江蘇省徐州市の西周期人類のゲノムデータ

 江蘇省徐州市で発見された西周期の人類遺骸のゲノムデータを報告した研究(Wang et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、南北の重要な境界地帯に位置する、江蘇省徐州市で発見された西周期の人類遺骸のゲノムデータから、この3個体が、文化的多様性にも関わらず、山東半島や東方沿岸の同時代およびそれ以前の人口集団と顕著に類似した遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を示す一方で、南方集団や中原の農耕人口集団からの混合の追加の兆候はないことを明らかにしています。これは、物質文化の拡大に大規模な人口移動や遺伝的混合が伴わなかった場合もあったことを示しており、遺伝学と考古学を安易に結びつけてはいけないこと(関連記事)が、改めて了解されます。

 以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、YHg(Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ)、AADR(The Allen Ancient DNA Resource、アレン古代DNA情報源)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)、cM(centimorgan、センチモルガン)、、です。

 以下の時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)、LBIA(Late Bronze Age to Iron Age、後期青銅器時代~鉄器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、CD(Chinese dynastic period、中華王朝期)です。本論文で取り上げられる主要な中国の地名は、江蘇省徐州(Xuzhou)市の鳳豪(Fenghao)地域、古代の泗水(Si river、現代の泗河)および汴河(Bian river)、泰山(Mount Tai)の東側の山東半島を指す海岱(Haidai)地域、江淮(Jianghuai)です。本論文で取り上げられる主要な文化は、仰韶(Yangshao)文化、龍山(Longshan)文化、大汶口(Dawenkou)文化、ホアビニアン(Hòabìnhian、ホアビン文化)、ナトゥーフィアン(Natufian、ナトゥーフ文化)です。

 本論文で取り上げられる主要な中国の遺跡は、江蘇省徐州(Xuzhou)市鼓楼区(Gulou Distric)の彭城路(Pengcheng Road)と河清路(Heqing Road)の東側に位置する文廟(Wenmiao)遺跡、雲南省玉渓市通海県興義(Xingyi)村の遺跡、山東省の新智(XinZhi、略してXZ)遺跡と一席(YiXi、略してYX)遺跡と桐林(TongLin、略してTL)遺跡と北阡(BeiQian、略してBQ)遺跡、安徽省の凌家灘(Lingjiatan)遺跡、浙江省の良渚(Liangzhu)遺跡、北京の南西56km にある田園洞窟(Tianyuan Cave)です。本論文で取り上げられる主要な中国以外の遺跡は、【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では内モンゴル自治区とされている】廟子溝(Miaozigou)遺跡、イタリアのヴィッラブルーナ(Villabruna)遺跡、イランのテペ・ガンジュ・ダレー(Tepe Ganj Dareh)遺跡、ロシアのコステンキ・ボルシェヴォ(Kostenki-Borshchevo)遺跡群の一つであるコステンキ14(Kostenki 14)遺跡とシベリア南部西方のウスチイシム(Ust’ Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44000年前頃となる現生人類1個体(ウスチイシム個体)です。

 本論文で取り上げられる主要な人類集団は、中央アメリカ大陸の先住民であるミヘー人(Mixe)、台湾先住民のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)、ウリチ人(Ulchi)、ホジェン人(Hezhen 、漢字表記では赫哲、一般にはNanai)、アンダマン諸島の先住民であるオンゲ人(Onge)、シボ人(Xibo)です。また、本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。


●要約

 中国の南北間の境界地帯は、文化的交流の重要な地域として長く機能してきましたが、この地域における人口集団の遺伝的歴史は依然として充分には明らかになっていません。本論文は、山東省と河南省と安徽省と江蘇省の交差点に位置する、江蘇省徐州市の文廟遺跡で回収された3個体のゲノム規模古代DNAデータを提示します。本論文が把握している限りでは、これはこの重要な地域の最初の【古代】ゲノムデータを表しています。この地域の文化的多様性にも関わらず、文廟遺跡個体群は山東および中国東部沿岸の同時代およびそれ以前の人口集団と顕著な遺伝的類似性を示し、南方集団や中原の農耕人口集団からの混合の追加の兆候はありません。この遺伝的均質性は、文化的収斂の考古学的証拠とは対照的で、徐州への物質文化の拡大は必ずしも遺伝的に異なる人口集団の大規模な移動もしくは統合を伴わなかった、と示唆されます。本論文の調査結果は、中国の相互作用地帯の歴史の再構築における、遺伝的過程からの文化的過程の区別の重要性を浮き彫りにします。


●研究史

 古代DNA研究の最近の進歩は、過去1万年間の中国全域の人口集団の文化および混合の理解を大きく深めてきました。ゲノム規模研究では中国北部における複雑なパターンが明らかになってきており、黄河流域の仰韶文化の人口集団はその後の中国人集団の遺伝的基盤を築きましたが、後期新石器時代のゲノムは南方系統からの追加の流入を示しており、中国北部全域で龍山文化人口集団が形成され、拡散しました[1]。東方の山東沿岸では、初期新石器時代集団は独特な遺伝的特徴を示しましたが、後期新石器時代の大汶口文化【大汶口文化期の大半は、一般的には中期新石器時代に位置づけられていると思います】人口集団は中原からかなりの影響を受けました[3、4]。対照的に、アムール川地域の人口集団は14000年以上にわたってアジア北東部古代人の遺伝子プールとの強い連続性を保持しました[5]。中国南西部の境界では、人口集団は顕著な遺伝的連続性を示しながら、同時にユーラシア東西間の複雑な混合を反映しています[6~8]。中国南方では、雲南省【で発見された古代の個体群】から、深く分岐したアジア東部南方祖先系統(たとえば、「基底部アジア興義」)や、アジア南東部本土のホアビニアン採食民とのつながりが報告されています[10、11]。福建沿岸の古代の個体群は、現在のオーストロネシア語族話者集団との類似性を明らかにしていますが[12]、広西チワン族自治区や貴州省や四川省の人口集団は複数のアジア東部祖先系統の痕跡を有しています[11]。

 これらの進歩にも関わらず、重要な空白が残っています。中国の広範な地理と生態学的多様性と文化的異質性が意味するのは、主要な考古学的文化間の多くの移行地帯がゲノム水準では依然として充分には明らかになっていないことです。先行研究はおもに文化的中核地域に焦点を当ててきましたが、境界地域の遺伝的特徴、および文化伝播と人口統計学的相互作用の媒介における役割は、さほど理解されていません。したがって、そうした文化的十字路の体系的調査は、文化的交流および人口動態を支えた家庭の再構築に不可欠です。江蘇省の徐州は、これらの十字路の最重要な一つを表しています(図1)。南方では江蘇省と安徽省、東方では山東省、西方では河南省の接点に位置するこの地域は、中原と東方沿岸と長江下流域の遭遇地として長く認識されてきました。考古学的証拠は、後期新石器時代から漢代にかけての文化的収斂の維持を報告しており、複数の伝統からの影響が重なっています。文化考古学的観点から歯、徐州は海岱地域と中原と江淮~長江下流域の交差点に位置し、北方および東方の大汶口文化および龍山文化伝統と、西方の仰韶文化および龍山文化の系列と、凌家灘遺跡や良渚遺跡など南方の後期新石器時代の発展によって形成されました。これらの調査結果は、持続的な文化的重なりおよび相互作用の地帯としてのこの地域の役割を浮き彫りにします。以下は本論文の図1です。
画像

 しかし、そうした文化的混合が人口統計学的過程も反映していたのかどうかは、依然として解明されていません。山東省や河南省や安徽省や江蘇省南部を含めて周辺地域の古代DNAの証拠が報告されてきましたが、徐州自体は依然としてゲノム地図の空白地帯です。この欠如は、重要な未解決の問題を残しており、どのような遺伝的構成要素が先史時代の徐州人口集団に存在しましたか?文化的変化はどの程度、移動および混合を伴っていましたか?本論文は、徐州の文廟遺跡で発掘された西周期の3個体のゲノム規模解析を通じて、これらの問題に取り組みます。本論文は、これらの新たなデータを中国の南北両方やアジア東部の他地域のゲノムデータセットと統合することによって、この重要な文化的境界への最初の直接的な遺伝的知見を提供します。


●文廟遺跡

 文廟地下都市遺跡は、徐州市鼓楼区の彭城路と河清路の東側に位置し、旧徐州第二中学構内にあります。発掘区域は計画区画の南西隅に位置し、面積は900 m²にわたります。文廟遺跡では厚い文化的堆積物が保存されており、その年代は西周から明王朝まで広範にわたります。発掘によって一連の重要な発見があり、それには、明代の橋梁基礎や埠頭、宋代~大元ウルス期の河川水路、前漢(西漢)から西晋期の建築物基盤が含まれます。とくに重要なのは、現代の地表から10m以上深い西周期墓地の発見で、これは徐州の都市区域内での最初の墓地の発見となり、この墓地は地域の考古学の大きな空版を埋め、彭城の宋国【春秋戦国時代の国】の位置を特定し、この都市の歴史的発展をたどる、重要な証拠を提供します。

 西周墓地は、古代の泗水と汴河の合流点の、文廟地下都市遺跡の北側区域に位置しています。その埋葬は戦国時代の地層の下に彫られており、氾濫原の環境に堆積しました。すべての墓は長方形の立坑埋葬で、灰褐色の粘土と細かい砂の混合で満たされています。この立坑壁は単純な装飾を示し、木棺が使用されていましたが、ほぼ腐食しています。深い埋葬と浸水状態のため、ヒトの骨格遺骸の保存状態は比較的良好でした。全個体は仰臥位で埋葬されており、手の位置の差異が3種類の埋葬様式を定義しており、それは、胸の前で交差した手か、腹部で交差した手か、背中で交差した手です。南方に向いていたM5号墓を除いて、すべての埋葬は北方を向いていました。墓の大きさは一般的に小さく、最大のM11号墓は長さ2.8mで幅1.7m(4.76 m²)と測定されたのに対して、最小のM6号墓は長さ1.8mで幅0.52m(0.9 m²)と測定されました。主要な副葬品群は、三脚土器(li)と盃(yu)と有柄皿(dou)と壺(guan)で構成されており、斧や鑿や手斧など少数の青銅器が伴っています。これらの遺物群と容器の種類は、鳳豪地域の西周期墓地の4~6期と密接に類似しており、徐州墓地は西周中期~後期と年代測定されています。埋葬形態および関連する副葬品に基づくと、この墓は社会的には中位だったようで、工芸品製作もしくは他の職人活動と関連していた可能性が高そうです。


●標本と手法

 文廟遺跡で発掘された、西周期と考えられる人類3個体からDNAが抽出されました。124万パネルでのSNP遺伝子型決定が実行され、疑似二倍体呼び出しが生成されました。分子的性別は、常染色体に対するX染色体とY染色体の比較から推測されました。片親性遺伝標識のmtHgとYHgも決定されました。集団遺伝学的分析では、参照データセットにヒト起源パネルのユーラシア現代人2077個体と、124万パネルのアジア東部現代人266個体が含められ、これらの現代人に基づいて生成されたPCAに古代人が投影されました。アレル(対立遺伝子)共有を調べるために、外群f3統計が計算され、アフリカの外群からの分岐後の、対象個体と他のユーラシア人口集団との間で共有される遺伝的浮動が評価されました。定量的分析ではf4統計も実行され、文廟遺跡の3個体の混合モデル化にはqpAdmが用いられました。これらの集団遺伝学的分析には、AADRから、ムブティ人、イスラエル_ナトゥーフィアン、ヴィッラブルーナ遺跡個体、田園洞個体、イラン_ガンジュ・ダレー_N、ミヘー人、アミ人、オンゲ人、ウスチイシム個体、コステンキ14号、パプア人、アナトリア_Nが含まれます。


●文廟遺跡の古代ゲノムデータ生成

 124万SNP捕獲配列を用いて、文廟遺跡から発掘された3個体のゲノム規模データが生成され、それぞれについて単一のイルミナ(Illumina)ライブラリが作成されました。標本からは53~90%の高い割合の内在性ヒトDNAが得られ、良好なDNAの保存状態を反映しています。複数の証拠から、これらのデータの真正性が確証されました。すべてのライブラリは古代の分枝に特徴的な誤挿入パターンを示しており、末端部位ではシトシンからチミンへの置換が増加していました。外因性の現代人の汚染推定値は、一貫して5%未満でした。厳密な選別後に、124万パネルで427156~660012ヶ所の常染色体SNPで半数体遺伝子型呼び出しが得られました。これらの新たなデータはその後、「ヒト起源」および「124万」参照の現代人と古代人両方の個体群の刊行されているゲノム規模データセットと統合されました。下流分析については、文廟遺跡個体群のゲノムは、おもに考古学的期間と地理的起源と文化的帰属と遺伝的特徴に基づく比較集団へと整理されました。この枠組みによって、古代のアジア東部人口集団との関連における類似性の体系的評価が可能となりました。


●性別決定と片親性遺伝標識と親族関係

 文廟遺跡の3個体の生物学的性別を決定するために、X染色体とY染色体の相対的な配列網羅率が評価されました。個体C362はX染色体とY染色体の両方でほぼ同一の網羅率(ともに0.51倍)を示し、男性の分類と一致しますが、個体C360およびC365は、X染色体の網羅率の増加(0.45と0.69)を示し、Y染色体の読み取りはわずかで、女性だったことを示唆しています(表1)。文廟遺跡の3個体ではmtHgの多様性が観察され、D4b2とC7a1とA6が含まれます(表1)。mtHg-D4b2が中国北部の山東と河南の古代の個体群で以前に報告されたのに対して、mtHg-C7a1は後期新石器時代山東人口集団でも見られます。対照的に、mtHg-A6は中国北西部、とくに【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では新疆ウイグル自治区とされている】東トルキスタンの青銅器時代および鉄器時代個体群で検出されてきました。唯一の男性個体のYHgはO2a2b1a1a(F5)で、この系統は中国北部の古代人および現代人両方の集団で広く見られます(表1)。まとめると、これらの片親性遺伝標識は、文廟遺跡個体群とさまざまな期間の中国北部人口集団との間の強い遺伝的つながりを示唆しています。

 親族関係推定では、2親等以上の関係はない、と明らかになり、標本抽出された個体間の密接な家族のつながりの存在は除外されます。ROH分析ではさらに、文廟遺跡個体群のゲノムには長いROH断片(20cM超)がない、と論証され、近い過去の両親の近縁性もしくは近親婚の証拠は提供されません。


●文廟遺跡個体群の遺伝的特性

 徐州の文廟遺跡の3個体の遺伝的背景を調べるために、ユーラシア現代人の遺伝的差異の上位2主成分(PC1およびPC2)へと文廟遺跡個体群が投影されました。文廟遺跡の3個体は全員、とくにPC1沿いでアジア東部現代人の遺伝的差異内に収まり、前提的なアジア東部人の遺伝的特性と一致し、固有の類似性のさらなる分析への基礎を提供します(図2A)。アジア東部内の人口構造をさらに調べるために、比較が現在のアジア東部の18人口集団に拡張されました。最初の2主成分はいくつかの集団を区別し、それには、ツングース語族話者(ウリチ人、ホジェン人、シボ人)やチベット人や台湾の先住民集団(アミ人とタイヤル人)が含まれます(図2B)。中国の南北間地理的移行地帯に位置する文廟遺跡個体群は、以前に報告された南方人口集団(たとえば、福建省や広西チワン族自治区や雲南省)とクラスタ化しませんでした(まとまりませんでした)。代わりに、文廟遺跡個体群は中国北部古代人集団のより近くに位置し、とくに王朝期の山東の個体群(山東_CD)や黄河流域の農耕人口集団とまとまり、それには龍山文化と関連する後期新石器時代集団(黄河_LN)や青銅器時代~鉄器時代の個体群(黄河_LBIA)が含まれます。対照的に、文廟遺跡個体群は、新石器時代山東集団や14000年前頃以降のアムール川流域の古代の人口集団や中国北西部の古代人集団を含めて、他の北方人口集団からより遠くに位置していました。以下は本論文の図2です。
画像

 外群f3統計は、文廟遺跡個体群と、黄河_LNや廟子溝_MNや黄河_LBIAを含めて中原の人口集団との間の、強いアレル共有を示しました。しかし、最高の類似性は、さまざまな期間の山東人口集団、とくに歴史時代の集団(XZ集団やYX集団やTL集団)および大汶口文化関連の新石器時代BQ集団で観察されました。これらの調査結果は、中原と山東沿岸地域両方からの遺伝的影響を示唆しています(図3)。以下は本論文の図3です。
画像

 しかし、山東_CD集団と比較して、文廟遺跡個体群はいくつかの山東人口集団とクレード(単系統群)を形成し、黄河関連集団との追加の類似性を示しませんでした(図4A~C)。興味深いことに、前期新石器時代山東集団(山東_EN)との比較において、文廟遺跡個体群は中国南部およびアジア南東部の人口集団との追加の類似性を示しており、これは歴史時代の山東集団でも観察されるパターンです(図4D)。祖先供給源をさらにしらべるために、qpAdmを用いて文廟遺跡個体群がモデル化されました。以下は本論文の図4です。
画像

 その結果、黄河関連人口集団のみでの1方向モデルは充分な適合を提供できなかったのに対して、山東_CD集団とのモデルでは許容可能な結果が得られた、と示されました。黄河関連人口集団と山東_CD人口集団を組み込んだ2方向モデルでは、P値0.05超の適合も得られましたが、混合係数はひじょうに大きな標準誤差と関連しており、一部の事例では推定割合を上回りました。対照的に、1供給源としての山東_ENと第二供給源としての中原人口集団もしくはアジア東部南方人口集団のどちらかを用いたモデルは、安定してよく適合する結果を生成しました。このパターンは、山東_CD人口集団についての以前の調査結果を反映しており、文廟遺跡個体群と山東_CD集団は類似した祖先構成要素を有していた、と示唆されます。まとめると、南北の境界地帯の文廟遺跡個体群は歴史時代の山東人口集団と密接な遺伝的類似性を示し、これは地域間の均質性を反映しています。その祖先系統は、初期山東人口集団と黄河流域の農耕集団の混合として最適に説明できます。


●考察

 文廟遺跡個体群のゲノムは、古代中国の人口統計学的歴史における徐州の役割に新たな知見を提供します。考古学的には、徐州は長く、中原と山東と長江下流域を結ぶ文化的境界とみなされてきました。しかし、本論文のゲノム解析から、この文化的多元性は広範な遺伝的混合へとつながらなかった、と論証されます。文廟遺跡個体群は南東部沿岸もしくは中原人口集団からの検出可能な流入を示しません。代わりに、文廟遺跡個体群の遺伝的特性は山東集団との類似性が支配的で、人口統計学的つながりは考古学的証拠のみから示唆されるよりも限られていた、と示唆されます。この調査結果は、山東人口集団の役割の理解に重要な示唆を有しています。先行研究は、中原農耕民および南方系統の広範な影響とは対照的に、山東集団の相対的な孤立を強調してきました[3]。

 本論文の結果は、山東祖先系統は西周期までに徐州へと南方に拡大していた、と示すことによって、この見解に異議を唱えます。これは、山東が単に地域的な孤立集団だったのみならず、中国北部におけるより広範な人口統計学的過程に寄与したことも論証します。徐州における文化的証拠と遺伝的証拠との間の対照は、アジア東部先史時代におけるより広範なパターンを浮き彫りにしており、物質文化は実質的な遺伝子流動なしに伝播できたのに対して、人口統計学的影響はより選択的で地域的に伝わりました。この事例では、徐州は文化的相互作用の中心として機能しましたが、遺伝学的には、徐州は主に山東圏に統合されていました。山東を遺伝的影響の活発な供給源として認識することは、初期中国における人口構造の有力なモデルを修正し、中原を越えた複数の人口統計学的中心地について、考慮する必要性を強調します。


参考文献:
Wang M. et al.(2025): Ancient Genomes Reveal Population Interaction at China’s North–South Boundary. Annals of Archaeology, 7, 2, 0702001.
https://doi.org/10.22259/2639-3662.0702001

[1]Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事

[3]Liu J. et al.(2025): East Asian Gene flow bridged by northern coastal populations over past 6000 years. Nature Communications, 16, 1322.
https://doi.org/10.1038/s41467-025-56555-w
関連記事

[4]Zhang X, and Zhang F.(2025): Island ancient genomes reveal dynamic populations interactions in the northern China. Frontiers in Microbiology, 16, 1584315.
https://doi.org/10.3389/fmicb.2025.1584315
関連記事

[5]Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040
関連記事

[6]Zhang F. et al.(2021): The genomic origins of the Bronze Age Tarim Basin mummies. Nature, 599, 7884, 256–261.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04052-7
関連記事

[7]Kumar V. et al.(2022): Bronze and Iron Age population movements underlie Xinjiang population history. Science, 376, 6568, 62–69.
https://doi.org/10.1126/science.abk1534
関連記事

[8]Zhang F. et al.(2025): Bronze and Iron Age genomes reveal the integration of diverse ancestries in the Tarim Basin. Current Biology, 35, 15, 3759–3766.E4.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2025.06.054
関連記事

[10]Wang T. et al.(2025): Prehistoric genomes from Yunnan reveal ancestry related to Tibetans and Austroasiatic speakers. Science, 388, 6750, eadq9792.
https://doi.org/10.1126/science.adq9792
関連記事

[11]Wang T. et al.(2021): Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago. Cell, 184, 14, 3829–3841.E21.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018
関連記事

[12]Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909
関連記事

この記事へのコメント