黄河および長江流域の新石器時代人類のゲノムデータ

 黄河および長江流域の新石器時代人類のゲノムデータを報告した研究(Xiongu et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、黄河および長江流域の中期新石器時代の多数の人類遺骸のゲノムデータを新たに報告しています。黄河流域の新石器時代人類集団のゲノムデータはすでに多数報告されていますが、長江下流域の中期新石器時代以前の人類の多数のゲノムデータの報告は本論文が最初になるでしょうから、この点でとくに注目されます。

 黄河流域と長江流域の中期新石器時代人類集団は明確な遺伝的分化を示しますが、一方で双方向の遺伝子流動もすでに見られます。中期新石器時代において、黄河流域農耕民集団は周辺地域の集団との相互作用から生じた明確な遺伝的下部構造を示し、とくに黄河下流域集団内では、長江流域中期新石器時代集団的な遺伝的祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)を高い割合で有する個体も確認されるなど、大きな遺伝的差異が見られます。黄河上流域中期新石器時代集団は、遺伝的に現代チベット人集団と関連しています。黄河流域中期新石器時代集団では、アジア北東部新石器時代集団的な祖先系統を有する個体も確認され、西遼河を中心とした中期新石器時代集団では、アジア北東部的な祖先系統とともに見られる黄河中流域中期新石器時代集団的な祖先系統が、黄河下流域の中期新石器時代集団を介して伝わった、と推測されており(Wang R et al., 2025)、アジア東部北方でもすでに中期新石器時代には複雑な人口移動があった、と示唆されます。

 長江流域中期新石器時代集団は、長江よりさらに南方の福建省や台湾で発見された、後期旧石器時代~続旧石器時代個体と類似した祖先系統6割と、黄河中流域中期新石器時代集団的な祖先系統4割の混合でモデル化できます。長江流域の前期新石器時代集団のゲノムデータはまだ報告されていないでしょうから、推測の難しいところですが、黄河と長江の中間に位置する、長江の支流沿いの中期新石器時代遺跡の個体も、福建省や台湾の後期旧石器時代~続旧石器時代個体と類似した祖先系統と、黄河中流域中期新石器時代集団的な祖先系統の混合でモデル化できるので(Yang et al., 2025)、たとえば、長江流域ではなく珠江流域が稲作起源地だとしたら、長江流域には更新世末に黄河中流域中期新石器時代集団的な祖先系統で構成される集団が存在し、福建省や台湾の後期旧石器時代~続旧石器時代個体的な祖先系統の集団が稲作とともに北上して、前期新石器時代に長江流域でアジア東部南北間の遺伝的混合が進んだ可能性も想定されます。また、長江流域中期新石器時代集団は新石器時代から現在の中国南東部沿岸集団およびオーストロネシア語族話者と遺伝的に類似している、と明らかになり、オーストロネシア語族話者の遺伝的起源は長江流域までさかのぼる可能性が示唆されます。

 また、現生人類(Homo sapiens)と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と混合し、現代チベット人にはデニソワ人由来の高地適応型の遺伝的多様体がある[69]、と知られていますが、この多様体を有する黄河上流域の5800年前頃の個体が確認され、現時点ではこの多様体を有する最古の現生人類となります。今年(2025)刊行された研究(Wang T et al., 2025)では、現代チベット人において黄河流域新石器時代集団的な祖先系統とともに無視できない割合で存在する祖先系統と密接に関連する祖先系統が、雲南省で発見された7100年前頃の女性1個体で確認されました。しかし、この女性個体ではデニソワ人由来の高地適応型の遺伝的多様体は確認されず、現代チベット人の形成過程を解明するうえで興味深い問題と思います。以下は本論文の要約図です。
画像

 こうした研究も含めて、近年になって中華人民共和国では古代ゲノム研究がますます盛んになっており、それはユーラシア東部集団のみならず、現代日本人集団の遺伝的形成過程の解明とも深く関わってくるだけに、私の能力と見識と気力では最新の研究を追いかけていくのはなかなか難しいものの、今後もできるだけ最新の関連論文や書籍を読んでいくつもりです。もちろん、日本でも古代ゲノム研究は進められていますが、今では経済力も反映して中国に大きく遅れていることはとても否定できず、日本人の一人として残念に思うこともあります。まあ、嘆くだけではなく、私も残りの人生において、何らかの形で日本社会に貢献していきたい、とは考えていますが。

 以下の略称は、DNA(deoxyribonucleic acid、デオキシリボ核酸)、mtDNA(Mitochondrial DNA、ミトコンドリアDNA)、mtHg(mtDNA haplogroup、ミトコンドリアDNAハプログループ)、YHg(Y-chromosome DNA haplogroup、Y染色体DNAハプログループ)、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、EPAS1(Endothelial PAS Domain Protein 1、内皮PASドメインタンパク質1)、sEA(southern East Asian、アジア東部南方)、nEA(northern East Asian、アジア東部南方)、READ(Relationship Estimation from Ancient DNA、古代DNAの関係推定)、TKGWV2 (Thomas Kent Genome-Wide Variants 2、トーマス・ケントゲノム規模多様体2)、ANA(Ancient Northeast Asian、アジア北東部古代人)、k(kilo years ago、千年前)、ML(middle and lower Yellow River、黄河中下流域)L(lower Yellow River、黄河下流)、o(outlier、外れ値)です。

 以下の時代区分の略称は、LP(Late Paleolithic、後期旧石器時代)、EP(Epipaleolithic、続旧石器時代)、N(Neolithic、新石器時代)、EN(Early Neolithic、前期新石器時代)、MN(Middle Neolithic、中期新石器時代)、LN(Late Neolithic、後期新石器時代)、IA(Iron Age、鉄器時代)です。本論文で取り上げられる主要な地名や地域は、滻河(Chan River)、河套(Hetao)地域(ホータオ平原)です。

 本論文で取り上げられる主要な文化は、崧沢(Songze)文化、馬家浜(Majiabang)文化、良渚(Liangzhu)文化、大渓(Daxi)文化、裴李崗(Peiligang)文化、仰韶(Yangshao)文化の史家類型(Shijia type)と客省庄二期文化(Keshengzhuang Phase II culture)と廟底溝(Miaodigou)文化、老官台(Laoguantai)文化、馬家窯(Majiayao)文化、北辛(Beixin)文化、大汶口(Dawenkou)文化、龍山(Longshan)文化、二里頭(Erlitou)文化、二里岡(Erligang)文化、半坡(Banpo)文化、紅山(Hongshan)文化、廟子溝(Miaozigou)文化です。

 本論文で取り上げられる主要な遺跡は、中国では、上海市の青浦(Qingpu)区の福泉山(Fuquanshan)遺跡と閔行(Minhang)区の馬橋(Maqiao)遺跡と広富林(Guangfulin)遺跡、重慶市の巫山(Wushan)県の大渓(Daxi)遺跡と大水田(Dashuitian)遺跡、江蘇省の邳県(Pixian)の劉林(Liulin)遺跡と常州市の青城墩(Qingchengdun)遺跡、湖南省の城頭山(Chengtoushan)遺跡、浙江省の安楽(Anle)遺跡と上山(Shangshan)遺跡、河南省の南陽(Nanyang)市の朱崗(Zhugang)遺跡と鞏義(Gongyi)市の双槐樹(Shuanghuaishu)遺跡と鄭州(Zhengzhou)市中原(Zhongyuan)区の孫庄(Sunzhuang)遺跡、山西省の太原(Taiyuan)市尖草坪(Jiancaoping)区の鎮城(Zhencheng)遺跡と運城(Yuncheng)市夏(Xia)県の轅村(Yuancun)遺跡、陝西省の渭南市潼関(Tongguan)県の南寨子(Nanzhaizi)遺跡と渭南市横鎮(Hengzhen)遺跡と渭南市の元君廟(Yuanjunmiao)遺跡と渭南市富平(Fuping)県灰坡岭(Huipoling)遺跡と西安市臨潼(Lintong)区の呉中(Wuzhong)遺跡と西安市高陵(Gaoling)区の東営(Dongying)遺跡および楊官寨(Yangguanzhai)遺跡と西安市の滻河(Chan River)西岸の馬騰空(Matengkong)遺跡と石峁(Shimao)遺跡楡林市横山(Hengshan)県城関(Chengguan)鎮の王陽畔(Wangyangpan)遺跡、甘粛省の天水市張家川回族(Zhangjiachuan)自治県の圪墶川(Gedachuan)遺跡と天水市秦安(Qin’an)県の王家陰窪(Wangjiayinwa)遺跡および大地湾(Dadiwan)遺跡と甘粛省岷県(Minxian)の山那樹扎(Shannashuzha)遺跡、青海省の江西溝郷(Jiangxigou)遺跡、福建省の奇和洞(Qihe Cave)遺跡、台湾の亮島(Liangdao)遺跡、山東省の西夏侯(Xixiahou)遺跡と二村(Ercun)遺跡です。

 本論文で取り上げられる中国以外の主要な遺跡は、台湾の亮島(Liangdao)遺跡と漢本(Hanben)遺跡、チベット高原のゾングリ(Zongri)遺跡、【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では内モンゴル自治区とされている】モンゴル南部のハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡です。本論文の「中国」の指す範囲はよく分からず、現在の中華人民共和国の支配領域もしくはもっと狭くダイチン・グルン(大清帝国、清王朝)の18省かもしれませんが、この記事の以下の翻訳ではではとりあえず「中国」と表記します。また、当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、以下の翻訳では本論文の「civilization」を「文明」と訳します。


●要約

 中国の黄河および長江流域は世界で最古級の独立した農耕中心地の一つで、それぞれ雑穀とイネの栽培化で知られていますが、その遺伝的歴史はよく分かっていません。本論文は、これらの地域の中期新石器時代の遺伝的標本74点のゲノム規模データを提示し、遺伝的分化が顕著ではあるもの、双方向の遺伝子流動があったことを示し、混合農耕の人口拡散モデルを裏づけます。黄河人口集団は、雑穀農耕の中期新石器時代の拡大における周辺集団との相互作用から生じた、明確な遺伝的下部構造を示します。黄河上流人口集団は遺伝的にチベット人集団と関連しており、現生人類で最古級(5800年前頃)の適応的なEPAS1ハプロタイプを有しています。一方で、長江稲作農耕民は新石器時代から現在の中国南東部沿岸およびオーストロネシア人集団との遺伝的類似性を示し、祖型オーストロネシア人の起源がさらに北方の長江にまでさかのぼります。これらの調査結果は、ヒトの遺伝的歴史への中期新石器時代農耕拡大の影響に関する新たな知見を提供します。


●研究史

 農業の開始は、採食から農耕への重要な移行を表しており、生活様式と人口動態と健康と遺伝的適応と文化における顕著な変化が始まりました[6]。この農耕革命は、隣接地域へとじょじょに広がる前に、アジア西部やアジア東部やアメリカ大陸を含めてさまざまな地域で独立して発生しました。考古学的研究は農耕拡散の年表や場所や経路を明らかにしてきました。しかし、この拡大の背後にある機序は複雑かつ多面的で、人口拡散と文化拡散をめぐる議論が続いています。人口拡散では人口移動が農耕の拡大を促進した、と示唆されているのに対して、文化拡散では、在来の狩猟採集民が文化的交流によって農耕慣行を採用した、と示唆されています。古代DNAの分析は、農耕拡散が人口置換か混合か着想の交換のどれかに由来したのかどうか、調査する手段を提供します。最近の研究は、さまざまな地域にわたる農耕拡大の多様なパターンを明らかにしてきました。たとえば、アナトリア半島中央部では、ヒトの移動が農耕の出現において最小限の役割しか果たしませんでした[16]。対照的に、ヨーロッパ全域の農耕の拡散は、おもに初期農耕民の拡大によって引き起こされました[17、19、21、23]。注目すべきことに、メソアメリカからアメリカ合衆国南西部のトウモロコシ農耕の伝播は、メソアメリカ農耕民の長距離移動ではなく、集団間の拡散によって起きました。これらの事例は、農耕慣行と人口移動との間の複雑な関係を強調しています。しかし、穀物栽培化の重要な初期中心地【の1地域】であるアジア東部におけるこうした動態の包括的調査は、まだ行なわれていません。

 アジア南西部やメソアメリカで見られる均一な農耕体系とは対照的に、アジア東部の特徴は農耕の二重構造で、中国南部ではイネ(Oryza sativa)が優占しますが、中国北部ではキビ(Panicum miliaceum)とアワ(Setaria italica)が一般的です。これら二つの作物は長江流域と黄河流域で1万年前頃に栽培化され、中国の人口統計学的景観と健康と文化を著しく形成しました。雑穀とイネは初期中華文明の発展と食糧の先史時代の世界化に重要な役割を果たしました。証拠から、雑穀農耕は7000~5000年前頃の間に近隣地域へと大きく広がった、と示唆されています[45]。シナ・チベット語族の拡大が、この農耕拡大と同時に起きたことも仮定されています[48]。農耕が主要な食糧源になるにつれて、考古学的文化が繁栄し始めて、それには紅山文化(紀元前4500~紀元前3000年頃)や仰韶文化(紀元前5000~紀元前2700年頃)や大汶口文化(紀元前4000~紀元前2600年頃)や大渓文化(紀元前4300~紀元前3300年頃)や崧沢文化(紀元前4000~紀元前3300年頃)が含まれます。仰韶文化は雑穀農耕を中心としており、とくに中国北部において影響力があり、優勢でした。仰韶文化の廟底溝期には、中原を中核とする文化的共同体が出現し、中後の大半で初めて考古学的文化の統合と接続が促進されました。この期間には、文化的相互作用がかつてないほど強化しました。厳文明(Yan Wenming)氏は「二重開花パターンの中原中心モデル」を提唱し、中原がさまざまな文化圏の中で重要な連結点として機能した、と示唆しました。対照的に、張光直(Chang Kwang-chih)氏は、「中国相互作用圏」との概念を導入し、地域文化には独特な特徴があり、平等主義が特徴である、と強調しました。これらのモデルは、複雑な文化的交流が起きたことに関する理解を深めます。しかし、これら農耕拡大と文化的相互作用にどの程度人口移動が伴っていたかは、依然として不明です。

 多くの学者は、【現在は中華人民共和国の支配下にあり、行政区分では新疆ウイグル自治区とされている】東トルキスタンやチベットや北東部や南西部や東部や南東部の沿岸など、中国の辺境地域および沿岸地域に焦点を当ててきて、顕著な遺伝的多様性および頻繁な人口移動を明らかにしました[56、58~61]。対照的に、新石器時代における黄河および長江流域の人口史は依然として充分には調査されていません。黄河流域では、研究はおもに中流域と下流域に集中してきました。黄河中流域内では、河南省の仰韶文化と関連する個体群では遺伝的均質性が論証され[62、63]、この個体群は西遼河の人口集団に大きな影響を及ぼしました[62]。仰韶文化人口集団の拡大は、西遼河地域における農耕活動の増加につながりました。黄河下流域の山東の前期新石器時代個体群は、新石器時代のアジア北東部人やシベリア人やチベット人との遺伝的類似性を示しました[59]。中期~後期新石器時代には、大汶口文化と関連する個体群は黄河中流域の農耕民の東方への拡大に影響を受け、三者間の遺伝的構造を示しました[64]。その研究は、「二重開花パターンの中原中心モデル」仮説を裏づけます。しかし、標本の保存状態の困難のため、長江流域のゲノム研究は不足しています。先行研究[65]は、後期新石器時代から青銅器時代にかけての長江上流域の11個体のゲノムデータを報告しました。これらの個体は稲作農耕民関連祖先系統との直接的なつながりを示さず、黄河農耕民との類似性を示しました[65]。これは、後期旧石器時代の中国南西部における雑穀農耕の人口拡散を支持します。

 農耕起源の考古学的記録におけるアジア東部の重要性にも関わらず、これまでに刊行されたゲノム規模の古代DNAデータの量は限定的です。これは、新石器化の過程における農耕と農耕民の役割に関する現在の理解が表面をなぞったにすぎない、と示唆しています。この研究の空白に取り組むため、6231~4650年前頃の20ヶ所の考古学的遺跡から74点の標本が収集され、それには黄河流域全体と長江中下流域が含まれます。この標本はさまざまな文化を表しており、仰韶文化(62点)と大汶口文化(3点)と馬家窯文化(2点)と大渓文化(4点)と崧沢文化(2点)と良渚文化(1点)が含まれます。これらの新たな標本を以前に刊行されたデータと組み合わせることによって、中期新石器時代におけるアジア東部人口集団の高解像度の遺伝的歴史の構築が目的とされます。本論文で新たに生成されたデータによって、2点の重要な側面を独立して調査することが可能となり、それは、(1)中期新石器時代の雑穀農耕および稲作のウミウ人口集団の遺伝的構造と、(2)この人口集団と周辺集団との間の相互作用的関係で、農耕拡大の機序に光が当てられます。


●中期新石器時代の黄河および長江農耕民の古代ゲノム規模データ

 アジア東部における農耕起源の2ヶ所の主要な中心地の人口集団の遺伝的組成および発展の軌跡を調べるために、雑穀栽培の起源地である黄河沿い、および稲作の揺籃地である長江中下流域のさまざまな場所の古代人74個体からDNAが抽出されました。この分析では、124万パネルにおいて98959~1144948ヶ所の間のSNP部位(平均で455510ヶ所)が得られました。黄河流域では、上流域(甘粛省の4ヶ所の遺跡)の古代人21個体のゲノム、中流域(山西省の2ヶ所の遺跡、陝西省の7ヶ所の遺跡、河南省の3ヶ所の遺跡)の古代人43個体のゲノムと、下流域の3個体のゲノム(江蘇省の単一の遺跡、その後、実験室で構築された黄河下流域の最大規模の既存の古代DNAデータセットと組み合わされました)が提示されました。長江流域では、中流域(重慶の1ヶ所の遺跡)の古代人4個体のゲノムと下流域(上海の2ヶ所の遺跡)の古代人3個体のゲノムが報告されました。これらの標本は黄河流域全体と長江中下流域を含んでおり、放射性炭素年代の範囲は6231~4650年前頃で、この時期の特徴は、アジア東部における狩猟および採集から農耕への顕著な移行です。

 まず、以下の基準を満たした標本に焦点が当てられ、それは、(1)古代DNA損傷の明確な証拠、(2)少なくとも2通りの独立した手法によって確証される一貫した性別分類、(3)全標本でのミトコンドリアに基づく手法および男性標本のX染色体に基づく手法によって判断される、現代人の汚染水準が3%未満です。16点の標本が、これらの基準を満たさなかったため、汚染されているかもしれない、と特定されました。これらの標本について古代DNA損傷に典型的な特徴を示した断片が抽出され、その汚染水準が再評価されました。4万ヶ所以上の標的SNPと、さまざまな推定手法から少なくとも1点の信頼できる汚染推定値のある標本のみが含められ、最終的に12点の標本が選択されました。70個体から高品質な遺伝的データを得ることに成功しました(表1)。次に、DNA損傷パターンに基づく読み取りが切り落とされ、末端の置換がすべての読み取りで3%未満、とくに典型的な古代DNA損傷兆候と関連する読み取りで6%未満だったことが確証されました。最後に、3点の異なる手法(READ、TKGWV2、lcMLkin)を用いてこれら70点の標本の遺伝的親族関係が評価され、2親等以上の密接な関係の個体7組が特定されました。各親族関係の組み合わせのより網羅率の低い個体は、さらなる分析から除外されました。

 66点の高品質で親族関係にない古代ゲノムが収集整理され、124万パネルでの平均SNPは436669ヶ所でした。このデータセットは本論文が把握している限りでは多くの空白を埋め、これらアジア東部の2ヶ所の農耕中心地【黄河流域と長江流域】の新石器時代ゲノムの最大かつ最も包括的な収集を表しています。まずPCAで、黄河流域および長江流域の全体的なゲノム構造が調べられました(図1B)。第一主成分は南北の人口集団間を明確に区別します。長江の中核個体群、降夷狄には長江中流域の個体J31902と長江下流域の遺伝的に均質な集団(個体I52901とJ72907とJ81323、以後は「中国_長江下流_MN」と呼ばれます)は、台湾_亮島_LPや中国_福建_奇和洞_EPや中国_sEA沿岸_ENなど中国南西部の人口集団とともに、PCA図の南方区画内で密接にまとまりました(図1B)。以下は本論文の図1です。
画像

 逆に、黄河の全人口集団はPCA図の北方区画に、とくに、現代漢人から現在および古代両方のチベット高原の住民にまたがる、チベット・ビルマ語派話者勾配沿いに位置しました(図1B)。注目すべきことに、PCA図における黄河人口集団の位置はその地理的分布を反映しており、黄河上流の人口集団は高地集団と密接にクラスタ化した(まとまった)一方で、黄河下流の人口集団は現代の漢人の近くに位置しました。黄河中流人口集団はこれら2集団の間に位置し、黄河沿いの各地域に基づく明確な下部構造が示唆されます。これらの調査結果は、教師無ADMIXTURE分析によってさらに裏づけられました。黄河の全人口集団で黄緑色関連の構成要素が優勢でしたが、山西省から黄河上流域の人口集団はADMIXTURE図において、チベット・ビルマ語派話者もしくは青海・チベット高原(以後、高地と呼ばれます)人口集団(青色で示されます)と関連する遺伝的構成要素を示しました。対照的に、これらの構成要素は河南省から黄河下流域の人口集団ではほぼ存在しません(補足図1B)。


●黄河流域のさまざまな地域沿いの農耕民における遺伝的下部構造

 PCAとADMIXTUREを含めて以前の分析は、黄河沿いの特定の地域の人口集団間の明確な下部構造の区別を明らかにしてきました。しかし、この観察された遺伝的下部構造の背景にある理由は依然として不明です。これをさらに調べるために、循環に基づくqpWave分析が活用され、人口集団が22の異なる集団に分類されました。次に、f₄形式(ムブティ人、参照人口集団;黄河人口集団、中国_黄河_MN)のf₄分析が実行され、黄河沿いのさまざまな地域の人口集団のゲノム特性が、中国_黄河_MNの参照一式と定量的に比較されました。この分析には、祖先人口集団と、観察された遺伝的下部構造の形成に寄与した相互作用を特定するために、古代アジア東部の代表的な13人口集団[66]の参照集団を組み込まれました。

 本論文の定性分析で特定された遺伝的下部構造はf₄分析によってさらに裏づけられ、特定の地理的地域と関連する人口集団はさまざまな祖先人口集団とのさまざまな遺伝的類似性を示した、と示唆されました。河南省の黄河中流に焦点を当てると、この地域の人口集団は中国_黄河_MNと強い遺伝的類似性を共有しており、祖先系統の大半(約90%)もしくは全て(100%)が中国_黄河_MNにさかのぼる、と観察されました(図2)。この地域的な遺伝的特徴は、東方では黄河下流西部(西夏侯_Lと二村_MLによって表されます)西方では陝西省東部および山西省南西部(仰韶_轅村と仰韶_南寨子によって表されます)の両方へと広がっていました。対でのqpWave分析によると、これら4人口集団はすべて中国_黄河_MNと遺伝的に均質でした。この4集団は唯一の供給源として中国_黄河_MNを用いて事実上モデル化でき(図2)、この地域における相対的な遺伝的均質性および他の人口集団からの最小限の影響が示唆されます。以下は本論文の図2です。
画像

 対照的に、さらに東方および西方に位置する人口集団は異なる遺伝的パターンを示しました。黄河下流に位置する東方の人口集団は、在来の狩猟採集民および南方人口集団からの追加の遺伝的寄与を示しました。これらの人口集団は、2方向か3方向か4方向の混合モデルを用いて最適にモデル化され、在来狩猟採集民や黄河中流農耕民(中国_黄河_MNによって表されます)や中国南部やANA人口集団からのさまざまな割合の祖先系統を反映しています。具体的には、その遺伝的構成は、23.8~46.8%の中国_nEA沿岸_EN関連祖先系統、24~73.1%の中国_黄河_MN関連祖先系統、7.1~57.3%の南方関連祖先系統、5.2~16.5%のANA関連祖先系統で構成されています(図2)。逆に、黄河中流~上流にまたがるさらに西方の人口集団は、他の集団と比較して高地人口集団との有意な遺伝的類似性を示しました。これらの人口集団は2方向もしくは3方向混合モデルとしてモデル化され、黄河中流や高地やANAの人口集団からの祖先系統の寄与はさまざまでした。その遺伝的組成の範囲は、中国_黄河_MN関連祖先系統が21~87.9%、ゾングリ5.1k関連祖先系統が8.3~55%、ANA関連祖先系統が6.5~91.7%でした(図2)。注目すべきことに、黄河下流のり人口集団には、在来狩猟採集民からの明確な遺伝的寄与とともに、より高い割合(平均32.3%)の南方関内が含まれていました。対照的に、黄河中流~上流の人口集団は、黄河の他地域には存在しないゾングリ5.1k関連祖先系統を独特に示しました。この遺伝的差異は、黄河農耕民間で観察された下部構造を直接的に説明できるかもしれません。

 qpAdmの結果は明確で複雑ではないものの、本論文の分析におけるモデル選択の偏りの可能性も検討されました。本論文の仮説をさらに検証するために、2通りの相関関係が調べられました(図3A~C)。第一の相関は、f₄(ムブティ人、中国_nEA沿岸_EN/中国_長江下流_MN/中国_sEA沿岸_LN;黄河人口集団、中国_黄河_MN)と軽度との間で有意に負の関係を示し、緯度との有意な相関はありませんでした。第二の相関は、f₄(ムブティ人、ゾングリ5.1k;黄河人口集団、中国_黄河_MN)と経度との間で有意に正の関係を明らかにし、緯度との有意な相関はありませんでした(図3C)。これらの相関は黄河上流人口集団と高地人口集団との間や、黄河下流人口集団と南方人口集団と在来狩猟採集民との間の強い遺伝的類似性を明確に示しているので、本論文の仮説の定量的確認が提供されます。本論文の調査結果は、黄河のさまざまな地域の雑穀農耕民における明確な遺伝的下部構造を論証しました。この下部構造は地理的分布と関連しており、近隣人口集団との相互作用に影響を受けました。以下は本論文の図3です。
画像


●高地祖先系統の主要な供給源は黄河上流農耕民にさかのぼります

 チベット高原における現生人類の永続的居住は、黄河地域における農耕拡大に由来し、とくに黄河中流域~下流域の農耕民が関わっていた、と理論化されてきました[67、68]。しかし、これらの地域の古代ゲノムの欠乏は、この仮説の直接検証の能力を制約してきました。本論文では、黄河上流域の中期新石器時代の17個体のゲノム(甘粛省の4ヶ所の遺跡)と、黄河中流域の中期新石器時代の22個体のゲノム(陝西省と山西省の9ヶ所の遺跡)が提示されます。この地域は以前には高地人口集団の起源と提案されており、本論文のデータはこれらの地域の最古級の利用可能なゲノムを表しています。

 本論文の分析から、これらの地域の人口集団はPCA図では密接にまとまり、高地人口集団とより密接に一致する、と明らかになります(図1B)。ADMIXTURE図も、これらの地域の人口集団に存在する、高地人口集団と関連する青色の構成要素を特定しました。これらの調査結果は、定量的なf₄分析およびqpAdm分析によってさらに裏づけられ、この地域の人口集団のみがゾングリ5.1k関連祖先系統を有しており、それは他の黄河地域とは著しく対照的だった、と示唆されました(図2および図3C)。注目すべきことに、甘粛省の仰韶_圪墶川_2は、PCA図における位置およびf₄(ムブティ人、ゾングリ5.1k;仰韶_圪墶川_2、他の黄河中流~上流人口集団)によって証明されるように、高地人口集団との強い遺伝的つながりを示し、50%以上のゾングリ5.1k関連祖先系統(53.1%)を有している、と推定され、黄河上流人口集団と高地人口集団との間の遺伝的つながりが浮き彫りになります。さらに、f₄(ムブティ人、ゾングリ5.1k;黄河人口集団、中国_黄河_MN)と経度との間で有意な正の相関が観察された一方で、緯度では有意な相関は見つかりませんでした(図3C)。これは、高原祖先系統の主要な供給源は黄河沿いの他地域ではなく上流域の農耕民にたどることができる、との説得力のある証拠を提供します。

 興味深いことに、同様に黄河上流沿いの甘粛省に位置する仰韶_大地湾_1は、50%以上のゾングリ5.1k関連祖先系統を有する個体の一員でした。この個体はチベット人関連のEPAS1ハプロタイプを有しており、これは高地人口集団に固有で、高地環境への顕著な適応に寄与しています。このハプロタイプはデニソワ人によってもたらされた、と考えられています[68、69]。この固有のチベット人のEPAS1ハプロタイプは、5100年前頃にさかのぼる高地個体群で特定されてきましたが、黄河沿いの人口集団には存在しません。f₄(ムブティ人、仰韶_大地湾_1;仰韶_圪墶川_1/仰韶_圪墶川_4/仰韶_王家陰窪/中国_黄河上流_LN、高地人口集団)の平均Z値は−4.612で、f₄(ムブティ人、ゾングリ5.1k_o1;仰韶_大地湾_1、ゾングリ4.5k/ゾングリ4.5k_o2/ゾングリ4.7k/ゾングリ5.1k)の平均Z値は5.62でした。これらの結果は、仰韶_大地湾_1がチベット人の系統だった、との見解と矛盾し、この個体がじっさいに黄河の込だった、との結論を裏づけます。5819年前頃の仰韶_大地湾_1は、高地適応型のEPAS1アレル(対立遺伝子)を有している、最古級の現生人類で、既知の最初の黄河農耕民を表しています。


●標高の高い地域におけるANA人口集団と黄河農耕民との間の相互作用

 ANAは、極東シベリアと中国平原北東部とモンゴル高原とバイカル湖地域にまたがる地域に居住していました。本論文の結果から、黄河沿いの人口集団はANA集団に大きな影響を受けた、と示唆されました。しかし、この影響が特定の地域に集中していたのか、あるいは黄河流域全体により広く分布していたのかどうかは依然として不明で、さらなる厳密な調査が必要です。

 この問題に取り組むために、本閭の分析と同時代の仰韶文化人口集団が、黄河沿いの三つの地理的集団に分類され、それは上流(甘粛省)と中流(モンゴル南部と陝西省と山西省と河南省)と下流(山東省と江蘇省)です。本論文の調査結果は、これらの集団のANA人口集団との遺伝的類似性における有意な差異を明らかにはしませんでした。注目すべきことに、仰韶_王陽畔と廟子溝_MNと仰韶_鎮城で観察されたf₄(ムブティ人、東モンゴル_N;黄河人口集団、中国_黄河_MN)の負のZ値の上位3集団はすべて、黄河中流のより高緯度の区域に位置していました。これは、ANA人口集団と黄河人口集団との間の相互作用が、より高緯度の地域ではより頻繁だったことを示唆しています。そこで、以前の黄河中流集団からこれら3人口集団が抽出されて新たな分類が作られ、「高緯度集団」と命名されて、より低緯度の黄河地域の人口集団と比較されました。すべての比較で、有意な差異が得られました。仰韶_王陽畔と仰韶_朱崗が各集団で外れ値だったことを考慮して、この2集団は分析から除外されました。より高緯度の集団における限られた標本規模を緩和するため、その後の期間の人口集団である中国_石峁_LNが含められました。この調節でさえ有意な差異が持続し、本論文の仮説が補強されます。

 ANA人口集団との遺伝的類似性と地理的座標(緯度と経度)との間の関係を軽視的に評価するために、相関検定も実行されました。本論文の分析では、f₄(ムブティ人、東モンゴル_N;黄河人口集団、中国_黄河_MN)と経度との間で有意な負の相関が特定され、ピアソンの相関係数は−0.613で、P値は0.05未満でした。しかし、経度との有意な相関は見つかりませんでした。これらの結果は、以前に特定された外れ値の除外後でさえ依然として一貫しており、黄河流域、とくにより高緯度の地域へのANA人口集団の選択的な影響の直接的証拠を提供します。

 さらに、先行研究[62、70]では、黄河農耕民の拡大はアジア東部北東の西遼河流域における農耕発展を促進した可能性が高い、と示唆されました。本論文の分析では、中期新石器時代西遼河人口集団(中国_西遼河_MN)の遺伝的組成は、約50%の黄河人口集団(中国_黄河_MN+中国_nEA沿岸_EN)と約50%のANA祖先系統の混合としてモデル化できる、と示唆されました。対照的に、同じ地域のHMMH_MN人口集団は、完全にANA祖先系統に由来しました(図2)。これらの調査結果から、黄河農耕民は中国北東部平原のANA人口集団に、とくに農耕慣行の伝播を通じて、大きな影響を及ぼしたかもしれない、と示唆されます。まとめると、本論文の結果はは黄河農耕民とANA人口集団との間の相互の遺伝的交流を強調し、そうした交流は中国のより高緯度の地域ではより頻繁に起きた可能性が高そうです。


●長江流域の遺伝的構造とオーストロネシア人および黄河人口集団への影響

 アジア東部におけるイネの栽培化の独立した農耕中心地の一つとしての、長江流域の遺伝的歴史は、長江農耕民の代表的な古代ゲノムの不足のため、依然として曖昧です。2023年の研究[65]では、後期新石器時代~青銅器時代の長江上流域の11個体のゲノムデータが報告され、稲作と関連する祖先系統の証拠はない、と明らかになりました。本論文はこの問題に取り組むために、中期新石器時代にさかのぼる、長江中流域(大渓文化)の4点のゲノムと長江下流域(崧沢文化と良渚文化)の3点のゲノムを提示します。

 中核長江人口集団(大渓_大渓_1、崧沢_福泉山、良渚_馬橋)は、PCA図では中国南東部の新石器時代人口集団と遺伝的類似性を共有していました(図1B)。中核長江人口集団は遺伝的均質性を示し、中国南東部の集団と密接な祖先系統を共有していました。この関係は最尤系統樹(IQ-TREE)によってさらに裏づけられ、長江人口集団は南東部の沿岸および内陸人口集団とまとまり、80%以上のブートストラップの裏づけでクレード(単系統群)を形成します。しかし、中国南東部集団と比較して、新石器時代長江人口集団は黄河人口集団とより多くのアレルを共有しており、それは、南方固有のPCA区画における中国南東部クラスタ(まとまり)と黄河クラスタの中間的な位置と、f₄(ムブティ人、黄河人口集団;長江人口集団、中国南東部人口集団)の有意な負のZ値(ほぼすべてでZ値は−3未満)によって証明されます。これらの関係を定量化するためにqpAdmが適用され、これらの人口集団の祖先系統は、約60%が中国南西部に、約40 %が黄河に由来した、と明らかになりました。

 中核長江人口集団(大渓_大渓_1、崧沢_福泉山、良渚_馬橋)は遺伝的均質性と中国南東部由来の主要な祖先系統を示しましたが、長江中流域の3個体(大渓_大渓_2)は顕著な遺伝的相違を示しました。この3個体はPCA図では、中核長江集団から分岐した明確なクラスタを形成し、北方人口集団とのより密接な遺伝的類似性(図1B)と、83%のブートストラップの裏づけでの系統樹(図4B)を示し、qpAdmによって定量化されるように、長江中核集団と比較して、11.5%のより高い割合の北方祖先系統と、追加の約5%の深い祖先構成要素を論証します(図2)。わずかな(約5%)の深い祖先構成要素は大渓_大渓_2で検出されましたが、その解釈は、(1)高度な損傷配列の選択的保持と(2)低い網羅率(平均で約8万ヶ所のSNP)のため複雑で巣。この兆候が真であれば、それは近隣の青海・チベット高原もしくは中国南西部に由来するかもしれません。祖先構成要素のより正確な推測には、より高品質の遺伝的データの将来の利用可能性が必要でしょう。全体的にこれらの結果から、長江中流人口集団はより複雑な人口統計学的相互作用を経ているかもしれない、と示唆されました。これらの調査結果は、雑穀およびイネの栽培の起源が異なる祖先人口集団に由来する、との仮説を裏づけました。長江文明は、中国南東部集団との強い遺伝的類似性を示しながら、すでに黄河地域の人口集団の拡大に影響を受けていました。以下は本論文の図4です。
画像

 さらに、これらの人口集団間の相互の影響の証拠が見つかりました。黄河下流の人口集団は、他地域の集団よりも南方人口集団との強い遺伝的類似性を示し、それはPCA図での位置(図1B)、および南方人口集団との遺伝的類似性と経度との間の有意な正の相関(図3B)によって証明されます。このパターンは、南東部もしくは南西部の新石器時代人口集団からではなく、長江人口集団との直接的な相互作用から生じているかもしれません。この結論の裏づけは相関分析で、中国_長江下流_MNは同時代の他の中国南東部人口集団と比較して、最も負の遺伝的相関係数を示します(図3B)。さらなる裏づけはqpAdmモデル化に由来し、中国南東部供給源ではなく長江人口集団が、新石器時代山東集団への唯一の統計的に裏づけられる南方祖先系統の寄与を提供する、と示されます。河南省の黄河中流域では、黄河と長江の間に位置する仰韶_朱崗人口集団が、長江起源とも関連する14.7%の南方祖先系統を示します(図2)。この調査結果から、黄河中流域における南方構成要素は後期新石器時代起源ではなく、早くも5819年前頃に混合が始まっていた、と示唆されます。これらの調査結果から、黄河の中流域と下流域の両方が、中期新石器時代に長江人口集団の拡大に影響を受けたのに対して、そうした寄与は黄河上流域では存在しなかった、と示唆されます。本論文の遺伝学的調査結果から、これらの地域における雑穀とイネの共作には、直接的で相互的な人口統計学的移動および遺伝的交流が伴っていた、と示唆されます。

 オーストロネシア語族話者人口集団は、台湾から太平洋南西部までのアジア東部全域、さらにはアフリカ東部のマダガスカル島にさえ広がっています。これらの人口集団の起源は中国南部本土にあった、と仮定されてきたものの、中国南東部とより北方の長江地域の具体的な寄与は、直接的な古代DNA比較の不足のため、依然として不明です[59、67]。本論文の分析から、現代の台湾のオーストロネシア語族話者人口集団は、後期新石器時代に先行する南東部沿岸人口集団と比較して、長江農耕民とより密接な遺伝的類似性を示す、と明らかになりました。これは、f₄(ムブティ人、アミ人/タイヤル人;中国_長江下流_MN、中国_福建_奇和洞_EP/中国_sEA沿岸_EN/中国_sEA内陸_EN)の平均Z値−5.30によって裏づけられます。後期新石器時代南東部沿岸人口集団と比較した場合でさえ、f₄(ムブティ人、アミ人/タイヤル人;中国_長江下流_MN、中国_sEA沿岸_LN)のZ値はそれぞれ−1.09と−0.89で、長江農耕民と現代の台湾のオーストロネシア語族話者人口集団との間の密接な遺伝的関係がさらに示唆されます。

 これらの調査結果に基づいて、形式的にqpAdmモデルが構築され、現代のオーストロネシア語族話者人口集団の遺伝的構成が決定されました。その結果、両人口集団【アミ人とタイヤル人】は長江農耕民と在来の台湾人口集団組み合わせを用いて最適にモデル化された、と示されました。具体的には、アミ人の遺伝的構成は64.9%の長江関連祖先系統と27.5%の台湾_漢本_IA関連祖先系統と7.6%の台湾_亮島_LP関連祖先系統で構成されます。タイヤル人の遺伝的構成は、55.9%の長江関連祖先系統と44.1%の台湾_漢本_IA関連祖先系統でモデル化されました。さらに、台湾_漢本_IAは45.5%の長江関連祖先系統と48.1%の中国_sEA沿岸_LN 関連祖先系統と6.5%の台湾_亮島_LP関連祖先系統での3方向モデルによってモデル化できます。これらの結果から、長江からの遺伝子流動がこれら台湾のオーストロネシア語族話者人口集団の遺伝子プールを顕著に形成した、と示唆されます。まとめると、本論文の調査結果は、台湾における祖型オーストロネシア人は中国南東部沿岸のみならず、より北方の地域、とくに長江とも関連している、との仮説を裏づけます。


●文化的相乗効果と地理:黄河農耕民の遺伝的下部構造の形成

 本論文では、黄河流域と長江流域にまたがる中期新石器時代の74点の古代ゲノム標本が分析されました。本論文の調査結果は、黄河の農耕民における明確な遺伝的下部構造を明らかにしました。注目すべきことに、渭水沿いの人口集団(甘粛省東部と陝西省中央部および西部)は、高地人口集団とのより密接な遺伝的類似性を示しました。対照的に、山西省南西部と陝西省東部と河南省中西部の人口集団はより均質な遺伝的特性を示し、中国_黄河_MN祖先系統によってのみ表されます。黄河下流域はおもに3祖先系統によって特徴づけられ、それは在来の狩猟採集民関連祖先系統とsEA関連祖先系統と中国_黄河_MN関連祖先系統です。この複数人口集団の遺伝的構造は、地理と言語と文化と社会の障壁を横断する遺伝子流動によって形成されます。古代ゲノムデータによって、ヒトの遺伝子流動と物質文化との間の相互作用をより深く理解することが可能となります。中期新石器時代には黄河流域は、人工遺物群と埋葬慣行の差異によって証明されるように、明確に異なる考古学的文化の故地でした。仰韶文化が黄河中流および上流に広がり、おもに老官台文化と裴李崗文化に由来した一方で、黄河下流の大汶口文化は北辛に由来しました。仰韶文化内では、独特な局所的異形が出現し、共通点と相違点の両方を示します。一部の学者は、仰韶文化を異なる文化に区分さえしました。

 本論文の観察から、文化的要因が黄河流域内の人口集団の遺伝的構造の形成に重要な役割を果たしている、と示唆されます。しかし、これらの要因のみでは、観察された遺伝的差異を完全には説明しません。地理も遺伝的多様性の形成に重要な役割を果たします。注目すべきことに、地理的距離はより細かい水準で遺伝的差異に影響を及ぼし、文化的境界とは独立して作用する可能性があります。たとえば、遺伝的類似性は地理的距離の増大とともに減少する傾向があり、文化的分類では完全には把握されない遺伝子流動に対する、緩やかな障壁が浮き彫りになります。黄河流域には異なる地理的単位が含まれており、人口集団は、渭水集団と陝西省東部/山西省南西部/河南省集団と下流集団の3集団に分類されます。地理的距離と遺伝的差異との間の関係を調べるために、ピアソンの相関検定が実行されましたるその結果、外群f₃結果によって示唆されるように、地理的距離と共有された遺伝的浮動との当てだの有意な負の相関が明らかになりました。これは、地理が黄河農耕民の人口構造の形成に重要な役割を果たしている、と示唆しています。


●中期新石器時代における雑穀農耕と人口動態の共拡散

 本論文は、中期新石器時代における黄河流域およびその近隣地域の人口集団の遺伝的構造を調べます。本論文の調査結果は、黄河流域全体の黄河_MN祖先系統の著しい分布を明らかにしており、これは複数の方向での顕著な拡大によって特徴づけられ、それは、河套地域(ホータオ平原)への北方の拡大(廟子溝文化と関連しています)、西遼河流域への北東の拡大(紅山文化と関連しています)、長江中下流域への南方の拡大(大渓文化および良渚文化と関連しています)、チベット高原北東部への西方の拡大(馬家窯文化と関連しています)、黄河下流への東方の拡大(大汶口文化と関連しています)です。この遺伝的拡散は周辺共同体に大きな影響を及ぼし、廟底溝文化の拡大および雑穀農耕の繁栄と一致します。7000~5000年前頃の間に、雑穀栽培は栽培化のいくつかの潜在的中心地からさまざまな方向へと拡大し、東方へと山東半島と朝鮮半島、西方へとチベット高原北東部、南方へは長江下流域、さらには南東部沿岸へと到達しました。長江中下流域では、大水田遺跡(6031~5933年前頃)や城頭山遺跡(5800年前頃)、安楽遺跡(5750年前頃)や上山遺跡(6500年前頃)や青城墩遺跡(6000~5300年前頃)などの遺跡で雑穀の遺骸が特定されてきましたが、長江流域における雑穀消費の証拠は後期新石器時代まで見られませんでした。したがって、雑穀農耕が中期新石器時代のこの地域において果たした役割は限定的でした。同時に、廟底溝文化が活発に拡大し、近隣の文化に大きな影響を及ぼしました。この影響は、紅山文化や大汶口文化や大渓文化や崧沢文化で見られる、廟底溝文化に特徴的な人工遺物および彩陶様式によって証明されます。廟底溝文化の拡大は広範な文化的共同体の形成に寄与し、それは最終的には、夏王朝や殷(商)王朝や周王朝の出現の基盤を築きました。まとめると、本論文は中期新石器時代における黄河農耕民とその雑穀農耕の共拡散を浮き彫りにします。

●チベット高原と黄河上流との間の5800年前頃の遺伝的相互作用

 チベット高原はよく「地球の第三極」と呼ばれており、平均標高は4000mを超え、アフリカから過酷な新生息地へのヒトの移動の顕著な事例となっています。約500万人のチベット民族はこの過酷なかんきょうにてきおうし、何千年間もチベット高原に居住してきました。しかし、これら現代の高地人口集団の起源は依然として曖昧です。証拠から、初期のヒトがチベット高原中央部に3万年前頃にまでさかのぼって存在していた、と示唆されているものの、これら初期狩猟採集民の現在のチベット人への遺伝的影響は限られているようです[101]。2021年の研究[67]では、中核現代チベット人とネパールの古代人との間で顕著な遺伝的類似性が見つかり、黄河農耕民との強い遺伝的つながりが明らかになりました。この調査結果から、現代チベット人は古代のチベット狩猟採集民の直接的子孫である可能性が高い、と示唆されます。さらに、2023年の研究[68]では、現代のチベット高原祖先系統の主要な供給源はアジア東部北方にあり、この遺伝的痕跡の形成は5100年前頃に先行する、と特定されました。これらの結果はチベット人集団の複雑な起源を浮き彫りにしており、チベット人集団の遺伝的遺産のかなり割合が、チベット高原の初期狩猟採集民ではなく、北方平原の農耕共同体に由来する、と示唆されます。

 本論文の分析は、アジア東部の他地域と比較しての、高地人口集団と黄河上流農耕民との間のより強い遺伝的関係を確証しました。これは、高地人口集団との遺伝的類似性と経度との間の有意な負の相関によって証明され、緯度との顕著な相関はありません。qpAdm模擬実験の結果から、黄河上流人口集団は19.5~55%の間の高地関連祖先系統を有しており、平均では33.6%になる、と示唆されました。注目すべきことに、大地湾遺跡と圪墶川遺跡の2個体は、50%以上の高地関連祖先系統を有している、と分かりました。一方の個体、つまり仰韶_大地湾_1は5800年前頃までさかのぼり、デニソワ人と関連する適応的なEPAS1ハプロタイプを示し、この高地適応的形質を有する、と確認された最古の既知の現生人類および最初の黄河農耕民となります。f₄分析から、仰韶_大地湾_1は高地人口集団とよりも黄河農耕民人口集団の方と多くの遺伝的浮動を共有している、と示唆されます。これらの結果両方から、高地人口集団の主要な遺伝的祖先系統は黄河上流域に居住していた集団に由来するかもしれない、と示唆されます。

 仰韶_大地湾_1が適応的なEPAS1を獲得していたことは、興味深い問題を提起します。本論文はこの遺伝的類似性の説明のために、以下の2通りの仮説を提案します。(1)黄河中流および上流から移動してきた雑穀農耕民は、局所的環境への適応および周辺人口集団との交雑を通じて、独特なゲノム構造を次第に発展させ、適応的なEPAS1ハプロタイプなど高地での生存に不可欠の要素を取り込んだので、その後の高地人口集団との直接的祖先としてチベット高原に居住できるようになったかもしれません。(2)あるいは、適応的なEPAS1ハプロタイプを有する高地人口集団が、黄河上流に移動し、在来人口集団と混合したかもしれません。決定的な説明は依然として曖昧ですが、両仮説は少なくとも5800年前頃までさかのぼる高地人口集団と黄河上流人口集団との間の相互作用を示唆しています。さらに、江西溝郷2遺跡で発見された土器片は、7000年前頃にさかのぼるチベット高原文化と低地文化との間の文化的つながりを示唆しています。仮定された起源地域からのさらなるゲノムデータが、極限の高地環境へのヒトの適応のより広い意味の理解に重要でしょう。


●南東部沿岸ではなく長江流域起源の黄河流域の南方祖先系統

 長江流域のゲノムデータの保存はひじょうに限られており、稲作人口集団の遺伝的構造は依然としてほぼ調べられていません。この空白に取り組むために、長江中下流域の中期新石器時代の3ヶ所の遺跡の研究が行なわれました。分析の結果、これら中核的な長江流域の遺跡の個体群は遺伝的均質性を示し、中国南東部の続旧石器時代および新石器時代人口集団と共通の祖先系統を有していながら、黄河流域の農耕民とは依然として遺伝的に異なっている、と明らかになりました。黄河中下流域沿いに暮らす人口集団において南方祖先供給源の顕著な存在が特定され、沿岸地域を越えて、南北の集団間の相互作用が広がっていたことを示唆しています。南方祖先系統の導入は黄河下流の遺伝的景観の形成に重要な役割を果たし、黄河中下流では初期および中期新石器時代の北方沿岸人口集団が平均で30%以上の南方祖先系統を示しました。これは中国南部人口集団との遺伝的類似性と経度との間の顕著な正の相関によって裏づけられ、緯度との対応する相関はありません。

 本論文の調査結果から、黄河流域における南方祖先系統の存在は、南東部沿岸の初期人口集団からではなく、地理的に近い長江流域人口集団に由来した可能性が高い、と示唆されます。これは、沿岸部人口集団間の相互作用はおもに中国南東部との間で起きた、との以前の仮説[59、64]に異議を唱えます。この双方向の遺伝的交流は、沿岸地帯のみならず、長江中流域でも観察されました。黄河と長江の文化間の文化的移行地帯である南陽盆地に位置する朱崗遺跡では、長江流域にたどれる14.7%の南方祖先系統が検出されました。この地域のさまざまな居住段階は多様な文化的類似性を反映しており、南北の人口集団間の動的な相互作用が浮き彫りになります。これらの調査結果から、稲作農耕の拡大は長江からの移動によって引き起こされ、早ければ中期新石器時代には始まっていたかもしれない、と示唆され、中原への南方からの遺伝子流動はおもにその後の龍山文化期に起きた、との従来の見解[62]を訂正します。


●台湾の祖型オーストロネシア人の起源は長江へと北方に広がります

 オーストロネシア人の起源と拡散は、熱烈な学術的調査の対象でした。考古学と自然人類学と言語学と遺伝学を活用して、学者はいくつかの学説を提案してきており、それには、ニューギニアやマレーや台湾や本土を想定した学説が含まれ、台湾節と本土説が最も受け入れられています。考古学的証拠は、オーストロネシア人と中国南東部沿岸地域との間のつながりを示唆しています。アジア南東部島嶼部の分析から、オーストロネシア人集団は台湾先住民とより密接に関連する祖先系統を有している、と示唆されています[105]。古代DNAに基づく最近の遺伝学的調査結果は、この議論に新たな観点を追加しています。2020年に、本土南東部人口集団が台湾海峡諸島の人口集団と顕著な遺伝的類似性を示す、と研究者が発見し、祖型オーストロネシア人は中国南東部起源だった、との仮説が裏づけられました[59]。2021年のその後の研究[67]は、オーストロネシア人の遺伝的祖先系統はより北方に起源があり、長江流域の新石器時代農耕民へとさらにさかのぼるかもしれない、と示唆する仮説を提唱しました。

 これらの調査結果は、オーストロネシア人の拡大における中国南部起源の検討の重要性を強調しています。しかし、この仮説は直接的なDNA証拠の欠乏のため、依然として確証されていません。本論文はこの仮説を検証するために、新石器時代長江農耕民と本土南東部人口集団と現代の台湾のオーストロネシア語族話者人口集団の遺伝的特徴を体系的に比較しました。その結果、現代の台湾のオーストロネシア語族話者人口集団は、後期新石器時代に先行する本土南東部人口集団とよりも、長江農耕民の方と密接な遺伝的類似性を示す、と明らかになります。現代の台湾のオーストロネシア語族話者人口集団は、長江農耕民と在来の台湾人口集団の混合としてモデル化できます。この調査結果は、台湾の祖型オーストロネシア人集団の起源が長江流域へとさらに北方に広がる、との示唆的な証拠を提供し、オーストロネシア人拡大の形成における新石器時代の長江からの移動の役割を浮き彫りにします。


●この研究の限界

 この研究には以下のようないくつかの限界があります。(1)長江地域の古代ゲノムの少なさは、稲作人口集団の遺伝的構造の包括的分析を制約します。この制約は、新石器時代における黄河と長江の人口集団間の遺伝的交流のより深い理解を妨げるかもしれません。(2)現代の高地集団の人口史の理解における顕著な進歩にも関わらず、高地環境への移動および適応の詳細な軌跡は、これらの地域および仮定された供給源地域のより古いゲノムデータの欠乏のため、依然として不明です。(3)混合図の重要性を考えて、混合図空間の包括的調査が実行され、X右傾的に同等の適合度があるものの、生物学的に信じがたく、不安定な状況を表していた、複数の形態が特定されたので、本論文からそうした結果は慎重に除外されました。これらの地域における将来の標本抽出の試みは、集団遺伝学的分析における方法論的革新と組み合わされて、移動と適応の過程の決定的な証拠を提供できるかもしれません。将来の研究においてこれらの空白に取り組むことが、アジア東部の人口史のより完全な再構築には不可欠です。


参考文献:
Wang R. et al.(2025): Genetic formation of Neolithic Hongshan people and demic expansion of Hongshan culture inferred from ancient human genomes. Molecular Biology and Evolution, 42, 6, msaf139.
https://doi.org/10.1093/molbev/msaf139
関連記事

Wang T. et al.(2025): Prehistoric genomes from Yunnan reveal ancestry related to Tibetans and Austroasiatic speakers. Science, 388, 6750, eadq9792.
https://doi.org/10.1126/science.adq9792
関連記事

Xiong J. et al.(2025): The genomic history of East Asian Middle Neolithic millet- and rice-agricultural populations. Cell Genomics, 5, 10, 100976.
https://doi.org/10.1016/j.xgen.2025.100976

Yang T. et al.(2025): Ancient DNA reveals the population interactions and a Neolithic patrilineal community in Northern Yangtze Region. Nature Communications, 16, 8728.
https://doi.org/10.1038/s41467-025-63743-1
関連記事

[6]Marciniak S. et al.(2022): An integrative skeletal and paleogenomic analysis of stature variation suggests relatively reduced health for early European farmers. PNAS, 119, 15, e2106743119.
https://doi.org/10.1073/pnas.2106743119
関連記事

[16]Feldman M. et al.(2019): Late Pleistocene human genome suggests a local origin for the first farmers of central Anatolia. Nature Communications, 10, 1218.
https://doi.org/10.1038/s41467-019-09209-7
関連記事

[17]Haak W. et al.(2015): Massive migration from the steppe was a source for Indo-European languages in Europe. Nature, 522, 7555, 207–211.
https://doi.org/10.1038/nature14317
関連記事

[19]Mathieson I. et al.(2015): Genome-wide patterns of selection in 230 ancient Eurasians. Nature, 528, 7583, 499–503.
https://doi.org/10.1038/nature16152
関連記事

[21]Lazaridis I. et al.(2014): Ancient human genomes suggest three ancestral populations for present-day Europeans. Nature, 513, 7518, 409–413.
https://doi.org/10.1038/nature13673
関連記事

[23]Bramanti B. et al.(2009): Genetic Discontinuity Between Local Hunter-Gatherers and Central Europe’s First Farmers. Science, 326, 5949, 137-140.
https://doi.org/10.1126/science.1176869
関連記事

[45]Chen F. et al.(2015): Agriculture facilitated permanent human occupation of the Tibetan Plateau after 3600 BP. Science, 347, 6219, 248-250.
https://doi.org/10.1126/science.1259172
関連記事

[48]Zhang M. et al.(2019): Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic. Nature, 569, 7754, 112–115.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1153-z
関連記事

[56]Bai F. et al.(2024): Ancient genomes revealed the complex human interactions of the ancient western Tibetans. Current Biology, 34, 12, 2594–2605.E7
https://doi.org/10.1016/j.cub.2024.04.068
関連記事

[58]Mao X. et al.(2021): The deep population history of northern East Asia from the Late Pleistocene to the Holocene. Cell, 184, 12, 3256–3266.E13.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.04.040
関連記事

[59]Yang MA. et al.(2020): Ancient DNA indicates human population shifts and admixture in northern and southern China. Science, 369, 6501, 282–288.
https://doi.org/10.1126/science.aba0909
関連記事

[60]Wang T. et al.(2021): Human population history at the crossroads of East and Southeast Asia since 11,000 years ago. Cell, 184, 14, 3829–3841.E21.
https://doi.org/10.1016/j.cell.2021.05.018
関連記事

[61]Kumar V. et al.(2022): Bronze and Iron Age population movements underlie Xinjiang population history. Science, 376, 6568, 62–69.
https://doi.org/10.1126/science.abk1534
関連記事

[62]Ning C. et al.(2020): Ancient genomes from northern China suggest links between subsistence changes and human migration. Nature Communications, 11, 2700.
https://doi.org/10.1038/s41467-020-16557-2
関連記事

[63]Li S. et al.(2024): Ancient genomic time transect unravels the population dynamics of Neolithic middle Yellow River farmers. Science Bulletin, 69, 21, 3365-3370.
https://doi.org/10.1016/j.scib.2024.09.002
関連記事

[64]Du P. et al.(2024): Genomic dynamics of the Lower Yellow River Valley since the Early Neolithic. Current Biology, 34, 17, 3996–4006.E11.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2024.07.063
関連記事

[65]Tao L. et al.(2023): Ancient genomes reveal millet farming-related demic diffusion from the Yellow River into southwest China. Current Biology, 33, 22, 4995–5002.E7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2023.09.055
関連記事

[66]Yang MA.(2022): A genetic history of migration, diversification, and admixture in Asia. Human Population Genetics and Genomics, 2, 1, 0001.
https://doi.org/10.47248/hpgg2202010001
関連記事

[67]Wang CC. et al.(2021): Genomic insights into the formation of human populations in East Asia. Nature, 591, 7850, 413–419.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03336-2
関連記事

[68]Wang H. et al.(2023): Human genetic history on the Tibetan Plateau in the past 5100 years. Science Advances, 9, 11, eadd5582.
https://doi.org/10.1126/sciadv.add5582
関連記事

[69]Huerta-Sánchez E. et al.(2014): Altitude adaptation in Tibetans caused by introgression of Denisovan-like DNA. Nature, 512, 7513, 194–197.
https://doi.org/10.1038/nature13408
関連記事

[70]Zhu KY. et al.(2024): The genetic diversity in the ancient human population of Upper Xiajiadian culture. Journal of Systematics and Evolution, 62, 4, 785–793.
https://doi.org/10.1111/jse.13029
関連記事

[101]Zhang P. et al.(2022): Denisovans and Homo sapiens on the Tibetan Plateau: dispersals and adaptations. Trends in Ecology & Evolution, 37, 3, 257–267.
https://doi.org/10.1016/j.tree.2021.11.004
関連記事

[105]Lipson M. et al.(2014): Reconstructing Austronesian population history in Island Southeast Asia. Nature Communications, 5, 4689.
https://doi.org/10.1038/ncomms5689
関連記事

この記事へのコメント

熊笹
2025年10月12日 20:51
 中国の先史文化には疎いのですが、大汶口文化で形成された三足器などを用いる礼器のシステムが龍山文化期に中原に定着し、後の夏・商・周にも継承され古代中国の支配層の基礎文化になった印象が強いため、仰韶→大汶口の影響を強調する本研究には当初違和感を感じました。
 ただし、遺伝と考古文化が一致しない事例が多いことを考えると納得はできるかもしれません。
管理人
2025年10月13日 07:46
私も黄河流域の先史時代文化に疎く、黄河中下流域の新石器時代~青銅器時代の文化については、随分前に読んだ概説の曖昧な記憶と、昨年から今年にかけて読んだ古代ゲノム研究での言及くらいしか把握していないので、初歩的なことを辛うじて言える程度です。

古代ゲノム研究での言及を読んだ限りでは、中期新石器時代の黄河下流域の大汶口文化と黄河中流域の仰韶文化との間で広範な文化的相互作用があったようです。

ただ、黄河中下流域がまとめて龍山文化に分類される後期新石器時代もそうですが、現時点では、遺伝的影響はほぼ黄河中流域から黄河下流域への一方向だった、と推測されており、遺伝と文化の関係を一様に把握できないことを改めて示しているように思います。