大清水裕『ローマ帝国とアフリカ カルタゴ滅亡からイスラーム台頭までの800年史』

 中公新書の一冊として、中央公論新社より2025年8月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はアフリカ視点のローマ帝国史で、紀元前2世紀半ばのカルタゴの滅亡から紀元後7世紀のイスラム教勢力の支配までを扱っています。アフリカ北部はローマ帝国にとって重要な地域で、経済・政治・文化的に繁栄ましたが、第二次ポエニ戦争での苦戦から、ローマ社会においてアフリカ北部の印象は悪く、それは近代におけるフランスを中心とするヨーロッパ勢力によるアフリカ北部の植民地支配にも反映されていました。進んだフランス(ヨーロッパ)がアフリカ北部を文明化する、との認識が古代ローマ史研究にも反映されており、古代ローマ史研究におけるアフリカ北部に対してのヨーロッパ側の優越意識は、20世紀後半には衰退していったものの、近代以降長くローマ帝国がヨーロッパと強く結びつけられてきたため、ローマ帝国支配下のアフリカ北部やアジア西部はまだ軽視される傾向にあるようです。そうした問題意識で、本書はローマ帝国支配下のアフリカ北部を取り上げます。

 カルタゴがローマに滅ぼされた後も、アフリカ北部(アフリカ地中海沿岸地域)には、支配者として新たに到来したローマ人とともに、フェニキア系のポエニ人やリビア人と呼ばれる先住民が存在していました。カルタゴ滅亡後のアフリカ北部のローマによる支配については、史料が少なく、はっきりしないようです。この時期のアフリカ北部について本書が重視しているのはユグルタ戦争で、その中でマリウスが台頭し、その軍制改革が軍の私兵化、さらには内乱の一世紀と帝政(元首政)へとつながった、と評価されています。ユグルタ戦争後、ヌミディア王国は衰退しますが、ローマの内乱時には存在感を示します。しかし、ヌミディアのユバ王はカエサルとポンペイウスの対立のさいにポンペイウスに組みしたため、最終的には自害に追い込まれ、ヌミディア王国は従来のローマの属州とは異なる新たな属州となりました。

 ポエニ戦争の結果、廃墟となったカルタゴが再建されたのは、オクタウィアヌス政権期でした。カルタゴに限らず当時のアフリカ北部には、ローマ軍の退役兵や退役兵に土地を奪われたイタリアの人々が入植し、新たに都市を建設して、農地を拡大していきました。この過程での軋轢から、紀元後17年にタクファリナスの反乱が起きましたが、本書はこれを、ローマの支配を揺るがすような大事件ではなかった、と評価しています。その後、ローマに従属していたマウレタニア王国は、君主プトレマイオス王がカリグラ帝に殺害され、後継者がいなかったため、二分割されて属州となり、地中海南岸地域はすべてローマ帝国の直接的支配下に入りましたが、ローマの支配が直ちに内陸部に及んだわけではなさそうです。本書はこうしたローマ帝国の属州支配について、政治情勢の変化に機敏に対応した地元有力者を取り込むことで成り立っており、必ずしも、ローマ軍による強権的な支配ではなく、支配者たるローマ人と先住民が二元対立的に暮らしていたわけでもなく、重要なのはローマ市民権の有無で、アフリカ出身のローマ市民権保持者も増加していったことを指摘します。本書でおもに取り上げられるアフリカ北部のローマ帝国属州は、現在のモロッコ北部に相当するマウレタニア・ティングタナ、現在のアルジェリア北西部に相当するマウレタニア・カエサリエンシス、アルジェリア北東部からチュニジアを経てリビア西部までのアフリカで、ローマ帝国の支配の在り様は一律ではなかったようです。

 現在のリビア東部(キュレナイカ)は、古くからギリシア人が入植しており、クレタ島と一体の属州とされました。上述のように、これらアフリカ北部沿岸(地中海南岸)地域がローマ帝国の属州となっても、内陸部が直ちにローマ帝国の支配下に入ったわけではなく、ローマ帝国の支配拡大とは、ローマ軍の内陸部への侵出と街道の延伸でした。アフリカ北部に駐屯していたローマ軍は第三アウグスタ軍団で、軍団基地の移転や砦の設置や街道の敷設によって、都市が形成されていきます。ローマ帝国にとって、アフリカ北部の属州は重要な穀倉地帯で、大土地所有が拡大していったようです。この過程でアフリカ北部の「ローマ化」も伸展していきましたが、それは一様ではなく、地域によって異なっており、ローマ帝国の支配領域内では「ローマ化」の伸展が比較的遅い地域だったことを本書は指摘します。

 2世紀末に政治的混乱を収拾したセプティミウス・セウェルス帝は、ローマ帝国史上最初のアフリカ出身の皇帝でしたが、その出自かつてローマと敵対したポエニ人で、ポエニ語が第一言語だった、と考えられています。本書はセウェルス朝出現の背景に、属州におけるローマ市民権保持者の増加、およびそれに伴う元老院における属州出身議員の増加を挙げます。この過程で、ローマ市民権を獲得した先住民系の人々と、入植したローマ市民の子孫との間で一体化が進んでいったようです。セウェルス朝のカラカラ帝は212年、ローマ帝国内の全自由民にローマ市民権を与えますが(アントニヌス勅法)、本書はこれについて、属州社会によるローマ帝国の変容を象徴している、と評価しています。

 235年にセウェルス朝が断絶し、いわゆる軍人皇帝時代に入った直後の238年、アフリカ北部で反乱が勃発します。上述のタクファリナスの反乱以降約200年間にわたって比較的平穏だったアフリカ北部におけるこの反乱について、ローマ帝国の支配への抵抗というよりは、ローマ帝国の支配を前提とした性格が多分にあったことを、本書は指摘します。この軍人皇帝の時代はローマ帝国の危機と言われてきましたが、本書は、政治的不安定と経済および社会的危機が直結するとは限らず、アフリカ北部の諸都市は繁栄していた、と評価しています。本書は、軍人皇帝の時代にもローマ帝国の支配はおおむね保たれており、この時代を「危機の時代」や「不安の時代」ではなく、「野心の時代」と呼ぶこともできるだろう、と指摘します。一方で本書は、この時代もローマ帝国が多様なままであり、これ以降、社会の亀裂が増大していったことも指摘します。

 軍人皇帝時代以降のアフリカ北部では、ディオクレティアヌス帝によるアフリカ管区創設などを経て、「アフリカ人」意識が浸透していきますが、それは、キリスト教が定着していく中でも、ローマ人意識と共存するものでした。しかし、ローマ帝国の支配は4世紀後半以降には動揺していき、アフリカ北部にも429年にヴァンダル人が侵入します。439年にはカルタゴが陥落し、これでアフリカ北部の古代は終焉した、とも言われてきました。本書はヴァンダル人によるアフリカ北部征服の前提として、当時アフリカ北部の経済的繁栄や政治的影響力が、イタリアとの密接なつながりにあったことを指摘します。東ローマ帝国というかローマ帝国東方の食糧供給源がエジプトだったのに対して、ローマ帝国西方の食糧供給源はアフリカ北部の属州で、そのために支配権をめぐる争いは激化し、内紛によってローマ帝国のアフリカ北部支配が空洞化したことで、ヴァンダル人による征服が可能になったというわけです。食糧をアフリカ北部に依存するローマ帝国西方の宮廷は、ヴァンダル王国のアフリカ北部支配を容認します。ヴァンダル人はアフリカ北部では少数派だったので、ローマ時代の社会に依存せざるを得なかったようです。6世紀半ばに、ヴァンダル王国は東ローマ帝国のユスティニアヌス帝の軍事遠征によって崩壊し、アフリカ北部は東ローマ帝国の支配下に入ります。7世紀半ば以降には、イスラム教勢力がアフリカ北部へと侵入し、7世紀末までにアフリカ北部はほぼイスラム教勢力に支配され、ローマ帝国支配下での地中海交易が繁栄の基盤だったアフリカ北部は、新たな道を模索していきます。本書は、アフリカ北部において、ヴァンダル人の支配下でもローマ人意識が続いており、それが東ローマ帝国の支配を可能とした、との認識から、アフリカ北部における大きな社会的影響をもたらしたのはイスラム教勢力の拡大だった、と指摘します。

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