本村凌二『地中海世界の歴史7 平和と繁栄の宿命 パクス・ロマーナ』
講談社選書メチエの一冊として、2025年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書の対象は、ネロ帝の死後から軍人皇帝時代の直前までです。この期間の過半を占めるのが、「人類史の至福の時」とも言われる五賢帝時代です。ネロ帝の死後、複数の皇帝が擁立されては殺害される混乱を収集したのは、穀倉のエジプトを抑えており、それまでの元首の家系だったユリウス氏族でもクラウディウス氏族でもないウェスパシアヌスでした。社会の規律を立て直し、財政再建に努めたウェスパシアヌスは節約傾向の強い人物で、それは皇帝になっても変わらなかったようですが、コロッセオを建設させています。当時、コロッセオはウェスパシアヌスの氏族名に因んでフラウィウス円形闘技場と呼ばれていました。ウェスパシアヌスの死後、息子のティトゥスとドミティアヌスが即位し、ティトゥスは即位前の不評からは想像できないような「善政」を行なった名君と称えられましたが、即位から3年も経たずに急死し、その弟のドミティアヌスは、後世の評判こそ悪いものの、統治に厳格で意欲的な皇帝だったようです。ただ、ドミティアヌス帝は治世後半には猜疑心が高まっていたようで、有力者の処刑や財産没収が横行する恐怖政治の中で、后や側近や親衛隊の陰謀によって殺害されます。
ドミティアヌス帝の殺害後、老齢のネルウァが即位します。ネルウァは元老院との協調を訴え、元老院による共和政への復帰もぎろんされていたようですが、ドミティアヌスのような「暴君」だけではなく「善帝」もいたとこから、元老院は帝政を選択します。ただ、元老院はネルウァを歓迎したものの、親衛隊はネルウァを軟禁し、ドミティアヌス帝を探し出して殺しており、ネルウァは自身の年齢も考えて、元老院にも軍隊にも受け入れられそうな、ゲルマニアの属州総督トラヤヌスを養子とし、後継者とします。ネルウァには実子がいなかったことも、養子による後継者指名の一因でしたが、これが後世には手本となりました。ネルウァの在位期間は16ヶ月程度でしたが、ローマの政情を安定させ、何よりもトラヤヌスを後継者に指名した一点だけでも充分に賢帝と呼ばれる資格がある、と本書は評価します。トラヤヌス帝はローマ帝国の版図を最大にしたことで知られていますが、本書は内政面でも抜かりなかったことを指摘します。
トラヤヌスの後継者はイトコの息子であるハドリアヌスですが、この後継者指名には怪しいところもあるようです。ハドリアヌスは即位直後に敵対的な元老院の有力議員を処刑しており、元老院との関係が良好ではありませんでした。それもあったのか、ハドリアヌス帝は治世の半分を属州視察に費やしました。ハドリアヌス帝は征服地の一部を放棄し、国境防備に努めて平和を保ちます。トラヤヌスとハドリアヌスはヒスパニア出身ですが、本書はその背景として、ローマ帝国においてイタリア以外ではイベリア半島で最もローマ化が進んでいたことを指摘します。ハドリアヌス帝の養子に迎えられ、後継者となったアントニヌス・ピウスは、養父と元老院との対立を近くで見ていたためか、元老院の意向を尊重します。アントニヌス帝の治世は全体的には平穏で、「アントニヌス帝の世には歴史がない」と皮肉を述べる者もいました。アントニヌス帝の養子に迎えられ、後継者となったマルクス・アウレリウスは、五賢帝の最後で「哲人皇帝」と呼ばれていますが、当初は義弟のウェルスとともに共同統治でした。これが、ローマ史上最初の共治帝の事例となります。マルクス・アウレリウスは幼少期より哲学に強い関心を抱いていたようで、ウェルスを共治帝に迎えたのは、哲学に専念する時間を確保するためだったから、と本書は推測しますが、洪水や飢饉や疫病やパルティアの侵攻など治世には困難が多く、ウェルス帝が先に没したこともあり、マルクス帝は政治と軍事で多忙だったようです。
マルクス帝の後継者となった実子のコンモドゥスは暗君とされてきましたが、本書でも、放蕩と乱行が目についた人物と評価されています。コンモドゥス帝暗殺後の内戦を収拾した皇帝がセプティミウス・セウェルスで、フェニキア系と考えられています。セウェルス帝は、それまでイタリア人のみで構成されていた親衛隊を解散させ、バルカン半島およびドナウ沿岸地方出身者を親衛隊の中核としました。これによって、軍隊内の身分差別は弱まり、実力主義が浸透していくとともに、軍人優遇策が顕著になっていきます。セウェルス帝の治世には元老院の権威が低下していき、セウェルス帝は処刑した元老院議員の私有財産を所有します。本書は、セウェルス帝がローマとイタリアを中心に見ておらず、すべての平等な地域から構成される全体としてのローマ帝国と考えており、これは地中海世界の空前の民主化とも考えられるのではないか、と指摘します。本書はセウェルス帝によって、「ローマ人の帝国」からまさしく「ローマ帝国」に変貌した、というわけです。
セウェルス帝は長男のカラカラと次男のゲタに強調するよう遺言を残しますが、この兄弟の関係は険悪で、211年にカラカラはゲタを殺害します。カラカラ帝はアントニヌス勅令によってローマ帝国内の全自由人にローマ市民権を与えますが、これも父であるセウェルス帝の方針の継承と言えそうです。これには、税収増大の意図があった、と考えられています。カラカラ帝は軍隊を優遇し、政敵を粛清していったため、217年に殺害されます。セウェルス帝の殺害後、セウェルス帝の妻の妹の孫であるエラガバルスがカラカラ帝の落胤と称されて擁立されましたが、あまりにも放縦な性的関係や恣意的な人事から兵士に見捨てられ、殺害されます。エラガバルス帝の殺害後、同じくセウェルス帝の妻の妹の孫で、エラガバルス帝とは従弟の関係にあるアレクサンデル帝が即位し、母親の言いなりだったものの、顧問団に良識的な元老院議員を迎えて、穏健な政治が続きます。ただ、この間にコンモドゥス帝以降の軍隊優遇による軍紀の乱れとともに、サーサーン朝(エーラーン帝国)の勃興によってローマ帝国の属州シリアが脅かされます。アレクサンデル帝は、サーサーン朝軍に苦戦し、北方ではゲルマン人と報償金による和平を選択したうえに、兵士の給与減額との噂が広がったため、235年に母親とともに殺害されました。この後、ローマ帝国は軍人皇帝時代に入ります。
本書はローマ帝国の重要な特徴である奴隷制も取り上げており、そもそもローマは自由身分の人々の共同体(都市国家)でしたが、借金による債務奴隷や、ローマの拡大に伴う戦争捕虜による奴隷が増えていきます。では、ローマの拡大が緩やかになった「平和な時代(パクス・ロマーナ)」にはどのように奴隷が供給されたのか、との問題を本書は取り上げています。パクス・ロマーナ下での奴隷の供給源としては、奴隷身分の母親から生まれた子供などがいますが、本書は捨て子(嬰児遺棄)が主要な供給源だった可能性を指摘しています。捨て子については、とくにエジプトで史料が多く残っているそうです。なお本書は、奴隷がいることと、その社会が奴隷制であることは区別すべきと指摘し、奴隷制社会か否かの判断において、人口に占める奴隷の割合を重視しています。奴隷制社会か否かの基準について現在では、人口比に占める奴隷の割合が2割以上との見解を本書は有力と指摘します。そうした奴隷制社会の具体的事例として本書が挙げているのは、古典期のアテナイ(紀元前5~紀元前4世紀)やローマ帝政初期のイタリアおよびシチリア島や近代の植民地時代のブラジルや19世紀前半のアメリカ合衆国南部などです。ローマは帝政期の領域は広範だったので、ローマ帝国のすべての地域が奴隷制だったわけではなく、上述のイタリアやシチリア島以外では、ギリシア本土や小アジアが挙げられています。一方で、ローマ帝国の「先進地域」でも、たとえばエジプトにおける奴隷の人口比は1割程度と推定されています。
本書が対象とする期間にはすでにキリスト教が出現していたというか、次第にユダヤ教と区別される宗教になっていきました。ローマ帝国内でも次第にキリスト教が浸透していきますが、本書が対象とする期間では、キリスト教は基本的に地中海世界における多くの密儀宗教の一つにすぎませんでした。本書は、キリスト教のような一神教がローマ帝国において最終的に「勝利した」前提に、人々の心情における普遍神のような想念の浸透を指摘し、その具体例として、イシス女神信仰について、起源のエジプト固有の女神ではなく、地中海世界のあらゆる女神の神性が吸収されていたことを挙げます。その上で本書は、キリスト教が地中海世界において「勝利した」理由として、たとえばキリスト教にとって有力な競合宗教だったとも言われるミトラス教では女性が信徒となれないことなどと比較すると、キリスト教は出自集団も階級も性別も問われなかったことを指摘します。
ドミティアヌス帝の殺害後、老齢のネルウァが即位します。ネルウァは元老院との協調を訴え、元老院による共和政への復帰もぎろんされていたようですが、ドミティアヌスのような「暴君」だけではなく「善帝」もいたとこから、元老院は帝政を選択します。ただ、元老院はネルウァを歓迎したものの、親衛隊はネルウァを軟禁し、ドミティアヌス帝を探し出して殺しており、ネルウァは自身の年齢も考えて、元老院にも軍隊にも受け入れられそうな、ゲルマニアの属州総督トラヤヌスを養子とし、後継者とします。ネルウァには実子がいなかったことも、養子による後継者指名の一因でしたが、これが後世には手本となりました。ネルウァの在位期間は16ヶ月程度でしたが、ローマの政情を安定させ、何よりもトラヤヌスを後継者に指名した一点だけでも充分に賢帝と呼ばれる資格がある、と本書は評価します。トラヤヌス帝はローマ帝国の版図を最大にしたことで知られていますが、本書は内政面でも抜かりなかったことを指摘します。
トラヤヌスの後継者はイトコの息子であるハドリアヌスですが、この後継者指名には怪しいところもあるようです。ハドリアヌスは即位直後に敵対的な元老院の有力議員を処刑しており、元老院との関係が良好ではありませんでした。それもあったのか、ハドリアヌス帝は治世の半分を属州視察に費やしました。ハドリアヌス帝は征服地の一部を放棄し、国境防備に努めて平和を保ちます。トラヤヌスとハドリアヌスはヒスパニア出身ですが、本書はその背景として、ローマ帝国においてイタリア以外ではイベリア半島で最もローマ化が進んでいたことを指摘します。ハドリアヌス帝の養子に迎えられ、後継者となったアントニヌス・ピウスは、養父と元老院との対立を近くで見ていたためか、元老院の意向を尊重します。アントニヌス帝の治世は全体的には平穏で、「アントニヌス帝の世には歴史がない」と皮肉を述べる者もいました。アントニヌス帝の養子に迎えられ、後継者となったマルクス・アウレリウスは、五賢帝の最後で「哲人皇帝」と呼ばれていますが、当初は義弟のウェルスとともに共同統治でした。これが、ローマ史上最初の共治帝の事例となります。マルクス・アウレリウスは幼少期より哲学に強い関心を抱いていたようで、ウェルスを共治帝に迎えたのは、哲学に専念する時間を確保するためだったから、と本書は推測しますが、洪水や飢饉や疫病やパルティアの侵攻など治世には困難が多く、ウェルス帝が先に没したこともあり、マルクス帝は政治と軍事で多忙だったようです。
マルクス帝の後継者となった実子のコンモドゥスは暗君とされてきましたが、本書でも、放蕩と乱行が目についた人物と評価されています。コンモドゥス帝暗殺後の内戦を収拾した皇帝がセプティミウス・セウェルスで、フェニキア系と考えられています。セウェルス帝は、それまでイタリア人のみで構成されていた親衛隊を解散させ、バルカン半島およびドナウ沿岸地方出身者を親衛隊の中核としました。これによって、軍隊内の身分差別は弱まり、実力主義が浸透していくとともに、軍人優遇策が顕著になっていきます。セウェルス帝の治世には元老院の権威が低下していき、セウェルス帝は処刑した元老院議員の私有財産を所有します。本書は、セウェルス帝がローマとイタリアを中心に見ておらず、すべての平等な地域から構成される全体としてのローマ帝国と考えており、これは地中海世界の空前の民主化とも考えられるのではないか、と指摘します。本書はセウェルス帝によって、「ローマ人の帝国」からまさしく「ローマ帝国」に変貌した、というわけです。
セウェルス帝は長男のカラカラと次男のゲタに強調するよう遺言を残しますが、この兄弟の関係は険悪で、211年にカラカラはゲタを殺害します。カラカラ帝はアントニヌス勅令によってローマ帝国内の全自由人にローマ市民権を与えますが、これも父であるセウェルス帝の方針の継承と言えそうです。これには、税収増大の意図があった、と考えられています。カラカラ帝は軍隊を優遇し、政敵を粛清していったため、217年に殺害されます。セウェルス帝の殺害後、セウェルス帝の妻の妹の孫であるエラガバルスがカラカラ帝の落胤と称されて擁立されましたが、あまりにも放縦な性的関係や恣意的な人事から兵士に見捨てられ、殺害されます。エラガバルス帝の殺害後、同じくセウェルス帝の妻の妹の孫で、エラガバルス帝とは従弟の関係にあるアレクサンデル帝が即位し、母親の言いなりだったものの、顧問団に良識的な元老院議員を迎えて、穏健な政治が続きます。ただ、この間にコンモドゥス帝以降の軍隊優遇による軍紀の乱れとともに、サーサーン朝(エーラーン帝国)の勃興によってローマ帝国の属州シリアが脅かされます。アレクサンデル帝は、サーサーン朝軍に苦戦し、北方ではゲルマン人と報償金による和平を選択したうえに、兵士の給与減額との噂が広がったため、235年に母親とともに殺害されました。この後、ローマ帝国は軍人皇帝時代に入ります。
本書はローマ帝国の重要な特徴である奴隷制も取り上げており、そもそもローマは自由身分の人々の共同体(都市国家)でしたが、借金による債務奴隷や、ローマの拡大に伴う戦争捕虜による奴隷が増えていきます。では、ローマの拡大が緩やかになった「平和な時代(パクス・ロマーナ)」にはどのように奴隷が供給されたのか、との問題を本書は取り上げています。パクス・ロマーナ下での奴隷の供給源としては、奴隷身分の母親から生まれた子供などがいますが、本書は捨て子(嬰児遺棄)が主要な供給源だった可能性を指摘しています。捨て子については、とくにエジプトで史料が多く残っているそうです。なお本書は、奴隷がいることと、その社会が奴隷制であることは区別すべきと指摘し、奴隷制社会か否かの判断において、人口に占める奴隷の割合を重視しています。奴隷制社会か否かの基準について現在では、人口比に占める奴隷の割合が2割以上との見解を本書は有力と指摘します。そうした奴隷制社会の具体的事例として本書が挙げているのは、古典期のアテナイ(紀元前5~紀元前4世紀)やローマ帝政初期のイタリアおよびシチリア島や近代の植民地時代のブラジルや19世紀前半のアメリカ合衆国南部などです。ローマは帝政期の領域は広範だったので、ローマ帝国のすべての地域が奴隷制だったわけではなく、上述のイタリアやシチリア島以外では、ギリシア本土や小アジアが挙げられています。一方で、ローマ帝国の「先進地域」でも、たとえばエジプトにおける奴隷の人口比は1割程度と推定されています。
本書が対象とする期間にはすでにキリスト教が出現していたというか、次第にユダヤ教と区別される宗教になっていきました。ローマ帝国内でも次第にキリスト教が浸透していきますが、本書が対象とする期間では、キリスト教は基本的に地中海世界における多くの密儀宗教の一つにすぎませんでした。本書は、キリスト教のような一神教がローマ帝国において最終的に「勝利した」前提に、人々の心情における普遍神のような想念の浸透を指摘し、その具体例として、イシス女神信仰について、起源のエジプト固有の女神ではなく、地中海世界のあらゆる女神の神性が吸収されていたことを挙げます。その上で本書は、キリスト教が地中海世界において「勝利した」理由として、たとえばキリスト教にとって有力な競合宗教だったとも言われるミトラス教では女性が信徒となれないことなどと比較すると、キリスト教は出自集団も階級も性別も問われなかったことを指摘します。
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