『卑弥呼』第156話「向こう側の正義」
『ビッグコミックオリジナル』2025年10月20日号掲載分の感想です。前回は、ヤノハが出雲からの帰国の道中の舟で、魏と公孫淵の開戦は数ヶ月後で、倭の使節団が洛陽に到着するまで半年を要する間に、日下で厲鬼(レイキ)、つまり疫病が蔓延し、事代主(コトシロヌシ)が出雲の民の治療に日下へと向かったら、この戦で自分に勝ち目はない、ヤノハが思案しているところで終了しました。今回は、ヤノハが義母と暮らしていた幼少期を回想している場面から始まります。ヤノハの義母は日守り(ヒノモリ)しているため、日照りが続くと邑人から白い目で見られます。ヤノハは、義母を貶める子供とよく殴り合いの喧嘩をしていました。ヤノハは子供の頃から強く、ヤノハの義母を悪く言っていた子供が誤っても殴り続け、二度と義母の悪口を言うな、と脅します。そんなヤノハを、義母は優しく諭します。ヤノハの義母は、ヤノハも自分の悪口を言っていた子供も正しい、と指摘します。雨が降らないのは日守りが能無しだからだ、とその子供はヤノハに言いましたが、その子供の親は毎日そんな悪口を言って日照り耐えており、それでよいのだ、というわけです。ヤノハは、自分の方が正しいと言い張りますが、正しさは一つではない、と義母に諭されます。
ヤノハの一行は金砂(カナスナ)国の石見の沖合を進んでおり、イクメはヤノハに、数日間、海が時化るので陸路を進み、舟は我々を追って海岸沿いに進み、時化が収まったら再乗船するよう、進言します。ヤノハが浮かない様子なのを見て、事代主(コトシロヌシ)との話し合いが上手くいかなったのではないか、と案じます。ヤノハはイクメに、自分と事代主のどちらの説く道が正しいのか、話し合ったが物別れに終わり、正しい道は一つとは限らない義母の言葉を思い出していた、と打ち明けます。陸路を進んでいたヤノハは、義母から、自分が正しいと思ったのは自分側の正しさで、喧嘩した子供やその親には向こう側の正しさがある、と諭されていたことを思い出します。理解できない様子のヤノハに、それは簡単なことで、向こう側の身になって向こう側の考えてやるのだ、と伝えます。それでは答えが出ず、一生前に進めない、とヤノハ納得しませんが、別の答えは出ている、と義母はヤノハを諭します。ヤノハと喧嘩相手の子供は、実は同じ言葉を発しており、少なくともその共通の言葉はどちらにとっても正しい、というわけです。
魏の帯方郡では、太守の劉昕が倒れたことを、トメ将軍一行は案じていました。劉昕の配下は、魏軍と濊が一触即発の状態なので、劉昕が倒れたことはまだ兵にも話していない、とトメ将軍一行に伝えます。劉昕の容態をトメ将軍に尋ねられた劉昕の配下は、意識こそはっきりしているものの、余命は半年と医者が言っている、と答えます。劉昕が亡くなった場合には誰が軍を指揮するのか、トメ将軍に問われた劉昕の配下は、次の太守、つまり劉昕の息子である劉夏が引き継ぐことになっている、と答えます。そうした極秘情報をなぜ我々倭人に真っ先に話すのか、とミマアキに問われた劉昕の配下は、劉昕と劉夏がトメ将軍一行を呼んでいるからで、二人は倭の客人のたったの願いを叶えてやりたいと考えている、と答えます。つまり、倭の使節団が魏の討伐軍と魏から独立を宣言した公孫淵との戦いの真最中に、魏の都まで赴く護衛のための兵士の派遣を、劉昕も劉夏も認める、というわけです。ただ、最前線突破の危険はあまりにも多くいので、その理由を聞きたい、と劉昕の配下から要請されたトメ将軍はミマアキに、ミマアキが推理したヤノハの真意をそのまま伝えるしかないだろう、と促し、ミマアキは覚悟を決めます。
魏の温県では、ヤノハとは旧知の何(カ)と配下のトヒコおよびノヅナが、毌丘倹に案内され、大尉である司馬懿(司馬仲達)の邸宅の前まで来ていました。温県は洛陽の近くにあり、毌丘倹は何一行を司馬懿の邸宅へと案内します。何一行はついに部屋の奥にいる司馬懿と対面します。司馬懿は、冷酷な知恵者といった感じの容貌です。
石見で陸路を進んでいたヤノハは、その後の義母の言葉を思い出し、自分も喧嘩相手の子供も、本音では喧嘩などしたくない、と言っていました。人は争い傷つけ合うが、勝っても負けても必ず後悔し、それが正しいことなのだ、と義母はヤノハを諭します。ヤノハは事代主に、大勢の命を救うためには多少の犠牲を認めるべきと進言したが、事代主は眼前に助けられる命があるなら、まずその者たちを救うべきと言いました。両者の判断はどちらも正しいものの、どこまで行っても交わらないわけですが、共通の想いがあり、それは平和で、人が天寿を全うするには、絶対に戦を起こしてならない、とヤノハがイクメに語るところで今回は終了です。
今回は、子供の頃に義母から重要な示唆を得ていた、とヤノハが思い出し、物別れに終わった自分と事代主との間にも、人が天寿を全うするには、絶対に戦を起こしてならない、との共通の想いがあることに気づき、ヤノハというか山社(ヤマト)連合と出雲との関係、さらには出雲の併合を企む日下(ヒノモト)との関係でも、新たな展開が描かれることを予期させ、今後もたいへん楽しみです。山社連合の魏への使節派遣では、ついに司馬懿が登場し、ヤノハの思惑が通用するのか、そもそもミマアキが推測しているヤノハの思惑とは何なのか、次回以降に明かされることになりそうで、どう描かれるのか、たいへん期待しています。
以前にも述べましたが(関連記事)、『三国志』の時代と邪馬台国論争は、現代日本社会においてとくに人気の高い歴史分野なのですが、邪馬台国論争はまさに『三国志』の時代のことで、邪馬台国は三国で最大の勢力を誇った魏と密接な関係を有していたというのに、一般の歴史愛好者層では両者が密接に関連しているという印象はあまりなく、それぞれ個別に盛り上がっている感があります。今回、司馬懿が初登場となったことで、『三国志』の時代に関心のある人々も新たに読者となってもらいたいものです。まあ、本作でも言及されたことがあり(第121話)、日本でも最も人気がありそうな『三國志』の時代の人物である諸葛亮(諸葛孔明)は、本作の現時点ですでに死亡しているので、『三国志』の時代に関心のある人々が本作に新たに関心を抱く可能性は低そうですが、本作で司馬懿が諸葛亮に言及する可能性はあるように思います。
ヤノハの一行は金砂(カナスナ)国の石見の沖合を進んでおり、イクメはヤノハに、数日間、海が時化るので陸路を進み、舟は我々を追って海岸沿いに進み、時化が収まったら再乗船するよう、進言します。ヤノハが浮かない様子なのを見て、事代主(コトシロヌシ)との話し合いが上手くいかなったのではないか、と案じます。ヤノハはイクメに、自分と事代主のどちらの説く道が正しいのか、話し合ったが物別れに終わり、正しい道は一つとは限らない義母の言葉を思い出していた、と打ち明けます。陸路を進んでいたヤノハは、義母から、自分が正しいと思ったのは自分側の正しさで、喧嘩した子供やその親には向こう側の正しさがある、と諭されていたことを思い出します。理解できない様子のヤノハに、それは簡単なことで、向こう側の身になって向こう側の考えてやるのだ、と伝えます。それでは答えが出ず、一生前に進めない、とヤノハ納得しませんが、別の答えは出ている、と義母はヤノハを諭します。ヤノハと喧嘩相手の子供は、実は同じ言葉を発しており、少なくともその共通の言葉はどちらにとっても正しい、というわけです。
魏の帯方郡では、太守の劉昕が倒れたことを、トメ将軍一行は案じていました。劉昕の配下は、魏軍と濊が一触即発の状態なので、劉昕が倒れたことはまだ兵にも話していない、とトメ将軍一行に伝えます。劉昕の容態をトメ将軍に尋ねられた劉昕の配下は、意識こそはっきりしているものの、余命は半年と医者が言っている、と答えます。劉昕が亡くなった場合には誰が軍を指揮するのか、トメ将軍に問われた劉昕の配下は、次の太守、つまり劉昕の息子である劉夏が引き継ぐことになっている、と答えます。そうした極秘情報をなぜ我々倭人に真っ先に話すのか、とミマアキに問われた劉昕の配下は、劉昕と劉夏がトメ将軍一行を呼んでいるからで、二人は倭の客人のたったの願いを叶えてやりたいと考えている、と答えます。つまり、倭の使節団が魏の討伐軍と魏から独立を宣言した公孫淵との戦いの真最中に、魏の都まで赴く護衛のための兵士の派遣を、劉昕も劉夏も認める、というわけです。ただ、最前線突破の危険はあまりにも多くいので、その理由を聞きたい、と劉昕の配下から要請されたトメ将軍はミマアキに、ミマアキが推理したヤノハの真意をそのまま伝えるしかないだろう、と促し、ミマアキは覚悟を決めます。
魏の温県では、ヤノハとは旧知の何(カ)と配下のトヒコおよびノヅナが、毌丘倹に案内され、大尉である司馬懿(司馬仲達)の邸宅の前まで来ていました。温県は洛陽の近くにあり、毌丘倹は何一行を司馬懿の邸宅へと案内します。何一行はついに部屋の奥にいる司馬懿と対面します。司馬懿は、冷酷な知恵者といった感じの容貌です。
石見で陸路を進んでいたヤノハは、その後の義母の言葉を思い出し、自分も喧嘩相手の子供も、本音では喧嘩などしたくない、と言っていました。人は争い傷つけ合うが、勝っても負けても必ず後悔し、それが正しいことなのだ、と義母はヤノハを諭します。ヤノハは事代主に、大勢の命を救うためには多少の犠牲を認めるべきと進言したが、事代主は眼前に助けられる命があるなら、まずその者たちを救うべきと言いました。両者の判断はどちらも正しいものの、どこまで行っても交わらないわけですが、共通の想いがあり、それは平和で、人が天寿を全うするには、絶対に戦を起こしてならない、とヤノハがイクメに語るところで今回は終了です。
今回は、子供の頃に義母から重要な示唆を得ていた、とヤノハが思い出し、物別れに終わった自分と事代主との間にも、人が天寿を全うするには、絶対に戦を起こしてならない、との共通の想いがあることに気づき、ヤノハというか山社(ヤマト)連合と出雲との関係、さらには出雲の併合を企む日下(ヒノモト)との関係でも、新たな展開が描かれることを予期させ、今後もたいへん楽しみです。山社連合の魏への使節派遣では、ついに司馬懿が登場し、ヤノハの思惑が通用するのか、そもそもミマアキが推測しているヤノハの思惑とは何なのか、次回以降に明かされることになりそうで、どう描かれるのか、たいへん期待しています。
以前にも述べましたが(関連記事)、『三国志』の時代と邪馬台国論争は、現代日本社会においてとくに人気の高い歴史分野なのですが、邪馬台国論争はまさに『三国志』の時代のことで、邪馬台国は三国で最大の勢力を誇った魏と密接な関係を有していたというのに、一般の歴史愛好者層では両者が密接に関連しているという印象はあまりなく、それぞれ個別に盛り上がっている感があります。今回、司馬懿が初登場となったことで、『三国志』の時代に関心のある人々も新たに読者となってもらいたいものです。まあ、本作でも言及されたことがあり(第121話)、日本でも最も人気がありそうな『三國志』の時代の人物である諸葛亮(諸葛孔明)は、本作の現時点ですでに死亡しているので、『三国志』の時代に関心のある人々が本作に新たに関心を抱く可能性は低そうですが、本作で司馬懿が諸葛亮に言及する可能性はあるように思います。
この記事へのコメント
本作(「卑弥呼」)に関して言えば、そのあたりは、あるいは今後の展開で触れられるかもしれません。 すでに卑弥呼側の大胆な策略は描かれていますが、司馬懿の登場によって魏側の思惑もストーリーにどう反映されるのか、諸葛亮の登場(回想シーンでしょうが)と相まって期待が膨らみます。