Debra Soh『ジェンダーの終焉 性とアイデンティティに関する神話を暴く』
デブラ・ソー(Debra Soh)著、森田成也訳で、2025年11月に北新宿出版より刊行されました。原書の刊行は2020年です。電子書籍での購入です。当ブログでは「gender」を「性別」と訳すことが多いものの、この記事では、本書の翻訳に倣って「ジェンダー」と表記します。著者は性科学を専攻していたものの、ジェンダー学や女性学などに基づく「左派」からの「批判」を受けて、学術界では自身の見解を述べるのが難しいと判断し、報道記者に転身したそうです。その契機となったのが、3歳の子供が性別移行するような話を褒め称え、子供に性別移行手術を受けさせるか、悩む親を「トランスフォビア(トランス嫌悪)」とか「差別者」とか攻撃する風潮に、性科学の観点から批判的な論説記事を公表したことでした。著者のこの論説記事には、「批判」というより攻撃が殺到したそうです。著者は、「左派」や「リベラル」というか「woke」的な陣営においてすっかり浸透した、トランスジェンダー主義で「常識」とされる認識について、性科学の観点から検証していきます。
まず取り上げられているのが、「生物学的性別はスペクトラム(連続体)」との「常識」です。まず本書は、「生物学的性別」が男女のどちらかで、染色体や生殖器やホルモン像(体内で分泌されるホルモンの種類や量、およびそれらの均衡の総合的評価)ではなく、成熟した生殖細胞である配偶子によって定義される、と指摘します。配偶子には、男性によって形成される小さな精子と、女性によって形成される大きな卵子の2種類しかなく、卵子と精子の中間の配偶子はないので、性別は二元的(バイナリー)であって連続体(スペクトラム)ではない、というわけです。一方で、性自認(ジェンダーアイデンティティ)は、ヒトが性別について男性的あるいは女性的といったように、どう感じるのかを意味します。性別と同様に、ジェンダーはアイデンティティと表現の両面で生物学的であり、社会的構築物ではなく、解剖学的構造や性的指向と切り離されていない、と本書は指摘します。この生物学的性別は受精児に決定し、胎内でのホルモン曝露によって脳が影響を受け、男性の場合は精巣から分泌されるテストステロンが重要な役割を担います。
そこで本書は、脳の性差について原書刊行時の最新の知見を整理しています。本書は、胎内におけるテストステロンへの曝露量などに起因する脳の性差はあり、ジェンダー不適合成の表現において、確かに教育など社会的要因にも影響を受けるものの、それは生物学的要因を上回るわけではない、と指摘します。脳の性差による好みの傾向の違いは、霊長類研究でも指摘されています(関連記事)。本書は、性的指向が生得的であることも指摘します。本書は、ジェンダー平等が改善し続けるにつれて、専攻分野や職業の選択など人生設計でも男女間の格差は拡大していく、と予想していますが、これは説得力のある見解と思います。日本も含めてとくに「西側」では、性別に「配慮した」選抜が珍しくはなくなってきており、それが一部で議論になっていますが、脳の性差も踏まえた上で社会制度を設計していかねば、大きな歪みが生じることでしょう。
本書は、生物学的性別のみならずジェンダーも、スペクトラム(連続体)ではなく二元的で、男性か女性のいずれかである、と主張します。多数のジェンダーを想定するではなく、男女に見られる差異の一部として考えるべきというわけです。本書は、現在(原書刊行時の2020年)人々がジェンダーと呼んでいるものは、個性や気分とみなす方がより適切である可能性も指摘しています。ジェンダーをめぐる議論で喫緊の課題と言えるのが、「思春期ブロッカー」の処方や手術も含む未成年の性別移行のための医療措置のように思います。これは、ジェンダーをめぐる対立において、短期的には最も直接的に深刻な問題のように思われ、本書が紹介しているアメリカ合衆国の事例には戦慄させられるところが多々あり、日本ではそうならないよう、強く願っています。ジェンダーをめぐる対立でそれ以上に一般に大きく報道される傾向があるように思われるのは、性別で参加資格が決められている運動競技です。本書では、男性から女性に性別移行した人々(トランス女子)が女子競技に参加することによって、接触系競技では危険性が高くなることや、女性の機会喪失が増えることを懸念しています。
本書は、「ジェンダーイデオロギー」を中心に、フェミニズムなどおもに「左側」による科学への攻撃を取り上げており、医療などより「実用的」な問題を大きく取り上げていますが、学術的な問題にも言及しており、たとえば、ジェンダー平等を主張する側からの、生物学や進化心理学への「批判」です。本書は、性差別を批判する側が、時に進化学を否定することに対して、ひじょうに批判的です。有性生殖として数億年間にわたって進化してきた生物であるヒトの性差が、「社会的構築物」にすぎないはずはない、と私は考えてきたので、本書の見解には強く同意します。本書は、ヒトにも生物学的な性差があることを前提に、性的行動でも女性が無理に男性のように振る舞う必要はない、と提言しています。
ヒトにおける生物学的な性差を認める本書は、「ジェンダーニュートラルな」子育てにも疑問を呈しています。「ジェンダーニュートラルな」子育て論には、「男らしさ」や「女らしさ」は学習、つまり後天的環境によって身につく、との認識があります。本書は、幼児の段階から玩具の選好などで明確な性差があることを指摘し、これはヒトも含む霊長類研究とも整合的なので(関連記事)、深い進化的基盤があるようです。本書は子育てをしている親への「実用的な」提言として、子供がジェンダー規範に沿うような選択をしても、慌てずに愛情を注ぎ、育児に努めることを挙げています。子供がジェーン規範に沿うような玩具を好んでいても、無理に異性向けの玩具で遊ばせる必要はない、というわけです。
本書はこのように、おもに「左側」による科学への攻撃を取り上げており、「アクティヴィズム(社会正義のための活動や運動)」はどれだけ情熱的で善意に満ちていても、科学とは別で、科学研究にアクティヴィズムが入り込む余地はない、と指摘します。つまり、「フェミニスト科学」や「クィア科学」や「リベラル派の科学」は存在しない、というわけです。当然、「保守派の科学」が存在しないことも本書は指摘しています。本書の主要な批判対象が「左側」であることを批判する人は少なくないかもしれませんが、「リベラル派」で「フェミニスト」を自任する著者は、学界の「リベラル派」と「保守派」の比率が36:1と大きく偏っており、著者からすると妥当な科学的研究でも「アクティヴィズム」陣営というか「活動家」側から糾弾されることを懸念しており、学界における多様性が、肌の色の違いではなく異なる価値観や視点から生じる、とのジョナサン・ハイト(Jonathan Haidt)氏の指摘を肯定的に引用しています。
著者は「リベラル派」で「フェミニスト」を自任しており、私とは対極とまではいかないとしても、根本的な世界観や価値観に大きな違いがあるとは思います。ただ、本書の見解に私は基本的に同意しており、本書で取り上げられている「ジェンダーイデオロギー」や未成年の性別移行のための医療措置や「ジェンダーニュートラルな」子育ては21世紀のうちに、優生思想や同性愛の「治療」やロボトミー手術と同類に扱われるようになると思います。「右側」からの科学攻撃を警戒せねばならないことは、「右側」の私でも同意しますが、私も暮らす「西側」世界では、「左側」が「正義」を掲げ、科学を「攻撃」することが珍しくなく、しかも学界や大手大衆媒体などを拠点にしているため情報発信力が強く、「左側」からの科学「攻撃」は今後も「西側」世界において大きな問題となるのでしょう。
とはいえ、「西側」世界でも濃淡があることは確かで、本書は基本的にアメリカ合衆国の事例を取り上げているため、日本で生まれ育ち、現在も暮らしている私にとっては、本書を読む前から多少は知識があったものの、なかなか実感しにくいところがあります。じっさい、たとえば日本では、未成年の性別移行のための医療措置や「ジェンダーニュートラルな」子育てがまだ大きな問題になっているようには見えません。その意味で、日本ではまだ「右側」からの科学攻撃の方が脅威なのかもしれません。ただ、日本にも本書を「有害本」とか「ヘイト本」とか恐らく読まずに主張する「カウンター活動家」がいますし、学界や大衆媒体には本書で取り上げられたような「活動家」的な見解を強く主張する人が少なからずいることも否定できないでしょうから、私の世界観や価値観や政治的立場に基づく認識になってしいますが、やはり科学に限らずさまざまな分野で「左側」の脅威を侮ってはならないように思います。
また、原書の刊行が第一次共和党のトランプ政権期で、その後に民主党のバイデン政権を挟んで、現在第二次トランプ政権であることから、本書で提示されているアメリカ合衆国の社会情勢には少なからず変化があるかもしれないことは、要注意だと思います。この間のアメリカ合衆国において、政治的分断がますます激しくなっているのか分かりませんが、少なくとも大きく解消されたことはなさそうですから、本書で取り上げられた「woke」的な科学への攻撃はまだ続いているのでしょう。一方で、報道では第二次トランプ政権でとくに「左側」を対象に政権から学界への攻撃が激化していることも伝えられており、アメリカ合衆国における科学への攻撃について、現在では原書刊行時よりもずっと「右側」を警戒すべきなのかもしれません。とはいえ、本書の提言はおそらく今でもアメリカ合衆国において有効で、大いに参照されるべきだと思いますし、「ジェンダーイデオロギー」というか「woke」的な価値観がアメリカ合衆国ほど浸透していない日本でも、本書は有効な処方箋として参考になるのではないか、と考えています。日本でも本書を「ヘイト本」と軽蔑している人はいるでしょうが、私は本書を「ヘイト本」とはまったく考えておらず、性科学の知見を中心にたいへん参考になりました。
参考文献:
Soh D.著(2025)、森田成也訳『ジェンダーの終焉 性とアイデンティティに関する神話を暴く』(北新宿出版、原書の刊行は2020年)
まず取り上げられているのが、「生物学的性別はスペクトラム(連続体)」との「常識」です。まず本書は、「生物学的性別」が男女のどちらかで、染色体や生殖器やホルモン像(体内で分泌されるホルモンの種類や量、およびそれらの均衡の総合的評価)ではなく、成熟した生殖細胞である配偶子によって定義される、と指摘します。配偶子には、男性によって形成される小さな精子と、女性によって形成される大きな卵子の2種類しかなく、卵子と精子の中間の配偶子はないので、性別は二元的(バイナリー)であって連続体(スペクトラム)ではない、というわけです。一方で、性自認(ジェンダーアイデンティティ)は、ヒトが性別について男性的あるいは女性的といったように、どう感じるのかを意味します。性別と同様に、ジェンダーはアイデンティティと表現の両面で生物学的であり、社会的構築物ではなく、解剖学的構造や性的指向と切り離されていない、と本書は指摘します。この生物学的性別は受精児に決定し、胎内でのホルモン曝露によって脳が影響を受け、男性の場合は精巣から分泌されるテストステロンが重要な役割を担います。
そこで本書は、脳の性差について原書刊行時の最新の知見を整理しています。本書は、胎内におけるテストステロンへの曝露量などに起因する脳の性差はあり、ジェンダー不適合成の表現において、確かに教育など社会的要因にも影響を受けるものの、それは生物学的要因を上回るわけではない、と指摘します。脳の性差による好みの傾向の違いは、霊長類研究でも指摘されています(関連記事)。本書は、性的指向が生得的であることも指摘します。本書は、ジェンダー平等が改善し続けるにつれて、専攻分野や職業の選択など人生設計でも男女間の格差は拡大していく、と予想していますが、これは説得力のある見解と思います。日本も含めてとくに「西側」では、性別に「配慮した」選抜が珍しくはなくなってきており、それが一部で議論になっていますが、脳の性差も踏まえた上で社会制度を設計していかねば、大きな歪みが生じることでしょう。
本書は、生物学的性別のみならずジェンダーも、スペクトラム(連続体)ではなく二元的で、男性か女性のいずれかである、と主張します。多数のジェンダーを想定するではなく、男女に見られる差異の一部として考えるべきというわけです。本書は、現在(原書刊行時の2020年)人々がジェンダーと呼んでいるものは、個性や気分とみなす方がより適切である可能性も指摘しています。ジェンダーをめぐる議論で喫緊の課題と言えるのが、「思春期ブロッカー」の処方や手術も含む未成年の性別移行のための医療措置のように思います。これは、ジェンダーをめぐる対立において、短期的には最も直接的に深刻な問題のように思われ、本書が紹介しているアメリカ合衆国の事例には戦慄させられるところが多々あり、日本ではそうならないよう、強く願っています。ジェンダーをめぐる対立でそれ以上に一般に大きく報道される傾向があるように思われるのは、性別で参加資格が決められている運動競技です。本書では、男性から女性に性別移行した人々(トランス女子)が女子競技に参加することによって、接触系競技では危険性が高くなることや、女性の機会喪失が増えることを懸念しています。
本書は、「ジェンダーイデオロギー」を中心に、フェミニズムなどおもに「左側」による科学への攻撃を取り上げており、医療などより「実用的」な問題を大きく取り上げていますが、学術的な問題にも言及しており、たとえば、ジェンダー平等を主張する側からの、生物学や進化心理学への「批判」です。本書は、性差別を批判する側が、時に進化学を否定することに対して、ひじょうに批判的です。有性生殖として数億年間にわたって進化してきた生物であるヒトの性差が、「社会的構築物」にすぎないはずはない、と私は考えてきたので、本書の見解には強く同意します。本書は、ヒトにも生物学的な性差があることを前提に、性的行動でも女性が無理に男性のように振る舞う必要はない、と提言しています。
ヒトにおける生物学的な性差を認める本書は、「ジェンダーニュートラルな」子育てにも疑問を呈しています。「ジェンダーニュートラルな」子育て論には、「男らしさ」や「女らしさ」は学習、つまり後天的環境によって身につく、との認識があります。本書は、幼児の段階から玩具の選好などで明確な性差があることを指摘し、これはヒトも含む霊長類研究とも整合的なので(関連記事)、深い進化的基盤があるようです。本書は子育てをしている親への「実用的な」提言として、子供がジェンダー規範に沿うような選択をしても、慌てずに愛情を注ぎ、育児に努めることを挙げています。子供がジェーン規範に沿うような玩具を好んでいても、無理に異性向けの玩具で遊ばせる必要はない、というわけです。
本書はこのように、おもに「左側」による科学への攻撃を取り上げており、「アクティヴィズム(社会正義のための活動や運動)」はどれだけ情熱的で善意に満ちていても、科学とは別で、科学研究にアクティヴィズムが入り込む余地はない、と指摘します。つまり、「フェミニスト科学」や「クィア科学」や「リベラル派の科学」は存在しない、というわけです。当然、「保守派の科学」が存在しないことも本書は指摘しています。本書の主要な批判対象が「左側」であることを批判する人は少なくないかもしれませんが、「リベラル派」で「フェミニスト」を自任する著者は、学界の「リベラル派」と「保守派」の比率が36:1と大きく偏っており、著者からすると妥当な科学的研究でも「アクティヴィズム」陣営というか「活動家」側から糾弾されることを懸念しており、学界における多様性が、肌の色の違いではなく異なる価値観や視点から生じる、とのジョナサン・ハイト(Jonathan Haidt)氏の指摘を肯定的に引用しています。
著者は「リベラル派」で「フェミニスト」を自任しており、私とは対極とまではいかないとしても、根本的な世界観や価値観に大きな違いがあるとは思います。ただ、本書の見解に私は基本的に同意しており、本書で取り上げられている「ジェンダーイデオロギー」や未成年の性別移行のための医療措置や「ジェンダーニュートラルな」子育ては21世紀のうちに、優生思想や同性愛の「治療」やロボトミー手術と同類に扱われるようになると思います。「右側」からの科学攻撃を警戒せねばならないことは、「右側」の私でも同意しますが、私も暮らす「西側」世界では、「左側」が「正義」を掲げ、科学を「攻撃」することが珍しくなく、しかも学界や大手大衆媒体などを拠点にしているため情報発信力が強く、「左側」からの科学「攻撃」は今後も「西側」世界において大きな問題となるのでしょう。
とはいえ、「西側」世界でも濃淡があることは確かで、本書は基本的にアメリカ合衆国の事例を取り上げているため、日本で生まれ育ち、現在も暮らしている私にとっては、本書を読む前から多少は知識があったものの、なかなか実感しにくいところがあります。じっさい、たとえば日本では、未成年の性別移行のための医療措置や「ジェンダーニュートラルな」子育てがまだ大きな問題になっているようには見えません。その意味で、日本ではまだ「右側」からの科学攻撃の方が脅威なのかもしれません。ただ、日本にも本書を「有害本」とか「ヘイト本」とか恐らく読まずに主張する「カウンター活動家」がいますし、学界や大衆媒体には本書で取り上げられたような「活動家」的な見解を強く主張する人が少なからずいることも否定できないでしょうから、私の世界観や価値観や政治的立場に基づく認識になってしいますが、やはり科学に限らずさまざまな分野で「左側」の脅威を侮ってはならないように思います。
また、原書の刊行が第一次共和党のトランプ政権期で、その後に民主党のバイデン政権を挟んで、現在第二次トランプ政権であることから、本書で提示されているアメリカ合衆国の社会情勢には少なからず変化があるかもしれないことは、要注意だと思います。この間のアメリカ合衆国において、政治的分断がますます激しくなっているのか分かりませんが、少なくとも大きく解消されたことはなさそうですから、本書で取り上げられた「woke」的な科学への攻撃はまだ続いているのでしょう。一方で、報道では第二次トランプ政権でとくに「左側」を対象に政権から学界への攻撃が激化していることも伝えられており、アメリカ合衆国における科学への攻撃について、現在では原書刊行時よりもずっと「右側」を警戒すべきなのかもしれません。とはいえ、本書の提言はおそらく今でもアメリカ合衆国において有効で、大いに参照されるべきだと思いますし、「ジェンダーイデオロギー」というか「woke」的な価値観がアメリカ合衆国ほど浸透していない日本でも、本書は有効な処方箋として参考になるのではないか、と考えています。日本でも本書を「ヘイト本」と軽蔑している人はいるでしょうが、私は本書を「ヘイト本」とはまったく考えておらず、性科学の知見を中心にたいへん参考になりました。
参考文献:
Soh D.著(2025)、森田成也訳『ジェンダーの終焉 性とアイデンティティに関する神話を暴く』(北新宿出版、原書の刊行は2020年)
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