モラビアにおけるスラブ人の形成過程
モラビアの古代人のゲノムデータを報告した研究(Schulz et al., 2025)が公表されました。[]は本論文の参考文献の番号で、当ブログで過去に取り上げた研究のみを掲載しています。本論文は、チェコ共和国東部のモラビア地域で発見された、千年紀の人類遺骸のゲノムデータを報告しています。これらのゲノムデータから、モラビアでは千年紀半ばに人類集団の大きな遺伝的変容があったことを示しています。ヨーロッパ東方におけるスラブ人の形成過程については、大規模な人口移動を主張する見解と、在来集団の連続性を主張する見解がありましたが、モラビアでは大規模な人口移動によってスラブ人が形成されていったようです。ドイツ東部やポーランドやクロアチアの千年紀の人類遺骸のゲノムデータからも、スラブ人の形成において大規模な人口移動があった、と推測されています(Gretzinger et al., 2025)。
以下の略称は、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)、炭素(C)、CI(confidence interval、信頼区間)、MMP(Moravia Migration Period、モラビア大移動期)、MEM(Moravia Early Medieval、モラビア中世前期)です。時代区分の略称は、IA(Iron Age、鉄器時代)です。本論文で取り上げられる主要な史料は、『偽フレデガリウス年代記(Chronicle of Fredegar)』、『フルダ年代記(The Annales of Fulda)』、『東フランク年代記(East Frankish chronicles)』、『聖コンスタンティンの生涯(Life of St. Constantine)』、『スクラヴォス・マルガンセン(Sclavos Marganses)』、『モラビアのスラブ人(Moravian Slavs)』です。本論文で取り上げられる主要な文化は、プラハ・コルチャク(Prague-Korchak)文化、です。本論文で取り上げられる主要な遺跡は、モラビアではラーニ(Lány)遺跡とリビヴァ(Líbivá、略してLIB)遺跡とポハンスコ=セヴェロヴィチョドゥニ・プジェドラディ(Pohansko-Severovýchodní Předhradí)のポハンスコ(Pohansko、略してPOH)遺跡、リトアニアではマルヴェーレ(Marvele)遺跡、ロシアではイングリア(Ingria)遺跡です。
●要約
スラブ人はヨーロッパの主要な民族言語集団ですが、その形成過程は依然として議論されています。6世紀の時点で、スラブ人に属すると思われる人々はカルパチア盆地のアヴァール可汗国と、西方ではメロヴィング朝フランク帝国、南方ではバルカン半島の間の地域に居住していました。しかし、大きな人口移動を主張する説もある一方で、在来人口集団の連続性を強調する説もあり、これらの事象を説明する仮説は概念的に矛盾しています。本論文は、5~10世紀にまたがるモラビア南部の近隣の埋葬地2ヶ所から発見された18個体の高品質なゲノムデータを報告し、この期間にモラビア南部地域は9世紀にスラブ人の諸公国の中核となりました。既存のデータとは対照的に、本論文で報告される個体群は初期スラブ関連文化と直接的につながっており、そうした文化と関連する最古級の既知の土葬を含んでいます。本論文のデータは5世紀と7世紀の間の地域的連続性と矛盾する強い遺伝的変化を示唆しており、モラビア南部におけるスラブ人の拡大は人口移動によって引き起こされた、との見解を裏づけます。
●背景
スラブ人に言及している最初の歴史史料は、6世紀初頭におけるビザンツ帝国(東ローマ帝国)へのスラブ人の攻撃を記載しています。ヨーロッパ中央部では、文献(『偽フレデガリウス年代記』)に遅くとも7世紀前半以前のスラブ人の存在が記録されています。しかし、考古学的発見を帰属と結びつけることは難しいものの、考古学的証拠から、スラブ人はヨーロッパ中央部の一部にその数世代前から存在していた、と示唆されています。この過程が人々の移動に結って引き起こされたのかどうかは、長く議論されてきました。
スラブ人の出現に関する問題の取り組みでとくに難しいのは、スラブ語派の使用を記録した最古級の歴史的記録が9世紀にさかのぼるので、スラブ人の推定される出現時期より数世紀後になることです。これら最初期の境界のスラブ語文献には、スラブ語派の転写にグラゴールアルファベットをもたらした聖コンスタンティンに関する、『聖コンスタンティンの生涯』が含まれます。これらの文献の起源は、現代のチェコ共和国およびスロバキアに位置する初期スラブ系諸公国にあり、文献(たとえば、846年の『フルダ年代記』/『東フランク年代記』や、『スクラヴォス・マルガンセ』/『モラビアのスラブ人』)によると、その支配者と住民はスラブ語派言語を話しており、ヒルフォート(Hillfort)中期(800~950年頃)と関連づけられることが多くあります。モラビアでは、ヒルフォート(Hillfort)前期(680~800年頃)はプラハ・コルチャク文化の継続期で、その最初期段階は、6世紀もしくは7世紀初頭にヨーロッパのさまざまな地域に出現したプラハ型土器によって特徴づけられます。プラハ型土器の拡大をスラブ語派の拡大と関連づけて、一部の考古学者と歴史家は、通常は現在のウクライナおよびベラルーシにおけるヨーロッパ中央部外に位置づけられている、推定される故地からのスラブ語派話者の移住の連想によってスラブ人の出現を説明しました。
しかし、プラハ・コルチャク文化の初期の担い手が自ら称した民族性も話していた言語も知られておらず、それは、プラハ・コルチャク文化の初期の担い手が文書もしくは碑文を残さなかったからで、例外はラーニのルーン文字の骨となり、これは驚くべきことにスラブ語派話者人口集団ではなくゲルマン語派話者人口集団と関連づけられています。したがって、考古学的発見はスラブ人の民族性の唯一もしくは主要な指標とはなり得ず、スラブ人の拡大を裏づける具体的な歴史的証拠があるのかどうかは議論になっており、スラブ人の出現について人口連続性を強調する別の仮説の余地があります。たとえば、フローリン・クルタ(Florin Curta)氏は、ヨーロッパ中央部のスラブ人の初期集団に存在したとされるスラブ人の民族性は、ゲルマン語派話者のランゴバルド人など先住民と移民の両方を含めて単に社会的構築物かもしれず、経済的および社会的変化のためスラブ人の帰属意識へと事実上移行した、同化の過程を経可能性がある、と主張しています。より新しい集団行動理論が強調するように、この同化の過程は舌からの社会戦略を通じて起きたかもしれません。しかし、提案されているすべての言説は議論になっており、政治的および国家主義的偏りが解釈に影響することは多くあります。
遺伝的データを用いたいくつかの試みが、スラブ人の出現には人口移動が伴っていたのかどうか、という問題に取り組むために行なわれてきました。しかし、現代ヨーロッパ人における遺伝的差異の研究は、一般的にヨーロッパ人集団間の解像度の不足と遺伝的類似性のため、依然として決定的ではありません。ハプロタイプにの基づく手法によって検出力が得られるかもしれず、この手法は地理的距離によって与曽基されるよりもスラブ人集団間の遺伝的類似性がずっと高いことを明らかにしました。これは当初、共通の遺伝的起源の結果として解釈され、移住事象を裏づけましたが、近い過去の小さな有効人口規模もしくはその両方【移住事象と近い過去の小さな有効人口規模】にも起因するかもしれません。
古代DNAを用いた既存の少ない研究も、反対の結論に達しました。母系の遺伝子標識であるミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく詩を気の研究は、青銅器時代から現在までのヨーロッパ中央部における遺伝的連続性を支持しましたが、ゲノム標的濃縮データはヴォルガ川とオカ川の河間地域における鉄器時代と中世との間の人口置換を示唆しました[45]。ずっと大きな地理的規模ですが、ローマ期から中世にまたがる時間勾配のゲノム標的濃縮データも、バルカン半島における5世紀以前の標本と8世紀以降の標本間の顕著な遺伝的変化を明らかにしました。しかし、この結果は完全な置換とは一致しませんでした。最後に、現代のポーランドからの大規模な標本に基づく最近のゲノム研究[47]も、鉄器時代と中世の人口集団間のかなり強い遺伝的差異を見つけ、両集団【鉄器時代集団と中世集団】における同様のゲノム構成の個体群の存在から、その研究では、これらの時代の間には顕著な遺伝的連続性があった、と結論づけられることになりました。しかし、その研究[47]では、「これらのデータに基づくと、中世もしくはその後のヨーロッパ東部からの追加の移住を除外できない」、と認められています。
古代DNAを用いてスラブ人の出現に取り組むさいの課題は、プラハ・コルチャク文化を含めて初期スラブ文化と関連する個体群が、主要な葬送儀礼としてほぼ火葬を用いており、最も関連性の高い期間について標本抽出の空白が生じていることです。たとえば、ポーランドの研究[47]における中世最初期の標本の年代は10世紀頃で、その後の過程もそうした標本の遺伝的構成に寄与したことを除外するのが困難になっています。バルカン半島の研究における一部のヨーロッパ中央部の標本の年代は8世紀頃ですが[46]、これらの標本にはプラハ・コルチャク文化を示唆する考古学的背景が欠けています。
標本抽出における時間的空白を狭め、スラブ人の地理的に多様である可能性が高いゲノム的視点を拡大するために、本論文は、9世紀のおそらくモラビアの最初のスラブ人諸公国の中核地域に位置する、リビヴァとポハンスコの2ヶ所の埋葬地の個体群の高品質な全ゲノムデータを報告します(図1)。この2ヶ所の遺跡は徒歩1時間の距離内にあり、大移動期および中世前期のモラビア南部の社会文化的背景において異なる役割を果たしました。以下は本論文の図1です。
多文化のリビヴァでは、土葬が考古学的には5世紀と関連していたのに対して、土坑墓や竪穴住居やわずかな集落墓の年代は6/7世紀~9世紀の間となります。重要なことに、リビヴァ遺跡は大移動期には貧しくて在来で一時的ではない人口集団の残余と関連づけられており、これは短期の人口移動は伝統的に関連づけられているランゴバルド期の多くの6世紀の遺跡とは異なります。
対照的に、ポハンスコ遺跡はモラビアのスラブ諸公国における重要な戦略的役割の要塞化した集落で、6世紀以降人々が居住しており、中世前期最初期の特徴の一つで見つかった新生児の埋葬(標本PJP010、H205号墓)の年代は7~8世紀で、9~10世紀の標本の期間には、この地域で境界のスラブ語派言語で書かれた歴史的記録があります。
●標本
低深度全ゲノム配列決定(中央値の深度は0.0008倍)を用いて、ポハンスコ遺跡およびリビヴァ遺跡の全54個体が検査され(図1)、そのうち22個体には真正の内在性遺伝物質がありました。それらのうち、社会構造の断面を表す17点の標本が、全ゲノム配列決定に選択されました。より悪い保存状態の残りの標本のうち、とくに興味深いのは標本PJP010で、これはプラハ・コルチャク文化のひじょうに遅い段階、もしくは考古学的に連続するヒルフォート前期と関連する最古級の既知の土葬で、その内在性DNA含有量はわずか1.69%です。この標本について、1233013ヶ所のSNPが捕獲され(124万捕獲[64])、124万ヶ所の部位で0.2163倍の網羅率が得られました。
ゲノムデータが生成された利用可能な全標本で、¹⁴C年代測定が行なわれました。墓の考古学的評価に基づいて予測されたように、ほとんどのリビヴァ遺跡の標本の年代は大移動期(5世紀)で、コラーゲンの保存状態のため年代が得られなかったPOH39を除いて、すべてのポハンスコ遺跡の標本の年代は中世前期(7~10世紀)でした。しかし、リビヴァ遺跡の標本のうち関連する副葬品がなかった2点(LIB7とLIB11)も、年代は中世前期でした。注目すべきことに、LIB11の年代は7~8世紀だったので、プラハ・コルチャク文化のひじょうに遅い段階、もしくは考古学的に連続するヒルフォート前期と関連する年代的に最古級の土葬で、ポハンスコ遺跡の個体PJP010と同様の年代を示します。
全ゲノム配列決定については、複雑さを最大化するために複数のライブラリ戦略が使用され[65]、7.4倍の中央値の深度(5.1~9.4倍の範囲)が得られました。全標本は、古代DNAに特徴的な死後損傷パターンと低い汚染率(2%未満)を示しました。同じライブラリの配列決定実行内および異なる配列決定内の完全性は、主成分分析で確証されました。空白制御はすべての実験段階で標本とともに処理され、その配列決定の結果は汚染がないことを証明しました。
BeXYで推測された遺伝学的性別は、POH39を除いて全標本で考古学的分類と一致し、POH39は保存状態が悪く断片的な骨格資料に基づいて予備的に女性と分類されましたが、遺伝学的性別決定はXY核型を示唆しています。異数体の性別核型もしくは常染色体トリソミーは見つかりませんでした(全事例において事後確率は0.0001未満で、最高の事後確率は個体POH28の核型XYYでの0.00001でした)。
●モラビア南部地域における遺伝的変化
本論文の全ゲノム標本の相対的な高深度によって、ハプロタイプに基づく手法であるChromoPainterV2での、大規模な現代人の参照パネルに対する遺伝的組成の調査が可能となりました。研究対象地域の大移動期の標本と中世前期の標本との間での、強い遺伝的差異の証拠が見つかりました。これらの集団はそれぞれ、MMP(モラビア大移動期)およびMEM(モラビア中世前期)と呼ばれます。樹状図およびPCA(図2A)のどちらかとしての塊の長さの行列(図2C)およびその視覚化で見られるように、MMP標本は多様で、地中海西部(LIB4とLIB5)からスカンジナビア半島(LIB2)への現代の人口集団の勾配に沿って広がっています。対照的に、MEM標本は一貫したクラスタ(まとまり)を形成し、ポーランド人やリトアニア人などヨーロッパ北西部現代人と最も類似しています。注目すべきことに、このクラスタには年代が中世前期でもある標本2点(LIB7とLIB11)が含まれており、本論文の¹⁴Cの結果が確証されます。MEM標本の均質性についてさらに検証するために、POH44とPOH28の間の¹⁴C年代における最大の空白に基づいて、MEM標本が初期集団(PJP010、LIB7、LIB11、POH11、POH44)と後期集団(POH3、POH13、POH27、POH28、POH36、POH39、POH40、POH41)に区別されました(POH39は考古学的年代測定に基づいて分類されました)。外群人口集団の大規模な一式でADMIXTOOLSのqpWaveを用いると、MEM内まこれら2期間の集団は区別できない、と示唆されました。以下は本論文の図2です。
ヒト起源チップで遺伝子型決定された現代人2280個体に投影されたPCA[69、70]によって、乳児標本PJP010を含めることができました(図2B)。このPCAでは、LIB7とLIB11は他のMEM標本でクラスタ化し(まとまり)、乳児標本PJP010も同様ですが、このクラスタは低い検出力のためさほど明確ではなく、部分的に重複しています。しかし、いくつかの追加の分析はMMPとMEMの標本間の遺伝的差異を確証し、それは、(1)現在仁の参照による情報がなく、遺伝子型尤度で実行されたPCAでは、明確な(ただ、散在している)クラスタを形成し、(2)乳児標本PJP010はMMP標本と比較して、MEM標本の残りと固有の遺伝子流動を共有しており、(3)1000点のゲノム標本での教師有ADMIXTURE分析実行は、MMP標本では欠けているMEM標本でのフィンランド人構成要素を推測し、(4)MMP標本とMEM標本の間の単純な連続性は、この2群がもMEM標本を上述のように前期群と後期群に区分してさえも単系統群を形成しないので、ADMIXTOOLSのqpWaveでの単系統群性検証によって却下できます。
次に、Relate第1.1版でゲノム規模の系図が推測され、全標本について枝長と変異年代と過去間人口規模を同時に推定されました。MMP標本とMEM標本で推測された人口統計学的軌跡はより遠い過去ではひじょうに類似しているものの、紀元前6000年頃に分岐し、その後には、MMP標本の軌跡は単調に増加したのに対して、MEM標本は人口減少によって特徴づけられます(図3)。Relateの単純な分岐モデルがこれらの人口集団間の複雑な関係を反映している可能性は低そうですが、この結果は、これらの人口集団の歴史が異なる、との見解を裏づけ、連続性の単純なモデルを却下します。MMP標本とMEM標本の個体内異型接合性で違いは検出されず、たとえば、MMP標本についてのより大きな人口規模推定値は、異なる祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の個体を近い過去に取り入れた結果かもしれません(たとえば、LIB2)。しかし、最長のROHがMEMの標本2点(POH11とPOH13)で推測され、ROHの増加した唯一のMMP標本がLIB2だったことに要注意です。以下は本論文の図3です。
●他の人口集団との関係
5世紀のMMP標本はPCAでは例外的な多様性を示し、地中海からスカンジナビア半島までの現代の人口集団の全勾配にまたがっています(図2)。祖先系統の同様の分布は、イタリア北部とハンガリーとスロバキアの5世紀および6世紀の標本で以前に報告されているので[74~76]、これは当時のより大きな地域におけるゲルマン人集落と関連した人口集団の遺伝的構成を表しているかもしれません。しかし、qpWaveはMMPと他の5世紀および6世紀の人口集団の単系統群を裏づけず、観察された多様性につながった過程は、近い過去だったか、時空間的に異なっていたか、社会的慣行によって維持されていた、と示唆されます[74、75]。しかし、6世紀のランゴバルド人の標本もMEM標本と単系統群を形成せず、ヨーロッパ東部構成要素が欠けています。
MMP標本のみではMEM標本の祖先系統にとって適切な代理ではないので、f₄統計とqpAdmモデル化を用いて、祖先系統のさらなる知見が得られました。PCA(図2B)では、MEM標本はヨーロッパ北東部の標本とクラスタ化します(まとまります)。これと一致して、f₄(外群、検証;MEM、MMP)検定は、MMPに関して、おもにヨーロッパ北部および東部の人口集団間でMEMと共有されている遺伝的浮動を示唆します。
その結果、MEMについて却下されなかった(つまり、p値が0.05以上)唯一のモデルには、ヨーロッパ東部の先駆者(たとえば、ロシア_イングリア_IA、ポーランド_ローマ期、リトアニア_マルヴェーレ_ローマ期、ポーランド_ヴァイキング期、スウェーデン_ヴァイキング期、ロシア_ヴァイキング期、ノルウェー_ヴァイキング期、エストニア_IA)が含まれているので、5世紀と7世紀の間にモラビアへとかなりの遺伝的流入があったことを示唆しています。qpAdmモデルの一部もMMP標本を含んでおり、たとえば、51.8%(MMP+リトアニア_マルヴェーレ_ローマ期、MMPの寄与が最も高い許容モデル)ですが、このMMPの寄与が、ヨーロッパ北東部の古代の参照人口集団の少なさに起因する乱れとして容易に発生する可能性に要注意です。じっさい、MEMの真の供給源人口集団には、リトアニア_マルヴェーレ_ローマ期を含めて利用可能な供給源人口集団の多くで過小評価されている、MMPと共有されているいくらかの祖先系統があるのは、ひじょうにありそうなことです。この解釈と一致して、MMPはさらに東方の中世前期標本、たとえば、ヴォルガ川・オカ川地域の標本[45]の可能性のある供給源でもある、と分かりました。したがって、MMPからMEMへの真の寄与は51.8%よりずっと小さく、全面的な置換の可能性を完全には除外できません。
興味深いことに、教師有ADMIXTUREを用いると、すべての実行されたPCAでヨーロッパ西部人口集団のより近くに位置するMEMの標本2点(図2)、つまりPOH3(1.67%)とPOH39(4.88%)で、アジア東部祖先系統の小さな構成要素が推測されました。アジア東部祖先系統を有するさまざまなアヴァール期集団[77、78]と比較すると、f₄統計では確証されませんでしたが、ハプロタイプに基づく混合推測手法であるMOSAIC によって推測されたMEM標本の選好される2方向混合モデルも、476~732年(95%CIで5.7~17.9世代前)にさかのぼることができる、1.5%のアジア中央部/東部構成要素を推測しました。大移動期のこの時期におけるヨーロッパへのアジア東部草原地帯の人々の流入は詳しく説明されており[たとえば、77]、研究対象の遺跡はターヤ(Thaya)川によって示されるアヴァール可汗国の推定される北方周縁部外に位置していますが、歴史史料によって証明されているように(偽フレデガリウス年代記、この境界の北側でのアヴァールの帯の付属品、およびこの境界の南側でスラブ文化に典型的に火葬埋葬地の複数の発見があります)その境界は絶対的ではありませんでした。スラブ人がアヴァールの支配下で拡大し、この地域へのアヴァールの到来前に緊密に接触していた、との提案さえありましたが、その可能性は、とくにアヴァール期の上流階級の事例では可能性が低そうで、そりは、アジア東部祖先系統が見つかったのは数個体だけで、最初期の標本(LIB11、LIB7、PJP010)では見つからず、アジア東部と関連する片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)が見つからなかったからです。
最後に、ハプロタイプに基づく混合推測手法であるMOSAICを用いて、現代のスラブ人集団との本論文のMEM標本の関係が調べられました。事例として現代のベラルーシ人を用いると、MEM標本のみでは不適切な代理で、現代のスラブ人集団は追加のより南方の供給源からの祖先系統に由来する可能性が高い、と分かりました。
●考察
本論文は、チェコ共和国の現代のモラビアの新たな古代ゲノム標本を報告します。この地域における、5世紀と8世紀初期の間の大きな遺伝的置換の証拠が見つかりました。この置換は新たな考古学的文化表現の到来と一致しており、それはこの地域ではプラハ・コルチャク文化と呼ばれ、本論文の7~8世紀の標本PJP010は、直接的に関連する考古学的発見に基づいて、ラハ・コルチャクの後期に分類できます。したがって、本論文で提示されたデータは、物質文化のこの変化が移動してきた人々によって拡大下、との見解を裏づけます。供給源人口集団の同時代の標本は利用可能ではないか、まだ特定されていないので、本論文で報告された中世前期標本への移住人口集団対在人口集団の寄与や、結婚パターン[82]の違いや、急速に展開したのかもしくは数世代を要したのかなど、正確な社会人口統計学的過程の定量化は依然として困難です。しかし、本論文の推定から、移住してきた人口集団の寄与は大きい、と示唆され、関連する参照人口集団のデータの少なさを考えると、いくつかの可能な説明の一つを表してはいるものの、この地域における事実上の完全な人口置換を含む想定さえ除外できないことに要注意です。
プラハ・コルチャク文化はスラブ語派話者の拡大と直接的に結びつけられることが多いので、本論文の調査結果を、スラブ語派がヨーロッパ中央部へと移住してきた人々によってもたらされた、と解釈したくなります。しかし、プラハ・コルチャク文化の初期の担い手によって話されていた言語は、この地域と関連している最初期の文献が9世紀であるため、ゲルマン語派のルーン文字が刻まれた6世紀の動物の骨を除いて、依然として不明であることへの注意が重要です。しかし、本論文のデータは、7~8世紀にさかのぼる本論文の最初期の標本(PJP010とLIB11)から、9世紀の最新の標本まで、研究対象の小地域における遺伝的連続性を裏づけており、これは物質文化からも明らかな連続です。7世紀以降のこの観察された連続性を考えると、先行する遺伝的および文化的変化をこの地域におけるスラブ語派話者の到来として解釈することは妥当なようです。
スラブ人の出現に人々の移住が伴っていたのかどうかは、長く議論されてきました。本論文の結果は、在来の発展との仮説と一致せず、むしろ、移住が少なくともモラビア南部の研究対象の地域では大きかったことを示唆しています。中世前期遺伝子プールへの侵入してきた人々の大きな寄与は、他の最近のゲノム研究[45~47]によって裏づけられていますが、推定された寄与は一致しませんでした。局所的規模では、ヴォルガ川とオカ川の河間地域のデータは、鉄器時代と中世の間のその地域における人口置換を示唆しました[45]。地域的規模では、現代のポーランドの鉄器時代と中世の標本は、連続性を裏づける、と解釈されました[47]。ヨーロッパ南東部の大規模地域では、顕著な遺伝的変化が5世紀以前の標本と8世紀以降の標本との間で報告され、人々の大きな流入ではあるものの、完全ではなかった置換が示唆されました[46]。
重要なのは、本論文で提示された標本とは対照的に、以前に報告されたほとんどの標本は、スラブ関連の考古学的背景(たとえば、プラハ・コルチャク文化もしくはヒルフォート前期)が欠けているか、中世後期(たとえば10世紀)で、その祖先系統が近隣人口集団からの遺伝子流動など追加の無関係の事象によって形成されたかもしれないことです。推定される流入で見られる不一致の代替的な説明として本論文は、ほとんどの地域における大きな人口変化や、それに続く以前の在来人口集団の残りの個体の同化や、近隣地域(たとえば、ランゴバルド人もしくはフランク人と関連する地域)からの移動や、その両方の組み合わせを提案します。したがって、初期のスラブ人集団は、その後の数世紀よりずっと異質になったかもしれず、これは、その後の期間における観察された祖先系統の差異、およびバルカン半島人などその後の期間の標本における不完全な置換でしかなかった調査結果[46]と一致します。現時点で利用可能な標本では、5世紀と7世紀の間の局所的な人口統計学的過程の徹底的な解明はできず、それは部分的には、プラハ・コルチャク文化の初期の担い手が主要な埋葬儀式として火葬を使用したためですが、既存の標本が地理的に広く数は少ないためでもあり、本論文で報告されたような局所的な年代横断区は、この動的な期間への視点を提供します。
●まとめ
モラビア南部の個体の新たなゲノムデータは、5世紀と8世紀の間のこの地域における大きな遺伝的置換を証明します。この遺伝的置換はこの地域における初期スラブ文化関連共同体の到来と一致しているようで、厳格な局所的連続性のモデルとは矛盾します。代わりにこの知見は、観察された文化的変化は、本論文で示唆されるように、ヨーロッパ北東部的な遺伝的祖先系統を有していた新参者による顕著な人口置換が伴っていた、との仮説を裏づけます。これらの移住者が話していた言語は依然として不明ですが、局所的水準での遺伝的および文化的連続性は、これらの共同体を文献で言及されているモラビアのスラブ人と考えられる、ヒルフォート前期人口集団と結びつけます。
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https://doi.org/10.1038/s41586-024-08418-5
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以下の略称は、SNP(Single Nucleotide Polymorphism、一塩基多型)、PCA(principal component analysis、主成分分析)、ROH(runs of homozygosity、同型接合連続領域)、炭素(C)、CI(confidence interval、信頼区間)、MMP(Moravia Migration Period、モラビア大移動期)、MEM(Moravia Early Medieval、モラビア中世前期)です。時代区分の略称は、IA(Iron Age、鉄器時代)です。本論文で取り上げられる主要な史料は、『偽フレデガリウス年代記(Chronicle of Fredegar)』、『フルダ年代記(The Annales of Fulda)』、『東フランク年代記(East Frankish chronicles)』、『聖コンスタンティンの生涯(Life of St. Constantine)』、『スクラヴォス・マルガンセン(Sclavos Marganses)』、『モラビアのスラブ人(Moravian Slavs)』です。本論文で取り上げられる主要な文化は、プラハ・コルチャク(Prague-Korchak)文化、です。本論文で取り上げられる主要な遺跡は、モラビアではラーニ(Lány)遺跡とリビヴァ(Líbivá、略してLIB)遺跡とポハンスコ=セヴェロヴィチョドゥニ・プジェドラディ(Pohansko-Severovýchodní Předhradí)のポハンスコ(Pohansko、略してPOH)遺跡、リトアニアではマルヴェーレ(Marvele)遺跡、ロシアではイングリア(Ingria)遺跡です。
●要約
スラブ人はヨーロッパの主要な民族言語集団ですが、その形成過程は依然として議論されています。6世紀の時点で、スラブ人に属すると思われる人々はカルパチア盆地のアヴァール可汗国と、西方ではメロヴィング朝フランク帝国、南方ではバルカン半島の間の地域に居住していました。しかし、大きな人口移動を主張する説もある一方で、在来人口集団の連続性を強調する説もあり、これらの事象を説明する仮説は概念的に矛盾しています。本論文は、5~10世紀にまたがるモラビア南部の近隣の埋葬地2ヶ所から発見された18個体の高品質なゲノムデータを報告し、この期間にモラビア南部地域は9世紀にスラブ人の諸公国の中核となりました。既存のデータとは対照的に、本論文で報告される個体群は初期スラブ関連文化と直接的につながっており、そうした文化と関連する最古級の既知の土葬を含んでいます。本論文のデータは5世紀と7世紀の間の地域的連続性と矛盾する強い遺伝的変化を示唆しており、モラビア南部におけるスラブ人の拡大は人口移動によって引き起こされた、との見解を裏づけます。
●背景
スラブ人に言及している最初の歴史史料は、6世紀初頭におけるビザンツ帝国(東ローマ帝国)へのスラブ人の攻撃を記載しています。ヨーロッパ中央部では、文献(『偽フレデガリウス年代記』)に遅くとも7世紀前半以前のスラブ人の存在が記録されています。しかし、考古学的発見を帰属と結びつけることは難しいものの、考古学的証拠から、スラブ人はヨーロッパ中央部の一部にその数世代前から存在していた、と示唆されています。この過程が人々の移動に結って引き起こされたのかどうかは、長く議論されてきました。
スラブ人の出現に関する問題の取り組みでとくに難しいのは、スラブ語派の使用を記録した最古級の歴史的記録が9世紀にさかのぼるので、スラブ人の推定される出現時期より数世紀後になることです。これら最初期の境界のスラブ語文献には、スラブ語派の転写にグラゴールアルファベットをもたらした聖コンスタンティンに関する、『聖コンスタンティンの生涯』が含まれます。これらの文献の起源は、現代のチェコ共和国およびスロバキアに位置する初期スラブ系諸公国にあり、文献(たとえば、846年の『フルダ年代記』/『東フランク年代記』や、『スクラヴォス・マルガンセ』/『モラビアのスラブ人』)によると、その支配者と住民はスラブ語派言語を話しており、ヒルフォート(Hillfort)中期(800~950年頃)と関連づけられることが多くあります。モラビアでは、ヒルフォート(Hillfort)前期(680~800年頃)はプラハ・コルチャク文化の継続期で、その最初期段階は、6世紀もしくは7世紀初頭にヨーロッパのさまざまな地域に出現したプラハ型土器によって特徴づけられます。プラハ型土器の拡大をスラブ語派の拡大と関連づけて、一部の考古学者と歴史家は、通常は現在のウクライナおよびベラルーシにおけるヨーロッパ中央部外に位置づけられている、推定される故地からのスラブ語派話者の移住の連想によってスラブ人の出現を説明しました。
しかし、プラハ・コルチャク文化の初期の担い手が自ら称した民族性も話していた言語も知られておらず、それは、プラハ・コルチャク文化の初期の担い手が文書もしくは碑文を残さなかったからで、例外はラーニのルーン文字の骨となり、これは驚くべきことにスラブ語派話者人口集団ではなくゲルマン語派話者人口集団と関連づけられています。したがって、考古学的発見はスラブ人の民族性の唯一もしくは主要な指標とはなり得ず、スラブ人の拡大を裏づける具体的な歴史的証拠があるのかどうかは議論になっており、スラブ人の出現について人口連続性を強調する別の仮説の余地があります。たとえば、フローリン・クルタ(Florin Curta)氏は、ヨーロッパ中央部のスラブ人の初期集団に存在したとされるスラブ人の民族性は、ゲルマン語派話者のランゴバルド人など先住民と移民の両方を含めて単に社会的構築物かもしれず、経済的および社会的変化のためスラブ人の帰属意識へと事実上移行した、同化の過程を経可能性がある、と主張しています。より新しい集団行動理論が強調するように、この同化の過程は舌からの社会戦略を通じて起きたかもしれません。しかし、提案されているすべての言説は議論になっており、政治的および国家主義的偏りが解釈に影響することは多くあります。
遺伝的データを用いたいくつかの試みが、スラブ人の出現には人口移動が伴っていたのかどうか、という問題に取り組むために行なわれてきました。しかし、現代ヨーロッパ人における遺伝的差異の研究は、一般的にヨーロッパ人集団間の解像度の不足と遺伝的類似性のため、依然として決定的ではありません。ハプロタイプにの基づく手法によって検出力が得られるかもしれず、この手法は地理的距離によって与曽基されるよりもスラブ人集団間の遺伝的類似性がずっと高いことを明らかにしました。これは当初、共通の遺伝的起源の結果として解釈され、移住事象を裏づけましたが、近い過去の小さな有効人口規模もしくはその両方【移住事象と近い過去の小さな有効人口規模】にも起因するかもしれません。
古代DNAを用いた既存の少ない研究も、反対の結論に達しました。母系の遺伝子標識であるミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく詩を気の研究は、青銅器時代から現在までのヨーロッパ中央部における遺伝的連続性を支持しましたが、ゲノム標的濃縮データはヴォルガ川とオカ川の河間地域における鉄器時代と中世との間の人口置換を示唆しました[45]。ずっと大きな地理的規模ですが、ローマ期から中世にまたがる時間勾配のゲノム標的濃縮データも、バルカン半島における5世紀以前の標本と8世紀以降の標本間の顕著な遺伝的変化を明らかにしました。しかし、この結果は完全な置換とは一致しませんでした。最後に、現代のポーランドからの大規模な標本に基づく最近のゲノム研究[47]も、鉄器時代と中世の人口集団間のかなり強い遺伝的差異を見つけ、両集団【鉄器時代集団と中世集団】における同様のゲノム構成の個体群の存在から、その研究では、これらの時代の間には顕著な遺伝的連続性があった、と結論づけられることになりました。しかし、その研究[47]では、「これらのデータに基づくと、中世もしくはその後のヨーロッパ東部からの追加の移住を除外できない」、と認められています。
古代DNAを用いてスラブ人の出現に取り組むさいの課題は、プラハ・コルチャク文化を含めて初期スラブ文化と関連する個体群が、主要な葬送儀礼としてほぼ火葬を用いており、最も関連性の高い期間について標本抽出の空白が生じていることです。たとえば、ポーランドの研究[47]における中世最初期の標本の年代は10世紀頃で、その後の過程もそうした標本の遺伝的構成に寄与したことを除外するのが困難になっています。バルカン半島の研究における一部のヨーロッパ中央部の標本の年代は8世紀頃ですが[46]、これらの標本にはプラハ・コルチャク文化を示唆する考古学的背景が欠けています。
標本抽出における時間的空白を狭め、スラブ人の地理的に多様である可能性が高いゲノム的視点を拡大するために、本論文は、9世紀のおそらくモラビアの最初のスラブ人諸公国の中核地域に位置する、リビヴァとポハンスコの2ヶ所の埋葬地の個体群の高品質な全ゲノムデータを報告します(図1)。この2ヶ所の遺跡は徒歩1時間の距離内にあり、大移動期および中世前期のモラビア南部の社会文化的背景において異なる役割を果たしました。以下は本論文の図1です。
多文化のリビヴァでは、土葬が考古学的には5世紀と関連していたのに対して、土坑墓や竪穴住居やわずかな集落墓の年代は6/7世紀~9世紀の間となります。重要なことに、リビヴァ遺跡は大移動期には貧しくて在来で一時的ではない人口集団の残余と関連づけられており、これは短期の人口移動は伝統的に関連づけられているランゴバルド期の多くの6世紀の遺跡とは異なります。
対照的に、ポハンスコ遺跡はモラビアのスラブ諸公国における重要な戦略的役割の要塞化した集落で、6世紀以降人々が居住しており、中世前期最初期の特徴の一つで見つかった新生児の埋葬(標本PJP010、H205号墓)の年代は7~8世紀で、9~10世紀の標本の期間には、この地域で境界のスラブ語派言語で書かれた歴史的記録があります。
●標本
低深度全ゲノム配列決定(中央値の深度は0.0008倍)を用いて、ポハンスコ遺跡およびリビヴァ遺跡の全54個体が検査され(図1)、そのうち22個体には真正の内在性遺伝物質がありました。それらのうち、社会構造の断面を表す17点の標本が、全ゲノム配列決定に選択されました。より悪い保存状態の残りの標本のうち、とくに興味深いのは標本PJP010で、これはプラハ・コルチャク文化のひじょうに遅い段階、もしくは考古学的に連続するヒルフォート前期と関連する最古級の既知の土葬で、その内在性DNA含有量はわずか1.69%です。この標本について、1233013ヶ所のSNPが捕獲され(124万捕獲[64])、124万ヶ所の部位で0.2163倍の網羅率が得られました。
ゲノムデータが生成された利用可能な全標本で、¹⁴C年代測定が行なわれました。墓の考古学的評価に基づいて予測されたように、ほとんどのリビヴァ遺跡の標本の年代は大移動期(5世紀)で、コラーゲンの保存状態のため年代が得られなかったPOH39を除いて、すべてのポハンスコ遺跡の標本の年代は中世前期(7~10世紀)でした。しかし、リビヴァ遺跡の標本のうち関連する副葬品がなかった2点(LIB7とLIB11)も、年代は中世前期でした。注目すべきことに、LIB11の年代は7~8世紀だったので、プラハ・コルチャク文化のひじょうに遅い段階、もしくは考古学的に連続するヒルフォート前期と関連する年代的に最古級の土葬で、ポハンスコ遺跡の個体PJP010と同様の年代を示します。
全ゲノム配列決定については、複雑さを最大化するために複数のライブラリ戦略が使用され[65]、7.4倍の中央値の深度(5.1~9.4倍の範囲)が得られました。全標本は、古代DNAに特徴的な死後損傷パターンと低い汚染率(2%未満)を示しました。同じライブラリの配列決定実行内および異なる配列決定内の完全性は、主成分分析で確証されました。空白制御はすべての実験段階で標本とともに処理され、その配列決定の結果は汚染がないことを証明しました。
BeXYで推測された遺伝学的性別は、POH39を除いて全標本で考古学的分類と一致し、POH39は保存状態が悪く断片的な骨格資料に基づいて予備的に女性と分類されましたが、遺伝学的性別決定はXY核型を示唆しています。異数体の性別核型もしくは常染色体トリソミーは見つかりませんでした(全事例において事後確率は0.0001未満で、最高の事後確率は個体POH28の核型XYYでの0.00001でした)。
●モラビア南部地域における遺伝的変化
本論文の全ゲノム標本の相対的な高深度によって、ハプロタイプに基づく手法であるChromoPainterV2での、大規模な現代人の参照パネルに対する遺伝的組成の調査が可能となりました。研究対象地域の大移動期の標本と中世前期の標本との間での、強い遺伝的差異の証拠が見つかりました。これらの集団はそれぞれ、MMP(モラビア大移動期)およびMEM(モラビア中世前期)と呼ばれます。樹状図およびPCA(図2A)のどちらかとしての塊の長さの行列(図2C)およびその視覚化で見られるように、MMP標本は多様で、地中海西部(LIB4とLIB5)からスカンジナビア半島(LIB2)への現代の人口集団の勾配に沿って広がっています。対照的に、MEM標本は一貫したクラスタ(まとまり)を形成し、ポーランド人やリトアニア人などヨーロッパ北西部現代人と最も類似しています。注目すべきことに、このクラスタには年代が中世前期でもある標本2点(LIB7とLIB11)が含まれており、本論文の¹⁴Cの結果が確証されます。MEM標本の均質性についてさらに検証するために、POH44とPOH28の間の¹⁴C年代における最大の空白に基づいて、MEM標本が初期集団(PJP010、LIB7、LIB11、POH11、POH44)と後期集団(POH3、POH13、POH27、POH28、POH36、POH39、POH40、POH41)に区別されました(POH39は考古学的年代測定に基づいて分類されました)。外群人口集団の大規模な一式でADMIXTOOLSのqpWaveを用いると、MEM内まこれら2期間の集団は区別できない、と示唆されました。以下は本論文の図2です。
ヒト起源チップで遺伝子型決定された現代人2280個体に投影されたPCA[69、70]によって、乳児標本PJP010を含めることができました(図2B)。このPCAでは、LIB7とLIB11は他のMEM標本でクラスタ化し(まとまり)、乳児標本PJP010も同様ですが、このクラスタは低い検出力のためさほど明確ではなく、部分的に重複しています。しかし、いくつかの追加の分析はMMPとMEMの標本間の遺伝的差異を確証し、それは、(1)現在仁の参照による情報がなく、遺伝子型尤度で実行されたPCAでは、明確な(ただ、散在している)クラスタを形成し、(2)乳児標本PJP010はMMP標本と比較して、MEM標本の残りと固有の遺伝子流動を共有しており、(3)1000点のゲノム標本での教師有ADMIXTURE分析実行は、MMP標本では欠けているMEM標本でのフィンランド人構成要素を推測し、(4)MMP標本とMEM標本の間の単純な連続性は、この2群がもMEM標本を上述のように前期群と後期群に区分してさえも単系統群を形成しないので、ADMIXTOOLSのqpWaveでの単系統群性検証によって却下できます。
次に、Relate第1.1版でゲノム規模の系図が推測され、全標本について枝長と変異年代と過去間人口規模を同時に推定されました。MMP標本とMEM標本で推測された人口統計学的軌跡はより遠い過去ではひじょうに類似しているものの、紀元前6000年頃に分岐し、その後には、MMP標本の軌跡は単調に増加したのに対して、MEM標本は人口減少によって特徴づけられます(図3)。Relateの単純な分岐モデルがこれらの人口集団間の複雑な関係を反映している可能性は低そうですが、この結果は、これらの人口集団の歴史が異なる、との見解を裏づけ、連続性の単純なモデルを却下します。MMP標本とMEM標本の個体内異型接合性で違いは検出されず、たとえば、MMP標本についてのより大きな人口規模推定値は、異なる祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の個体を近い過去に取り入れた結果かもしれません(たとえば、LIB2)。しかし、最長のROHがMEMの標本2点(POH11とPOH13)で推測され、ROHの増加した唯一のMMP標本がLIB2だったことに要注意です。以下は本論文の図3です。
●他の人口集団との関係
5世紀のMMP標本はPCAでは例外的な多様性を示し、地中海からスカンジナビア半島までの現代の人口集団の全勾配にまたがっています(図2)。祖先系統の同様の分布は、イタリア北部とハンガリーとスロバキアの5世紀および6世紀の標本で以前に報告されているので[74~76]、これは当時のより大きな地域におけるゲルマン人集落と関連した人口集団の遺伝的構成を表しているかもしれません。しかし、qpWaveはMMPと他の5世紀および6世紀の人口集団の単系統群を裏づけず、観察された多様性につながった過程は、近い過去だったか、時空間的に異なっていたか、社会的慣行によって維持されていた、と示唆されます[74、75]。しかし、6世紀のランゴバルド人の標本もMEM標本と単系統群を形成せず、ヨーロッパ東部構成要素が欠けています。
MMP標本のみではMEM標本の祖先系統にとって適切な代理ではないので、f₄統計とqpAdmモデル化を用いて、祖先系統のさらなる知見が得られました。PCA(図2B)では、MEM標本はヨーロッパ北東部の標本とクラスタ化します(まとまります)。これと一致して、f₄(外群、検証;MEM、MMP)検定は、MMPに関して、おもにヨーロッパ北部および東部の人口集団間でMEMと共有されている遺伝的浮動を示唆します。
その結果、MEMについて却下されなかった(つまり、p値が0.05以上)唯一のモデルには、ヨーロッパ東部の先駆者(たとえば、ロシア_イングリア_IA、ポーランド_ローマ期、リトアニア_マルヴェーレ_ローマ期、ポーランド_ヴァイキング期、スウェーデン_ヴァイキング期、ロシア_ヴァイキング期、ノルウェー_ヴァイキング期、エストニア_IA)が含まれているので、5世紀と7世紀の間にモラビアへとかなりの遺伝的流入があったことを示唆しています。qpAdmモデルの一部もMMP標本を含んでおり、たとえば、51.8%(MMP+リトアニア_マルヴェーレ_ローマ期、MMPの寄与が最も高い許容モデル)ですが、このMMPの寄与が、ヨーロッパ北東部の古代の参照人口集団の少なさに起因する乱れとして容易に発生する可能性に要注意です。じっさい、MEMの真の供給源人口集団には、リトアニア_マルヴェーレ_ローマ期を含めて利用可能な供給源人口集団の多くで過小評価されている、MMPと共有されているいくらかの祖先系統があるのは、ひじょうにありそうなことです。この解釈と一致して、MMPはさらに東方の中世前期標本、たとえば、ヴォルガ川・オカ川地域の標本[45]の可能性のある供給源でもある、と分かりました。したがって、MMPからMEMへの真の寄与は51.8%よりずっと小さく、全面的な置換の可能性を完全には除外できません。
興味深いことに、教師有ADMIXTUREを用いると、すべての実行されたPCAでヨーロッパ西部人口集団のより近くに位置するMEMの標本2点(図2)、つまりPOH3(1.67%)とPOH39(4.88%)で、アジア東部祖先系統の小さな構成要素が推測されました。アジア東部祖先系統を有するさまざまなアヴァール期集団[77、78]と比較すると、f₄統計では確証されませんでしたが、ハプロタイプに基づく混合推測手法であるMOSAIC によって推測されたMEM標本の選好される2方向混合モデルも、476~732年(95%CIで5.7~17.9世代前)にさかのぼることができる、1.5%のアジア中央部/東部構成要素を推測しました。大移動期のこの時期におけるヨーロッパへのアジア東部草原地帯の人々の流入は詳しく説明されており[たとえば、77]、研究対象の遺跡はターヤ(Thaya)川によって示されるアヴァール可汗国の推定される北方周縁部外に位置していますが、歴史史料によって証明されているように(偽フレデガリウス年代記、この境界の北側でのアヴァールの帯の付属品、およびこの境界の南側でスラブ文化に典型的に火葬埋葬地の複数の発見があります)その境界は絶対的ではありませんでした。スラブ人がアヴァールの支配下で拡大し、この地域へのアヴァールの到来前に緊密に接触していた、との提案さえありましたが、その可能性は、とくにアヴァール期の上流階級の事例では可能性が低そうで、そりは、アジア東部祖先系統が見つかったのは数個体だけで、最初期の標本(LIB11、LIB7、PJP010)では見つからず、アジア東部と関連する片親性遺伝標識(母系のmtDNAと父系のY染色体)が見つからなかったからです。
最後に、ハプロタイプに基づく混合推測手法であるMOSAICを用いて、現代のスラブ人集団との本論文のMEM標本の関係が調べられました。事例として現代のベラルーシ人を用いると、MEM標本のみでは不適切な代理で、現代のスラブ人集団は追加のより南方の供給源からの祖先系統に由来する可能性が高い、と分かりました。
●考察
本論文は、チェコ共和国の現代のモラビアの新たな古代ゲノム標本を報告します。この地域における、5世紀と8世紀初期の間の大きな遺伝的置換の証拠が見つかりました。この置換は新たな考古学的文化表現の到来と一致しており、それはこの地域ではプラハ・コルチャク文化と呼ばれ、本論文の7~8世紀の標本PJP010は、直接的に関連する考古学的発見に基づいて、ラハ・コルチャクの後期に分類できます。したがって、本論文で提示されたデータは、物質文化のこの変化が移動してきた人々によって拡大下、との見解を裏づけます。供給源人口集団の同時代の標本は利用可能ではないか、まだ特定されていないので、本論文で報告された中世前期標本への移住人口集団対在人口集団の寄与や、結婚パターン[82]の違いや、急速に展開したのかもしくは数世代を要したのかなど、正確な社会人口統計学的過程の定量化は依然として困難です。しかし、本論文の推定から、移住してきた人口集団の寄与は大きい、と示唆され、関連する参照人口集団のデータの少なさを考えると、いくつかの可能な説明の一つを表してはいるものの、この地域における事実上の完全な人口置換を含む想定さえ除外できないことに要注意です。
プラハ・コルチャク文化はスラブ語派話者の拡大と直接的に結びつけられることが多いので、本論文の調査結果を、スラブ語派がヨーロッパ中央部へと移住してきた人々によってもたらされた、と解釈したくなります。しかし、プラハ・コルチャク文化の初期の担い手によって話されていた言語は、この地域と関連している最初期の文献が9世紀であるため、ゲルマン語派のルーン文字が刻まれた6世紀の動物の骨を除いて、依然として不明であることへの注意が重要です。しかし、本論文のデータは、7~8世紀にさかのぼる本論文の最初期の標本(PJP010とLIB11)から、9世紀の最新の標本まで、研究対象の小地域における遺伝的連続性を裏づけており、これは物質文化からも明らかな連続です。7世紀以降のこの観察された連続性を考えると、先行する遺伝的および文化的変化をこの地域におけるスラブ語派話者の到来として解釈することは妥当なようです。
スラブ人の出現に人々の移住が伴っていたのかどうかは、長く議論されてきました。本論文の結果は、在来の発展との仮説と一致せず、むしろ、移住が少なくともモラビア南部の研究対象の地域では大きかったことを示唆しています。中世前期遺伝子プールへの侵入してきた人々の大きな寄与は、他の最近のゲノム研究[45~47]によって裏づけられていますが、推定された寄与は一致しませんでした。局所的規模では、ヴォルガ川とオカ川の河間地域のデータは、鉄器時代と中世の間のその地域における人口置換を示唆しました[45]。地域的規模では、現代のポーランドの鉄器時代と中世の標本は、連続性を裏づける、と解釈されました[47]。ヨーロッパ南東部の大規模地域では、顕著な遺伝的変化が5世紀以前の標本と8世紀以降の標本との間で報告され、人々の大きな流入ではあるものの、完全ではなかった置換が示唆されました[46]。
重要なのは、本論文で提示された標本とは対照的に、以前に報告されたほとんどの標本は、スラブ関連の考古学的背景(たとえば、プラハ・コルチャク文化もしくはヒルフォート前期)が欠けているか、中世後期(たとえば10世紀)で、その祖先系統が近隣人口集団からの遺伝子流動など追加の無関係の事象によって形成されたかもしれないことです。推定される流入で見られる不一致の代替的な説明として本論文は、ほとんどの地域における大きな人口変化や、それに続く以前の在来人口集団の残りの個体の同化や、近隣地域(たとえば、ランゴバルド人もしくはフランク人と関連する地域)からの移動や、その両方の組み合わせを提案します。したがって、初期のスラブ人集団は、その後の数世紀よりずっと異質になったかもしれず、これは、その後の期間における観察された祖先系統の差異、およびバルカン半島人などその後の期間の標本における不完全な置換でしかなかった調査結果[46]と一致します。現時点で利用可能な標本では、5世紀と7世紀の間の局所的な人口統計学的過程の徹底的な解明はできず、それは部分的には、プラハ・コルチャク文化の初期の担い手が主要な埋葬儀式として火葬を使用したためですが、既存の標本が地理的に広く数は少ないためでもあり、本論文で報告されたような局所的な年代横断区は、この動的な期間への視点を提供します。
●まとめ
モラビア南部の個体の新たなゲノムデータは、5世紀と8世紀の間のこの地域における大きな遺伝的置換を証明します。この遺伝的置換はこの地域における初期スラブ文化関連共同体の到来と一致しているようで、厳格な局所的連続性のモデルとは矛盾します。代わりにこの知見は、観察された文化的変化は、本論文で示唆されるように、ヨーロッパ北東部的な遺伝的祖先系統を有していた新参者による顕著な人口置換が伴っていた、との仮説を裏づけます。これらの移住者が話していた言語は依然として不明ですが、局所的水準での遺伝的および文化的連続性は、これらの共同体を文献で言及されているモラビアのスラブ人と考えられる、ヒルフォート前期人口集団と結びつけます。
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