長江中流域の中期新石器時代~後期青銅器時代人類のゲノムデータ
長江中流域の中期新石器時代~後期青銅器時代人類のゲノムデータを報告した研究(Yang et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、長江の最大の支流である漢江(漢水)水系の一部となる湍河(Tuan River)沿いに位置する、河南省鄧州(Dengzhou)市の八里岡(Baligang、略してBLG)遺跡で発見された中期新石器時代から後期青銅器時代の古代人58個体のゲノムデータを報告しています。刊行されている長江流域新石器時代のゲノムデータはきわめて少なく、最近になって、長江中流域および下流域の中期新石器時代以降の人類遺骸のゲノムデータが報告されており(Xiong et al., 2025)、近いうちに当ブログで取り上げる予定です。
その研究(Xiong et al., 2025)と同様に本論文でも、長江流域新石器時代集団のゲノムは、黄河中流域中期新石器時代集団的な遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と、福建省で発見された前期新石器時代人類の遺伝的祖先系統[33]の混合でモデル化できます。たとえば、長江流域ではなく珠江流域が稲作起源地だとしたら、長江流域には更新世末に黄河中流域中期新石器時代集団的な遺伝的構成の集団が存在し、前期新石器時代福建集団的な遺伝的構成の集団が稲作とともに北上して、前期新石器時代に長江流域でアジア東部南北間の遺伝的混合が進んだ可能性も想定されます。ただ、八里岡遺跡は本論文では長江中流域と位置づけられていますが、本論文でも北縁と指摘されているように、黄河流域にも近く、八里岡遺跡の中期新石器時代集団を、長江流域の中期新石器時代集団を表す存在と考えるのには慎重であるべきかもしれません。いずれにしても、長江流域の完新世の人口史の解明には、前期新石器時代個体のゲノムデータが必要となります。
以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、YHg(Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)、cM(centimorgan、センチモルガン)、IBD(identity-by-descent、同祖対立遺伝子)、o(outlier、外れ値)、O(oxygen、酸素)、C(carbon、炭素)、sEA(southern East Asian、アジア東部南方)、有効人口規模(Ne)、CREST(classification of relationship types、関係の種類の分類)です。
以下の時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)です。本論文で取り上げられる主要な文化は、7000~5000年前頃の仰韶(Yangshao、略してYS)文化、4500~3800年前頃の龍山(Longshan、略してLS)文化4900~4500年前頃の屈家嶺(Qujialing、略してQJL)文化、4500~紀元前4200年頃の石家河(Shijiahe、略してSJH)文化です。また、本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。
●要約
初期稲作農耕民の古代ゲノムの少なさによって、その遺伝的特性および雑穀農耕民との動的な相互作用についての理解が妨げられてきました。この研究では、長江中流域の北縁に位置する、中期新石器時代から後期青銅器時代までにわたる長期の集落である、八里岡遺跡の古代人58個体のゲノムが分析されました。この年代層序化された遺伝的データセットは、初期の稲作に関わった人口集団の包括的なゲノムの知見を提供し、アジア東部の人口統計学的歴史の理解を深めます。本論文では、八里岡遺跡において、アジア東部南方人口集団顕著なゲノム流入によって特徴づけられる、4200年前頃を重要な転換点とする、経時的な混合の連続した波が起きていた、と明らかになりました。多世代の二次埋葬内の詳しい親族関係と、5000年前頃にさかのぼる父系共同体も特定され、先史時代の中国における初期の社会構造についての新たな視点が提供されます。
●研究史
アジア東部では、南方の長江流域と北方の黄河流域が、完新世における人口拡大の主要な二大地点として機能しました。その独特な地理と気候と陸地の条件は、先史時代と歴史時代を通じて、多様な農耕慣行と文化的発展と人口統計学的軌跡につながりました。北方では、雑穀農耕に基づく新石器時代の仰韶文化(7000~5000年前頃)および龍山文化(4500~3800年前頃)が、黄河中流域において長期にわたって影響力を維持しました(図1a)。対照的に南方では、長江中下流域における作物の栽培化とその後の主食としての確立に続いて、社会的複雑さが稲作とともに発展しました。
この地域で台頭した主要な二つの文化、つまり4900~4500年前頃の屈家嶺文化と4500~紀元前4200年頃の石家河文化は、屈家嶺文化期以降の大規模な宗教儀式や周東に組織された都市によって証明されるように、社会的構造の形成にも顕著な影響を残しました(図1a)。先行研究では、黄河と長江を結びつけるこの地域における、継続的な相互作用と領域の重複が示唆されており、そこでは文化的変容が農耕の発展と密接に関連していました。しかし、人口集団の相互作用の詳細は依然としてほぼ分かっておらず、それは、古代人のゲノムがこれまで長江流域から得られていなかったからです【上述のように、最近になって長江中流域および下流域の中期新石器時代以降の人類遺骸のゲノムデータが報告されました(Xiong et al., 2025)】。以下は本論文の図1です。
本論文では、長江中流域の北端に位置する、8500~2500年前頃の新石器時代~青銅器時代の考古学的遺跡である、八里岡に焦点が当てられます。この地域は、黄河流域と長江流域の中間地帯となります。層序化された考古学的証拠から、八里岡遺跡は南北両方の文化によって影響された交互の変容を経た、と示唆されます。八里岡遺跡はいくつかの理由で、新石器時代アジア東部の理解を広げるうえで、理想的な状況を提供します。第一に、八里岡遺跡は長江下流域の古代の稲作民と関連するゲノム構成要素の抽出に、独特な機会を提供します。第二に、中期新石器時代以降の継続的なヒト集落として、八里岡遺跡によって、経時的な人口移動と文化的変容と農耕画策の間の動的な相互作用の調査が可能となります。さらに、八里岡遺跡は仰韶文化後期(5000年前頃)のいくつかの大規模な二次埋葬を特徴としており、全個体の遺骸は一次埋葬から掘り起こされ、まとめて再埋葬されました。この時代のこうした広範な埋葬慣行の根底にある同期と社会組織は、考古ゲノム学的手法を通じてまだ調査されていません。さらに、アジア東部における古代の親族関係構造についての研究が相対的に少ないことを考えると[18]、八里岡遺跡における多世代を含む二次埋葬の遺伝学的な親族関係分析は、この地域における新石器時代の社会組織に貴重な知見を提供できるかもしれません。
本論文では、中期新石器時代から後期青銅器時代にまたがる八里岡遺跡人口集団の古代人58個体のゲノム解析を通じて、人口動態が解明されます。分析された個体群は、アジア東部北方の黄河社会およびアジア東部南方の長江社会の両方と関連する、複数の文化的帰属を示します。本論文の調査結果は、前期新石器時代アジア東部人口集団が八里岡遺跡集団の遺伝子プールにどのように寄与したのか論証し、この長い時間的枠組みを通じて、南北の祖先構成要素間の双方向の遺伝子流動が維持されたことを明らかにします。これらの遺伝的相互作用は、地域間の農耕慣行および物質文化の同時の変容を促進した可能性が高そうです。本論文はさらに、5000年前頃までさかのぼる、アジア東部における大規模な二次埋葬慣行および父系社会構造についての親族関係情報を提供します。
●八里岡遺跡とその古代人のゲノム
長江中流域の北縁に位置する八里岡遺跡は、長江の最大の支流である漢江水系の一部となる湍河沿いに位置する、村落規模の遺跡です(図1a~c)。1991年以降続いている発掘から、八里岡遺跡は初期新石器時代(8500年前頃)にまでさかのぼる長期にわたるヒトの集落だった、と明らかになってきました。八里岡遺跡は6層の主要な文化堆積物で構成され(仰韶文化前、仰韶文化、屈家嶺文化、石家河文化、龍山文化、周王朝)、年代順に、前期新石器時代(EN)と中期新石器時代(MN)と後期新石器時代(LN)と青銅器時代(BA)にまたがっています。ヒトの骨格(700個体超)が、上位5層の文化堆積物から発掘されました。八里岡遺跡の考古植物学的証拠に基づいて新石器時代にはイネが主要作物と同定され、炭素同位体分析も、龍山文化期の前におけるC3植物食性の高い割合の選好を示しました(図1d)。
後期新石器時代(5000年前頃)における興味深い発展は、よく組織化された一続きの家屋複合体と大規模な記事埋葬で、家系組織や共同体の結束や儀式埋葬慣行など社会慣行の特定のパターンを示唆しているかもしれません。注目すべきことに、八里岡遺跡の二次埋葬のうち、M13号墓は最大の規模で際立っており、90個体以上の遺骸が含まれています。M13号墓におけるブタの下顎の意図的な蓄積から、これが新石器時代の宗教的行儀と関連していたかもしれない、と示唆されるので、古代ゲノム解析によるM13号墓共同体の人口統計学的構造の取得は、社会組織への知見を提供できるかもしれません。
較正年代で6100~2500年前頃の間となる、八里岡遺跡の103個体の骨標本が検査され、80個体でゲノム規模の古代DNAデータが回収されました。そのうち、内在性ヒトDNAの保存が1%超の58個体が深い配列決定に詮索され、深度の範囲は0.01~1.39倍で、その真正性が確証されました。下流集団遺伝学的分析[23]および遺伝学的関係の推定のため、124万ヶ所の多様体の単一の高品質な塩基の無作為標本抽出によって、これらの個体の疑似半数体遺伝子型が生成されました。qpWave[24]を用いると、全期間の個体は遺伝的に同じ期間の個体と一致し、例外は同じ期間の他個体とクラスタ化しなかった(まとまらなった)4個体、つまりLN仰韶のBLG-M13-17(LN仰韶_o1)およびBLG-M13-39A(LN仰韶_o2)と、LN石家河のBLG-M208(LN石家河_o)と、LBA周のBLG-M198(LBA周_o)だった、と観察されました。この結果に基づいて、八里岡遺跡の個体は年代および考古学的背景に基づいて6集団に区分され、それは、MN仰韶(9個体)、LN仰韶(30個体)、LN屈家嶺(2個体)、LN石家河(3個体)、LN龍山(6個体)、LBA周(4個体)で、上述の4個体はその後の分析では別の外れ値として扱われました。その他に、LN仰韶集団の3個体(M13-76、M13-88、M13-89)は、密接な親族関係(1親等の近縁性)および相対的により低い常染色体網羅率のため、個体群に基づく集団遺伝学的分析から除外されました。
●八里岡遺跡個体群の遺伝的構造
現在の人口集団でPCAが実行され、具体的には現在のアジア東部の39人口集団[28]に焦点が当てられ、古代人のゲノムが主要な差異に投影されました(図2a)。八里岡遺跡個体群はおもに、現代漢人の差異内でまとまり、黄河中下流域の新石器時代人口集団[29]の最も近くに位置しましたが、明確な南方への移行を示しました。長江流域全体における八里岡遺跡の位置を考慮して、現在のアジア東部南方の人々の多様性の範囲へと向かって、PCAが適用されました。その結果、八里岡遺跡個体群は現在のミャオ・ヤオ語族およびシナ・チベット語族話者に沿ってまとまる、と示唆されます。以下は本論文の図2です。
外群f3値の対での比較から、古代黄河人口集団と八里岡遺跡個体群との間の遺伝的類似性にも関わらず、八里岡遺跡個体群はアジア東部南方人とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有しており、それはF4統計でも確認された、と確証されます(図2b)。教師無ADMIXTURE分析でも、八里岡遺跡個体群は一般的に、とくにLN石家河期以後には、古代黄河人口集団よりもアジア東部南方構成要素の割合が高い、と示唆されます。さらに、これらの分析はまとめて、最初のqpWaveの結果で裏づけられる、外れ値4個体の存在を特定します。
●新石器時代のアジア東部人の南北間の年代順の相互作用
八里岡遺跡個体群は、約4000年間にわたる特定の場所でのヒト集団遺伝学における継続的変化を記録しており、北方(仰韶文化と龍山文化)および南方(屈家嶺文化と石家河文化)の文化的人工遺物の複数の物理的に連なった層がある、3~4mの堆積物を形成しています。F4統計を活用して、さまざまな供給源が調べられ、連続した時代の間の遺伝子流動の方向性が分析され、さらにqpAdmモデル化[24]を用いて、八里岡遺跡個体群における祖先系統の割合が推定されました(図3a)。以下は本論文の図3です。
本論文の遠位qpAdmモデル化は、早くもMN仰韶期(6000年前頃)の南北の混合の存在を明らかにします。LN仰韶(5000年前頃)からLN屈家嶺(4700年前頃)にかけて、八里岡遺跡痔は北方からの遺伝的影響を受けました。その後、LN石家河期(4300年前頃)には、遺伝子流動は圧倒的に反転し、福建_ENによって表されるsEA構成要素[33]が、祖先系統の割合35%に上昇しました。しかし、LBA周代(2700年前頃)には、遺伝子流動は再びわずかに北方へと移行し、sEA構成要素は24%へと減少しました(図3a)。隣接期間を対比させる近位qpAdmモデル化も、遺伝子流動のこの変動するパターンを裏づけます(図3a)。
興味深いことに、これらの動的な遺伝的変化は、文化的もしくは農耕の変化と完全には一致していませんでした。たとえば、LN屈家嶺期には、発掘されたイネの遺骸は先行するLN仰韶期の44%から88%へと顕著に増加した、と報告されています。この変容期には、稲作の増加が南北の文化的変化と同時に起きましたが、sEA祖先系統の流入はLN屈家嶺個体群では特定されなかったものの、その後のLN石家河期には遅れて起きました。
●古代稲作農耕民の遺伝的構成要素と伝播
LN石家河期は、本論文のF4統計分析に基づくと、遺伝的連続性の重要な分岐点と分かっています。さまざまな期間にわたる対での比較が実行され、LN石家河期の前後におけるsEA祖先系統の組成における顕著な違いが見つかりました(図3b)。PCA革新適合も、4200年前頃となるLN屈家嶺期とLN石家河期との間の明確な変化を明らかにし、sEA遺伝的構成要素の顕著な流入をさらに裏づけます。興味深いことに、同様の遺伝的変化は同時代の後期新石器時代黄河人口集団でも検出されました[29]。さらに、八里岡遺跡の下位集団間の対での遺伝的差異が計算され、LN石家河期個体群は最高の遺伝的多様性を示す、と分かりました(図3c)。一貫して、4~20cMのROHの長さの分布を用いて推定された有効人口規模(Ne)はLN石家河期において最大で(図3d)、かなりの程度の人口集団の混合がこの期間に起きたかもしれない、と示唆されます。さらに、外群f3統計およびf4統計の結果は、とくにsEA祖先系統の含有量の多い外れ値1個体(LN石家河_o)を示しました(図3e)。LN石家河期における稲作の持続的な高い割合は、当時の八里岡遺跡およびその周辺地域への稲作関連人口集団の移住と関連しているかもしれない、と推測されます。八里岡遺跡個体群のゲノムに埋め込まれた祖先の情報は、稲作の拡大の調査について独特なデータセットを提供します。
●新石器時代アジア東部における社会的構造への知見
M13号墓によって例証されている仰韶文化内の二次埋葬は、おそらく生者の共同体によって行なわれた儀式に由来しました。それにも関わらず、約200年間(紀元前5100~紀元前4900年頃)にわたるこれらの埋葬された個体間の相互関係は、長く議論されてきました。M13号墓から無作為に標本抽出された多くの個体のゲノム網羅率は低いので、機械学習に基づくモデルを用いて、生物学的性別が正確に特定されました。これらの個体のうち2/3以上(75個体のうち52個体)は、男性35個体および女性17個体と特定でき、M13号墓における男性が大半だったことを示唆しています。M13号墓個体群の片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)から、mtDNAのマクロタイプの大半はmtHg-D(34%)・M(23%)・A(14%)・R(11%)に属している、と明らかになり、多様な母系の関係が新石器時代の八里岡遺跡共同体ではすでに確立していた、と示唆されます。しかし、M13号墓のY染色体ハプロタイプは集中しており、全系統がYHg-Oβ(F46、O2a2b1a2a1a)の分枝下にあり、このYHgは6000~4000年前頃の八里岡遺跡個体群にも持続的に存在し、その割合は八里岡遺跡の男性個体の82%(28個体のうち23個体)を占めていました。
親族関係分析が網羅率0.1倍以上のM13号墓の30個体で行なわれ、1親等3組と2親等5組と3親等5組の関係が明らかになりました(図4b)。mtDNAハプロタイプの結果によると、2親等の関係の2組は父親と娘の組み合わせで、自然人類学で特定されたように、娘の一方は約15歳、もう一方の娘は18~25歳で、別の1親等の関係は兄弟でした。CRESTの改訂版を活用して、2親等の関係の2組は、父方の半キョウダイ(異母キョウダイ、M13-75とM13-7、M13-4とM13-86)、2組は父方のオジと甥の関係(M13-75とM13-90、M13-7とM13-90)と特定されました。片親性遺伝のハプログループによって裏づけられたM13-75とM13-7とM13-90の間の遺伝的関係は、父系で組織化された系図(図4c)について説得力のある証拠を提供しますが、新たなmtDNA系統は、各世代において入ってきた女性によってもたらされており、女性族外婚のパターンが示唆されます。以下は本論文の図4です。
さらに、ancIBDを用いて、すべての組み合わせの個体間の遠い遺伝的近縁性の徹底的な分析が実行され、100cM超の累積IBDを共有する、3~6親等の組み合わせが特定されました。この結果は、成人女性間と比較しての成人男性間のより密接な親族関係の優勢を示しており、成人女性間では、密接な近縁性のほぼ完全な欠如が示されており(図4d)、父系制が広く行なわれていたことを示唆しています。これは、M13号墓の男性におけるY染色体ハプロタイプの均一性によっても裏づけられ、これはmtDNAのハプロタイプの高度な多様性とは対照的です[36]。
しかし、標本抽出率と古代DNAの保存状態や、M13号墓のヒト遺骸が埋葬にどのように選択されたのか、不確実であるため、詳細な親族関係構造の直接的な推測はきわめて困難なようです。そこで、さまざまな親族関係構造状況下の模擬実験が行なわれ、模擬実験された人口集団から標本抽出された個体群とM13号墓の実際のデータとの間でのIBD共有特性の類似性が評価されました。さまざまな親族関係構造設定のうち、M13号墓のデータセットと最高の類似性を論証した模擬実験人口集団は一貫して、単一系統構造を示唆する、より高い中新世を示します。これは、M13号墓個体群が優勢な単一系統から構成される人口集団に由来する可能性を示唆しています。さらに、M13号墓人口集団は事後確率78%超で中心度0.8超と推定され、この人口集団は優勢な単一系統で構成される、との仮定が裏づけられます。さらに、本論文の模擬実験の結果は一般的に、M13号墓個体群は200人以上の人口集団に由来する可能性が高い、との仮定を支持しており、推定事後確率は87%超です。
その他に、個体の埋葬場所と組み合わせると、識別可能な空間構成パターンは墓穴内の遺伝的親族関係の個体群の配置で観察されず、この二次埋葬慣行において、正確な系図は不明か重要ではなかったかのどちらかかもしれない、と示唆されます。さらに、ROH分布から、近親婚の証拠も見つかりましたが、一般的ではなく、当時、密接な親族関係の個体間の生殖を厳密に防止する仕組みがなかった可能性が示唆されます。
●考察
以前に刊行された古代毛のデータでは、アジア東部古代人の南北の分離は前期新石器時代より前に起きた、と示唆されてきました[33、37]。しかし、この遺伝的差異は、アジア東部の南北の祖先系統間の広範な混合のため、アジア東部現代人では大きく減少してきました。本論文の年代データから、アジア東部南北の祖先系統間の遺伝的混合の広範な発生は、早くも中期新石器時代には少なくとも長江中流域の北縁に到達していた、と示唆されました。八里岡遺跡個体群で観察されたこの遺伝的特性から、同時代のヨーロッパで見られる顕著な人口置換事象はなかった[38]、と示唆されます。しかし、最高の人口多様性と一致して、4200年前頃のLN石家河期にはsEA集団へと向かう明らかな遺伝的変化がありました。あり得る一つの推測は気候異常の通常ではない期間と関連しているかもしれませんが、さまざまな極端な気候事象と長期大きな景観変容につながり、作物の栽培とヒトの活動に大きく影響を及ぼした、古環境に関する議論が依然として存在しています。
八里岡遺跡周辺(中国の北緯31度~36.5度)の石筍および降水量のδ¹⁸Oの記録は、4200年前頃には湿潤期気候を示唆しており(図1d)、この地域は長江流域の稲作農耕民の大量移住にとって適した行先だったかもしれません。同様の変化は、後期新石器時代の頃における古代黄河人口集団へのsEA祖先系統の流入の遺伝学的証拠によって裏づけられており[29]、当時の環境および移住パターンへの広範な気候の影響を示唆しているかもしれません。さらに、LN石家河_oにおける有意により高い割合のsEA祖先系統から、この外れ値個体が初期の南方の移民を表している、と示唆されるかもしれません。古代の環境研究および関連する考古学的研究のより多くの調査が、環境の影響とヒトの行動との間の相互作用の解明には必要です。さらに本論文では、LN石家河期が少数の分析された個体によってのみ表されている、という限界が認識されます。将来のこの地域からのより多くの考古ゲノム学的証拠は、移行期についてのより決定的な結論を導くのに役立つでしょう。
考古学的証拠から、八里岡遺跡の異なる期間において南北の文化が変化し、それは稲作の割合の変動に対応している、と示唆されています。本論文の遺伝学的データはこのパターンを補完し、人口動態の一貫した軌跡を明らかにしています。異なる分野の証拠が時期と強度において異なるかもしれないことは、注目に値します。たとえば、LN屈家嶺期とLN龍山期における遺伝的変化は、文化および農耕の変化と比較して、時間の遅れがあるかもしれず、特定の期間における標本規模の限界を含めてさらなる調査が必要です。重要なことに、時期におけるこれらの微妙な違いにも関わらず、文化と農耕と遺伝の変化の全体的なパターンは顕著な一貫性を示しており、データの全体的な解釈における本論文の信頼性を補強します。
さらに、考古植物学的結果は早くもLN屈家嶺期の八里岡遺跡の植物遺骸群におけるイネの割合の顕著な増加を示唆しており、LN石家河にこの高い割合は維持され、その後LN龍山期にはわずかに減少しました。これは、4200年前頃以前に中国南部の稲作農耕民への類似性が増加した、八里岡遺跡人口集団で見られた遺伝的変化を裏づけます。しかし、本論文の同位体分析から、δ¹³Cは仰韶文化期と屈家嶺文化期~石家河文化期との間で依然として相対的に一貫していることを示しており、これは考古植物学的証拠から得られた結果と完全には一致しません。重要なのは、龍山文化の前の各時代の個体のδ¹³C値が、広範な差異(−16‰~−20.5‰の範囲)を示すことです。これが示唆しているのは、食性組成が八里岡遺跡の各期間内では多様で、さまざまな食資源の個々の選好を反映しているかもしれないことです。対照的に、考古植物学的結果は、期間および遺跡全体植物群組成の平均的な代表を提供しており、これは観察された不一致を説明できるかもしれません。八里岡遺跡における動植物遺骸のさらなる同位体分析は、ヒトの同位体データの解釈をさらに深めるでしょう。
埋葬慣行は、まだ生きている個体の社会的パターンを反映している可能性が高そうです。考古学的証拠から、中国の新石器時代の仰韶文化期には二次埋葬が一般的な埋葬慣行で、長く広範囲にわたる、段階的で地理的な特徴だった、と示唆されています。しかし、文化的人工遺物もしくはヒト遺骸の身体的特徴のみに基づくと、そうした埋葬慣行の動機は依然として不明です。M13号墓の古代ゲノムデータは、八里岡遺跡における大規模な二次埋葬を表しており、共同埋葬された個体間の関係の解明に不可欠な手がかりを提供し、中国の新石器時代における社会組織の再構築に役立ちますが、本論文は、これらの解釈が他の期間へと一般化できない可能性を強調します。
二次埋葬を行なう共同体が父系もしくは母系によって組織されているのかどうかに関して、考古学および人類学的研究では議論があり、二次埋葬で収集されたヒト遺骸すべてが、この集落の住民では血縁によって関連しているのかどうか、依然として不明です。本論文の模擬実験の結果として一般的に支持される仮定は、八里岡遺跡のM13号墓の個体群は父系親族制度を示しており、そこでは家系と子孫が男系を通じてさかのぼる、というものです。これらの意図的に選択された個体群は、親族関係にない共同体の住民の集合体ではなく、血縁に基づく特定の父系家族の構成員だった可能性が高そうです。
いくつかの仮説が、古代中国社会における二次埋葬慣行の説明に提案されてきており、それは、居住地の移動や宗教的信仰や死後の一族もしくは家族の構成員との再会への願望に限りません。2ヶ所の整然として家屋複合体間に意図的に位置する墓、墓内における大量のヒト遺骸の注意深い配置、儀式的な動物の顎や頭の存在など、特定の考古学的発見と組み合わせると、八里岡遺跡のM13号墓の遺伝的データは、二次埋葬慣行は家族の死亡した構成員の再会を目的とし、それによって共同体の結束を強化する、との考古学的推測をより裏づけます。
それにも関わらず、本論文の模擬実験手法の一つの限界は、データの少なさと標本抽出過程における未知の偏りが、親族関係構造推定の正確さに大きく影響を及ぼしてている可能性です。たとえば、模擬実験データを用いての分析で観察されたように、本論文の手法はより低い割合の標本抽出では個体の総数を過小評価することが多く、それは、無作為抽出の標本は、実際の人口集団の小さな部分集合に由来する傾向があるからです。この理由のため本論文では、M13号墓の系図は事後確率87%において200個体以上で構成されている、とのみ結論づけることができます。
さらに、本論文の模擬実験が、人口集団の親族関係構造の一部の一般的な特徴のみを把握しているのに対して、実際の世界の状況はより複雑である可能性が高そうです。これは、M13号墓における2組の父親と娘の組み合わせの発見によって示されており、娘は死亡時に成人に近いか成人でした。このパターンは、娘たちが特定の理由で未婚だったことを示唆しているかもしれません。あるいは、LN仰韶期の八里岡遺跡共同体では、女性族外婚が厳密に行なわれていなかったか、娘たちは他の父系家族に嫁いだものの、二次埋葬の対象に誤って選択されたことを示唆しているかもしれません。実際の状況は依然として不明で、さらなる調査が必要です。全体として、本論文は複雑な埋葬遺跡の個体群の親族関係および性別の確認について革新的手法を提供し、古代の共同体の社会的構造および埋葬慣行の研究に光を当てます。
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その研究(Xiong et al., 2025)と同様に本論文でも、長江流域新石器時代集団のゲノムは、黄河中流域中期新石器時代集団的な遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)と、福建省で発見された前期新石器時代人類の遺伝的祖先系統[33]の混合でモデル化できます。たとえば、長江流域ではなく珠江流域が稲作起源地だとしたら、長江流域には更新世末に黄河中流域中期新石器時代集団的な遺伝的構成の集団が存在し、前期新石器時代福建集団的な遺伝的構成の集団が稲作とともに北上して、前期新石器時代に長江流域でアジア東部南北間の遺伝的混合が進んだ可能性も想定されます。ただ、八里岡遺跡は本論文では長江中流域と位置づけられていますが、本論文でも北縁と指摘されているように、黄河流域にも近く、八里岡遺跡の中期新石器時代集団を、長江流域の中期新石器時代集団を表す存在と考えるのには慎重であるべきかもしれません。いずれにしても、長江流域の完新世の人口史の解明には、前期新石器時代個体のゲノムデータが必要となります。
以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、YHg(Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)、cM(centimorgan、センチモルガン)、IBD(identity-by-descent、同祖対立遺伝子)、o(outlier、外れ値)、O(oxygen、酸素)、C(carbon、炭素)、sEA(southern East Asian、アジア東部南方)、有効人口規模(Ne)、CREST(classification of relationship types、関係の種類の分類)です。
以下の時代区分の略称は、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、BA(Bronze Age、青銅器時代)、LBA(Late Bronze Age、後期青銅器時代)です。本論文で取り上げられる主要な文化は、7000~5000年前頃の仰韶(Yangshao、略してYS)文化、4500~3800年前頃の龍山(Longshan、略してLS)文化4900~4500年前頃の屈家嶺(Qujialing、略してQJL)文化、4500~紀元前4200年頃の石家河(Shijiahe、略してSJH)文化です。また、本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。
●要約
初期稲作農耕民の古代ゲノムの少なさによって、その遺伝的特性および雑穀農耕民との動的な相互作用についての理解が妨げられてきました。この研究では、長江中流域の北縁に位置する、中期新石器時代から後期青銅器時代までにわたる長期の集落である、八里岡遺跡の古代人58個体のゲノムが分析されました。この年代層序化された遺伝的データセットは、初期の稲作に関わった人口集団の包括的なゲノムの知見を提供し、アジア東部の人口統計学的歴史の理解を深めます。本論文では、八里岡遺跡において、アジア東部南方人口集団顕著なゲノム流入によって特徴づけられる、4200年前頃を重要な転換点とする、経時的な混合の連続した波が起きていた、と明らかになりました。多世代の二次埋葬内の詳しい親族関係と、5000年前頃にさかのぼる父系共同体も特定され、先史時代の中国における初期の社会構造についての新たな視点が提供されます。
●研究史
アジア東部では、南方の長江流域と北方の黄河流域が、完新世における人口拡大の主要な二大地点として機能しました。その独特な地理と気候と陸地の条件は、先史時代と歴史時代を通じて、多様な農耕慣行と文化的発展と人口統計学的軌跡につながりました。北方では、雑穀農耕に基づく新石器時代の仰韶文化(7000~5000年前頃)および龍山文化(4500~3800年前頃)が、黄河中流域において長期にわたって影響力を維持しました(図1a)。対照的に南方では、長江中下流域における作物の栽培化とその後の主食としての確立に続いて、社会的複雑さが稲作とともに発展しました。
この地域で台頭した主要な二つの文化、つまり4900~4500年前頃の屈家嶺文化と4500~紀元前4200年頃の石家河文化は、屈家嶺文化期以降の大規模な宗教儀式や周東に組織された都市によって証明されるように、社会的構造の形成にも顕著な影響を残しました(図1a)。先行研究では、黄河と長江を結びつけるこの地域における、継続的な相互作用と領域の重複が示唆されており、そこでは文化的変容が農耕の発展と密接に関連していました。しかし、人口集団の相互作用の詳細は依然としてほぼ分かっておらず、それは、古代人のゲノムがこれまで長江流域から得られていなかったからです【上述のように、最近になって長江中流域および下流域の中期新石器時代以降の人類遺骸のゲノムデータが報告されました(Xiong et al., 2025)】。以下は本論文の図1です。
本論文では、長江中流域の北端に位置する、8500~2500年前頃の新石器時代~青銅器時代の考古学的遺跡である、八里岡に焦点が当てられます。この地域は、黄河流域と長江流域の中間地帯となります。層序化された考古学的証拠から、八里岡遺跡は南北両方の文化によって影響された交互の変容を経た、と示唆されます。八里岡遺跡はいくつかの理由で、新石器時代アジア東部の理解を広げるうえで、理想的な状況を提供します。第一に、八里岡遺跡は長江下流域の古代の稲作民と関連するゲノム構成要素の抽出に、独特な機会を提供します。第二に、中期新石器時代以降の継続的なヒト集落として、八里岡遺跡によって、経時的な人口移動と文化的変容と農耕画策の間の動的な相互作用の調査が可能となります。さらに、八里岡遺跡は仰韶文化後期(5000年前頃)のいくつかの大規模な二次埋葬を特徴としており、全個体の遺骸は一次埋葬から掘り起こされ、まとめて再埋葬されました。この時代のこうした広範な埋葬慣行の根底にある同期と社会組織は、考古ゲノム学的手法を通じてまだ調査されていません。さらに、アジア東部における古代の親族関係構造についての研究が相対的に少ないことを考えると[18]、八里岡遺跡における多世代を含む二次埋葬の遺伝学的な親族関係分析は、この地域における新石器時代の社会組織に貴重な知見を提供できるかもしれません。
本論文では、中期新石器時代から後期青銅器時代にまたがる八里岡遺跡人口集団の古代人58個体のゲノム解析を通じて、人口動態が解明されます。分析された個体群は、アジア東部北方の黄河社会およびアジア東部南方の長江社会の両方と関連する、複数の文化的帰属を示します。本論文の調査結果は、前期新石器時代アジア東部人口集団が八里岡遺跡集団の遺伝子プールにどのように寄与したのか論証し、この長い時間的枠組みを通じて、南北の祖先構成要素間の双方向の遺伝子流動が維持されたことを明らかにします。これらの遺伝的相互作用は、地域間の農耕慣行および物質文化の同時の変容を促進した可能性が高そうです。本論文はさらに、5000年前頃までさかのぼる、アジア東部における大規模な二次埋葬慣行および父系社会構造についての親族関係情報を提供します。
●八里岡遺跡とその古代人のゲノム
長江中流域の北縁に位置する八里岡遺跡は、長江の最大の支流である漢江水系の一部となる湍河沿いに位置する、村落規模の遺跡です(図1a~c)。1991年以降続いている発掘から、八里岡遺跡は初期新石器時代(8500年前頃)にまでさかのぼる長期にわたるヒトの集落だった、と明らかになってきました。八里岡遺跡は6層の主要な文化堆積物で構成され(仰韶文化前、仰韶文化、屈家嶺文化、石家河文化、龍山文化、周王朝)、年代順に、前期新石器時代(EN)と中期新石器時代(MN)と後期新石器時代(LN)と青銅器時代(BA)にまたがっています。ヒトの骨格(700個体超)が、上位5層の文化堆積物から発掘されました。八里岡遺跡の考古植物学的証拠に基づいて新石器時代にはイネが主要作物と同定され、炭素同位体分析も、龍山文化期の前におけるC3植物食性の高い割合の選好を示しました(図1d)。
後期新石器時代(5000年前頃)における興味深い発展は、よく組織化された一続きの家屋複合体と大規模な記事埋葬で、家系組織や共同体の結束や儀式埋葬慣行など社会慣行の特定のパターンを示唆しているかもしれません。注目すべきことに、八里岡遺跡の二次埋葬のうち、M13号墓は最大の規模で際立っており、90個体以上の遺骸が含まれています。M13号墓におけるブタの下顎の意図的な蓄積から、これが新石器時代の宗教的行儀と関連していたかもしれない、と示唆されるので、古代ゲノム解析によるM13号墓共同体の人口統計学的構造の取得は、社会組織への知見を提供できるかもしれません。
較正年代で6100~2500年前頃の間となる、八里岡遺跡の103個体の骨標本が検査され、80個体でゲノム規模の古代DNAデータが回収されました。そのうち、内在性ヒトDNAの保存が1%超の58個体が深い配列決定に詮索され、深度の範囲は0.01~1.39倍で、その真正性が確証されました。下流集団遺伝学的分析[23]および遺伝学的関係の推定のため、124万ヶ所の多様体の単一の高品質な塩基の無作為標本抽出によって、これらの個体の疑似半数体遺伝子型が生成されました。qpWave[24]を用いると、全期間の個体は遺伝的に同じ期間の個体と一致し、例外は同じ期間の他個体とクラスタ化しなかった(まとまらなった)4個体、つまりLN仰韶のBLG-M13-17(LN仰韶_o1)およびBLG-M13-39A(LN仰韶_o2)と、LN石家河のBLG-M208(LN石家河_o)と、LBA周のBLG-M198(LBA周_o)だった、と観察されました。この結果に基づいて、八里岡遺跡の個体は年代および考古学的背景に基づいて6集団に区分され、それは、MN仰韶(9個体)、LN仰韶(30個体)、LN屈家嶺(2個体)、LN石家河(3個体)、LN龍山(6個体)、LBA周(4個体)で、上述の4個体はその後の分析では別の外れ値として扱われました。その他に、LN仰韶集団の3個体(M13-76、M13-88、M13-89)は、密接な親族関係(1親等の近縁性)および相対的により低い常染色体網羅率のため、個体群に基づく集団遺伝学的分析から除外されました。
●八里岡遺跡個体群の遺伝的構造
現在の人口集団でPCAが実行され、具体的には現在のアジア東部の39人口集団[28]に焦点が当てられ、古代人のゲノムが主要な差異に投影されました(図2a)。八里岡遺跡個体群はおもに、現代漢人の差異内でまとまり、黄河中下流域の新石器時代人口集団[29]の最も近くに位置しましたが、明確な南方への移行を示しました。長江流域全体における八里岡遺跡の位置を考慮して、現在のアジア東部南方の人々の多様性の範囲へと向かって、PCAが適用されました。その結果、八里岡遺跡個体群は現在のミャオ・ヤオ語族およびシナ・チベット語族話者に沿ってまとまる、と示唆されます。以下は本論文の図2です。
外群f3値の対での比較から、古代黄河人口集団と八里岡遺跡個体群との間の遺伝的類似性にも関わらず、八里岡遺跡個体群はアジア東部南方人とより多くのアレル(対立遺伝子)を共有しており、それはF4統計でも確認された、と確証されます(図2b)。教師無ADMIXTURE分析でも、八里岡遺跡個体群は一般的に、とくにLN石家河期以後には、古代黄河人口集団よりもアジア東部南方構成要素の割合が高い、と示唆されます。さらに、これらの分析はまとめて、最初のqpWaveの結果で裏づけられる、外れ値4個体の存在を特定します。
●新石器時代のアジア東部人の南北間の年代順の相互作用
八里岡遺跡個体群は、約4000年間にわたる特定の場所でのヒト集団遺伝学における継続的変化を記録しており、北方(仰韶文化と龍山文化)および南方(屈家嶺文化と石家河文化)の文化的人工遺物の複数の物理的に連なった層がある、3~4mの堆積物を形成しています。F4統計を活用して、さまざまな供給源が調べられ、連続した時代の間の遺伝子流動の方向性が分析され、さらにqpAdmモデル化[24]を用いて、八里岡遺跡個体群における祖先系統の割合が推定されました(図3a)。以下は本論文の図3です。
本論文の遠位qpAdmモデル化は、早くもMN仰韶期(6000年前頃)の南北の混合の存在を明らかにします。LN仰韶(5000年前頃)からLN屈家嶺(4700年前頃)にかけて、八里岡遺跡痔は北方からの遺伝的影響を受けました。その後、LN石家河期(4300年前頃)には、遺伝子流動は圧倒的に反転し、福建_ENによって表されるsEA構成要素[33]が、祖先系統の割合35%に上昇しました。しかし、LBA周代(2700年前頃)には、遺伝子流動は再びわずかに北方へと移行し、sEA構成要素は24%へと減少しました(図3a)。隣接期間を対比させる近位qpAdmモデル化も、遺伝子流動のこの変動するパターンを裏づけます(図3a)。
興味深いことに、これらの動的な遺伝的変化は、文化的もしくは農耕の変化と完全には一致していませんでした。たとえば、LN屈家嶺期には、発掘されたイネの遺骸は先行するLN仰韶期の44%から88%へと顕著に増加した、と報告されています。この変容期には、稲作の増加が南北の文化的変化と同時に起きましたが、sEA祖先系統の流入はLN屈家嶺個体群では特定されなかったものの、その後のLN石家河期には遅れて起きました。
●古代稲作農耕民の遺伝的構成要素と伝播
LN石家河期は、本論文のF4統計分析に基づくと、遺伝的連続性の重要な分岐点と分かっています。さまざまな期間にわたる対での比較が実行され、LN石家河期の前後におけるsEA祖先系統の組成における顕著な違いが見つかりました(図3b)。PCA革新適合も、4200年前頃となるLN屈家嶺期とLN石家河期との間の明確な変化を明らかにし、sEA遺伝的構成要素の顕著な流入をさらに裏づけます。興味深いことに、同様の遺伝的変化は同時代の後期新石器時代黄河人口集団でも検出されました[29]。さらに、八里岡遺跡の下位集団間の対での遺伝的差異が計算され、LN石家河期個体群は最高の遺伝的多様性を示す、と分かりました(図3c)。一貫して、4~20cMのROHの長さの分布を用いて推定された有効人口規模(Ne)はLN石家河期において最大で(図3d)、かなりの程度の人口集団の混合がこの期間に起きたかもしれない、と示唆されます。さらに、外群f3統計およびf4統計の結果は、とくにsEA祖先系統の含有量の多い外れ値1個体(LN石家河_o)を示しました(図3e)。LN石家河期における稲作の持続的な高い割合は、当時の八里岡遺跡およびその周辺地域への稲作関連人口集団の移住と関連しているかもしれない、と推測されます。八里岡遺跡個体群のゲノムに埋め込まれた祖先の情報は、稲作の拡大の調査について独特なデータセットを提供します。
●新石器時代アジア東部における社会的構造への知見
M13号墓によって例証されている仰韶文化内の二次埋葬は、おそらく生者の共同体によって行なわれた儀式に由来しました。それにも関わらず、約200年間(紀元前5100~紀元前4900年頃)にわたるこれらの埋葬された個体間の相互関係は、長く議論されてきました。M13号墓から無作為に標本抽出された多くの個体のゲノム網羅率は低いので、機械学習に基づくモデルを用いて、生物学的性別が正確に特定されました。これらの個体のうち2/3以上(75個体のうち52個体)は、男性35個体および女性17個体と特定でき、M13号墓における男性が大半だったことを示唆しています。M13号墓個体群の片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)から、mtDNAのマクロタイプの大半はmtHg-D(34%)・M(23%)・A(14%)・R(11%)に属している、と明らかになり、多様な母系の関係が新石器時代の八里岡遺跡共同体ではすでに確立していた、と示唆されます。しかし、M13号墓のY染色体ハプロタイプは集中しており、全系統がYHg-Oβ(F46、O2a2b1a2a1a)の分枝下にあり、このYHgは6000~4000年前頃の八里岡遺跡個体群にも持続的に存在し、その割合は八里岡遺跡の男性個体の82%(28個体のうち23個体)を占めていました。
親族関係分析が網羅率0.1倍以上のM13号墓の30個体で行なわれ、1親等3組と2親等5組と3親等5組の関係が明らかになりました(図4b)。mtDNAハプロタイプの結果によると、2親等の関係の2組は父親と娘の組み合わせで、自然人類学で特定されたように、娘の一方は約15歳、もう一方の娘は18~25歳で、別の1親等の関係は兄弟でした。CRESTの改訂版を活用して、2親等の関係の2組は、父方の半キョウダイ(異母キョウダイ、M13-75とM13-7、M13-4とM13-86)、2組は父方のオジと甥の関係(M13-75とM13-90、M13-7とM13-90)と特定されました。片親性遺伝のハプログループによって裏づけられたM13-75とM13-7とM13-90の間の遺伝的関係は、父系で組織化された系図(図4c)について説得力のある証拠を提供しますが、新たなmtDNA系統は、各世代において入ってきた女性によってもたらされており、女性族外婚のパターンが示唆されます。以下は本論文の図4です。
さらに、ancIBDを用いて、すべての組み合わせの個体間の遠い遺伝的近縁性の徹底的な分析が実行され、100cM超の累積IBDを共有する、3~6親等の組み合わせが特定されました。この結果は、成人女性間と比較しての成人男性間のより密接な親族関係の優勢を示しており、成人女性間では、密接な近縁性のほぼ完全な欠如が示されており(図4d)、父系制が広く行なわれていたことを示唆しています。これは、M13号墓の男性におけるY染色体ハプロタイプの均一性によっても裏づけられ、これはmtDNAのハプロタイプの高度な多様性とは対照的です[36]。
しかし、標本抽出率と古代DNAの保存状態や、M13号墓のヒト遺骸が埋葬にどのように選択されたのか、不確実であるため、詳細な親族関係構造の直接的な推測はきわめて困難なようです。そこで、さまざまな親族関係構造状況下の模擬実験が行なわれ、模擬実験された人口集団から標本抽出された個体群とM13号墓の実際のデータとの間でのIBD共有特性の類似性が評価されました。さまざまな親族関係構造設定のうち、M13号墓のデータセットと最高の類似性を論証した模擬実験人口集団は一貫して、単一系統構造を示唆する、より高い中新世を示します。これは、M13号墓個体群が優勢な単一系統から構成される人口集団に由来する可能性を示唆しています。さらに、M13号墓人口集団は事後確率78%超で中心度0.8超と推定され、この人口集団は優勢な単一系統で構成される、との仮定が裏づけられます。さらに、本論文の模擬実験の結果は一般的に、M13号墓個体群は200人以上の人口集団に由来する可能性が高い、との仮定を支持しており、推定事後確率は87%超です。
その他に、個体の埋葬場所と組み合わせると、識別可能な空間構成パターンは墓穴内の遺伝的親族関係の個体群の配置で観察されず、この二次埋葬慣行において、正確な系図は不明か重要ではなかったかのどちらかかもしれない、と示唆されます。さらに、ROH分布から、近親婚の証拠も見つかりましたが、一般的ではなく、当時、密接な親族関係の個体間の生殖を厳密に防止する仕組みがなかった可能性が示唆されます。
●考察
以前に刊行された古代毛のデータでは、アジア東部古代人の南北の分離は前期新石器時代より前に起きた、と示唆されてきました[33、37]。しかし、この遺伝的差異は、アジア東部の南北の祖先系統間の広範な混合のため、アジア東部現代人では大きく減少してきました。本論文の年代データから、アジア東部南北の祖先系統間の遺伝的混合の広範な発生は、早くも中期新石器時代には少なくとも長江中流域の北縁に到達していた、と示唆されました。八里岡遺跡個体群で観察されたこの遺伝的特性から、同時代のヨーロッパで見られる顕著な人口置換事象はなかった[38]、と示唆されます。しかし、最高の人口多様性と一致して、4200年前頃のLN石家河期にはsEA集団へと向かう明らかな遺伝的変化がありました。あり得る一つの推測は気候異常の通常ではない期間と関連しているかもしれませんが、さまざまな極端な気候事象と長期大きな景観変容につながり、作物の栽培とヒトの活動に大きく影響を及ぼした、古環境に関する議論が依然として存在しています。
八里岡遺跡周辺(中国の北緯31度~36.5度)の石筍および降水量のδ¹⁸Oの記録は、4200年前頃には湿潤期気候を示唆しており(図1d)、この地域は長江流域の稲作農耕民の大量移住にとって適した行先だったかもしれません。同様の変化は、後期新石器時代の頃における古代黄河人口集団へのsEA祖先系統の流入の遺伝学的証拠によって裏づけられており[29]、当時の環境および移住パターンへの広範な気候の影響を示唆しているかもしれません。さらに、LN石家河_oにおける有意により高い割合のsEA祖先系統から、この外れ値個体が初期の南方の移民を表している、と示唆されるかもしれません。古代の環境研究および関連する考古学的研究のより多くの調査が、環境の影響とヒトの行動との間の相互作用の解明には必要です。さらに本論文では、LN石家河期が少数の分析された個体によってのみ表されている、という限界が認識されます。将来のこの地域からのより多くの考古ゲノム学的証拠は、移行期についてのより決定的な結論を導くのに役立つでしょう。
考古学的証拠から、八里岡遺跡の異なる期間において南北の文化が変化し、それは稲作の割合の変動に対応している、と示唆されています。本論文の遺伝学的データはこのパターンを補完し、人口動態の一貫した軌跡を明らかにしています。異なる分野の証拠が時期と強度において異なるかもしれないことは、注目に値します。たとえば、LN屈家嶺期とLN龍山期における遺伝的変化は、文化および農耕の変化と比較して、時間の遅れがあるかもしれず、特定の期間における標本規模の限界を含めてさらなる調査が必要です。重要なことに、時期におけるこれらの微妙な違いにも関わらず、文化と農耕と遺伝の変化の全体的なパターンは顕著な一貫性を示しており、データの全体的な解釈における本論文の信頼性を補強します。
さらに、考古植物学的結果は早くもLN屈家嶺期の八里岡遺跡の植物遺骸群におけるイネの割合の顕著な増加を示唆しており、LN石家河にこの高い割合は維持され、その後LN龍山期にはわずかに減少しました。これは、4200年前頃以前に中国南部の稲作農耕民への類似性が増加した、八里岡遺跡人口集団で見られた遺伝的変化を裏づけます。しかし、本論文の同位体分析から、δ¹³Cは仰韶文化期と屈家嶺文化期~石家河文化期との間で依然として相対的に一貫していることを示しており、これは考古植物学的証拠から得られた結果と完全には一致しません。重要なのは、龍山文化の前の各時代の個体のδ¹³C値が、広範な差異(−16‰~−20.5‰の範囲)を示すことです。これが示唆しているのは、食性組成が八里岡遺跡の各期間内では多様で、さまざまな食資源の個々の選好を反映しているかもしれないことです。対照的に、考古植物学的結果は、期間および遺跡全体植物群組成の平均的な代表を提供しており、これは観察された不一致を説明できるかもしれません。八里岡遺跡における動植物遺骸のさらなる同位体分析は、ヒトの同位体データの解釈をさらに深めるでしょう。
埋葬慣行は、まだ生きている個体の社会的パターンを反映している可能性が高そうです。考古学的証拠から、中国の新石器時代の仰韶文化期には二次埋葬が一般的な埋葬慣行で、長く広範囲にわたる、段階的で地理的な特徴だった、と示唆されています。しかし、文化的人工遺物もしくはヒト遺骸の身体的特徴のみに基づくと、そうした埋葬慣行の動機は依然として不明です。M13号墓の古代ゲノムデータは、八里岡遺跡における大規模な二次埋葬を表しており、共同埋葬された個体間の関係の解明に不可欠な手がかりを提供し、中国の新石器時代における社会組織の再構築に役立ちますが、本論文は、これらの解釈が他の期間へと一般化できない可能性を強調します。
二次埋葬を行なう共同体が父系もしくは母系によって組織されているのかどうかに関して、考古学および人類学的研究では議論があり、二次埋葬で収集されたヒト遺骸すべてが、この集落の住民では血縁によって関連しているのかどうか、依然として不明です。本論文の模擬実験の結果として一般的に支持される仮定は、八里岡遺跡のM13号墓の個体群は父系親族制度を示しており、そこでは家系と子孫が男系を通じてさかのぼる、というものです。これらの意図的に選択された個体群は、親族関係にない共同体の住民の集合体ではなく、血縁に基づく特定の父系家族の構成員だった可能性が高そうです。
いくつかの仮説が、古代中国社会における二次埋葬慣行の説明に提案されてきており、それは、居住地の移動や宗教的信仰や死後の一族もしくは家族の構成員との再会への願望に限りません。2ヶ所の整然として家屋複合体間に意図的に位置する墓、墓内における大量のヒト遺骸の注意深い配置、儀式的な動物の顎や頭の存在など、特定の考古学的発見と組み合わせると、八里岡遺跡のM13号墓の遺伝的データは、二次埋葬慣行は家族の死亡した構成員の再会を目的とし、それによって共同体の結束を強化する、との考古学的推測をより裏づけます。
それにも関わらず、本論文の模擬実験手法の一つの限界は、データの少なさと標本抽出過程における未知の偏りが、親族関係構造推定の正確さに大きく影響を及ぼしてている可能性です。たとえば、模擬実験データを用いての分析で観察されたように、本論文の手法はより低い割合の標本抽出では個体の総数を過小評価することが多く、それは、無作為抽出の標本は、実際の人口集団の小さな部分集合に由来する傾向があるからです。この理由のため本論文では、M13号墓の系図は事後確率87%において200個体以上で構成されている、とのみ結論づけることができます。
さらに、本論文の模擬実験が、人口集団の親族関係構造の一部の一般的な特徴のみを把握しているのに対して、実際の世界の状況はより複雑である可能性が高そうです。これは、M13号墓における2組の父親と娘の組み合わせの発見によって示されており、娘は死亡時に成人に近いか成人でした。このパターンは、娘たちが特定の理由で未婚だったことを示唆しているかもしれません。あるいは、LN仰韶期の八里岡遺跡共同体では、女性族外婚が厳密に行なわれていなかったか、娘たちは他の父系家族に嫁いだものの、二次埋葬の対象に誤って選択されたことを示唆しているかもしれません。実際の状況は依然として不明で、さらなる調査が必要です。全体として、本論文は複雑な埋葬遺跡の個体群の親族関係および性別の確認について革新的手法を提供し、古代の共同体の社会的構造および埋葬慣行の研究に光を当てます。
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