スラブ人の遺伝的歴史
古代ゲノムデータに基づくスラブ人の遺伝的歴史に関する研究(Gretzinger et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、考古学や文献などからスラブ人と考えられるヨーロッパ東部の千年紀の多数の人類遺骸のゲノムデータを報告し、とくにドイツ東部とポーランドとクロアチアでは、スラブ人の出現がおもに文化変容ではなく大規模な人口移動による遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の顕著な変化に起因した可能性を示しています。最近の研究(Schulz et al., 2025)でも、現在のモラビアにおけるスラブ人の形成過程は、おもに大規模な人口移動に起因した可能性が指摘されています。
以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、YHg(Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ)、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、IBD(identity-by-descent、同祖対立遺伝子)、cM(centimorgan、センチモルガン)、FST(fixation index、2集団の遺伝的分化の程度を示す固定指数)、WHG(Western hunter-gatherer、ヨーロッパ西部狩猟採集民)、EEF(early European farmer、初期ヨーロッパ農耕民)、DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)、BAL(Belarus, Lithuania and Latvia、ベラルーシとリトアニアとラトビア)です。
以下の時代区分の略称は、BA(Bronze Age、青銅器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、EIA(Early Iron Age、前期鉄器時代)、MP(Migration Period、大移動期、4世紀後半~6世紀後半)、SP(Slavic Period、スラブ期、6世紀もしくは7世紀以降)、MA(Middle Ages、中世)、EMA(Early Middle Ages、前期中世)です。本論文で取り上げられる主要な文化は、プラハ・コルチャク(Prague-Korchak)文化、キエフ(Kyivan)文化です。
本論文で取り上げられる主要な遺跡と標本数は以下の通りです。クロアチアでは、ダルマチア(Dalmatia)地域のビオグラード(Biograd、略してBIO)遺跡(1200~1700年頃、1点)とドゥブロヴニク教会(Dubrovnik cathedral、略してDUC)遺跡(500~1100年頃、1点)、シベニク=クニン(Šibenik-Knin)地域のブリベル(Bribir、略してBRI)遺跡(1200~1700年頃、1点)、、カルロヴァツ(Karlovac)地域のブビ洞窟(Bubi's cave、略してBBC)遺跡(250~350年頃、35点)、スプリト=ダルマチア(Split-Dalmatia)郡のドゥゴポリェ(Dugopolje – Vučipolje、略してDUG)遺跡(1200~1600年頃、1点)、ザダル(Zadar)市のポドゥヴルスジェ(Podvršje、略してPOD)遺跡(400~850年頃、2点)とヴェリム(Velim、略してVEM)遺跡(650~900年頃、67点)とヴィール(Vir、略してVIR)遺跡(400~1200年頃、1点)、コプリヴニチコ=クリジェヴァチュカ(Koprivnica-Križevci)郡のトレック(Torčec、略してTOR)遺跡(1100~1800年頃、6点)です。
ドイツ東部では、ザクセン・アンハルト(Saxony-Anhalt)州のブリュッケン(Brücken、略してBRC)遺跡(400~600年頃、57点)とデールスハイム(Deersheim、略してDRH)遺跡(400~600年頃、51点)とニーダーヴュンシュ(Niederwünsch、略してNDW)遺跡(1000~1200年頃、201点)とオーベルメッラーン(Obermöllern、略してOBM)遺跡のテューリンゲン期(400~600年頃、30点、OBM_MP)およびスラブ期(900~1100年頃、24点、OBM_SP)とラセヴィッツ(Rathewitz、略してRTW)遺跡(400~600年頃、16点)とシュテウデン(Steuden、略してSDN)遺跡(900~1200年頃、36点)です。
ポーランドでは、マウォポルスカ(Lesser Poland)県のオグロジェクのボクズネ岩陰(Boczne Rockshelter at Ogrojec、略してPC1)遺跡(200~400年頃、1点)とコジアルニア洞窟(Koziarnia Cave、略してPC1)遺跡(200~500年頃、2点)とザルスカ洞窟(Żarska Cave、略してPC1)遺跡(200~500年頃、2点)とズボジェッカ洞窟(Zbójecka Cave、略してPC2)遺跡(紀元前800~紀元前600年頃と200~500年頃、1点)、フルビェシュフ(Hrubieszów)町のグロデック(Gródek、略してGRK)遺跡のMPおよびSP(200~1700年頃、24点)です。
ラトビアでは、リヴォニア(Livonia)地域の(Laukskola、略してLAU)遺跡(900~1200年頃、2点)とヴァンペニエシ(Vampenieši、略してVAM & DOV)遺跡(900~1200年頃、2点)、クールラント(Courland)地域のメズィテ(Mežīte、略してMEZ)遺跡(900~1200年頃、1点)です。ウクライナ北西部では、コロリフカ(Korolivka/Korolówka、略してKRW)遺跡(1200~1300年頃、13点)、ピドヒルツィ(Pidhirtsi/Podhorce、略してPDH)遺跡(1000~1300年頃、12点)です。オーストリアでは、メートリンク黄金階段(Mödling-An der Goldenen Stiege、略してメートリンク、MGS)遺跡です。
●要約
ヨーロッパ中央部および東部では千年紀の後半に、根本的な文化的および政治的変容がありました。この変化の時期は一般的にスラブ人の出現と関連づけられており、これは文献証拠によって裏づけられていて、同様の考古学的層準の出現と一致します。しかしこれまでは、この考古学的層準が、移住なのか、スラブ化なのか、あるいは両者の組み合わせによって拡大したのかどうかについて、合意がありませんでした。遺伝的データは依然として少なく、これはとくに、スラブ人集落の初期段階における広範な火葬慣行に起因します。本論文は、早ければ7世紀以降のスラブ人の背景から得られた標本359点を含めて、古代人555個体のゲノム規模データを提示します。本論文のデータは6~8世紀におけるヨーロッパ東部からの大規模な人口移動によって、ドイツ東部とポーランドとクロアチアの在来遺伝子プールの80%以上が置換されたことを論証します。しかし、かなりの地域的な異質性や、性別の偏った混合の欠如も示され、在来人口集団の文化的同化のさまざまな程度が示唆されます。考古学的証拠と遺伝学的証拠の比較によって、ドイツ東部における祖先系統の変化は、遺跡間および遺跡内の遺伝的近縁性の強化や父方居住によって特徴づけられる、社会組織の変化と一致していた、と分かりました。ヨーロッパ全体では、6世紀と8世紀の間の物質文化と言語の変化はこれらの大規模な人口移動と結びついていた、と考えるのが妥当なようです。
●スラブ人が意味するところ
現代の民族および国民の用語において、「スラブ人」はスラヴ語派話者全員および/もしくはスラブ人国家の市民を意味しています。複数の国家にまたがる民族集団とのこの概念は、ヨーロッパの他地域のゲルマン語派もしくはロマンス諸語話者間よりもずっと顕著です。スラブ人の帰属意識がどの程度重視されるかは異なり、19世紀と20世紀のスラブ人民族主義や汎スラブ主義やロシア帝国主義では重要でしたが、地域的もしくは国民的忠誠を重視することの方が多くありました。スラブ人を文化的に劣っているとみなす傾向にあった西側の隣人の偏見は、スラブ人の共通性の感情を強化しました。本論文が取り組むスラブ人の起源に関する問題は、スラブ人の統一性と意義についての観念形態的議論において重要な役割を果たしました。したがって、この用語の学術的使用には、正確さが重要です。
初期スラブ人についての研究では、この容疑の意味は多岐にわたります。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)と西方における6世紀および7世紀以降の文献では、スラブ人もしくはウェンド人の集団がドナウ川およびエルベ川沿いおよびそこを越えた広範な土地に、次第に出現しました。ヨーロッパの大半がどのようにスラブ化したのか、理解するために、さまざまな資料を使用でき、それは、文献におけるスラブ人についての外部の認識、初期スラブ人(とくに、プラハ・コルチャク文化)において共有された文化的慣行の考古学的痕跡、特定のスラブ語派の言語以前の共通のスラブ語派の言語学的再構築、移動を示す、中世の遺伝子プールの祖先系統における変化です。これらの分野の結果を、スラブ人と呼ばれる一貫した人々の属性として、各代理として把握すべきではありませんが、これらの結果は、EMAにおけるヨーロッパのスラブ化について、異なる視点を提供します。
これらの結果を組み合わせることで、スラブ人の拡大に関する単純な学説を克服し、代わりに、スラブ人がヨーロッパの多くの地域で形成し始めた、共通の動的で異なる経路の理解が可能となります。したがって、本論文は同時代の文献においてこのように命名された人口集団についてスラブ人を使用し、当時の人々自身がそのように自己を認識していた、と意味しているわけではありません。これらのスラブ人集団は局所的に存在するかもしれませんが、制約することはほとんどできません。本論文は、スラブ人が拡大した地域における遺伝学的もしくは考古学的特徴を用いて、スラブ人と非スラブ人、もしくはスラブ語派話者と非スラブ語派話者を区別しませんが、これらの現象はかなりの程度重複していた、と想定しています。
●研究史
本論文は、ドイツ東部のエルベ・ザーレ地域の時間横断区を、他のヨーロッパ東部および中央部地域で同様に出現した、大規模な人口統計学的および文化的変容の広角的な視点と組み合わせます。この変容は伝統的に歴史文献に基づいて、ヨーロッパ東部および中央部からの「ゲルマン人」の移住と、同時代にスラブ人と記録されている新たな人口集団の到来に帰せられています。これらの新参者は西ローマ帝国の崩壊後に出現し、MP(4世紀後半~6世紀後半)とSP(6世紀もしくは7世紀以降)の間の移行を示します。
少なくとも紀元前1世紀以降、ライン川とヴィスワ川の間の土地には、ローマの観察者が「ゲルマン人」と包括的な用語を使っていた、多くの人々と部族が居住していました。これらのゲルマン人はライン川の西側とドナウ川の南側でローマ帝国と接触し、2世紀後半以後、ローマの属州をますます襲撃しました。MPには、そうした人々の多くは去り、ローマの領域に定住し、そうした人々には、ヴァンダル人やゴート人やフランク人やランゴバルド人がいました。テューリンゲン人は留まって王国を築き、そこにはエルベ・ザーレ地域が含まれていました。フランク人がこの王国を530年代に征服した後、人口は減少下ものの、一部の墓地は存続しました。7世紀には、スラブ人がザーレ川の東側で初めて言及されているものの、すぐに西方へ拡大し、スラブ語派話者集団とゲルマン語派話者集団との間の接触地帯が形成されました。
スラブ人という用語は、コンスタンティノープルにおいて6世紀頃に、西方ではその後で民族名として初めて現れます。文献では、スラブ人は当初ドナウ川下流の北側、後にはカルパチア盆地とバルカン半島とアルプス東部に居住していました。多くのスラブ人はドナウ川中流沿いで、アヴァール草原地帯帝国(567~800年頃)の支配下にありました。7世紀には、ヨーロッパ東部~中央部と南西部の大半で、スラブ人の存在の証拠があります。スラブ人の居住地域では、ローマ期とゲルマン期と他の先スラブ期の社会基盤は通常、かなり単純な生活様式に置換され、竪穴住居の小さな集落、火葬、手作りで装飾のない土器、質素で金属をさほど使わない物質分によって特徴づけられ、プラハ・コルチャク集団として知られています。より複雑な社会制度と地域支配は、ビザンツ帝国および西方キリスト教社会との接触地帯でその後に発展しました。
初期スラブ文化の類似性は、カルパチア盆地の北東側からのスラブ人の急速な拡大に起因する、と考えられることが多かったものの、その地理的起源のみならず、議論が続いています。ポーランドでは、非先住(外来)説はスラブ人のウクライナ・ベラルーシ起源を仮定するのに対して、先住(内在)説は、スラブ人の祖先が青銅器時代以降にポーランドの領域に居住していた、と主張します。一部の学者は移住によるスラブ人の拡大を疑い、既存の人口集団の「スラブ化」があった、と仮定します。以前の現代人および古代人のDNA研究は、バルカン半島北部[27]およびロシアのヴォルガ・オカ地域[28]への遺伝子流動を支持しましたが、ポーランドにおける人口連続性も主張しているので[29]、「スラブ人の」物質文化とのこれらの移動の規模および順序の関連は、依然として不明です。最終的には、この文化変容はヨーロッパ東部~中央部および南西部におけるゲルマン語派および他の言語の置換と、スラブ語派の導入につながり、スラブ語派は現在ヨーロッパにおいて最大級の語族を表しています。しかし、スラブ語派における最初の長い文献が9世紀後半に書かれたことを考えると、言語と物質文化のこの仮定された共同の拡大は追跡困難です。
ローマ期と初期中世ヨーロッパの以前に刊行されたデータ[27~29]とともに、エルベ・ザーレ地域の新たに分析された古代DNAデータおよびバルカン半島北西部とポーランドとラトビアとウクライナの補完的なデータ横断区は、大規模な人口移動と大きな人口統計学的変化を特定します。これは6世紀におけるスラブ人集団の拡大についての歴史的情報と関連づけることができ、ヨーロッパ東部の大半にわたるスラブ語派の拡大についての妥当な媒介を提供します。
●新たな古代DNAデータ
ヨーロッパ中央部および東部の26ヶ所の異なる遺跡の古代人591個体から骨格遺骸が選択され、以前に刊行されたデータと組み合わせて、3ヶ所の地域について密な標本抽出横断区が作成され、それは、(1)主要な研究地域としてのドイツ東部のエルベ・ザーレ地域、(2)バルカン半島北西部、(3)ポーランド~ウクライナ北西部です。これら3ヶ所の横断区を補完するために、新たなデータが生成され、バルト海とロシア北西部の刊行されているデータが収集され、東方の参照横断区が作成されました。混合DNA捕獲と品質選別後に、124万データ上で中央値の網羅率が538000ヶ所のSNPのある、555個体のゲノム規模データが分析に利用可能で、これには、SPの古代人359個体や、スラブ人の出現とつながる文化的変容に先行する205個体が含まれます(図1)。古代のゲノム規模データは、11500個体以上の現代ヨーロッパ人の拡張データセットとともに分析され、すべての主要なスラブ語派話者集団が網羅され、ドイツ東部の少数民族のソルブ人に属する600個体以上のデータが含まれます。以下は本論文の図1です。
●ヨーロッパ中央部における遺伝的変化
スラブ人集団の拡大の前後のゲノム規模の祖先系統多様性を視覚化するために、ヨーロッパの現代人10528個体でPCAが実行され、本論文で新たに報告される古代人および他の関連する古代人のゲノム規模データがその遺伝的差異に投影されました(図2)。SP標本を本論文の研究対象の3ヶ所の地域の以前および現在のデータと比較すると、横断区内の遺伝的組成が600~800年頃の間に著しく変わった、と観察されます。一般的に、ローマ期およびスラブ人集団の到来に先行するMPの標本はPCA空間で高度な遺伝的異質性を示し、ドイツとポーランドのほとんどの標本[29、34]が現在の大陸部のドイツ北部とオランダとスカンジナビア半島の人口集団とクラスタ化する(まとまる)のに対して、クロアチアのローマ期とMPの個体群[34]は現在のイタリアおよび地中海東部人口集団とまとまります(図2c)。以下は本論文の図2です。
ドイツ東部とバルカン半島北西部では、ローマ期およびMPクラスタ内の遺伝的多様性は主成分1沿いに南北を走っています。バルカン半島北西部については、この異質性はローマ帝国へとこの地域が組み込まれた後に到来した、地中海東部祖先系統の増加に起因する、とされてきました[27、35]。さらに意外なことに、ドイツ東部のエルベ・ザーレ地域で外来のヨーロッパ南部祖先系統を有する多数のMP個体が検出されましたが、この地域はローマ帝国の一部ではありませんでした。qpAdm[36、37]を用いて、この地域の4ヶ所のMP遺跡すべてで、ヨーロッパ南部祖先系統の割合が平均して約15~25%の間だった、と測定されます。
PCAに基づくMOBEST分析とF₄統計の両方では、この外来祖先系統はイタリアおよび/もしくはバルカン半島北部(もしくはこの祖先系統の人々が居住していたローマ帝国の他地域)の同時代の供給源人口集団に由来する可能性が最も高い、と示唆されます。先行研究[39、40]はすでに、ハンガリーおよびイタリア北部における南北の祖先系統の混合共同体を特定しており、これは、ヨーロッパ北部からの新参者と在来のローマ化した人口集団との間の融合と解釈されました。この以前の結果とは対照的に本論文では、異なる2祖先系統が物質文化の差異と相関していた証拠は見つかりませんでした。一般化線形モデルを適用すると、副葬品全体の存在も特定の種類の人工遺物(武器や胸飾りなど)もPCAの位置かADMIXTURE特性のどちらかと有意に相関していない、と論証されます。代わりに、埋葬構造において祖先系統と物質文化との間の唯一の有意な相関が見つかり、竪穴に埋葬された個体群は平均的により高い割合のヨーロッパ北部祖先系統を特徴としている、と示されます。
埋葬の空間構成も、祖先系統の類似性によって決定されていませんでした。代わりに、個体群は生物学的親族の近くに埋葬され、小さな親族集団はヨーロッパ北部かヨーロッパ南部か混合祖先系統の個体で構成されており、MPにおけるさまざまな祖先系統背景の個体間の高度な混合を反映している、と観察されます。したがって、ドイツ東部から得られた本論文のデータでは、ローマ帝国の国際的特徴は組み込んだ領域に影響を及ぼしたのみならず、国境沿いおよび蛮族の地(Barbaricum)を越えて、交流と移動性も促進し、ドイツ東部の事例では、ローマ帝国の存続期間とその後でさえ、ヨーロッパ中央部に前例のない遺伝的多様性をもたらした、と論証されます。エルベ・ザーレ地域への移動の原因と状況は依然として推測の余地がありますが、これらの新参者は明らかに在来人口集団の流行と伝統に適合し、多様な遺伝的背景の個体群の集団内でかなり均質な物質文化が生じました。
しかし、この多様性はその後のSPには崩壊しました。先行するMPとは対照的に、SPにおけるドイツ東部の遺伝的特性はかなり変化し、ほぼ現在のスラブ語派話者人口集団(たとえば、ポーランド人やベラルーシ人)とのみまとまっており、遺伝的祖先系統の根本的な置換が示唆されます(図2b・c)。同様のパターンはバルカン半島北西部とポーランドおよびウクライナ北西部やロシアのヴォルガ・オカ地域で見られ[28]、新たな遺伝物質の流入が特定の地域に減退されず、ヨーロッパ中央部および東部の広範な地域に影響を及ぼした、と示され、これは、SPに観察されたかなり単純でひじょうに類似した考古学的層準と一致します。PCAから観察されたこれらのパターンが東方から本論文の研究対象地域への遺伝子流動と一致するのかどうか、形式的に検証するために、F統計を用いて、SP個体群の、先行するMPおよびその後の現代の集団との遺伝的類似性が定量化されました(図3a~c)。スラブ人に先行する集団とスラブ人関連集団との間の分岐は、遺伝的距離(FST)の分布と共有アレル(F₄)の両方で検証されました。人口集団および個体規模の両方で、研究対象の3ヶ所の地域すべてのSP個体群は一様に、ヨーロッパ東部およびバルカン半島の古代および現在の集団とよりも、先行する在来人口集団との低い遺伝的類似性を示します。以下は本論文の図3です。
●ヨーロッパ全域におけるSP祖先系統の拡大
本論文の結果から、SP個体群は以前には研究対象の3ヶ所の地域には存在しなかったバルト海地域もしくはヨーロッパ北東部関連祖先系を示す、と明らかになります。この流入を定量的に推定するために、ソフトウェアADMIXTUREに実装された教師有クラスタ化(まとめること)手法を用いて、祖先供給源が分解されました。具体的には、現代の人口集団が、ヨーロッパ中央部における供給源祖先系統の代理として機能する、12のメタ個体群(アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)にまとめられました。
祖先系統分解を古代のゲノム規模データに適用すると、(地域的な軌跡の差異にも関わらず)ヨーロッパ北東部祖先系統(現在のベラルーシとリトアニアとラトビアの個体群によって表されるBAL)が、本論文の研究対象横断区では先史時代のほとんどにおいて完全に存在しなかったかわずかな祖先系統構成要素で、合計のMP祖先系統の割合は、バルカン半島北西部では6±2%、ドイツ東部では5±1%、ポーランドおよびウクライナ北西部では7±2%を占めていた、と分かりました。しかし、PCAおよびF₄統計(図3a~c)と一致して、BAL祖先系統は600年頃以後に増加し、研究対象の3ヶ所の地域すべてで最大の祖先系統構成要素となり、SPには、バルカン半島北西部では47±2%、ドイツ東部では65±1%、ポーランドおよびウクライナ北西部では63±2%に達しました。
本論文の研究対象の3ヶ所の地域以外では、オーストリアのメートリンク遺跡のアヴァール関連人口集団[42]においてBAL祖先系統の大きな到来(MPの0%から約27%に増加)がさらに特定され、文献で報告されているような7世紀パンノニア盆地における初期の到来が確証され、その後で在来集団とのかなりの混合が続きました。ロシア北西部のみで異なる軌跡が検出され、ヴォルガ・オカ地域では、スラブ人の伝統はBAL祖先系統の顕著な減少(65±2%~55±7%)と一致し、SPの新参者は、ヨーロッパ東部に在来ではない追加の祖先系統を組み込んだ、ヴォルガ・オカ地域のさらに西側の地域に起源があった、と示唆されます。
侵入してきたヨーロッパ北東部祖先系統の供給源は、4ヶ所の地域【バルカン半島北西部とドイツ東部とポーランドおよびウクライナ北西部とヴォルガ・オカ地域】で同じようです。この共通系統を解明するために、ancIBDが適用され、MPとSPの人口集団間で共有されているIBDになっている断片が特定されました。クロアチアとドイツ東部とポーランドおよびウクライナのSP集団は、研究対象の3ヶ所の地域【バルカン半島北西部とドイツ東部とポーランドおよびウクライナ北西部】間の広大な地理的距離にも関わらず、相互とかなり多量のIBDを共有しているものの、先行する人口集団とはほぼ完全にIBD断片を共有していない、と浮き彫りになります(図3e)。このIBD共有兆候は、16cM以上の断片の高い割合を含めて明確に、スラブ人関連の背景の古代の個体群が、ヨーロッパ中央部全域において最大数世代で西方および南方へと移動した、共通の供給源人口集団の子孫だったことを示唆しています。大規模な人口移動のそうした証拠は、ヨーロッパ東部全域の個体群の現在の組み合わせ間で以前に検出された高水準のIBD共有のパターン系統も説明し、この兆候がおもに一貫して低い人口密度によって引き起こされた、との見解を却下します。
時空間的な遺伝的祖先系統のより微細規模の特徴づけを得るために、これら次いでのIBD共有の類似性から構築された約2500個体のつながりに、階層クラスタ検出手法が適用されました。本論文の新たな個体群と刊行されているSP個体群やヨーロッパ中央部および南東部の複数の他の個体の大半を含む、同時代の大きなIBD共有群が特定されます。このより大きなクラスタ内で、異なる2下位群が特定され、一方はおもにカルパチア山脈の北側のSP個体群を含んでいるのに対して、もう一方はさらに南側に埋葬された個体群で構成されています。この分離は、地理的に異なる2回の拡大の波、もしくは在来人口集団の組み込みの異なるパターンを反映しているかもしれません。しかし、ヨーロッパ東部からパンノニア盆地およびバルカン半島への少なくとも散発的な遺伝子流動が鉄器時代およびローマ期にはすでに起きていたに違いなく、それは、6世紀および7世紀の大規模な人口移動に先行する紀元前500~紀元後300年頃の期間に、オーストリアとハンガリーとセルビアとモンテネグロに埋葬されたSPクラスタ内でかなりの数の個体群が特定されるからです。
ポーランドの最古級のスラブ人土葬の一部を表している、ウクライナとの国境に近いポーランドのフルビェシュフ町のグロデック遺跡から新たに生成された初期中世のデータを、侵入してきたBALが豊富な祖先系統の代理として用いて、qpAdmを使って、バルカン半島北西部(約83±6%)とドイツ東部(約93±3%)とポーランドおよびウクライナ北西部(約65±4%)で、SPにおいてヨーロッパ東部からの移民によって在来の遺伝子プールが置換された、と計算されます(図4c)。これらの結果は、先行研究[29]がSP遺伝子プールの在来起原を主張した、現在のポーランド西部および中央部における、鉄器時代もしくはMP~中世にかけてのかなりの程度の人口連続のモデルと矛盾します。しかし、より広範な地域での遺伝的置換の全体的な程度の評価には、より多くの標本が必要です。以下は本論文の図4です。
qpAdmを、古代の供給源人口集団を用いての現代人集団のモデル化に適用すると、ヨーロッパ東部祖先系統は現在のスラブ語派話者人口集団すべてで優勢な遺伝的構成要素で、ヨーロッパ中央部および南方の境界地域の非スラブ語派話者集団でも見られる、と示されます。現在のウクライナとベラルーシとポーランドで最高の割合のヨーロッパ東部祖先系統が測定され、そうした地域では、東方から南方にかけてヨーロッパ東部祖先系統が次第に減少します。注目すべきことに、西方のドイツ東部では顕著な二重性が観察され、ザクセン・アンハルト州の現在のドイツ語話者人口集団は約40%のSP祖先系統を、上ラウジッツ(ザクセン・アンハルト州)のスラブ語派話者のソルブ人は約88%のSP祖先系統(現代のポーランド人と同等です)を示します。これは、ソルブ人の遺伝的孤立に関する先行研究と一致し、ソルブ人が、12世紀以降にエルベ・ザーレ地域の東側に拡大したドイツ語話者の入植の繁殖網に最小限(もしくは少なくとも低い割合で)統合され、これらスラブ人集団の子孫であることと一致します。逆に本論文では、ゲルマン人の東方への拡大とそれ以前のフランク人の征服はおそらく、ドイツ語話者人口集団で観察されるSP祖先系統の減少と関連している、と示唆されます。
●SP祖先系統の形成と起源
F₄およびFST統計の両方で、SP個体群とバルト海およびポーランドおよびベラルーシの現在の人口集団との間の最高の遺伝的類似性が特定されます。BALおよびSP祖先系統(ここでは、グロデック遺跡の中世標本で近似されます)が現在最大化されており、Y染色体のR1a ハプロタイプ、具体的にはYHg-R1a1a1b1a1a(M458)およびYHg-R1a1a1b1a2b~(M558)が男性人口で見られる地域もあります。古代と現代の個体群間でのハプロタイプ共有のパターンにおいて、この類似性は特徴的なIBD兆候に反映されており、研究対象の3ヶ所の地域【バルカン半島北西部とドイツ東部とポーランドおよびウクライナ北西部】すべてのSP個体群は、他のユーラシア集団とよりもヨーロッパ東部集団の方と多くて長いIBD断片を共有しており、現在のバルト・スラヴ語派話者とヨーロッパ中央部および南東部のSP個体群との間の直接的な遺伝的近縁性を確証します。ヨーロッパ北部および北東部集団との過剰な類似性のこのパターンは、現代人のデータとの比較のみならず、考古学的記録でも明らかで、SP個体群を他の古代人標本と比較すると、SP個体群はその地理的起源とは関係なく、リトアニアとラトビアとエストニアの鉄器時代集団と最高の浮動および最大のIBD合計を共有しており[52、53]、(F統計によって示されるように)新石器時代後のヨーロッパの他の人口集団とよりもこれらの個体群の方と密接に関連している、と示されます。
しかし、青銅器時代のバルト海地域標本とは対照的に、すべての研究対象地域のSP個体群は、WHG祖先系統の割合がかなり低く、より多くのEEF祖先系統を示すことは注目されます。これは、ヨーロッパ中央部のSP集団が、おそらくはWHGと、半新石器時代森林地帯の草原地帯先系統の豊富なバルト海地域の青銅器時代関連供給源と、南方の少なとも一つのEEFの豊富な供給源との間で、すでに混合していたことを示唆しています。qpAdmを用いて、そうしたEEFの豊富な提供者として機能する代理を構成するヨーロッパ南東部および東部~中央部のさまざまな集団が特定されますが、最も可能性の高い代表を正確に特定することはできません。すべての適合する2方向モデル(およびほとんどの適合しないモデル)では、混合割合は高度に類似しており、ドイツ東部とポーランドおよびウクライナ北西部のSP標本は、約71%のバルト海地域祖先系統(95%信頼区間では66.5~76%)と約29%(95%信頼区間では24~33.5%)のEEFの豊富な祖先系統を受け取りました。しかし、SP遺伝子プールの形成につながった人口統計学的軌跡は単純な2方向混合事象より複雑だったかもしれない、と本論文は強調します。PCAおよびADMIXTUREの結果に基づく非負制約付き最小二乗法を適用して、バルト海地域青銅器時代に由来する祖先系統の同様の推定値が計算されましたが、ゲノム規模の系図から得られた以前の結果[55]を反映して、全モデルは追加のヨーロッパ西部供給源を組み込むことで成立します。したがって、どの(複数の)媒介人口集団が最終的にEEFの豊富な祖先系統を北東部に伝えたのかは、現時点では完全に解明できません。
2方向混合過程を想定して、DATESを使用し、SP遺伝子プールを形成したこの混合事象(ニーダーヴュンシュ遺跡では紀元前972±250年、ポーランド_EMAでは紀元前906±362年)について、紀元前1000年頃の平均年代が得られました。注目すべきことに、これらのDATESの推定値は、バルト語派とスラブ語派との間の分岐推定値の分布のより新しい期間と重なります(図4b)。同語源の符号化された基礎語彙データの系統発生分析と、インド・ヨーロッパ語族の言語学者のほとんどの両方が、バルト・スラヴ語派の分岐を紀元前二千年紀と推定しています。しかし、ベイズ言語学推定値は平均して混合推定値より数世紀古くなるので、本論文は、混合バルト海地域関連集団が、さらに北方の人口集団の言語もしくは方言連続体からすでに分岐し始めていた言語を話しており、前者は最終的にスラブ語派に、後者は(現在の)バルト語派になった、との可能性を強調します。
SP遺伝子プールのこの最初の形成の最も妥当な地理的位置を特定するために、MOBESTが適用され、本論文の研究対象地域のSP個体群と、依然に刊行されたユーラシア西部の古代人約5660点の標本との遺伝的類似性の時空間的補間法が実行され、特定の時点の地理的起源についての代理として解釈できる、ヨーロッパ全域の類似性の確立が得られました。予測時期は現在から1950年前に設定され、この時点での1個体の最も可能性の高い起源(したがって、ヨーロッパ中央部における人口統計学的変化の前)が提供されます。確率面を平均化すると、ベラルーシの南側とウクライナの北側にまたがる地域が、本論文の研究対象の3ヶ所の横断区におけるSP個体群の起源の最適な空間的代理として推測されます(図4a)。そうした範囲は、多くの言語学者がスラブ語派の最初の発展と提案し、考古学者がスラブ人関連の物質文化に位置づけた地域とよく一致しますが、この地域の遺伝的景観の決定的な評価には、より多くの古代DNAが必要です。
そこから、ヨーロッパ北東部祖先系統は東方と西方と南方へと拡大し、在来遺伝子プールと混合したか、置換さえした可能性が高そうです。この拡大の開始もしくは期間を正確には測定できませんが、SP個体群における在来祖先系統と移民の祖先系統との間の混合のDATES推定値は、研究対象の横断区全体で一般的に新しく類似しており、混合過程が6世紀および7世紀初期に始まったことや、これらの地域におけるスラブ人集団の歴史的に記録された到来年代と一致する、と強調されます。北東部から、スラブ語が話されるようになった地域へのかなりの遺伝子移入の検出[27]から、スラブ語派とヨーロッパ東部由来の祖先系統の拡散は関連していた、と示唆されるものの、その重複の程度は確証できません。これは、以前にはスラブ語派の拡大と関連づけられていた、現在のスラブ語派話者集団全体の高度な遺伝的近縁性について妥当な説明を提供します。
しかし本論文は、そうした単純化したモデルが、歴史的および考古学的証拠から浮き彫りになっており、バルカン半島とヨーロッパ中央部における遺伝的差異に対応しない言語の境界において依然として明らかである、より複雑な地域的動態を把握していない、と強調します。これらの拡大および混合過程における性別の偏りの可能性を調べるために、X染色体および常染色体上のSP関連祖先系統の推定値が比較され、男性に偏った混合を示唆する際の割合が確認されました(図4c)。注目すべきことに、ドイツやクロアチアやポーランドやロシアのどのSP人口集団でも性別の偏りの証拠は見つかりません(図4c)。しかし、ドイツ東部のMP人口集団へのヨーロッパ南部関連祖先系統の以前には検出されなかった遺伝子流動が、ほとんどの研究対象地域では有意に女性に偏っていた、と観察されます(図4c)。
●ドイツ東部における社会的変化
本論文で研究対象とされたスラブ人集団は、先行するMP人口集団と比較して根本的に異なる社会構成も示しました。最も注目すべきことに、多数の個体で構成される父系的に組織された系図によって反映される、エルベ・ザーレ地域においてより強固な遺跡間および遺跡内の遺伝的近縁性が浮き彫りになります。ドイツ東部における先行するMPの墓地は、生物学的近縁性の小単位によって特徴づけられ、ほぼ4人未満の1親等および2親等の親族で構成されています。遺跡水準では、各個体に平均して1.16±0.18人の親族(ここでは3親等までの関係と定義されます)がいる、と特定されました(具体的には、ブリュッケン遺跡では0.64±0.14人)。このパターンは遺跡内のIBD共有にも反映されており(3親等以上の遠い遺伝的近縁性も把握されます)、12cM以上IBDを共有する個体の組み合わせの割合は、ブリュッケン遺跡では1±0.4%、デールスハイム遺跡では6.8±1.8%、オーベルメッラーン遺跡では5.2±1.8%です。
対照的に、SPにおいては、遺跡における密接な親族の人数はほぼ6倍の6.41±0.4人に増加、と示されます。同じ夫婦から7人の子供が生まれた1事例さえ観察されます。注目すべきことに、この7人キョウダイのうち4人は繁殖年齢にたっしており、そのうち3人には子供がいました。そのほとんどは男性なので、成長した数人の娘は結婚のため他の場所に行ったかもしれない、と推測できます。さらに、子供の大半が男性であることは、標本抽出されていな姉妹がさらに存在したことを示しています(統計的に、同数の女性が生まれたことを説明するために)。注目すべきことに、すてべの夫婦(少なくとも一方の親が遺跡で特定された場合)について、52人の息子(子供のうち62%、95%信頼区間では51~72%)が見つかりましたが、娘は32人(子供の38%、95%信頼区間では28~49%)しか見つかりませんでした。
より遠い遺伝的関係も増加しました。ニーダーヴュンシュ遺跡およびシュテウデン遺跡(約8km離れています)では、個体の組み合わせのそれぞれ18.3±0.6%、と15.3±2.1%が、近い過去の共通の祖先を示唆する、IBD断片を共有しています。MP遺跡における居住期間区はニーダーヴュンシュ遺跡ではより短かった(大規模な系図構造の出現が妨げられます)ものの、シュテウデン遺跡がかなり短期間だったことから、MPとSPの墓地間の共同体内の近縁性の差異は、遺跡居住期間の違いによってのみ起きたわけではない、と論証されます。
これらの広範な親族関係網は遺跡内の全個体間の高度な近縁性を証明しましたが、近親婚(ここでは、イトコ同士もしくはそれ以上の近縁関係の夫婦と定義されます)は1例も見つかりませんでした。これは、家系の深い知識と近親婚の意図的な回避を示しています。複数の配偶者と子供を儲けた個体も少なくとも11事例特定され、一夫多妻制もしくは連続単婚を示しています。同じ父親を共有する半キョウダイ(両親の一方のみを共有するキョウダイ関係、95%信頼区間では0.43~0.91)と同じ母親を共有する半キョウダイ(95%信頼区間では0.09~0.57)の比率が2.7:1にも関わらず、カルパチア盆地のアヴァール後期の共同体で行なわれていた[67]、逆縁婚(レヴィレート婚)は1例も見つかりません。
遺跡内の遺伝的相関性の増加と並行して、墓地の構成の変化も観察され、これは拡張家系が空間配置に反映されています。密接な親族はMPおよびSPの両方において親族関係にない個体群とよりも有意に近くに埋葬されましたが、SPのみで墓地は遺伝的距離と空間的距離との間で有意な相関を特徴としており、墓地はこれらより密接な親族群の周辺で計画されて構築された、と示唆されます。この兆候はシュテウデン遺跡において最も顕著で、墓の間の空間距離の全偏差の少なくとも27%は、遺伝的近縁性によって説明されます。
SP遺跡全体の成人の性別の比率は均衡していますが、女性は平均的に男性より有意に親族が少なく、男性と比較して全体的に不適正塩基対率が増加しており、遺跡内で共有されるIBD断片の合計はより少ないのが特徴です。しかし、女性は男性よりも異なる遺跡間で多くのIBD断片を共有しているので、男性におけるより高い遺跡内の近縁性とは対照的に、遺跡間のより高い近縁性が論証されます。
これは、外来起源が男性より女性の方で一般的だったことを論証し、父方居住の継承組織を示唆しており、ほぼ父系のみで構成された系図、たとえば、父系は88%(95%信頼区間では68~97%)、に対して、母系は12%(95%信頼区間では4~32%)であることや、遺跡における女性の子孫の有意な少なさとよく一致します。ドイツ東部の全SP遺跡では、娘の1世代を超えてmtHgが伝わったのは1事例しか見つかっていません。これは先行するMPとは対照的で、MPでは、男女間の親族数の違いや、一般的に不適正塩基対率の違いが検出されず、スラブ人集団到来前には父系社会制度がさほど厳密ではなかったことを示唆しているかもしれません。しかし、特定された親族数が全体的により少ないため、これらの検定は統計的にはさほど決定的ではなく、MPの女性族外婚と父系刊行の兆候を過小評価しているかもしれません。
父方居住組織の親族集団へのパターンは地域間ではおおむね同様で、父方遺伝子プールの以前に報告された置換および均質化に寄与したかもしれません。とくに、クロアチアのSPのヴェリム遺跡では空間的距離と遺伝的距離の相関の同一のパターンや、父方居住と女性族外婚の証拠(たとえば、男性間で女性間より多くの親族がおり、男性と比較して女性間で不適正塩基対率がより高くなっています)が見つかり、エルベ・ザーレ地域で観察された社会的階層化を反映しています。対照的に、ヴェリム遺跡では親族の平均人数がニーダーヴュンシュ遺跡もしくはシュテウデン遺跡(1.01±0.17人)より有意に少なくなっています。父方居住の共有パターン内で、SPの微細規模の構成は、この拡大の複雑で地域的に偶発的な性質のため、ヨーロッパ中央部全域でかなり異なっていました。局所的な人口集団の部分的統合は、単純な置換ではなく、おそらくは特定の集団もしくは家族の運命に依存していました。しかし、ドイツ東部とクロアチアとポーランドおよびウクライナ北西部の遺跡のかなりの数の個体は、相互と同等の多量のIBDを共有しており、これらスラブ人関連集団は共有されている生物学的起源および近い過去の地理的拡大の結果として密接に関連していた、と確証されます。
●考察
本論文は、多数の完全な墓地の詳細な遺伝的横断区研究に基づいて、広範な年代および地形的範囲におけるいくつかの結果を提示します。ヨーロッパ中央部全域では、ローマ期の鉄器時代とその後のMPには、遺伝的多様性がローマ帝国内のみならず、ローマ帝国外でも増加した、と示されます。ヨーロッパ南東部が地中海東部からの流入を経たのに対して、ヨーロッパ東部~中央部の大半には、ヨーロッパ北部および北東部の現代の住民とおもに関連する人々が居住していました。ドイツ東部における地中海祖先系統の5世紀と6世紀の混合も示され、これはおもに女性を介してのことでしたが、女性のみを介したわけではありませんでした。そうした人々とその子孫は地域社会に充分に統合され、その埋葬は下級の地位もしくは文化的差異の痕跡を示さず、これは、侵入してきたヨーロッパ北部祖先系統に対する在来のヨーロッパ南部および西部祖先系統に関して、ハンガリーとイタリア[39]やイングランド[68]の初期中世墓地とはひじょうに異なる調査結果です。しかし、テューリンゲン王国の崩壊後に、この多様な人口集団は次第に消滅し、SPが始まりました。
最も重要なのは、本論文の結果が、スラブ人の拡大は大規模な移住と均質な人口集団の拡大、あるいは地域的な人口集団の漸進的な文化変容に起因したのかどうか、という議論と関連していることです。本論文は、ヨーロッパ東部の大半における文化の根本的変容を、バルト海地域東部およびポントス地域北西部の間の地域から到来した可能性が最も高い、人々の大規模な移動と結びつけることができました。この遺伝学的に推測される地域は、たとえば、キエフ文化(2世紀もしくは3世紀~5世紀)において、ヴィスワ川の東側のスラブ物質文化の起源に関する考古学的仮説とよく一致します。しかし、この地域と期間の古代DNAはなく、より正確な特定は依然としてできません。
SP祖先系統は6世紀以降、さまざまな方向に拡大しました。しかし、それを検出できるのは、移民が8世紀と10世紀の間のさまざまな段階で死者の火葬を止めた時のみです。初期の少ない土葬(たとえば、ヴェリム遺跡とグロデック遺跡)のみが、より新しい遺跡と一致する知見を提供します。したがって、SP祖先系統のほとんどが単一の波でもしくは長期間にわたって到来したのかどうかは、依然として不明です。以前の論文[27]で報告されているように、本論文の結果から、ヨーロッパ東部からバルカン半島への散発的な個体の浸透は、大規模な移動に先行した(およびその後も続いたかもしれません)、と示唆され、6世紀および7世紀の人口統計学的変容に伴う長期の移動を示しています。以前の人口集団がどの程度消滅し、新参者とともに居住し続けたか、新参者と混合したのかは、地域によります。本論文の研究対象地域では、この変化はポーランドやドイツ東部のように、起源に近い地域で最も顕著です。対照的に、バルカン半島北西部とカルパチア盆地とヴォルガ・オカ地域では、在来人口集団とのより多くの混合が見つかりました。注目すべきことに、最初のスラブ人集団がより広範な地域に定住してからほぼ4世紀後となる、10世紀後半~12世紀にドイツ東部で埋葬されたスラブ人集団は、近隣のテューリンゲン人口集団とほとんど遺伝的交流していなかったものの、考古学的発見はこれらの集団間の定期的な相互作用を論証しています。この不一致はある程度、より異質な遺伝的景観内での研究対象の遺跡の選択によって引き起こされているかもしれません。しかし、本論文の結果は、先行するゲルマン物質文化と前期SP物質文化との間の劇的な変化と一致し、これは恐らく、9世紀半ば以後の北西スラブ地域の大半における集落の少ない中間段階の後のことで、既存の人口集団のスラブ化のモデルとは一致しません。
この変化は人々の大規模な言うによって引き起こされ、スラブ語派の拡散および新たな物質文化の拡大と関連しているかもしれません。しかし、本論文のデータは、ヨーロッパ東部全域における完全な人口置換を裏づけないものの、部分的な統合を伴う、複雑で地域的に偶発的な人口拡散を示しています。バルカン半島とロシア西部におけるSP祖先系統は、全地域で多数派を形成したわけではありません。したがって、拡散地域の周縁部で観察された古代と現在の遺伝的パターンを説明するには、大規模な移動以外に、SP遺伝子プールの拡大による在来人口集団の遺伝的および文化的同化を含めて、いくつかの他の機序が必要です。新参者は、在来人口集団と混合した地域では、顕著な性別(ジェンダー)の偏りなしに混合しました。
MPとは異なり、エルベ・ザーレ地域のSP共同体はその構成において生物学的近縁性により依存しており、その系図は繁殖慣行と社会構造なついての貴重な情報を提供します。パンノニアのアヴァール期共同体[67、76]と同様に、ドイツ東部で研究された多世代のSP共同体は、父系および地域的血統と女性族外婚と厳格な近親婚の回避といくつかの事例での複数の繁殖相手に基づく、一貫した繁殖戦略を行なっていました。ドイツ東部で観察されたこれらのパターンのすべてが、バルカン半島北部のSP社会で共有されていたわけではなく、バルカン半島北部のSP社会では、その構成の多くの側面で、クロアチアやドイツ東部やハンガリーやイタリアの先行するMP集団とより類似しているようです。これらの事例の一部では、依然に確立された社会的慣行が、大きな人口統計学的および言語学的変化を生き延び、社会構成およびヨーロッパ全域のスラブ人関連社会の内部および社会間の相互作用に関する一連の新たな問題に、新たな別の水準の遺伝的複雑さを追加しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。
考古ゲノミクス:古代DNAで結び付けられた大規模移動とスラブ人の拡大
考古ゲノミクス:古代DNAでたどるスラブ人の拡大
今回、古代DNAに基づいた研究によって、スラブ語話者集団の歴史が、中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパにおける中世を通じたそれらの人々の大規模な移動と関連付けられた。
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以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、YHg(Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ)、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、IBD(identity-by-descent、同祖対立遺伝子)、cM(centimorgan、センチモルガン)、FST(fixation index、2集団の遺伝的分化の程度を示す固定指数)、WHG(Western hunter-gatherer、ヨーロッパ西部狩猟採集民)、EEF(early European farmer、初期ヨーロッパ農耕民)、DATES(Distribution of Ancestry Tracts of Evolutionary Signals、進化兆候の祖先系統区域の分布)、BAL(Belarus, Lithuania and Latvia、ベラルーシとリトアニアとラトビア)です。
以下の時代区分の略称は、BA(Bronze Age、青銅器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)、EIA(Early Iron Age、前期鉄器時代)、MP(Migration Period、大移動期、4世紀後半~6世紀後半)、SP(Slavic Period、スラブ期、6世紀もしくは7世紀以降)、MA(Middle Ages、中世)、EMA(Early Middle Ages、前期中世)です。本論文で取り上げられる主要な文化は、プラハ・コルチャク(Prague-Korchak)文化、キエフ(Kyivan)文化です。
本論文で取り上げられる主要な遺跡と標本数は以下の通りです。クロアチアでは、ダルマチア(Dalmatia)地域のビオグラード(Biograd、略してBIO)遺跡(1200~1700年頃、1点)とドゥブロヴニク教会(Dubrovnik cathedral、略してDUC)遺跡(500~1100年頃、1点)、シベニク=クニン(Šibenik-Knin)地域のブリベル(Bribir、略してBRI)遺跡(1200~1700年頃、1点)、、カルロヴァツ(Karlovac)地域のブビ洞窟(Bubi's cave、略してBBC)遺跡(250~350年頃、35点)、スプリト=ダルマチア(Split-Dalmatia)郡のドゥゴポリェ(Dugopolje – Vučipolje、略してDUG)遺跡(1200~1600年頃、1点)、ザダル(Zadar)市のポドゥヴルスジェ(Podvršje、略してPOD)遺跡(400~850年頃、2点)とヴェリム(Velim、略してVEM)遺跡(650~900年頃、67点)とヴィール(Vir、略してVIR)遺跡(400~1200年頃、1点)、コプリヴニチコ=クリジェヴァチュカ(Koprivnica-Križevci)郡のトレック(Torčec、略してTOR)遺跡(1100~1800年頃、6点)です。
ドイツ東部では、ザクセン・アンハルト(Saxony-Anhalt)州のブリュッケン(Brücken、略してBRC)遺跡(400~600年頃、57点)とデールスハイム(Deersheim、略してDRH)遺跡(400~600年頃、51点)とニーダーヴュンシュ(Niederwünsch、略してNDW)遺跡(1000~1200年頃、201点)とオーベルメッラーン(Obermöllern、略してOBM)遺跡のテューリンゲン期(400~600年頃、30点、OBM_MP)およびスラブ期(900~1100年頃、24点、OBM_SP)とラセヴィッツ(Rathewitz、略してRTW)遺跡(400~600年頃、16点)とシュテウデン(Steuden、略してSDN)遺跡(900~1200年頃、36点)です。
ポーランドでは、マウォポルスカ(Lesser Poland)県のオグロジェクのボクズネ岩陰(Boczne Rockshelter at Ogrojec、略してPC1)遺跡(200~400年頃、1点)とコジアルニア洞窟(Koziarnia Cave、略してPC1)遺跡(200~500年頃、2点)とザルスカ洞窟(Żarska Cave、略してPC1)遺跡(200~500年頃、2点)とズボジェッカ洞窟(Zbójecka Cave、略してPC2)遺跡(紀元前800~紀元前600年頃と200~500年頃、1点)、フルビェシュフ(Hrubieszów)町のグロデック(Gródek、略してGRK)遺跡のMPおよびSP(200~1700年頃、24点)です。
ラトビアでは、リヴォニア(Livonia)地域の(Laukskola、略してLAU)遺跡(900~1200年頃、2点)とヴァンペニエシ(Vampenieši、略してVAM & DOV)遺跡(900~1200年頃、2点)、クールラント(Courland)地域のメズィテ(Mežīte、略してMEZ)遺跡(900~1200年頃、1点)です。ウクライナ北西部では、コロリフカ(Korolivka/Korolówka、略してKRW)遺跡(1200~1300年頃、13点)、ピドヒルツィ(Pidhirtsi/Podhorce、略してPDH)遺跡(1000~1300年頃、12点)です。オーストリアでは、メートリンク黄金階段(Mödling-An der Goldenen Stiege、略してメートリンク、MGS)遺跡です。
●要約
ヨーロッパ中央部および東部では千年紀の後半に、根本的な文化的および政治的変容がありました。この変化の時期は一般的にスラブ人の出現と関連づけられており、これは文献証拠によって裏づけられていて、同様の考古学的層準の出現と一致します。しかしこれまでは、この考古学的層準が、移住なのか、スラブ化なのか、あるいは両者の組み合わせによって拡大したのかどうかについて、合意がありませんでした。遺伝的データは依然として少なく、これはとくに、スラブ人集落の初期段階における広範な火葬慣行に起因します。本論文は、早ければ7世紀以降のスラブ人の背景から得られた標本359点を含めて、古代人555個体のゲノム規模データを提示します。本論文のデータは6~8世紀におけるヨーロッパ東部からの大規模な人口移動によって、ドイツ東部とポーランドとクロアチアの在来遺伝子プールの80%以上が置換されたことを論証します。しかし、かなりの地域的な異質性や、性別の偏った混合の欠如も示され、在来人口集団の文化的同化のさまざまな程度が示唆されます。考古学的証拠と遺伝学的証拠の比較によって、ドイツ東部における祖先系統の変化は、遺跡間および遺跡内の遺伝的近縁性の強化や父方居住によって特徴づけられる、社会組織の変化と一致していた、と分かりました。ヨーロッパ全体では、6世紀と8世紀の間の物質文化と言語の変化はこれらの大規模な人口移動と結びついていた、と考えるのが妥当なようです。
●スラブ人が意味するところ
現代の民族および国民の用語において、「スラブ人」はスラヴ語派話者全員および/もしくはスラブ人国家の市民を意味しています。複数の国家にまたがる民族集団とのこの概念は、ヨーロッパの他地域のゲルマン語派もしくはロマンス諸語話者間よりもずっと顕著です。スラブ人の帰属意識がどの程度重視されるかは異なり、19世紀と20世紀のスラブ人民族主義や汎スラブ主義やロシア帝国主義では重要でしたが、地域的もしくは国民的忠誠を重視することの方が多くありました。スラブ人を文化的に劣っているとみなす傾向にあった西側の隣人の偏見は、スラブ人の共通性の感情を強化しました。本論文が取り組むスラブ人の起源に関する問題は、スラブ人の統一性と意義についての観念形態的議論において重要な役割を果たしました。したがって、この用語の学術的使用には、正確さが重要です。
初期スラブ人についての研究では、この容疑の意味は多岐にわたります。ビザンツ帝国(東ローマ帝国)と西方における6世紀および7世紀以降の文献では、スラブ人もしくはウェンド人の集団がドナウ川およびエルベ川沿いおよびそこを越えた広範な土地に、次第に出現しました。ヨーロッパの大半がどのようにスラブ化したのか、理解するために、さまざまな資料を使用でき、それは、文献におけるスラブ人についての外部の認識、初期スラブ人(とくに、プラハ・コルチャク文化)において共有された文化的慣行の考古学的痕跡、特定のスラブ語派の言語以前の共通のスラブ語派の言語学的再構築、移動を示す、中世の遺伝子プールの祖先系統における変化です。これらの分野の結果を、スラブ人と呼ばれる一貫した人々の属性として、各代理として把握すべきではありませんが、これらの結果は、EMAにおけるヨーロッパのスラブ化について、異なる視点を提供します。
これらの結果を組み合わせることで、スラブ人の拡大に関する単純な学説を克服し、代わりに、スラブ人がヨーロッパの多くの地域で形成し始めた、共通の動的で異なる経路の理解が可能となります。したがって、本論文は同時代の文献においてこのように命名された人口集団についてスラブ人を使用し、当時の人々自身がそのように自己を認識していた、と意味しているわけではありません。これらのスラブ人集団は局所的に存在するかもしれませんが、制約することはほとんどできません。本論文は、スラブ人が拡大した地域における遺伝学的もしくは考古学的特徴を用いて、スラブ人と非スラブ人、もしくはスラブ語派話者と非スラブ語派話者を区別しませんが、これらの現象はかなりの程度重複していた、と想定しています。
●研究史
本論文は、ドイツ東部のエルベ・ザーレ地域の時間横断区を、他のヨーロッパ東部および中央部地域で同様に出現した、大規模な人口統計学的および文化的変容の広角的な視点と組み合わせます。この変容は伝統的に歴史文献に基づいて、ヨーロッパ東部および中央部からの「ゲルマン人」の移住と、同時代にスラブ人と記録されている新たな人口集団の到来に帰せられています。これらの新参者は西ローマ帝国の崩壊後に出現し、MP(4世紀後半~6世紀後半)とSP(6世紀もしくは7世紀以降)の間の移行を示します。
少なくとも紀元前1世紀以降、ライン川とヴィスワ川の間の土地には、ローマの観察者が「ゲルマン人」と包括的な用語を使っていた、多くの人々と部族が居住していました。これらのゲルマン人はライン川の西側とドナウ川の南側でローマ帝国と接触し、2世紀後半以後、ローマの属州をますます襲撃しました。MPには、そうした人々の多くは去り、ローマの領域に定住し、そうした人々には、ヴァンダル人やゴート人やフランク人やランゴバルド人がいました。テューリンゲン人は留まって王国を築き、そこにはエルベ・ザーレ地域が含まれていました。フランク人がこの王国を530年代に征服した後、人口は減少下ものの、一部の墓地は存続しました。7世紀には、スラブ人がザーレ川の東側で初めて言及されているものの、すぐに西方へ拡大し、スラブ語派話者集団とゲルマン語派話者集団との間の接触地帯が形成されました。
スラブ人という用語は、コンスタンティノープルにおいて6世紀頃に、西方ではその後で民族名として初めて現れます。文献では、スラブ人は当初ドナウ川下流の北側、後にはカルパチア盆地とバルカン半島とアルプス東部に居住していました。多くのスラブ人はドナウ川中流沿いで、アヴァール草原地帯帝国(567~800年頃)の支配下にありました。7世紀には、ヨーロッパ東部~中央部と南西部の大半で、スラブ人の存在の証拠があります。スラブ人の居住地域では、ローマ期とゲルマン期と他の先スラブ期の社会基盤は通常、かなり単純な生活様式に置換され、竪穴住居の小さな集落、火葬、手作りで装飾のない土器、質素で金属をさほど使わない物質分によって特徴づけられ、プラハ・コルチャク集団として知られています。より複雑な社会制度と地域支配は、ビザンツ帝国および西方キリスト教社会との接触地帯でその後に発展しました。
初期スラブ文化の類似性は、カルパチア盆地の北東側からのスラブ人の急速な拡大に起因する、と考えられることが多かったものの、その地理的起源のみならず、議論が続いています。ポーランドでは、非先住(外来)説はスラブ人のウクライナ・ベラルーシ起源を仮定するのに対して、先住(内在)説は、スラブ人の祖先が青銅器時代以降にポーランドの領域に居住していた、と主張します。一部の学者は移住によるスラブ人の拡大を疑い、既存の人口集団の「スラブ化」があった、と仮定します。以前の現代人および古代人のDNA研究は、バルカン半島北部[27]およびロシアのヴォルガ・オカ地域[28]への遺伝子流動を支持しましたが、ポーランドにおける人口連続性も主張しているので[29]、「スラブ人の」物質文化とのこれらの移動の規模および順序の関連は、依然として不明です。最終的には、この文化変容はヨーロッパ東部~中央部および南西部におけるゲルマン語派および他の言語の置換と、スラブ語派の導入につながり、スラブ語派は現在ヨーロッパにおいて最大級の語族を表しています。しかし、スラブ語派における最初の長い文献が9世紀後半に書かれたことを考えると、言語と物質文化のこの仮定された共同の拡大は追跡困難です。
ローマ期と初期中世ヨーロッパの以前に刊行されたデータ[27~29]とともに、エルベ・ザーレ地域の新たに分析された古代DNAデータおよびバルカン半島北西部とポーランドとラトビアとウクライナの補完的なデータ横断区は、大規模な人口移動と大きな人口統計学的変化を特定します。これは6世紀におけるスラブ人集団の拡大についての歴史的情報と関連づけることができ、ヨーロッパ東部の大半にわたるスラブ語派の拡大についての妥当な媒介を提供します。
●新たな古代DNAデータ
ヨーロッパ中央部および東部の26ヶ所の異なる遺跡の古代人591個体から骨格遺骸が選択され、以前に刊行されたデータと組み合わせて、3ヶ所の地域について密な標本抽出横断区が作成され、それは、(1)主要な研究地域としてのドイツ東部のエルベ・ザーレ地域、(2)バルカン半島北西部、(3)ポーランド~ウクライナ北西部です。これら3ヶ所の横断区を補完するために、新たなデータが生成され、バルト海とロシア北西部の刊行されているデータが収集され、東方の参照横断区が作成されました。混合DNA捕獲と品質選別後に、124万データ上で中央値の網羅率が538000ヶ所のSNPのある、555個体のゲノム規模データが分析に利用可能で、これには、SPの古代人359個体や、スラブ人の出現とつながる文化的変容に先行する205個体が含まれます(図1)。古代のゲノム規模データは、11500個体以上の現代ヨーロッパ人の拡張データセットとともに分析され、すべての主要なスラブ語派話者集団が網羅され、ドイツ東部の少数民族のソルブ人に属する600個体以上のデータが含まれます。以下は本論文の図1です。
●ヨーロッパ中央部における遺伝的変化
スラブ人集団の拡大の前後のゲノム規模の祖先系統多様性を視覚化するために、ヨーロッパの現代人10528個体でPCAが実行され、本論文で新たに報告される古代人および他の関連する古代人のゲノム規模データがその遺伝的差異に投影されました(図2)。SP標本を本論文の研究対象の3ヶ所の地域の以前および現在のデータと比較すると、横断区内の遺伝的組成が600~800年頃の間に著しく変わった、と観察されます。一般的に、ローマ期およびスラブ人集団の到来に先行するMPの標本はPCA空間で高度な遺伝的異質性を示し、ドイツとポーランドのほとんどの標本[29、34]が現在の大陸部のドイツ北部とオランダとスカンジナビア半島の人口集団とクラスタ化する(まとまる)のに対して、クロアチアのローマ期とMPの個体群[34]は現在のイタリアおよび地中海東部人口集団とまとまります(図2c)。以下は本論文の図2です。
ドイツ東部とバルカン半島北西部では、ローマ期およびMPクラスタ内の遺伝的多様性は主成分1沿いに南北を走っています。バルカン半島北西部については、この異質性はローマ帝国へとこの地域が組み込まれた後に到来した、地中海東部祖先系統の増加に起因する、とされてきました[27、35]。さらに意外なことに、ドイツ東部のエルベ・ザーレ地域で外来のヨーロッパ南部祖先系統を有する多数のMP個体が検出されましたが、この地域はローマ帝国の一部ではありませんでした。qpAdm[36、37]を用いて、この地域の4ヶ所のMP遺跡すべてで、ヨーロッパ南部祖先系統の割合が平均して約15~25%の間だった、と測定されます。
PCAに基づくMOBEST分析とF₄統計の両方では、この外来祖先系統はイタリアおよび/もしくはバルカン半島北部(もしくはこの祖先系統の人々が居住していたローマ帝国の他地域)の同時代の供給源人口集団に由来する可能性が最も高い、と示唆されます。先行研究[39、40]はすでに、ハンガリーおよびイタリア北部における南北の祖先系統の混合共同体を特定しており、これは、ヨーロッパ北部からの新参者と在来のローマ化した人口集団との間の融合と解釈されました。この以前の結果とは対照的に本論文では、異なる2祖先系統が物質文化の差異と相関していた証拠は見つかりませんでした。一般化線形モデルを適用すると、副葬品全体の存在も特定の種類の人工遺物(武器や胸飾りなど)もPCAの位置かADMIXTURE特性のどちらかと有意に相関していない、と論証されます。代わりに、埋葬構造において祖先系統と物質文化との間の唯一の有意な相関が見つかり、竪穴に埋葬された個体群は平均的により高い割合のヨーロッパ北部祖先系統を特徴としている、と示されます。
埋葬の空間構成も、祖先系統の類似性によって決定されていませんでした。代わりに、個体群は生物学的親族の近くに埋葬され、小さな親族集団はヨーロッパ北部かヨーロッパ南部か混合祖先系統の個体で構成されており、MPにおけるさまざまな祖先系統背景の個体間の高度な混合を反映している、と観察されます。したがって、ドイツ東部から得られた本論文のデータでは、ローマ帝国の国際的特徴は組み込んだ領域に影響を及ぼしたのみならず、国境沿いおよび蛮族の地(Barbaricum)を越えて、交流と移動性も促進し、ドイツ東部の事例では、ローマ帝国の存続期間とその後でさえ、ヨーロッパ中央部に前例のない遺伝的多様性をもたらした、と論証されます。エルベ・ザーレ地域への移動の原因と状況は依然として推測の余地がありますが、これらの新参者は明らかに在来人口集団の流行と伝統に適合し、多様な遺伝的背景の個体群の集団内でかなり均質な物質文化が生じました。
しかし、この多様性はその後のSPには崩壊しました。先行するMPとは対照的に、SPにおけるドイツ東部の遺伝的特性はかなり変化し、ほぼ現在のスラブ語派話者人口集団(たとえば、ポーランド人やベラルーシ人)とのみまとまっており、遺伝的祖先系統の根本的な置換が示唆されます(図2b・c)。同様のパターンはバルカン半島北西部とポーランドおよびウクライナ北西部やロシアのヴォルガ・オカ地域で見られ[28]、新たな遺伝物質の流入が特定の地域に減退されず、ヨーロッパ中央部および東部の広範な地域に影響を及ぼした、と示され、これは、SPに観察されたかなり単純でひじょうに類似した考古学的層準と一致します。PCAから観察されたこれらのパターンが東方から本論文の研究対象地域への遺伝子流動と一致するのかどうか、形式的に検証するために、F統計を用いて、SP個体群の、先行するMPおよびその後の現代の集団との遺伝的類似性が定量化されました(図3a~c)。スラブ人に先行する集団とスラブ人関連集団との間の分岐は、遺伝的距離(FST)の分布と共有アレル(F₄)の両方で検証されました。人口集団および個体規模の両方で、研究対象の3ヶ所の地域すべてのSP個体群は一様に、ヨーロッパ東部およびバルカン半島の古代および現在の集団とよりも、先行する在来人口集団との低い遺伝的類似性を示します。以下は本論文の図3です。
●ヨーロッパ全域におけるSP祖先系統の拡大
本論文の結果から、SP個体群は以前には研究対象の3ヶ所の地域には存在しなかったバルト海地域もしくはヨーロッパ北東部関連祖先系を示す、と明らかになります。この流入を定量的に推定するために、ソフトウェアADMIXTUREに実装された教師有クラスタ化(まとめること)手法を用いて、祖先供給源が分解されました。具体的には、現代の人口集団が、ヨーロッパ中央部における供給源祖先系統の代理として機能する、12のメタ個体群(アレルの交換といった、ある水準で相互作用をしている、空間的に分離している同種の個体群の集団)にまとめられました。
祖先系統分解を古代のゲノム規模データに適用すると、(地域的な軌跡の差異にも関わらず)ヨーロッパ北東部祖先系統(現在のベラルーシとリトアニアとラトビアの個体群によって表されるBAL)が、本論文の研究対象横断区では先史時代のほとんどにおいて完全に存在しなかったかわずかな祖先系統構成要素で、合計のMP祖先系統の割合は、バルカン半島北西部では6±2%、ドイツ東部では5±1%、ポーランドおよびウクライナ北西部では7±2%を占めていた、と分かりました。しかし、PCAおよびF₄統計(図3a~c)と一致して、BAL祖先系統は600年頃以後に増加し、研究対象の3ヶ所の地域すべてで最大の祖先系統構成要素となり、SPには、バルカン半島北西部では47±2%、ドイツ東部では65±1%、ポーランドおよびウクライナ北西部では63±2%に達しました。
本論文の研究対象の3ヶ所の地域以外では、オーストリアのメートリンク遺跡のアヴァール関連人口集団[42]においてBAL祖先系統の大きな到来(MPの0%から約27%に増加)がさらに特定され、文献で報告されているような7世紀パンノニア盆地における初期の到来が確証され、その後で在来集団とのかなりの混合が続きました。ロシア北西部のみで異なる軌跡が検出され、ヴォルガ・オカ地域では、スラブ人の伝統はBAL祖先系統の顕著な減少(65±2%~55±7%)と一致し、SPの新参者は、ヨーロッパ東部に在来ではない追加の祖先系統を組み込んだ、ヴォルガ・オカ地域のさらに西側の地域に起源があった、と示唆されます。
侵入してきたヨーロッパ北東部祖先系統の供給源は、4ヶ所の地域【バルカン半島北西部とドイツ東部とポーランドおよびウクライナ北西部とヴォルガ・オカ地域】で同じようです。この共通系統を解明するために、ancIBDが適用され、MPとSPの人口集団間で共有されているIBDになっている断片が特定されました。クロアチアとドイツ東部とポーランドおよびウクライナのSP集団は、研究対象の3ヶ所の地域【バルカン半島北西部とドイツ東部とポーランドおよびウクライナ北西部】間の広大な地理的距離にも関わらず、相互とかなり多量のIBDを共有しているものの、先行する人口集団とはほぼ完全にIBD断片を共有していない、と浮き彫りになります(図3e)。このIBD共有兆候は、16cM以上の断片の高い割合を含めて明確に、スラブ人関連の背景の古代の個体群が、ヨーロッパ中央部全域において最大数世代で西方および南方へと移動した、共通の供給源人口集団の子孫だったことを示唆しています。大規模な人口移動のそうした証拠は、ヨーロッパ東部全域の個体群の現在の組み合わせ間で以前に検出された高水準のIBD共有のパターン系統も説明し、この兆候がおもに一貫して低い人口密度によって引き起こされた、との見解を却下します。
時空間的な遺伝的祖先系統のより微細規模の特徴づけを得るために、これら次いでのIBD共有の類似性から構築された約2500個体のつながりに、階層クラスタ検出手法が適用されました。本論文の新たな個体群と刊行されているSP個体群やヨーロッパ中央部および南東部の複数の他の個体の大半を含む、同時代の大きなIBD共有群が特定されます。このより大きなクラスタ内で、異なる2下位群が特定され、一方はおもにカルパチア山脈の北側のSP個体群を含んでいるのに対して、もう一方はさらに南側に埋葬された個体群で構成されています。この分離は、地理的に異なる2回の拡大の波、もしくは在来人口集団の組み込みの異なるパターンを反映しているかもしれません。しかし、ヨーロッパ東部からパンノニア盆地およびバルカン半島への少なくとも散発的な遺伝子流動が鉄器時代およびローマ期にはすでに起きていたに違いなく、それは、6世紀および7世紀の大規模な人口移動に先行する紀元前500~紀元後300年頃の期間に、オーストリアとハンガリーとセルビアとモンテネグロに埋葬されたSPクラスタ内でかなりの数の個体群が特定されるからです。
ポーランドの最古級のスラブ人土葬の一部を表している、ウクライナとの国境に近いポーランドのフルビェシュフ町のグロデック遺跡から新たに生成された初期中世のデータを、侵入してきたBALが豊富な祖先系統の代理として用いて、qpAdmを使って、バルカン半島北西部(約83±6%)とドイツ東部(約93±3%)とポーランドおよびウクライナ北西部(約65±4%)で、SPにおいてヨーロッパ東部からの移民によって在来の遺伝子プールが置換された、と計算されます(図4c)。これらの結果は、先行研究[29]がSP遺伝子プールの在来起原を主張した、現在のポーランド西部および中央部における、鉄器時代もしくはMP~中世にかけてのかなりの程度の人口連続のモデルと矛盾します。しかし、より広範な地域での遺伝的置換の全体的な程度の評価には、より多くの標本が必要です。以下は本論文の図4です。
qpAdmを、古代の供給源人口集団を用いての現代人集団のモデル化に適用すると、ヨーロッパ東部祖先系統は現在のスラブ語派話者人口集団すべてで優勢な遺伝的構成要素で、ヨーロッパ中央部および南方の境界地域の非スラブ語派話者集団でも見られる、と示されます。現在のウクライナとベラルーシとポーランドで最高の割合のヨーロッパ東部祖先系統が測定され、そうした地域では、東方から南方にかけてヨーロッパ東部祖先系統が次第に減少します。注目すべきことに、西方のドイツ東部では顕著な二重性が観察され、ザクセン・アンハルト州の現在のドイツ語話者人口集団は約40%のSP祖先系統を、上ラウジッツ(ザクセン・アンハルト州)のスラブ語派話者のソルブ人は約88%のSP祖先系統(現代のポーランド人と同等です)を示します。これは、ソルブ人の遺伝的孤立に関する先行研究と一致し、ソルブ人が、12世紀以降にエルベ・ザーレ地域の東側に拡大したドイツ語話者の入植の繁殖網に最小限(もしくは少なくとも低い割合で)統合され、これらスラブ人集団の子孫であることと一致します。逆に本論文では、ゲルマン人の東方への拡大とそれ以前のフランク人の征服はおそらく、ドイツ語話者人口集団で観察されるSP祖先系統の減少と関連している、と示唆されます。
●SP祖先系統の形成と起源
F₄およびFST統計の両方で、SP個体群とバルト海およびポーランドおよびベラルーシの現在の人口集団との間の最高の遺伝的類似性が特定されます。BALおよびSP祖先系統(ここでは、グロデック遺跡の中世標本で近似されます)が現在最大化されており、Y染色体のR1a ハプロタイプ、具体的にはYHg-R1a1a1b1a1a(M458)およびYHg-R1a1a1b1a2b~(M558)が男性人口で見られる地域もあります。古代と現代の個体群間でのハプロタイプ共有のパターンにおいて、この類似性は特徴的なIBD兆候に反映されており、研究対象の3ヶ所の地域【バルカン半島北西部とドイツ東部とポーランドおよびウクライナ北西部】すべてのSP個体群は、他のユーラシア集団とよりもヨーロッパ東部集団の方と多くて長いIBD断片を共有しており、現在のバルト・スラヴ語派話者とヨーロッパ中央部および南東部のSP個体群との間の直接的な遺伝的近縁性を確証します。ヨーロッパ北部および北東部集団との過剰な類似性のこのパターンは、現代人のデータとの比較のみならず、考古学的記録でも明らかで、SP個体群を他の古代人標本と比較すると、SP個体群はその地理的起源とは関係なく、リトアニアとラトビアとエストニアの鉄器時代集団と最高の浮動および最大のIBD合計を共有しており[52、53]、(F統計によって示されるように)新石器時代後のヨーロッパの他の人口集団とよりもこれらの個体群の方と密接に関連している、と示されます。
しかし、青銅器時代のバルト海地域標本とは対照的に、すべての研究対象地域のSP個体群は、WHG祖先系統の割合がかなり低く、より多くのEEF祖先系統を示すことは注目されます。これは、ヨーロッパ中央部のSP集団が、おそらくはWHGと、半新石器時代森林地帯の草原地帯先系統の豊富なバルト海地域の青銅器時代関連供給源と、南方の少なとも一つのEEFの豊富な供給源との間で、すでに混合していたことを示唆しています。qpAdmを用いて、そうしたEEFの豊富な提供者として機能する代理を構成するヨーロッパ南東部および東部~中央部のさまざまな集団が特定されますが、最も可能性の高い代表を正確に特定することはできません。すべての適合する2方向モデル(およびほとんどの適合しないモデル)では、混合割合は高度に類似しており、ドイツ東部とポーランドおよびウクライナ北西部のSP標本は、約71%のバルト海地域祖先系統(95%信頼区間では66.5~76%)と約29%(95%信頼区間では24~33.5%)のEEFの豊富な祖先系統を受け取りました。しかし、SP遺伝子プールの形成につながった人口統計学的軌跡は単純な2方向混合事象より複雑だったかもしれない、と本論文は強調します。PCAおよびADMIXTUREの結果に基づく非負制約付き最小二乗法を適用して、バルト海地域青銅器時代に由来する祖先系統の同様の推定値が計算されましたが、ゲノム規模の系図から得られた以前の結果[55]を反映して、全モデルは追加のヨーロッパ西部供給源を組み込むことで成立します。したがって、どの(複数の)媒介人口集団が最終的にEEFの豊富な祖先系統を北東部に伝えたのかは、現時点では完全に解明できません。
2方向混合過程を想定して、DATESを使用し、SP遺伝子プールを形成したこの混合事象(ニーダーヴュンシュ遺跡では紀元前972±250年、ポーランド_EMAでは紀元前906±362年)について、紀元前1000年頃の平均年代が得られました。注目すべきことに、これらのDATESの推定値は、バルト語派とスラブ語派との間の分岐推定値の分布のより新しい期間と重なります(図4b)。同語源の符号化された基礎語彙データの系統発生分析と、インド・ヨーロッパ語族の言語学者のほとんどの両方が、バルト・スラヴ語派の分岐を紀元前二千年紀と推定しています。しかし、ベイズ言語学推定値は平均して混合推定値より数世紀古くなるので、本論文は、混合バルト海地域関連集団が、さらに北方の人口集団の言語もしくは方言連続体からすでに分岐し始めていた言語を話しており、前者は最終的にスラブ語派に、後者は(現在の)バルト語派になった、との可能性を強調します。
SP遺伝子プールのこの最初の形成の最も妥当な地理的位置を特定するために、MOBESTが適用され、本論文の研究対象地域のSP個体群と、依然に刊行されたユーラシア西部の古代人約5660点の標本との遺伝的類似性の時空間的補間法が実行され、特定の時点の地理的起源についての代理として解釈できる、ヨーロッパ全域の類似性の確立が得られました。予測時期は現在から1950年前に設定され、この時点での1個体の最も可能性の高い起源(したがって、ヨーロッパ中央部における人口統計学的変化の前)が提供されます。確率面を平均化すると、ベラルーシの南側とウクライナの北側にまたがる地域が、本論文の研究対象の3ヶ所の横断区におけるSP個体群の起源の最適な空間的代理として推測されます(図4a)。そうした範囲は、多くの言語学者がスラブ語派の最初の発展と提案し、考古学者がスラブ人関連の物質文化に位置づけた地域とよく一致しますが、この地域の遺伝的景観の決定的な評価には、より多くの古代DNAが必要です。
そこから、ヨーロッパ北東部祖先系統は東方と西方と南方へと拡大し、在来遺伝子プールと混合したか、置換さえした可能性が高そうです。この拡大の開始もしくは期間を正確には測定できませんが、SP個体群における在来祖先系統と移民の祖先系統との間の混合のDATES推定値は、研究対象の横断区全体で一般的に新しく類似しており、混合過程が6世紀および7世紀初期に始まったことや、これらの地域におけるスラブ人集団の歴史的に記録された到来年代と一致する、と強調されます。北東部から、スラブ語が話されるようになった地域へのかなりの遺伝子移入の検出[27]から、スラブ語派とヨーロッパ東部由来の祖先系統の拡散は関連していた、と示唆されるものの、その重複の程度は確証できません。これは、以前にはスラブ語派の拡大と関連づけられていた、現在のスラブ語派話者集団全体の高度な遺伝的近縁性について妥当な説明を提供します。
しかし本論文は、そうした単純化したモデルが、歴史的および考古学的証拠から浮き彫りになっており、バルカン半島とヨーロッパ中央部における遺伝的差異に対応しない言語の境界において依然として明らかである、より複雑な地域的動態を把握していない、と強調します。これらの拡大および混合過程における性別の偏りの可能性を調べるために、X染色体および常染色体上のSP関連祖先系統の推定値が比較され、男性に偏った混合を示唆する際の割合が確認されました(図4c)。注目すべきことに、ドイツやクロアチアやポーランドやロシアのどのSP人口集団でも性別の偏りの証拠は見つかりません(図4c)。しかし、ドイツ東部のMP人口集団へのヨーロッパ南部関連祖先系統の以前には検出されなかった遺伝子流動が、ほとんどの研究対象地域では有意に女性に偏っていた、と観察されます(図4c)。
●ドイツ東部における社会的変化
本論文で研究対象とされたスラブ人集団は、先行するMP人口集団と比較して根本的に異なる社会構成も示しました。最も注目すべきことに、多数の個体で構成される父系的に組織された系図によって反映される、エルベ・ザーレ地域においてより強固な遺跡間および遺跡内の遺伝的近縁性が浮き彫りになります。ドイツ東部における先行するMPの墓地は、生物学的近縁性の小単位によって特徴づけられ、ほぼ4人未満の1親等および2親等の親族で構成されています。遺跡水準では、各個体に平均して1.16±0.18人の親族(ここでは3親等までの関係と定義されます)がいる、と特定されました(具体的には、ブリュッケン遺跡では0.64±0.14人)。このパターンは遺跡内のIBD共有にも反映されており(3親等以上の遠い遺伝的近縁性も把握されます)、12cM以上IBDを共有する個体の組み合わせの割合は、ブリュッケン遺跡では1±0.4%、デールスハイム遺跡では6.8±1.8%、オーベルメッラーン遺跡では5.2±1.8%です。
対照的に、SPにおいては、遺跡における密接な親族の人数はほぼ6倍の6.41±0.4人に増加、と示されます。同じ夫婦から7人の子供が生まれた1事例さえ観察されます。注目すべきことに、この7人キョウダイのうち4人は繁殖年齢にたっしており、そのうち3人には子供がいました。そのほとんどは男性なので、成長した数人の娘は結婚のため他の場所に行ったかもしれない、と推測できます。さらに、子供の大半が男性であることは、標本抽出されていな姉妹がさらに存在したことを示しています(統計的に、同数の女性が生まれたことを説明するために)。注目すべきことに、すてべの夫婦(少なくとも一方の親が遺跡で特定された場合)について、52人の息子(子供のうち62%、95%信頼区間では51~72%)が見つかりましたが、娘は32人(子供の38%、95%信頼区間では28~49%)しか見つかりませんでした。
より遠い遺伝的関係も増加しました。ニーダーヴュンシュ遺跡およびシュテウデン遺跡(約8km離れています)では、個体の組み合わせのそれぞれ18.3±0.6%、と15.3±2.1%が、近い過去の共通の祖先を示唆する、IBD断片を共有しています。MP遺跡における居住期間区はニーダーヴュンシュ遺跡ではより短かった(大規模な系図構造の出現が妨げられます)ものの、シュテウデン遺跡がかなり短期間だったことから、MPとSPの墓地間の共同体内の近縁性の差異は、遺跡居住期間の違いによってのみ起きたわけではない、と論証されます。
これらの広範な親族関係網は遺跡内の全個体間の高度な近縁性を証明しましたが、近親婚(ここでは、イトコ同士もしくはそれ以上の近縁関係の夫婦と定義されます)は1例も見つかりませんでした。これは、家系の深い知識と近親婚の意図的な回避を示しています。複数の配偶者と子供を儲けた個体も少なくとも11事例特定され、一夫多妻制もしくは連続単婚を示しています。同じ父親を共有する半キョウダイ(両親の一方のみを共有するキョウダイ関係、95%信頼区間では0.43~0.91)と同じ母親を共有する半キョウダイ(95%信頼区間では0.09~0.57)の比率が2.7:1にも関わらず、カルパチア盆地のアヴァール後期の共同体で行なわれていた[67]、逆縁婚(レヴィレート婚)は1例も見つかりません。
遺跡内の遺伝的相関性の増加と並行して、墓地の構成の変化も観察され、これは拡張家系が空間配置に反映されています。密接な親族はMPおよびSPの両方において親族関係にない個体群とよりも有意に近くに埋葬されましたが、SPのみで墓地は遺伝的距離と空間的距離との間で有意な相関を特徴としており、墓地はこれらより密接な親族群の周辺で計画されて構築された、と示唆されます。この兆候はシュテウデン遺跡において最も顕著で、墓の間の空間距離の全偏差の少なくとも27%は、遺伝的近縁性によって説明されます。
SP遺跡全体の成人の性別の比率は均衡していますが、女性は平均的に男性より有意に親族が少なく、男性と比較して全体的に不適正塩基対率が増加しており、遺跡内で共有されるIBD断片の合計はより少ないのが特徴です。しかし、女性は男性よりも異なる遺跡間で多くのIBD断片を共有しているので、男性におけるより高い遺跡内の近縁性とは対照的に、遺跡間のより高い近縁性が論証されます。
これは、外来起源が男性より女性の方で一般的だったことを論証し、父方居住の継承組織を示唆しており、ほぼ父系のみで構成された系図、たとえば、父系は88%(95%信頼区間では68~97%)、に対して、母系は12%(95%信頼区間では4~32%)であることや、遺跡における女性の子孫の有意な少なさとよく一致します。ドイツ東部の全SP遺跡では、娘の1世代を超えてmtHgが伝わったのは1事例しか見つかっていません。これは先行するMPとは対照的で、MPでは、男女間の親族数の違いや、一般的に不適正塩基対率の違いが検出されず、スラブ人集団到来前には父系社会制度がさほど厳密ではなかったことを示唆しているかもしれません。しかし、特定された親族数が全体的により少ないため、これらの検定は統計的にはさほど決定的ではなく、MPの女性族外婚と父系刊行の兆候を過小評価しているかもしれません。
父方居住組織の親族集団へのパターンは地域間ではおおむね同様で、父方遺伝子プールの以前に報告された置換および均質化に寄与したかもしれません。とくに、クロアチアのSPのヴェリム遺跡では空間的距離と遺伝的距離の相関の同一のパターンや、父方居住と女性族外婚の証拠(たとえば、男性間で女性間より多くの親族がおり、男性と比較して女性間で不適正塩基対率がより高くなっています)が見つかり、エルベ・ザーレ地域で観察された社会的階層化を反映しています。対照的に、ヴェリム遺跡では親族の平均人数がニーダーヴュンシュ遺跡もしくはシュテウデン遺跡(1.01±0.17人)より有意に少なくなっています。父方居住の共有パターン内で、SPの微細規模の構成は、この拡大の複雑で地域的に偶発的な性質のため、ヨーロッパ中央部全域でかなり異なっていました。局所的な人口集団の部分的統合は、単純な置換ではなく、おそらくは特定の集団もしくは家族の運命に依存していました。しかし、ドイツ東部とクロアチアとポーランドおよびウクライナ北西部の遺跡のかなりの数の個体は、相互と同等の多量のIBDを共有しており、これらスラブ人関連集団は共有されている生物学的起源および近い過去の地理的拡大の結果として密接に関連していた、と確証されます。
●考察
本論文は、多数の完全な墓地の詳細な遺伝的横断区研究に基づいて、広範な年代および地形的範囲におけるいくつかの結果を提示します。ヨーロッパ中央部全域では、ローマ期の鉄器時代とその後のMPには、遺伝的多様性がローマ帝国内のみならず、ローマ帝国外でも増加した、と示されます。ヨーロッパ南東部が地中海東部からの流入を経たのに対して、ヨーロッパ東部~中央部の大半には、ヨーロッパ北部および北東部の現代の住民とおもに関連する人々が居住していました。ドイツ東部における地中海祖先系統の5世紀と6世紀の混合も示され、これはおもに女性を介してのことでしたが、女性のみを介したわけではありませんでした。そうした人々とその子孫は地域社会に充分に統合され、その埋葬は下級の地位もしくは文化的差異の痕跡を示さず、これは、侵入してきたヨーロッパ北部祖先系統に対する在来のヨーロッパ南部および西部祖先系統に関して、ハンガリーとイタリア[39]やイングランド[68]の初期中世墓地とはひじょうに異なる調査結果です。しかし、テューリンゲン王国の崩壊後に、この多様な人口集団は次第に消滅し、SPが始まりました。
最も重要なのは、本論文の結果が、スラブ人の拡大は大規模な移住と均質な人口集団の拡大、あるいは地域的な人口集団の漸進的な文化変容に起因したのかどうか、という議論と関連していることです。本論文は、ヨーロッパ東部の大半における文化の根本的変容を、バルト海地域東部およびポントス地域北西部の間の地域から到来した可能性が最も高い、人々の大規模な移動と結びつけることができました。この遺伝学的に推測される地域は、たとえば、キエフ文化(2世紀もしくは3世紀~5世紀)において、ヴィスワ川の東側のスラブ物質文化の起源に関する考古学的仮説とよく一致します。しかし、この地域と期間の古代DNAはなく、より正確な特定は依然としてできません。
SP祖先系統は6世紀以降、さまざまな方向に拡大しました。しかし、それを検出できるのは、移民が8世紀と10世紀の間のさまざまな段階で死者の火葬を止めた時のみです。初期の少ない土葬(たとえば、ヴェリム遺跡とグロデック遺跡)のみが、より新しい遺跡と一致する知見を提供します。したがって、SP祖先系統のほとんどが単一の波でもしくは長期間にわたって到来したのかどうかは、依然として不明です。以前の論文[27]で報告されているように、本論文の結果から、ヨーロッパ東部からバルカン半島への散発的な個体の浸透は、大規模な移動に先行した(およびその後も続いたかもしれません)、と示唆され、6世紀および7世紀の人口統計学的変容に伴う長期の移動を示しています。以前の人口集団がどの程度消滅し、新参者とともに居住し続けたか、新参者と混合したのかは、地域によります。本論文の研究対象地域では、この変化はポーランドやドイツ東部のように、起源に近い地域で最も顕著です。対照的に、バルカン半島北西部とカルパチア盆地とヴォルガ・オカ地域では、在来人口集団とのより多くの混合が見つかりました。注目すべきことに、最初のスラブ人集団がより広範な地域に定住してからほぼ4世紀後となる、10世紀後半~12世紀にドイツ東部で埋葬されたスラブ人集団は、近隣のテューリンゲン人口集団とほとんど遺伝的交流していなかったものの、考古学的発見はこれらの集団間の定期的な相互作用を論証しています。この不一致はある程度、より異質な遺伝的景観内での研究対象の遺跡の選択によって引き起こされているかもしれません。しかし、本論文の結果は、先行するゲルマン物質文化と前期SP物質文化との間の劇的な変化と一致し、これは恐らく、9世紀半ば以後の北西スラブ地域の大半における集落の少ない中間段階の後のことで、既存の人口集団のスラブ化のモデルとは一致しません。
この変化は人々の大規模な言うによって引き起こされ、スラブ語派の拡散および新たな物質文化の拡大と関連しているかもしれません。しかし、本論文のデータは、ヨーロッパ東部全域における完全な人口置換を裏づけないものの、部分的な統合を伴う、複雑で地域的に偶発的な人口拡散を示しています。バルカン半島とロシア西部におけるSP祖先系統は、全地域で多数派を形成したわけではありません。したがって、拡散地域の周縁部で観察された古代と現在の遺伝的パターンを説明するには、大規模な移動以外に、SP遺伝子プールの拡大による在来人口集団の遺伝的および文化的同化を含めて、いくつかの他の機序が必要です。新参者は、在来人口集団と混合した地域では、顕著な性別(ジェンダー)の偏りなしに混合しました。
MPとは異なり、エルベ・ザーレ地域のSP共同体はその構成において生物学的近縁性により依存しており、その系図は繁殖慣行と社会構造なついての貴重な情報を提供します。パンノニアのアヴァール期共同体[67、76]と同様に、ドイツ東部で研究された多世代のSP共同体は、父系および地域的血統と女性族外婚と厳格な近親婚の回避といくつかの事例での複数の繁殖相手に基づく、一貫した繁殖戦略を行なっていました。ドイツ東部で観察されたこれらのパターンのすべてが、バルカン半島北部のSP社会で共有されていたわけではなく、バルカン半島北部のSP社会では、その構成の多くの側面で、クロアチアやドイツ東部やハンガリーやイタリアの先行するMP集団とより類似しているようです。これらの事例の一部では、依然に確立された社会的慣行が、大きな人口統計学的および言語学的変化を生き延び、社会構成およびヨーロッパ全域のスラブ人関連社会の内部および社会間の相互作用に関する一連の新たな問題に、新たな別の水準の遺伝的複雑さを追加しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。
考古ゲノミクス:古代DNAで結び付けられた大規模移動とスラブ人の拡大
考古ゲノミクス:古代DNAでたどるスラブ人の拡大
今回、古代DNAに基づいた研究によって、スラブ語話者集団の歴史が、中央ヨーロッパおよび東ヨーロッパにおける中世を通じたそれらの人々の大規模な移動と関連付けられた。
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