上田信『東ユーラシア全史 陸海の交易でたどる5000年』
中公新書の一冊として、中央公論新社より2025年12月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は交易を中心に据えてのユーラシア東部の通史で、陸地のみならず海洋も考慮し、日本列島もたびたび取り上げており、おもに農耕開始以降を対象としていますが、現生人類(Homo sapiens)の拡散も短く言及されています。本書におけるユーラシアの東西の境界(東・西ユーラシア境界線)は、北緯34度のペシャワールとカブールの間の東経70度の地点と、北緯40度近くのカシュガルとフェルガナの間の東経73度の地点を結んで引かれる直線です。なお本書では、中華人民共和国(の実効支配領域)が「中国」、おもに「漢人」が居住している華北と華中と華南の地理的範囲として「漢地」が用いられています。
本書の中心的視点となる交易は、目的に基づいて利潤追求型と身分動機型(威信財の獲得など)と環境保全型(交易による持続可能な社会への貢献)、高位に基づいて略奪と互酬と貢納に、担い手に基づいて当事者同士の交換と商人の介在する通商と不特定多数の財のやり取りである市場に、規模に基づいて隣接した地域間の「小さな交易」と遠隔地間の「大きな交易」と(大・小の交易の組み合わせでは、小さな交易の長い連鎖となる「リレー型」と貿易商人の長距離交易となる「マラソン型」があります)、当事者間の関係に基づいて、搾取のような「片務的交易」と二者間の「総務的交易」と三者以上の「多角的交易」に分類されています。金や銀や鉄や銅などの金属、コムギやコメやジャガイモなどの食料、塩などの調味料、茶やコーヒーなどの嗜好品、麝香などの香料、陶磁器などの工芸品、近代以降の工業製品など、世界で広く取引された物産は「世界商品」とされます。本書は、生態系からユーラシアでは西部よりも東部の方で植物の多様性が高いことから、ユーラシア東西間において、交易でのモノの流れは圧倒的に東高西低で、宗教などの「イミ」の交換は西高東低だった、と指摘します。
5万年前頃以降となる現生人類のユーラシア全域への拡散後、いわゆる先史時代にユーラシアの東西を結ぶ無色としてまず機能したのは、「草原の路」でした。キビが東方から西方へ、ムギ類が西方から東方へと伝わり、青銅器と鉄器は西方から東方へと伝わりました。本書は、「漢地」における青銅器文化が西方からの影響を受けて始まり、その後に独自の文化へと発展した、と指摘します。青銅器の普及後に、ユーラシア内陸部ではまず狩猟騎馬文化が、その後で遊牧騎馬文化が成立します。ユーラシア東部では遊牧騎馬文化から強大な勢力が形成され、その嚆矢が匈奴です。遊牧騎馬民は東方から西方へと勢力を拡大する傾向があり、それはユーラシアの草原地帯では西部よりも東部の方で食性はより豊かだったことが背景にある、と本書は指摘します。匈奴の衰退は、寒冷化による草原の縮小など、気候変動との関連が指摘されています。
この草原地帯と農耕地帯の中間は、年間降水量が400ml程度の農牧交錯地帯で、農業と遊牧が時期によって替わります。具体的な中心地は、現在の山西省の大同などです。農牧交錯地帯では、異なる経済活動の集団間の対立や衝突とともに、友好な経済的相互依存関係も見られました。モンスーン陸域アジアは、「漢地」では秦嶺山脈・淮河線より南方に広がっており、稲作の起源地です。稲作は黄河流域へと拡大し、畑作文化との複合が進行しました。長江流域からは、インドシナ半島などさらに南方にも稲作は広がりました。ユーラシア東部では、とくに農耕開始以降、生態系の違いに基づく異なる産物の交換によって、さらに交易が盛んになります。本書は、秦が勢力拡大によってこうした交易網を掌握および再編成し、モンスーン陸域アジアを経済的に組み込もうとしたのではないか、と指摘します。モンスーン海域アジアでも、インド洋において冬と夏で逆方向に吹くモンスーンによって交易が盛んになり、東シナ海からペルシア湾と紅海までつながり、さらに陸路を経て地中海と接続します。本書はこのモンスーン海域アジアの交易において、アレクサンドロス大王の遠征や『エリュトゥラー海案内記』が重要な転機となったことを指摘します。
こうしてユーラシア東部内のみならずユーラシア西部まで交易路が広がり、4~8世紀には広域交易圏が形成されます。6~7世紀のユーラシア東部の内陸交易路では、草原の路よりもオアシス都市を結ぶシルクロード(絹の道)の方が盛んだったようです。草原の路と比較して絹の道では、中継地となる都市が多く、都市間の物産の交易も盛んだったことが一因ではないか、と本書は推測します。この広域交易圏において、日本はモンスーンアジアの遠隔地交易の終着地で、さまざまな文化の吹き溜まりと位置づけられています。
ユーラシア東部の交易圏は、9〜12世紀に一体化していきます。北部の乾燥地帯では、宋から北方へと納められた銀が、「漢地」の絹などとの交易で宋に還流し、南方のモンスーン海域では、農業に基盤を置く勢力が海洋交易にも深く関わるようになります。このユーラシア東部南方の海洋交易には、インドの商人が深く関わっていましたが、8世紀頃以降、ペルシアやアラビアの商人が現れます。10世紀半ばには大型外洋船のジャンク船がモンスーン海域アジアに出現し、交易はさらに盛んになり、日本もこの交易圏に参入します。9〜12世紀にかけてユーラシア東部では、宋を媒介に南北の交易圏が一体化していったようです。この状況で出現したのがモンゴル帝国で、政治的統合のみならず、経済的一体化も企図していた、と本書は推測します。モンゴル帝国の勢力圏とその周辺地域で成立した広大な通商圏は、14世紀の寒冷化と疫病などによるモンゴル帝国の衰退、さらには銀の流通停滞によって、とくに北方の陸上経路が打撃を受けます。一方で、南方のモンスーン海域における交易への打撃は相対的に小さく、明王朝成立直後の混乱もありましたが、鄭和の航海などを経て、さらに発展していきます。このモンスーン海域交易圏に、15世紀末以降、ポルトガルなどヨーロッパ勢力が参入します。
16世紀後半にはスペインが太平洋往復航路を開拓し、近代以降と比較する著しく貧弱とはいえ、ここで世界は一体化した、とも言えそうです。モンスーン海域交易圏には、オランダやイギリスも参入し、産業革命以降、ユーラシアの東西間の力関係は大きく変わりますが、本書はその前提として、ヨーロッパにおける主権国家理念の成立を重視しています。産業革命とそれに伴う技術革新や制度の整備といった近代化は世界を大きく変えていきます。汽車と汽船の普及によって、交通網と交易秩序は激変し、本書はここに、ユーラシア東部の交易圏も組み込んだ、世界の真の一体化を見ています。
本書の中心的視点となる交易は、目的に基づいて利潤追求型と身分動機型(威信財の獲得など)と環境保全型(交易による持続可能な社会への貢献)、高位に基づいて略奪と互酬と貢納に、担い手に基づいて当事者同士の交換と商人の介在する通商と不特定多数の財のやり取りである市場に、規模に基づいて隣接した地域間の「小さな交易」と遠隔地間の「大きな交易」と(大・小の交易の組み合わせでは、小さな交易の長い連鎖となる「リレー型」と貿易商人の長距離交易となる「マラソン型」があります)、当事者間の関係に基づいて、搾取のような「片務的交易」と二者間の「総務的交易」と三者以上の「多角的交易」に分類されています。金や銀や鉄や銅などの金属、コムギやコメやジャガイモなどの食料、塩などの調味料、茶やコーヒーなどの嗜好品、麝香などの香料、陶磁器などの工芸品、近代以降の工業製品など、世界で広く取引された物産は「世界商品」とされます。本書は、生態系からユーラシアでは西部よりも東部の方で植物の多様性が高いことから、ユーラシア東西間において、交易でのモノの流れは圧倒的に東高西低で、宗教などの「イミ」の交換は西高東低だった、と指摘します。
5万年前頃以降となる現生人類のユーラシア全域への拡散後、いわゆる先史時代にユーラシアの東西を結ぶ無色としてまず機能したのは、「草原の路」でした。キビが東方から西方へ、ムギ類が西方から東方へと伝わり、青銅器と鉄器は西方から東方へと伝わりました。本書は、「漢地」における青銅器文化が西方からの影響を受けて始まり、その後に独自の文化へと発展した、と指摘します。青銅器の普及後に、ユーラシア内陸部ではまず狩猟騎馬文化が、その後で遊牧騎馬文化が成立します。ユーラシア東部では遊牧騎馬文化から強大な勢力が形成され、その嚆矢が匈奴です。遊牧騎馬民は東方から西方へと勢力を拡大する傾向があり、それはユーラシアの草原地帯では西部よりも東部の方で食性はより豊かだったことが背景にある、と本書は指摘します。匈奴の衰退は、寒冷化による草原の縮小など、気候変動との関連が指摘されています。
この草原地帯と農耕地帯の中間は、年間降水量が400ml程度の農牧交錯地帯で、農業と遊牧が時期によって替わります。具体的な中心地は、現在の山西省の大同などです。農牧交錯地帯では、異なる経済活動の集団間の対立や衝突とともに、友好な経済的相互依存関係も見られました。モンスーン陸域アジアは、「漢地」では秦嶺山脈・淮河線より南方に広がっており、稲作の起源地です。稲作は黄河流域へと拡大し、畑作文化との複合が進行しました。長江流域からは、インドシナ半島などさらに南方にも稲作は広がりました。ユーラシア東部では、とくに農耕開始以降、生態系の違いに基づく異なる産物の交換によって、さらに交易が盛んになります。本書は、秦が勢力拡大によってこうした交易網を掌握および再編成し、モンスーン陸域アジアを経済的に組み込もうとしたのではないか、と指摘します。モンスーン海域アジアでも、インド洋において冬と夏で逆方向に吹くモンスーンによって交易が盛んになり、東シナ海からペルシア湾と紅海までつながり、さらに陸路を経て地中海と接続します。本書はこのモンスーン海域アジアの交易において、アレクサンドロス大王の遠征や『エリュトゥラー海案内記』が重要な転機となったことを指摘します。
こうしてユーラシア東部内のみならずユーラシア西部まで交易路が広がり、4~8世紀には広域交易圏が形成されます。6~7世紀のユーラシア東部の内陸交易路では、草原の路よりもオアシス都市を結ぶシルクロード(絹の道)の方が盛んだったようです。草原の路と比較して絹の道では、中継地となる都市が多く、都市間の物産の交易も盛んだったことが一因ではないか、と本書は推測します。この広域交易圏において、日本はモンスーンアジアの遠隔地交易の終着地で、さまざまな文化の吹き溜まりと位置づけられています。
ユーラシア東部の交易圏は、9〜12世紀に一体化していきます。北部の乾燥地帯では、宋から北方へと納められた銀が、「漢地」の絹などとの交易で宋に還流し、南方のモンスーン海域では、農業に基盤を置く勢力が海洋交易にも深く関わるようになります。このユーラシア東部南方の海洋交易には、インドの商人が深く関わっていましたが、8世紀頃以降、ペルシアやアラビアの商人が現れます。10世紀半ばには大型外洋船のジャンク船がモンスーン海域アジアに出現し、交易はさらに盛んになり、日本もこの交易圏に参入します。9〜12世紀にかけてユーラシア東部では、宋を媒介に南北の交易圏が一体化していったようです。この状況で出現したのがモンゴル帝国で、政治的統合のみならず、経済的一体化も企図していた、と本書は推測します。モンゴル帝国の勢力圏とその周辺地域で成立した広大な通商圏は、14世紀の寒冷化と疫病などによるモンゴル帝国の衰退、さらには銀の流通停滞によって、とくに北方の陸上経路が打撃を受けます。一方で、南方のモンスーン海域における交易への打撃は相対的に小さく、明王朝成立直後の混乱もありましたが、鄭和の航海などを経て、さらに発展していきます。このモンスーン海域交易圏に、15世紀末以降、ポルトガルなどヨーロッパ勢力が参入します。
16世紀後半にはスペインが太平洋往復航路を開拓し、近代以降と比較する著しく貧弱とはいえ、ここで世界は一体化した、とも言えそうです。モンスーン海域交易圏には、オランダやイギリスも参入し、産業革命以降、ユーラシアの東西間の力関係は大きく変わりますが、本書はその前提として、ヨーロッパにおける主権国家理念の成立を重視しています。産業革命とそれに伴う技術革新や制度の整備といった近代化は世界を大きく変えていきます。汽車と汽船の普及によって、交通網と交易秩序は激変し、本書はここに、ユーラシア東部の交易圏も組み込んだ、世界の真の一体化を見ています。
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