を進めようとして政治権力的には失敗したのに対して、毛沢東は「下から」の文化大革命を主導し、青少年を動員して政争に勝利した、との構図を提示します。

 1967年には、毛沢東は主要な政敵をほぼ追い落とすことに成功しますが、青少年を紅衛兵に動員するなどして政治闘争を仕掛けた代償として、武装闘争が激化するなど、混乱が拡大します。毛沢東は人民解放軍を動員し、もう利用価値がなくなった紅衛兵を農村へ「下放」させるなどして、権力と秩序を維持していきます。本書は、文化大革命終結後の中国政府が、この混乱の責任を紅衛兵でも庶民側(造反派紅衛兵)に押しつけ、高官の子弟側(老紅衛兵)が免責された側面も指摘します。本書はここに、現在にまで至る中国社会の深刻な思想的分断および社会対立の遠因を見ています。それを助長したのが、地主やその子弟を打倒せよ、との政府というか毛沢東の扇動でしたが、当時すでに地主の子弟にそうした力はなく、意見の異なる農民同士の殺害を正当化する論理として毛沢東思想が使われた側面を、本書は指摘します。加害者も被害者も一般人で同じ「民族」である漢人同士だったわけですが、これが他の民族では異なり、もっぱら漢人から被害を受けていた、と本書は指摘します。

 本書はこの点について、内モンゴル自治区として中華人民共和国の支配領域に組み込まれた南モンゴルを中心に検証しています。文化大革命時、中国政府はモンゴル人を「祖国を裏切る民族分裂主義者」とみなし、少なくとも27900人、じっさいにはその数倍のモンゴル人が文化大革命中に殺害されたのではないか、と本書は推測します。モンゴルにおいて文化大革命が民族問題になった理由として、南モンゴルが中国最初の自治区として、新疆ウイグル自治区(東トルキスタン)やチベット自治区の統治モデルになったため、と本書は指摘します。その背景にあるのは、ダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)崩壊時にモンゴルが独立を宣言し、1924年に北モンゴルでモンゴル人民共和国が成立したことです。しかし、中華民国はモンゴルに対して一方的に宗主権を主張します。一方、南モンゴルにはダイチン・グルン時代より漢人が多く移住しており、ヤルタ協定でも中華民国の帰属とされました。中華人民共和国初期に内モンゴル自治区で最高指導者として活躍したのがモンゴル人のウラーンフー(雲沢)で、若くしてモスクワに留学したことで声望を得て、非漢人でありながら自治区の最高指導者になったようです。ウラーンフーは、漢人が草原を開墾したことも含めて、漢人がモンゴル人を搾取している、と毛沢東に対しても批判を続けました。

 モンゴル人と漢人の対立が強くなっていき、1960年頃からは中ソ対立が激しくなり、南モンゴルが中国にとって「敵」との最前線になったこともあって、毛沢東は1966年5月にウラーンフーを失脚させ、モンゴルの「不穏分子」の一掃を図ります。毛沢東は、ソ連が攻めてきたさいに、モンゴル人がソ連側に寝返る可能性を懸念していました。ウラーンフーの失脚によってモンゴル人は粛清を警戒し、文化大革命中には積極的な政治行動を起こしませんでした。しかし、南モンゴルで人民解放軍将校が学生を射殺したことによって、情勢は緊迫化し、中国政府は南モンゴルを軍事管制下に置き、モンゴル人を虐殺していきます。新疆ウイグル自治区でも、南モンゴルと同様に、ウイグル人と漢人の対立が強くなっていったところで、文化大革命が始まり、ウイグル人も独立を望んだことから、中ソ対立が激化するなかで中国政府によって警戒され、漢人によるウイグル人の虐殺が起きました。同じようにチベットでも、1959年のチベット人蜂起などでチベット人と漢人の関係が悪化しており、文化大革命中にチベット人は大きな被害を受けました(関連記事)。こうした文化大革命中のモンゴル人やウイグル人やチベット人への民族弾圧について、文化大革命中は漢人も犠牲者だった、との言説もありますが、本書は、漢人が文化大革命中に他の民族を執拗に弾圧した、と指摘し、そうした言説を退けています。じっさい、文化大革命による推定死者数は160万~200万人で、人口比では南モンゴルが最も多いそうです。

 時空間的に広い視野で文化大革命を検証する本書は、文化大革命の外国への影響も取り上げています。文化大革命の思想と手法は世界中に輸出され、ヨーロッパと北アメリカ大陸の新左翼運動や、南アメリカ大陸のセンデロ・ルミノソ(輝ける道)という極左ゲリラ組織などに影響を及ぼしました。アジア南東部では、紅衛兵が直接的に革命を持ち込み、その一部は麻薬組織にも関わっています。日本語で刊行されていることもあり、本書はそうした文化大革命の世界への影響の中でも、とくに日本に焦点を当てています。日本では、劇団「はぐるま座」や松山バレエ団などの芸術団体が文化大革命中に中国を訪れ、当時の中国を賛美しています。本書では、日本における文化大革命の影響について、現代日本社会ではあまり知られていないだろう、学術や芸術を取り上げています。朝日新聞など日本の言論界でも文化大革命に肯定的な傾向があったことは、現代日本社会でもわりとよく知られているように思います。

 1976年9月9日に毛沢東が死亡すると、翌月には「四人組」が逮捕され、文化大革命の清算が始まります。しかし本書は、その過程も「文化大革命的」だった、と指摘します。つまり、以前の発言が、当時の文脈を無視してでも問題視され、逮捕も含めて失脚につながったわけです。これは歴史を利用した政治闘争史でもあり、それは現在の中国でも変わりません。また本書は、文化大革命の清算が中途半端で、毛沢東の責任が厳しく問われなかったことも指摘します。文化大革命の責任は、亡命中に墜落死した?林彪や毛沢東の妻で逮捕された江青などに押しつけられたわけです。中国の現在の最高指導者である習近平の毛沢東への憧憬は、日本でも以前から報道されていますが、それは文化大革命の清算が中途半端だったことを背景としているのでしょうし、本書は、習近平が毛沢東的な革命の継続を目指しており、その意味でも文化大革命は中国でまだ終わっていないことを指摘します。ただ本書は、文化大革命に見られる毛沢東の政治的手法について、単に毛沢東の個性のみに起因するのではなく、中国史に深い根があることも指摘しています。

 以上、本書の見解を見てきました。本書は文化大革命を、1966~1976年にかけての政治現象に限定せず、共産党の政権獲得前にまでさかのぼって背景と展開を検証するとともに、1970年代で終わった政治現象ではなく、現在まで「文化大革命的」現象が続いていることを指摘します。また、本書において詳しく言及されているわけではないものの、文化大革命は、毛沢東の個性や共産党の思想と組織だけではなく、もっと長く前近代からの中国史の展開も背景として踏まえねばならないことが窺えます。文化大革命を、単に毛沢東の個人的な野望による奪権闘争に矮小化してはならず、中国史や中ソ対立の激化など国際情勢も踏まえなければ、モンゴル人やウイグル人やチベット人などへの文化大革命中(に限らず、中華人民共和国成立から現在までほぼ全期間と言えそうですが)の民族弾圧も理解できないどころか、そもそも見えてこないのでしょう。文化大革命が大惨事だったことは、今では世界中で広く知られているでしょうが、文化大革命による直接的な推定死者数は160万~200万人とのことで、これは推定死者数が3600万~4000万人にもなる大躍進と比較すると、一桁少ないことになります。しかし、大躍進でも文化大革命でも食人はあったものの、大躍進期の食人は飢餓が主因だったのに対して、文化大革命期の食人は政治的憎悪と暴力が主因で、本書はそこに大きな違いを見ており、文化大革命は中国社会に深刻な人心荒廃をもたらしたのかもしれません。また本書からは、現代日本社会では文化大革命の「被害者」もしくは「犠牲者」として同情される傾向が強いと思われる劉少奇やその妻の王光美も、毛沢東の暴政に抵抗した良識ある指導者というよりも、文化大革命で失脚する前には毛沢東の暴政を支えた側にいたことが窺えます。これは、本書では言及が少ないものの、かつては(今でも?)日本社会において人気が高かった周恩来にも当てはまるのでしょう。

 日本の言論界や学界における文化大革命認識は本書の主題ではないので、本書では言及が少ないものの、日本で生まれ育ち、少なくとも曾祖父母までさかのぼって祖先が全員日本で生まれて育った日本国民で、その子孫である日本人の私としては、日本の言論人の文化大革命認識も強く意識しています。本書は、中華人民共和国において文化大革命の清算が中途半端に終わり、それも「文化大革命的」現象が現在まで続いている背景にあることを指摘します。日本人の私としては、少なからぬ日本人が文化大革命を賛美したか肯定的だったことは、その後の日本社会で本当に清算されたのか、疑問が残ります。文化大革命を賛美するなど、第二次世界大戦後の日本の「左翼」の言説を批判する日本語の本はさほど珍しくないでしょうが、日本社会はそれを、「左翼」を腐す手段として消費してきた側面が多分にあるようにも思います。文化大革命を賛美した日本人で、それを広い観点から反省し、公表した人がどれだけいるのか、はなはだ疑問です。文化大革命を賛美した日本人の中には、その後も言論界や学界で大きな影響を及ぼしてきた人も少なくなさそうで、朝鮮民主主義人民共和国による日本人拉致やシリアのアサド政権の悪行など、アメリカ合衆国(とその「従属国」たる日本)に「(正義の立場から)抵抗している」国家や勢力の犯罪を否定した人々とかなり重なるのではないか、とも思います。文化大革命を賛美した日本人がそれなりにいた件について、単に「左翼」を腐す材料にするのではなく、真剣に検討することは、政治倫理的な義務のみならず、日本人ができるだけ政治的判断を誤らないようにするためにも必要なのではないか、と考えています。

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