7世紀ブリテン島の人類のゲノムデータ
ブリテン島南部の7世紀の人類のゲノムデータを報告した研究(Sayer et al., 2025)が公表されました。本論文は、ブリテン島南部の7世紀の人類2個体の新たなゲノムデータを報告し、2個体にサハラ砂漠以南のアフリカ人集団的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)もあることを明らかにし、これが533~534年におけるビザンツ帝国(東ローマ帝国)のアフリカ北部再征服と関連している可能性を指摘しています。日本人の一人としては、こうした歴史時代の古代ゲノム研究が日本列島でも進展するよう、期待しています。以下は本論文の地図です。
以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、YHg(Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ)、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、READ(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定)、WBI(Western British Irish、ブリテン島西部アイルランド系)、CWE(Continental Western European、ヨーロッパ西部大陸部)、CNE(Continental Northern European、ヨーロッパ北部大陸部)、C(carbon、炭素)、IntCal(International Calibration、国際的較正)、ALDER(admixture-induced linkage disequilibrium for evolutionary relationships、進化的関係の混合により誘発される連鎖不平衡)です。
本論文で言及される主要な人物は、ソニア・ホークス(Sonia Hawkes)氏、ブライアン・フィリップ(Brian Philp)氏、エドワード・サーロウ・リーズ(Edward Thurlow Leeds)氏、ジェイド・モンステラット(Jade Monsterrat)氏、大プリニウス(Pliny the Elder、Gaius Plinius Secundus、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス)、ポンポニウス・メラ(Pomponius Mela)、ガイウス・ユリウス・ソリヌス(Gaius Julius Solinus)、セオドア大司教(Archbishop Theodore)、ハドリアヌス大修道院長(Abbot Hadrian)です。
本論文で取り上げられる主要なイギリスの地域と地名は、ケント州イーストリー(Eastry)近郊のアップダウン(Updown)とフィングルシャム(Finglesham)、ドーセット州のワース・マトラヴァーズ(Worth Matravers)、パーベック(Purbeck)島、ランプロバス(Lanprobus)、シェアボーン(Sherborne)、ケンブリッジシャー(Cambridgeshire)のバーウェル(Burwell)、リンカンシャー(Lincolnshire)、ハダースフィールド(Huddersfield)です。本論文で取り上げられるイギリス以外の主要な地域と地名は、ローマ帝国のマウレタニア(Mauretania)属州、現代のマリのガオ(Gao)州です。本論文で取り上げられるイギリスの主要な遺跡は、サットン・フー(Sutton Hoo)遺跡、プリトルウェル(Prittlewell)遺跡、ドーヴァー・バックランド(Dover Buckland)遺跡、ホルボラフ(Holborough)遺跡、シバーツウォルド(Sibertswold)遺跡です。
●要約
古代DNAを研究する考古遺伝学は、歴史時代(先史時代)における個体の親族関係と移動について強力な知見を明らかにできます。本論文は、サハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統と一致する遺伝的特性を有しており、両方ともブリテン島南部の中世初期墓地に埋葬された、2個体の特定について報告します。本論文はケント州の未成年女性におもに焦点を当てて、これらの個体が生き死にした社会的および文化的背景と、その存在によって示唆される地理的つながりの広がりを調べ、これが533~534年のアフリカ北部のビザンツの再征服にさかのぼることを示します。
●研究史
移動やその方向性と規模と影響は、ヨーロッパの考古学において、とくに中世前期における文化的変化との関連で盛んに議論されています。考古遺伝学的研究は、人口集団規模でこの現象について新たな知見を提供しており(Gretzinger et al., 2022、Patterson et al., 2022)、同時に、墓地内の個体間の直接的な親族関係を明らかにし、安定同位体分析と組み合わせて、個体の移動とその生活様式を特定しています。本論文は、イングランドの南部沿岸近くの7世紀の墓地、つまりケント州のアップダウンとドーセット州のワース・マトラヴァーズに埋葬された2個体について考察します。この両個体には、サハラ砂漠以南のアフリカ西部に近い過去の祖先がいました。補足論文がワース・マトラヴァーズ墓地の背景を報告しているので、本論文はアップダウンの和解女性やその副葬品や墓地で特定された遺伝的親族に焦点を当てます。この2個体の特定と、この2個体が生き死にした社会への同化の認識には、中世初期世界のつながりと発展に関する広範な示唆があります。
●遺跡
ケント州のイーストリー近くのアップダウンの初期アングロ・サクソン墓地の連続した区域が、1976年にはソニア・ホークス氏、1989年にはブライアン・フィリップ氏の監督下で開発に先立って発掘されました(図1)。合計で78基の土葬が発掘され、おもに7世紀でした。アップダウンの副葬品は、服飾品や武器や個人的装身具類で構成され、大陸のフランク王国からの輸入品や、埋葬当時は珍しいビザンツの骨董品である飾り留め金が含まれています。アップダウンは東ケントの墓地群に属し、フィングルシャムのアングロ・サクソン墓地遺跡からわずか数kmに位置しています。フィングルシャムは古英語の「Þengelshām」に由来し、「王子の屋敷」を意味します。9世紀初期の勅許状に記録された地名から、イーストリーは行政区画と特定され、より広範な歴史的証拠から、イーストリーは早くも6世紀には王室の中心地だった、と示唆されます。アップダウンの6個体の古代DNAが分析され、それらの個体は、34・37・45・47・48・52号墓(図1)で発見されました。47号墓(遺伝学的識別番号はEAS003)の結果の詳細は以前には報告されておらず、それは、この個体の祖先系統には別の議論と文脈化の価値がある、と判断されたからです。以下は本論文の図1です。
ワース・マトラヴァーズでは、26個体を含む21基の墓の小さな土葬墓地が、東ドーセット古物商協会の志願者によって2011年に、「蹴球場」と呼ばれる複数の期間の遺跡内で発掘されました。この墓地は元々ローマ期と考えられていましたが、放射性炭素年代測定と1点の銅合金製の帯の飾り留め金によって、7世紀と特定されました。墓はすべて東西を向いており、仰向けの土葬で、短い6列に並べられ、1基の三重埋葬と3基の二重埋葬が含まれていました(図2)。副葬品は、成人女性の骨盤の上の小さな銅合金の飾り留め金(1667号墓)と、二重埋葬の成人男性(1633A号墓)の頭部を載せるのに用いられた、石の錨と思われる遺物だけでした。この遺跡は、イギリス海峡から約2km離れた、パーベック島の内陸にあります。ワース・マトラヴァーズの18個体の古代DNAの結果は、以前に分析されました(Gretzinger et al., 2022)。本論文は、1633B号墓の被葬者(sk1652、ハダースフィールド標本KD010、遺伝学的識別番号はI11570)は、枕石で(親族関係にない)成人男性と二重墓を共有していた、17~25歳の男性と考えます。以下は本論文の図2です。
ケントは常に、隣接する大陸からの影響の導管となってきました。それは6世紀においてひじょうに顕著だったので、エドワード・サーロウ・リーズ氏はケントの「フランク期」と呼ぶよう提唱しました。対照的に、ドーセットは大西洋交易経路の地中海輸入品の分布と、7世紀の前となる初期アングロ・サクソンの埋葬慣行の分布との中間に位置しており、司教管区がシェアボーン(以前のブリテン島ランプロバス)に705年に設立された前には、明らかに完全にはウェセックス王国内に統合されていませんでした。
●古代DNA
古代DNAがアップダウンの47号墓の錐体骨(EAS003)から回収され、配列からゲノムの約半分を再構築できました。常染色体のSNP網羅率やX染色体とY染色体の相対的な網羅率(Lamnidis et al., 2018)によって、この個体の性別は女性と特定されました。骨学的証拠から、彼女は11~13歳頃に死亡した、と示唆されます。この個体の母系は、ヨーロッパ北部において一般的であるmtHg-U5b1(具体的にはU5b1c2b)を表していますが、その常染色体DNAは非ヨーロッパ祖先系統の明確な兆候を示します。集団遺伝学的調査(PCAとF3およびF4統計)は、サハラ砂漠以南のアフリカ、とくにアフリカ西部のヨルバ人やメンデ人やマンデカ人やエサン人集団といった現代人への類似性を明らかにします。ワース・マトラヴァーズの1633B号墓の錐体骨(I11570)から抽出された古代DNAの分析からは同様の結果が得られ、ヨーロッパ系のmtHg-U5bと常染色体におけるサハラ砂漠以南のアフリカ人との類似性が特定されました。したがって、この両個体【EAS003とI11570】は遺伝的および地理的に混合した家系で、20~40%のサハラ砂漠以南のアフリカに特徴的な祖先系統がある、と推定されました。
この2個体【EAS003とI11570】とアップダウンおよびワース・マトラヴァーズの他の個体との間の潜在的な遺伝的関係を調べるために、ソフトウェアREADおよびlcMLkinと、計算されたゲノム間の不適正塩基対率が用いられました(Kennett et al., 2017)。ワース・マトラヴァーズの他の個体は1633B号墓の個体との生物学的関係を示しませんが、アップダウンでは、女性2個体が47号墓の少女(EAS003)の2親等の親族と特定され、それは34号墓(EAS001、祖母)と45号墓(EAS002、オバ)です(表1)。以下は本論文の表1です。
52号墓に埋葬された男性(EAS006)は【EAS003】の3親等の親族で、34号墓の女性【EAS001】は47号墓の女性【EAS003】の娘なので、EAS006の曽孫になります。34号墓【EAS001】と45号墓【EAS002】の女性もmtHg-U5b1c2bで(Gretzinger et al., 2022)、単系の母系子孫が示唆されます。これは、45号墓の女性【EAS002】が47号墓の女性【EAS003】の母方のオバであることを示唆しています(図3)。52号墓の男性【EAS006】は、ヨーロッパ北部では珍しく、イタリア南部とバルカン半島とギリシアではより特徴的なYHg-E1b1b1a1b1a(V13)ですが、EAS006もその娘(34号墓、EAS003)も、測定可能なサハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統を示しません。以下は本論文の図3です。
教師有ADMIXTURE分析では、標本EAS006(52号墓)とEAS001(34号墓)とEAS002(45号墓)で観察された祖先系統のほとんどは、北海地帯からの移住の結果として、中世前期においてイングランド(5~10世紀頃)の大半で優勢になったCNE特性(Gretzinger et al., 2022)を有している、と示唆されます。CWE祖先系統とWBI祖先系統の割合は、ごくわずかです。そうした特性はイングランド南部~東部もとくにケント州において初期ローマ期以後(5~7世紀)に典型的で、東アングリアやさらに北方と比較して、より南方からの人口統計学的流入を繁栄しているかもしれません。したがって、再構築された系図が正しいならば、47号墓の女性(EAS003)の約20~40%となるサハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統は父系に由来するはずで、アップダウンでは父系親族はまだ特定されていません。
ソフトウェアALDERとDATESとrolloffpが用いられ、47号墓の個体(EAS003)の可能性の高い混合年代が推定されました。混合供給源として現在のエサン人とイングランドの中世初期個体のゲノムを用いると、ALDERは3.47世代(95%信頼区間では0~10世代)の距離を示唆します。rolloffpとDATESはわずかにより古い混合年代を推定しますが、95%信頼区間は大きく、これらの手法では単一のゲノムにおける近い過去の混合の特定が困難であることを示唆しています。したがって、この混合事象は近い過去に起きており、推測される混合年代と推定される祖先系統の割合は、47号墓内の個体(EAS003)の父方の祖父母の1人が完全にサハラ砂漠以南のアフリカ系統だった、と結論づけることができるかもしれません。
ワース・マトラヴァーズにおける1633B号墓内の個体(識別番号はI11570)のサハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統の同様の割合と、mtDNAハプロタイプU5bの一致する存在は、アップダウンの47号墓内の個体【EAS003】と類似した遺伝的背景を示唆しており、特徴的なアフリカ西部DNAの最近の混合は、2世代前に起きた可能性が最も高そうです。I11570の古代DNAの標本の低網羅率とワース・マトラヴァーズ墓地内での特定された遺伝的親族の不在は、I11570の家族についてのさらなる推測を妨げますが、1633B号墓は、おもにWBI祖先系統(77.4±8.4%)を示す点でアップダウンの47号墓個体個体【EAS003】と異なっており、これはより広範な標本抽出されたワース・マトラヴァーズ人口集団と一致します。したがって、アフリカ西部祖先系統を有する中世初期個体群は、「アングロ・サクソン」の移住によって直接的に影響を受けた一部と、鉄器時代からローマ期を通じての遺伝的連続性によって特徴づけられる共同体の両方で特定されます(Gretzinger et al., 2022)。
●放射性炭素年代測定
アップダウンの47号墓とワース・マトラヴァーズの1633B号墓内の個体群は放射性炭素年代測定によって、7世紀半ば頃もしくはその直後に位置づけられます。ワース・マトラヴァーズの和解男性は、他の成人男性(sk1632、1633A号墓)と二重墓(1633A/B号墓)に埋葬されていました。1633A号墓と1633B号墓で別の2点の放射性炭素年代が利用可能で、すべては統計的に一貫しており、1395±13年前の組み合わされた年代が得られます。安定同位体(δ¹³C)分析から、海岸の貝がワース・マトラヴァーズでは日常的に消費されていた、と示唆されます。海洋性較正曲線の計算可能な割合の混合は、二重墓の確立の大半を7世紀後半に位置づけますが、これは過剰「補正」やより広範な誤差をもたらす可能性が高そうです。基本的に陸上食性を前提として、混合曲線を用いる、IntCal20曲線を用いての較正の結果は、この埋葬の真の年代を一括する可能性がひじょうに高そうです(図4a・b)。以下は本論文の図4です。
アップダウンでは、47号墓の被葬者【EAS003】の祖母である34号墓個体【EAS001】は、遅くとも7世紀初期SのX1-c様式の短剣(大型の短刀に似た片刃の武器、seax)塚埋葬(37号墓)の反対側に埋葬されていました。34号墓の女性【EAS001】の推定死亡時年齢は、20代半ば~40代半ばです。EAS003の骨格の放射性炭素年代は、95.4%の確率で600~655年頃です(図4c)。EAS001が孫娘【EAS003】より長生きした可能性は低そうですが、墓が比較的近いことから、両者は相互に数年以内に埋葬された、と示唆され、47号墓被葬者【EAS003】の年代について7世紀前期~半ばの推定値を提供します。
●アップダウンの少女
アップダウンの47号墓に未成年女性【EAS003】は、担当と匙と骨製櫛と装飾壺とともに埋葬されました(図5)。EAS003の足元に置かれた二重円錐型の壺は、轆轤で作られた製品でした。同様の容器は同時代のケント州の墓地では一般的で、ほとんどはフランク王国のガリアから輸入されました。しかし、この壺の胴部周辺に帯状に刻まれて織り交ぜられた装飾は類を見ないもので、これは現地製作が可能だったように思われる数少ない標本の一つかもしれません。櫛と匙と短刀は左側の腰の側で見つかり、銅合金製台座の破片はこれらの品々が収納された袋の残骸かもしれません。短刀は一般的で実用的な道具ですが、他の2点の品にはより深い意味が込められているかもしれません。以下は本論文の図5です。
匙は垂れ飾りやお守りとしても使用されたかもしれません。アングロ・サクソンの墓から発見された最高級の事例は、ローマ様式の銀の匙のビザンツ帝国および大陸の継続的な製作を表しており、たとえば、サットン・フー1号塚やプリトルウェル玄室墓です。小型の箆形の鉄製匙はケントにおける7世紀の埋葬の特徴で、そうした匙はドーヴァー・バックランド(75・110・119・127号墓)やホルボラフ(11号墓)やシバーツウォルド(60号墓)やケンブリッジシャーのバーウェルで発見されてきました。アップダウンから第二の標本が見つかり、これも、アップダウンの少女【EAS003】の母方のオバと特定された個体である45号墓の若い成人【EAS002】の左側の腰に櫛(枝角製)が伴っていました。また、円筒の作業箱がアップダウンの34号墓と45号墓で見つかり、匙のような種類の人工遺物は、キリスト教の導入と関連する象徴とも結びつけられてきました。
櫛は初期アングロ・サクソンの女性の土葬でよく見られますが、多くはありません。枝角で作られた両面複合型設計の3節の櫛は、5世紀以降に一般的な長く見られる型で、7世紀に導入されたより精巧な種類の櫛は、片面複合型です。47号墓の小さな両面櫛の破片は、45号墓の歯かと同様におそらく記念品か贈り物を表していますが、この場合には、櫛が明らかに失われたので、櫛の種類は記録されていません。
これらの櫛は化粧道具で、身だしなみを整えるか、清浄のために用いられました。先行研究は、火葬で頻繁に見つかる小型模型の櫛は、比喩的な「死者の肉体の再構築戦略」とみなしています。一部の土葬における頭部の側の櫛の位置は、櫛が髪を飾るために着用され、個体の外見の一部となっていたことを示唆します。身だしなみを整える行為は公的な場で行なわれるかもしれず、櫛は個人の肉体と、他者からどう認識されるのかという点で、不可欠になりました。外見の変化は多くの先史時代のアフリカの身体的表現において重要で、身だしなみを整えながら、櫛を用いる儀式は、これらの道具が魔除けや儀式の性質を有していた、と示唆しているかもしれません。
ドーヴァー・バックランドの110号墓とバーウェルの83号墓は成人女性の墓で、櫛と鉄製の匙/箆の同じ組み合わせが共伴します。櫛は20歳以上の女性で最も多く共伴する、と分かっています。通常は成人女性を表している、と予測させる品々が伴う、アップダウンにおける未成年の埋葬は異例ではないものの、その構成要素は依然として具体的な文脈の観点で解釈されるかもしれません。「黒人」のイギリス人芸術家のジェイド・モンステラット氏は、女性の髪がその自己認識に深く根差している、と指摘しており、ヨーロッパの美学と一致する直毛の流行(図6)に言及し、これは多分アップダウンの少女によって共有されている経験です。以下は本論文の図6です。
アップダウンの少女【EAS003】のアフリカ祖先系統が、髪質や顔立ちや肌の色調の側面で明らかだったのかどうか、分かりません。EAS003の頭蓋は部分的にしか無傷ではなく、その祖先系統の測量的相関の範囲を制約します。鼻の領域における24.7mmとかなり広い眼窩間距離はアフリカ祖先系統を反映しているかもしれませんが、保存区状態や化石生成論てき変化や比較データの限定的な利用可能性のため、この側面では注意が必要です。それにも関わらず、EAS003がともに埋葬された折衷的な人工遺物群は、祖先系統のように広範な影響源を具現化しており、この少女の埋葬における独特な状況の一般的な品々の収集は、現在アフリカ系の若い女性の経験と同等の意味があるかもしれない社会規範を、彼女に課しました。考古学的には、この個体【EAS003】の墓は王族の中心地とともに、裕福な人々における経験を巧妙に語っています。この中世初期人口集団には移民とその子孫、族外婚の女性、遠方や近場から訪れる旅人が含まれており、キリスト教の象徴を用いていました。
●出アフリカ:歴史的および考古学的背景
イングランド南部の別の遺跡における7世紀半ば頃の、共同体の表面上は通常の構成員として死亡して埋葬された2個体の、近い過去のサハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統の発見は、ブリテン島を含む長距離移動および人口統計学的相互作用について、データに新たな側面を追加します。それは、6世紀と7世紀における地中海全域および周辺の広範な経済的および政治的関係に関する理解に寄与します。アフリカ北部は、とくに穀物と油を供給できる点で、ローマ帝国にとって重要な地域でした(関連記事)。ローマ帝国の支配自体は、それ以前のエジプトとカルタゴの国家を継承し、ローマ軍はアフリカの「蛮族」軍隊をマウレタニアおよびヌミディアの西方属州から徴兵し、そうした兵士はローマ帝国全域で活躍し、最終的には定住できました。
それでもなお、古代のギリシアとローマにおけるアフリカに関する詳細な知識は、ナイル川流域とアフリカ東部およびアジアにつながる紅海の交易路を覗けば、南方でアトラス山脈とサハラ砂漠に接する地中海沿岸地域に限られていました。紀元前5世紀に、ヘロドトスはサハラ砂漠を塩が豊富で、ガラマンテス人(Garamantes)と呼ばれる集団がおもに居住していた、と記述し、その先には、自分が「エチオピア人(Aethiopian)」と呼んだ、人々が居住する、黒いアフリカだったことにヘロドトスは気づいていました。1世紀半ばに、大プリニウスはアフリカの遠隔地についてより体系的な記述を残しました。大プリニウスはサヘル南部全域を流れる大河のニジェール川(ニグリス)について知っていましたが、300年頃のガイウス・ユリウス・ソリヌスは、アフリカ動物相を詳述し、ニジェール川は東方へナイル川へと流れ込む、と示唆しました。
ヘロドトスは、アフリカの遠隔地では金が豊富で、黒檀や象牙用のゾウもいることを知っており、大プリニウスと同時代のポンポニウス・メラは、ナイル川上流域周辺の打つクイエチオピアのマクロビイ人(Macrobii)が金で犯罪者用の足鎖を作っていた、と主張しました。10世紀初期以降の資料は、黒いアフリカ(bilad as-sudan)が豊富な金の産地だったことを明らかにしています。ローマ期のカルタゴにおける金の鋳造は、サハラ砂漠横断の金の輸送の確立が3世紀後半以降にさかのぼる、と提唱されてきましたが、それを裏づける微量元素は、9世紀以前に鋳造されたビザンツ帝国もしくはイスラム教勢力の硬貨では見られません。とくにガーナと現代のマリのガオ州の政治的勢力内に組み込まれた中心地間の、大規模なサハラ砂漠横断の交易制度の確実な考古学的証拠は、7世紀から8世紀の変わり目にやっと現れ、9世紀には大きく成長します。
ヴァンダル人は439年にアフリカ北部を奪い、その王国はビザンツ帝国軍がこの地域を征服するまで、約1世紀存続しました。この地域のビザンツ帝国への再編入は、648~698年(イスラム暦では27~80年)のアラブ人のイスラム教勢力の征服まで、ほぼ1世紀あまり続きました。イタリアとイベリア半島とガリアの考古学的証拠から、アフリカ北部と地中海ヨーロッパとの間の交易はヴァンダル期には依然として盛んだった、と示されています。大西洋経由でブリテン島西部に525~550年頃にもたらされた少量のアフリカの赤色泥漿土器(African Red Slip Ware)は、ビザンツ帝国の再征服の後ですが、これは考古学的使用Bでは判断できないほど細かすぎる年代の問題です。この交易は、本論文で提示された古代DNAの証拠と年代的および地理的に近い結びつきを特定しますが、これらの異なる分野の証拠は完全にはつながっていません。同時期に、腺ペスト(Yersinia pestis)が542年の春までにエジプトからコンスタンティノープルまでの航路に沿って広がり、数年以内に世界的流行病がスペインとフランスとバイエルンとイングランドに拡大し、商品と人々の持続的な移動が浮き彫りになります。
7世紀半ばから2~4世代(1世代約25年)さかのぼると、アップダウンおよびワース・マトラヴァーズに埋葬された遺伝的に一部がアフリカ系の個体群は、6世紀半ばと7世紀初期の間におそらくサヘル南部を去った祖先の子孫だった、と示唆されます。これは、あらゆる接触や交流が、これらの人々が組み込まれた独特な遺伝的構成を促進したような、アフリカ北部のビザンツ帝国の支配期を示しています。6世紀後半および7世紀までに、ビザンツ文化の優越は遠くイングランドにさえ大きく影響しました。ビザンツ帝国の硬貨はヨーロッパ大陸からブリテン島へともたらされ、ビザンツ帝国の服装と装身具類の流行は7世紀の女性の墓の遺物において明らかです。しかし、これら長距離の一連の商業および交換経路ではこれまで、アジアからヨーロッパ南部~東部にまたがり、絹糸や織物やタカラガイの貝殻や紫水晶や柘榴石など異国風の品々をブリテン島にもたらした、おもに東西軸に注目が集まってきました。
7世紀初期におけるアレクサンドリアからブリテン島へと穀物を積んだ船が航海し、錫を積んで帰還し、時には銀へと変わった、との関する興味深い同時代の逸話から、これが定期的な交易路ではなく、例外的な航海だった、と示唆されます。しかし、近い過去のアフリカ祖先系統の個体群が7世紀半ばにブリテン島へと移動した経路に関する、豊富な証拠があります。ヒトのDNA、したがって人々の移動が、今やさらに南方のサハラ砂漠以南のアフリカへの長距離の相互作用の範囲に認識を広げていることは、重要です。9世紀および10世紀までに、カリフ領へのかなりのサハラ砂漠横断の奴隷貿易がありましたが、黒いアフリカが早くも600年頃に大規模な奴隷化や人身売買の犠牲になっていた、と考える証拠はないものの、残念ながらそうした行為はどの歴史的状況でもあり得ます。本論文で考察された2通りの事例では、重要な交易路に沿った機会主義的な移動の最終的な結果の方が、より妥当な想定です。
●まとめ
当時、海岸において金で飾られたアフリカの少女は容易に見つかりました(古英語の『出エジプト記』)。アップダウンの少女とそのオバや祖母は、7世紀のケント法典が制定された時代に、王室の中心地の近くに埋葬されました。これらの明示的で略式の法律は、妻と未亡人と離婚女性とその子供を対象としており、夫と父親の父系が社会的帰属と権利の基盤だったことを論証します。アップダウンの少女の共同体およびその慣習への不完全な取り込みは、この少女の父親と、おそらくはより深い父系がその共同体に知られていたことを強く示唆しています。同様に、ワース・マトラヴァーズにおける若い男性の完全な社会的同化はおそらく、WBI系統の一部の割合を共有していた親族関係にない男性の墓の共有を通じて論証されます。
しかし、これら別々のつながりは、孤立でも一時的でもありませんでした。イングランド東部のリンカンシャーの6世紀の象牙は、アフリカに由来するかもしれません。日常口語の詩である『出エジプト記』では、アフリカの女性はヤコブの子孫と共有しており、エジプトにおける奴隷状態から逃れ、解放されたエジプトの金を積極的に使用し、異教徒の財宝を信心深く使用した、と考えられています。アフリカの境界は中世初期キリスト教世界の拠点で、7世紀後半にカンタベリーのセオドア大司教に加わったアフリカのハドリアヌス大修道院長は、イングランドにおける境界の実践的な確立に根本的な役割を果たしました。考古学と文献と歴史の資料は、中世初期の分野に情報をもたらす範囲の広がりへの、考古遺伝学からのこの予期せぬものの整合的な新しい情報の文脈化に役立ちます。
参考文献:
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関連記事
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関連記事
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関連記事
Lamnidis TC. et al.(2018): Ancient Fennoscandian genomes reveal origin and spread of Siberian ancestry in Europe. Nature Communications, 9, 5018.
https://doi.org/10.1038/s41467-018-07483-5
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Patterson N. et al.(2022): Large-scale migration into Britain during the Middle to Late Bronze Age. Nature, 601, 7894, 588–594.
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Sayer D. et al.(2025): West African ancestry in seventh-century England: two individuals from Kent and Dorset. Antiquity, 99, 407, 1341–1355.
https://doi.org/10.15184/aqy.2025.10139
以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、YHg(Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ)、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、READ(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定)、WBI(Western British Irish、ブリテン島西部アイルランド系)、CWE(Continental Western European、ヨーロッパ西部大陸部)、CNE(Continental Northern European、ヨーロッパ北部大陸部)、C(carbon、炭素)、IntCal(International Calibration、国際的較正)、ALDER(admixture-induced linkage disequilibrium for evolutionary relationships、進化的関係の混合により誘発される連鎖不平衡)です。
本論文で言及される主要な人物は、ソニア・ホークス(Sonia Hawkes)氏、ブライアン・フィリップ(Brian Philp)氏、エドワード・サーロウ・リーズ(Edward Thurlow Leeds)氏、ジェイド・モンステラット(Jade Monsterrat)氏、大プリニウス(Pliny the Elder、Gaius Plinius Secundus、ガイウス・プリニウス・セクンドゥス)、ポンポニウス・メラ(Pomponius Mela)、ガイウス・ユリウス・ソリヌス(Gaius Julius Solinus)、セオドア大司教(Archbishop Theodore)、ハドリアヌス大修道院長(Abbot Hadrian)です。
本論文で取り上げられる主要なイギリスの地域と地名は、ケント州イーストリー(Eastry)近郊のアップダウン(Updown)とフィングルシャム(Finglesham)、ドーセット州のワース・マトラヴァーズ(Worth Matravers)、パーベック(Purbeck)島、ランプロバス(Lanprobus)、シェアボーン(Sherborne)、ケンブリッジシャー(Cambridgeshire)のバーウェル(Burwell)、リンカンシャー(Lincolnshire)、ハダースフィールド(Huddersfield)です。本論文で取り上げられるイギリス以外の主要な地域と地名は、ローマ帝国のマウレタニア(Mauretania)属州、現代のマリのガオ(Gao)州です。本論文で取り上げられるイギリスの主要な遺跡は、サットン・フー(Sutton Hoo)遺跡、プリトルウェル(Prittlewell)遺跡、ドーヴァー・バックランド(Dover Buckland)遺跡、ホルボラフ(Holborough)遺跡、シバーツウォルド(Sibertswold)遺跡です。
●要約
古代DNAを研究する考古遺伝学は、歴史時代(先史時代)における個体の親族関係と移動について強力な知見を明らかにできます。本論文は、サハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統と一致する遺伝的特性を有しており、両方ともブリテン島南部の中世初期墓地に埋葬された、2個体の特定について報告します。本論文はケント州の未成年女性におもに焦点を当てて、これらの個体が生き死にした社会的および文化的背景と、その存在によって示唆される地理的つながりの広がりを調べ、これが533~534年のアフリカ北部のビザンツの再征服にさかのぼることを示します。
●研究史
移動やその方向性と規模と影響は、ヨーロッパの考古学において、とくに中世前期における文化的変化との関連で盛んに議論されています。考古遺伝学的研究は、人口集団規模でこの現象について新たな知見を提供しており(Gretzinger et al., 2022、Patterson et al., 2022)、同時に、墓地内の個体間の直接的な親族関係を明らかにし、安定同位体分析と組み合わせて、個体の移動とその生活様式を特定しています。本論文は、イングランドの南部沿岸近くの7世紀の墓地、つまりケント州のアップダウンとドーセット州のワース・マトラヴァーズに埋葬された2個体について考察します。この両個体には、サハラ砂漠以南のアフリカ西部に近い過去の祖先がいました。補足論文がワース・マトラヴァーズ墓地の背景を報告しているので、本論文はアップダウンの和解女性やその副葬品や墓地で特定された遺伝的親族に焦点を当てます。この2個体の特定と、この2個体が生き死にした社会への同化の認識には、中世初期世界のつながりと発展に関する広範な示唆があります。
●遺跡
ケント州のイーストリー近くのアップダウンの初期アングロ・サクソン墓地の連続した区域が、1976年にはソニア・ホークス氏、1989年にはブライアン・フィリップ氏の監督下で開発に先立って発掘されました(図1)。合計で78基の土葬が発掘され、おもに7世紀でした。アップダウンの副葬品は、服飾品や武器や個人的装身具類で構成され、大陸のフランク王国からの輸入品や、埋葬当時は珍しいビザンツの骨董品である飾り留め金が含まれています。アップダウンは東ケントの墓地群に属し、フィングルシャムのアングロ・サクソン墓地遺跡からわずか数kmに位置しています。フィングルシャムは古英語の「Þengelshām」に由来し、「王子の屋敷」を意味します。9世紀初期の勅許状に記録された地名から、イーストリーは行政区画と特定され、より広範な歴史的証拠から、イーストリーは早くも6世紀には王室の中心地だった、と示唆されます。アップダウンの6個体の古代DNAが分析され、それらの個体は、34・37・45・47・48・52号墓(図1)で発見されました。47号墓(遺伝学的識別番号はEAS003)の結果の詳細は以前には報告されておらず、それは、この個体の祖先系統には別の議論と文脈化の価値がある、と判断されたからです。以下は本論文の図1です。
ワース・マトラヴァーズでは、26個体を含む21基の墓の小さな土葬墓地が、東ドーセット古物商協会の志願者によって2011年に、「蹴球場」と呼ばれる複数の期間の遺跡内で発掘されました。この墓地は元々ローマ期と考えられていましたが、放射性炭素年代測定と1点の銅合金製の帯の飾り留め金によって、7世紀と特定されました。墓はすべて東西を向いており、仰向けの土葬で、短い6列に並べられ、1基の三重埋葬と3基の二重埋葬が含まれていました(図2)。副葬品は、成人女性の骨盤の上の小さな銅合金の飾り留め金(1667号墓)と、二重埋葬の成人男性(1633A号墓)の頭部を載せるのに用いられた、石の錨と思われる遺物だけでした。この遺跡は、イギリス海峡から約2km離れた、パーベック島の内陸にあります。ワース・マトラヴァーズの18個体の古代DNAの結果は、以前に分析されました(Gretzinger et al., 2022)。本論文は、1633B号墓の被葬者(sk1652、ハダースフィールド標本KD010、遺伝学的識別番号はI11570)は、枕石で(親族関係にない)成人男性と二重墓を共有していた、17~25歳の男性と考えます。以下は本論文の図2です。
ケントは常に、隣接する大陸からの影響の導管となってきました。それは6世紀においてひじょうに顕著だったので、エドワード・サーロウ・リーズ氏はケントの「フランク期」と呼ぶよう提唱しました。対照的に、ドーセットは大西洋交易経路の地中海輸入品の分布と、7世紀の前となる初期アングロ・サクソンの埋葬慣行の分布との中間に位置しており、司教管区がシェアボーン(以前のブリテン島ランプロバス)に705年に設立された前には、明らかに完全にはウェセックス王国内に統合されていませんでした。
●古代DNA
古代DNAがアップダウンの47号墓の錐体骨(EAS003)から回収され、配列からゲノムの約半分を再構築できました。常染色体のSNP網羅率やX染色体とY染色体の相対的な網羅率(Lamnidis et al., 2018)によって、この個体の性別は女性と特定されました。骨学的証拠から、彼女は11~13歳頃に死亡した、と示唆されます。この個体の母系は、ヨーロッパ北部において一般的であるmtHg-U5b1(具体的にはU5b1c2b)を表していますが、その常染色体DNAは非ヨーロッパ祖先系統の明確な兆候を示します。集団遺伝学的調査(PCAとF3およびF4統計)は、サハラ砂漠以南のアフリカ、とくにアフリカ西部のヨルバ人やメンデ人やマンデカ人やエサン人集団といった現代人への類似性を明らかにします。ワース・マトラヴァーズの1633B号墓の錐体骨(I11570)から抽出された古代DNAの分析からは同様の結果が得られ、ヨーロッパ系のmtHg-U5bと常染色体におけるサハラ砂漠以南のアフリカ人との類似性が特定されました。したがって、この両個体【EAS003とI11570】は遺伝的および地理的に混合した家系で、20~40%のサハラ砂漠以南のアフリカに特徴的な祖先系統がある、と推定されました。
この2個体【EAS003とI11570】とアップダウンおよびワース・マトラヴァーズの他の個体との間の潜在的な遺伝的関係を調べるために、ソフトウェアREADおよびlcMLkinと、計算されたゲノム間の不適正塩基対率が用いられました(Kennett et al., 2017)。ワース・マトラヴァーズの他の個体は1633B号墓の個体との生物学的関係を示しませんが、アップダウンでは、女性2個体が47号墓の少女(EAS003)の2親等の親族と特定され、それは34号墓(EAS001、祖母)と45号墓(EAS002、オバ)です(表1)。以下は本論文の表1です。
52号墓に埋葬された男性(EAS006)は【EAS003】の3親等の親族で、34号墓の女性【EAS001】は47号墓の女性【EAS003】の娘なので、EAS006の曽孫になります。34号墓【EAS001】と45号墓【EAS002】の女性もmtHg-U5b1c2bで(Gretzinger et al., 2022)、単系の母系子孫が示唆されます。これは、45号墓の女性【EAS002】が47号墓の女性【EAS003】の母方のオバであることを示唆しています(図3)。52号墓の男性【EAS006】は、ヨーロッパ北部では珍しく、イタリア南部とバルカン半島とギリシアではより特徴的なYHg-E1b1b1a1b1a(V13)ですが、EAS006もその娘(34号墓、EAS003)も、測定可能なサハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統を示しません。以下は本論文の図3です。
教師有ADMIXTURE分析では、標本EAS006(52号墓)とEAS001(34号墓)とEAS002(45号墓)で観察された祖先系統のほとんどは、北海地帯からの移住の結果として、中世前期においてイングランド(5~10世紀頃)の大半で優勢になったCNE特性(Gretzinger et al., 2022)を有している、と示唆されます。CWE祖先系統とWBI祖先系統の割合は、ごくわずかです。そうした特性はイングランド南部~東部もとくにケント州において初期ローマ期以後(5~7世紀)に典型的で、東アングリアやさらに北方と比較して、より南方からの人口統計学的流入を繁栄しているかもしれません。したがって、再構築された系図が正しいならば、47号墓の女性(EAS003)の約20~40%となるサハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統は父系に由来するはずで、アップダウンでは父系親族はまだ特定されていません。
ソフトウェアALDERとDATESとrolloffpが用いられ、47号墓の個体(EAS003)の可能性の高い混合年代が推定されました。混合供給源として現在のエサン人とイングランドの中世初期個体のゲノムを用いると、ALDERは3.47世代(95%信頼区間では0~10世代)の距離を示唆します。rolloffpとDATESはわずかにより古い混合年代を推定しますが、95%信頼区間は大きく、これらの手法では単一のゲノムにおける近い過去の混合の特定が困難であることを示唆しています。したがって、この混合事象は近い過去に起きており、推測される混合年代と推定される祖先系統の割合は、47号墓内の個体(EAS003)の父方の祖父母の1人が完全にサハラ砂漠以南のアフリカ系統だった、と結論づけることができるかもしれません。
ワース・マトラヴァーズにおける1633B号墓内の個体(識別番号はI11570)のサハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統の同様の割合と、mtDNAハプロタイプU5bの一致する存在は、アップダウンの47号墓内の個体【EAS003】と類似した遺伝的背景を示唆しており、特徴的なアフリカ西部DNAの最近の混合は、2世代前に起きた可能性が最も高そうです。I11570の古代DNAの標本の低網羅率とワース・マトラヴァーズ墓地内での特定された遺伝的親族の不在は、I11570の家族についてのさらなる推測を妨げますが、1633B号墓は、おもにWBI祖先系統(77.4±8.4%)を示す点でアップダウンの47号墓個体個体【EAS003】と異なっており、これはより広範な標本抽出されたワース・マトラヴァーズ人口集団と一致します。したがって、アフリカ西部祖先系統を有する中世初期個体群は、「アングロ・サクソン」の移住によって直接的に影響を受けた一部と、鉄器時代からローマ期を通じての遺伝的連続性によって特徴づけられる共同体の両方で特定されます(Gretzinger et al., 2022)。
●放射性炭素年代測定
アップダウンの47号墓とワース・マトラヴァーズの1633B号墓内の個体群は放射性炭素年代測定によって、7世紀半ば頃もしくはその直後に位置づけられます。ワース・マトラヴァーズの和解男性は、他の成人男性(sk1632、1633A号墓)と二重墓(1633A/B号墓)に埋葬されていました。1633A号墓と1633B号墓で別の2点の放射性炭素年代が利用可能で、すべては統計的に一貫しており、1395±13年前の組み合わされた年代が得られます。安定同位体(δ¹³C)分析から、海岸の貝がワース・マトラヴァーズでは日常的に消費されていた、と示唆されます。海洋性較正曲線の計算可能な割合の混合は、二重墓の確立の大半を7世紀後半に位置づけますが、これは過剰「補正」やより広範な誤差をもたらす可能性が高そうです。基本的に陸上食性を前提として、混合曲線を用いる、IntCal20曲線を用いての較正の結果は、この埋葬の真の年代を一括する可能性がひじょうに高そうです(図4a・b)。以下は本論文の図4です。
アップダウンでは、47号墓の被葬者【EAS003】の祖母である34号墓個体【EAS001】は、遅くとも7世紀初期SのX1-c様式の短剣(大型の短刀に似た片刃の武器、seax)塚埋葬(37号墓)の反対側に埋葬されていました。34号墓の女性【EAS001】の推定死亡時年齢は、20代半ば~40代半ばです。EAS003の骨格の放射性炭素年代は、95.4%の確率で600~655年頃です(図4c)。EAS001が孫娘【EAS003】より長生きした可能性は低そうですが、墓が比較的近いことから、両者は相互に数年以内に埋葬された、と示唆され、47号墓被葬者【EAS003】の年代について7世紀前期~半ばの推定値を提供します。
●アップダウンの少女
アップダウンの47号墓に未成年女性【EAS003】は、担当と匙と骨製櫛と装飾壺とともに埋葬されました(図5)。EAS003の足元に置かれた二重円錐型の壺は、轆轤で作られた製品でした。同様の容器は同時代のケント州の墓地では一般的で、ほとんどはフランク王国のガリアから輸入されました。しかし、この壺の胴部周辺に帯状に刻まれて織り交ぜられた装飾は類を見ないもので、これは現地製作が可能だったように思われる数少ない標本の一つかもしれません。櫛と匙と短刀は左側の腰の側で見つかり、銅合金製台座の破片はこれらの品々が収納された袋の残骸かもしれません。短刀は一般的で実用的な道具ですが、他の2点の品にはより深い意味が込められているかもしれません。以下は本論文の図5です。
匙は垂れ飾りやお守りとしても使用されたかもしれません。アングロ・サクソンの墓から発見された最高級の事例は、ローマ様式の銀の匙のビザンツ帝国および大陸の継続的な製作を表しており、たとえば、サットン・フー1号塚やプリトルウェル玄室墓です。小型の箆形の鉄製匙はケントにおける7世紀の埋葬の特徴で、そうした匙はドーヴァー・バックランド(75・110・119・127号墓)やホルボラフ(11号墓)やシバーツウォルド(60号墓)やケンブリッジシャーのバーウェルで発見されてきました。アップダウンから第二の標本が見つかり、これも、アップダウンの少女【EAS003】の母方のオバと特定された個体である45号墓の若い成人【EAS002】の左側の腰に櫛(枝角製)が伴っていました。また、円筒の作業箱がアップダウンの34号墓と45号墓で見つかり、匙のような種類の人工遺物は、キリスト教の導入と関連する象徴とも結びつけられてきました。
櫛は初期アングロ・サクソンの女性の土葬でよく見られますが、多くはありません。枝角で作られた両面複合型設計の3節の櫛は、5世紀以降に一般的な長く見られる型で、7世紀に導入されたより精巧な種類の櫛は、片面複合型です。47号墓の小さな両面櫛の破片は、45号墓の歯かと同様におそらく記念品か贈り物を表していますが、この場合には、櫛が明らかに失われたので、櫛の種類は記録されていません。
これらの櫛は化粧道具で、身だしなみを整えるか、清浄のために用いられました。先行研究は、火葬で頻繁に見つかる小型模型の櫛は、比喩的な「死者の肉体の再構築戦略」とみなしています。一部の土葬における頭部の側の櫛の位置は、櫛が髪を飾るために着用され、個体の外見の一部となっていたことを示唆します。身だしなみを整える行為は公的な場で行なわれるかもしれず、櫛は個人の肉体と、他者からどう認識されるのかという点で、不可欠になりました。外見の変化は多くの先史時代のアフリカの身体的表現において重要で、身だしなみを整えながら、櫛を用いる儀式は、これらの道具が魔除けや儀式の性質を有していた、と示唆しているかもしれません。
ドーヴァー・バックランドの110号墓とバーウェルの83号墓は成人女性の墓で、櫛と鉄製の匙/箆の同じ組み合わせが共伴します。櫛は20歳以上の女性で最も多く共伴する、と分かっています。通常は成人女性を表している、と予測させる品々が伴う、アップダウンにおける未成年の埋葬は異例ではないものの、その構成要素は依然として具体的な文脈の観点で解釈されるかもしれません。「黒人」のイギリス人芸術家のジェイド・モンステラット氏は、女性の髪がその自己認識に深く根差している、と指摘しており、ヨーロッパの美学と一致する直毛の流行(図6)に言及し、これは多分アップダウンの少女によって共有されている経験です。以下は本論文の図6です。
アップダウンの少女【EAS003】のアフリカ祖先系統が、髪質や顔立ちや肌の色調の側面で明らかだったのかどうか、分かりません。EAS003の頭蓋は部分的にしか無傷ではなく、その祖先系統の測量的相関の範囲を制約します。鼻の領域における24.7mmとかなり広い眼窩間距離はアフリカ祖先系統を反映しているかもしれませんが、保存区状態や化石生成論てき変化や比較データの限定的な利用可能性のため、この側面では注意が必要です。それにも関わらず、EAS003がともに埋葬された折衷的な人工遺物群は、祖先系統のように広範な影響源を具現化しており、この少女の埋葬における独特な状況の一般的な品々の収集は、現在アフリカ系の若い女性の経験と同等の意味があるかもしれない社会規範を、彼女に課しました。考古学的には、この個体【EAS003】の墓は王族の中心地とともに、裕福な人々における経験を巧妙に語っています。この中世初期人口集団には移民とその子孫、族外婚の女性、遠方や近場から訪れる旅人が含まれており、キリスト教の象徴を用いていました。
●出アフリカ:歴史的および考古学的背景
イングランド南部の別の遺跡における7世紀半ば頃の、共同体の表面上は通常の構成員として死亡して埋葬された2個体の、近い過去のサハラ砂漠以南のアフリカ祖先系統の発見は、ブリテン島を含む長距離移動および人口統計学的相互作用について、データに新たな側面を追加します。それは、6世紀と7世紀における地中海全域および周辺の広範な経済的および政治的関係に関する理解に寄与します。アフリカ北部は、とくに穀物と油を供給できる点で、ローマ帝国にとって重要な地域でした(関連記事)。ローマ帝国の支配自体は、それ以前のエジプトとカルタゴの国家を継承し、ローマ軍はアフリカの「蛮族」軍隊をマウレタニアおよびヌミディアの西方属州から徴兵し、そうした兵士はローマ帝国全域で活躍し、最終的には定住できました。
それでもなお、古代のギリシアとローマにおけるアフリカに関する詳細な知識は、ナイル川流域とアフリカ東部およびアジアにつながる紅海の交易路を覗けば、南方でアトラス山脈とサハラ砂漠に接する地中海沿岸地域に限られていました。紀元前5世紀に、ヘロドトスはサハラ砂漠を塩が豊富で、ガラマンテス人(Garamantes)と呼ばれる集団がおもに居住していた、と記述し、その先には、自分が「エチオピア人(Aethiopian)」と呼んだ、人々が居住する、黒いアフリカだったことにヘロドトスは気づいていました。1世紀半ばに、大プリニウスはアフリカの遠隔地についてより体系的な記述を残しました。大プリニウスはサヘル南部全域を流れる大河のニジェール川(ニグリス)について知っていましたが、300年頃のガイウス・ユリウス・ソリヌスは、アフリカ動物相を詳述し、ニジェール川は東方へナイル川へと流れ込む、と示唆しました。
ヘロドトスは、アフリカの遠隔地では金が豊富で、黒檀や象牙用のゾウもいることを知っており、大プリニウスと同時代のポンポニウス・メラは、ナイル川上流域周辺の打つクイエチオピアのマクロビイ人(Macrobii)が金で犯罪者用の足鎖を作っていた、と主張しました。10世紀初期以降の資料は、黒いアフリカ(bilad as-sudan)が豊富な金の産地だったことを明らかにしています。ローマ期のカルタゴにおける金の鋳造は、サハラ砂漠横断の金の輸送の確立が3世紀後半以降にさかのぼる、と提唱されてきましたが、それを裏づける微量元素は、9世紀以前に鋳造されたビザンツ帝国もしくはイスラム教勢力の硬貨では見られません。とくにガーナと現代のマリのガオ州の政治的勢力内に組み込まれた中心地間の、大規模なサハラ砂漠横断の交易制度の確実な考古学的証拠は、7世紀から8世紀の変わり目にやっと現れ、9世紀には大きく成長します。
ヴァンダル人は439年にアフリカ北部を奪い、その王国はビザンツ帝国軍がこの地域を征服するまで、約1世紀存続しました。この地域のビザンツ帝国への再編入は、648~698年(イスラム暦では27~80年)のアラブ人のイスラム教勢力の征服まで、ほぼ1世紀あまり続きました。イタリアとイベリア半島とガリアの考古学的証拠から、アフリカ北部と地中海ヨーロッパとの間の交易はヴァンダル期には依然として盛んだった、と示されています。大西洋経由でブリテン島西部に525~550年頃にもたらされた少量のアフリカの赤色泥漿土器(African Red Slip Ware)は、ビザンツ帝国の再征服の後ですが、これは考古学的使用Bでは判断できないほど細かすぎる年代の問題です。この交易は、本論文で提示された古代DNAの証拠と年代的および地理的に近い結びつきを特定しますが、これらの異なる分野の証拠は完全にはつながっていません。同時期に、腺ペスト(Yersinia pestis)が542年の春までにエジプトからコンスタンティノープルまでの航路に沿って広がり、数年以内に世界的流行病がスペインとフランスとバイエルンとイングランドに拡大し、商品と人々の持続的な移動が浮き彫りになります。
7世紀半ばから2~4世代(1世代約25年)さかのぼると、アップダウンおよびワース・マトラヴァーズに埋葬された遺伝的に一部がアフリカ系の個体群は、6世紀半ばと7世紀初期の間におそらくサヘル南部を去った祖先の子孫だった、と示唆されます。これは、あらゆる接触や交流が、これらの人々が組み込まれた独特な遺伝的構成を促進したような、アフリカ北部のビザンツ帝国の支配期を示しています。6世紀後半および7世紀までに、ビザンツ文化の優越は遠くイングランドにさえ大きく影響しました。ビザンツ帝国の硬貨はヨーロッパ大陸からブリテン島へともたらされ、ビザンツ帝国の服装と装身具類の流行は7世紀の女性の墓の遺物において明らかです。しかし、これら長距離の一連の商業および交換経路ではこれまで、アジアからヨーロッパ南部~東部にまたがり、絹糸や織物やタカラガイの貝殻や紫水晶や柘榴石など異国風の品々をブリテン島にもたらした、おもに東西軸に注目が集まってきました。
7世紀初期におけるアレクサンドリアからブリテン島へと穀物を積んだ船が航海し、錫を積んで帰還し、時には銀へと変わった、との関する興味深い同時代の逸話から、これが定期的な交易路ではなく、例外的な航海だった、と示唆されます。しかし、近い過去のアフリカ祖先系統の個体群が7世紀半ばにブリテン島へと移動した経路に関する、豊富な証拠があります。ヒトのDNA、したがって人々の移動が、今やさらに南方のサハラ砂漠以南のアフリカへの長距離の相互作用の範囲に認識を広げていることは、重要です。9世紀および10世紀までに、カリフ領へのかなりのサハラ砂漠横断の奴隷貿易がありましたが、黒いアフリカが早くも600年頃に大規模な奴隷化や人身売買の犠牲になっていた、と考える証拠はないものの、残念ながらそうした行為はどの歴史的状況でもあり得ます。本論文で考察された2通りの事例では、重要な交易路に沿った機会主義的な移動の最終的な結果の方が、より妥当な想定です。
●まとめ
当時、海岸において金で飾られたアフリカの少女は容易に見つかりました(古英語の『出エジプト記』)。アップダウンの少女とそのオバや祖母は、7世紀のケント法典が制定された時代に、王室の中心地の近くに埋葬されました。これらの明示的で略式の法律は、妻と未亡人と離婚女性とその子供を対象としており、夫と父親の父系が社会的帰属と権利の基盤だったことを論証します。アップダウンの少女の共同体およびその慣習への不完全な取り込みは、この少女の父親と、おそらくはより深い父系がその共同体に知られていたことを強く示唆しています。同様に、ワース・マトラヴァーズにおける若い男性の完全な社会的同化はおそらく、WBI系統の一部の割合を共有していた親族関係にない男性の墓の共有を通じて論証されます。
しかし、これら別々のつながりは、孤立でも一時的でもありませんでした。イングランド東部のリンカンシャーの6世紀の象牙は、アフリカに由来するかもしれません。日常口語の詩である『出エジプト記』では、アフリカの女性はヤコブの子孫と共有しており、エジプトにおける奴隷状態から逃れ、解放されたエジプトの金を積極的に使用し、異教徒の財宝を信心深く使用した、と考えられています。アフリカの境界は中世初期キリスト教世界の拠点で、7世紀後半にカンタベリーのセオドア大司教に加わったアフリカのハドリアヌス大修道院長は、イングランドにおける境界の実践的な確立に根本的な役割を果たしました。考古学と文献と歴史の資料は、中世初期の分野に情報をもたらす範囲の広がりへの、考古遺伝学からのこの予期せぬものの整合的な新しい情報の文脈化に役立ちます。
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