平井吉夫編『スターリン・ジョーク』再版

 河出文庫の一冊として、河出書房新社から1990年4月に刊行されました。初版の刊行は1990年3月です。本書の親本は河出書房新社から1983年8月に刊行されました。本書を購入したのは、再販から間もない1990年の夏を迎える前だった、と記憶しています。その前年に「東欧革命」が起きて、十代後半の多感な時期だったこともあり、私も社会主義や「左翼」への(多分に肯定的ではない)関心を高めており、書店で見かけて購入しました。当ブログを始める前に読んでおり、まだ当ブログで取り上げておらず、最近再読した本も、今後は掲載していくつもりです。

 考えてみると、インターネットの普及前には多くの場合、事前に情報を得ずに書店に立ち寄って、面白そうな本や雑誌を購入していました。21世紀には、インターネットで事前に情報を得て、購入する本をほぼ決めてから書店に行くことが多くなり、そもそも近年では本も雑誌もほぼ電子書籍でしか購入していません。本選びに関して昔よりもある面で「効率的」になったことは間違いないでしょうが、それが自分の知見を深めるのに役立っているのか、悩むところもありますし、出版文化を支えるためには、本当は書店で購入する方がよい、との後ろめたさもあります。ただ、怠惰な性分で外出もできるだけ避けたい、と子供の頃から考えきましたし、経済力が劣っているため、本や雑誌の置き場の確保を考えて、今後も基本的には電子書籍を購入していくつもりです。

 本書には文庫版あとがきと共に、親本のあとがきも掲載されていますが、多感な十代後半の頃に読んで強く印象に残ったことが2点あり、一方は、よくできたジョークは普遍的で、状況(背景)を少し変えるだけで通用する、というものです。もう一方は、「抵抗の武器としての笑い」という古典的な風刺論への疑問です。政治ジョークは負け犬の遠吠えで、支配者にとっては統治の風通しをよくするための適当な潤滑油もしくは緩衝器で、人々がジョークを語らなくなった時に、本物の抵抗が始まるのではないか、との指摘です。

 これと関連して、政治風刺ジョークは「庶民の抵抗」である、との認識にも疑問が呈されており、政治ジョークを作るのにはかなりの高度な知的観念操作を必要とするので、「庶民」の抵抗パターンではない、と指摘されています。政治ジョークの語り手は、支配層の一員となるべく高等教育を受けたのに、さまざまな理由で落ちこぼれた人ではないか、というわけです。現代の「対抗エリート」論とも通ずる指摘で興味深く、現代では「エリート」の「過剰生産」にさまざまな社会的問題の一因が求められるわけで、ヨーロッパ東部の社会主義諸国では、現代のアメリカ合衆国ほど「エリート」の「過剰生産」が大きな影響を及ぼしていた可能性は低そうですが、門外漢ですし、そもそも「対抗エリート」論をよく理解できていないので、的外れなことを言っているかもしれません。以下、面白いと思った本書の短い政治風刺をいくつか引用します。

●食糧切符(P35)
なぜ、わが国においては、食糧供給が困難になると、食糧配給切符がなくなってしまうのか?
紙もなくなるからである。


●プロレタリア国際主義(P107)
ブダペスト。快晴
「見ろ、ラコシが傘をさして歩いているぞ」
「たぶんモスクワは、いま雨なんだろう」


●判決(P108)
一人の労働者が居酒屋で、酔ったいきおいで叫んだ。
「ラコシは馬鹿もんだ!」
ただちに逮捕、裁判。
判決。
禁固三週間─名誉棄損罪
懲役十五年─国家機密漏洩罪


●非スターリン化(P146)
スターリングラードはヴォルゴグラードと改名された。
勲章を胸いっぱいにぶらさげた一人の老将軍が、栄誉の由来を語ってきかせた。
「この勲章はヴォルゴグラードの戦闘で授けられたのじゃ。ヴォルギン自ら、わしの胸につけてくれたもんじゃった」


●非スターリン化(P156~157)
「カダルがフルシチョフから最新式の車をもらった」
「どんな?」
「ハンドルがないんだ」
「どうやって運転するの?」
「リモコン操作さ」


●市民(P206)
解任直後、妻のニーナがフルシチョフに買物をたのんだ。数時間あと、夫は行列に疲れははてて帰ってきた。
「おれが辞めたとたんに、もう、この始末だ」


●マッチ1(P219)
「マッチの生産はどこの管轄だ?」
「文化・技術省」
「どうして?」
「ソ連のマッチに点火するのは、高度な技術を必要とする。そのさい、下品な悪態を抑えるためには、高度な文化を必要とする」


●マッチ21(P219)
パリ国際見本市で火事が起こった。すべてのパビリオンが全焼したが、ソ連館だけは無事だった。
なぜ?
今回の見本市で、ソ連はマッチを出品したからだ。

この記事へのコメント