倭の五王と皇位継承

 いわゆる倭の五王について当ブログでは複数の文献を取り上げてきましたが、おもに皇位(王位)継承との関連で短くまとめておきます。なお、この記事では便宜的に、天皇号が使用されていなかったと思われる時代の君主(大王)にも天皇号を使用します。倭の五王とは、『宋書』に見える讃と珍と済と興と武ですが、『梁書』では、讃ではなく賛、珍ではなく彌とあります。『宋書』では讃と珍が兄弟、興と武の兄弟の父親が済とありますが、珍と済の続柄に関する記載はありません。一方、『梁書』では賛と彌が兄弟で、彌の息子が済とされています。

 『宋書』において珍と済の続柄に関する記載がないことから、5世紀の倭国における王位継承については議論になってきました。大別すると、讃および珍と、済および興および武との間に血縁関係を認めるのか否かで見解が分かれ、さらに、血縁関係を認める場合でも、父系なのか否かで、見解が分かれるように思います。血縁関係を認めない見解では、5世紀の倭国では王位の世襲がまだ確立していなかったというか、特定の血縁に固定されていなかった、と想定されています(田中.,2013、河内.,2018、倉本.,2020、義江.,2021)。

 一方、血縁関係を認める見解では、『宋書』において倭の五王は倭姓の同じ父系一族と把握されており、『宋書』から当時の倭王が二つの氏族・家柄が存在したとは言えない、と指摘されています(吉村.,2019)。また、血縁関係を認める場合でも、『宋書』において珍と済の続柄に関する記載がないことを重視し、『宋書』が「父系社会」の中華世界の認識に基づいている、との認識から、双系社会の日本では珍と済が母方でつながっていた可能性もある、との指摘もあります(遠藤.,2025)。当時は、倭王の地位を継承する特別な血縁集団が形成されていたものの、まだ父系には固定されておらず、父系による世襲が始まったのは継体天皇以降だろう、というわけです。

 これと関連して、済と興と武は『日本書紀』に見える允恭天皇と安康天皇と雄略天皇に否定する見解が有力でしょうが、允恭天皇の兄でその2代前の履中天皇と允恭天皇の間には、和風諡号の違いから大きな変化があった、との見解もあります(森.,2023)。これが当時の政治状況をある程度反映していたのならば、『宋書』において珍と済の続柄に関する記載がないことは、珍と済が同じ一族ではなかったことを表している可能性も考えられます。

 門外漢には、これらのうちどの見解を採るべきか、的確な判断はできませんが、『梁書』において彌の息子が済とされていることからも、5世紀の倭国(日本)おいて王位は特定の父系一族に限られていたか、そうした傾向が定着しつつあったように思います。ただ、『日本書紀』に見える6世紀前半の継体天皇の即位関連記事からは、5世紀の倭国において、王位の世襲はまだ特定の少なくとも父系の血縁に限定されていなかった、とも考えたくなります。

 古代の日本列島は、「父系」原理と「母系」原理のどちらかで一貫していたわけではなく、多分に「双系的」だったことが指摘されています(義江.,2021)。王位の継承は社会において特殊なので、全体の傾向とは異なっても不思議ではありませんが、「双系的」な社会だったことを前提とするならば、『宋書』において続柄に関する記載がない珍と済は母方でつながっていたかもしれない、との見解(遠藤.,2025)は充分検討に値するように思います。

 ただ、『梁書』において、『宋書』の讃と珍に相当すると思われる賛と彌が『宋書』と同様に兄弟とされ、『宋書』では女性の倭王が見えず、全員倭姓の同じ父系一族と把握されていると考えられること(吉村.,2019)から、5世紀の倭王の継承がある程度は特定の父系一族に限られていたか、そうした傾向が定着しつつあった可能性は、高いとまで断定するつもりはありませんが、充分に検証に値するように思います。ただ、継体天皇の事例からは、6世紀初頭において、倭王が特定の限定された父系一族にまだ完全には固定されていなかったことも示唆され、継体天皇の出自も含めて、今後も検証されていくべきでしょう。継体天皇については、広い意味で王族の一員と認識されており、継体天皇の即位は「王朝交代」や「新王朝による征服」のような事態ではなかった、と考えています。

 5世紀はともかく、6世紀以降、とくに欽明天皇以降、皇位(王位)の継承が特定の父系一族に限定されていったことは否定できません。こう言うと、最近ではインターネット上でもよく見られる、飛鳥時代も含めて前近代には、皇位継承は「女系」も容認されていた、といった反論が寄せられそうですが、少なくとも飛鳥時代以降、皇位(王位)継承で「女系」が容認されていたことはない、と私は考えています(関連記事)。

 また、皇位継承が「男系」に限定されていったことや、古代の日本が「双系的」だったことから、社会が「発展」するにつれて、日本でも「女系(母系)社会」から「男系(母系)社会」へと移行し、古代日本の「双系的社会」は両者の移行期を表している、との主張もあるかもしれません。しかし、「父系」と「母系」の比重には社会間で違いが大きいとしても、「双系的社会」は古代日本に限らず現生人類(Homo sapiens)に広く見られる特徴であり(現生人類以外の人類にも見られる特徴だった可能性も否定できませんが)、出生集団から離れても出生集団への帰属意識を持ち続ける「双系的社会」こそ現生人類の基本との認識(関連記事)に基づいて、「双系的社会」は「原始的な母系社会」から「より発展した父系社会」への過渡的な期間を表しているわけではない、と私は考えています。


参考文献:
遠藤みどり(2025)『日本の後宮 天皇と女性たちの古代史』(中央公論新社)
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河内春人(2018)『倭の五王 王位継承と五世紀の東アジア』(中央公論新社)
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倉本一宏(2020)『皇子たちの悲劇 皇位継承の日本古代史』(角川学芸出版)
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田中史生(2013)「倭の五王と列島支配」『岩波講座 日本歴史  第1巻 原始・古代1』P235-270
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森公章(2023)「倭の五王とワカタケル大王」佐藤信編『古代史講義【海外交流篇】』(筑摩書房)
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義江明子(2021) 『女帝の古代王権史』(筑摩書房)
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吉村武彦(2019)『新版 古代天皇の誕生』(KADOKAWA)
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この記事へのコメント

熊笹
2025年11月18日 10:20
 稲荷山古墳から出土した鉄剣の系譜には男性人名のみが記されているため、5世紀後半(古墳時代中期)の時点で男性による地位の継承が理想視されていたと考えます。ただし、実際に父子や兄弟での継承が一般的だったかと言われると疑問です。
管理人
2025年11月18日 20:06
考古学では、古墳時代において次第に男性首長の割合が高くなる、と指摘されており、高句麗との戦いが契機だったのか分かりませんが、支配層では男性の継承へと傾いていく傾向にあったのかもしれません。

また、『宋書』や銘文など古墳時代の(準)同時代の文字記録に見える続柄が、実際の親族関係をどの程度反映しているのか、との問題もあり、これについては、大王を輩出していた一族では今後も難しそうですが、古代ゲノム研究によって解明が進むのではないか、と期待されます。