黒田賢治『イラン現代史 イスラーム革命から核問題、対イスラエル戦争まで』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2025年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はおもにイスラム革命以降を対象としており、その前史としてのパフラヴィー朝期にも1章割かれています。当ブログでは開始以降に行なわれたイラン大統領選(直近は2024年)をすべて取り上げており、イランは世界の中でも比較的関心を強く抱いてきた地域です。ただ、イランのイスラム革命の頃に私は幼稚園から小学校に入り、才気煥発でもとくに早熟でもなく、まだ国際情勢に深い関心を抱いてわけではなかったので、イランのイスラム革命の当初の推移を同時代の出来事として見ていませんでした。私がイランに関心を抱いた頃には、すでにイラン・イラク戦争が始まっており、イスラム共和体制が確立していたので、その形成過程について詳しく知るために本書を読みました。本書はまず、親米的で西洋化が進んだパフラヴィー朝と、反米的で厳格なイスラム教社会のイスラム革命後の体制というように、イラン社会を一元的に把握しないよう、注意を喚起しており、この視点はひじょうに重要で、現在に至るまでイラン社会では宗教への姿勢などの点で多様性があることは、念頭に置いておくべきなのでしょう。以下、敬称は省略します。
パフラヴィー朝は、18世紀末にイラン高原を平定し、現在のイランのみならず、アルメニアやトルクメニスタンなども支配していたガージャール朝が、対外戦争の結果として次第に縮小していった、混乱を収束させて成立しました。ガージャール朝が脆弱だった要因としては、強力な常備軍と官僚制度の欠如が挙げられています。ガージャール朝でコサック軍の将校だったレザー・ハーンは、イギリスの後援受けつつ、政変によって権力を持つ掌握し、1925年にはガージャール朝が廃絶され、レザー・ハーンはシャー(国王)に就任しました。レザー・ハーンは中央集権的で世俗的で国際的に独立した国家を目指し、西洋列強との不平等条約の解消に努めるとともに、1935年には国号をペルシアからイラン(アーリア人の土地)に改称しました。古代にさかのぼる民族と文化の伝統の強調による国民国家としてのイランの建設が目指され、一方でイスラム教は時代遅れとされたわけです。このイラン近代国家建設において、民主制は含まれず、国王による中央集権的な独裁国家が目指され、軍部と官僚機構が肥大化していきます。経済政策では、国家主導で軽工業への投資が行なわれました。
ガージャール朝では石油利権がイギリスに掌握されており、パフラヴィー朝で外資との協定によってこの状況多少改善されたものの、国家収入への貢献は限定的で、非石油部門の輸出による増収が目指されました。ガージャール朝では、貿易相手としてソ連(ロシア)とイギリスが大きな割合を占めましたが、パフラヴィー朝ではドイツの割合が急増します。ロシアとイギリスの干渉を受けてきたイランにとって、ヨーロッパの第三国との関係は望ましかったわけです。独ソ戦が始まると、ソ連とイギリスはドイツとの断交を拒否したイランに攻め込み、イランは敗れてレザー・ハーンは退位させられ、皇太子だったモハマンド=レザーが即位しました。イランでは、北部の穀物のほとんどが略奪され、一部地域で大規模な飢饉が発生し、第二次世界大戦中にイランでは300万〜400万人が餓死した、とも推定されています。モハマンド=レザーは、急遽即位したこともあって権力は弱く、議会が政治を主導します。議会では、モハマンド・モサッデグの勢力が石油国有化を掲げて躍進し、首相に就任しますが、イギリスがアメリカ合衆国を引き入れ、国王のモハマンド=レザーにソ連へ急接近したモサッデグ政権を倒壊させます。
モサッデグ政権の崩壊によってイランでは、議会の権威が低下した一方で、パフラヴィー朝第2代国王モハマンド=レザーの権威主義化が進み、ペルシア湾周辺地域におけるイギリスの影響力低下の中でアメリカ合衆国との関係が強化され、石油収入が増大したものの、計画性と持続性に問題のある開発や投資が進みました。モハマンド=レザーはアメリカ合衆国からの圧力もあって社会制度改革を進め、これは白色革命と呼ばれています。それには農地改革も含まれていましたが、法学者には地主も多いため、イスラム教側から王権側に対して農地改革への反対圧力がかけられ、王権側と宗教勢力側は緊張関係にもありました。農地改革によって、地主層は王権から離れていき、モハマンド=レザーは官僚機構や軍部やアメリカ合衆国に権力基盤を依存していきます。モハマンド=レザーの白色革命によって経済は成長し、とくに石油危機は産油国であるイランにとって追い風となりましたが、一方で農村と都市および社会上層と下層の格差が拡大していきました。
こうした格差拡大とともに、強権的な政治体制だったことから、王権への不満が高まります。1970年代当時、白色革命のような上からの西洋近代化への異議申し立てには、社会主義と伝統(イランの場合はイスラム教)を踏まえた近代化があり、それはイラン以外でも見られたことでした。イランにおける王権への抵抗勢力には、伝統的なイスラム教の知の担い手である法学者、近代的な世俗的知識人、マルクス主義に傾倒してゲリラ活動を展開した左翼がいました。法学者の代表がルーホッラー・ムーサヴィー=ホメイニーですが、1964年に国外追放となって亡命を続けており、イランで反王政活動を展開したのは中堅と若手の法学者でした。この勢力は、都市の下層と中間層を取り込んでいきましたが、民主制とイスラム教の調和を訴える、ホメイニーと異なる見解の者もいました。世俗的知識人はイスラム教と民主制の両立を掲げ、この点では一部の法学者とも連携できました。世俗的知識人の代表的な一人だったアリー・シャリーアティーは、法学者とも接点を持ちつつ、左翼勢力にも大きな影響を及ぼしました。左翼勢力では、対立を深める中ソ両国への反発から、新左翼が中心となりますが、思想も組織も多様化していきました。新左翼にとって、イスラム教は複雑な左翼思想を大衆に分かりやすく伝える手段でした。
こうした反王政運動は、趣味や話題の共通する小規模な集まりを通じて浸透していきました。さらに、1977年に発足したアメリカ合衆国のカーター政権が「人権外交」を提唱したことも、イランにおける反王政運動を活発化させました。CIAの1978年8月の報告書では、イランは革命的な状況でも革命前の状況でもない、と評価されていましたが、ホメイニーを中傷する記事への抗議を契機として、すでに1978年2月にはイランの主要都市で抗議運動が置き、国家権力によって抗議運動参加者が死亡すると、抗議運動は全国の都市へと拡大します。国王のモハマンド=レザーは政治の自由化を表明しますが、反王政運動を収束させられず、1978年12月16日にイランから出国します。一方で、ホメイニーは1979年2月1日にフランスから帰国し、同月5日には暫定イスラム革命政権を発足させました。同月11日には軍最高会議が暫定政権を承認し、国王のモハマンド=レザーが指名した首相のシャープール・バフティヤールも辞任して、暫定政権がイランで唯一の政権となりました。
ホメイニーはメフディー・バーザルガーンを暫定政権の首相に任命し、自らは暫定政権の構成員が抜けた革命初期の司法および立法機関であるイスラム革命評議会を牽引し、権力を掌握していきます。イラン・イスラム革命は親米路線だった王政を打倒し、イラン社会には反米機運が高まっており、革命直後の1979年2月14日にはテヘランのアメリカ合衆国大使館が襲撃されましたが、暫定政権が西側には受容的な態度を示していたため、イランがソ連側に立つのを警戒したアメリカ合衆国は、イランの革命政権に慎重な態度を取ります。当初の革命政権の諸勢力は大きく三分され、それはバーザルガーンなどの世俗的知識人中心の自由主義勢力、同じく世俗的知識人中心のマルクス主義勢力、法学者を支持するイスラム主義勢力です。イスラム主義勢力はさらに、大きくはホメイニー支持派と、モハマンド=カーゼム・シャリーアトマダーリー支持派に区分されます。マルクス主義勢力勢力は、プチ・ブルジョワ階級の法学者とブルジョワ階級の自由主義者の革命政権を不安定と考えて、革命政権から距離を置きましたが、マルクス主義の多数派は武装闘争路線を封印し、少数派はクルド人など少数民族運動に加わり、革命体制と武装闘争を展開しました。ホメイニーの支持勢力はイスラム共和党を結成し、ホメイニーの勅令によって設立されたイスラム革命防衛隊が革命後に悪化した治安の回復を進めていくことなどで、権力を強化していきます。
このように諸勢力が混在する暫定政権が行なわれ、1979年4月の国民投票で、イスラム共和制は圧倒的賛成で採用されますが、具体的ではありませんでした。マルクス主義勢力の一部は、国民投票の棄権を主張しました。暫定政権のバーザルガーンたちは民主的イスラム体制を模索しましたが、ホメイニーは「民主」のような修飾語は不要と考えていました。革命防衛隊は乱立していた武装組織を統合していき、ホメイニーが牽引する革命評議会の監督下に入り、実質的にホメイニーの私兵となっていきます。バーザルガーンたち暫定政権とホメイニーの対立は憲法制定の過程でより顕著になっていき、暫定政権がフランス第五共和制憲法的な草案を発表したのに対して、ホメイニーは金曜日昼の礼拝と説教で自らの主張を浸透させていき、憲法制定の専門家会議の議員選挙でも、中央モスク局などに候補者を精査させることで、支持勢力が圧倒的多数を占めることになります。制度的には政府が首長権を代表していますが、主導権を把握していたのはホメイニーの方で、バーザルガーンもそれを認識していました。
この状況でバーザルガーンは対米関係改善を模索し、アメリカ合衆国高官と接触していましたが、1979年11月4日にホメイニー支持の学生集団がテヘランのアメリカ合衆国大使館を占拠し、ホメイニーは当初占拠者を追い払うよう指示しましたが、すぐに学生支持に方針転換し、この占拠は1年以上続き、イランとアメリカ合衆国との関係は決定的に悪化します。憲法制定の専門家会議は、フランス第五共和制憲法的な草案を大きく修正し、大統領ではなく最高指導者に強力な権限が集中する案を発表します。シャリーアトマダーリーは、一人の法学者に権限が集中する体制を批判し、抗議運動も行ないましたが、革命防衛隊が鎮圧し、シャリーアトマダーリーは自宅軟禁となります。
憲法制定の専門家会議が提案した憲法修整案は、1979年12月に圧倒的な賛成で採択されました。最高指導者に大きな権限が集中するこの憲法体制では、最高指導者に宗教的指導者の立場である法学権威と政治的指導者の資質の両方が求められます。このように革命後のイランではホメイニー路線が固まりつつありましたが、1980年1月の大統領選挙では、イスラム共和党の候補の得票率が3%弱で、無党派の世俗的知識人であるバニーサドルが75.6%の得票率で当選したように、ホメイニー路線一色去ったわけではありません。バニーサドルは革命前からホメイニーに信頼されていたものの、革命後にホメイニーから外務大臣に指名された後は、西側諸国に融和的なところがあり、ホメイニーとの方針の違いから外務大臣を辞任していました。1980年3月の国民議会選挙では、大統領選挙で敗北したイスラム共和党と、ホメイニー支持の独立勢力が120〜130議席、バニーサドル大統領の支持勢力が33議席、自由主義的立場のバーザルガーン率いるイラン自由運動が20議席となりました。ホメイニー支持勢力は、バニーサドル大統領が選出した首相候補を拒否し、非法学者のイスラム共和党員のモハマンド=アリー・ラジャイーが首相に就任します。
大統領側と首相を擁するホメイニー支持側との間で対立する状況で、1980年9月、イラン・イラク戦争が勃発します。この背景には、ホメイニー路線に沿ったイランからの「革命の輸出」による地域秩序の動揺がありました。とくにイラクは、国民の過半数がシーア派で、シーア派住民による政権への大規模運動が1970年代から起きており、イラクのシーア派住民によるイランの革命運動支持があったため、イランの革命体制を強く警戒し、1980年9月22日、イランの空港を爆撃して、イランへの侵攻を開始します。イラクのバアス党政権のフセイン大統領には、革命によるイランの軍事力弱体化との判断もあり、実際、アメリカ合衆国の援助で強化されたパフラヴィー朝期の軍部への革命政権の不信は強く、革命直後に多数の将官が粛清の対象となりました。一方で、イラク側は、第一次石油危機での収入増加および西側との関係改善によって軍備を拡張しており、イラクに侵攻しても短期間で優位に戦争を終結できる、と判断していました。実際、開戦から1981年6月半ばまではイラクが圧倒的に優勢で、イランで最高司令官を務めたバニーサドル大統領は、ホメイニーの私兵である革命防衛隊ではなく国軍を中心に指揮したものの、弱体化した国軍では劣勢を覆せず、1981年6月22日に大統領職を罷免され、国外に脱出します。
イランでは1981年7月に大統領選が行なわれ、当選したラジャイー前首相が8月30日に暗殺され、同年10月の大統領選でアリー・ハーメネイー、つまり現在の最高指導者が当選しました。ハーメネイーは1985年の大統領選で再選し、イスラム共和党の一党支配は盤石となったものの、党派争いが次第に表面化していきます。イラン・イラク戦争では、バニーサドル大統領の罷免以降、次第にイランが挽回していき、1982年半ばにはイラクがイラン領からの撤退完了を宣言し、イランは優位な停戦条件を求めますが、兵器で劣るイランはイラクを圧倒できず、戦局は膠着状態に陥り、イラクは化学兵器を使用します。対イラク戦争が長期化する中で、イランは「大悪魔」であるアメリカ合衆国および「小悪魔」であるイスラエルと密かに協力関係の構築を模索し、アメリカ合衆国のレーガン政権はイスラエル経由でのイランへの武器売却を認めます。これが暴露され、イラン・コントラ事件として大きな政治的醜聞として問題となりましたが、この頃からは同時代の出来事として私の記憶に残っています。このイラン・コントラ事件はホメイニーの後継者問題にも大きく影響することになり、その有力候補だったホセイン=アリー・モンタゼリーが後継者争いから脱落します。
イラン・イラク戦争では、イランが船舶攻撃の対象をイラクの支援国へと広げたことから、アメリカ合衆国とソ連も介入を強め、再び戦況が不利となったイランは、国連安保理決議の受諾に追い込まれ、1988年8月20日、イランとイラクは停戦します。イラン・イラク戦争の間に、イスラム共和党では党派対立が顕在化していき、それは、自由経済および伝統的なイスラム法解釈を尊重する「保守派」と、国家による統制経済およびより革新的なイスラム法解釈を重視する「急進派」です。「急進派」は国民議会と内閣の多数派を、「保守派」は監督者評議会を押さえていました。「急進派」の代表はムーサヴィー首相で、「保守派」の代表は大統領のハーメネイーでした。「急進派」の支持基盤は実務家や下層中流階級で、「保守派」の支持基盤はバーザール商人や宗教界の体制支持の主流派でした。党派争いを認識していたホメイニーは、両派を同じ場に立たせて、後継者問題のための憲法改正を進めさせ、複数指導体制ではなく、一人の法学者による指導体制が継続されることになりました。ホメイニーは1989年6月3日に死亡しましたが、日本での新聞報道では天安門事件と重なり、ホメイニー死去の扱いが小さくなった、と記憶しています。
ホメイニー死後直ちに、大統領のハーメネイーが最高指導者に選出されました。同じく1989年には憲法改正も国民投票で承認され、首相職が廃止されて、相対的に大統領の権限が強化されました。これによって、大統領は副大統領だけではなく、内閣を直接的に選出できるようになりました。立法府は、国民議会からイスラム評議会へと改称されました。司法府の最高責任者として新たに司法権長などが設置されましたが、最高指導者には司法権長や国軍および革命防衛隊の総司令官や統合参謀本部長や議会の法案審査権のある監督評議会の半数の任命権があり、制度的に強い統制力が保証されていました。ただ一方で、1989年の憲法改正では、専門家会議に最高指導者の任命および罷免権が与えられました。ハーメネイー体制下で、一定の政治的競合がありながら、強権的な国家が支配する、権威主義体制が築かれていきます。ただ、法学者としての権威がホメイニーよりずっと劣るハーメネイー体制への批判はあり、「急進派」はホメイニー路線がハーメネイー路線に優越すると主張し、「保守派」はその逆を主張しました。ハーメネイーは、専門家会議の選挙で監督者評議会による立候補者の資格審査を通じて、「保守派」の政権を維持し、強化していきました。大統領だったハーメネイーの最高指導者就任のため行なわれた大統領選では、アリー=アクバル・ハーシェミー=ラフサンジャーニーが圧勝します。ラフサンジャーニー政権では、イラン革命とイラン・イラク戦争によって大きく低下した産油量が回復していき、同時期に石油依存経済からの脱却が図られ、外資導入など自由主義経済への転換が進められました。ただ、ラフサンジャーニー政権の経済改革は、汚職や原油価格低迷や専門的な技術および知識を有する人材の不足などによって、失敗に終わりました。ラフサンジャーニーは1993年の大統領選で再選しましたが、経済的困難の中で政権運営は困難でした。
イランでは、イラン・イラク戦争中に人的資源の確保が企図され、革命や戦争を直接的に経験していない、若年人口が高い割合を占めることになります。、この若い世代では「保守派」への強い支持が失よれ、イスラム教的道徳への忌避感も見られました。ラフサンジャーニー体制初期に排除された「急進派」内での再編によって、「改革派」が形成されていき、1997年の大統領選では、ハーメネイー大統領期から長くイスラム文化指導相を務めた法学者のモハンマド・ハータミーが、法の支配や社会および政治的な自由や女性と少数派の権利拡大を主張し、西洋文化に寛容な姿勢を見せたため、若年層の支持を集め、当初は有力候補とはみなされていなかったのに、得票率68.9%で圧勝します。ハータミーは、法学者としては珍しく西洋社会を直接的に経験していました。ハータミーは大統領就任後、「文明の対話」を提起し、革命以降悪化していた他のイスラム教圏の国とも関係を改善していきます。ハータミーは政治面での自由化を進め、多数の政治結社が設立されていきますが、イスラム革命体制では限界もあり、改革派の抗議運動を強硬に鎮圧したことから、学生からの支持を失います。ハータミーは2001年の大統領選で圧勝しますが、「保守派」と「改革派」の間で政権運営に苦しみます。ハータミー政権ではラフサンジャーニー政権から引き続き自由主義的経済改革が進められましたが、若年層の多さから失業率は依然として高く、経済政策でも限界を見せます。この頃には、個々の法学者の見解と最高指導者や監督者評議会の見解との間の矛盾が許容されるようになり、イスラム教をめぐる解釈の個人化による多元的解釈の状況が形成されていきます。最高指導者のハーメネイーに宗教的権威がないことで、こうした状況はますます複雑化し、政治的手段としてのイスラム教が支持を失っていく一方で、個人の信仰は継続しており、イスラム教(伝統)と近代の二項対立では把握できないことを示しています。
「改革派」への支持が低下していく中で、「原理派」が台頭します。国際情勢では、2001年9月11日のアメリカ合衆国における同時多発テロ事件後、イランの隣国のアフガニスタンとイラクで相次いで政権が崩壊し、イランはイラクおよび北朝鮮とともに「悪の枢軸」とアメリカ合衆国のブッシュ政権に呼ばれ、さらには核開発問題もあって、イランは難しい立場に追い込まれます。こうした状況で最高指導者の絶対的優位性を主張すめ「新保守主義」が台頭し、支持層は限られていたものの、宗教系の財団や革命防衛隊関連の財団や宗教界保守派やバーザール上層部など、社会上層と結びつきます。こうした支持基盤から登場したのが「原理派」で、西側では保守強硬派とも呼ばれますが、「原理派」にはより中道那立場も含まれます。担い手の中心は、「保守派」が法学者だったのに対して、は世俗的教育を受けた実務家でした。
「原理派」は2003年の地方評議会選挙や2004年のイスラム評議会選挙で台頭し、2005年の大統領選では、体制指導部直結の「イスラム革命調整評議会」から離脱した「原理派」のマフムード・アフマディーネジャードが、決選投票で「現実主義」のラフサンジャーニー元大統領を大差で破ります。アフマディーネジャードは、決戦投票で圧勝したものの、「原理派」を割って大統領選に出馬した経緯もあり、その政治的基盤は盤石ではありませんでした。本書はアフマディーネジャード政権の特徴を、大衆迎合主義と評価しています。アフマディーネジャードは積極財政による富と所得の再分配を主張し、社会福祉の充実を図ります。アフマディーネジャード政権では、金利引き下げなどによるインフレが進行し、「改革派」のみならず「原理派」からも批判されます。アフマディーネジャードは、経済政策を規制緩和に転換し、福祉を縮小して、貧困層を市場経済に組み込みます。経済政策が行き詰まる中で、アフマディーネジャード政権は核開発問題も含めて諸外国への強硬姿勢で支持率確保を図り、イスラエルの国家存在のみならず、第二次世界大戦でのドイツによるユダヤ人大虐殺も否定しました。核開発問題はイランへの経済制裁を招来し、イランの経済状態をさらに悪化させます。2009年の大統領選で、現職のアフマディーネジャードは元首相のムーサヴィーに圧勝しますが、不正選挙の疑いが「改革派」のみならず「原理派」からも出て、革命後最大の抗議運動となります。体制側はこの抗議運動(緑の運動)に暴力で対処し、それがアフマディーネジャード政権のみならず、革命体制そのものへの否定にもつながりました。「緑の運動」は次第に鎮静化しましたが、これ以降、路上での異議申し立てに国民が積極的に参加するようになるとともに、国外の抗議運動とのつながりも生じていきます。本書は、「緑の運動」においてソーシャルメディアが重要な役割を果たし、それは「アラブの春」に1年半先行していたことを指摘します。
2013年の大統領選で勝ったロウハーニーは、アフマディーネジャード政権で解決の見通しが立たなくなった核開発問題に取り組みます。この交渉は難航しましたが、2015年7月14日に「包括的協同計画」の合意が成立し、イランへの経済制裁が開示を去れていきます。ところが、アメリカ合衆国は2017年1月に成立したトランプ政権下で、この合意から離脱し、これはイラン経済にとった大打撃となり、これがコロナ禍でのイランにおける感染者の高死亡率につながりました。この間、アフマディーネジャード政権末期からイランは内戦状態となったシリアにアサド政権側で介入し、革命防衛隊が中心的役割を果たしていきます。革命防衛隊はアフマディーネジャード政権~ロウハーニー政権の頃には、イランでさまざまな経済活動に携わって大きな利権を有するようになっており、本書はこうしたイランの構造を「軍産複合体」と評価しています。ただ、軍需産業を中心に軍と私企業と国家が結びつく一般的な軍産複合体とは異なり、イランは軍需産業が中心ではなく、多角的に産業が展開しています。ロウハーニー政権は、軍事作戦も含めて革命防衛隊の対外活動を制御できていませんでした。
2021年の大統領選では、最高指導者の後継者問題も焦点となったようです。ホメイニーが後継者を実質的に早くから指名していた(上述のように、有力候補のモンタゼリ―はけっきょく後継者にならなかったわけですが)のに対して、ハーメネイーは後継者を指名していませんでした。2021年の大統領選では、2017年の大統領選で敗れた「原理派」のエブラーヒーム・ライースィーが下馬評通り圧勝しましたが、投票率は2017年の73.3%を大きく下回る48.8%で、しかも白票と無効票は第2位の候補より多く、ライースィーの得票率も、有効投票数では72.3%でしたが、投票数全体では62.7%に留まりました。ライースィー政権は上海協力機構に正式に加盟し、中国やロシアやアジア中央部諸国との関係を強化して、外交政策はロウハーニー政権の「西向き」から「東向き」へと変わりました。しかし、経済制裁が続く中で国内経済はさらに悪化します。国内では、ヘジャーブ(ヒジャーブ)着用をめぐって女性が風紀警察の暴行によって死亡したことで、国内で抗議運動が起きます。2023年10月7日にパレスチナのハマースがイスラエルに奇襲攻撃を仕掛け、これを機に中東情勢が一気に緊張します。イランは、このハマースの奇襲攻撃への関与を否定したものの、支援は継続します。
この状況で、2024年5月19日にライースィー大統領が事故死し、その直後に行なわれた大統領選では、「改革派」候補のマスウード・ペゼシュキヤーンが決戦投票で勝利します。ペゼシュキヤーンは大統領選の時から西側諸国との対話姿勢を示しましたが、最高指導者のハーメネイーはライースィー政権の「東向き」政策を支持し続けます。それでも、ペゼシュキヤーン政権の外相に就任したラーグーチーは、ヨーロッパ諸国のイランへの敵対的態度改善による関係改善を示唆しており、ペゼシュキヤーン政権と最高指導者のハーメネイーとの間の外交をめぐる調整が行なわれているようです。しかし、イランにとって国際情勢は好転せず、中東ではイスラエルがレバノンではヒズブッラーに、ガザでは民衆虐殺を伴いつつハマースに大打撃を与え、友好国だったシリアのアサド政権は2024年12月に崩壊します。2025年6月13日には、イスラエルがイラン各地で軍高官や核開発関連の科学者を殺害するとともに、核施設や軍施設や防空拠点を爆撃し、同月22日にはアメリカ合衆国もイランへの地下空間攻撃を実行しました。この間、イランもイスラエルやカタールの米軍基地に報告攻撃を行なったものの、明らかにイランの方がずっと大きな被害を受けました。ただ本書は、中国やロシアとの関係を強化し、国内の生産体制を整備してきたイランが、核(兵器)開発を放棄する可能性は低い、との見通しを提示し、イランのイスラム共和体制の崩壊は必然といった見解には懐疑的です。
パフラヴィー朝は、18世紀末にイラン高原を平定し、現在のイランのみならず、アルメニアやトルクメニスタンなども支配していたガージャール朝が、対外戦争の結果として次第に縮小していった、混乱を収束させて成立しました。ガージャール朝が脆弱だった要因としては、強力な常備軍と官僚制度の欠如が挙げられています。ガージャール朝でコサック軍の将校だったレザー・ハーンは、イギリスの後援受けつつ、政変によって権力を持つ掌握し、1925年にはガージャール朝が廃絶され、レザー・ハーンはシャー(国王)に就任しました。レザー・ハーンは中央集権的で世俗的で国際的に独立した国家を目指し、西洋列強との不平等条約の解消に努めるとともに、1935年には国号をペルシアからイラン(アーリア人の土地)に改称しました。古代にさかのぼる民族と文化の伝統の強調による国民国家としてのイランの建設が目指され、一方でイスラム教は時代遅れとされたわけです。このイラン近代国家建設において、民主制は含まれず、国王による中央集権的な独裁国家が目指され、軍部と官僚機構が肥大化していきます。経済政策では、国家主導で軽工業への投資が行なわれました。
ガージャール朝では石油利権がイギリスに掌握されており、パフラヴィー朝で外資との協定によってこの状況多少改善されたものの、国家収入への貢献は限定的で、非石油部門の輸出による増収が目指されました。ガージャール朝では、貿易相手としてソ連(ロシア)とイギリスが大きな割合を占めましたが、パフラヴィー朝ではドイツの割合が急増します。ロシアとイギリスの干渉を受けてきたイランにとって、ヨーロッパの第三国との関係は望ましかったわけです。独ソ戦が始まると、ソ連とイギリスはドイツとの断交を拒否したイランに攻め込み、イランは敗れてレザー・ハーンは退位させられ、皇太子だったモハマンド=レザーが即位しました。イランでは、北部の穀物のほとんどが略奪され、一部地域で大規模な飢饉が発生し、第二次世界大戦中にイランでは300万〜400万人が餓死した、とも推定されています。モハマンド=レザーは、急遽即位したこともあって権力は弱く、議会が政治を主導します。議会では、モハマンド・モサッデグの勢力が石油国有化を掲げて躍進し、首相に就任しますが、イギリスがアメリカ合衆国を引き入れ、国王のモハマンド=レザーにソ連へ急接近したモサッデグ政権を倒壊させます。
モサッデグ政権の崩壊によってイランでは、議会の権威が低下した一方で、パフラヴィー朝第2代国王モハマンド=レザーの権威主義化が進み、ペルシア湾周辺地域におけるイギリスの影響力低下の中でアメリカ合衆国との関係が強化され、石油収入が増大したものの、計画性と持続性に問題のある開発や投資が進みました。モハマンド=レザーはアメリカ合衆国からの圧力もあって社会制度改革を進め、これは白色革命と呼ばれています。それには農地改革も含まれていましたが、法学者には地主も多いため、イスラム教側から王権側に対して農地改革への反対圧力がかけられ、王権側と宗教勢力側は緊張関係にもありました。農地改革によって、地主層は王権から離れていき、モハマンド=レザーは官僚機構や軍部やアメリカ合衆国に権力基盤を依存していきます。モハマンド=レザーの白色革命によって経済は成長し、とくに石油危機は産油国であるイランにとって追い風となりましたが、一方で農村と都市および社会上層と下層の格差が拡大していきました。
こうした格差拡大とともに、強権的な政治体制だったことから、王権への不満が高まります。1970年代当時、白色革命のような上からの西洋近代化への異議申し立てには、社会主義と伝統(イランの場合はイスラム教)を踏まえた近代化があり、それはイラン以外でも見られたことでした。イランにおける王権への抵抗勢力には、伝統的なイスラム教の知の担い手である法学者、近代的な世俗的知識人、マルクス主義に傾倒してゲリラ活動を展開した左翼がいました。法学者の代表がルーホッラー・ムーサヴィー=ホメイニーですが、1964年に国外追放となって亡命を続けており、イランで反王政活動を展開したのは中堅と若手の法学者でした。この勢力は、都市の下層と中間層を取り込んでいきましたが、民主制とイスラム教の調和を訴える、ホメイニーと異なる見解の者もいました。世俗的知識人はイスラム教と民主制の両立を掲げ、この点では一部の法学者とも連携できました。世俗的知識人の代表的な一人だったアリー・シャリーアティーは、法学者とも接点を持ちつつ、左翼勢力にも大きな影響を及ぼしました。左翼勢力では、対立を深める中ソ両国への反発から、新左翼が中心となりますが、思想も組織も多様化していきました。新左翼にとって、イスラム教は複雑な左翼思想を大衆に分かりやすく伝える手段でした。
こうした反王政運動は、趣味や話題の共通する小規模な集まりを通じて浸透していきました。さらに、1977年に発足したアメリカ合衆国のカーター政権が「人権外交」を提唱したことも、イランにおける反王政運動を活発化させました。CIAの1978年8月の報告書では、イランは革命的な状況でも革命前の状況でもない、と評価されていましたが、ホメイニーを中傷する記事への抗議を契機として、すでに1978年2月にはイランの主要都市で抗議運動が置き、国家権力によって抗議運動参加者が死亡すると、抗議運動は全国の都市へと拡大します。国王のモハマンド=レザーは政治の自由化を表明しますが、反王政運動を収束させられず、1978年12月16日にイランから出国します。一方で、ホメイニーは1979年2月1日にフランスから帰国し、同月5日には暫定イスラム革命政権を発足させました。同月11日には軍最高会議が暫定政権を承認し、国王のモハマンド=レザーが指名した首相のシャープール・バフティヤールも辞任して、暫定政権がイランで唯一の政権となりました。
ホメイニーはメフディー・バーザルガーンを暫定政権の首相に任命し、自らは暫定政権の構成員が抜けた革命初期の司法および立法機関であるイスラム革命評議会を牽引し、権力を掌握していきます。イラン・イスラム革命は親米路線だった王政を打倒し、イラン社会には反米機運が高まっており、革命直後の1979年2月14日にはテヘランのアメリカ合衆国大使館が襲撃されましたが、暫定政権が西側には受容的な態度を示していたため、イランがソ連側に立つのを警戒したアメリカ合衆国は、イランの革命政権に慎重な態度を取ります。当初の革命政権の諸勢力は大きく三分され、それはバーザルガーンなどの世俗的知識人中心の自由主義勢力、同じく世俗的知識人中心のマルクス主義勢力、法学者を支持するイスラム主義勢力です。イスラム主義勢力はさらに、大きくはホメイニー支持派と、モハマンド=カーゼム・シャリーアトマダーリー支持派に区分されます。マルクス主義勢力勢力は、プチ・ブルジョワ階級の法学者とブルジョワ階級の自由主義者の革命政権を不安定と考えて、革命政権から距離を置きましたが、マルクス主義の多数派は武装闘争路線を封印し、少数派はクルド人など少数民族運動に加わり、革命体制と武装闘争を展開しました。ホメイニーの支持勢力はイスラム共和党を結成し、ホメイニーの勅令によって設立されたイスラム革命防衛隊が革命後に悪化した治安の回復を進めていくことなどで、権力を強化していきます。
このように諸勢力が混在する暫定政権が行なわれ、1979年4月の国民投票で、イスラム共和制は圧倒的賛成で採用されますが、具体的ではありませんでした。マルクス主義勢力の一部は、国民投票の棄権を主張しました。暫定政権のバーザルガーンたちは民主的イスラム体制を模索しましたが、ホメイニーは「民主」のような修飾語は不要と考えていました。革命防衛隊は乱立していた武装組織を統合していき、ホメイニーが牽引する革命評議会の監督下に入り、実質的にホメイニーの私兵となっていきます。バーザルガーンたち暫定政権とホメイニーの対立は憲法制定の過程でより顕著になっていき、暫定政権がフランス第五共和制憲法的な草案を発表したのに対して、ホメイニーは金曜日昼の礼拝と説教で自らの主張を浸透させていき、憲法制定の専門家会議の議員選挙でも、中央モスク局などに候補者を精査させることで、支持勢力が圧倒的多数を占めることになります。制度的には政府が首長権を代表していますが、主導権を把握していたのはホメイニーの方で、バーザルガーンもそれを認識していました。
この状況でバーザルガーンは対米関係改善を模索し、アメリカ合衆国高官と接触していましたが、1979年11月4日にホメイニー支持の学生集団がテヘランのアメリカ合衆国大使館を占拠し、ホメイニーは当初占拠者を追い払うよう指示しましたが、すぐに学生支持に方針転換し、この占拠は1年以上続き、イランとアメリカ合衆国との関係は決定的に悪化します。憲法制定の専門家会議は、フランス第五共和制憲法的な草案を大きく修正し、大統領ではなく最高指導者に強力な権限が集中する案を発表します。シャリーアトマダーリーは、一人の法学者に権限が集中する体制を批判し、抗議運動も行ないましたが、革命防衛隊が鎮圧し、シャリーアトマダーリーは自宅軟禁となります。
憲法制定の専門家会議が提案した憲法修整案は、1979年12月に圧倒的な賛成で採択されました。最高指導者に大きな権限が集中するこの憲法体制では、最高指導者に宗教的指導者の立場である法学権威と政治的指導者の資質の両方が求められます。このように革命後のイランではホメイニー路線が固まりつつありましたが、1980年1月の大統領選挙では、イスラム共和党の候補の得票率が3%弱で、無党派の世俗的知識人であるバニーサドルが75.6%の得票率で当選したように、ホメイニー路線一色去ったわけではありません。バニーサドルは革命前からホメイニーに信頼されていたものの、革命後にホメイニーから外務大臣に指名された後は、西側諸国に融和的なところがあり、ホメイニーとの方針の違いから外務大臣を辞任していました。1980年3月の国民議会選挙では、大統領選挙で敗北したイスラム共和党と、ホメイニー支持の独立勢力が120〜130議席、バニーサドル大統領の支持勢力が33議席、自由主義的立場のバーザルガーン率いるイラン自由運動が20議席となりました。ホメイニー支持勢力は、バニーサドル大統領が選出した首相候補を拒否し、非法学者のイスラム共和党員のモハマンド=アリー・ラジャイーが首相に就任します。
大統領側と首相を擁するホメイニー支持側との間で対立する状況で、1980年9月、イラン・イラク戦争が勃発します。この背景には、ホメイニー路線に沿ったイランからの「革命の輸出」による地域秩序の動揺がありました。とくにイラクは、国民の過半数がシーア派で、シーア派住民による政権への大規模運動が1970年代から起きており、イラクのシーア派住民によるイランの革命運動支持があったため、イランの革命体制を強く警戒し、1980年9月22日、イランの空港を爆撃して、イランへの侵攻を開始します。イラクのバアス党政権のフセイン大統領には、革命によるイランの軍事力弱体化との判断もあり、実際、アメリカ合衆国の援助で強化されたパフラヴィー朝期の軍部への革命政権の不信は強く、革命直後に多数の将官が粛清の対象となりました。一方で、イラク側は、第一次石油危機での収入増加および西側との関係改善によって軍備を拡張しており、イラクに侵攻しても短期間で優位に戦争を終結できる、と判断していました。実際、開戦から1981年6月半ばまではイラクが圧倒的に優勢で、イランで最高司令官を務めたバニーサドル大統領は、ホメイニーの私兵である革命防衛隊ではなく国軍を中心に指揮したものの、弱体化した国軍では劣勢を覆せず、1981年6月22日に大統領職を罷免され、国外に脱出します。
イランでは1981年7月に大統領選が行なわれ、当選したラジャイー前首相が8月30日に暗殺され、同年10月の大統領選でアリー・ハーメネイー、つまり現在の最高指導者が当選しました。ハーメネイーは1985年の大統領選で再選し、イスラム共和党の一党支配は盤石となったものの、党派争いが次第に表面化していきます。イラン・イラク戦争では、バニーサドル大統領の罷免以降、次第にイランが挽回していき、1982年半ばにはイラクがイラン領からの撤退完了を宣言し、イランは優位な停戦条件を求めますが、兵器で劣るイランはイラクを圧倒できず、戦局は膠着状態に陥り、イラクは化学兵器を使用します。対イラク戦争が長期化する中で、イランは「大悪魔」であるアメリカ合衆国および「小悪魔」であるイスラエルと密かに協力関係の構築を模索し、アメリカ合衆国のレーガン政権はイスラエル経由でのイランへの武器売却を認めます。これが暴露され、イラン・コントラ事件として大きな政治的醜聞として問題となりましたが、この頃からは同時代の出来事として私の記憶に残っています。このイラン・コントラ事件はホメイニーの後継者問題にも大きく影響することになり、その有力候補だったホセイン=アリー・モンタゼリーが後継者争いから脱落します。
イラン・イラク戦争では、イランが船舶攻撃の対象をイラクの支援国へと広げたことから、アメリカ合衆国とソ連も介入を強め、再び戦況が不利となったイランは、国連安保理決議の受諾に追い込まれ、1988年8月20日、イランとイラクは停戦します。イラン・イラク戦争の間に、イスラム共和党では党派対立が顕在化していき、それは、自由経済および伝統的なイスラム法解釈を尊重する「保守派」と、国家による統制経済およびより革新的なイスラム法解釈を重視する「急進派」です。「急進派」は国民議会と内閣の多数派を、「保守派」は監督者評議会を押さえていました。「急進派」の代表はムーサヴィー首相で、「保守派」の代表は大統領のハーメネイーでした。「急進派」の支持基盤は実務家や下層中流階級で、「保守派」の支持基盤はバーザール商人や宗教界の体制支持の主流派でした。党派争いを認識していたホメイニーは、両派を同じ場に立たせて、後継者問題のための憲法改正を進めさせ、複数指導体制ではなく、一人の法学者による指導体制が継続されることになりました。ホメイニーは1989年6月3日に死亡しましたが、日本での新聞報道では天安門事件と重なり、ホメイニー死去の扱いが小さくなった、と記憶しています。
ホメイニー死後直ちに、大統領のハーメネイーが最高指導者に選出されました。同じく1989年には憲法改正も国民投票で承認され、首相職が廃止されて、相対的に大統領の権限が強化されました。これによって、大統領は副大統領だけではなく、内閣を直接的に選出できるようになりました。立法府は、国民議会からイスラム評議会へと改称されました。司法府の最高責任者として新たに司法権長などが設置されましたが、最高指導者には司法権長や国軍および革命防衛隊の総司令官や統合参謀本部長や議会の法案審査権のある監督評議会の半数の任命権があり、制度的に強い統制力が保証されていました。ただ一方で、1989年の憲法改正では、専門家会議に最高指導者の任命および罷免権が与えられました。ハーメネイー体制下で、一定の政治的競合がありながら、強権的な国家が支配する、権威主義体制が築かれていきます。ただ、法学者としての権威がホメイニーよりずっと劣るハーメネイー体制への批判はあり、「急進派」はホメイニー路線がハーメネイー路線に優越すると主張し、「保守派」はその逆を主張しました。ハーメネイーは、専門家会議の選挙で監督者評議会による立候補者の資格審査を通じて、「保守派」の政権を維持し、強化していきました。大統領だったハーメネイーの最高指導者就任のため行なわれた大統領選では、アリー=アクバル・ハーシェミー=ラフサンジャーニーが圧勝します。ラフサンジャーニー政権では、イラン革命とイラン・イラク戦争によって大きく低下した産油量が回復していき、同時期に石油依存経済からの脱却が図られ、外資導入など自由主義経済への転換が進められました。ただ、ラフサンジャーニー政権の経済改革は、汚職や原油価格低迷や専門的な技術および知識を有する人材の不足などによって、失敗に終わりました。ラフサンジャーニーは1993年の大統領選で再選しましたが、経済的困難の中で政権運営は困難でした。
イランでは、イラン・イラク戦争中に人的資源の確保が企図され、革命や戦争を直接的に経験していない、若年人口が高い割合を占めることになります。、この若い世代では「保守派」への強い支持が失よれ、イスラム教的道徳への忌避感も見られました。ラフサンジャーニー体制初期に排除された「急進派」内での再編によって、「改革派」が形成されていき、1997年の大統領選では、ハーメネイー大統領期から長くイスラム文化指導相を務めた法学者のモハンマド・ハータミーが、法の支配や社会および政治的な自由や女性と少数派の権利拡大を主張し、西洋文化に寛容な姿勢を見せたため、若年層の支持を集め、当初は有力候補とはみなされていなかったのに、得票率68.9%で圧勝します。ハータミーは、法学者としては珍しく西洋社会を直接的に経験していました。ハータミーは大統領就任後、「文明の対話」を提起し、革命以降悪化していた他のイスラム教圏の国とも関係を改善していきます。ハータミーは政治面での自由化を進め、多数の政治結社が設立されていきますが、イスラム革命体制では限界もあり、改革派の抗議運動を強硬に鎮圧したことから、学生からの支持を失います。ハータミーは2001年の大統領選で圧勝しますが、「保守派」と「改革派」の間で政権運営に苦しみます。ハータミー政権ではラフサンジャーニー政権から引き続き自由主義的経済改革が進められましたが、若年層の多さから失業率は依然として高く、経済政策でも限界を見せます。この頃には、個々の法学者の見解と最高指導者や監督者評議会の見解との間の矛盾が許容されるようになり、イスラム教をめぐる解釈の個人化による多元的解釈の状況が形成されていきます。最高指導者のハーメネイーに宗教的権威がないことで、こうした状況はますます複雑化し、政治的手段としてのイスラム教が支持を失っていく一方で、個人の信仰は継続しており、イスラム教(伝統)と近代の二項対立では把握できないことを示しています。
「改革派」への支持が低下していく中で、「原理派」が台頭します。国際情勢では、2001年9月11日のアメリカ合衆国における同時多発テロ事件後、イランの隣国のアフガニスタンとイラクで相次いで政権が崩壊し、イランはイラクおよび北朝鮮とともに「悪の枢軸」とアメリカ合衆国のブッシュ政権に呼ばれ、さらには核開発問題もあって、イランは難しい立場に追い込まれます。こうした状況で最高指導者の絶対的優位性を主張すめ「新保守主義」が台頭し、支持層は限られていたものの、宗教系の財団や革命防衛隊関連の財団や宗教界保守派やバーザール上層部など、社会上層と結びつきます。こうした支持基盤から登場したのが「原理派」で、西側では保守強硬派とも呼ばれますが、「原理派」にはより中道那立場も含まれます。担い手の中心は、「保守派」が法学者だったのに対して、は世俗的教育を受けた実務家でした。
「原理派」は2003年の地方評議会選挙や2004年のイスラム評議会選挙で台頭し、2005年の大統領選では、体制指導部直結の「イスラム革命調整評議会」から離脱した「原理派」のマフムード・アフマディーネジャードが、決選投票で「現実主義」のラフサンジャーニー元大統領を大差で破ります。アフマディーネジャードは、決戦投票で圧勝したものの、「原理派」を割って大統領選に出馬した経緯もあり、その政治的基盤は盤石ではありませんでした。本書はアフマディーネジャード政権の特徴を、大衆迎合主義と評価しています。アフマディーネジャードは積極財政による富と所得の再分配を主張し、社会福祉の充実を図ります。アフマディーネジャード政権では、金利引き下げなどによるインフレが進行し、「改革派」のみならず「原理派」からも批判されます。アフマディーネジャードは、経済政策を規制緩和に転換し、福祉を縮小して、貧困層を市場経済に組み込みます。経済政策が行き詰まる中で、アフマディーネジャード政権は核開発問題も含めて諸外国への強硬姿勢で支持率確保を図り、イスラエルの国家存在のみならず、第二次世界大戦でのドイツによるユダヤ人大虐殺も否定しました。核開発問題はイランへの経済制裁を招来し、イランの経済状態をさらに悪化させます。2009年の大統領選で、現職のアフマディーネジャードは元首相のムーサヴィーに圧勝しますが、不正選挙の疑いが「改革派」のみならず「原理派」からも出て、革命後最大の抗議運動となります。体制側はこの抗議運動(緑の運動)に暴力で対処し、それがアフマディーネジャード政権のみならず、革命体制そのものへの否定にもつながりました。「緑の運動」は次第に鎮静化しましたが、これ以降、路上での異議申し立てに国民が積極的に参加するようになるとともに、国外の抗議運動とのつながりも生じていきます。本書は、「緑の運動」においてソーシャルメディアが重要な役割を果たし、それは「アラブの春」に1年半先行していたことを指摘します。
2013年の大統領選で勝ったロウハーニーは、アフマディーネジャード政権で解決の見通しが立たなくなった核開発問題に取り組みます。この交渉は難航しましたが、2015年7月14日に「包括的協同計画」の合意が成立し、イランへの経済制裁が開示を去れていきます。ところが、アメリカ合衆国は2017年1月に成立したトランプ政権下で、この合意から離脱し、これはイラン経済にとった大打撃となり、これがコロナ禍でのイランにおける感染者の高死亡率につながりました。この間、アフマディーネジャード政権末期からイランは内戦状態となったシリアにアサド政権側で介入し、革命防衛隊が中心的役割を果たしていきます。革命防衛隊はアフマディーネジャード政権~ロウハーニー政権の頃には、イランでさまざまな経済活動に携わって大きな利権を有するようになっており、本書はこうしたイランの構造を「軍産複合体」と評価しています。ただ、軍需産業を中心に軍と私企業と国家が結びつく一般的な軍産複合体とは異なり、イランは軍需産業が中心ではなく、多角的に産業が展開しています。ロウハーニー政権は、軍事作戦も含めて革命防衛隊の対外活動を制御できていませんでした。
2021年の大統領選では、最高指導者の後継者問題も焦点となったようです。ホメイニーが後継者を実質的に早くから指名していた(上述のように、有力候補のモンタゼリ―はけっきょく後継者にならなかったわけですが)のに対して、ハーメネイーは後継者を指名していませんでした。2021年の大統領選では、2017年の大統領選で敗れた「原理派」のエブラーヒーム・ライースィーが下馬評通り圧勝しましたが、投票率は2017年の73.3%を大きく下回る48.8%で、しかも白票と無効票は第2位の候補より多く、ライースィーの得票率も、有効投票数では72.3%でしたが、投票数全体では62.7%に留まりました。ライースィー政権は上海協力機構に正式に加盟し、中国やロシアやアジア中央部諸国との関係を強化して、外交政策はロウハーニー政権の「西向き」から「東向き」へと変わりました。しかし、経済制裁が続く中で国内経済はさらに悪化します。国内では、ヘジャーブ(ヒジャーブ)着用をめぐって女性が風紀警察の暴行によって死亡したことで、国内で抗議運動が起きます。2023年10月7日にパレスチナのハマースがイスラエルに奇襲攻撃を仕掛け、これを機に中東情勢が一気に緊張します。イランは、このハマースの奇襲攻撃への関与を否定したものの、支援は継続します。
この状況で、2024年5月19日にライースィー大統領が事故死し、その直後に行なわれた大統領選では、「改革派」候補のマスウード・ペゼシュキヤーンが決戦投票で勝利します。ペゼシュキヤーンは大統領選の時から西側諸国との対話姿勢を示しましたが、最高指導者のハーメネイーはライースィー政権の「東向き」政策を支持し続けます。それでも、ペゼシュキヤーン政権の外相に就任したラーグーチーは、ヨーロッパ諸国のイランへの敵対的態度改善による関係改善を示唆しており、ペゼシュキヤーン政権と最高指導者のハーメネイーとの間の外交をめぐる調整が行なわれているようです。しかし、イランにとって国際情勢は好転せず、中東ではイスラエルがレバノンではヒズブッラーに、ガザでは民衆虐殺を伴いつつハマースに大打撃を与え、友好国だったシリアのアサド政権は2024年12月に崩壊します。2025年6月13日には、イスラエルがイラン各地で軍高官や核開発関連の科学者を殺害するとともに、核施設や軍施設や防空拠点を爆撃し、同月22日にはアメリカ合衆国もイランへの地下空間攻撃を実行しました。この間、イランもイスラエルやカタールの米軍基地に報告攻撃を行なったものの、明らかにイランの方がずっと大きな被害を受けました。ただ本書は、中国やロシアとの関係を強化し、国内の生産体制を整備してきたイランが、核(兵器)開発を放棄する可能性は低い、との見通しを提示し、イランのイスラム共和体制の崩壊は必然といった見解には懐疑的です。
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