ユーラシア東部南方の崖に吊るされた棺の被葬者のゲノムデータ
ユーラシア東部南方の崖に吊るされた棺の被葬者のゲノムデータを報告した研究(Zhou et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、おもに中国南西部とタイを対象に、ユーラシア東部南方で見られる埋葬慣行である、崖に吊るされた棺(Hanging Coffin、懸棺)や丸太棺(Log Coffin、木棺)の被葬者のゲノムデータを報告しています。懸棺については、ロロ語(Loloish language)を話す、ハイバ人(Haiba)とも呼ばれるボー人(Bo people)に由来する埋葬慣行との史料があります。
本論文は、現在のボー人の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)のかなりの割合が、懸棺の被葬者に由来し、アジア東部南方の沿岸部新石器時代人口集団との高い遺伝的類似性を示す、と明らかにしました。このアジア東部南方の沿岸部新石器時代人口集団は、タイ・カダイ語族およびオーストロネシア語族話者の主要な祖先と考えられています。さらに、懸棺被葬者からは、1200年以上前にアジア北東部の人類集団との長距離の相互作用があったことも示唆されました。こうした歴史時代の古代ゲノム研究が日本でも進展するよう、期待しています。
以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、WGS(Whole Genome Sequencing、全ゲノム配列決定)、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)、LD(linkage disequilibrium、連鎖不平衡)、o(outlier、外れ値)、MSEA(Mainland Southeast Asia、アジア南東部本土)、ANA(ancient Northeast Asian、アジア北東部古代人)、WLR(West Liao River、西遼河)、QBBR(丘北郡のボー村住民)、CHS(Han Chinese South、中国南部の漢人)、BEB(Bengali in Bangladesh、バングラデシュのベンガル人)です。
以下の時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、C(Copper Age、銅器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、EBA(Early Bronze Age、前期青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、LIA(Late Iron Age、後期鉄器時代)です。
本論文で取り上げられる主要な地域は、福建省の武夷山脈(Wuyi Mountains)、雲南省南東部の文山チワン族ミャオ族自治州(Wenshan Zhuang and Miao Autonomous Prefecture)の丘北郡(Qiubei County)の舎得村(She De village)、雲南省昭通(Zhaotong)市威信(Weixin)県、雲南省百色(Baise)市、チベット高原南東部のニンチ(Nyingchi)県、サルウィン川(Salween River、怒江)、タイ北西部のパーン・マパー(Pang Mapha)高地です。
本論文で取り上げられる主要な人類集団は、ボー人(Bo people)、オンゲ人(Onge)、ジャラワ人(Jarawa)、イー人(Yi)の支族であるバイ・イー人(Bai Yi)、フモン人(Hmong)、ミャオ人(Miao)、ラフ人(Lahu)、シェ人(She)、アミ人(Ami)、フラ人(PhuLa)、ヤクート人(Yakut)、ナシ人(Naxi)、ホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)、百越人(Baiyue)です。本論文で取り上げられる主要な個人は、李靖(Jing Li)、秦の始皇帝(Qin Shi Huang)です。
本論文で取り上げられる主要な文化は、ホアビニアン(Hòabìnhian、ホアビン文化)、石板墓(Slab Grave)文化、ウランズーク(Ulaanzuukh)文化、曇石山(Tanshishan)文化、アラス(Arras)文化、です。本論文で取り上げられる主要な史書は、『雲南略年代記(Brief Chronicles of Yunnan)』、『明史』「劉顕伝」(Biography of Liu Xian” in the History of Ming)、『万暦武功録(Chronicle of Military Campaigns in the Wanli Period)』です。
本論文で取り上げられる中国の主要な遺跡は、雲南省昭通市威信県の13~14世紀頃の豆沙関(Dou-Sha-Guan、略してDSG)遺跡および8~9世紀頃の龍馬(Long Ma、略してLM)遺跡および7~8世紀頃の瓦石(Wa Shi)遺跡と雲南省百色市の紀元前8~紀元前6世紀の花村(Hua Cun)遺跡、雲南省の2500年前頃の海門口(Haimenkou)遺跡、四川省の4500年前頃の高山(Gaoshan)遺跡、広西チワン族自治区(以下、広西と省略)のバロン(Balong)遺跡とバンダ(Banda)遺跡とキンチャン(Qinchang)遺跡と岑遜(Cenxun)遺跡(バロン遺跡とバンダ遺跡とキンチャン遺跡と岑遜遺跡の千年紀半ばの古代人はBaBanQinCen集団と呼ばれます)および高峰(Gaofeng)遺跡と花橋(Huaqiao)遺跡と化図岩(Huatuyan)遺跡(高峰遺跡と花橋遺跡と化図岩遺跡の人類集団はGaoHuaHuaと呼ばれます)およびイヤン(Yiyang)遺跡、陝西省の石峁(Shimao)遺跡です。
本論文で取り上げられる中国以外の主要な遺跡は、タイのボル・クライ(Bor Krai、略してBK)遺跡とタムロット洞窟(Tham Lod Cave)遺跡とラフ・ポト(Lahu Pot、略してLP)、台湾の亮島(Liangdao)遺跡と漢本(Hanben)遺跡、極東沿岸の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave、Chertovy Vorota)遺跡、ネパールのムスタン郡のスイラ(Suila)遺跡とキャング(Kyang)遺跡、ロシアのシャマンカ(Shamanka)遺跡、チベット高原のゾングリ(Zongri)遺跡、メキシコのチチェン・イッツァ(Chichén Itzá)遺跡です。また、本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。
●要約
懸棺は、中国南西部とアジア南東部(たとえば、丸太棺)と太平洋で約3000年間行なわれた埋葬伝統を表しています。歴史的記録はこの埋葬慣行をボー人由来としており、ボー人は、明王朝(1368~1644年)末までに記録された歴史からほぼ消滅した集団です。本論文は、中国の懸棺で発見された古代人11個体のゲノムを、中国南西部の現在のボー人30個体の全ゲノムとともに報告します。タイ北西部の丸太棺遺跡の古代人4個体のゲノムも配列決定されます。本論文の調査結果から、現在のボー人はその祖先系統のかなりの割合が懸棺埋葬伝統を行なっていた人々に由来する、と示唆されます。古代人と現代人の両集団は、タイ・カダイ語族およびオーストロネシア語族話者の祖先である、アジア東部南方の沿岸部新石器時代人口集団との高い遺伝的類似性を示しました。意外なことに、アジア北東部人と黄河農耕民と懸棺共同体の間の、1200年以上前となる長距離の相互作用と文化的包括性の証拠も見つかります。最後に、中国とタイの懸棺(丸太棺)人口集団間の共有されている遺伝的構成要素は、中国南部とアジア南東部にまたがるこの独特な埋葬伝統の背景にある、共通の起源とより広範な遺伝的および文化的交流網を示します。
●研究史
解剖学的現代人(現生人類、Homo sapiens)はアジア東部の南方地域に少なくとも65000~5万年前頃には初めて居住し、ホアビニアン文化複合体と関連する狩猟採集民[1]やオンゲ人およびジャラワ人を含む現生集団など深く分岐した狩猟採集民系統が生まれました。4500~4000年前頃に、アジア東部祖先系統を有しており、オーストロアジア語族祖語およびオーストロネシア語族祖語系統の話者だった可能性が高い、新石器時代農耕人口集団が中国南部から南方へと移動し、稲作と雑穀農耕をアジア南東部の本土および島嶼部にもたらしました[3]。これら大きな人口統計学的および文化的移行は、懸棺習慣の発達を含めて、地域的な埋葬慣行の出現および変容と一致していました。
ヒトの埋葬慣行はヒトの歴史を通じて顕著に変容してきており、広範な文化的および宗教的および生態学的背景を反映しています。先史時代から現在まで、埋葬習慣は文化的独自性や精神的信仰やヒトと環境との間の関係への重要な窓口として機能しています。長江沿いの断崖を飾るボー人の懸棺伝統は顕著な事例です。懸棺埋葬は、死者を収める木棺が、通常は河岸や沿岸や山岳地帯沿いの、断崖や洞窟や岩の割れ目など高い場所に安置される埋葬慣行です。過去30年間、中国における考古学的調査文化遺産保存の取り組みは、雲南省と四川省と重慶と河南省と江西省と浙江省と広西と福建省と台湾の20ヶ所以上の県で数百基の懸棺が記録されてきました。考古学的記録によると、この伝統の最古級の確実に年代測定された証拠は、長江下流の南東部沿岸の近くに位置する福建省の武夷山脈に由来し、放射性炭素年代の範囲は3445±150~3370±80年前です。この慣行はこの地域から中国の他地域へと転がり、さまざまな文化圏にわたって南方および西方へと移動しました。
考古学的データは慣行自体の証拠を提供しますが、懸棺慣行と関連する文化的意味および独自性は、歴史史料および口承伝統にも反映されています。中国南西部の険しい地域に居住する歴史的に知られていない民族集団であるボー人は、この文脈で頻繁に言及されています。その埋葬慣行、とくに懸棺は、長く歴史家と地元社会の想像力を捉えてきました。歴史的な明確さが欠けている場合、神話学によって空白が埋められることはよくあります。これは、ボー人の埋葬慣行の事例で例証されています。重要な問題が残っており、棺はなぜそうした高いところに吊るされ、この慣行にどのような意味があるのか、ということです。李靖大元ウルス期(1279~1368年)の著書『雲南略年代記』で、最古級の解釈の一つを提供しており、「棺を高く置くのはめでたいことです。棺は高いほど、死者にとって幸いです。さらに、棺が速く地面に落ちたものは、より幸運と考えられました」と述べています。ボー人は中国の古代の民族集団で、その起源と言語に関する歴史的文献は限られています。ボー人は明王朝(1368~1644年)まで繁栄していた、と知られていますが、中国の公文書ではほとんど記録されていません。経時的に、ボー人は地域の民間伝承において「空の征服者」や「断崖の息子」などの名前で呼ばれており、飛ぶことさえできた、と記録されており、文化的物語がボー人についてどのように発展したのか、反映しています。
ボー人の記述は歴史的記録ではき限られているものの、雲南省南東部の文山チワン族ミャオ族自治州の丘北郡(北緯23度45分~24度28分、東経103度34分~104度45分)に、小さなボー人共同体が居住し続けています。2003年時点で、ボー人は、、6ヶ所の郷の42ヶ所の村にまたがる、1087世帯と5084個体で構成されています。昭通市(雲南省と四川省の境界地帯)の懸棺遺跡の南側700kmに位置するこの共同体は、地理的孤立に起因する顕著な文化的連続性を維持してきました。1956年には、地元の役所がボー人をイー人民族集団のバイ・イー人支族の一部と分類しました。ボー人は、シナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属するロロ語を話しますが、その方言や衣服や伝統習慣はイー人集団とは大きく異なります。歴史的には、ボー人は近隣集団から「ハイバ人」と時に呼ばれており、険しい地形と限られた社会資本によって特徴づけられる辺鄙なカルストに居住してきており、これが独特な文化的慣行を維持するのに役立ってきた要因です。とくに注目すべきは、「洞窟埋葬」として知られているその独特な埋葬伝統で、伝統的な棺の埋葬とは異なる儀式です。この伝統は、祖先の洞窟内で、身体遺骸ではなく使者の精神的本質を儀式的な安置に関わっており、無形文化遺産の重要な側面になっています。
近年では、いくつかの研究が中国南西部の古代人のDNAを調べてきており[9~11、13、15]、断崖墓と洞窟埋葬[11]に関して注目すべき発見がありました。考古学的遺跡から得られた古代人のゲノム規模データは、後期新石器時代から青銅器時代の農耕民[10]および後期更新世人口集団[9]への重要な知見を明らかにしてきました。具体的には、雲南省と四川省から得られた古代ゲノムデータは、黄河地域から中国南西部への新石器時代雑穀農耕民の人口統計学的拡散を示唆し[10]、同様に、ホアビニアン狩猟採集民の遺伝的影響は広西で9000~6000年前頃までさかのぼり、この地域の歴史時代の人口集団はタイ・カダイ語族およびミャオ・ヤオ語族話者と密接に関連していました[15]。以前には、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアと父系のY染色体)の分析から、丘北郡のボー人は遺伝的に中国の北部の人口集団よりも南部の人口集団の方と近かった、と示唆されました。さらに、中国南部の懸棺とタイ北西部の丸太棺から発見されたヒト遺骸の最近のmtDNA分析は、これらの地域のこうした人口集団間の遺伝的つながりを明らかにし、懸棺習慣はかなりのヒトの移動によって中国南部に広がった、と提案されます。対照的に、アジア南東部における主要な拡散パターンは、過去2000年間にわたって文化的同化を経てきました。しかし、懸棺伝統の人口統計学的および遺伝的歴史と、現在のボー人集団との関係は、依然としてほぼ不明です。古代と現在両方の人口集団のWGSは、その遺伝的つながりに関するより深い科学的理解を提供します。
全体的に、懸棺埋葬習慣は古代の中国南部において最も広範な慣行の一つでした。しかし、この慣行は次第に衰退し、これは歴史資料におけるボー人への言及の広範な減少と一致します。歴史的記録から、明王朝期(1368~1644年)には、ボー人は迫害に直面し、多くの生存者は近隣地域へと避難し、その独自性を変えて、近隣人口集団と融合するに至ったようです(『明史』「劉顕伝」、『万暦武功録』)。これは重要な問題を提起し、現在のボー人は遺伝的および文化的に懸棺伝統を古代に行なっていた人々とどの程度関連しています?古代と現在両方の人口集団のゲノム特性はどのようなものですか?これらの問題を調べるために、2490~660年前頃となる、雲南省と広西の4ヶ所の考古学的遺跡の古代の懸棺被葬者11個体のゲノムが配列決定されました。さらに、中国の雲南省丘北郡の舎得村(北緯24度14分26.43秒、東経103度52分29.29秒)に残っているボー人集団(図1a)の30個体のゲノムのWGSが実行されました。比較をさらに強化するために、タイ北西部のパーン・マパー地域の3ヶ所の丸太棺遺跡から発見された古代人4個体のゲノム配列決定に成功し、これには最近の研究[17]で以前には分析されなかったボル・クライ遺跡の標本1点が含まれます。以下は本論文の図1です。
●この研究における配列決定されたゲノムデータの概要
雲南省と広西とタイ北西部にまたがる12ヶ所の懸棺(丸太棺)遺跡から発見されたヒト31個体の遺骸や、追加の2点の標本(龍馬遺跡のWXLM1とボル・クライ遺跡のBK_737)が検査されました。124万SNPパネルにおいて3万ヶ所未満の個体の除去後に、7ヶ所の考古学的遺跡にまたがる15点の下のマムからゲノム規模データが回収され、そのすべては死後損傷の特徴的パターンを示しました。推定汚染水準と末端損傷パターンに基づいて、4点のゲノムは脱アミノ化したDNA断片のみを用いて分析されました。最終的なデータセットは、124万SNPパネルで個体あたり40280~1202746ヶ所の間のSNPで構成されました。これらのうち、タイ北西部のラフ・ポト遺跡の標本LP_37_397とLP_47_398は1親等の親族関係を示しました。そこで、さらなる分析からLP_37_397が除外され、下流集団遺伝学的調査では古代人14個体のゲノムが保持されました。さらに、以前に報告された丘北郡のボー人32個体の標本について、そのうち30点の標本で高網羅率WGSが実行され、平均配列決定深度37倍に達しました。ボー人の志願者は密接な親族関係を報告しませんでしたが、本論文の分析は9点の標本で最大3親等の親族関係を明らかにし、これらはさらなる分析から除外されました。下流ゲノム調査には、21点の標本が保持されました。
●古代の懸棺人口集団の遺伝的多様性と類似性
懸棺(丸太棺)の古代人14個体は地理的由来に基づいて3集団に分類され、それは雲南省と広西とタイです。本論文の分析から、広西の個体群(以後、懸棺_広西)とタイの個体群(以後、丸太棺_タイ)は各集団内で遺伝的均質性を示したものの、雲南省の個体群(以後、懸棺_雲南)は顕著な相違を示した、と明らかになりました(図1bおよび図2a)。概して、ほぼすべての懸棺個体はアジア東部の典型的な南方人口集団とクラスタ化し(まとまり)ましたが、その地理的場所による下部構造を示しました。雲南省のほとんどの個体(例外はDSM_484とDSM_1067)と広西の2個体は遺伝的に類似しており、沿岸部新石器時代アジア東部南方人およびMSEAの古代の人口集団とまとまります。DSG_4はPCAにおいて他の懸棺個体とは異なりませんでしたが、対でのqpWave分析では他の雲南省の古代の個体とわずかに異なっていました(図2a)。以下は本論文の図2です。
さらに、懸棺_雲南(とくにDSG_4)と懸棺_広西は相互とかなりの浮動を共有しており、相互類似性において上位10人口集団に入りますが、両者は広西と台湾の古代の個体群との高度な浮動共有も示し、広西_イヤン(懸棺_広西とともに百色市地域に位置します、Z = − 3.09)を除いて、−3以下のf₄(ムブティ人、懸棺_雲南;アジア東部古代人、懸棺_広西)のZ得点はない、と分かりました。具体的には、f₄(ムブティ人、アジア東部古代人;懸棺_広西、懸棺_雲南)検定から、2 < Z < 3のf₄(ムブティ人、黄河関連祖先系統;懸棺_広西、懸棺_雲南)統計によって示唆されるように、懸棺_雲南は懸棺_広西よりわずかに多い黄河人口集団と関連する遺伝的祖先系統を有しているかもしれない、と示唆されます。さらに、f₄(ムブティ人、アジア東部古代人;DSG_4、懸棺_雲南)検定でも、f₄(ムブティ人、黄河_LBIA;DSG_4、懸棺_雲南)は2.391のZ得点で、懸棺_雲南はDSG_4よりもごくわずかに多い黄河農耕民関連祖先系統を有している、と示唆されます。すべてのZ得点は、統計的有意について一般的に許容される閾値未満です(| Z | ≤ 3)。さらに、qpWave分析を用いて、懸棺_雲南人口集団と懸棺_広西人口集団との間の遺伝的均質性は、懸棺_広西人口集団と刊行されている広西の洞窟埋葬人口集団との間よりも高い、と実証されました。これらの結果はともに、雲南省と広西の懸棺人口集団間の明らかな遺伝的類似性と、中国の沿岸部新石器時代アジア東部南方人との二番目に近い類似性を示唆しており、これは提案されている懸棺習慣の武夷山起源と一致し、母系の観点からの調査結果を裏づけます。
意外なことに、1200年前頃となる雲南省の瓦石遺跡の2個体(DSM_484とDSM_1067)は、顕著な遺伝的相違を示しました(図1bおよび図2a・c)。DSM_484は黄河上流農耕人口集団およびチベット関連の古代人集団との密接な遺伝的類似性を示しました。DSM_484は中国南西部の以前に報告された古代の個体群ともまとまり、それには高山遺跡(4500年前頃、四川省)や海門口遺跡(2500年前頃、雲南省)の個体が含まれ[10]、DSM_484はそれらの個体とかなりのアレル(対立遺伝子)浮動を共有していました(図1b)。対照的に、DSM_1067はANA人口集団、とくにモンゴル高原の人口集団と遺伝的に一致し、モンゴル高原の人口集団と最大の浮動類似伊勢を共有していました(図1b)。これら2個体【DSM_484とDSM_1067】間の遺伝的分化の程度は、懸棺文化集団の他の構成員と比較すると顕著で(図2a)、懸棺伝統内の複雑な人口構造および長距離人口移動事象の可能性が示唆されます。これらの調査結果は、地域間の接触および懸棺共同体への外来個体の統合に関する伝統興味深い問題を提起します。注目すべきことに、黄河およびチベット関連人口集団とモンゴル高原人口集団とのDSM_484およびDSM_1067の遺伝的類似性は、他の古代および現代の人口集団と顕著に異なっており、異なる祖先起源および千年紀後半における中国南西部への遺伝子流動事象の可能性を示唆しています。
上述の調査結果と一致して、ADMIXTURE分析では、ほとんどの中国の懸棺個体は中国南東部沿岸およびMSEAのタイ・カダイ語族話者人口集団やその関連する古代の個体(たとえば、亮島2号[19]やBaBanQinCen[15]や漢本_台湾[20])と顕著な祖先系統構成要素を共有していた、と明らかになりました。しかし、DSM_484はヒマラヤおよび中国南西部のチベット・ビルマ語派話者や、古代の黄河関連人口集団でおもに見られる顕著な祖先系統構成要素を有していました。DSM_1067はANA関連人口集団(たとえば、悪魔の門_N[21]、北モンゴル_N[20]、ウランズーク_石板墓[22])と同一の支配的な祖先系統構成要素(紫色で示されています)を示しました(図2c)。これらの調査結果は、アジア北東部および中国北部から中国南西部の懸棺共同体へのある程度の遺伝子流動を示唆しており、おそらくは唐王朝(618~907年)におけるより広範な人口統計学的移動と一致します。
qpAdmモデル化を用いて、主要な3懸棺集団(懸棺_雲南、懸棺_広西、丸太棺_タイ)における祖先系統の割合が推定されました。qpAdmモデル化では、これらの人口集団のおもな祖先系統供給源は主要な3遺伝的集団にたどることができ、それは曇石山(中国南東部沿岸の後期新石器時代人口集団)[19]と黄河上流_LN(黄河上流後期新石器時代)[23]とラオス_ホアビニアン(アジア南東部狩猟採集民)[1]である、と明らかになりました(図3a)。この結果から、雲南省と広西の懸棺人口集団(懸棺_雲南、懸棺_広西)はアジア東部沿岸古代人に由来する顕著な祖先系統を有しており(約61~63%)、黄河関連祖先系統からの大きな寄与(約27~30%)とより低い割合のホアビニアン祖先系統(約6~11%)がある、と示唆されました。対照的に、丸太棺_タイ人口集団はより高い割合のホアビニアン祖先系統(20.1%)を示し、局所的にアジア南東部人口集団との相互作用が丸太棺伝統の形成に影響を及ぼした可能性は高い、と示唆されます。さらに、DSM_484は黄河関連遺伝的特性を顕著に示しており(約88.5%)、ホアビニアン関連祖先系統からのわずかな寄与(11.5%)があります。対照的に、DSM_1067はANA人口集団とのより強い遺伝的類似性を示し、とくにモンゴル高原の個体群と類似しています(図3a)。このパターンは、1200年前頃となるアジア北東部および中国北部から懸棺人口集団へのある程度の遺伝的流入を示唆しているかもしれませんが、限られた標本規模と証拠の局所的性質から、そうした影響は、主要な人口統計学的圧力ではなく、散発的だったか、周縁的だった可能性が高い、と示唆されます。これらの結果は、持続的な移住の流入ではなく、人口移動の増加期間における遺伝子流動の個々の事象もしくは限られた規模の移動性を示唆しているかもしれず、おそらくは唐王朝(618~907年)より広範な社会政治的動態と関連しています。以下は本論文の図3です。
地理的にはより南方に位置しますが、タイの丸太棺の3個体は古代の黄河農耕民および漢人集団の方への遺伝的移行を示しており(図1b)、以前に刊行された古代のタイ人口集団(タイ_1700年前[17]とタイ_IA[1])で観察された遺伝的兆候と一致します。これは、丸太棺_タイにおける黄河関連祖先系統の増加との上述の推測を裏づけます(図3a)。最近の報告[17]と一致して、タイ北西部の丸太棺標本は地元のタイ・カダイ語族やオーストロアジア語族やシナ・チベット語族の話者と祖先系統構成要素を共有しており、タイ北西部における複雑な混合動態が示唆されます(図2c)。予測されたように、丸太棺_タイは周辺地域の最近刊行された丸太棺個体群[17]と最も多数の浮動アレル数を共有しており、それに続くのが懸棺_雲南と懸棺_広西で、これらの集団間の遺伝的類似性が示唆されます。しかし、複数のf₄統計から、これらの集団は単純なクレード(単系統群)を形成しない、と示唆され、qpAdmモデル化は祖先系統構成要素における顕著な差異を明らかにし、丸太棺および懸棺関連個体間の遺伝的異質性が浮き彫りになります。これらの結果は、一方向もしくは大規模な移動ではなく、地域的な遺伝的相互作用もしくは共有された祖先系統を反映している可能性が高そうです。重要なことに、f₄統計やqpAdmやADMIXTUREなどの手法は方向性の推測ができないので、黄河流域からタイ北西部への連続的な人口統計学的流入に関する主張を実証できません。興味深いことに、広西の以前に刊行された洞窟埋葬関連個体群(GaoHuaHua)[15]も丸太棺_タイと高水準の浮動アレルを共有しており、これらの地域における埋葬伝統の人口統計学的な歴史的関係の可能性が浮き彫りになります。さらに、丸太棺個体群におけるホアビニアン関連祖先系統の増加は、MSEAで在来のホアビニアン集団と交雑したオーストロアジア語族話者農耕民との最近の混合を反映している可能性が高そうです。
●ボー人の遺伝的特性の特徴
現在のボー人は異なる3遺伝的クラスタ(まとまり)を形成し、大半(18個体)はQBBR20_QBBR21とともにアジア東部南方人口集団とまとまります(図1bおよび図2b)。一貫して、ADMIXTURE分析は、タイ・カダイ語族話者やフモン人やミャオ人やラフ人やシェ人集団を含めて中国南部の民族集団と類似した、ボー人における遺伝的構成要素を明らかにしました。その遺伝的構成はおもにアジア東部南方構成要素(赤色)を反映しており、黄河関連およびチベット・ビルマ語派話者関連祖先系統(青色)の割合はより低くなっています(図2c)。古代のアジア東部人口集団と比較して、ボー人(QBBR28を除きます)は懸棺_雲南と最高水準のアレル浮動を共有しており、それに続くのが漢本_台湾(アミ人民族集団と関連していました)[20]です。さらに、ほぼすべてのf₄(ムブティ人、QBBR;アジア東部古代人、懸棺_雲南)検定ではZ得点が3超で、QBBR集団と懸棺_雲南との間の統計的に優位な遺伝的類似性が示唆されます。広西と台湾とベトナムの古代のいくつかの人口集団は、懸棺_雲南と比較してQBBRと同様のアレルを共有しており(| Z | ≤ 2)、QBBRが同じ地域の現在暮らしている民族集団と最高の浮動アレルを共有している、という状況を反映し、これは共通の祖先系統を示唆している可能性が高そうです。これらの観察から、現在のボー人は雲南省の古代の懸棺の実践者(もしくは関連する沿岸部アジア東部南方古代人)から主要な祖先系統を継承した可能性が高そうである、と論証されます。さらに、いくつかの黄河関連人口集団(石峁_LN、黄河上流_IA、ニンチ_100年前、黄河_LBIA)も、懸棺_雲南と比較してQBBRとかなりのアレル共有を示しており( | Z | ≤ 2)、ボー人のチベット・ビルマ語派話者への帰属を反映し、最近の北方からの遺伝的影響を示唆しています。
意外なことに、現在暮らしている人口集団と比較して、ボー人は、ベトナム北部および中国南部のチベット・ビルマ語派話者であるフラ人およびラフ人民族集団とより多くの浮動アレルを共有しています。フラ人およびラフ人とのボー人の類似性の程度は、他の人口集団との類似性とは大きく異なっており、経時的な局所的である遺伝子流動およびチベット・ビルマ語派話者人口集団との文化的接触の役割が強調されます。さらに、f₄(ムブティ人、アジア東部古代人;QBBR/QBBR20_21、懸棺_雲南)では、古代チベット人や黄河関連農耕民やANA関連人口集団を含めていくつかの有意な差異(Z < − 3)が観察され、他の南方集団(たとえば、タイ・カダイ語族話者やミャオ・ヤオ語族話者)のように、ボー人は最近の北方との遺伝的混合を経た、と示唆されます。ボー人の個体では、QBBR一式はQBBR20_21一式の場合よりも、多くの北方祖先系統を有しており、ロシア_シャマンカ_EBAとネパール_スイラ_後期Cとネパール_キャング_LIAと遼寧_西遼河_MNとゾングリ_5100年前については、f₄(ムブティ人、ANA;QBBR、QBBR20_21)がZ < − 3です。これらの観察とは対照的に、外れ値の1個体QBBR28が特定され、この個体はPCAでは、他のボー人個体とは離れているものの、南方のシナ・チベット語族話者(ラフ人など)とまとまっています(図1b)。QBBR28は黄河関連の古代の人口集団とより高い浮動類似性を示しました。ボー人個体群における北方祖先系統の割合の上昇は、唐王朝期(618~907年)における歴史的な人口統計学的相互作用を反映しているかもしれず、これはこの唐王朝期における移動と混合のより広範なパターンと一致します。
qpAdmモデル化を用いて、ボー人の祖先系統の割合がモデル化され、多様な外群を順次組み込むことによって、代替的な供給源人口集団が検証されました(図3a)。懸棺_雲南と海門口_BA(海門口は、中国南西部の雲南貴州高原で最初期の青銅器時代遺跡のうち1ヶ所です)の祖先系統を組み込んだ、2方向モデルが特定されました。QBBR標本一式は43.4~79.3%の懸棺_雲南関連祖先系統と20.7~56.6%の海門口_BA関連祖先系統の混合としてモデル化できます(図3a)。以前の結果とまとめると、これらの調査結果は、ボー人の主要な祖先系統は中国の懸棺伝統の古代の実践者に由来する可能性が高い、との強い証拠を提供します。これは、数千年にわたる共有された祖先系統を示唆しており、ボー人の埋葬慣行は懸棺埋葬習慣からより新しい魂の洞窟埋葬慣行へと発展したので、ボー人で観察された文化的連続性と一致します。QBBRの部分集合間の海門口_BA祖先系統における差異は、他の古代の南西部人口集団との深い共有された祖先系統と、近隣集団とのより新しい遺伝的および文化的(たとえば、言語)相互作用の両方を反映しているかもしれません。この観察は、ボー人がアジア東部南方人と遺伝的構成要素の大半を共有している(図1bおよび図2c)ものの、中国北部起源と考えられているシナ・チベット語族に属するチベット・ビルマ語派言語[27]を話す、との見解を裏づけます。
ボー人における遺伝的孤立の程度を調べるために、ROHとLDと近親交配係数と人口動態が分析され、それらが他のアジア東部人口集団やアンダマン諸島人などよく記録されている孤立した集団と比較されました。ROHパターンの観点では、QBBR個体群は、ラフ人やヤクート人など、特定のアジア東部人口集団と同様の景観を示しますが、他のアジア東部人と比較して微妙な差異があります。注目すべきことに、QBBR_oと命名された外れ値のボー人4個体が特定され、この4個体はきょくたんに長いROH断片(1000万塩基対超)を示し、近親婚の可能性が示唆されます。これらの外れ値を除外すると、ボー人は他のアジア東部人口集団と同等のLDおよび近親交配パターンを示しました。一貫して、いくつかの他の人口集団(たとえば、CHSとBEB)とイングランドのヨークシャー地域のアラス文化関連個体群と同様に、ボー人集団は中程度の最近の人口減少の証拠を示し、同じことはラフ人やナシ人やホジェン人の集団にも当てはまります。この人口統計学的傾向は、地理的局所化か長い孤立か異なる祖先の起源[29]を反映しているかもしれません。あるいは、分岐した祖先系統間の最近の混合のため、最近の人口統計学的縮小の痕跡に類似しています。要するに、ボー人は遠く離れた山岳地帯に居住しているものの、長期のきょくたんな孤立を示唆するゲノムの特徴を示しません。
●考察
ヒトの歴史を通じて、多様で創造的な埋葬慣行が発展してきており、さまざまな社会の文化的および精神的信念を反映しています。ギザの大ピラミッドやチチェン・イッツァのマヤの墓や秦の始皇帝陵のような記念碑的建造物、もしくはチベットやモンゴルの鳥葬のような対照的儀式はすべて、それらを築いた人々について多くのことを明らかにする文化的指標として機能します。ボー人の懸棺習慣が独特なのは、周辺文化と著しく対照的なことで、周辺文化の多くは伝統的に死者を埋葬しました。ボー人は1本の木から彫り出した木棺に死者を安置し、その後で木棺を空中数十メートルから数百メートルの高さの険しい断崖から吊り下げました。この研究では、古代と現代の比較ゲノミクス調査の観点から、古代の懸棺実践者および中国南西部に現在暮らしているボー人の遺伝的祖先系統と混合特性と人口史が追跡されました。
本論文の調査結果は、この埋葬慣行の遺伝的および文化的および歴史的起源への貴重な知見を提供します。包括的な比較ゲノミクスによって、古代の懸棺実践者と現代のボー人の遺伝的祖先系統と人口史が追跡されました。中国南西部のほとんどの古代の懸棺個体は相互との顕著な遺伝的類似性を示し、その主流の祖先系統は元々、中国南東部沿岸に起源があったかもしれない、と明らかになりました。これらの祖先系統は、現在のタイ・カダイ語族およびオーストロネシア語族話者の後期新石器時代の先祖と関連しています(図2c)。この観察は、最古級の懸棺遺跡の分布地域(3600年前頃)である中国南東部沿岸の武夷山がこの習慣の発祥地だった、との見解を補強します。中国南部からMSEAへの懸棺文化の拡散は、考古学と歴史と遺伝学の証拠の集束によって裏づけられます。通常は洞窟もしくは崖面に置かれる丸太棺を含む同様の木棺埋葬慣行は、中国南部全域(たとえば、福建省や江西省や広西)、および四川省や雲南省やタイ北部やラオスやベトナムで記録されてきており、そのすべての年代は同じ鉄器時代の時間枠(2300~1000年前頃)です。これらの遺跡は共有された建造手法と埋葬伝統を示しており、地域間の文化的連続性もしくは埋葬慣行の拡散が示唆されます。
中国の歴史資料は南方の「百越人」集団の高い場所での埋葬としての埋葬慣行を記録しており、百越人の多くはタイ・カダイ語族言語を話していた可能性が高そうです。頭蓋学的証拠は、タイ・カダイ語族話者集団の懸棺伝統との関連をさらに裏づけます。年輪年代学的および様式的分析は、雲南省の棺とタイ北西部の棺との間の強い類似点を明らかにしており、サルウィン川回廊沿いの伝播経路の可能性が示されています。最近の考古ゲノム学的研究も、タイの丸太棺文化と関連する古代の個体群におけるアジア東部北方祖先系統を特定しており[8、17]、これは中国南部からの人口移動と一致します。この埋葬伝統は、南方へと拡大するシナ・チベット語族話者集団とともに、もしくはそうした集団との相互作用を通じて、拡大下可能性が高そうです[17]。まとめると、これら一連の証拠は、中国南東部沿岸からMSEAへの、懸棺習慣の文化伝播と人口移動のモデルを裏づけます。
中国南部およびタイ北西部の古代の懸棺関連個体群で観察された遺伝的類似性は、この文化的および遺伝的伝統の広範囲を浮き彫りにします。タイ北西部のパーン・マパー高地の丸太棺人口集団に関する最近の包括的な研究では、これら鉄器時代共同体がホアビニアン狩猟採集民と長江農耕民と黄河の関連祖先系統の3方向混合を有しており、タイ北東部の同年代の鉄器時代個体群では黄河関連祖先系統は観察されない、と明らかになりました[17]。これらの調査結果から、パーン・マパー高地は北方から南方への遺伝子流動の重要な回廊として機能し、シナ・チベット語族話者人口集団の拡大と関連していたかもしれない、と示唆されます[17]。
懸棺慣行は歴史的記録では現れなくなったものの、残された遺伝学的痕跡は、現代の国境を越える、共有された起源と文化的連続性説得力のある証拠を提供します。意外なことに、1200年前頃となる、雲南省の瓦石懸棺遺跡から、DSM_1067とDSM_484という古代の外れ値2個体が特定されました。この2個体はモンゴル高原のANAおよび中国北部の黄河農耕民とまとまり、これら2供給源人口集団からの主要な遺伝的祖先系統としてモデル化できます(図3a)。この調査結果はアジア北東部および中国北部から中国南西部の懸棺共同体への少なくとも1200年前頃となる人口拡散の可能性を示唆しており、これは唐王朝(618~907年)の人口統計学的最盛期のことで、唐王朝の強大さと繁栄が契機となったかもしれません。この事象はさらに、中国における懸棺共同体の文化的な包括性を示唆する可能性が高そうです。さらに、これは大元ウルス期(1206~1368年)の12世紀におけるモンゴル帝国による大理王国(雲南省に位置します)の南方の征服とは独立した事象である可能性が高そうです。
この地域における関連する刊行された丸太棺人口集団との最も多い浮動アレル共有[17]に加えて、丸太棺_タイは懸棺_雲南および懸棺_広西と似番目に多く浮動アレルを共有しており、これらの集団間の文化的のみならず遺伝的つながりも示唆されます。それにも関わらず、中国とタイの懸棺(丸太棺)人口集団は一般的に、わずか27.4~33.9%の黄河関連祖先系統と、ごく少ない黄河関連mtDNA系統(14系統のうち1系統)を共有しており、丸太棺_タイにおける母系の大半は在来の先住民系統です。これは、懸棺習慣の伝播には、中国南部からアジア南東部へと伝わる、顕著な男性経由の性別の偏った混合過程が関わっていたことを示唆しています。この現象はこれらの地域におけるオーストロアジア語族の拡大と類似していますが、この2事象間の時間枠は大きく異なっています。本論文は地域内および地域間のヒトの相互作用の複雑な動態に光を当て、その結果は、人口移動や通婚に影響を及ぼす、社会政治的および環境的要因のより深い理解に寄与します。懸棺(丸太棺)のさらに多くの男性の古代標本での父系分析は、この推測を裏づけるかもしれません。
本論文の最も顕著な発見は、懸棺_雲南と最も多くの浮動アレルを共有し、懸棺_雲南から主要な供給源祖先系統を有するとモデル化されることによって、現存するボー人は古代の懸棺実践者から主要な祖先系統を継承した可能性が最も高い、との説得力のある証拠が見つかったことです。興味深いことに、現生ボー人による洞窟埋葬の祖先の棺における銅片の酸化の程度の分析から、これらの銅片は早ければ400年前頃に使用されており、明王朝後期に近い、と推測されました。この時期は、懸棺慣行とボー人への言及の両方が歴史的記録で減少した期間に相当します。さらに、経時的に、ボー人の埋葬慣行は顕著な変化を経ており、過去の懸棺埋葬習慣から現在の魂の洞窟埋葬習慣へと変わりました。
まとめると、本論文の調査結果は、ボー人の懸棺習慣に関する長年の口承と伝承を確証し、そうした口承と伝承は中国において過去数千年間にわたって世代間で伝えられてきました。さらに、本論文の調査結果は、ボー人共同体への明王朝の迫害など歴史的な混乱にも関わらず、ボー人が文化的および遺伝的に持続してきたことを強調します。この遺伝的連続性は、外圧に直面したさいの先住民文化の回復力に貴重な知見を提供します。意外なことに、現代の人口集団と比較して、ボー人は、ボー人の近くで暮らしていないフラ人およびラフ人民族集団との顕著に高度な遺伝的類似性を示し、例外は一般的に話されているロロ語(チベット・ビルマ語派の系統)で、それに関して、これらの人口集団間の複雑な歴史の可能性でこれ以上のことを知ることはできません。
最後に、包括的な比較ゲノム解析によって、アジアの懸棺埋葬習慣と現存するボー人の人口史の全容が提示され、以前には不明だったボー人の起源に光が当てられます。本論文の分子人類学的調査結果を学際的観点と統合することによって、このかつて栄えた独特な埋葬習慣は元々、3000年前頃に中国南東部沿岸の後期新石器時代アジア東部南方人の子孫人口集団によって創出された可能性が高い、と分かります。これらの祖先は、地元およびアジア南東部における現在のタイ・カダイ語族およびオーストロネシア語族話者と密接に関連していました。長江およびその支流域は、この文化習慣およびその実践者の過去千年間にわたる東方から西方への文化と人口の移動に回廊として機能しました。このヒトと文化の伝播過程には、黄河流域やアジア北東部(たとえば、モンゴル高原)起源のより多くの遺伝的構成要素の取り込みが伴っており、その一部は懸棺共同体への人口拡散にさえ関わっていました。この習慣が歴史的記録から消えて約600年後に、ボー人は懸棺習慣の実践者の直接的子孫である、と分かりました。さらに、黄河流域農耕民のさらなる南方への拡大は、この懸棺習慣がアジア南東部へと広がるにつれて、タイ北西部の丸太棺人口集団に大きな影響を及ぼした、と分かりました。この影響はおそらく、在来のホアビン文化の女性と通婚した黄河農耕民と関わっており、これは文化的同化に伴う過程です(図3b)。しかし或いは、懸棺(丸太棺)人口集団におけるホアビニアン人口集団関連祖先系統の存在に関して、中国南部の局所的吸収など、他のあり得る想定を除外できません。これは、中国南部の考古学的遺跡ではひじょうに早期のホアビニアン石器が発見されており、より古い人口集団においてホアビニアン関連祖先系統の証拠があるからです[10、15]。
本論文は、懸棺習慣とボー人の遺伝的および文化的歴史の理解において重要な進展を遂げましたが、武夷山地域やアジア南東部および太平洋の島嶼部の他の関連する遺跡の、最古級の懸棺共同体についての歴史的概略を提示できませんでした。これらの地域からの追加のヒト遺骸および考古学的内容でのさらなる調査は、学際的な科学的観点を組み込むことで将来には、吊るされた木棺埋葬習慣の歴史のより包括的な理解に寄与できるでしょう。
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本論文は、現在のボー人の遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)のかなりの割合が、懸棺の被葬者に由来し、アジア東部南方の沿岸部新石器時代人口集団との高い遺伝的類似性を示す、と明らかにしました。このアジア東部南方の沿岸部新石器時代人口集団は、タイ・カダイ語族およびオーストロネシア語族話者の主要な祖先と考えられています。さらに、懸棺被葬者からは、1200年以上前にアジア北東部の人類集団との長距離の相互作用があったことも示唆されました。こうした歴史時代の古代ゲノム研究が日本でも進展するよう、期待しています。
以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、WGS(Whole Genome Sequencing、全ゲノム配列決定)、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)、LD(linkage disequilibrium、連鎖不平衡)、o(outlier、外れ値)、MSEA(Mainland Southeast Asia、アジア南東部本土)、ANA(ancient Northeast Asian、アジア北東部古代人)、WLR(West Liao River、西遼河)、QBBR(丘北郡のボー村住民)、CHS(Han Chinese South、中国南部の漢人)、BEB(Bengali in Bangladesh、バングラデシュのベンガル人)です。
以下の時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、C(Copper Age、銅器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、EBA(Early Bronze Age、前期青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、LIA(Late Iron Age、後期鉄器時代)です。
本論文で取り上げられる主要な地域は、福建省の武夷山脈(Wuyi Mountains)、雲南省南東部の文山チワン族ミャオ族自治州(Wenshan Zhuang and Miao Autonomous Prefecture)の丘北郡(Qiubei County)の舎得村(She De village)、雲南省昭通(Zhaotong)市威信(Weixin)県、雲南省百色(Baise)市、チベット高原南東部のニンチ(Nyingchi)県、サルウィン川(Salween River、怒江)、タイ北西部のパーン・マパー(Pang Mapha)高地です。
本論文で取り上げられる主要な人類集団は、ボー人(Bo people)、オンゲ人(Onge)、ジャラワ人(Jarawa)、イー人(Yi)の支族であるバイ・イー人(Bai Yi)、フモン人(Hmong)、ミャオ人(Miao)、ラフ人(Lahu)、シェ人(She)、アミ人(Ami)、フラ人(PhuLa)、ヤクート人(Yakut)、ナシ人(Naxi)、ホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)、百越人(Baiyue)です。本論文で取り上げられる主要な個人は、李靖(Jing Li)、秦の始皇帝(Qin Shi Huang)です。
本論文で取り上げられる主要な文化は、ホアビニアン(Hòabìnhian、ホアビン文化)、石板墓(Slab Grave)文化、ウランズーク(Ulaanzuukh)文化、曇石山(Tanshishan)文化、アラス(Arras)文化、です。本論文で取り上げられる主要な史書は、『雲南略年代記(Brief Chronicles of Yunnan)』、『明史』「劉顕伝」(Biography of Liu Xian” in the History of Ming)、『万暦武功録(Chronicle of Military Campaigns in the Wanli Period)』です。
本論文で取り上げられる中国の主要な遺跡は、雲南省昭通市威信県の13~14世紀頃の豆沙関(Dou-Sha-Guan、略してDSG)遺跡および8~9世紀頃の龍馬(Long Ma、略してLM)遺跡および7~8世紀頃の瓦石(Wa Shi)遺跡と雲南省百色市の紀元前8~紀元前6世紀の花村(Hua Cun)遺跡、雲南省の2500年前頃の海門口(Haimenkou)遺跡、四川省の4500年前頃の高山(Gaoshan)遺跡、広西チワン族自治区(以下、広西と省略)のバロン(Balong)遺跡とバンダ(Banda)遺跡とキンチャン(Qinchang)遺跡と岑遜(Cenxun)遺跡(バロン遺跡とバンダ遺跡とキンチャン遺跡と岑遜遺跡の千年紀半ばの古代人はBaBanQinCen集団と呼ばれます)および高峰(Gaofeng)遺跡と花橋(Huaqiao)遺跡と化図岩(Huatuyan)遺跡(高峰遺跡と花橋遺跡と化図岩遺跡の人類集団はGaoHuaHuaと呼ばれます)およびイヤン(Yiyang)遺跡、陝西省の石峁(Shimao)遺跡です。
本論文で取り上げられる中国以外の主要な遺跡は、タイのボル・クライ(Bor Krai、略してBK)遺跡とタムロット洞窟(Tham Lod Cave)遺跡とラフ・ポト(Lahu Pot、略してLP)、台湾の亮島(Liangdao)遺跡と漢本(Hanben)遺跡、極東沿岸の悪魔の門洞窟(Devil’s Gate Cave、Chertovy Vorota)遺跡、ネパールのムスタン郡のスイラ(Suila)遺跡とキャング(Kyang)遺跡、ロシアのシャマンカ(Shamanka)遺跡、チベット高原のゾングリ(Zongri)遺跡、メキシコのチチェン・イッツァ(Chichén Itzá)遺跡です。また、本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。
●要約
懸棺は、中国南西部とアジア南東部(たとえば、丸太棺)と太平洋で約3000年間行なわれた埋葬伝統を表しています。歴史的記録はこの埋葬慣行をボー人由来としており、ボー人は、明王朝(1368~1644年)末までに記録された歴史からほぼ消滅した集団です。本論文は、中国の懸棺で発見された古代人11個体のゲノムを、中国南西部の現在のボー人30個体の全ゲノムとともに報告します。タイ北西部の丸太棺遺跡の古代人4個体のゲノムも配列決定されます。本論文の調査結果から、現在のボー人はその祖先系統のかなりの割合が懸棺埋葬伝統を行なっていた人々に由来する、と示唆されます。古代人と現代人の両集団は、タイ・カダイ語族およびオーストロネシア語族話者の祖先である、アジア東部南方の沿岸部新石器時代人口集団との高い遺伝的類似性を示しました。意外なことに、アジア北東部人と黄河農耕民と懸棺共同体の間の、1200年以上前となる長距離の相互作用と文化的包括性の証拠も見つかります。最後に、中国とタイの懸棺(丸太棺)人口集団間の共有されている遺伝的構成要素は、中国南部とアジア南東部にまたがるこの独特な埋葬伝統の背景にある、共通の起源とより広範な遺伝的および文化的交流網を示します。
●研究史
解剖学的現代人(現生人類、Homo sapiens)はアジア東部の南方地域に少なくとも65000~5万年前頃には初めて居住し、ホアビニアン文化複合体と関連する狩猟採集民[1]やオンゲ人およびジャラワ人を含む現生集団など深く分岐した狩猟採集民系統が生まれました。4500~4000年前頃に、アジア東部祖先系統を有しており、オーストロアジア語族祖語およびオーストロネシア語族祖語系統の話者だった可能性が高い、新石器時代農耕人口集団が中国南部から南方へと移動し、稲作と雑穀農耕をアジア南東部の本土および島嶼部にもたらしました[3]。これら大きな人口統計学的および文化的移行は、懸棺習慣の発達を含めて、地域的な埋葬慣行の出現および変容と一致していました。
ヒトの埋葬慣行はヒトの歴史を通じて顕著に変容してきており、広範な文化的および宗教的および生態学的背景を反映しています。先史時代から現在まで、埋葬習慣は文化的独自性や精神的信仰やヒトと環境との間の関係への重要な窓口として機能しています。長江沿いの断崖を飾るボー人の懸棺伝統は顕著な事例です。懸棺埋葬は、死者を収める木棺が、通常は河岸や沿岸や山岳地帯沿いの、断崖や洞窟や岩の割れ目など高い場所に安置される埋葬慣行です。過去30年間、中国における考古学的調査文化遺産保存の取り組みは、雲南省と四川省と重慶と河南省と江西省と浙江省と広西と福建省と台湾の20ヶ所以上の県で数百基の懸棺が記録されてきました。考古学的記録によると、この伝統の最古級の確実に年代測定された証拠は、長江下流の南東部沿岸の近くに位置する福建省の武夷山脈に由来し、放射性炭素年代の範囲は3445±150~3370±80年前です。この慣行はこの地域から中国の他地域へと転がり、さまざまな文化圏にわたって南方および西方へと移動しました。
考古学的データは慣行自体の証拠を提供しますが、懸棺慣行と関連する文化的意味および独自性は、歴史史料および口承伝統にも反映されています。中国南西部の険しい地域に居住する歴史的に知られていない民族集団であるボー人は、この文脈で頻繁に言及されています。その埋葬慣行、とくに懸棺は、長く歴史家と地元社会の想像力を捉えてきました。歴史的な明確さが欠けている場合、神話学によって空白が埋められることはよくあります。これは、ボー人の埋葬慣行の事例で例証されています。重要な問題が残っており、棺はなぜそうした高いところに吊るされ、この慣行にどのような意味があるのか、ということです。李靖大元ウルス期(1279~1368年)の著書『雲南略年代記』で、最古級の解釈の一つを提供しており、「棺を高く置くのはめでたいことです。棺は高いほど、死者にとって幸いです。さらに、棺が速く地面に落ちたものは、より幸運と考えられました」と述べています。ボー人は中国の古代の民族集団で、その起源と言語に関する歴史的文献は限られています。ボー人は明王朝(1368~1644年)まで繁栄していた、と知られていますが、中国の公文書ではほとんど記録されていません。経時的に、ボー人は地域の民間伝承において「空の征服者」や「断崖の息子」などの名前で呼ばれており、飛ぶことさえできた、と記録されており、文化的物語がボー人についてどのように発展したのか、反映しています。
ボー人の記述は歴史的記録ではき限られているものの、雲南省南東部の文山チワン族ミャオ族自治州の丘北郡(北緯23度45分~24度28分、東経103度34分~104度45分)に、小さなボー人共同体が居住し続けています。2003年時点で、ボー人は、、6ヶ所の郷の42ヶ所の村にまたがる、1087世帯と5084個体で構成されています。昭通市(雲南省と四川省の境界地帯)の懸棺遺跡の南側700kmに位置するこの共同体は、地理的孤立に起因する顕著な文化的連続性を維持してきました。1956年には、地元の役所がボー人をイー人民族集団のバイ・イー人支族の一部と分類しました。ボー人は、シナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派に属するロロ語を話しますが、その方言や衣服や伝統習慣はイー人集団とは大きく異なります。歴史的には、ボー人は近隣集団から「ハイバ人」と時に呼ばれており、険しい地形と限られた社会資本によって特徴づけられる辺鄙なカルストに居住してきており、これが独特な文化的慣行を維持するのに役立ってきた要因です。とくに注目すべきは、「洞窟埋葬」として知られているその独特な埋葬伝統で、伝統的な棺の埋葬とは異なる儀式です。この伝統は、祖先の洞窟内で、身体遺骸ではなく使者の精神的本質を儀式的な安置に関わっており、無形文化遺産の重要な側面になっています。
近年では、いくつかの研究が中国南西部の古代人のDNAを調べてきており[9~11、13、15]、断崖墓と洞窟埋葬[11]に関して注目すべき発見がありました。考古学的遺跡から得られた古代人のゲノム規模データは、後期新石器時代から青銅器時代の農耕民[10]および後期更新世人口集団[9]への重要な知見を明らかにしてきました。具体的には、雲南省と四川省から得られた古代ゲノムデータは、黄河地域から中国南西部への新石器時代雑穀農耕民の人口統計学的拡散を示唆し[10]、同様に、ホアビニアン狩猟採集民の遺伝的影響は広西で9000~6000年前頃までさかのぼり、この地域の歴史時代の人口集団はタイ・カダイ語族およびミャオ・ヤオ語族話者と密接に関連していました[15]。以前には、片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアと父系のY染色体)の分析から、丘北郡のボー人は遺伝的に中国の北部の人口集団よりも南部の人口集団の方と近かった、と示唆されました。さらに、中国南部の懸棺とタイ北西部の丸太棺から発見されたヒト遺骸の最近のmtDNA分析は、これらの地域のこうした人口集団間の遺伝的つながりを明らかにし、懸棺習慣はかなりのヒトの移動によって中国南部に広がった、と提案されます。対照的に、アジア南東部における主要な拡散パターンは、過去2000年間にわたって文化的同化を経てきました。しかし、懸棺伝統の人口統計学的および遺伝的歴史と、現在のボー人集団との関係は、依然としてほぼ不明です。古代と現在両方の人口集団のWGSは、その遺伝的つながりに関するより深い科学的理解を提供します。
全体的に、懸棺埋葬習慣は古代の中国南部において最も広範な慣行の一つでした。しかし、この慣行は次第に衰退し、これは歴史資料におけるボー人への言及の広範な減少と一致します。歴史的記録から、明王朝期(1368~1644年)には、ボー人は迫害に直面し、多くの生存者は近隣地域へと避難し、その独自性を変えて、近隣人口集団と融合するに至ったようです(『明史』「劉顕伝」、『万暦武功録』)。これは重要な問題を提起し、現在のボー人は遺伝的および文化的に懸棺伝統を古代に行なっていた人々とどの程度関連しています?古代と現在両方の人口集団のゲノム特性はどのようなものですか?これらの問題を調べるために、2490~660年前頃となる、雲南省と広西の4ヶ所の考古学的遺跡の古代の懸棺被葬者11個体のゲノムが配列決定されました。さらに、中国の雲南省丘北郡の舎得村(北緯24度14分26.43秒、東経103度52分29.29秒)に残っているボー人集団(図1a)の30個体のゲノムのWGSが実行されました。比較をさらに強化するために、タイ北西部のパーン・マパー地域の3ヶ所の丸太棺遺跡から発見された古代人4個体のゲノム配列決定に成功し、これには最近の研究[17]で以前には分析されなかったボル・クライ遺跡の標本1点が含まれます。以下は本論文の図1です。
●この研究における配列決定されたゲノムデータの概要
雲南省と広西とタイ北西部にまたがる12ヶ所の懸棺(丸太棺)遺跡から発見されたヒト31個体の遺骸や、追加の2点の標本(龍馬遺跡のWXLM1とボル・クライ遺跡のBK_737)が検査されました。124万SNPパネルにおいて3万ヶ所未満の個体の除去後に、7ヶ所の考古学的遺跡にまたがる15点の下のマムからゲノム規模データが回収され、そのすべては死後損傷の特徴的パターンを示しました。推定汚染水準と末端損傷パターンに基づいて、4点のゲノムは脱アミノ化したDNA断片のみを用いて分析されました。最終的なデータセットは、124万SNPパネルで個体あたり40280~1202746ヶ所の間のSNPで構成されました。これらのうち、タイ北西部のラフ・ポト遺跡の標本LP_37_397とLP_47_398は1親等の親族関係を示しました。そこで、さらなる分析からLP_37_397が除外され、下流集団遺伝学的調査では古代人14個体のゲノムが保持されました。さらに、以前に報告された丘北郡のボー人32個体の標本について、そのうち30点の標本で高網羅率WGSが実行され、平均配列決定深度37倍に達しました。ボー人の志願者は密接な親族関係を報告しませんでしたが、本論文の分析は9点の標本で最大3親等の親族関係を明らかにし、これらはさらなる分析から除外されました。下流ゲノム調査には、21点の標本が保持されました。
●古代の懸棺人口集団の遺伝的多様性と類似性
懸棺(丸太棺)の古代人14個体は地理的由来に基づいて3集団に分類され、それは雲南省と広西とタイです。本論文の分析から、広西の個体群(以後、懸棺_広西)とタイの個体群(以後、丸太棺_タイ)は各集団内で遺伝的均質性を示したものの、雲南省の個体群(以後、懸棺_雲南)は顕著な相違を示した、と明らかになりました(図1bおよび図2a)。概して、ほぼすべての懸棺個体はアジア東部の典型的な南方人口集団とクラスタ化し(まとまり)ましたが、その地理的場所による下部構造を示しました。雲南省のほとんどの個体(例外はDSM_484とDSM_1067)と広西の2個体は遺伝的に類似しており、沿岸部新石器時代アジア東部南方人およびMSEAの古代の人口集団とまとまります。DSG_4はPCAにおいて他の懸棺個体とは異なりませんでしたが、対でのqpWave分析では他の雲南省の古代の個体とわずかに異なっていました(図2a)。以下は本論文の図2です。
さらに、懸棺_雲南(とくにDSG_4)と懸棺_広西は相互とかなりの浮動を共有しており、相互類似性において上位10人口集団に入りますが、両者は広西と台湾の古代の個体群との高度な浮動共有も示し、広西_イヤン(懸棺_広西とともに百色市地域に位置します、Z = − 3.09)を除いて、−3以下のf₄(ムブティ人、懸棺_雲南;アジア東部古代人、懸棺_広西)のZ得点はない、と分かりました。具体的には、f₄(ムブティ人、アジア東部古代人;懸棺_広西、懸棺_雲南)検定から、2 < Z < 3のf₄(ムブティ人、黄河関連祖先系統;懸棺_広西、懸棺_雲南)統計によって示唆されるように、懸棺_雲南は懸棺_広西よりわずかに多い黄河人口集団と関連する遺伝的祖先系統を有しているかもしれない、と示唆されます。さらに、f₄(ムブティ人、アジア東部古代人;DSG_4、懸棺_雲南)検定でも、f₄(ムブティ人、黄河_LBIA;DSG_4、懸棺_雲南)は2.391のZ得点で、懸棺_雲南はDSG_4よりもごくわずかに多い黄河農耕民関連祖先系統を有している、と示唆されます。すべてのZ得点は、統計的有意について一般的に許容される閾値未満です(| Z | ≤ 3)。さらに、qpWave分析を用いて、懸棺_雲南人口集団と懸棺_広西人口集団との間の遺伝的均質性は、懸棺_広西人口集団と刊行されている広西の洞窟埋葬人口集団との間よりも高い、と実証されました。これらの結果はともに、雲南省と広西の懸棺人口集団間の明らかな遺伝的類似性と、中国の沿岸部新石器時代アジア東部南方人との二番目に近い類似性を示唆しており、これは提案されている懸棺習慣の武夷山起源と一致し、母系の観点からの調査結果を裏づけます。
意外なことに、1200年前頃となる雲南省の瓦石遺跡の2個体(DSM_484とDSM_1067)は、顕著な遺伝的相違を示しました(図1bおよび図2a・c)。DSM_484は黄河上流農耕人口集団およびチベット関連の古代人集団との密接な遺伝的類似性を示しました。DSM_484は中国南西部の以前に報告された古代の個体群ともまとまり、それには高山遺跡(4500年前頃、四川省)や海門口遺跡(2500年前頃、雲南省)の個体が含まれ[10]、DSM_484はそれらの個体とかなりのアレル(対立遺伝子)浮動を共有していました(図1b)。対照的に、DSM_1067はANA人口集団、とくにモンゴル高原の人口集団と遺伝的に一致し、モンゴル高原の人口集団と最大の浮動類似伊勢を共有していました(図1b)。これら2個体【DSM_484とDSM_1067】間の遺伝的分化の程度は、懸棺文化集団の他の構成員と比較すると顕著で(図2a)、懸棺伝統内の複雑な人口構造および長距離人口移動事象の可能性が示唆されます。これらの調査結果は、地域間の接触および懸棺共同体への外来個体の統合に関する伝統興味深い問題を提起します。注目すべきことに、黄河およびチベット関連人口集団とモンゴル高原人口集団とのDSM_484およびDSM_1067の遺伝的類似性は、他の古代および現代の人口集団と顕著に異なっており、異なる祖先起源および千年紀後半における中国南西部への遺伝子流動事象の可能性を示唆しています。
上述の調査結果と一致して、ADMIXTURE分析では、ほとんどの中国の懸棺個体は中国南東部沿岸およびMSEAのタイ・カダイ語族話者人口集団やその関連する古代の個体(たとえば、亮島2号[19]やBaBanQinCen[15]や漢本_台湾[20])と顕著な祖先系統構成要素を共有していた、と明らかになりました。しかし、DSM_484はヒマラヤおよび中国南西部のチベット・ビルマ語派話者や、古代の黄河関連人口集団でおもに見られる顕著な祖先系統構成要素を有していました。DSM_1067はANA関連人口集団(たとえば、悪魔の門_N[21]、北モンゴル_N[20]、ウランズーク_石板墓[22])と同一の支配的な祖先系統構成要素(紫色で示されています)を示しました(図2c)。これらの調査結果は、アジア北東部および中国北部から中国南西部の懸棺共同体へのある程度の遺伝子流動を示唆しており、おそらくは唐王朝(618~907年)におけるより広範な人口統計学的移動と一致します。
qpAdmモデル化を用いて、主要な3懸棺集団(懸棺_雲南、懸棺_広西、丸太棺_タイ)における祖先系統の割合が推定されました。qpAdmモデル化では、これらの人口集団のおもな祖先系統供給源は主要な3遺伝的集団にたどることができ、それは曇石山(中国南東部沿岸の後期新石器時代人口集団)[19]と黄河上流_LN(黄河上流後期新石器時代)[23]とラオス_ホアビニアン(アジア南東部狩猟採集民)[1]である、と明らかになりました(図3a)。この結果から、雲南省と広西の懸棺人口集団(懸棺_雲南、懸棺_広西)はアジア東部沿岸古代人に由来する顕著な祖先系統を有しており(約61~63%)、黄河関連祖先系統からの大きな寄与(約27~30%)とより低い割合のホアビニアン祖先系統(約6~11%)がある、と示唆されました。対照的に、丸太棺_タイ人口集団はより高い割合のホアビニアン祖先系統(20.1%)を示し、局所的にアジア南東部人口集団との相互作用が丸太棺伝統の形成に影響を及ぼした可能性は高い、と示唆されます。さらに、DSM_484は黄河関連遺伝的特性を顕著に示しており(約88.5%)、ホアビニアン関連祖先系統からのわずかな寄与(11.5%)があります。対照的に、DSM_1067はANA人口集団とのより強い遺伝的類似性を示し、とくにモンゴル高原の個体群と類似しています(図3a)。このパターンは、1200年前頃となるアジア北東部および中国北部から懸棺人口集団へのある程度の遺伝的流入を示唆しているかもしれませんが、限られた標本規模と証拠の局所的性質から、そうした影響は、主要な人口統計学的圧力ではなく、散発的だったか、周縁的だった可能性が高い、と示唆されます。これらの結果は、持続的な移住の流入ではなく、人口移動の増加期間における遺伝子流動の個々の事象もしくは限られた規模の移動性を示唆しているかもしれず、おそらくは唐王朝(618~907年)より広範な社会政治的動態と関連しています。以下は本論文の図3です。
地理的にはより南方に位置しますが、タイの丸太棺の3個体は古代の黄河農耕民および漢人集団の方への遺伝的移行を示しており(図1b)、以前に刊行された古代のタイ人口集団(タイ_1700年前[17]とタイ_IA[1])で観察された遺伝的兆候と一致します。これは、丸太棺_タイにおける黄河関連祖先系統の増加との上述の推測を裏づけます(図3a)。最近の報告[17]と一致して、タイ北西部の丸太棺標本は地元のタイ・カダイ語族やオーストロアジア語族やシナ・チベット語族の話者と祖先系統構成要素を共有しており、タイ北西部における複雑な混合動態が示唆されます(図2c)。予測されたように、丸太棺_タイは周辺地域の最近刊行された丸太棺個体群[17]と最も多数の浮動アレル数を共有しており、それに続くのが懸棺_雲南と懸棺_広西で、これらの集団間の遺伝的類似性が示唆されます。しかし、複数のf₄統計から、これらの集団は単純なクレード(単系統群)を形成しない、と示唆され、qpAdmモデル化は祖先系統構成要素における顕著な差異を明らかにし、丸太棺および懸棺関連個体間の遺伝的異質性が浮き彫りになります。これらの結果は、一方向もしくは大規模な移動ではなく、地域的な遺伝的相互作用もしくは共有された祖先系統を反映している可能性が高そうです。重要なことに、f₄統計やqpAdmやADMIXTUREなどの手法は方向性の推測ができないので、黄河流域からタイ北西部への連続的な人口統計学的流入に関する主張を実証できません。興味深いことに、広西の以前に刊行された洞窟埋葬関連個体群(GaoHuaHua)[15]も丸太棺_タイと高水準の浮動アレルを共有しており、これらの地域における埋葬伝統の人口統計学的な歴史的関係の可能性が浮き彫りになります。さらに、丸太棺個体群におけるホアビニアン関連祖先系統の増加は、MSEAで在来のホアビニアン集団と交雑したオーストロアジア語族話者農耕民との最近の混合を反映している可能性が高そうです。
●ボー人の遺伝的特性の特徴
現在のボー人は異なる3遺伝的クラスタ(まとまり)を形成し、大半(18個体)はQBBR20_QBBR21とともにアジア東部南方人口集団とまとまります(図1bおよび図2b)。一貫して、ADMIXTURE分析は、タイ・カダイ語族話者やフモン人やミャオ人やラフ人やシェ人集団を含めて中国南部の民族集団と類似した、ボー人における遺伝的構成要素を明らかにしました。その遺伝的構成はおもにアジア東部南方構成要素(赤色)を反映しており、黄河関連およびチベット・ビルマ語派話者関連祖先系統(青色)の割合はより低くなっています(図2c)。古代のアジア東部人口集団と比較して、ボー人(QBBR28を除きます)は懸棺_雲南と最高水準のアレル浮動を共有しており、それに続くのが漢本_台湾(アミ人民族集団と関連していました)[20]です。さらに、ほぼすべてのf₄(ムブティ人、QBBR;アジア東部古代人、懸棺_雲南)検定ではZ得点が3超で、QBBR集団と懸棺_雲南との間の統計的に優位な遺伝的類似性が示唆されます。広西と台湾とベトナムの古代のいくつかの人口集団は、懸棺_雲南と比較してQBBRと同様のアレルを共有しており(| Z | ≤ 2)、QBBRが同じ地域の現在暮らしている民族集団と最高の浮動アレルを共有している、という状況を反映し、これは共通の祖先系統を示唆している可能性が高そうです。これらの観察から、現在のボー人は雲南省の古代の懸棺の実践者(もしくは関連する沿岸部アジア東部南方古代人)から主要な祖先系統を継承した可能性が高そうである、と論証されます。さらに、いくつかの黄河関連人口集団(石峁_LN、黄河上流_IA、ニンチ_100年前、黄河_LBIA)も、懸棺_雲南と比較してQBBRとかなりのアレル共有を示しており( | Z | ≤ 2)、ボー人のチベット・ビルマ語派話者への帰属を反映し、最近の北方からの遺伝的影響を示唆しています。
意外なことに、現在暮らしている人口集団と比較して、ボー人は、ベトナム北部および中国南部のチベット・ビルマ語派話者であるフラ人およびラフ人民族集団とより多くの浮動アレルを共有しています。フラ人およびラフ人とのボー人の類似性の程度は、他の人口集団との類似性とは大きく異なっており、経時的な局所的である遺伝子流動およびチベット・ビルマ語派話者人口集団との文化的接触の役割が強調されます。さらに、f₄(ムブティ人、アジア東部古代人;QBBR/QBBR20_21、懸棺_雲南)では、古代チベット人や黄河関連農耕民やANA関連人口集団を含めていくつかの有意な差異(Z < − 3)が観察され、他の南方集団(たとえば、タイ・カダイ語族話者やミャオ・ヤオ語族話者)のように、ボー人は最近の北方との遺伝的混合を経た、と示唆されます。ボー人の個体では、QBBR一式はQBBR20_21一式の場合よりも、多くの北方祖先系統を有しており、ロシア_シャマンカ_EBAとネパール_スイラ_後期Cとネパール_キャング_LIAと遼寧_西遼河_MNとゾングリ_5100年前については、f₄(ムブティ人、ANA;QBBR、QBBR20_21)がZ < − 3です。これらの観察とは対照的に、外れ値の1個体QBBR28が特定され、この個体はPCAでは、他のボー人個体とは離れているものの、南方のシナ・チベット語族話者(ラフ人など)とまとまっています(図1b)。QBBR28は黄河関連の古代の人口集団とより高い浮動類似性を示しました。ボー人個体群における北方祖先系統の割合の上昇は、唐王朝期(618~907年)における歴史的な人口統計学的相互作用を反映しているかもしれず、これはこの唐王朝期における移動と混合のより広範なパターンと一致します。
qpAdmモデル化を用いて、ボー人の祖先系統の割合がモデル化され、多様な外群を順次組み込むことによって、代替的な供給源人口集団が検証されました(図3a)。懸棺_雲南と海門口_BA(海門口は、中国南西部の雲南貴州高原で最初期の青銅器時代遺跡のうち1ヶ所です)の祖先系統を組み込んだ、2方向モデルが特定されました。QBBR標本一式は43.4~79.3%の懸棺_雲南関連祖先系統と20.7~56.6%の海門口_BA関連祖先系統の混合としてモデル化できます(図3a)。以前の結果とまとめると、これらの調査結果は、ボー人の主要な祖先系統は中国の懸棺伝統の古代の実践者に由来する可能性が高い、との強い証拠を提供します。これは、数千年にわたる共有された祖先系統を示唆しており、ボー人の埋葬慣行は懸棺埋葬習慣からより新しい魂の洞窟埋葬慣行へと発展したので、ボー人で観察された文化的連続性と一致します。QBBRの部分集合間の海門口_BA祖先系統における差異は、他の古代の南西部人口集団との深い共有された祖先系統と、近隣集団とのより新しい遺伝的および文化的(たとえば、言語)相互作用の両方を反映しているかもしれません。この観察は、ボー人がアジア東部南方人と遺伝的構成要素の大半を共有している(図1bおよび図2c)ものの、中国北部起源と考えられているシナ・チベット語族に属するチベット・ビルマ語派言語[27]を話す、との見解を裏づけます。
ボー人における遺伝的孤立の程度を調べるために、ROHとLDと近親交配係数と人口動態が分析され、それらが他のアジア東部人口集団やアンダマン諸島人などよく記録されている孤立した集団と比較されました。ROHパターンの観点では、QBBR個体群は、ラフ人やヤクート人など、特定のアジア東部人口集団と同様の景観を示しますが、他のアジア東部人と比較して微妙な差異があります。注目すべきことに、QBBR_oと命名された外れ値のボー人4個体が特定され、この4個体はきょくたんに長いROH断片(1000万塩基対超)を示し、近親婚の可能性が示唆されます。これらの外れ値を除外すると、ボー人は他のアジア東部人口集団と同等のLDおよび近親交配パターンを示しました。一貫して、いくつかの他の人口集団(たとえば、CHSとBEB)とイングランドのヨークシャー地域のアラス文化関連個体群と同様に、ボー人集団は中程度の最近の人口減少の証拠を示し、同じことはラフ人やナシ人やホジェン人の集団にも当てはまります。この人口統計学的傾向は、地理的局所化か長い孤立か異なる祖先の起源[29]を反映しているかもしれません。あるいは、分岐した祖先系統間の最近の混合のため、最近の人口統計学的縮小の痕跡に類似しています。要するに、ボー人は遠く離れた山岳地帯に居住しているものの、長期のきょくたんな孤立を示唆するゲノムの特徴を示しません。
●考察
ヒトの歴史を通じて、多様で創造的な埋葬慣行が発展してきており、さまざまな社会の文化的および精神的信念を反映しています。ギザの大ピラミッドやチチェン・イッツァのマヤの墓や秦の始皇帝陵のような記念碑的建造物、もしくはチベットやモンゴルの鳥葬のような対照的儀式はすべて、それらを築いた人々について多くのことを明らかにする文化的指標として機能します。ボー人の懸棺習慣が独特なのは、周辺文化と著しく対照的なことで、周辺文化の多くは伝統的に死者を埋葬しました。ボー人は1本の木から彫り出した木棺に死者を安置し、その後で木棺を空中数十メートルから数百メートルの高さの険しい断崖から吊り下げました。この研究では、古代と現代の比較ゲノミクス調査の観点から、古代の懸棺実践者および中国南西部に現在暮らしているボー人の遺伝的祖先系統と混合特性と人口史が追跡されました。
本論文の調査結果は、この埋葬慣行の遺伝的および文化的および歴史的起源への貴重な知見を提供します。包括的な比較ゲノミクスによって、古代の懸棺実践者と現代のボー人の遺伝的祖先系統と人口史が追跡されました。中国南西部のほとんどの古代の懸棺個体は相互との顕著な遺伝的類似性を示し、その主流の祖先系統は元々、中国南東部沿岸に起源があったかもしれない、と明らかになりました。これらの祖先系統は、現在のタイ・カダイ語族およびオーストロネシア語族話者の後期新石器時代の先祖と関連しています(図2c)。この観察は、最古級の懸棺遺跡の分布地域(3600年前頃)である中国南東部沿岸の武夷山がこの習慣の発祥地だった、との見解を補強します。中国南部からMSEAへの懸棺文化の拡散は、考古学と歴史と遺伝学の証拠の集束によって裏づけられます。通常は洞窟もしくは崖面に置かれる丸太棺を含む同様の木棺埋葬慣行は、中国南部全域(たとえば、福建省や江西省や広西)、および四川省や雲南省やタイ北部やラオスやベトナムで記録されてきており、そのすべての年代は同じ鉄器時代の時間枠(2300~1000年前頃)です。これらの遺跡は共有された建造手法と埋葬伝統を示しており、地域間の文化的連続性もしくは埋葬慣行の拡散が示唆されます。
中国の歴史資料は南方の「百越人」集団の高い場所での埋葬としての埋葬慣行を記録しており、百越人の多くはタイ・カダイ語族言語を話していた可能性が高そうです。頭蓋学的証拠は、タイ・カダイ語族話者集団の懸棺伝統との関連をさらに裏づけます。年輪年代学的および様式的分析は、雲南省の棺とタイ北西部の棺との間の強い類似点を明らかにしており、サルウィン川回廊沿いの伝播経路の可能性が示されています。最近の考古ゲノム学的研究も、タイの丸太棺文化と関連する古代の個体群におけるアジア東部北方祖先系統を特定しており[8、17]、これは中国南部からの人口移動と一致します。この埋葬伝統は、南方へと拡大するシナ・チベット語族話者集団とともに、もしくはそうした集団との相互作用を通じて、拡大下可能性が高そうです[17]。まとめると、これら一連の証拠は、中国南東部沿岸からMSEAへの、懸棺習慣の文化伝播と人口移動のモデルを裏づけます。
中国南部およびタイ北西部の古代の懸棺関連個体群で観察された遺伝的類似性は、この文化的および遺伝的伝統の広範囲を浮き彫りにします。タイ北西部のパーン・マパー高地の丸太棺人口集団に関する最近の包括的な研究では、これら鉄器時代共同体がホアビニアン狩猟採集民と長江農耕民と黄河の関連祖先系統の3方向混合を有しており、タイ北東部の同年代の鉄器時代個体群では黄河関連祖先系統は観察されない、と明らかになりました[17]。これらの調査結果から、パーン・マパー高地は北方から南方への遺伝子流動の重要な回廊として機能し、シナ・チベット語族話者人口集団の拡大と関連していたかもしれない、と示唆されます[17]。
懸棺慣行は歴史的記録では現れなくなったものの、残された遺伝学的痕跡は、現代の国境を越える、共有された起源と文化的連続性説得力のある証拠を提供します。意外なことに、1200年前頃となる、雲南省の瓦石懸棺遺跡から、DSM_1067とDSM_484という古代の外れ値2個体が特定されました。この2個体はモンゴル高原のANAおよび中国北部の黄河農耕民とまとまり、これら2供給源人口集団からの主要な遺伝的祖先系統としてモデル化できます(図3a)。この調査結果はアジア北東部および中国北部から中国南西部の懸棺共同体への少なくとも1200年前頃となる人口拡散の可能性を示唆しており、これは唐王朝(618~907年)の人口統計学的最盛期のことで、唐王朝の強大さと繁栄が契機となったかもしれません。この事象はさらに、中国における懸棺共同体の文化的な包括性を示唆する可能性が高そうです。さらに、これは大元ウルス期(1206~1368年)の12世紀におけるモンゴル帝国による大理王国(雲南省に位置します)の南方の征服とは独立した事象である可能性が高そうです。
この地域における関連する刊行された丸太棺人口集団との最も多い浮動アレル共有[17]に加えて、丸太棺_タイは懸棺_雲南および懸棺_広西と似番目に多く浮動アレルを共有しており、これらの集団間の文化的のみならず遺伝的つながりも示唆されます。それにも関わらず、中国とタイの懸棺(丸太棺)人口集団は一般的に、わずか27.4~33.9%の黄河関連祖先系統と、ごく少ない黄河関連mtDNA系統(14系統のうち1系統)を共有しており、丸太棺_タイにおける母系の大半は在来の先住民系統です。これは、懸棺習慣の伝播には、中国南部からアジア南東部へと伝わる、顕著な男性経由の性別の偏った混合過程が関わっていたことを示唆しています。この現象はこれらの地域におけるオーストロアジア語族の拡大と類似していますが、この2事象間の時間枠は大きく異なっています。本論文は地域内および地域間のヒトの相互作用の複雑な動態に光を当て、その結果は、人口移動や通婚に影響を及ぼす、社会政治的および環境的要因のより深い理解に寄与します。懸棺(丸太棺)のさらに多くの男性の古代標本での父系分析は、この推測を裏づけるかもしれません。
本論文の最も顕著な発見は、懸棺_雲南と最も多くの浮動アレルを共有し、懸棺_雲南から主要な供給源祖先系統を有するとモデル化されることによって、現存するボー人は古代の懸棺実践者から主要な祖先系統を継承した可能性が最も高い、との説得力のある証拠が見つかったことです。興味深いことに、現生ボー人による洞窟埋葬の祖先の棺における銅片の酸化の程度の分析から、これらの銅片は早ければ400年前頃に使用されており、明王朝後期に近い、と推測されました。この時期は、懸棺慣行とボー人への言及の両方が歴史的記録で減少した期間に相当します。さらに、経時的に、ボー人の埋葬慣行は顕著な変化を経ており、過去の懸棺埋葬習慣から現在の魂の洞窟埋葬習慣へと変わりました。
まとめると、本論文の調査結果は、ボー人の懸棺習慣に関する長年の口承と伝承を確証し、そうした口承と伝承は中国において過去数千年間にわたって世代間で伝えられてきました。さらに、本論文の調査結果は、ボー人共同体への明王朝の迫害など歴史的な混乱にも関わらず、ボー人が文化的および遺伝的に持続してきたことを強調します。この遺伝的連続性は、外圧に直面したさいの先住民文化の回復力に貴重な知見を提供します。意外なことに、現代の人口集団と比較して、ボー人は、ボー人の近くで暮らしていないフラ人およびラフ人民族集団との顕著に高度な遺伝的類似性を示し、例外は一般的に話されているロロ語(チベット・ビルマ語派の系統)で、それに関して、これらの人口集団間の複雑な歴史の可能性でこれ以上のことを知ることはできません。
最後に、包括的な比較ゲノム解析によって、アジアの懸棺埋葬習慣と現存するボー人の人口史の全容が提示され、以前には不明だったボー人の起源に光が当てられます。本論文の分子人類学的調査結果を学際的観点と統合することによって、このかつて栄えた独特な埋葬習慣は元々、3000年前頃に中国南東部沿岸の後期新石器時代アジア東部南方人の子孫人口集団によって創出された可能性が高い、と分かります。これらの祖先は、地元およびアジア南東部における現在のタイ・カダイ語族およびオーストロネシア語族話者と密接に関連していました。長江およびその支流域は、この文化習慣およびその実践者の過去千年間にわたる東方から西方への文化と人口の移動に回廊として機能しました。このヒトと文化の伝播過程には、黄河流域やアジア北東部(たとえば、モンゴル高原)起源のより多くの遺伝的構成要素の取り込みが伴っており、その一部は懸棺共同体への人口拡散にさえ関わっていました。この習慣が歴史的記録から消えて約600年後に、ボー人は懸棺習慣の実践者の直接的子孫である、と分かりました。さらに、黄河流域農耕民のさらなる南方への拡大は、この懸棺習慣がアジア南東部へと広がるにつれて、タイ北西部の丸太棺人口集団に大きな影響を及ぼした、と分かりました。この影響はおそらく、在来のホアビン文化の女性と通婚した黄河農耕民と関わっており、これは文化的同化に伴う過程です(図3b)。しかし或いは、懸棺(丸太棺)人口集団におけるホアビニアン人口集団関連祖先系統の存在に関して、中国南部の局所的吸収など、他のあり得る想定を除外できません。これは、中国南部の考古学的遺跡ではひじょうに早期のホアビニアン石器が発見されており、より古い人口集団においてホアビニアン関連祖先系統の証拠があるからです[10、15]。
本論文は、懸棺習慣とボー人の遺伝的および文化的歴史の理解において重要な進展を遂げましたが、武夷山地域やアジア南東部および太平洋の島嶼部の他の関連する遺跡の、最古級の懸棺共同体についての歴史的概略を提示できませんでした。これらの地域からの追加のヒト遺骸および考古学的内容でのさらなる調査は、学際的な科学的観点を組み込むことで将来には、吊るされた木棺埋葬習慣の歴史のより包括的な理解に寄与できるでしょう。
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