黒田基樹『秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治』
講談社現代新書の一冊として、講談社より2025年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。来年(2026年)の大河ドラマは、羽柴秀長を主人公とする『豊臣兄弟!』なので、秀長の事績について把握するために読みました。秀長は1540年(以下、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です)生まれで、兄の秀吉が織田信長の家臣になったことで、自らも信長に仕え、当初は長秀と名乗りました。秀長が当時の史料に初めて見えるのは1573年で、1575年には兄と同じく羽柴を名乗り、兄の与力となって重用され、兄が天下人になると、兄に次ぐ地位に抜擢されましたが、1591年1月22日に没します。本書は、秀長の外交と領国統治に焦点を当てています。
秀長は羽柴政権において、織田信雄や徳川家康や毛利輝元や小早川隆景や吉川元長や吉川広家や長宗我部元親や大友宗麟や大友吉統や島津義久や島津義弘といった重要な外様大名との取次を担いましたが、本能寺の変から羽柴政権が確立していく過程でも、清州体制において羽柴秀吉が関係の悪化した柴田勝家と和睦するさいに、弟の秀長が柴田への使者を務めており、それが羽柴政権での秀長の立場につながっていったようです。またこの時期、秀長は惟住(丹羽)長秀の庶子を養嗣子に迎えており、秀吉と長秀との協調関係において秀長の果たした役割は大きかったようです。秀吉は小牧・長久手の戦いで織田信雄と徳川家康を降伏に追い込み、羽柴政権が成立します。このさい、信雄に対して秀吉へ明確に従属するよう説得したさいに重要な役割を果たしたのが秀長で、秀長は信雄の「指南」を務めるようになります。秀長は、小牧・長久手の戦いで信雄に与した家康への取次も務めるようになります。家康が秀吉への従属を明確化するために上洛したさいには、他の羽柴政権に従属した外様の大大名よりも優遇されていますが、これは家康が手強い相手だったからではなく、すでに秀吉の妹婿で格別な立場にあったからだ、と本書は指摘します。
秀長は北条の取次も務めていたようで、秀長が健康で長命だったならば、北条が羽柴政権に従属し、秀長が北条の「指南」を務めた可能性も本書は指摘します。さらに、秀長は伊達政宗とも書状のやり取りをしており、伊達の「指南」を務めた可能性も本書は指摘します。秀長は西日本の外様大大名の取次も務めており、同じく羽柴家で毛利の取次を務めていた秀吉直臣の蜂須賀正勝や黒田孝高よりも上位に位置していました。羽柴政権が四国に侵攻したさいには、秀吉の出陣が事実上中止になったため、秀長は全軍の総大将を務め、長宗我部元親を降伏に追い込み、従属させていますが、それは秀吉の承認を受けてのことでした。これを機に、秀長は長宗我部元親の「指南」を務めるようになります。羽柴政権が確立していく時期の九州では大友と島津が対立しており、劣勢だった大友は秀吉への従属姿勢を示したものの、島津はそうせず、秀吉は大軍で島津を攻めます。秀長は、対立する大友と島津両方の取次を務めており、島津を攻めたさいにも、秀吉の九州到着までは先陣の総大将を務め、秀吉の九州到着後は、日向侵攻軍の総大将を務めて、島津を降伏に追い込んでいます。秀長は羽柴政権に従属後の大友の「指南」を務めており、取次先の大名が従属してきた場合に「指南」を務めるのは、一般的な在り様でした。島津が羽柴政権に従属した後で、秀長は島津の「指南」を務めています。
秀長は、本能寺の変の前となる1580年5月に但馬半国を領有しており、本能寺の変後に但馬一国と丹波の福知山領を与えられ、但馬竹田城を本拠としています。1585年4月の賤ヶ岳合戦後には、播磨三郡と但馬一国を領有するようになり、石高換算では14万石程度と推定され、姫路城を本拠としています。1585年4月に秀吉が和泉と紀伊を平定すると、秀長は両国を与えられ、石高換算では28万石程度と推定されており、和歌山城を本拠としました。ただ、秀長は和泉と紀伊のすべてを所領とできたわけではなく、領国には秀吉から直接的に所領を与えられた秀吉直臣がおり、そうした秀吉直臣は与力として秀長の軍事指揮下にありました。秀長の領国支配は、羽柴政権下の外様大大名や徳川政権の外様大名の領国しはいとは異なり、羽柴政権の一門衆として政権による直接的な関与があったようで、領内の指出の提出を秀長ではなく秀吉が命じていました。秀長などの羽柴一門衆や秀吉直臣の所領は、あくまでも秀吉の領国だったわけです。この領国支配において、秀長の重臣で紀伊雑賀城主の吉川平助が秀吉の命によって処刑されており、吉川平助の家族も秀長も当初は処罰対象とされなかったものの、その後、秀長は一時的とはいえ秀吉から面会を認められず、秀長といえども秀吉の処罰対象となる可能性が浮き彫りになっています。秀長は1585年8月には大和も領国として与えられ、1589年12月には伊賀も領国として与えられたので、その領地の推定石高は83万石程度となります。大和は興福寺などの有力な寺社権門が長期にわたって存在し、紀伊も似たような性格の国だったので、秀吉は秀長の統治能力を高く評価していたようです。秀長は大和で多額の貸付を行なっていますが、秀長死後に秀吉によってその貸付が破棄されているように、高利貸しというよりは、領国繁栄を企図しての融資としての性格が強かったのではないか、と本書は指摘します。本書はこうした秀長の領国統治を、戦国大名と同質だった、と評価しています。
本書はこうした羽柴政権における秀長の取次や領国統治を踏まえて、秀長が羽柴政権において高い地位にあったことを改めて指摘します。羽柴政権において秀長の政治的地位は、秀吉と織田信雄に次ぎ、徳川家康と同等でした(ただ、儀式などの座席順では常に家康が秀長の上位に位置づけられました)。秀長の官位は、最終的には正二位権大納言となり、正二位に昇進した最晩年の1589年頃には、位階の点で家康も明確に上回りました。羽柴一門衆でも、秀長は領国の推定石高でも官位でも常に羽柴秀次の上位にありました。秀長存命時の羽柴政権は、羽柴と織田と徳川の結合によって構築されており、織田信雄と徳川家康の「指南」を務めた秀長は、羽柴政権において重要な役割を担っていた、と本書は評価しています。軍事面でも、秀長は本能寺の変の前より秀吉の代理を務めることができる立場にあり、羽柴軍の別編成軍の総大将を務めていて、上述のように四国侵攻では羽柴全軍の総大将も務めました。本書は、秀長がいなければ、秀吉が天下人になり、「天下一統」を進められたのか、確実ではなく、秀長の死を契機として羽柴政権の構造は大きく変わった、と指摘します。ただ、秀長はあくまでも秀吉の一門衆で、秀吉の了解範囲を超えることは許されませんでした。
秀長は羽柴政権において、織田信雄や徳川家康や毛利輝元や小早川隆景や吉川元長や吉川広家や長宗我部元親や大友宗麟や大友吉統や島津義久や島津義弘といった重要な外様大名との取次を担いましたが、本能寺の変から羽柴政権が確立していく過程でも、清州体制において羽柴秀吉が関係の悪化した柴田勝家と和睦するさいに、弟の秀長が柴田への使者を務めており、それが羽柴政権での秀長の立場につながっていったようです。またこの時期、秀長は惟住(丹羽)長秀の庶子を養嗣子に迎えており、秀吉と長秀との協調関係において秀長の果たした役割は大きかったようです。秀吉は小牧・長久手の戦いで織田信雄と徳川家康を降伏に追い込み、羽柴政権が成立します。このさい、信雄に対して秀吉へ明確に従属するよう説得したさいに重要な役割を果たしたのが秀長で、秀長は信雄の「指南」を務めるようになります。秀長は、小牧・長久手の戦いで信雄に与した家康への取次も務めるようになります。家康が秀吉への従属を明確化するために上洛したさいには、他の羽柴政権に従属した外様の大大名よりも優遇されていますが、これは家康が手強い相手だったからではなく、すでに秀吉の妹婿で格別な立場にあったからだ、と本書は指摘します。
秀長は北条の取次も務めていたようで、秀長が健康で長命だったならば、北条が羽柴政権に従属し、秀長が北条の「指南」を務めた可能性も本書は指摘します。さらに、秀長は伊達政宗とも書状のやり取りをしており、伊達の「指南」を務めた可能性も本書は指摘します。秀長は西日本の外様大大名の取次も務めており、同じく羽柴家で毛利の取次を務めていた秀吉直臣の蜂須賀正勝や黒田孝高よりも上位に位置していました。羽柴政権が四国に侵攻したさいには、秀吉の出陣が事実上中止になったため、秀長は全軍の総大将を務め、長宗我部元親を降伏に追い込み、従属させていますが、それは秀吉の承認を受けてのことでした。これを機に、秀長は長宗我部元親の「指南」を務めるようになります。羽柴政権が確立していく時期の九州では大友と島津が対立しており、劣勢だった大友は秀吉への従属姿勢を示したものの、島津はそうせず、秀吉は大軍で島津を攻めます。秀長は、対立する大友と島津両方の取次を務めており、島津を攻めたさいにも、秀吉の九州到着までは先陣の総大将を務め、秀吉の九州到着後は、日向侵攻軍の総大将を務めて、島津を降伏に追い込んでいます。秀長は羽柴政権に従属後の大友の「指南」を務めており、取次先の大名が従属してきた場合に「指南」を務めるのは、一般的な在り様でした。島津が羽柴政権に従属した後で、秀長は島津の「指南」を務めています。
秀長は、本能寺の変の前となる1580年5月に但馬半国を領有しており、本能寺の変後に但馬一国と丹波の福知山領を与えられ、但馬竹田城を本拠としています。1585年4月の賤ヶ岳合戦後には、播磨三郡と但馬一国を領有するようになり、石高換算では14万石程度と推定され、姫路城を本拠としています。1585年4月に秀吉が和泉と紀伊を平定すると、秀長は両国を与えられ、石高換算では28万石程度と推定されており、和歌山城を本拠としました。ただ、秀長は和泉と紀伊のすべてを所領とできたわけではなく、領国には秀吉から直接的に所領を与えられた秀吉直臣がおり、そうした秀吉直臣は与力として秀長の軍事指揮下にありました。秀長の領国支配は、羽柴政権下の外様大大名や徳川政権の外様大名の領国しはいとは異なり、羽柴政権の一門衆として政権による直接的な関与があったようで、領内の指出の提出を秀長ではなく秀吉が命じていました。秀長などの羽柴一門衆や秀吉直臣の所領は、あくまでも秀吉の領国だったわけです。この領国支配において、秀長の重臣で紀伊雑賀城主の吉川平助が秀吉の命によって処刑されており、吉川平助の家族も秀長も当初は処罰対象とされなかったものの、その後、秀長は一時的とはいえ秀吉から面会を認められず、秀長といえども秀吉の処罰対象となる可能性が浮き彫りになっています。秀長は1585年8月には大和も領国として与えられ、1589年12月には伊賀も領国として与えられたので、その領地の推定石高は83万石程度となります。大和は興福寺などの有力な寺社権門が長期にわたって存在し、紀伊も似たような性格の国だったので、秀吉は秀長の統治能力を高く評価していたようです。秀長は大和で多額の貸付を行なっていますが、秀長死後に秀吉によってその貸付が破棄されているように、高利貸しというよりは、領国繁栄を企図しての融資としての性格が強かったのではないか、と本書は指摘します。本書はこうした秀長の領国統治を、戦国大名と同質だった、と評価しています。
本書はこうした羽柴政権における秀長の取次や領国統治を踏まえて、秀長が羽柴政権において高い地位にあったことを改めて指摘します。羽柴政権において秀長の政治的地位は、秀吉と織田信雄に次ぎ、徳川家康と同等でした(ただ、儀式などの座席順では常に家康が秀長の上位に位置づけられました)。秀長の官位は、最終的には正二位権大納言となり、正二位に昇進した最晩年の1589年頃には、位階の点で家康も明確に上回りました。羽柴一門衆でも、秀長は領国の推定石高でも官位でも常に羽柴秀次の上位にありました。秀長存命時の羽柴政権は、羽柴と織田と徳川の結合によって構築されており、織田信雄と徳川家康の「指南」を務めた秀長は、羽柴政権において重要な役割を担っていた、と本書は評価しています。軍事面でも、秀長は本能寺の変の前より秀吉の代理を務めることができる立場にあり、羽柴軍の別編成軍の総大将を務めていて、上述のように四国侵攻では羽柴全軍の総大将も務めました。本書は、秀長がいなければ、秀吉が天下人になり、「天下一統」を進められたのか、確実ではなく、秀長の死を契機として羽柴政権の構造は大きく変わった、と指摘します。ただ、秀長はあくまでも秀吉の一門衆で、秀吉の了解範囲を超えることは許されませんでした。
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