アヘン戦争の位置づけ

 当ブログではアヘン戦争が主題の本を取り上げたことはありませんが、アヘン戦争に言及している本を取り上げたことはあるので、そうした本のアヘン戦争の位置づけについて短くまとめます。中華人民共和国では現在、アヘン戦争が中国史の画期の一つとされているようです。アヘン戦争を直接的に取り上げているわけではありませんが、遊牧世界から見た「中華文明」の形成および変容史の新書(松下.,2025)では、「中華文明」が5段階に区分されており、第1段階(新石器時代~西周)では「中華文明」の原型が形成され、第2段階(春秋時代~漢代)では漢=中華=「文明」、匈奴=夷狄=野蛮という構図が形成されて、「中華古典文明」が成立し、第3段階(魏晋~唐)では「中華古典文明」が変容拡大し、「胡漢融合」の「中華世界」が出現して、第4段階(五代十国~アヘン戦争)では、「中華世界」がユーラシア全体と結ばれ、周辺世界で独自の文字が採用されるなど、「中華」の相対化が進み、第5段階(アヘン戦争~現在)では、「中華「明」が西洋からの影響によって大きく変容し、近代において「中華民族」の創出が目指され、少数民族の漢民族化が促進された、と把握されており、アヘン戦争を中国史というか「中華文明」史の画期と位置づけている点では、中華人民共和国の体制教義的な歴史観と通ずる、と言えるかもしれません。

 一方で、軍事的観点からの中国通史(澁谷.,2017)では、太平天国の乱が重視されており、さらにその前史として、18世紀末の白蓮教徒の乱が取り上げられています。太平天国の乱は人類史上で有数の大規模な人的被害をもたらした戦乱と言われていますが、太平天国の乱の影響として、太平天国の失敗が内部分裂に求められ、中国は常に強大な権力により統一されていなければ破滅する、との観念が根づいた、と指摘されており(菊池.,2020)、それが、蒋介石の国民党でも中国共産党でも、強大な権力を掌握して異論を許さない「党国体制」につながっている、というわけです。太平天国の乱は、大規模な人的被害による直接的影響のみならず、現代中国にも強い影響を及ぼした戦乱として注目されます。

 中国史におけるアヘン戦争の画期性の強調に疑問を呈すのは、おもに大明王朝とダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)を扱った新書(岡本.,2013)で、アヘン戦争後にイギリスの綿布が中華地域の市場での競争に敗れたことからも、アヘン戦争後しばらく、中華地域の伝統経済が根本的には変わらなかった、と強調されています。岡本.,2013は、それが労賃の低い貧民の自給的な経済活動に支えられた、中華地域の伝統経済の強靭な一面でもあったことを指摘します。ただ、岡本.,2013は、アヘン戦争によって中華地域の伝統経済が変容した側面も指摘しており、それが後に新たな変化へと結びついていきます。アヘン戦争による中国経済の変化として岡本.,2013が指摘するのは、外国貿易とそれにともなう内治流通の量的増加です。その結果、中華地域の経済の中核は蘇州から上海へ、大動脈は大運河・河川水系から沿海・長江へと変わります。こうした対外貿易は当時、中華地域の経済に占める割合はさほど高くなかったものの、増大分が密貿易・脱税へと流れたため、中央政権としても対策に着手したものの、中間団体の統制を充分にはできない中央政権にとって、「外国人」社会の取り締まりは手に余る問題で、けっきょくは外国官憲に取り締まりを委ねることになります。後世の中国人愛国者はこの点を強く非難しますが、当時の文脈に沿って考えると、居留外国人社会も中間団体の一種という認識の方が客観的事実に近いのかもしれない、と岡本.,2013は指摘します。治外法権や租界といった不平等条約にしても、外国貿易の密輸・脱税を取り締まる海関が外国人の手に委ねられたのも、中華地域の社会経済構造の必要に応じたものだった、というわけです。

 同じ著者による「倭寇」の検証(岡本.,2025)では、こうした視点が「倭寇」の検証を通じてさらに深められています。岡本.,2025は、アヘン戦争の前提として、ダイチン・グルンでは大明王朝の観念的で原理的な「華夷秩序」から、「華夷同体」と言われる状況が出現し、「夷」が「華」に押し寄せ、「華」人が「夷」人と一体になることも珍しくなくなかったことを指摘します。ダイチン・グルン支配下の中華地域では、徳川政権の方針によって「倭人」が不在となり(「華人」が日本に赴いての交易は続きました)、ヨーロッパ勢力が交易相手として台頭し、当初、ヨーロッパ勢力は中華地域の産品を購入して、その対価は産品ではなく銀で、かつての中華地域と日本列島との交易、つまり「倭寇的状況」と類似していました。しかし、ヨーロッパ勢力と中華地域との交易の範囲や規模や財の動き、かつての「倭寇(的状況)」を大きく上回っており、それが中華地域の社会を大きく変えていきます。中華地域では好況から人口が増加しますが、ダイチン・グルンにはそれに対応できる体制を築くだけの政治力はなく、民間では、紛争でも当事者主義が浸透し、武装化が進みます。こうした治安悪化はかつての「倭寇」と同じで、「倭人」がいないので「倭寇」と呼ばれなかったにすぎない、と岡本.,2025は指摘します。一方で、ダイチン・グルンの支配層では、好況を反映してか、中華意識が肥大します。ただ本書は、これが好況を反映した自信である側面も、危機の到来を予見しての虚勢の側面もあったかもしれない、と岡本.,2025は指摘します。これ以降、ダイチン・グルンの支配層では、西洋人は「外夷」で、西洋との交易は互恵的貿易ではなく「中華」からの恩恵との論理が強化されていきます。こうした客観的な民間社会と主観的な政権態度の動向の乖離が以後の歴史を規定するとともに、それは大明王朝で「倭寇」を引き起こした条件そのものだった、と岡本.,2025は指摘します。

 岡本.,2025はこうした前提で、アヘン貿易とその結果としてのアヘン戦争も、「倭寇」と「華夷同体」の再現および発展だった、と把握しています。アヘン戦争後、「法の前の平等」と「法の支配」を原則とする「条約体制」が成立しますが、これは西洋側からの見方で、ダイチン・グルンの支配層では、最恵国待遇は「外夷」への恩恵と認識されており、治外法権にしても以前から、「外夷」商人の引率と取り締まりは外国商館の指導者に任されていました。協定関税にしても、以前の税率を基準に改定されたもので、完全の片務協定も、当時のダイチン・グルンの支配層には保護関税との観念がなかったため、係争にはなりませんでした。商慣行にしても、以前から事実上「自由」で、資本に富む少数の外国商社が前面に出て、多数の零細な「華人」商人と交易業務を行ないました。

 こうした「華人」商人は、もちろん「倭人」でも「漢奸」でもなく「買辮」と呼ばれ、これには裏切り者的な意味合いもあり、「倭寇」の頃の「倭人」と同様でした。アヘン戦争後も、「条約港」の社会経済は、規模こそ異なるものの、以前の「互市」からの継続だった、と岡本.,2025は評価しています。岡本.,2025は、表面的には大きく異なるものの、「洋務」も「倭寇」以来の論理で把握しており、この時期、ダイチン・グルンの支配層において、西洋への優秀な「華人」留学生が「顕官」になるとは想定されていなかったこともそうした表れで、この点が同時代の日本との大きな違いでした。太平天国の乱の鎮圧後のダイチン・グルンにおいて、支配層の観念・世界観に決定的な変化があったわけではなく、それを支えていたのは、科挙合格者で顕官でありながら、「洋務」に携わって「実情」を詳しく支えていた李鴻章でした。

 岡本.,2025も岡本.,2013も、この状況が大きく変わった契機として日清戦争を挙げており、岡本.,2025では、「華夷同体」は大きく外に傾いた、と指摘されています。西洋列強に新たに日本が加わり、一体たるべき「瓜」が外から切り「分」けられる、つまり「瓜分」との認識が浸透した漢字知識層の間で、排外思想が高まり、内外の軋轢が起きた機序はかつての「倭寇」と同じだった、と岡本.,2025は把握しています。岡本.,2025では、義和団事件は、体制側の政権と反体制側の結社が結びつき、列強とそれに与する「華人」、つまり「華夷同体」に挑んだ戦いだった、と認識されています。アヘン戦争が中国史において重要ではなかった、とはとても言えないとしても、中華人民共和国の体制教義的歴史観のような、中国史における一大画期と強調する見解は、一定以上相対化されるべきと思います。


参考文献:
岡本隆司(2013)『近代中国史』(筑摩書房)
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岡本隆司(2025)『倭寇とは何か 中華を揺さぶる「海賊」の正体』(新潮社)
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菊池秀明(2020)『太平天国 皇帝なき中国の挫折』(岩波書店)
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澁谷由里(2017)『<軍>の中国史』(講談社)
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松下憲一(2025)『中華とは何か 遊牧民からみた古代中国史』(筑摩書房)
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