池田嘉郎『悪党たちのソ連帝国』

 新潮選書の一冊として、新潮社から2022年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、「悪党」というか歴代の「最高指導者」に焦点を当てたソ連史です。ただ、本書冒頭で「強力な意志によって国家を統治した六名の人物」とあるように、一般的に認識されているソ連の「最高指導者」のうち、レーニンとスターリンとフルシチョフとブレジネフとアンドロポフとゴルバチョフは取り上げられていますが、マレンコフとチェルネンコは、当然言及されているものの、「悪党」の対象外となっています。まあ、マレンコフが一般的にソ連の「最高指導者」の一人として認識されているのかは、微妙かもしれませんが。

 本書は6人の「悪党」の共通点として、ソ連という一つの共同体の守護と発展への強い意識を挙げています。ソ連を機能させるための重要な要素が共産党で、レーニンにとって共産党とは各成員が利己主義を捨てて全体のために活動する、大きな家族のようなものだした。スターリンによってこの対象はソ連住民全体に拡張され、これ以降の指導者は家族共同体としてのソ連を継承し、発展させようとした、との見通しを本書は提示しています。

 本書は、家族的な共同体との認識が、正教会やロシア思想において好んで使われる「サボールノスチ(共同性)」という用語とも重なることを指摘します。初めに個があるのではなく、まずは全体があり、全体と不可分のものとして個がある、というわけです。ソ連の個々の成員は「市民」と呼ばれましたが、フランス革命によって提唱された、個人としての権利を有する「市民」と同一ではなく、それは個としての市民を支えた重要な精度である私的所有権が、ソ連の法文化では冷遇されたからである、と本書は指摘します。ソ連は近代ヨーロッパ社会とは異なる原理に基づいていた、というわけです。


●帝国の創始者レーニン

 レーニンの祖先については多様な民族の存在の可能性が指摘されていますが、レーニンの自意識はあくまでも「大ロシア人」でした。レーニンの人格に強い影響を及ぼしたのは、兄のアレクサンドル(愛称はサーシャ)だったようです。サーシャはナロードニキに共感して革命運動に加わり、皇帝アレクサンドル3世の暗殺計画が発覚して支系となりました。レーニンは傲慢なところのある優秀な学生で、革命的熱情は兄同様でしたが、兄とは異なり、大衆的な社会運動を志向したマルクス主義者となります。

 レーニンは行政流刑明け後に亡命し、ヨーロッパ諸国で第二インターナショナルの指導者と交流しつつ、ロシアでの革命を構想していきます。レーニンは亡命先で哲学論争に熱中し、同志と不倫関係になったこともあったようです。第一次世界大戦の勃発後、第二インターナショナルが崩壊した中で、レーニンはロシアの革命とヨーロッパの社会主義革命は一体と考えるようになり、ヨーロッパで革命が直ちに起きるとは限らないので、革命戦争を提唱し、そこではヨーロッパ諸民族のみならず、アジアの植民地や従属国の決起も想定されました。

 ロマノフ王朝は第一次世界大戦の負担に耐えられず、1917年の2月革命で倒れます。ロシアの敗北を呼びかけていたレーニンにドイツ外務省は以前から注目しており、レーニンはドイツの援助によって帰国し、2月革命で成立した臨時政府の打倒と社会主供犠革命の実現を主張します。レーニンの主張は、臨時政府が単独講和を決断できなかったため、厭戦気分が高まっていた労働者と兵士の間に浸透していき、臨時政府はレーニンたちボリシェヴィキが支持するデモの鎮圧に一旦は成功して、レーニンは地下潜伏を余儀なくされたものの、10月革命とその後の内戦の勝利によって権力を掌握します。

 レーニンは『国家と革命』で国家の破壊を主張しましたが、10月革命後にはロシアの国家指導者として現実と向き合う必要から、国家権力の掌握と整備を進めていきます。対ドイツ交渉でも、レーニンは成立したばかりのソヴィエト権力保持の観点から即時講和を主張し、じっさいにブレスト=リトフスク講和条約によってソヴィエト・ロシアは第一次世界大戦から離脱しました。本書はペトログラードからモスクワへの首都移転も、レーニンの国家権力保持志向の文脈に位置づけています。

 ブレスト=リトフスク講和条約後に、民族間や階級間、地方政権と一部住民との間、地方政権間で内戦が激化し、ソヴィエト政権では軍営体制志向が強くなります。レーニンは障害とみなした相手を「階級敵」と定義して鎮圧していき、この点では抑制がなかった、と本書は評価しています。この間、ドイツが第一次世界大戦で敗れて革命によって帝政が倒れ、ソヴィエト政府はブレスト=リトフスク講和条約を破棄しました。内戦は1920年末までにソヴィエト権力の勝利で終わったものの、世界革命についてはとても前途洋々とは言えない状況でした。本書は、内戦で勝利したレーニンが築いた「帝国」の特徴として、国家が人民個人を包含し、自律的な「社会」の余地を理念上持たないことを挙げています。


●帝国の育成者スターリン

 スターリンはレーニンと比較して恵まれない子供時代を送ったようですが、母親の助けで神学校に進み、この頃にはジョージア(グルジア)への郷土愛が強い学生だったようですが、次第に神学への懐疑が強くなり、1898年頃にはマルクス主義者になっていました。スターリンは神学校を去り、気象台に努めますが、逮捕された後に地下に潜伏し、職業革命家としての道を歩み始めます。この頃のスターリンは、その専横的な態度が仲間に嫌われたこともあったようです。郷土愛が強く、ジョージアの党組織が全国組織から分離して活動することを支持していたスターリンですが、1904年秋頃までにロシア帝国全土を対象とした革命家へと転向します。スターリンは1905年にレーニンを初めて見ましたが、あまりにも平凡な外見に失望しています。革命家としてのスターリンは政治宣伝のみならず銀行強盗や身代金目当ての誘拐などに関わり、逮捕もされましたが、おそらくは暗殺にも関与した、と本書は推測します。スターリンは組織能力が高く、レーニンに忠実だったため、1912年にはボリシェヴィキ党の中央委員に選出されました。スターリンは単なる実務家ではなく、民族について不動の属性ではない、と主張し、レーニンが賞賛したこともありました。

 スターリンは1917年の2月革命で釈放となりますが、臨時政府への対応において当初は、打倒を唱えていたレーニンとは異なり、戦争終結に向けて努力する限りとの条件付きで支持していました。この問題でレーニンは支持者を増やしていき、スターリンもレーニン支持へと転向しました。10月革命とブレスト=リトフスク講和条約後に内戦が激化していくと、スターリンは陰謀も駆使して残酷な弾圧を行ない、食料調達にも貢献したことで、レーニンから信頼され続けますが、一方でトロツキーとの対立は深まっていったようです。内戦期間中に、スターリン党中央委員会政治局の構成員に選出され、権力中枢に確たる地位を築きます。1921年になってレーニンの健康状態が悪化すると、堅固な党運営の必要性から書記局が編成され、スターリンが書記長に就任します。スターリンの書記長就任を後押ししたのはレーニンで、書記長という役職がまずあったのではなく、スターリンのために創出されたのであり、制度や役職よりも個々の人間関係がソヴィエト帝国においては大きな意味を持った、と本書は指摘します。1922年にはレーニンの健康がさらに悪化し、1923年3月6日以降は職務能力を喪失していました。この間、諸共和国の統合が問題となり、健康の悪化したレーニンではなくスターリンが中心的役割を担っていました。この時のスターリンの粗暴な態度に驚いたレーニンが、スターリンを警戒するようになって書記長からの解任を訴えた、と長く考えられてきましたが、こうした認識は現在では批判されているようで、レーニンはスターリンを信頼し続けたようです。

 1924年1月21日、レーニンは死去し、その後継者争いは権力闘争とともに理論闘争でもあり、その最大の争点は農業政策というか穀物の確保だった、と本書は指摘します。トロツキーは資本主義諸国との経済関係緊密化と農民への経済的圧力強化を、ブハーリンは農民に譲歩しての漸進的な社会主義化を、スターリンは「一国社会主義論」を主張しました。スターリンはトロツキーと対抗するためにブハーリンと提携しましたが、1927年にイギリスとの関係悪化からの戦争への危機感に起因して穀物調達危機が起き、内戦期と同様に暴力的な穀物調達が基本方針となり、農業集団化が進みました。農業集団化は工業化と一体的に進み、政府は集団農場で穀物を調達し、穀物の輸出で工場建設の資材を購入して、商業も国営化され、市場経済は急速に縮小しました。この過程で、1932~1933年にかけて飢餓が発生し、ウクライナなど広範な地域で500万人以上が死亡しました。

 その後、経済的には一時的に宥和政策も採用されたものの、政治的には1936~1938年頃にかけて大粛清が行なわれ、政界や軍部の要人のみならず、敵対的な国家と内通する危険性を疑われた民族集団も弾圧されました。この大粛清では密告が横行し、私的な動機での通報も多かったようです。これは一般的に大粛清と呼ばれていますが、「粛清」は党員の助命や党員候補の降格を意味し、民間人多数が犠牲になったので、歴史学では「大テロル」と呼ばれることが多いそうです。この「大テロル」によってソ連社会の世代交代が進み、ブレジネフもその恩恵を受けた一人だった、と本書は指摘します。「大テロル」を経て、内部は一元化され、外敵には防備を固める体制が構築されました。スターリン個人の顕彰も進みましたが、本書はこれを、単なる個人崇拝ではなく、スターリンによって体現される新しい社会全般が顕彰されていた、と評価しています。この「スターリン体制」下で、民族性は社会主義的として肯定されることになり、ロシア・ナショナリズムの揺籃になった、と本書は指摘します。


●帝国の攪乱者フルシチョフ

 フルシチョフはウクライナ東部のドネツ炭田(ドンバス)の鉱山労働者だった時期にボリシェヴィキに共感し、労働運動活動家として台頭します。ロシア革命から内戦の激動期にフルシチョフはロシア共産党に入って軍事行動にも従事し、内戦後には党活動家となります。フルシチョフは家庭の事情のため学業を4年間で終えており、自分に教育が足りないことを痛感していました。そのため、民衆の教育水準の引き上げと「文化的な暮らし」の提供に生涯拘ります。本書は、フルシチョフの根底に反権威的傾向があった可能性を指摘します。フルシチョフはカガーノヴィチと第一次世界大戦中に知り合っており、その引き立てで出世していきます。フルシチョフはスターリンにも気に入られ、1930年代半ばにはスターリン家の夕食に定期的に呼ばれるようになりました。「大テロル」期において、フルシチョフはウクライナで弾圧とソヴィエト化を進め、1920年代に進められた「ウクライナ化」を抑制し、知識層は逮捕されたり殺害されたりしました。このウクライナへ第二次世界大戦中に、フルシチョフはスターリンの判断に何度か深刻な疑問を抱き、またスターリンがウクライナに対して冷酷なことに批判的で、それがスターリンの絶対視否定につながったようです。スターリンが加齢によって健康を損なっていくと、その後継の座をめぐって権力闘争が激化します。スターリンは第二次世界大戦から戦後すぐにかけて、フルシチョフがウクライナに融和的なことを不満に思っていたようですが、スターリンの有力な後継者候補だったジダーノフの病死によって、フルシチョフはスターリンから引き立てられることになります。とはいえ、晩年のスターリンはさらに猜疑心が強くなっていたようで、フルシチョフも粛清を警戒していたのでしょう。

 1953年3月5日にスターリンが死亡し、権力闘争の過程でフルシチョフはベリヤの粛清を主導したようで、その後はマレンコフの追い落としを図り、1955年2月にマレンコフは降格となり、フルシチョフが権力の掌握に成功します。フルシチョフは当初、スターリンによる弾圧全般の糾弾には消極的でしたが、調査によってスターリンによる「大テロル」の犠牲者は膨大だったことが明らかになると、フルシチョフは「スターリン批判」に踏み切ります。フルシチョフは、スターリン個人の責任を問い、体制を免責しようと考えましたが、スターリンの「大テロル」は、レーニンが創始し、スターリンが育成したソ連帝国において、極端ではあるものの本質的側面だった、と本書は指摘します。家族共同体としてのソ連の正統性は、党とその指導者による真理の体現に依拠しており、指導者個人の批判は体制の正統性自体を傷つけることになる、と本書は指摘し、ポーランドやハンガリーでの反ソ運動の激化もそうした文脈に位置づけられています。フルシチョフは、スターリン批判によってソ連とヨーロッパ東部のソ連の勢力圏が動揺する中で、1957年6月にモロトフやマレンコフたちの反撃を退けたことで、権力基盤をさらに固めます。

 その後フルシチョフは、意欲的な七か年計画を提唱し、ミサイルが軍事的に大きな意味を有するとの認識に基づいて、兵員を削減していき、経済振興を進めます。アメリカ合衆国の世論は、ミサイルで自国がソ連より劣っている、との認識に傾いており(当時のアイゼンハワー大統領は、偵察機から得た情報で、ソ連の核兵器運搬能力が自国を下回っている、と認識していましたが、ソ連を挑発しないため公表しませんでした)、フルシチョフそれを利用して、アメリカ合衆国との関係改善を試み、さらなる兵員削減を試みます。これには軍人の一部が反発しましたし、中国との関係悪化もフルシチョフにとって懸念要素でした。アイゼンハワーの後にアメリカ合衆国大統領に就任したケネディは、大統領選の期間中にアイゼンハワーからミサイル配備でのソ連に対する自国の優位を知らされ、大統領就任直後にキューバのカストロ政権の転覆を図りますが、失敗に終わります。フルシチョフは、兵員増強ではなく、キューバにミサイルを配備することで、ミサイルでのアメリカ合衆国への劣勢を覆そうとしましたが、アメリカ合衆国に感知され、緊張が高まります。このキューバ危機はフルシチョフの権威を傷つけ、その予測不能な行動に対するソ連指導者の不満とともに、フルシチョフ失脚につながります。カストロが先制核攻撃を訴えたのに対して、アメリカ合衆国との妥協を決断します。


●帝国の大成者ブレジネフ

 上述のように、ブレジネフはスターリンの「大テロル」での世代交代によって台頭していきます。ただ、第二次世界大戦時には、ザカフカース方面軍黒海部隊集団の政治本部長代理となったものの、監査官の評価は芳しくありませんでした。ただ、ブレジネフは1943年にフルシチョフの部下となり、フルシチョフの引き立てによって出世していきます。ブレジネフはソ連軍中央政治部管理部長代理としてベリヤ逮捕にも関わり、1956年には幹部会員候補と中央委員会書記に選ばれ、モスクワに移って重工業や大規模建設や宇宙開発や国防産業を任されます。フルシチョフが1957年6月にモロトフやマレンコフたちの反撃を退けると、ブレジネフは幹部会員に選ばれ、かつての赴任地から自分に近い同僚を呼び寄せ、政治的人脈を築いていきますが、そのうちの一人がチェルネンコでした。ブレジネフは1960年に形式的には国家元首の地位に相当するソ連最高会議幹部会議長に任命され、フルシチョフに次ぐ政治的地位を確立します。この時、最高会議幹部会の官房長に就任したのがチェルネンコでした。

 フルシチョフ体制では、上述のキューバ危機での外交上の失点とともに、性急な農業政策による食糧不足も深刻となり、フルシチョフは解任されます。この時のブレジネフの役割については議論があるようですが、本書はブレジネフが主導的役割を担ったのではないか、と推測しています。フルシチョフの解任後、その政治的地位のうち、第一書記はブレジネフが、首相はコスイギンが継承しました。フルシチョフが経済政策で地方の秩序を混乱させ、それも失脚の一因となったことから、ブレジネフは地方人事の安定を重視し、各地で個人の長期政権を許容しました。これには、ブレジネフは第一書記に就任したとはいえ、当初は人事を独占的に決められなかったので、各地の代表との関係を築こうとの思惑があったようです。ブレジネフが自身や周囲の人間に多くの勲章を与えたのも、人脈構築と政権安定のためでした。

 ただ、ブレジネフは政権掌握後の当初の3年間は謙虚だったものの、次第に権威に拘るようになり、書記長という名称を復活させ、幹部層の出張も事前許可制へと変えます。ブレジネフは、自身に異議を唱えたり、邪魔になったりした人物を、左遷していきます。さらにブレジネフは、コスイギンの首相(閣僚会議議長)の地位も狙い、それにポドゴルヌイがフルシチョフの事例を持ち出して反対すると、ポドゴルヌイの最高会議幹部会議長の地位を狙い、ポドゴルヌイを辞任に追い込みます。ブレジネフは、スターリンの粛清やフルシチョフの露骨な降格ではなく、実質的な左遷によって政敵を無力化し、ある意味で「温和な」最高権力者と言えるかもしれません。スターリン批判にしても、ブレジネフは停止が必要とは認めましたが、ことさらにスターリンの名誉回復を喧伝しませんでした。ブレジネフは政務にもさほど熱心ではなかったようで、重要会議や儀式のない日には、10時に起床し、12時から14時まで資料の報告を聞く以外は、食事や喫茶や昼寝や狩猟や映画鑑賞に時間を費やしていたようです。

 ブレジネフ体制では、コスイギン首相による経済改革が進められたものの、硬直した中央集権的な官僚制度と経済計画によって、経済は停滞していきます。しかし、政治的にも経済的にも比較的安定した状況が続き、フルシチョフ政権の方針を継承して福利厚生には力が入れられた結果、ソ連の人々は安定して穏やかな生活を享受できるようになりました。この状況は、「発達した社会主義」と基底され、それなりの実感があった、と本書は指摘します。文化的にも、当然西側諸国と比較して自由度はずっと低かったものの、良質の作品が提供されました。ロシア・ナショナリズムについては、強く打ち出さなかったフルシチョフ政権に対して、ブレジネフ政権は提携を強めていきます。本書はその背景として、農村から都市に出てきた人々の心性に配慮することによって、スターリン批判の継承者である改革派知識人を孤立させるとともに、ロシア・ナショナリズム的な立場の人々を反体制派に追いやらない目的があった、と指摘します。

 外交面では、ブレジネフ政権はアメリカ合衆国と相互の勢力圏を認め合い、「緊張緩和(デタント)」を推進しました。この点でブレジネフ政権はフルシチョフ政権を継承していますが、フルシチョフがアメリカ合衆国に対するミサイルでの劣勢を一気に覆そうとして、キューバ危機を惹起し、それが失脚につながったのに対して、ブレジネフはアメリカ合衆国に対する軍事的劣勢を、軍事費増加によって堅実に挽回しようとして、軍事的均衡を実現し、ソ連とアメリカ合衆国は互いを超大国として認め合って、安定的な関係が構築されます。ブレジネフのデタント志向は、経済面の不振を貿易で解消する意図とともに、中国との関係悪化のためでもありました。1970年代には原油と金の国際価格が高騰し、ソ連と西側諸国の貿易額は大きく増加しました。ただ、デタント期にも東西両陣営の拡張競争は続き、1979年にソ連はアフガニスタンへと侵攻します。


●帝国の矯正者アンドロポフ

 フルシチョフの失脚と死去は私が生まれる前のことでしたが、ブレジネフが死去した時点(1982年11月10日)ではすでに小学生で、それなりに政治にも関心を抱いていたため、多少なりとも記憶に残っています。ブレジネフの死後すぐに後継者となったアンドロポフは1984年2月9日に、アンドロポフの後継者となったチェルネンコは1985年3月10日に死去し、わずか2年4ヶ月の間にソ連の最高指導者が3人も死去したことになります。この2年4ヶ月間、私は小学生でしたが、ソ連の最高指導者には老人が多い、との印象を抱いたことが記憶に残っています。弔問外交という言葉を知ったのも、ソ連の最高指導者の相次ぐ死去が契機だったように記憶しています。

 本書はアンドロポフを謎めいた人物と評価しており、社会主義体制に忠実で、反体制派の根絶に努めたものの、柔軟に思考することができ、ソ連の制度に問題が生じていることも理解し、老人支配の一翼を担いつつ、精力的な若手を抜擢していきました。ただ、アンドロポフが書記長だった期間は1年3ヶ月ほどで、ソ連体制の抜本的な再編は構想しておらず、体制の本質はそのままに、機能の改善を目標としていた、と本書は評価しています。そのためにアンドロポフが重視したのは規律の強化で、幹部も労働者もそれぞれの責任を自覚して職務に臨めば社会主義の活性化につながる、というわけです。そのため本書は、アンドロポフを「帝国の矯正者」と評価しています。

 アンドロポフの出自には不明な点もあり、生誕地が確定しておらず、民族も明確とは言えないようです。それは、アンドロポフの父親の出自がよく分からないからで、生年も民族も不明なようです。アンドロポフは4歳で父親を失い、母親の再婚相手との折り合いもよくなかったのか家出をしたこともあり、15歳で母親も失います。その翌年(1930年)、アンドロポフは電信局の労働者、続いてヴォルガ河汽船会社の水夫となり、同時に河川交通専門学校で教育を受けます。アンドロポフは優秀だったようで、コムソモール(共産主義青年同盟)で出世していきますが、これはブレジネフと同様に、スターリンによる「大テロル」での世代交代のためでもあったようです。第二次世界大戦中に、アンドロポフは赴任先で知り合った女性と不倫関係になり、妻とは離婚しています。

 第二次世界大戦後の政争を生き延びたアンドロポフは、1953年に外務省に異動となり、参事としてハンガリーに派遣されました。ハンガリー赴任中の1956年に起きたハンガリー動乱は、アンドロポフの政治観に大きな影響を及ぼしたようです。アンドロポフは1957年にモスクワへと戻り、1962年11月には中央委員会書記に選任され、若手の専門家や記者を相談役に登用し、比較的自由に議論させ、そうした人々の中にはペレストロイカ期で大きな役割を果たした者もいました。ただ、ハンガリー動乱の影響からか、「社会主義の利益」と「社会主義の土台」を揺るがしてはいけない、との強い信念があったようです。アンドロポフは高等教育を受けたわけではないものの、幹部層では教養のある人物で、読書家だったようです。

 フルシチョフ政権期に、スターリン批判が進む比較的自由な雰囲気の中で、若手にも闊達に議論させていたアンドロポフですが、1964年10月のフルシチョフの失脚にすぐには対応できなかったようです。フルシチョフ失脚直後の革命記念日でのブレジネフ報告の一部の準備を命じられたアンドロポフは、改革的な内容を提出しますが、ブレジネフの報告ではそうした箇所はすべて曖昧にされており、1965年初頭にワルシャワ条約機構の政治諮問会議に向かうソ連代表団への指令の検討のさいに、アンドロポフが提出した文案は、明確な「階級的立場」が不足している、と批判されました。アンドロポフの相談役の中には党中央委員会から去った者もいましたが、アンドロポフはこの新たな状況に適応していきます。

 1967年5月、アンドロポフはブレジネフの推薦によってKGB議長に就任し、政治局員候補となりました。首相のコスイギンは外交に慣れておらず、外交経験の豊富なアンドロポフを疎ましく思い、アンドロポフを中央委員部長、さらには中央委員機構から外すために、政治局員候補に推薦したようです。アンドロポフはKGB議長時代に、東ドイツのマグデブルクのKGB敷地に埋葬されていたヒトラーたちの遺体を掘り返させ、灰を空中に散布させています。これは、ヒトラーの遺体がヒトラー主義者の崇拝の対象になることを警戒したためでした。KGB議長としてのアンドロポフは体制批判には厳しく、「異論派(ディシデント)」と呼ばれた人々を、矯正労働収容所や精神病院に送ったり、国外に追放したりしました。現在のロシアにまで存続する対テロ特殊部隊が組織されたのもこの頃で、一方でKGBは外国のテロ組織に武器や資金を与えていました。

 ブレジネフの健康状態は1974年末までにかなり悪くなり、権力争いが展開します。ただ、アンドロポフは基本的にはブレジネフに忠実で、ブレジネフをじょじょに引退させようと考えていました。アンドロポフはブレジネフに信頼されており、コスイギンからは警戒されていましたが、これは権力基盤が党機構にあるブレジネフと行政機構にあるコスイギンとの対立との側面もありました。ただ、ブレジネフとアンドロポフの関係は単純ではなく、KGB議長としてのアンドロポフがブレジネフ陣営の人々を摘発することもありました。アンドロポフがブレジネフの友人の摘発をブレジネフに知らせたさいに、ブレジネフが反対し、その友人の異動で決着したり、KGBの捜査の対象がブレジネフの娘にも及んだりしたこともありました。アフガニスタンについて、当初アンドロポフは介入に消極的でしたが、西側の介入への警戒から、短期間での作戦終結と撤兵を前提として、派兵に同意します。しかし、アフガニスタンでの戦いは長期化します。

 ブレジネフの死後、アンドロポフは書記長に選出され、生産効率の上昇とそのための科学技術革命推進を基本的課題としました。一方でアンドロポフ政権は規律強化を強調しましたが、党機構を基盤とする幹部たちの権益を損なうようなことは容易ではなく、ブレジネフの後継争いで有力な競合相手だったチェルネンコに配慮せざるを得ませんでした。ただ、アンドロポフはチェルネンコに依存することなく、ブレジネフ政権期後半に進められていた若手幹部の登用によって、自身の立場の強化を図りました。その若手幹部でアンドロポフが最も大事に育てたのは、農政改革に熱心だったゴルバチョフです。アンドロポフはブレジネフと違って政務に精力的に取り組んでいたようですが、長年にわたって腎臓を患っており、この激務のためか、1983年6月までには健康状態が著しく悪化し、同年末までには幹部向けの特別病因から離れなくなりました。


●帝国の破壊者ゴルバチョフ

 ゴルバチョフは、ブレジネフとアンドロポフに近い農政改革に熱心な若手幹部として出世していき、コスイギン首相とは対立的な関係にありました。農業への投資を重視する点で、ブレジネフの見解はゴルバチョフと一致していました。ゴルバチョフはブレジネフに表立って反論することはなかったものの、内心ではソ連の現状に危機感を抱いていたようです。これには、ゴルバチョフがソ連の勢力圏であるヨーロッパ東部のみならず、イタリアやフランスや西ドイツやベルギーといった西側諸国への訪問経験があったことも大きかったようです。

 上述のようにアンドロポフの健康状態が悪化する中で、その後継者争いにおいて、チェルネンコはゴルバチョフにとって有力な競合者でした。しかし、アンドロポフの死後に書記長に選出されたチェルネンコは、反対意見や消極的意見を退けて、ゴルバチョフを書記局の会議の議長とし、ゴルバチョフは党における暫定的な第二位の立場となりました。チェルネンコはブレジネフの側近でしたが、汚職とは無縁の清廉な人物だったようです。ただ、チェルネンコは栄誉好きで、アンドロポフ政権期には控えめになっていた幹部への叙勲が、チェルネンコ政権期には再び増加し始めたようです。チェルネンコ政権期にゴルバチョフはイギリスを訪問し、サッチャー首相との間に信頼関係を築きます。

 チェルネンコはゴルバチョフを抜擢したとも言えますが、両者の関係は親密とはとても言えなかったようです。ただ、健康が悪化したチェルネンコは、死去の直前にはゴルバチョフを後継者と決めていたようです。それでも、ゴルバチョフがチェルネンコの後継になるのか、不透明なところもあり、ゴルバチョフを支持するリガチョフの工作もあって、ゴルバチョフが書記長に選出されました。ゴルバチョフは書記長就任後、自分を消極的とはいえ支持した老齢の幹部にも遠慮せず、世代交代を進めます。ゴルバチョフの政治改革はペレストロイカ(建て直し)と呼ばれ、当時西側でも広く知られており、思春期の私にとっても、グラスノスチ(情報公開)とともに印象深い用語です。ペレストロイカが広く知られる契機となったのは、1985年5月17日のレニングラード訪問時の活動家集会での発言で、1986年2月25日から3月6日にかけての第27回党大会で、ゴルバチョフはペレストロイカを多用しました。1986年4月のチェルノブイリ(チョルノーブィリ)原発事故は、ペレストロイカを後押しすることになりましたが、ペレストロイカが経済管理や党組織運営や言論統制や民族問題など、ソ連帝国の根幹を攻撃の対象としたことに本当の問題があった、と本書は指摘します。

 ゴルバチョフは内政とともに外交でも新機軸を打ち出し、イギリスのサッチャー首相の後押しもあって、アメリカ合衆国のレーガン大統領もゴルバチョフとの本格的な対話に乗り出します。レーガンとゴルバチョフの間には信頼関係が構築され、核兵器の削減やアフガニスタンからのソ連軍の撤兵が実現しました。ゴルバチョフはソ連の「勢力圏」であるヨーロッパ東部の諸国に対しては、ソ連に倣っての改革を示唆しながらも、自立的な国家運営を促し、これはヨーロッパ東部の社会主義諸国にとって、大国の指導者の責任放棄も同様だった、と本書は評価します。ゴルバチョフはヨーロッパ東部の社会主義諸国がソ連の同盟者であり続けると確信していましたが、ヨーロッパ東部社会主義圏の国民にとって、ソ連軍の介入がなければソ連の同盟者であることを選ぶ必要はなく、本書はそこに1989年の「東欧革命」の原因を見ています。

 ペレストロイカはけっきょくのところソ連の消滅につながったわけですが、本書が指摘するように、ペレストロイカがソ連帝国の根幹を攻撃の対象としてしまったことに、根本的な原因があったように思います。ゴルバチョフがソ連の解体を企図していたわけではなかったのは明らかですが、ゴルバチョフが「上手く」政権を運営すればソ連の消滅は避けられたのか、それとも遅れただけなのか、遅れた場合は、史実よりもソ連周辺地域を中心に世界への悪影響は大きかったのかなど、色々と考えてしまいますが、平凡な門外漢の一人である私には、難しすぎる問題です。本書を読むと、ソ連邦を構成する共和国としてのロシアの台頭がソ連の崩壊を決定づけたようにも思いますが、ゴルバチョフ政権にそれを回避できるだけの対策が可能だったのかとなると、難しかったようにも思います。

 本書は現代のロシアも視野に入れており、ロシアの現在のプーチン大統領は「帝国の再建者」と位置づけられています。プーチン政権ではロシア・ナショナリズムが前面に出されていますが、これがソ連、とくにブレジネフ政権の遺産だったことを本書は指摘します。プーチン政権では、中央と地方の有力者が利権を介して結びつき、ロシア・ナショナリズムを媒介に広範な国民が包括されます。この現在のロシアの新たな「家族共同体」は、かつてのロシア帝国やソ連全域には及ばないものの、ロシア人やロシア語話者が集中的に暮らす地域には、少なくとも潜在的には及ぶことになり、2014年のクリミア半島侵攻から、2022年に始まって現在まで続くロシアによるウクライナへの侵略までも、本書ではそうした文脈で解されています。

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