井波律子『酒池肉林 中国の贅沢三昧』

 講談社学術文庫の一冊として、2003年1月に講談社より刊行されました。本書の親本『酒池肉林 中国の贅沢三昧』は、講談社現代新書の一冊として1993年3月に講談社より刊行されました。本書を古書店で購入したのは、もう思い出せないくらい前ですが、そのまま読まずにおり、本棚を整理した時に目についたので、移動中に読むことにしました。本書へは歴史学から批判があるかもしれませんが(関連記事)、忘れかけていたり、知らなかったりした逸話もあって、なかなか興味深く読み進められました。贅沢(奢侈)の視点からの一般向けの歴史本は他の地域を対象としてもありそうなので、そうした本もいつかは読みたいものです。

 本書は贅沢の観点から、中国史の特徴というか歴史認識を浮き彫りにしています。贅沢をできる人々は今も限られていますが、前近代には君主(王や皇帝)や貴族(高官)や大商人などもっと限られているわけで、本書もそうした分類で中国史における贅沢の事例を取り上げています。本書は物質的贅沢だけではなく精神的贅沢(精神の蕩尽)も取り上げており、時空間的に広い事例が取り上げられているわけではありませんが、中国史あるいはその見方の一側面を浮き彫りにしているように思います。

 本書が君主で取り上げているのは、殷(商)の紂王(帝辛)と秦の始皇帝と隋の煬帝(明帝)です。いずれも贅沢で国を滅ぼしたか滅亡の大きな要因を作った(秦は始皇帝が実質的な最後の君主とは言えないかもしれませんが、始皇帝没後数年で滅亡しました)暗君もしくは暴君として有名で、一般向けとして妥当な人選だと思います。紂王は「酒池肉林」などの悪行が有名で、本書でも取り上げられていますが、その虚構性というか創作性(関連記事)については、とくに言及されていません。本書の読者ならば、そうした点も踏まえて読むだろう、との著者の意図でしょうか。本書は始皇帝と煬帝の根本的な違いについて、始皇帝が現世超越志向型だったのに対して、煬帝は現世的快楽志向型だった、と指摘しています。

 貴族については、魏晋南北朝時代でもおもに魏および晋(西晋と東晋)と、ダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)が取り上げられています。ダイチン・グルンについてはおもに『紅楼夢』に依拠しており、もちろんおもに『紅楼夢』は小説ですが、当時の社会上層の様子を窺う史料でもあるとは思います。本書は魏晋南北朝時代(中世)の貴族の贅沢について、起動力が貴族間の競争原理になっているところは、皇帝(君主)の贅沢とは異なる、と指摘します。こうした中世の貴族の贅沢は、単に物欲を追い求めたのではなく、紂王の贅沢(正確には、紂王の暴君伝説が創作された時代に行なわれていた、あるいは想像されていた贅沢と言うべきでしょうか)よりずっと洗練されていた、と本書は評価しています。近世のダイチン・グルン期には、中世の贅沢の担い手だった門閥貴族はもう存在していませんでしたが、中世貴族の洗練された奢侈の精神は受け継がれており、さらに精巧になった、と本書は評価しています。

 商人の贅沢については、商人階層が重要な地位を占めるようになった明代以降が対象となっています。明代の商人についても、小説の『金瓶梅』が取り上げられており、『紅楼夢』と同様に当時の社会の富裕層の様子を窺う史料にもなるとは思います。本書は『金瓶梅』の世界の贅沢について、性欲や食欲が前面に出ており、古代の君主と類似している一方で、中世貴族の洗練への志向とは対極的であることを指摘します。ただ、『金瓶梅』の世界の贅沢、とくに性欲について、古代の君主のように女性を一方的に後宮に入れるのではなく、女性側も能動的に動いているところにも、本書は古代の君主との違いを見ています。ダイチン・グルン期には明代を上回る豪商が現れ、学術や芸術の後援者となり、本書は、商人の贅沢も洗練化されていった、と指摘します。

 本書はこの他に、宦官や、歴史的に「正統な」君主とは認められていない反乱勢力の指導者も取り上げています。本書は最後に、精神的贅沢の事例として、いわゆる竹林の七賢など、おもに魏晋期の貴族を取り上げています。こうした貴族の在り様の背景に、魏晋期の陰湿な政争(まあ、程度の差はあれども、政治の世界に概してそうしたところがあるのは、否定できないとも思いますが)があり、当時の貴族の「清談」には、政争からの現実逃避やささやかな抵抗としての意味合いもあった、と本書は指摘します。ある意味で、「清談」や「精神の贅沢」とはいえ、魏晋期の貴族には「不純」な側面が多分にあった、とも言えそうです。本書は文字通りの意味で「精神の贅沢」を試みた人物として、北宋の蘇東坡を挙げています。

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