大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』全体的な感想

 これまで大河ドラマの予想で蔦屋重三郎を主人公候補として何度か挙げたことがあり、これは客観的な予想というよりも多分に願望だったため、2025年の大河ドラマが蔦屋重三郎を主人公とする『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』だと発表された時には本当に嬉しく、近年の大河ドラマの放送開始前の期待値では最高で、じっさいに放送が始まってからもひじょうに楽しんで視聴を続けてきました。本作は、前半が吉原、後半が日本橋を中心とする江戸市中と、幕閣というか大奥も含めて幕府上層部の二元構成となっており、もちろん蔦屋重三郎が主人公ですから、江戸市中が中心に描かれていますが、重三郎が幕府から処分を受けたことからも、そこへと至る過程、とくに寛政の改革の背景について、田沼意次と松平定信(田安賢丸)など幕閣を描く必要があり、この二元構成は上手く機能していたように思います。

 本作前半において江戸市中と幕閣とをつないでいたのが平賀源内で、源内は前半で退場したものの、主人公の重三郎にとって導き手のような存在だったので、退場後もたびたび作中で言及されていましたが、終盤に重三郎が東洲斎写楽を売り出すところにも深く関わってくるとは、まったく予想していませんでした。源内の退場後、重三郎が田沼意次失脚後の幕府から処分を受けるに至る過程の間に、幕閣と重三郎というか江戸市中とを結びつけていたのは田沼意知で、多分に創作が入っていたのでしょうが、こうしたところも上手く構成されていたように思います。

 本作の巧みな構成は人物関係の描写でも見られ、とくに、前半では重三郎と瀬以(花の井、五代目瀬川)、後半では重三郎と喜多川歌麿(唐丸、捨吉、勇助)の関係は丁寧に描かれていたように思います。幕府上層などで重三郎以外の人間関係の機微も描かれ、本作には群像劇的性格もあり、大奥や幕閣など重三郎が直接的には関われない人間模様も魅力的だったとはいえ、重三郎が中心の構成であることは序盤から終盤まで変わらなかったように思います。その意味で、群像劇的性格もあったとはいえ、本作に対して散漫な印象はありません。

 歌麿の配役発表は早かったので、歌麿が本作の「文化人枠」において最も重要な人物になりそうと放送開始前から予想していましたが、そこに歌麿から重三郎への性愛的な感情も込められることは、まったく予想していませんでした。重三郎と歌麿の関係には、付き合いが深くて長い相手への配慮のなさに起因する関係の悪化など、普遍的な人間関係が描かれており、全体的に、重三郎を中心に人間関係の機微がよく描かれていたように思います。

 本作で脇役的立場だったとはいえ、幕府上層の人間模様において、序盤から終盤までずっと重要人物として登場していたのが一橋治済でした。一橋治済は、終盤まで決定的な場面が描かれたわけではないものの、田安治察や徳川家基や松平武元や徳川家治や平賀源内の死に関わったことが作中で強く示唆され、視聴者に強い反感や嫌悪感を抱かせるような人物造形になっており、最終回まで登場するだろうし、天寿を全うしたと思われる一橋治済を作中において最後にどう落着させるのか、途中から気になっていました。

 本作終盤では、一橋治済によって、身近な人を死に追いやられたり、自身が失脚したりした人々が結集し、一橋治済への復讐を企てる話が中心になりました。その敵討ちの手段が「東洲斎写楽」で、重三郎と親しい人々が知恵を出し合い、平賀源内を示唆させる絵師として、写楽という名義で役者絵を売り出すことで、一橋治済を誘い出し、「天誅」を下そうとしたわけです。写楽の絵を描いたのは歌麿を中心に重三郎の周辺の人々でしたが、東洲斎写楽という名前や役者絵を題材としたことや売り出し方などは、一橋治済への復讐に加わった、重三郎と松平定信も含めて「同志」による議論で決まったわけで、多数提示されてきた東洲斎写楽の「正体」探しでは、「工房」説に近いと言えるでしょうか。

 本作序盤から「悪人」として描かれてきた一橋治済への復讐というか「天誅」として、重三郎や重三郎と関わってきた人々が結集し、東洲斎写楽という「企画」を立ち上げる、という構成は、人物造形や人間関係の巧みな描写もあって、長期ドラマとしてよく練られていたように思います。重三郎と歌麿と重三郎の妻である「てい」との関係を絡ませ、家斉が晩年まで先代将軍の徳川家治の実子である徳川家基を弔い続けた、との逸話を踏まえての東洲斎写楽関連の話は、創作として上手いと思ったものです。

 しかし、一橋治済とそっくりの徳島藩お抱えの能役者である斎藤十郎兵衛が、重三郎も加わった松平定信たちによる治済への復讐で、治済が阿波に流されることとなった後に替玉を務める展開は、まったく予想できませんでしたし、蜂須賀家も巻き込むあたりは、さすがに無理がありすぎるとは思います。斎藤十郎兵衛の存在が明かされるまでは本作をたいへん楽しく視聴しており、高く評価していただけに、まるで、体操競技の鉄棒で大技を連発していながら、着地で大失敗をしたような印象です。東洲斎写楽の「正体」として、今ではほぼ通説となっている斎藤十郎兵衛ではなく「工房」説を採用するにしても、一橋治済が失脚どころか将軍実父の地位も失い、阿波への護送中に脱出を試みて落雷によって死亡するという「復讐」成就にしても、もっと上手い「仕掛け」があるのではないか、と期待していました。ただ、一橋治済の話では最後に落胆したものの、全体的にはたいへん楽しめました。

 本作が低視聴率で終わったのは残念でしたが、一つには、18世紀後半は大河ドラマの空白期間(関連記事)で、大河ドラマ視聴者にとって馴染みの薄い時代だったこともあるのでしょう。もっとも、18世紀後半は時代劇においては定番の時代で、『鬼平犯科帳』はまさにこの時代を描いており、本作でも長谷川平蔵宣以は重要人物として登場しています。ただ、田沼時代から寛政の改革にかけての政治劇や出版文化については、いわゆる戦国時代の三傑と比較して馴染みがずっと薄いことは否定できず、放送開始前から懸念していたように、残念ながら低視聴率となってしまいました。しかし、本作を高く評価する視聴者は私も含めて多くいるはずで、大河ドラマ制作できょくたんに視聴率に拘らないよう、NHKには希望しています。

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