スラウェシ島の100万年以上前の石器

 スラウェシ島で前期更新世となる100万年以上前の石器を報告した研究(Hakim et al., 2025)が報道されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、スラウェシ島で新たに発見された石器の下限年代が104万年前頃で、148万年前頃までさかのぼる可能性を示しています。スラウェシ島ではすでに194000年前頃の石器が発見されており[14]、これはこの地域における最古級の現生人類(Homo sapiens)よりずっと前となりますが、それが100万年以上前までさかのぼったわけで、更新世において大陸と陸続きになったことのないスラウェシ島にどのように人類が渡海したのか、注目されます。

 スラウェシ島では10万年以上前の人類遺骸が発見されていないので、20万年前頃や100万年以上前の人類がどの系統なのか、不明です。中期~後期更新世には、スンダランドにおいてホモ・エレクトス(Homo erectus)が存在し、近隣のフローレス島ではホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)が、ルソン島ではホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)が確認されています。スラウェシ島はホモ・フロレシエンシスの有力な起源地候補なので[3]、その意味でも、148万年前頃までさかのぼるスラウェシ島の人類はたいへん注目されます。

 以下の略称は、P⁴(上顎第四小臼歯)M³(上顎第三大臼歯)、OPD(Osteon Population Density、骨単位群密度)、HCI(Haversian Canal Index、ハバース管指標)、NF(nutrient foramen、栄養孔)、hOF(superior margin of the hollow leading to the olecranon fossa、肘頭窩につながる穴の上端)、US(Uranium-series、ウラン系列)、ESR(electron spin resonance、電子スピン共鳴法)、CSUS(closed-system U-series、閉鎖系ウラン系列)です。

 本論文で取り上げられる主要な遺跡は、スラウェシ島のソッペン県(Soppeng Regency)リリリラウ(Lilirilau)郡のウジュング(Ujung)村のカリオ(Calio)遺跡と南西部の町マロス(Maros)北東のワラナエ盆地(Walanae Basin)にある中期~後期更新世(194000~118000年前頃)のタレプ(Talepu)遺跡、フローレス島の中央部に位置するソア盆地(So’a Basin)のマタ・メンゲ(Mata Menge)遺跡およびウォロ・セゲ(Wolo Sege)遺跡とリアン・ブア(Liang Bua)洞窟、ジャワ島のサンギラン(Sangiran)遺跡、ケニアのコムベア(Kombewa)遺跡です。

 本論文で取り上げられる主要な地層と地形と地域は、センカン背斜(Sengkang Anticline)、ベルー層(Beru Member、現代のインドネシアの表記ではBerru Member)、サマオリング層(Samaoling Member)、ベルー=ブルー・カルッレ(Beru-Bulu Carulle)、スラウェシ島のリリリラウ(Lilirilau)郡です。本論文で取り上げられる主要な地磁気の期間は、ブリュンヌ期(Brunhes Chron)、松山期(Matuyama Chron)、オルドヴァイ亜期(Olduvai Subchron)、ハラミヨ亜期(Jaramillo Subchron)です。本論文で取り上げられる主要な非ヒト動物は、イノシシ科のコルポコエルス属のスラウェシ大型イノシシ(Celebochoerus heekereni)です。


●要約

 アジア南東部本土(スンダ)を越えた古代型人類の拡散は、海洋障壁を越えて孤立した土地に到達した、最古級の証拠を表しています[2、3]。以前には、スンダの海洋島嶼地帯であるワラセアにおける人類の最古級の兆候は、フローレス島のウォロ・セゲにおける少なくとも102万±2万年前に堆積した剥離石器で構成されていました[5]。初期人類は、カリンガ州における777000~631000年前頃の石器と動物遺骸への切創痕の両方によって示唆されるように、石器と海洋のルソン島(フィリピン)でも確認されました[6]。さらに、絶滅した小柄な人類の化石がフローレス島(ホモ・フロレシエンシス)[10~12]とルソン島(ホモ・ルゾネンシス)[13]で見つかっています。ワラセアの最大の島であるスラウェシ島では、以前の発掘で、ワラナエ盆地のタレプ開地遺跡において、194000年前頃の下限年代の石器が明らかになっており[14]、これはこの地域における現生人類の最古級の既知の存在(スンダの73000~63000年前頃)[15]のずっと前となります。本論文では、堆積岩の古地磁気年代測定および化石の歯のUS–ESR年代測定を用いて、石器が化石を含む層の近隣のカリオ遺跡でも見つかり、その年代は少なくとも104万年前頃で、おそらく上限年代が148万年前頃になる、と示されます。カリオ遺跡における前期更新世人工遺物の発見から、スラウェシ島にはフローレス島と同じ頃かそれ以前に人類が居住していた、と示唆されます。


●分析と考察

 インドネシアのスラウェシ島は、ユーラシアプレートとインド・オーストラリプレートと太平洋プレートの衝突によって形成されました。スラウェシ島南西部の半島では、この複雑な地殻運動の歴史によって中新世に、南北方向の長い盆地が形成され(ワラナエ盆地)、この盆地は両側が同じ方向に伸びる主要な断層系統であるワラナエ断層帯によって区切られています。鮮新世から更新世への移行期の頃に、ワラナエ盆地の拡大は東西方向の圧縮性に反転し、盆地は反転しました。センカン背斜は、この期間に形成された逆断層の地表の現れです。後退盆地の馬ッている層序であるワラナエ層は、センカン背斜で露出しており、厚さは1800mです。

 ワラナエ層の最上部の層序単位はデルタ状のベルー層で、これは水成砂岩や礫岩や沈泥粘土堆積物が交互に見られることを特徴としています[14]。ベルー層はさらに、細粒の潟性および河川三角州の砕屑性堆積物が優占する下部の下位単位Aと、粗粒河川および河口砕屑性堆積物が優占する下部の下位単位Bへと区分されてきました[14]。脊椎動物化石はおもにベルー層の粗粒堆積物層で見られますが、細粒の氾濫原および河口堆積物でも見つかりました。下部単位Aの化石層の年代が後期鮮新世から前期更新世と推定されているのに対して、より新しい下部単位Bに属する18mの厚さの層序の年代は、上部近くの10万年前頃から底部に向かって少なくとも194000年前頃にまで及んでいます[14]。絶滅動物相の化石は下部単位A(最初の河川砂岩層と定義されます)の底部で見られ、大型のイノシシ科のスラウェシ大型イノシシや小柄な長鼻類に分類される化石が含まれます。

 カリオ遺跡(南緯4度20分8秒、東経120度00分48.3秒)は、ソッペン県リリリラウ郡のウジュング村の近くの海抜57mに位置しています(図1)。カリオ遺跡は、ワラナエ川の東側約2.3km、氾濫原の約36m上に位置しています。ワラナエ層のベルー層下部単位Bに属する一連の河川性礫質砂岩は、約63000m²の領域にわたる地表で露出しています。先行研究はこれらの半水平上に積み重なった粗粒河川堆積物を、ワラナエ川の古代の河岸段丘で、これら「段丘堆積物」の最古級は最大で5万年前頃と推定されていました。しかし、その後の研究では、カリオ遺跡の近くのワラナエ川に隣接するこれらの地層の露出は、後退盆地堆積層序の隆起最上部(ワラナエ層のベルー層下位単位B)を表している、と明らかになりました[14]。ベルー層の下位単位Aは、センカン背斜の西方へと傾斜している西側側面のさらに東側ら露出しています。ベルー層下位単位B堆積物は長く、同じ地域から回収された表面採取された石器と関連づけられてきました。しかし、2016年に初めて、文化的に改変された石器はこれら河川層内で元々に位置に存在していた、と決定的に示され、タレプ遺跡では最古級の石器は少なくとも194000年前頃でした[14]。以下は本論文の図1です。
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 カリオ遺跡が初めて注目を集めたのは、石器(人工遺物1と表される燵岩の剥片)が、農地の地表に露出した半水平の層理面で、高度に結合した礫岩に埋まった状態で発見された時です(図2a)。体系的な発掘が2019年と2021~2022年にこれらベルー層下位単位B堆積物で実行され、東方・北東から西方・北西に向かう尾根上の区域が対象とされました。以下は本論文の図2です。
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 2019年には、任意の10cmの厚さの間隔を用いて、合計6ヶ所の連続した1 m²の発掘単位(B1U1~B1U6)が掘削されました(図3)。最初の区画であるB1U1は、人工遺物1の発見地点で始められました。追加の9ヶ所の1 m²の発掘単位(B2U1~B2U3、B3U1~B3U3、B4U1~B4U3)は、2021~2022年の以前の発掘単位の西側に位置しています。これらの発掘では、自然に積み重なり、分類が不充分で、新井礫質砂岩で構成されており、炭酸カルシウムによって固まったきわめて硬く15~25cmの厚さの礫岩で覆われた、河川堆積物の最大1.4mの厚さの層序が明らかになりました(図3)。以下は本論文の図3です。
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 粗粒砕屑性堆積物が、おもに風化した火山岩の破片から構成されているだけではなく、燵岩/珪化石灰岩の礫や沈泥岩や粘土岩の破片砕屑物も含んでいるのに対して、細粒の砂質破片は火山岩の破片や少量の長石や石英や輝石の結晶で構成されています。礫や粒は亜角状から丸いものです。第2層は小粒の大きさの平均岩片径で、最大直径約30mmの数点のより大きな礫があります。歯列のあるコルポコエルス属の下顎(図3のF1)は、このひじょうに粗い砂岩の底部(区画B1U1)で、地表から30cm下で発掘されました。この下顎の化石化した骨組織は保存状態が悪く、部分的に分解していましたが、左右の歯列の摩耗した大臼歯は状態が良好で、河川による摩耗の痕跡を示しておらず、この特別な化石はより古い地層から再移動しなかった、と示唆されます。この孤立したイノシシ科の化石遺骸に、陸生哺乳類の遺骸は、B3U1区画の深さ30~40cmから回収された若い長鼻類の歯の断片で構成されます。他の発掘された化石動物相には、クロコダイルの歯1点や小柄なサメの数点の歯(おそらく、元の位置から動いているか、汽水/淡水種です)が含まれていました。少数の中間的な水によって摩耗した化石骨断片も、堆積物全体で散在して見つかり、不規則な不連続炭酸塩凝結物も発見されました。

 カリオ遺跡のベール層下部単位B内の原位置で、合計7点の剥片石器(図3のA1~A7)が回収されました(図2a~g)。人工遺物は異なる深さで、2ヶ所の異なる堆積層(第2層と第3b層)において発見されました(図3)。上述のように、1点の人工遺物(人工遺物1)は区画B1U1の現代の地表の硬化した被覆層(第2層)に埋まっていました。層序学的に最下層の標本(人工遺物6)は、区画B1U2の表面の約56cm下で、第3b層から回収されました。人工遺物はすべて軽度から重度の間M3があり、河川による移動のため力学的に端が剥離しており、これらの化石生成論的痕跡は3点の人工遺物で対照的な量の摩耗を示します。すべての石器は燵岩で作られており、関連文献の一部[14]では珪化石灰岩とも呼ばれています。この石材は自然発生の礫には豊富に存在しますが、石器は同じ河川砂岩堆積物から発掘された、改変されていない礫の大きさの岩片(燵岩/珪化石灰岩が/83.2%、碧玉8.9%、石英5.6%、火山岩2.2%)と比較してより大きいことで統計的に異なります。対比しないt検定から、技術的長さから独立して測定される特性(打撃軸に沿って測定されます)である人工遺物の最大径は、自然の礫より有意に長い(41.3±16.0mm対18.5±9.1m)、と示唆されます。同様に、両群【石器と自然の礫】の2番目に長い平均径間には油井否違いがあり、人工遺物(28.3±11.9mm)は平均的に【自然の】礫(11.9±6.5mm)より大きくなっています。これらの結果から、石器はカリオ遺跡の外で人類によって製作され、道具として使用するためにカリオ遺跡に持ち込まれた、と示唆され、これらの物質の人為的起源がさらに強調されます。また、一部もしくはすべての人工遺物が、横方向に移動する河川によって河岸から侵食されたため、見つかった層より古いかもしれません。

 剥片は硬い敲石を用いた手による打撃技術で打たれており、打撃軸に沿った長さの範囲は21.9~60.1mmです。皮層面は4点の剥片に存在し、皮層の性質から、剥離の対象となった石は地元の川底に由来した、と示唆されます。背面の剥片の痕跡の方向は、おもに一方向か、1点の事例では軸間の縮小を示します。剥片は、石核の端から2.6~19.7mmの場所での打撃によって、比較的急な打面(66.0±6.8度、6点)から打たれました。6点の破片は単一打面から打たれており、縮小中の石核の回転を示唆しています。1点の事例(人工遺物6)では、石核は回転され、剥片は隣接面から打たれ、以前の打面が除去されていました。以前の剥片は、皮層打面から急角度で打たれました。別の剥片(人工遺物5)上の打面特性から、両面の石核端から打たれた、と示唆されます。1点の人工遺物(人工遺物2)はケニアのコムベア遺跡の剥片で、より大きな剥片の腹面から除去され、その後で明らかに一方の端に沿って背面へと単面的に再加工されました。別の人工遺物(人工遺物3)では、単一打面の湾曲率半径から、より大きな剥片からも打たれた、と示唆されます。大きな剥片をより小さな剥片へと縮小することは、それ自体が加工で、2段階の縮小過程が時には、自然の燵岩の丸石を適切な大きさの道具へと縮小するのに用いられたことを示唆しています。剥片での石核の縮小や、頻繁な石核の回転や、硬い敲石破片の力学に関する理解の証拠は、道具製作のための簡単で「最小限の労力」の手法の文脈内での、専門的な技術知識を証明します。

 カリオ遺跡における人工遺物を含む堆積物の年代の制約のため、古地磁気年代測定とUS–ESR年代測定が用いられました。古地磁気年代測定については、網状河川層序と解釈される、砂質沈泥と粗い砕屑物の交互の12mの厚さの層序が、ベルー=ブルー・カルッレにおけるとUS–ESR年代測定資料の東側335mに位置する深さ1mの試掘坑を含めて、カリオ発掘遺跡付近の他の露頭と組み合わせることによって再構築されました(図4)。5点の志向性の塊の標本(Sp1~Sp5)がこの半水平層序内の4ヶ所の細粒層で採取され、ベルー層下位単位Bを表します。センカン背斜の西方に向かう西側側面に露出したベルー層下位単位Aから追加の標本3点が、その火葬の海洋性サマオリング層の上部から6点の標本が得られました。1点の標本(Sp4)は輸送中に損傷したため、それ以上の分析はできませんでした。カリオ発掘遺跡の中間の近さで収集された4点の標本はすべて、信頼性の高い逆磁極を示しました(図4)。その結果、カリオ遺跡の近くで露出しているベルー層下位単位B層序(図4)の下限年代は、773000年前頃のブリュンヌ期と松山期の間の境界より古くなるはずである、と示唆されます。層序の約130m下には、ベルー層下位単位Aの底部で採取された4点の標本が、3点の逆磁極と1点の中間的な磁極を提供しました。しかし、標本抽出された間隔のデータにおける大きな空白のため、地磁気極性の時間規模とさらに相関させることはできません。以下は本論文の図4です。
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 カリオ遺跡における人工遺物を含む層の773000年以上前の古時期年代は、第2層底部から発掘されたコルポコエルス属の下顎の2点の歯の化石(左側P⁴と左側M³)のUS–ESR年代測定によって確証されます。堆積時における歯へのウランの即時かつ変化しない拡散との仮定(EU)は、文献でその不正確さについて批判されてきました。したがって、科学的に適切な下限年代を計算できません。あるいは、ウランの拡散が急速にかつ見かけ上のウラン系列年代起きた、と仮定すると、210万年前頃の上限年代を推定できます。このように、化石の最大年代が近似され、その拡散パターンはCSUSと呼ばれます。より繊細な手法には、年代計算への包括的な統合を確実にするための、ウラン拡散分析が含まれます。拡散係数を用いてウラン吸収をモデル化する、US–ESR手法を使って、126万±22万年前とのコルポコエルス属の可能性の高い年代が推測され、M³での個体の年代は120万±18万年前、P⁴での個体の年代は143万±21万年前です(1σ)。M³象牙質における多いウラン含有量はESR線量回収に影響を及ぼし、実際の堆積年代と比較してより新しい年代をもたらすかもしれません。歯の組織における多量のウランの影響は、他のインドネシアの化石で観察されてきました[27]。この現象は高アルファ線放射の結果かもしれませんが、正確な原因は不明です。いずれにしても、この現象は一般的には、ウランがエナメル質に集中しているばあいにのみ、ESR年代測定に有害です。ウラン含有量がコルポコエルス属の歯の一部で少ない(1 ppm未満)ので、これがカリオ遺跡で問題になる可能性は低そうです。

 全体的に、US–ESRによるモデル化の結果は化石堆積物の最も正確な問題を提供し、古磁気学的結果とよく一致します。カリオ遺跡において石器が出土した堆積物は、オルドヴァイ亜期とハラミヨ亜期の間の逆磁極期間に年代的には相当する可能性が最も高く、これらの層は大まかには1787000~1070000年前頃の間に収まります、ハラミヨ亜期後の年代(99万年前以降)は関連する年代誤差を考えると完全には除外できませんが、歯の化石から得られたUS–ESRの結果は、統計的により新しい年代の可能性がきわめて低いことを示唆しています。上述のように、コルポコエルス属の下顎は第2層の底部で見つかったので、層序的には、最下層の石器が出土した地層(第3b層)の上に位置しています。したがって、年代測定された化石の126±22万年前とのモデル化されたUS–ESRの平均年代は、カリオ遺跡における人類の最古級の代理証拠について、104万年前頃の下限年代を提供し、上限年代は148万年前頃になるかもしれません。

 まとめると、本論文の調査結果から、カリオ遺跡では原位置の石器がベルー層下位単位Bの河川砂岩層に存在するので、スラウェシ島における人類の以前に最古級と報告された考古学的指標(タレプ遺跡における194000年前頃と年代測定された石器[14])よりも年代はずっと古い、と論証されます。下限年代は104万年前頃なので、今や、この大きなワラセアの島【スラウェシ島】の人類の居住は、北方のルソン島[6]に先行し、南方ではフローレス島[5]と少なくとも同等に古いかより古いかもしれません。しかし、人類が正確にはいつスラウェシ島に渡ったのかは、植民した集団の分類学的類似性と同様に、依然として解決されていない問題です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


人類の進化:スラウェシ島における初期ホミニンの居住

 スラウェシ島(Sulawesi)で発見された古代の石器は、このインドネシアの島が、隣接するフローレス島(Flores)とほぼ同じ時期、あるいはそれ以前にホミニン(hominins)によって居住されていた可能性を示している。この研究結果は、今週のNature にオープンアクセスで掲載され、古代ホミニンが東南アジア本土を越えて拡散した過程に光を当てるものである。

 これまでの研究では、インドネシアのワラセア(Wallacea)地域における最も初期のホミニンの痕跡は、フローレス島で発見された石器であり、その年代は約102万年前とされてきた。フローレス島は、スラウェシ島の数百キロ南に位置し、小柄なホミニンであるフローレス原人(Homo floresiensis;通称「ホビット」)が約5万年前まで生息していたことで知られている。一方、スラウェシ島(ワラセア最大の島)でこれまで知られていた最古の遺物は、少なくとも19万4,000年前のものであった。

 Budianto Hakim(インドネシア国家研究イノベーション庁(BRIN)〔インドネシア〕)とAdam Brum(グリフィス大学〔オーストラリア〕)らは、スラウェシ島のカリオ(Calio)から発掘された石片を分析し、その年代を104万年から148万年前と推定した。この新たな発見は、スラウェシ島がフローレス島よりも前に、未同定の古代人類によって占領されていた可能性を示す。居住者がこの島に到達した正確な時期は未だ明らかになっていないが、これは古代人類が海を越えて孤立した陸地へ渡った最古の証拠となるかもしれない。


古生物学:前期更新世のスラウェシ島のヒト族

古生物学:スラウェシ島で発見された前期更新世の石器

 今回、インドネシアのスラウェシ島で発見された石器から、少なくとも110万年前にはそこにヒト族が居住していたことが示された。さらにその年代は、「ホビット」の愛称で知られるフローレス原人(Homo floresiensis)がフローレス島に居住した時期よりも早い可能性もある。



参考文献:
Dennell RW. et al.(2014): The origins and persistence of Homo floresiensis on Flores: biogeographical and ecological perspectives. Quaternary Science Reviews, 96, 98–107.
https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2013.06.031
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Hakim C. et al.(2025): Hominins on Sulawesi during the Early Pleistocene. Nature, 646, 8084, 378–383.
https://doi.org/10.1038/s41586-025-09348-6

[2]Morwood M, and Oosterzee PV.著(2008)、馬場悠男監訳、仲村明子翻訳『ホモ・フロレシエンシス』上・下(日本放送出版協会、原書の刊行は2007年)
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[3]Dennell RW. et al.(2014): The origins and persistence of Homo floresiensis on Flores: biogeographical and ecological perspectives. Quaternary Science Reviews, 96, 98–107.
https://doi.org/10.1016/j.quascirev.2013.06.031
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[5]Brumm A. et al.(2010): Hominins on Flores, Indonesia, by one million years ago. Nature, 464, 7289, 748-752.
https://doi.org/10.1038/nature08844
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[6]Ingicco T. et al.(2018): Earliest known hominin activity in the Philippines by 709 thousand years ago. Nature, 557, 7704, 233–237.
https://doi.org/10.1038/s41586-018-0072-8
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[10]Sutikna T. et al.(2016): Revised stratigraphy and chronology for Homo floresiensis at Liang Bua in Indonesia. Nature, 532, 7599, 366–369.
https://doi.org/10.1038/nature17179
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[11]van den Bergh GD. et al.(2016): Homo floresiensis-like fossils from the early Middle Pleistocene of Flores. Nature, 534, 7606, 245–248.
https://doi.org/10.1038/nature17999
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[12]Kaifu Y. et al.(2024): Early evolution of small body size in Homo floresiensis. Nature Communications, 15, 6381.
https://doi.org/10.1038/s41467-024-50649-7
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[13]Détroit F. et al.(2019): A new species of Homo from the Late Pleistocene of the Philippines. Nature, 568, 7751, 181–186.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1067-9
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[14]van den Bergh GD. et al.(2016): Earliest hominin occupation of Sulawesi, Indonesia. Nature, 529, 7585, 208–211.
https://doi.org/10.1038/nature16448
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[15]Westaway KE. et al.(2017): An early modern human presence in Sumatra 73,000–63,000 years ago. Nature, 548, 7667, 322–325.
https://doi.org/10.1038/nature23452
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[27]Rizal Y. et al.(2020): Last appearance of Homo erectus at Ngandong, Java, 117,000–108,000 years ago. Nature, 577, 7790, 381–385.
https://doi.org/10.1038/s41586-019-1863-2
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