国武貞克、佐藤宏之『南回り、北回りの遭遇、列島のホモ・サピエンス 新・日本旧石器文化の成立』
朝日選書の一冊として、朝日新聞出版より2025年10月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書の構成は以下の通りです。
●序章:急速に解明されつつある日本列島の旧石器文化の成り立ち(国武貞克)
●第1章:日本列島における最古の石刃遺跡の発見(国武貞克)
●第2章:劣等の石刃石器群の起源地を求めて(国武貞克)
●第3章:中央アジア西部で初の初期後期旧石器時代(IUP)遺跡の発見(国武貞克)
●第4章:日本列島への人類到来の背景─人類のユーラシア拡散(佐藤宏之)
●第5章:アジアの後期旧石器研究と日本列島(佐藤宏之)
●第6章:日本列島における後期旧石器文化の成立(国武貞克)
●第7章:ユーラシア先史世界全体から見た日本列島の後期旧石器文化の成立(佐藤宏之)
●終章:人はどこから香坂山遺跡へたどりついたのか(国武貞克)
本書の対象は日本列島の旧石器時代ですが、日本列島に限らず、広くユーラシア世界の旧石器時代に位置づけていることが特徴で、私にとってはたいへん有益でした。表題からも窺えるように、本書の対象は基本的には現生人類(Homo sapiens)ですが、現生人類がアフリカから世界へと拡散する過程で、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と遭遇し、その遺伝的影響を受けたことは今では広く認められていますが、本書では、現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との関係についてほとんど言及されていません。
●第1章
日本列島における後期旧石器時代(ユーラシア西部の上部旧石器時代におおむね相当する、と私は認識しています)の始まりは37500年前頃までさかのぼり、台形や矩形の台形様石器が使われるようになります。その少し後の36000年前頃には、台形様石器と大きく異なる石刃技術が出現します。これまで、日本列島における最古の石刃技術は36300年前頃の八風山II遺跡で確認されており、35300年前頃以降には、関東ローム層の遺跡で多く見られるようになります。この日本列島最古級の石刃技術はユーラシアの中緯度~高緯度地帯の上部旧石器と類似していますが、違いも指摘されており、日本列島最古級の技術について、ユーラシアから伝播したのか、日本列島で独自に発展したのか、判断に難しさもありました。
そうした中で、著者(国武貞克氏)は長野県佐久市の香坂山遺跡の発掘に深く関わり、ユーラシアで見られるIUP(Initial Upper Paleolithic、初期上部旧石器)と類似した石器が発見されます。香坂山遺跡では、日本列島における後期旧石器時代の前かもしれない、と指摘されている遺跡で少数発見された斜軸尖頭器と類似した石器も出土し、斜軸尖頭器はユーラシアの中部旧石器時代の石器の一つです。著者は、大型石刃や斜軸尖頭器やルヴァロワ(Levallois)型尖頭器がそろって出土している点に、香坂山遺跡の石器群とアジア中央部やシベリア南部やアジア北部のIUP石器群との類似性を見ています。香坂山遺跡で発掘が進むと、IUPの示準石器として広く認識されている彫器状石核も発見されました。香坂山遺跡の年代は37000年前頃と推定されており、日本列島では最古級の石刃が発見された遺跡となります。香坂山遺跡では旧石器時代の日本列島特有の刃部磨製石斧も発見されており、香坂山遺跡および日本列島の後期旧石器時代に関する著者の見解は、当ブログで以前にも取り上げました(国武., 2023)。
●第2章
香坂山遺跡から得られた新たな知見を踏まえて、日本列島の石刃石器群の起原が推測されています。ユーラシアにおいてIUPは起源地のレヴァント以外にバイカル湖地域やモンゴル高原などでも見られ、現生人類の移動と関連づけられてきました。著者(国武貞克氏)はアジア中央部に着目し、カザフスタンのチョーカーン・バリノフ遺跡で発掘調査を行いました。著者はチョーカーン・バリノフ遺跡で、すでに発掘が進んでいる第1~第5文化層より下の第6文化層とその下層の発掘を試み、第6文化層の下で新たに第7~第9文化層が確認されました。チョーカーン・バリノフ遺跡の最古級の石器の年代は4万年前頃で、第8文化層の小口面型の大型石刃核は上部旧石器的、第9文化層の平面型の石刃核は中部旧石器的な技術で、IUPとの類似の可能性も指摘されています。
●第3章
著者(国武貞克氏)はカザフスタンに続いてタジキスタンに注目し、フッジ遺跡で発掘を行ないました。フッジ遺跡において発見された石器では、長さ10cm程度の大型石刃とその石刃核が最も多く、石刃の剥離技法では中部旧石器時代のルヴァロワ技法を用いた痕跡は見られず、上部旧石器的な技術による石刃核も見られました。尖頭器では、ルヴァロワ技法が用いられた石器はごく少数で、大半は求心剥離による斜軸尖頭器でした。フッジ遺跡の第3文化層で、放射性炭素年代測定によって46000~44000年前頃と推定されました。こうした上部旧石器時代最初期の石刃石器群は、この地域に拡散してきた現生人類の最初の文化かもしれません。
●第4章
現生人類の人類進化史と石器の変容についても簡潔に取り上げられています。注目されるのは、マレーシアのブーキット・ブヌ遺跡で、183万年前頃のアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)型握斧と思われる石器が発見されていることです。アシューリアンは現時点ではアフリカ東部において195万年前頃までさかのぼる可能性が指摘されていますが(Mussi et al., 2023)、アシューリアンの担い手である人類は、アシューリアン出現後比較的短期間でユーラシアに広範に拡大したのかもしれません。中期更新世後期のユーラシアでは、北方において大型動物の狩猟への依存が高まり、それに対応する剥片石器に重点が移行したのに対して、南方では植物も含めて資源の多角的利用もあって、石器狩猟具が北方よりも発達しなかったのかもしれない、と指摘されています。この資源への依存の違いによって、ユーラシア南方では北方よりも多様な人類種が共存できた可能性も指摘されています。
●第5章
20世紀末に遺伝学的研究で現生人類アフリカ単一起源説が主流になっても、考古学的研究では、中部旧石器時代~上部旧石器時代にかけてユーラシアの各地で顕著な連続性が報告されていたので、アフリカ単一起源説には批判的な傾向が強く見られました。この中部旧石器~上部旧石器の連続性を示しているのがIUPで、IUPは中部旧石器のムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)の存在が前提となります。ムステリアンがほぼ見られないユーラシア東部というかモヴィウス線の東側でも、ロシア極東や韓国などでIUPが発見されており、レヴァント起源と考えられるIUPの拡散において、アジア中央部などユーラシア内陸部が重要となり、アルタイ山脈もそこに含まれます。アルタイ山脈ではIUPからEUP(Early Upper Palaeolithic、上部旧石器時代前期)への移行が見られ、EUPは石刃や細石刃石器群で構成される完全な上部旧石器文化です。ただ、ユーラシア南方では、下部旧石器時代および中部旧石器時代以来の礫器および剥片石器群が継続しました。
●第6章
香坂山遺跡の石刃石器群とユーラシアの45000~4万年前頃となるIUPとが比較されています。第6章では、ユーラシア中央部が、ロシアのアルタイ山脈からバイカル湖周辺に至る東方と、カザフスタン南部からウズベキスタン北部を経てタジキスタン南部に至る天山・パミール地域の西方に二分されています。アルタイ山脈を中心とするアジア中央部東方のIUP石器群は、石器組成と制作技術の高い斉一性が指摘されており、大型石刃を含むことが特徴です。アジア中央部西方では、ウズベキスタンのオビ・ラフマート(Obi-Rakhmat)洞窟で、東方の石器群と組成および技術の類似した石器群が確認されています。この石器群はオビ・ラフマティアンと呼ばれており、オビ・ラフマート洞窟の下層から上層まで石器組成がほとんど変化せずに継続します。その年代は、下層が10万年前頃、上層は10万年前頃~IUPまで継続します。アジア中央部東方のアルタイ山脈のIUPの大型石刃石器群は、オビ・ラフマティアンを背景に成立したようです。アジア中央部東方のIUP石器群には、ルヴァロワ方式をさらに発達させた石刃生産技術がありますが、アジア中央部全体で見ると、典型的なルヴァロワ方式に限らない多様な石刃製作技術も見られます。アジア中央部西方のIUP石器群ではルヴァロワ方式による石刃技法がほとんど見られず、これはアジア中央部西方において中部旧石器時代にはルヴァロワ方式があまり確認されていないことと関連しているようです。こうした多様性を踏まえて本書では、アジア中央部のIUP石器群の大型石刃生産技術の特徴について、石核を二次元的に消費していく平面剥離型(中部旧石器の特徴)、石核を立体的に消費していく三次元剥離型(上部旧石器の特注)、中間的な小口面型を指摘します。
アジア中央部からさらに東方にかけての、タジキスタンのフッジ遺跡やウズベキスタンのオビ・ラフマート洞窟やロシアのカラボム(Kara-Bom)遺跡や中国の水洞溝(Shuidonggou)遺跡の大型石刃石器群と香坂山遺跡の石器群と比較すると、大きさと形態は共通し、大型石刃生産技術の平面剥離型と三次元剥離型と小口面型も共通します。また、彫器状石核が含まれることや、小石刃の素材生産が大型石刃の生産仮定に組み込まれていたことや、レヴァントにおいて中部旧石器時代から用いられていた横断面取石核技法(やや厚みのある剥片を素材として、表裏面を横断する形で打面を作り出し、背面側から小型の長狭剥片を剥離する技術)も共通します。IUP石器群には尖頭器も見られ、ルヴァロワ方式による石刃生産で剥離された寸詰まりな尖頭形石刃、ルヴァロワ型尖頭器、斜軸剥片を素材とした斜軸尖頭器、二次加工を加えたムスティエ型尖頭器が存在し、遺跡ごとに組み合わせが大きく異なります。本書はこれを、直前の中部旧石器時代の石器製作技術、とくにルヴァロワ方式に影響を受けているのではないか、と推測しています。香坂山遺跡石器群は、斜軸尖頭器が大型石刃と共伴している点でIUP石器群と共通しており、本書は、日本列島において斜軸尖頭器を主体とする中部旧石器が存在した可能性とともに、斜軸尖頭器が大型石刃に伴ってユーラシア大陸から新たに伝播した可能性も指摘します。本書はこれらを踏まえて、香坂山遺跡の石器群が、IUPそのものか、その技術的特徴を継承したEUP石器群とともに流入した可能性を指摘します。香坂山遺跡とアジア中央部~東部のIUP石器群の出土遺跡が、標高1100~1300mに位置することから、水洞溝遺跡と日本列島との間の似たような地形で、IUP石器群が今後確認される可能性も期待されます。なお本書は、現時点で水洞溝遺跡より東方のIUP石器群の系譜の追跡はできない、と指摘しますが、最近、山西省の峙峪(Shiyu)遺跡の45000年前頃石器群はIUPである可能性が示されています(Yang et al., 2024)。
一方で、香坂山遺跡より700年程度さかのぼる37500年前頃の熊本県の石の本遺跡や、37400年前頃の静岡県井出丸山遺跡では、台形様石器が出土しており、本書はこれらを、日本列島における中部旧石器時代以来の系譜に位置づけています。石の本遺跡など九州の後期旧石器時代初頭の遺跡では、鋸歯縁加工石器群を含むことが特徴になっており、鋸歯縁石器は朝鮮半島~中国北部の中期旧石器時代において広く見られます。本書は、日本列島の最古級の石刃石器群は、台形様石器を含まないことから、日本列島において独自に発達したり、石刃技術だけ伝わったりしたのではなく、ユーラシア大陸からの人口移動を伴う文化伝播だった可能性が高いことを指摘します。ただ本書は、36800年前頃の香坂山遺跡と41000年前頃の水洞溝遺跡の年代差から、IUP石器群の技術構造と石器組成をよく残しているモンゴル高原の38000~37000年前頃のEUP石器群がユーラシア東部の他地域にも存在し、日本列島に到来した可能性と、IUP石器群は4万年前頃までに日本列島に到来していたものの、まだ発見されておらず、香坂山遺跡石器群がその系譜にある可能性も指摘しています。日本列島において後期旧石器時代初頭には、日本列島の中期旧石器時代の系譜と考えられる台形様石器と、ユーラシア大陸のIUP石器群の系譜と考えられる石刃石器群は共存していませんでしたが、武蔵台遺跡などの事例から、35300年前頃までには両者が一体化し、同一の遺跡内で使用されるようになりました。本書はこの背景に、異なる人類集団の交雑があった可能性や、36000年前頃以前に、すでに両石器群の相互作用があった可能性も想定しています。本書は、ユーラシア南回りの現生人類が鋸歯縁石器を、ユーラシア北回りの現生人類がIUP石器群を日本列島にもたらしたのではないか、と推測しています。
●第7章
本書は、日本列島における前期旧石器時代の存在についてはまだ判断できる段階ではないものの、中期旧石器時代(12万~4万年前頃)については、岩手県の金取遺跡および柏山館遺跡や群馬県の権現山遺跡や熊本県大野遺跡などの事例がある、と指摘します。これらの遺跡の石器群は大型石器と小型剥片石器から構成されており、大型石器群には先端の尖った片面加工の尖頭礫器(チョッパー)や打製石斧(日本列島固有とされる局部磨製石斧と技術的系統関係があります)、小型剥片石器には各種の削器や石錐や抉入石器(ノッチ)や素刃石器などがあります。台形状の剥片を利用した素刃石器については、後期旧石器時代に出現する日本列島固有の台形様石器との技術的系統関係が指摘されています。日本列島の中期旧石器時代において、容積減少型剥離技術である石刃技術の存在は確認されていません。日本列島固有の特徴もありますが、これら日本列島の中期旧石器には、モヴィウス線東方のユーラシア大陸石器群と共通する特徴が認められます。
後期更新世の寒冷期の日本列島は地理的に、樺太と北海道と千島諸島が陸続きの古北海道半島、本州と四国と九州が陸続きだった古本州島、古琉球諸島に区分されます。古北海道半島はユーラシア大陸と陸続きだったので、その文化的影響を強く受け続け、ずっと島だった古本州島は独自の文化的特徴が発達し、古琉球諸島は南方に行くほど古本州島の文化的影響が薄くなります。日本列島の中期~後期旧石器時代は気候が不安定で、古北海道半島と古本州島のほとんどの地域は、亜寒帯(寒温帯)針葉樹林や針葉樹と冷温帯落葉広葉樹林の混じる針広混交林が広がっており、「縄文時代」の堅果類のように植物資源に大きく依存はできず、定着的な漁撈も確認されていないので、陸生動物の狩猟が主要な生業で、遊動的な生活だった、と考えられます。じっさい、後期旧石器の多くは、側縁加工尖頭形石器や台形様石器や角錐状石器などの狩猟具から構成されていました。
ユーラシア大陸から日本列島へと現生人類が拡散した時期は、古北海道半島が25000年前頃、古本州島が38000年前頃、古琉球諸島が35000年前頃と推定されています。ただ、古北海道半島には、35000年前頃に古本州島の東北地方から台形様石器を有する人類集団がすでに到来しており、25000年前頃にシベリアから細石刃を有する集団が新たに到来したようです。古本州島に拡散した現生人類は、古朝鮮半島を経由した、と考えられていますが、現在の朝鮮半島は当時、アジア大陸東岸の一部でした。日本列島において、中期旧石器時代の遺跡数は60ヶ所程度なのに対して、後期旧石器時代には約11500ヶ所と激増し、これは後期旧石器時代には他地域と同様に現生人類が主体になったからだろう、と本書は推測します。上述のように、後期旧石器時代初頭の日本列島には、台形様石器群など在来と考えられる石器群と、ユーラシア大陸のIUP石器群と類似する大型石刃群が併存し、二極構造を形成しており、台形様石器が複数回の利用に耐えにくく、短期間で廃棄された傾向にあったのに対して、石刃石器は何回も利用されたようですが、こうした石器技術が利用石材の分布に制約されていたことも指摘されています。本書は、そうした制約から解放され、同一集団が使用するようになった35000年前頃以降、日本列島の人類が広範に移動するようになり、遺跡数が激増するのではないか、と本書は指摘します。
本書はこうした知見を踏まえて、現生人類の日本列島への拡散は後期旧石器時代以前(中期旧石器時代後半~末期の55000~38000年前頃)も含めて複数回あった可能性が高いことや、古朝鮮半島から日本列島への人口流入は、ユーラシア大陸の北回りと南回り両方の集団であり得たことを指摘します。本書は日本列島における後期旧石器時代の開始について、まず、ユーラシア東部の北方で発達したアジア東部型中期旧石器と、ユーラシア東部の南方で発達した礫器および剥片石器群の両文化伝統を継承した台形様石器文化が出現し、その直後にユーラシア中央部起源の大型石刃石器群を有するアルタイIUP系統の大型石刃石器群が日本列島に流入して、当初の併存期間を経て融合していった、と見通しています。
●終章
最近、石器の年代が42000年前頃と発表されて話題になった、広島県廿日市市の冠遺跡群も取り上げられています。冠遺跡群では、香坂山遺跡の大型石刃と酷似した石器が発見されていますが、最下層の石器群には尖頭器などが含まれ、アジア東部型中期旧石器群と類似しており、この石器群に確実に伴う複数の木炭の放射性炭素年代測定によって42300年前頃と推定されました。本書は、日本列島における中期旧石器時代~後期旧石器時代における人類の到来の実態と、後期旧石器文化成立の過程を解明するうえで、冠遺跡群が重要になるのではないか、と指摘します。
●私見
以上、本書の内容をざっと見てきました。本書は日本列島の旧石器時代を広くユーラシアの旧石器時代に位置づけており、私にとってはたいへん参考になりました。本書からは、日本列島の後期旧石器時代は、まず台形様石器を特徴とする文化で始まり、その直後に大型石刃石器を伴う文化が出現し、両者は短期間の二極併存の後で融合して、移動範囲が拡大し、遺跡数が増加した、と窺えます。台形様石器を特徴とする文化は、ユーラシア東部の北方で発達したアジア東部型中期旧石器と、ユーラシア東部の南方で発達した礫器および剥片石器群の両文化伝統の系譜で、日本列島の中期旧石器文化を継承したのに対して、大型石刃石器を伴う文化は、ユーラシア中央部のIUPに由来するようです。
本書では、どちらも現生人類の所産である可能性が高い、と想定されていますが、日本列島の4万年以上前の石器の担い手については、デニソワ人系統の可能性も想定しておかねばならない、と考えています。デニソワ人は中期~後期更新世において、同時だったのか、確証はまだありませんが、アジア東部沿岸の北方地域と南方地域の両方に存在しており(Gross., 2025)、チベット高原では32000年前頃まで存在していた可能性も指摘されています(Xia et al., 2024)。現時点で、アジア東部における5万年以上前の確実な現生人類の証拠はなさそうなので(Bennett et al., 2024)、金取遺跡などの年代が5万年以上前、さらには10万年前頃に近いならば、日本列島にデニソワ人など非現生人類ホモ属が存在した可能性は低くないように思います。
とはいえ、日本列島の後期旧石器時代、とくにIUP的な石器群を有する集団が現生人類だった可能性はきわめて高そうです。このほぼ確実な日本列島における最古級の現生人類集団の遺伝的構成というか、「縄文時代」以降の人類集団との遺伝的関係も大いに注目されますが、現時点では判断材料が少なく、とても断定できません。アジア東部で遺伝学的に解析されている最古の現生人類は、北京の南西56km にある田園洞(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性1個体(田園洞個体)で、この田園洞個体的な遺伝的構成の集団(田園洞集団)が同時にどこまで広がっていたかは不明であるものの、モンゴル高原やアムール川流域や北京近郊で確認されているので(Bennett et al., 2024)、かなり広範に分布していた可能性は高そうで、日本列島の最初期の現生人類集団の一部は、田園洞集団だったかもしれません。そうならば、田園洞集団は少なくともアジア東部現代人集団や「縄文時代」人類集団の主要な祖先集団ではないので(Bennett et al., 2024)、日本列島では、最初期の現生人類集団は「縄文時代」以降の人類集団に遺伝的影響をほとんど残していないかもしれません。ただ現時点では、上述のように、更新世日本列島の人類集団の遺伝的構成について判断材料が少ないので、デニソワ人など非現生人類ホモ属も含めて、さまざまな可能性を想定しておくべきでしょう。
参考文献:
Bennett EA, Liu Y, and Fu Q.(2024): Reconstructing the Human Population History of East Asia through Ancient Genomics. Elements in Ancient East Asia.
https://doi.org/10.1017/9781009246675
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Gross M.(2025): Finding Denisovans. Current Biology, 35, 19, R897–R899.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2025.09.044
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Mussi M. et al.(2023): Early Homo erectus lived at high altitudes and produced both Oldowan and Acheulean tools. Science, 382, 6671, 713–718.
https://doi.org/10.1126/science.add9115
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Xia H. et al.(2024): Middle and Late Pleistocene Denisovan subsistence at Baishiya Karst Cave. Nature, 632, 8023, 108–113.
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07612-9
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Yang SX. et al.(2024): Initial Upper Palaeolithic material culture by 45,000 years ago at Shiyu in northern China. Nature Ecology & Evolution, 8, 3, 552–563.
https://doi.org/10.1038/s41559-023-02294-4
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国武貞克(2023)「日本列島後期旧石器文化の起源と成立に関する試論」『奈良文化財研究所学報102:文化財論叢』P3-16
https://doi.org/10.24484/sitereports.132169
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国武貞克、佐藤宏之(2025)『南回り、北回りの遭遇、列島のホモ・サピエンス 新・日本旧石器文化の成立』(朝日新聞出版)
●序章:急速に解明されつつある日本列島の旧石器文化の成り立ち(国武貞克)
●第1章:日本列島における最古の石刃遺跡の発見(国武貞克)
●第2章:劣等の石刃石器群の起源地を求めて(国武貞克)
●第3章:中央アジア西部で初の初期後期旧石器時代(IUP)遺跡の発見(国武貞克)
●第4章:日本列島への人類到来の背景─人類のユーラシア拡散(佐藤宏之)
●第5章:アジアの後期旧石器研究と日本列島(佐藤宏之)
●第6章:日本列島における後期旧石器文化の成立(国武貞克)
●第7章:ユーラシア先史世界全体から見た日本列島の後期旧石器文化の成立(佐藤宏之)
●終章:人はどこから香坂山遺跡へたどりついたのか(国武貞克)
本書の対象は日本列島の旧石器時代ですが、日本列島に限らず、広くユーラシア世界の旧石器時代に位置づけていることが特徴で、私にとってはたいへん有益でした。表題からも窺えるように、本書の対象は基本的には現生人類(Homo sapiens)ですが、現生人類がアフリカから世界へと拡散する過程で、ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と遭遇し、その遺伝的影響を受けたことは今では広く認められていますが、本書では、現生人類とネアンデルタール人およびデニソワ人との関係についてほとんど言及されていません。
●第1章
日本列島における後期旧石器時代(ユーラシア西部の上部旧石器時代におおむね相当する、と私は認識しています)の始まりは37500年前頃までさかのぼり、台形や矩形の台形様石器が使われるようになります。その少し後の36000年前頃には、台形様石器と大きく異なる石刃技術が出現します。これまで、日本列島における最古の石刃技術は36300年前頃の八風山II遺跡で確認されており、35300年前頃以降には、関東ローム層の遺跡で多く見られるようになります。この日本列島最古級の石刃技術はユーラシアの中緯度~高緯度地帯の上部旧石器と類似していますが、違いも指摘されており、日本列島最古級の技術について、ユーラシアから伝播したのか、日本列島で独自に発展したのか、判断に難しさもありました。
そうした中で、著者(国武貞克氏)は長野県佐久市の香坂山遺跡の発掘に深く関わり、ユーラシアで見られるIUP(Initial Upper Paleolithic、初期上部旧石器)と類似した石器が発見されます。香坂山遺跡では、日本列島における後期旧石器時代の前かもしれない、と指摘されている遺跡で少数発見された斜軸尖頭器と類似した石器も出土し、斜軸尖頭器はユーラシアの中部旧石器時代の石器の一つです。著者は、大型石刃や斜軸尖頭器やルヴァロワ(Levallois)型尖頭器がそろって出土している点に、香坂山遺跡の石器群とアジア中央部やシベリア南部やアジア北部のIUP石器群との類似性を見ています。香坂山遺跡で発掘が進むと、IUPの示準石器として広く認識されている彫器状石核も発見されました。香坂山遺跡の年代は37000年前頃と推定されており、日本列島では最古級の石刃が発見された遺跡となります。香坂山遺跡では旧石器時代の日本列島特有の刃部磨製石斧も発見されており、香坂山遺跡および日本列島の後期旧石器時代に関する著者の見解は、当ブログで以前にも取り上げました(国武., 2023)。
●第2章
香坂山遺跡から得られた新たな知見を踏まえて、日本列島の石刃石器群の起原が推測されています。ユーラシアにおいてIUPは起源地のレヴァント以外にバイカル湖地域やモンゴル高原などでも見られ、現生人類の移動と関連づけられてきました。著者(国武貞克氏)はアジア中央部に着目し、カザフスタンのチョーカーン・バリノフ遺跡で発掘調査を行いました。著者はチョーカーン・バリノフ遺跡で、すでに発掘が進んでいる第1~第5文化層より下の第6文化層とその下層の発掘を試み、第6文化層の下で新たに第7~第9文化層が確認されました。チョーカーン・バリノフ遺跡の最古級の石器の年代は4万年前頃で、第8文化層の小口面型の大型石刃核は上部旧石器的、第9文化層の平面型の石刃核は中部旧石器的な技術で、IUPとの類似の可能性も指摘されています。
●第3章
著者(国武貞克氏)はカザフスタンに続いてタジキスタンに注目し、フッジ遺跡で発掘を行ないました。フッジ遺跡において発見された石器では、長さ10cm程度の大型石刃とその石刃核が最も多く、石刃の剥離技法では中部旧石器時代のルヴァロワ技法を用いた痕跡は見られず、上部旧石器的な技術による石刃核も見られました。尖頭器では、ルヴァロワ技法が用いられた石器はごく少数で、大半は求心剥離による斜軸尖頭器でした。フッジ遺跡の第3文化層で、放射性炭素年代測定によって46000~44000年前頃と推定されました。こうした上部旧石器時代最初期の石刃石器群は、この地域に拡散してきた現生人類の最初の文化かもしれません。
●第4章
現生人類の人類進化史と石器の変容についても簡潔に取り上げられています。注目されるのは、マレーシアのブーキット・ブヌ遺跡で、183万年前頃のアシューリアン(Acheulian、アシュール文化)型握斧と思われる石器が発見されていることです。アシューリアンは現時点ではアフリカ東部において195万年前頃までさかのぼる可能性が指摘されていますが(Mussi et al., 2023)、アシューリアンの担い手である人類は、アシューリアン出現後比較的短期間でユーラシアに広範に拡大したのかもしれません。中期更新世後期のユーラシアでは、北方において大型動物の狩猟への依存が高まり、それに対応する剥片石器に重点が移行したのに対して、南方では植物も含めて資源の多角的利用もあって、石器狩猟具が北方よりも発達しなかったのかもしれない、と指摘されています。この資源への依存の違いによって、ユーラシア南方では北方よりも多様な人類種が共存できた可能性も指摘されています。
●第5章
20世紀末に遺伝学的研究で現生人類アフリカ単一起源説が主流になっても、考古学的研究では、中部旧石器時代~上部旧石器時代にかけてユーラシアの各地で顕著な連続性が報告されていたので、アフリカ単一起源説には批判的な傾向が強く見られました。この中部旧石器~上部旧石器の連続性を示しているのがIUPで、IUPは中部旧石器のムステリアン(Mousterian、ムスティエ文化)の存在が前提となります。ムステリアンがほぼ見られないユーラシア東部というかモヴィウス線の東側でも、ロシア極東や韓国などでIUPが発見されており、レヴァント起源と考えられるIUPの拡散において、アジア中央部などユーラシア内陸部が重要となり、アルタイ山脈もそこに含まれます。アルタイ山脈ではIUPからEUP(Early Upper Palaeolithic、上部旧石器時代前期)への移行が見られ、EUPは石刃や細石刃石器群で構成される完全な上部旧石器文化です。ただ、ユーラシア南方では、下部旧石器時代および中部旧石器時代以来の礫器および剥片石器群が継続しました。
●第6章
香坂山遺跡の石刃石器群とユーラシアの45000~4万年前頃となるIUPとが比較されています。第6章では、ユーラシア中央部が、ロシアのアルタイ山脈からバイカル湖周辺に至る東方と、カザフスタン南部からウズベキスタン北部を経てタジキスタン南部に至る天山・パミール地域の西方に二分されています。アルタイ山脈を中心とするアジア中央部東方のIUP石器群は、石器組成と制作技術の高い斉一性が指摘されており、大型石刃を含むことが特徴です。アジア中央部西方では、ウズベキスタンのオビ・ラフマート(Obi-Rakhmat)洞窟で、東方の石器群と組成および技術の類似した石器群が確認されています。この石器群はオビ・ラフマティアンと呼ばれており、オビ・ラフマート洞窟の下層から上層まで石器組成がほとんど変化せずに継続します。その年代は、下層が10万年前頃、上層は10万年前頃~IUPまで継続します。アジア中央部東方のアルタイ山脈のIUPの大型石刃石器群は、オビ・ラフマティアンを背景に成立したようです。アジア中央部東方のIUP石器群には、ルヴァロワ方式をさらに発達させた石刃生産技術がありますが、アジア中央部全体で見ると、典型的なルヴァロワ方式に限らない多様な石刃製作技術も見られます。アジア中央部西方のIUP石器群ではルヴァロワ方式による石刃技法がほとんど見られず、これはアジア中央部西方において中部旧石器時代にはルヴァロワ方式があまり確認されていないことと関連しているようです。こうした多様性を踏まえて本書では、アジア中央部のIUP石器群の大型石刃生産技術の特徴について、石核を二次元的に消費していく平面剥離型(中部旧石器の特徴)、石核を立体的に消費していく三次元剥離型(上部旧石器の特注)、中間的な小口面型を指摘します。
アジア中央部からさらに東方にかけての、タジキスタンのフッジ遺跡やウズベキスタンのオビ・ラフマート洞窟やロシアのカラボム(Kara-Bom)遺跡や中国の水洞溝(Shuidonggou)遺跡の大型石刃石器群と香坂山遺跡の石器群と比較すると、大きさと形態は共通し、大型石刃生産技術の平面剥離型と三次元剥離型と小口面型も共通します。また、彫器状石核が含まれることや、小石刃の素材生産が大型石刃の生産仮定に組み込まれていたことや、レヴァントにおいて中部旧石器時代から用いられていた横断面取石核技法(やや厚みのある剥片を素材として、表裏面を横断する形で打面を作り出し、背面側から小型の長狭剥片を剥離する技術)も共通します。IUP石器群には尖頭器も見られ、ルヴァロワ方式による石刃生産で剥離された寸詰まりな尖頭形石刃、ルヴァロワ型尖頭器、斜軸剥片を素材とした斜軸尖頭器、二次加工を加えたムスティエ型尖頭器が存在し、遺跡ごとに組み合わせが大きく異なります。本書はこれを、直前の中部旧石器時代の石器製作技術、とくにルヴァロワ方式に影響を受けているのではないか、と推測しています。香坂山遺跡石器群は、斜軸尖頭器が大型石刃と共伴している点でIUP石器群と共通しており、本書は、日本列島において斜軸尖頭器を主体とする中部旧石器が存在した可能性とともに、斜軸尖頭器が大型石刃に伴ってユーラシア大陸から新たに伝播した可能性も指摘します。本書はこれらを踏まえて、香坂山遺跡の石器群が、IUPそのものか、その技術的特徴を継承したEUP石器群とともに流入した可能性を指摘します。香坂山遺跡とアジア中央部~東部のIUP石器群の出土遺跡が、標高1100~1300mに位置することから、水洞溝遺跡と日本列島との間の似たような地形で、IUP石器群が今後確認される可能性も期待されます。なお本書は、現時点で水洞溝遺跡より東方のIUP石器群の系譜の追跡はできない、と指摘しますが、最近、山西省の峙峪(Shiyu)遺跡の45000年前頃石器群はIUPである可能性が示されています(Yang et al., 2024)。
一方で、香坂山遺跡より700年程度さかのぼる37500年前頃の熊本県の石の本遺跡や、37400年前頃の静岡県井出丸山遺跡では、台形様石器が出土しており、本書はこれらを、日本列島における中部旧石器時代以来の系譜に位置づけています。石の本遺跡など九州の後期旧石器時代初頭の遺跡では、鋸歯縁加工石器群を含むことが特徴になっており、鋸歯縁石器は朝鮮半島~中国北部の中期旧石器時代において広く見られます。本書は、日本列島の最古級の石刃石器群は、台形様石器を含まないことから、日本列島において独自に発達したり、石刃技術だけ伝わったりしたのではなく、ユーラシア大陸からの人口移動を伴う文化伝播だった可能性が高いことを指摘します。ただ本書は、36800年前頃の香坂山遺跡と41000年前頃の水洞溝遺跡の年代差から、IUP石器群の技術構造と石器組成をよく残しているモンゴル高原の38000~37000年前頃のEUP石器群がユーラシア東部の他地域にも存在し、日本列島に到来した可能性と、IUP石器群は4万年前頃までに日本列島に到来していたものの、まだ発見されておらず、香坂山遺跡石器群がその系譜にある可能性も指摘しています。日本列島において後期旧石器時代初頭には、日本列島の中期旧石器時代の系譜と考えられる台形様石器と、ユーラシア大陸のIUP石器群の系譜と考えられる石刃石器群は共存していませんでしたが、武蔵台遺跡などの事例から、35300年前頃までには両者が一体化し、同一の遺跡内で使用されるようになりました。本書はこの背景に、異なる人類集団の交雑があった可能性や、36000年前頃以前に、すでに両石器群の相互作用があった可能性も想定しています。本書は、ユーラシア南回りの現生人類が鋸歯縁石器を、ユーラシア北回りの現生人類がIUP石器群を日本列島にもたらしたのではないか、と推測しています。
●第7章
本書は、日本列島における前期旧石器時代の存在についてはまだ判断できる段階ではないものの、中期旧石器時代(12万~4万年前頃)については、岩手県の金取遺跡および柏山館遺跡や群馬県の権現山遺跡や熊本県大野遺跡などの事例がある、と指摘します。これらの遺跡の石器群は大型石器と小型剥片石器から構成されており、大型石器群には先端の尖った片面加工の尖頭礫器(チョッパー)や打製石斧(日本列島固有とされる局部磨製石斧と技術的系統関係があります)、小型剥片石器には各種の削器や石錐や抉入石器(ノッチ)や素刃石器などがあります。台形状の剥片を利用した素刃石器については、後期旧石器時代に出現する日本列島固有の台形様石器との技術的系統関係が指摘されています。日本列島の中期旧石器時代において、容積減少型剥離技術である石刃技術の存在は確認されていません。日本列島固有の特徴もありますが、これら日本列島の中期旧石器には、モヴィウス線東方のユーラシア大陸石器群と共通する特徴が認められます。
後期更新世の寒冷期の日本列島は地理的に、樺太と北海道と千島諸島が陸続きの古北海道半島、本州と四国と九州が陸続きだった古本州島、古琉球諸島に区分されます。古北海道半島はユーラシア大陸と陸続きだったので、その文化的影響を強く受け続け、ずっと島だった古本州島は独自の文化的特徴が発達し、古琉球諸島は南方に行くほど古本州島の文化的影響が薄くなります。日本列島の中期~後期旧石器時代は気候が不安定で、古北海道半島と古本州島のほとんどの地域は、亜寒帯(寒温帯)針葉樹林や針葉樹と冷温帯落葉広葉樹林の混じる針広混交林が広がっており、「縄文時代」の堅果類のように植物資源に大きく依存はできず、定着的な漁撈も確認されていないので、陸生動物の狩猟が主要な生業で、遊動的な生活だった、と考えられます。じっさい、後期旧石器の多くは、側縁加工尖頭形石器や台形様石器や角錐状石器などの狩猟具から構成されていました。
ユーラシア大陸から日本列島へと現生人類が拡散した時期は、古北海道半島が25000年前頃、古本州島が38000年前頃、古琉球諸島が35000年前頃と推定されています。ただ、古北海道半島には、35000年前頃に古本州島の東北地方から台形様石器を有する人類集団がすでに到来しており、25000年前頃にシベリアから細石刃を有する集団が新たに到来したようです。古本州島に拡散した現生人類は、古朝鮮半島を経由した、と考えられていますが、現在の朝鮮半島は当時、アジア大陸東岸の一部でした。日本列島において、中期旧石器時代の遺跡数は60ヶ所程度なのに対して、後期旧石器時代には約11500ヶ所と激増し、これは後期旧石器時代には他地域と同様に現生人類が主体になったからだろう、と本書は推測します。上述のように、後期旧石器時代初頭の日本列島には、台形様石器群など在来と考えられる石器群と、ユーラシア大陸のIUP石器群と類似する大型石刃群が併存し、二極構造を形成しており、台形様石器が複数回の利用に耐えにくく、短期間で廃棄された傾向にあったのに対して、石刃石器は何回も利用されたようですが、こうした石器技術が利用石材の分布に制約されていたことも指摘されています。本書は、そうした制約から解放され、同一集団が使用するようになった35000年前頃以降、日本列島の人類が広範に移動するようになり、遺跡数が激増するのではないか、と本書は指摘します。
本書はこうした知見を踏まえて、現生人類の日本列島への拡散は後期旧石器時代以前(中期旧石器時代後半~末期の55000~38000年前頃)も含めて複数回あった可能性が高いことや、古朝鮮半島から日本列島への人口流入は、ユーラシア大陸の北回りと南回り両方の集団であり得たことを指摘します。本書は日本列島における後期旧石器時代の開始について、まず、ユーラシア東部の北方で発達したアジア東部型中期旧石器と、ユーラシア東部の南方で発達した礫器および剥片石器群の両文化伝統を継承した台形様石器文化が出現し、その直後にユーラシア中央部起源の大型石刃石器群を有するアルタイIUP系統の大型石刃石器群が日本列島に流入して、当初の併存期間を経て融合していった、と見通しています。
●終章
最近、石器の年代が42000年前頃と発表されて話題になった、広島県廿日市市の冠遺跡群も取り上げられています。冠遺跡群では、香坂山遺跡の大型石刃と酷似した石器が発見されていますが、最下層の石器群には尖頭器などが含まれ、アジア東部型中期旧石器群と類似しており、この石器群に確実に伴う複数の木炭の放射性炭素年代測定によって42300年前頃と推定されました。本書は、日本列島における中期旧石器時代~後期旧石器時代における人類の到来の実態と、後期旧石器文化成立の過程を解明するうえで、冠遺跡群が重要になるのではないか、と指摘します。
●私見
以上、本書の内容をざっと見てきました。本書は日本列島の旧石器時代を広くユーラシアの旧石器時代に位置づけており、私にとってはたいへん参考になりました。本書からは、日本列島の後期旧石器時代は、まず台形様石器を特徴とする文化で始まり、その直後に大型石刃石器を伴う文化が出現し、両者は短期間の二極併存の後で融合して、移動範囲が拡大し、遺跡数が増加した、と窺えます。台形様石器を特徴とする文化は、ユーラシア東部の北方で発達したアジア東部型中期旧石器と、ユーラシア東部の南方で発達した礫器および剥片石器群の両文化伝統の系譜で、日本列島の中期旧石器文化を継承したのに対して、大型石刃石器を伴う文化は、ユーラシア中央部のIUPに由来するようです。
本書では、どちらも現生人類の所産である可能性が高い、と想定されていますが、日本列島の4万年以上前の石器の担い手については、デニソワ人系統の可能性も想定しておかねばならない、と考えています。デニソワ人は中期~後期更新世において、同時だったのか、確証はまだありませんが、アジア東部沿岸の北方地域と南方地域の両方に存在しており(Gross., 2025)、チベット高原では32000年前頃まで存在していた可能性も指摘されています(Xia et al., 2024)。現時点で、アジア東部における5万年以上前の確実な現生人類の証拠はなさそうなので(Bennett et al., 2024)、金取遺跡などの年代が5万年以上前、さらには10万年前頃に近いならば、日本列島にデニソワ人など非現生人類ホモ属が存在した可能性は低くないように思います。
とはいえ、日本列島の後期旧石器時代、とくにIUP的な石器群を有する集団が現生人類だった可能性はきわめて高そうです。このほぼ確実な日本列島における最古級の現生人類集団の遺伝的構成というか、「縄文時代」以降の人類集団との遺伝的関係も大いに注目されますが、現時点では判断材料が少なく、とても断定できません。アジア東部で遺伝学的に解析されている最古の現生人類は、北京の南西56km にある田園洞(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性1個体(田園洞個体)で、この田園洞個体的な遺伝的構成の集団(田園洞集団)が同時にどこまで広がっていたかは不明であるものの、モンゴル高原やアムール川流域や北京近郊で確認されているので(Bennett et al., 2024)、かなり広範に分布していた可能性は高そうで、日本列島の最初期の現生人類集団の一部は、田園洞集団だったかもしれません。そうならば、田園洞集団は少なくともアジア東部現代人集団や「縄文時代」人類集団の主要な祖先集団ではないので(Bennett et al., 2024)、日本列島では、最初期の現生人類集団は「縄文時代」以降の人類集団に遺伝的影響をほとんど残していないかもしれません。ただ現時点では、上述のように、更新世日本列島の人類集団の遺伝的構成について判断材料が少ないので、デニソワ人など非現生人類ホモ属も含めて、さまざまな可能性を想定しておくべきでしょう。
参考文献:
Bennett EA, Liu Y, and Fu Q.(2024): Reconstructing the Human Population History of East Asia through Ancient Genomics. Elements in Ancient East Asia.
https://doi.org/10.1017/9781009246675
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Gross M.(2025): Finding Denisovans. Current Biology, 35, 19, R897–R899.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2025.09.044
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Mussi M. et al.(2023): Early Homo erectus lived at high altitudes and produced both Oldowan and Acheulean tools. Science, 382, 6671, 713–718.
https://doi.org/10.1126/science.add9115
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Xia H. et al.(2024): Middle and Late Pleistocene Denisovan subsistence at Baishiya Karst Cave. Nature, 632, 8023, 108–113.
https://doi.org/10.1038/s41586-024-07612-9
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Yang SX. et al.(2024): Initial Upper Palaeolithic material culture by 45,000 years ago at Shiyu in northern China. Nature Ecology & Evolution, 8, 3, 552–563.
https://doi.org/10.1038/s41559-023-02294-4
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国武貞克(2023)「日本列島後期旧石器文化の起源と成立に関する試論」『奈良文化財研究所学報102:文化財論叢』P3-16
https://doi.org/10.24484/sitereports.132169
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国武貞克、佐藤宏之(2025)『南回り、北回りの遭遇、列島のホモ・サピエンス 新・日本旧石器文化の成立』(朝日新聞出版)
この記事へのコメント
「夜見ヶ浜人」はタンパク質の量が少ないようで、ゲノム解析はなおさら難しそうですから、日本列島の3万年以上前の人類遺骸のゲノム解析には期待できそうにないため、ロシア極東沿岸~中国沿岸の2万年以上前の人類遺骸の新たなゲノムデータが得られれば、「縄文人」の遺伝的形成過程の解明が進むのではないか、と期待しています
日本列島旧石器時代の考古学に関しては2000年頃からいろいろ読み込んでいましたが、2010年発刊の「日本の考古学―旧石器時代」(青木書店)を最後にゲノム系統分析に興味が移り、まとまった情報摂取が途切れていました。
さすがに最近、日本およびユーラシア東部の旧石器考古学に関する総合的な最新書籍がないかと思い始めていたので、本記事はたいへん有難い思いがしました。本書を早速入手して読み込もうと思っています。